はてなキーワード: 正当性とは
これさ
愚かな人間の都合など完全無視、LLMのための高効率プログラミング言語「Sui」(粋)
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
別にいいんだけど、どうにもブクマカ含めて、しっくり来る批判できてないんだよな
それが気になってしょうがない
俺ごときが言ってもアレだから、Gemini3.0先生に頼んだよ(一時チャット、Pro 3.0 思考モード)
ユーザーが提供した情報と、一般的なLLMの技術特性に基づき、プログラミング言語「Sui」についての冷静かつ客観的な評価をまとめます。
感想: 一言で言えば、**「思想実験としては極めて面白いが、実用性とLLMの学習原理を無視した『早すぎた最適化』」**です。
作者の「人間ではなくLLMを主客にする」という視点の転換は、アーティスト的・哲学的な問題提起としては鋭いですが、現在のLLM(Transformerアーキテクチャ)の動作原理を工学的に捉えると、メリットよりもデメリットが上回る可能性が高いです。
メリット:
・トークン効率の改善: Python等と比較して記述が圧倒的に短くなるため、出力速度の向上と課金コストの削減(トークン節約)は確実に達成できます。
・構文エラーの激減: 括弧やインデントの複雑なルールを排除しているため、「閉じ忘れ」などの単純なSyntax Errorは減るでしょう。
・コンテキストウィンドウの節約: 長いプログラムでもコンテキスト(メモリ)を圧迫しにくくなります。
・学習データとの不一致: LLMは「大量の人間用コード(Pythonなど)」を学習して賢くなっています。未知の言語「Sui」を書かせるには、Few-shot(プロンプトでの例示)に頼るしかありませんが、これではLLM本来の推論能力やコーディング能力(事前学習の重み)を活かせません。
・ブラックボックス化: 生成されたコードがバグっていた場合、人間が読んで直すことが不可能です。「LLMに直させる」にしても、LLM自身がSuiのロジックを深く理解していないため、無限ループ(幻覚の連鎖)に陥るリスクが高いです。
・CoT(Chain of Thought)の阻害: 最近の研究では、LLMは「冗長な思考過程」を出力することで論理的整合性を保つことがわかっています。極限まで圧縮された記号列は、LLMの「考える余地」を奪い、論理破綻を招く可能性があります。
正しいと思う所(Agree)
理由: 人間にとっての「読みやすさ(可読性)」は、機械にとって単なるトークンの無駄遣いです。if x > 10: よりも ? x 10 の方が情報密度が高いのは事実です。
理由: TransformerのAttentionメカニズムにとって、遠く離れた ( と ) の対応関係を維持するのは計算コストが高く、ミスの原因になりやすいです。ネストを排除する方向性は機械的処理として正しいです。
正しくないと思う所(Disagree)
・「可読性を排除しても良い」:
理由: ソフトウェア開発においてコーディングは「書く」時間より「読む・直す」時間の方が長いです。AI生成コードであっても、最終責任は人間が負う現状では、人間が検証不可能なコードは「危険なバイナリ」と同義であり、プロダクトには採用できません。
理由: 前述の通り、現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。Suiは「計算機にとっては最適」ですが、「現在のLLMにとっては異言語」です。
パース(解析)は容易になりますが、LLMは「前の行の文脈」を読んで次の行を出力するため、行を独立させすぎると文脈の連続性が失われ、複雑なアルゴリズムの構成力が落ちる可能性があります。
LLMが最も苦手とする「深いネスト構造の維持」を回避する策として有効です。アセンブリ言語に近いフラットな構造は生成難易度を下げます。
これが最大の問題点です。LLMは変数名(user_id, total_price など)に含まれる「意味」を使って推論を行っています(Semantic Grounding)。すべてを記号化すると、LLMは変数の役割を見失い、論理的なバグを埋め込みやすくなります。
トークン効率は最強ですが、1文字の違いで意味が激変するため、LLMの確率的な「ゆらぎ」による1文字ミスが致命的なバグになります。冗長さはエラー訂正の役割も果たしています。
goto 文の多用はスパゲッティコードを生みます。LLMにとっても、構造化プログラミング(if/forブロック)の方が、「ここからここまでがループ」というチャンク(塊)として認識しやすいため、一概にジャンプ命令が良いとは言えません。
>現在のLLMは「人間語の確率分布」を学習したモデルです。「LLMにとって自然な言語」とは、実は「人間にとって自然な言語(英語やPython)」そのものです。
ここ!マジで覚えてね
LLMはこれまでの機械よりも人間に近いと思ってほしい、人が苦手なことはAIも苦手
機械は論理的でロジックに強くて〜っていうのはAIには通用しない
ついでに、「LLM用プログラミング言語」の潮流について
「LLMのための言語」という文脈は、大きく2つのトレンドに分かれます。Suiは後者に属しますが、主流は前者です。
・DSPy, Guidance, Microsoft Guidance:
・プロンプトエンジニアリングを構造化し、LLMの出力を型(JSONなど)に強制したり、思考プロセスを制御するためのフレームワーク。
・SGLang:
・これらは「人間がLLMを操るための言語」であり、実用化が進んでいます。
・Gorilla LLMなどの試み: API呼び出しに特化したファインチューニングなどがありますが、独自の「新言語」を作らせるよりも、既存の Python や JSON を正しく出力させる方向(Constrained Decoding)が業界の標準解です。
・擬似コード: 論文レベルでは、Pythonの代わりに中間的な擬似コードを出力させ、それをコンパイラで処理する手法も研究されていますが、Suiほど極端な記号化は稀です。
後者については
現状の最適解: 現在のLLMを使う限り、「LLM用言語」の最適解は Python です。なぜなら、世界中のGitHubのコードを学習しており、LLMが「最も流暢に話せる言葉」だからです。無理にSuiを話させるのは、日本人にエスペラント語で詩を書かせるようなもので、パフォーマンスは落ちます。
総評: Suiは、「既存のLLM(GPT-4など)に書かせる言語」としては失敗する可能性が高いですが、「未来のAIネイティブなコード生成のあり方」を示唆するアート作品としては高く評価できます。作者の「愚かな人間に合わせるな」というパンクな精神は、エンジニアリングの枠を超えた鋭い批評性を持っています。
お前らは安易にオレオレ言語作るんじゃないぞ、作るにしてもAIに聞きなよ?
