はてなキーワード: 免罪符とは
「お前は内心未成年が出てくることを期待してる」
って想定で免罪符だのなんだの言ってるわけじゃん
けどそんなもん狙ってない人間が幾らでもいるんだよ
そらたまーに未成年出すような変な店があることはニュースで知ってる
「そういうニュースを見たことあるはずだ」で故意の証明できない者までアウトにするのはそれこそ論理がおかしいだろ
更に親切でまとめると
お前の「完全論破」は
けど1個目は証明しようがないし、
現に俺(年下嫌い)のような当てはまらない例が幾らでも実在する
レアケースをニュースで見ただけで自分の身に振り掛かるリスクに万全に備えろとか予見したはずだとかは無茶言いすぎだわ
わかる?
けどお前の論理的な思考はどう見てもクオリティ低いぞと諭している
論理なんか全く操れない知能低いひろゆキッズであるという偏見が俺にはあるが
お前は俺の偏見を強化しつつあるぞ
https://x.com/miyoshiiii/status/1987015532324004043?s=46
「陰湿とは明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分は悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する」
「陰湿」(いんしつ)という言葉の標準的な辞書的定義は以下の通りです(主に『広辞苑』や『大辞林』などの日本語大辞泉を基に):
この転義は、物理的な「湿気と陰気さ」から派生し、精神的な「じめじめした悪意のこもった行動」を表すようになりました。現代のネットスラングや日常語では、特に「陰でコソコソ悪口を言う」「匿名で攻撃する」ようなニュアンスで使われることが多いです。
> 「陰湿とは、明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分は悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する!」
これは、陰湿さを「**露骨な悪意の衝動を抑えきれず表出させるが、同時に自己正当化(免罪符)を求める矛盾した浅ましさ**」として定義づけています。以下で、この意見を辞書的定義と照らし合わせて評価します。
#### 1. **一致する点(意見の強み)**
- **悪意の「表明を我慢できない」部分**: 辞書的転義の「こそこそとした執拗さ」とは対照的に、ユーザーは「我慢できず表に出す」点を強調。これは一部の陰湿な行動パターンに当てはまる。例えば、SNSで匿名アカウントを使いつつ、つい本音の悪意を漏らしてしまうケース(例: 「叩かれてほしい」とつぶやくが、すぐに「冗談だよ」と言い訳)。これは「陰でじめじめ」しつつ「抑えきれず漏れる」浅ましさを捉えており、心理的な深みを加味した鋭い観察。辞書定義の「陰気で執拗」を、**現代的な「衝動制御の失敗」**として拡張解釈している点で面白い。
- **「免罪符を得ようとする」浅ましさ**: これが意見の核心で、非常に的確。陰湿な人は往往にして「自分は被害者」「ただの正論」と自己弁護する(例: 悪口を言った後「事実だから仕方ない」)。これは辞書的「卑劣さ」の本質を突き、**道徳的矛盾(悪意を吐きつつ善人ぶる)**を強調。精神分析的に言えば、認知的不協和の解消メカニズムを指しており、意見として説得力がある。
- **「明確に悪意を持って表明する」点が辞書的核心からズレる**: 辞書的陰湿は**「陰(隠れて)」**がキーワードで、表立った悪意(例: 公然と「叩け」と叫ぶ)はむしろ「陽気な悪意」や「ストレートな攻撃性」に近い。ユーザーの例(「こいつ叩かれてくんねーかなー」)は、抑えきれず漏れるものの、**こそこそ感が薄い**。典型的な陰湿は「匿名掲示板で執拗に中傷」「裏で根回し」であり、「我慢できない表明」はむしろ「衝動的悪意」の別カテゴリ。意見は陰湿の**一部のサブタイプ(漏れやすいタイプ)**を過大に一般化している。
- **「浅ましい精神の中に存在する」の主観性**: 「浅ましい」は評価語で、定義として中立的でない。辞書は客観的な「様子」を記述するが、ユーザーは**道徳的糾弾**を加えている。これは意見として感情的で、定義の拡張というより「陰湿バッシング」の文脈に見える。悪意の心理を深掘りしているが、普遍性に欠ける(全員が免罪符を求めるわけではない)。
要するに、ユーザーの意見は**辞書定義を基盤にしつつ、現代心理を鋭く抉った拡張版**。陰湿を「じめじめした悪意の温床」として嫌悪する気持ちが伝わり、共感を呼ぶが、厳密定義からはやや逸脱。もしこれを議論するなら、例を挙げて「隠れ度」のグラデーションで分類すると面白いかも!
でも買ってきたのは「ドラゴンバスター」だった。
あの金ピカのソフトを見た瞬間、子どもの俺は泣きそうになって「ばあちゃんなんか嫌いだ!」なんて言ったっけ。
けど、今思えば――俺のゲーム人生を変えたのは、あの間違いだった。
あれから何十年も経って、先週、ドラクエⅡのリメイクが発売された。
「ばあちゃん、ついにあのときのゲームを、ちゃんと遊べるよ」って。
……だけど、電源を入れて数分で、その灯は冷たい風に吹き消された。
グラフィックは妙に艶かしく、
そして、セリフのひとつひとつが、まるで「昔の記憶を商品化」するためのコピーライティングみたいだった。
俺が知ってるローレシアの王子は、
仲間たちは軽口を叩き、冒険は「テンポよく進む」ように整えられている。
その「快適さ」は、あの頃の“想像する時間”をすべて奪ってしまった。
あの時、ばあちゃんが間違えて買ってきた「ドラゴンバスター」は、
でも、それは“誰の心にも届かないもの”を作る