聞く時は忖度させるんじゃないぞ?
この作者もAIに乗せられたのかもしれんし
______
プロンプト
以下が「LLM用プログラミング言語」としてメリットがありそうか、感想を教えて下さい。
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/2069573.html
https://github.com/TakatoHonda/sui-lang
・思想的に正しいと思う所、正しくないと思う所を理由込みでまとめてください
・最近のLLM用プログラミング言語についてもまとめてください
・そもそもLLM用プログラミング言語という目標自体の評価をしてください
(省略)
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
ウェストハム戦でのラター選手のゴールが、試合後も話題を呼んでいます。一部の観客やファンからは「ハンドボールだったのでは?」との声が上がりましたが、審判団は映像やルールに基づき、このゴールを正当と判断しました。この決定は試合の流れや結果に大きく影響し、議論をさらに活性化させています。
ラターのゴールは、スピードと正確性が光る決定的な一撃であり、チームに勢いをもたらしました。審判団の判断は、ルールの細部に基づいた慎重なものであり、選手やファンにとっても納得の行く説明が求められる場面となりました。試合後には、ハイライト映像や解説でゴールの正当性が詳細に分析され、サッカーファンの間で意見交換が活発に行われています。
今回の一件は、スポーツにおける微妙な判定の重要性を改めて示す出来事となりました。ラター選手のプレーと審判団の判断は、今後の試合や議論の参考として、多くのファンや専門家の注目を集め続けることでしょう。
https://j03-r00t.serveftp.com/64ef
https://j03-r00t.serveftp.com/qkt9
https://j03-r00t.serveftp.com/iqki
https://b.hatena.ne.jp/entry/4779880739436032737/comment/Gl17
「皆のカネ」の扱いがともかく杜撰で支持者もそこに鷹揚が過ぎ、
コラボへの執拗な"不正"呼ばわり(むしろ根拠がないうちが華)と
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
そのうちロンクハラライスがどうのこうのと書くようになるのだろう。
杜撰な扱いを支持する鷹揚とやらて誰が?
VTuber には色々なスタンスがあるけれど基本的にエンタメとして発信してる。
エンタメは楽しかったら良くて不快にしたら駄目なコンテンツってことだ。
この文章は、確かに煽り文句として強烈ですが、少し問題があると思います。いくつかの点を批評してみます。
⸻
• ターゲットが誰なのか、また その目的 が曖昧です。文章の中で「弱そうな奴らに言い続けよう」と書いていますが、具体的に誰を指しているのかが不明確。誰を貶めようとしているのか、またその意図が読み手に伝わりづらくなっています。
• 目的が「煽り」や「侮辱」にあるのだとしても、読み手にとってその意図がわかりにくいと、単に攻撃的で無意味な文章に見えてしまいます。
• 「骨無し」「弱男」「チキン」 は確かに侮辱的な言葉ですが、攻撃的で過度な表現は逆効果になることが多いです。特に「ヤンナム」という表現は韓国語を使っていることにより、 不必要な人種差別的なニュアンスを含んでしまう可能性があり、批判を招くことになります。
• また、「チーズ牛丼」「骨無しヤンナムチキンセット」という形で、あたかも特定の人々を一つのステレオタイプに押し込めている印象を与え、 過剰な偏見や差別的な印象を強調しています。こういった表現は読者を不快にさせるだけでなく、侮辱として受け取られることが多いです。
• この部分の反論「私は美味しそうな韓国料理の名前出しただけですよ?何を怒ってるんですか?繊細ですね?」は、いわゆる「スットボケ」というスタイルですが、ちょっと不自然です。相手が怒ったとして、その反論が 言い訳として成立しない と感じる読者も多いはず。
• もし本気で言い訳をするのであれば、もっと説得力のある理由を考えたほうが良いでしょう。「単なる料理の名前」と言っても、その文脈では明らかに侮辱が含まれているので、受け手はそれを無視できません。
• 「ブヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」などの繰り返しの表現は、 冗長で不快 です。笑いの部分が過剰に書かれており、真剣さや一貫性が欠けて、文章が軽く感じられるため、説得力が薄くなります。
5️⃣ 総括的な印象
この煽り文句は、確かに攻撃的で挑発的ではありますが、その 目的やメッセージが明確でなく、他人を不快にさせる可能性が高い です。煽りや侮辱は確かに一時的に感情的な反応を引き出すかもしれませんが、 その後の人間関係やコミュニケーションに悪影響を与えることが多いです。
さらに、文化的・人種的な敏感さに欠ける部分があり、無自覚な差別や偏見を助長しかねません。このような言葉を使うことで、正当性を持たない攻撃に過ぎないと見なされることもあります。
⸻
💡 改善案
もしこの文を煽りの目的で書きたいのであれば、 相手を傷つけない ように工夫し、また 無駄に人種的・文化的に攻撃的な要素を排除することが大切です。例えば、もっとユーモアや皮肉を交えた形で、悪意を減らすことができれば、読者が共感しやすくなるかもしれません。
また、 言葉の選び方やニュアンスを慎重にすることで、意図を明確に伝え、反発を避けつつも効果的なメッセージを送ることができます。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4779777895312500609/comment/worris
思っている時点でリテラシーが足りてない。
参政党があらゆる陰謀論に手を染めるのと同じ支持集めのための方便でしょ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4779777895312500609/comment/Gl17
◎暇空問題でコラボの"不正"に、主張として説得力も正当性も皆無だったのは
あとN党が只の極右や反社活動の免罪符として反NHKを悪用してただけなのも。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
そのうちロンクハラライスがどうのこうのと書くようになるのだろう。
逆さ地の利を競オオオオ…てこと?
「部分集合」を悪し様にみなしてなんぼの「おのれら」に候じゃあないのか?
「プロファイリング」の順番えっ?
高市総理「働いて×5」流行語大賞受賞が左派界隈で大きく炎上する傍ら、もう1つの炎上が起きていた。エッホエッホ構文でパクツイ犯が勝手に表彰されたというものだ。
どう炎上していたかは後で解説するとして、初めに結論を書くと授賞式で表彰された「うお座」氏は紛れもなくエッホエッホ構文の創始者である。炎上は完全な冤罪だ。
事実として、エッホエッホ構文は彼の3つのネタツイから始まった。
エッホエッホ
エッホエッホ
エッホエッホ
エッホエッホ
【なぜ?】
エッホエッホ
あの子に嫌いって伝えなきゃ
エッホエッホ
1つ目と3つ目はうお座氏のサブ垢@selfsatisfac、2つ目の投稿は本垢の@zlatanera17から投稿されている。どうも、クセのあるネタはサブ垢から、万人受けする本命のネタは本垢から投稿するという運用のようだ。
ネットミームには、人々の中で伝播する中で徐々に形を変えていったものと、原型がほぼそのまま流通するものと2種類ある。エッホエッホ構文は後者だ。エッホエッホ構文のほぼ全ての要素がうお座氏のツイートに詰められている。
まず、最初の「たかみなの具合が悪いから〜」の段階で、「エッホエッホ (任意の内容伝える) エッホエッホ」という構造となっている。
流行語大賞の選評でも、
と述べられているように、これこそがエッホエッホ構文のコアの独創性である。
次に、本垢から投稿されたうお座氏の最も拡散されたエッホエッホ投稿では、「可愛らしい子供がお母さんに頑張って何かを伝えようとしている」というエッホエッホ構文のイメージが確立している。
エッホエッホ構文に詳しくない人向けに例をあげると、うお座氏の後にエッホエッホ構文で最もバズったツイートの1つである霜田氏のツイートも、このイメージを継承するものだ。
エッホエッホ
エッホエッホ
最後に3つ目の「あの子に嫌いって伝えなきゃ」で「伝えなきゃ」というフレーズを使用している。エッホエッホ構文は現在では、「伝えないと」ではなく「伝えなきゃ」という形を取るものが主流だと思われるが、これもうお座氏が初である。
エッホエッホ構文を使用したネット大喜利は、うお座氏のこの3つのツイートがバズったことで始まった。
日本時間2025年2月24日21時までの「エッホエッホ」検索結果
うお座の最初のツイートは2月24日4時7分、3つ目のツイートは15時42分投稿のものだが、
うお座氏以外でエッホエッホ構文を使い始めたのは、24日16時58分のツイートが初で、それまではうお座氏以外にエッホエッホ構文使いは存在しない。
誰もが参加できるエッホエッホ構文ネット大喜利が自然発生したのは、うお座氏が3つの巧みなネタツイをそれぞれバズらせることで構文としての汎用性を立証したからこそなのだ。
エッホエッホ構文の生みの親がうお座氏であるという明白な事実があるにもかかわらず、ネット民は別のツイッタラー「はじめ」氏をエッホエッホの「始祖」と崇め、うお座氏らを「パクツイで受賞」「ミームの横取り」「お前らが受け取るべきじゃないって伝えなきゃ」などと中傷している。
しかし「はじめ」氏がエッホエッホの「始祖」だというのは、デマである。
端的に、初出でもなければ拡散もされていないからである。彼はエッホエッホのブームが一通り落ち着いた2025年6月に「てかエッホエッホってほぼおれ発祥やったよな」とツイートしたことで、この構文の起源だという認識を獲得した。しかし丁寧に検証すれば、これは不当な「あれ俺」主張であるとみなさざるを得ない。
運動するか
えっほっえっほっ
このツイートが真の起源であると誤って信じられた理由について、1つ1つ解体していこう。
これは誤った推論である。なぜならばこのツイートは2025年6月に投稿者が「あれ俺」主張するまではほぼ知られていなかったからだ。
現に、うお座氏のオリジナルのエッホエッホ構文ツイートが投稿された2月24日までの、はじめ氏のツイートの公開リツイート数を取得するとわずか1件しかリツイートされていない。
念の為、はじめ氏が2022年に投稿した類似内容のツイートについてもリツイート数を取得すると、9件である。身内にはウケたのかなという程度の数字だ。
検索する限り、うお座氏とはじめ氏の間にリプライ/RTなどの交流は確認できないので、合計10RTしかないツイートに依拠したと考えるべき理由は何も存在しない。
2021年10月に画像を日本で画像を話題にしたのははじめ氏ではなく、およそ4万RTを記録した最多情報局(@tyomateee)の投稿である。アカウント名でわかる通り、これは転載系のアフィアカウントであり、この元ネタは英語圏で同じく4万RTを記録したRosi@rosiyesrosiの投稿だろう。
なんにしろ、はじめ氏は、海外でバズった投稿の画像を転載して日本でバズった投稿をさらに転載して投稿しただけであり、発掘の功はまったく存在しない。
あの写真を見て「えっほえっほ」と形容したくなるのは日本人にはある程度普遍的な感覚らしく、2021年10月だけで少なくとも4人が同じ投稿をしている。はじめ氏は3番目だ。
仮に、「えっほえっほ」という文字列に何らかの尊重されるべき新規性を見出すのであれば、中でも最古と考えられるジロ助🐶🐾氏の投稿を称えるべきであろう。
とはいえ、こういうある程度誰でも思いつく発想を個人に紐づけてしまうのは望ましくない。新規性はないと考えるのが常識的な結論だろう。ちなみに、2025年2月でも写真に対する「えっほえっほ」という反応はうお座氏の前に2件発見できる。
流行語大賞表彰者に対する異議の声は、パクツイデマが発生する前から大きかった。理由はおそらくTikTok文化への反感である。
表彰写真には「うじたまい」と「うお座」の2人が並んでいた。両方白系の服で陽の雰囲気を漂わせており、ぺことりゅうちぇるのようなコンビを思わせるところである。
そして「エッホエッホの歌」の作者うじたまい氏は、TikTok/YouTube文化の人間である。ゆえに、X民側のはずのうお座氏もまとめてTikTok民の仲間か何かだと思われてしまったのだ。
「Xで生まれたミームなのにTikTok勢が表彰されやがって」これが、初期の異議の背景にあった感情である。
また、うじたまい氏が一部Twitter民から「ミームを終わらせた人」と敵視されていたことも、反感感情を燃え上がらせた。
しかし、うじたまい氏が「ミームを終わらせた人」だという評価は妥当なのだろうか。動画文化圏には土地勘がないので、本稿ではうじたまい氏の表彰が適切だったか本格的に検証するのは範囲外とするが、明らかな事実として「エッホエッホの歌」でミームは終わっていない。むしろ、ミームとしてのピークは「エッホエッホの歌」の後に来ている。
Googleトレンドを確認しよう。人気度の動向では2つの山がある。まずひとつ目の山はエッホエッホ構文が生まれた2月末、人気度47である。ここから徐々に人気度は下がるが3月第3週に反転、4月初旬の人気度は100、エッホエッホミームの人気度のピークである。
うじたまい氏の「エッホエッホの歌」は3月1日TikTokとYouTubeに投稿され、YouTubeでは1,459万回再生されている。私としてもなにがおもしろいのか全くわからないネタでありTwitter民が冷めたと感じるのは理解できるのだが、再生数は正義だ。
ミームのピークがこの後4月に来ることを考えると、Twitterよりさらに活力のあるTikTok/YouTubeにミームを移植したという功績は大きい可能性が高いのではと思う(なお動画化の初出については調査していないので、より適切な人選がある可能性については留保する)。
そんなこんなで表彰の人選に対して疑問の声が集まる中、「エッホエッホは火付け役はうお座でミーム終わらせたのがうじたまいで始祖この人だよね 」と、はじめ氏のツイートが紹介されたのである。これがパクツイデマの発端であるが、ここまでは火付け役としてうお座氏の功を認めており、パクツイまでは認定していない。
本格的にうお座氏にパクツイの冤罪が着せられるようになったのは、有力ネタツイッタラー「理解のある蟹くん」氏の投稿がきっかけである。
理解のある蟹くん氏は、はじめ氏に対し「流行語大賞おめでとうございます 」と皮肉げに祝福し、続けて、証拠としてあるスクショを掲げて、うお座氏を「親父気をつけろ 奴は他人のツイートを盗む」と誹謗した。
つまり、ネタツイッタラーのうお座はパクツイ常習犯であり、エッホエッホもその一部だと言わんとしたのである。
しかし、理解のある蟹くん氏のスクショを見てみると、これはうお座氏の素行の悪さの立証には到底なっていないと思われる。スクショの内容を文字化すると以下のとおりである。
1. 5月26日、理解のある蟹くん氏が、「ANA機内騒動、ドア開けようとする御奈新日ヶ万出」というGrok自動生成ニュースのスクショをコメントなしでUPする。66リツイートされる。
2. 6月9日、うお座氏が「これ何だったんだ」というコメント付きで同じスクショをあげる。コラでなく実際に見たとも主張する。1,271リツイートされる。
検討しよう。まず、そもそもコラでなければうお座氏のツイートになにも問題はないので、これは理解のある蟹くんの作成したコラであったのだろう。が、コラであるという注記はどこにもない。Grok自動生成見出しに誤りが多いことはよく知られた事実であるので、これを見た人は本物のスクショであると誤認したとしてもある程度やむを得ない。
そして、うお座氏/理解のある蟹くん氏ともにネタツイッタラーであり、他人がUPした画像を転載しておもしろいコメントをつける芸で人気を集めている。当然、日々ネタツイ芸に使える画像を大量に集めていることだろう。おそらく、うお座氏の画像ストックの中に理解のある蟹くん氏のコラが混ざっていて、後日ネタツイを考えているときに記憶違いでコラを実際に見たものと誤解してしまったのではないか。ネタツイッタラーにありがちなミスだろう。
なんにせよ、理解のある蟹くん氏がこれをパクツイだと感じたならば、この件に限ってクレームをつければいいのであり、デマに乗っかってこれ幸いと競合ネタツイッタラーを貶めようとする行為に正当性はない。ネタツイッタラーの倫理として、ライバルにはデマではなくネタを以って勝利すべきだ。
一度、パクツイと思い込んでしまえば、中傷は止まらない。中傷ツイートのなかには数万規模でいいねを集めたものも複数存在した。
例えば、“空也上人像”コスプレで有名なクリエイター、中埜氏は2人の写真を晒し上げ、以下のようにツイートした。
パクツイ犯として、一生風当たり強く生きてほしいですね。
願うことなら、「デマに真に受け、人の顔をデジタルタトゥーにしようとした人」として、一生風当たり強く生きてほしいものである。
またライブドアニュースの投稿には一時「初出は『うお座』氏ではありません」というコミュニティノートが付いた。少数の人間の地道なデマ訂正の努力もあり、このコミュニティノートは現在消えているが、「集合知」に依存するコミュニティノートの脆弱性が露わになったと言えるだろう。
このような記事を作るとおそらく、「ネットミームの初出がなにかなんてどうだっていい」「初出なんて明らかにするなみんなのものだ」のような反応があるだろう。それはそれでいいと思う。一貫性をもたせることができるならの話だが。
実際は、言葉に反して多くの人は初出をそれなりに尊重している。尊重しているからこそパクツイなる言葉で人を責めようとするのだ。すべてが匿名であった2ちゃんねるの時代と違い、ツイッター時代のネットミームはそこそこ高い精度で初出を辿ることができる。ネットミームに対する倫理は当然に変化している。自分に都合よく、あるときはパクツイあるときはみんなのものと、倫理のつまみ食いをするのはいけない。
多くの人がデマに騙された理由としては、ネットは自分の庭であり流行語大賞なんかにはわかるはずがないという驕りもあるだろう。思い出すのはだいしゅきホールド三国陣事件の顛末である。医学博士号を持つ科学者で、ネットでは科学啓蒙者としても活動していた高山理図先生は、だいしゅきホールドの起源を僭称した友人である三国陣氏を信じ庇ってしまったことで、今もなおネット空間で中傷を受けている。しかし今回の事件で起源僭称者を祭り上げ庇ったのは誰だったのか、ネット民多数派ではないのか。三国陣事件を風化させないという題目掲げながら、起源僭称者を称える倒錯に至る宿痾を一度考え直すべきではないだろうか。
はてな匿名ダイアリーには、記載できるURL数に制限があるのでいくつかのURLを省略した。大方は以下から確認できるはずである。
「理解」の彼方にある数学──望月新一とIUT理論が問いかけること
一方には、自ら構築した「宇宙際タイヒミュラー理論」で数学界の難問ABC予想を解いたと主張する望月新一。
もう一方には、その証明に「説明不能なギャップ」を見るペーター・ショルツェ。
彼らは同じ言葉(数学語)を話しているはずなのに、まるで異なる星の住民のように、互いの論理を捉えきれなかった。
これは、数学者がIUT理論に触れた時に口にした、ほとんど哲学的な嘆きである。
2. 数学は、いつ「別の教科」に化けるのか
我々が学校で習う数学は、確固たる地面の上に築かれた都市のようなものだ。
公理という基礎の上に、定義というレンガを積み、定理という建造物を建てていく。誰もが同じ地図を持ち、同じ道を歩める。
しかし、ABC予想のような深淵に近づくと、地面は忽然と消える。
そこには「夏場の動く氷河」が横たわっていた。足場は流動し、割れ目は見えにくい。
望月新一は、この氷河を渡るために、従来の登山道具(数学的概念)では不十分だと考えた。
彼は新しいアイゼン(宇宙)とロープ(ブリッジ)を発明し、一人で渡ってしまった。
「見よ、対岸に着いた」と彼は言う。
IUT理論の核心は、異なる「宇宙」を結ぶ「ブリッジ」にあるという。
だが、このブリッジは、従来の数学が知るどの「橋」とも似ていない。
それは具体的な写像ではなく、関係性の比喩のようにも、あるいは情報を転送する「儀式」のようにも読める。
「このブリッジの設計図には、応力計算が書かれていない」とショルツェは言う。
「いや、これは新しい種類の橋だから、従来の応力計算では測れないのだ」と望月は応じる。
ここに、論争の本質がある。
だが、基準を逸脱したものが、果たしてまだ「数学的証明」と呼べるのか?
4. 地動説の再来、それとも幻影?
ガリレオが「それでも地球は動く」と囁いた時、人々は自分の足元が動いていることを想像できなかった。
あまりに直感に反するため、受け入れるには世界観の書き換えを迫られる。
IUT理論には、その「数学的望遠鏡」がまだ大多数に共有されていない。
望月という一人の天才だけが覗ける望遠鏡で見えた景色を、どうやって共同体の確かな知識に昇華させるのか?
数学は、歴史的に「孤独な探求」と「共同的な検証」の緊張関係の中で発展してきた。
ガロアは孤独に群論を創り、ワイルズは7年間を孤塁で過ごした。
だが彼らの証明は、いずれも共同体に開かれ、検証され、受け入れられた。
あまりに自己完結的で、あまりに独自の言語で書かれているため、検証のための「共通の場」が成立しにくい。
それは、一人の建築家が、共通の建築基準を無視して建てた、あまりに独創的な塔のようなものだ。
美しいかもしれないが、他の建築家には、その安全性(正当性)を確認する手段がない。
それは、「人間はどのようにして、個人の深い直感を共同の確実な知識に変換するのか?」 という、科学哲学の根本問題に触れている。
もしかすると、我々の「共同的な理解」というフィルターは、真に革新的な知を濾過してしまうのかもしれない。
あるいは逆に、そのフィルターこそが、科学を単なる個人の妄想から救う防波堤なのか。
望月新一は、そのフィルターを──意図的か否かは別として──きわどくかすめるようにして、新しい数学の大陸を発見したかもしれない。
だが、彼だけがその大陸に上陸し、他者はまだ船(理解)を持たない。
7. 終わりに──氷河は解けるか
「5日間では短すぎた」。
そう誰もが思う。だが、果たして何日あれば足りたのか。
新しいパラダイムを理解するには、時に「学び直し」に近い時間を要する。ショルツェら一流の数学者でさえ、その途上にある。
だが、数学的真理の受容は、単なる手続きではなく、共同体の魂が納得するプロセスでもある。
いつの日か、この氷河が確固たる大地として多くの人に認識され、ABC予想への道が共有される時が来るのか。
それとも、この氷河は「夏の終わり」と共に消え、数学史の不思議なエピソードとして記憶されるだけなのか。
答えはまだ、誰も知らない。
ただ、この論争が我々に教えてくれるのは、数学が──ひいては科学が──常に「理解の境界線」との戦いである、という厳粛な事実である。
数学とは、確かな地面を歩む技術であると同時に、時には氷河を渡る勇気でもある。
望月新一は、その渡河を一人で成し遂げた。
問題は、彼の後を、我々が続けることができるかどうかだ。
連合国による旧日本領の処理と承認(台湾・朝鮮半島・南洋群島など)
という主張含意を持つ場合、これは上記の①②③すべてに矛盾する。
歴史的経緯上、これは連合国の領土処理を否定する=戦後体制そのものへの挑戦と見なされかねない。
■ アメリカ
日米安保の前提
と受け止める。
これらは連合国の中核。
が、
には明確な拒否感を持つ。
特にフィリピン、マレーシア、インドネシアは旧日本軍の占領経験が強く記憶されているため、同調の余地はない。
つまり、戦後秩序に異論をはさむ日本は、ASEANすら距離をとる。
■ 中国
■ 韓国
韓国は一貫して
を主張してきた。
② アジア諸国の傷を刺激する
国際政治では
「力のない国が秩序に反対して騒いでいるだけ」
という扱いになる。
という構造を持つ。
例えばさ、ある時期にお前のGithubで公開したコードが一世風靡したとするだろ?
んで、お前がXでこんなコードを作りましたと言っても、お前のXアカウントは信頼されない。
なぜなら、そのGithubアカウントがお前のXアカウントを同一人物として判別するには、プロフィールの相互リンクが不可欠だから。
たぶん、Google検索もこういったトランスランクを加味している可能性が高い。
だから結局、トラストランクというのは内容そのものの良し悪しよりも、主体の一貫性が外部から検証可能かどうかで決まるんだよ。
技術的に正しいコードを書いても、それが誰による成果物なのかが曖昧なら、評価システム全体は防御的に振る舞う。
これはSNSでも検索エンジンでも同じで、なりすまし・スパム・宣伝アカウントを排除するための基本的なリスク管理構造だから。
そして、これらのサービスは互いのデータを直接共有しているわけじゃない。
個別に主体の実体を推定しようとする。そのとき一番効くシグナルが相互にリンクされたプロファイルなんだよ。
片方向リンクは主張に過ぎない。相互リンクは検証可能な関係性になる。
つまり、X → GitHub だけでは本物かどうかは確証できない。
GitHub → X のリンクが揃ったとき初めて、システムはこれは同一主体の操作だと判断しやすくなる。
これはWebのリンク解析が昔から採用している相互性から生まれる確からしさと同じ構造だ。
そしてGoogleがこれを無視する理由はほぼ存在しない。なぜなら、主体の正当性を誤判定すると検索品質そのものが崩れるからだ。
品質維持のためには、リンク構造・アカウント間の整合性・外部発信の一貫性をスコア化せざるを得ない。
これはPageRankの派生というより、E-E-A-Tやスパム防御の延長線上に自然発生した要件と考えるほうが合理的だ。
だから、どれだけ良いコードを書こうが、どれだけ正確な技術記事を書こうが、主体の整合性が弱ければ情報は正当に扱われない可能性がある。
ここに書くことは「不義理」に見える。だから、多くの人は言わない。でも、実際のところを書く。
台湾への中国の軍事侵攻は「反対」だ。ウクライナへのロシアの侵攻も「反対」だ。侵略行為は悪い。弱小国が一方的に蹂躙されるのは、不公正だ。その感情は、本当だ。
だけど。
もし本当に台湾有事が起きたとき、戦争によって日本が被害を被るくらいなら「台湾にはさっさと降伏して欲しい」と思う人間が、実際のところ、ものすごく多いんじゃないか。そしてそれは「台湾を見捨てる冷酷さ」じゃなくて「自分と自分の家族の命の方が大事」という、誰もが持ってる根源的な感情だ。
その感情を、表に出すと「非難される」から、みんな隠してる。でも、有事の際には「この感情の方が優先される」という現実がある。
メディアや政治家は「台湾は日本の隣国だ」「台湾との関係は重要だ」と言う。その通りだ。台湾とは友好国として付き合うべきだし、台湾に対する侵略には「反対」という立場を表明すべきだ。
例えば、ウクライナの人が「可哀想」と思うのと「日本がウクライナのために戦う」というのは、全く別の話だ。多くの日本人は「ウクライナへのロシアの侵攻は許されない」と思いながら「だから日本が戦争に参加すべき」とは思わない。その感覚は、正しい。
同じことが台湾にも適用される。「台湾への中国の侵攻は許されない」と「だから日本が戦争に参加すべき」は別だ。前者は道義的立場で、後者は戦略的判断だ。
ここから先は、本当に不気味な話だ。
台湾有事が起きたとき、何が起きるか。中国軍が台湾に侵攻する。その時点で「日本は台湾を守るために戦うべきか」という問題が、突然、リアルになる。
その時、日本国民の大多数は「戦うべきか」という問いに対して「戦うなら、実は台湾は降伏した方がいいのでは」と思う。なぜか。
理由は簡単だ。戦争というのは「最大で何百万人という日本人が死ぬ可能性」を持ってる。爆撃で死ぬ。飢餓で死ぬ。病気で死ぬ。経済的破綻で死ぬ。その規模の被害を、「台湾を守るため」という理由で正当化できるのか。
答えは「多くの日本人にとっては、できない」だ。
「では、台湾が中国の支配下に入ることを受け入れるべきか」という問いに対して「受け入れるべき」と言うわけではない。ただ「日本人が大量に死ぬより、その方がマシ」という判断になる。その判断は「非道」ではなくて「現実的」だ。
その本音を、なぜ誰も言わないのか
もし「台湾有事の際には、日本は戦う意思がない」と公式に言ったら「台湾がすぐに降伏してしまう」。その結果「中国に統一を許す」ことになる。それは「国際秩序を破壊する」ことになり「日本の国益に反する」。
だから、政治家は「台湾を守る」というポーズをし続ける必要がある。米国も「台湾を守る」というポーズをし続ける必要がある。そのポーズがあることで「台湾が独立を保つ可能性」が生まれる。
その「ポーズ」が必要だから、真実は隠される。その真実とは「実際には誰も台湾を守るために戦わない可能性が高い」という現実だ。
ウクライナを見ればわかる
ウクライナを見れば、この構図がわかる。
ウクライナはNATO加盟国ではない。だから「ロシアに攻撃されたら、NATO全体で対抗する」という仕組みが、法的には発動しない。その結果「欧米諸国が何度も『NATOは参戦しない』と明確に言った」。
その結果、何が起きたか。ロシアは「NATOが参戦しない」と確認してから、侵攻を開始した。もし欧米が「参戦する可能性がある」と濁していたら、ロシアの計算は変わったかもしれない。
ここで起きてるのは「国家の本音」だ。欧米はウクライナを「支援」するが「戦争に巻き込まれるほどの関心」はない。その本音が「参戦しない」という明言になった。その結果、侵攻が起きた。
台湾の場合、米国は「参戦する可能性がある」と、ぼかし続けてる。その曖昧性が「台湾への侵攻を躊躇させてる」という側面がある。ただ、その曖昧性の裏側には「実際には参戦しない可能性が高い」という米国の本音があるかもしれない。
日本も同じ立場だ。日本は「台湾との関係は大事」と言い続けるし「台湾有事に無関心ではない」と言い続ける。でも、その言葉の裏側に「ただし、日本人が大量に死ぬほどの関心ではない」という本音がある。
有事の際に起きること
台湾有事が本当に起きたとき、以下のプロセスが起きると予想される。
その時点で「日本が軍事介入することの現実的困難性」が明確になる
国内から「日本人が死ぬ危険を冒してまで、台湾を守る理由があるのか」という世論が出始める
その世論に押される形で「日本は支援に限定する」という政治判断が出される
その時点で「日本は軍事的には参戦しない」という立場が固定される
その流れの中で「日本は台湾を見捨てた」という後悔が残る。だが同時に「日本人が戦死せずに済んだ」という安堵も残る。その両者の感情が、ずっと日本社会に残り続ける。
ここまで書くと「では、台湾はどうでもいいのか」という質問が出るかもしれない。違う。
台湾は、日本にとって戦略的に重要だ。その意味は「台湾が独立を保つ方が、日本の国益に合致する」という意味だ。中国が台湾を統一したら「東シナ海から太平洋への中国の影響力が拡大する」。その拡大は「日本の国防上、好ましくない」。
だから「台湾の独立を保つためのポーズ」は、日本は取り続ける必要がある。だが「その独立を守るために、日本人が死ぬ」ことと「台湾の独立を保つ方が国益」という判断は、別だ。
言い換えると「台湾は大事」だが「日本の命の方が、もっと大事」という現実がある。その両者は「矛盾」ではなくて「優先順位」だ。
不誠実さ、と正当性
この話は、多くの日本人にとって「不誠実に見える」。台湾を友好国として扱いながら、その友好国を守るために戦う気はない。それは「二重基準」に見える。
ただ、国家というのは、元々「二重基準」で動いてるんだ。国家の本質は「自国民の命と福祉を最優先とする」ことだ。その本質が「隣国への義理」より優先されるのは「ダブルスタンダード」ではなくて「当然」だ。
どの国の政治家だって、国民投票で「台湾のために日本が戦争に参加することに賛成するか」と聞かれたら「反対」が大多数になる。その「反対」が、実は「最も現実的」な判断なんだ。
「台湾は大事だ」というポーズ。「台湾有事に備える」というポーズ。「台湾との関係を大切にする」というポーズ。
そのポーズがあることで「中国が台湾に侵攻することの現実的コスト」が上がる。「もし台湾に侵攻したら、日本も何か対抗措置を取るかもしれない」という曖昧性が、抑止力になる。
その曖昧性の存在が「台湾の独立を保つ」という結果につながる可能性がある。だから「日本は本当には戦わないかもしれない」という本音を隠しながら「台湾を守る気がある」というポーズを続ける必要がある。
これは「台湾を見捨てるべき」という話ではない。「台湾への支援を減らすべき」という話でもない。
この話は「人間の現実」についての話だ。人間は「理想」と「現実」のギャップを抱えながら生きてる。その中で「正直に本音を言うことが、時に害になる」という現実がある。
台湾有事の際に「日本は戦わない」と明言したら「台湾の独立を守る抑止力」が失われる。だから「戦う可能性がある」というポーズを続ける。
その中で、国民の本音は「戦いたくない」という感情で満ちている。その本音は「正当」だ。なぜなら「自分と自分の家族の命を守る」というのは「最も正当な欲求」だから。
その正当な欲求と「国家の戦略的必要性」の間に、永遠に埋まらないギャップがある。日本は、そのギャップの上で、ずっと成り立っている。
ホワイトハウスは、ドナルド・トランプ大統領が違法な命令を出したとの報道を明確に否定しました。関係筋によれば、報道されている一部の内容は誤解を招くものであり、政府の正式な手続きや法的枠組みの範囲内で行動していると説明しています。一方で、政治や国防に詳しい専門家の間では、国防総省が関与する作戦の内容や手法に関して懸念が示され、透明性や監督の必要性について議論が続いています。
この声明は、行政の正当性や統治の信頼性をめぐる国内外の関心が高まる中で発表されました。大統領の行動や政策決定が法的枠組みに沿っていることを示す一方で、政府内外での意見の対立や政策の影響についても注目が集まっています。
報道関係者や市民は、今後の動向を注視し、公式な発表と独立した分析に基づいて情報を評価することが求められます。政治的緊張が高まる中で、正確で信頼性のある情報提供の重要性が改めて浮き彫りになっています。
https://www.mapmyrun.com/routes/view/6657446860/
https://www.mapmyrun.com/routes/view/6657447124/
https://www.mapmyrun.com/routes/view/6657447370/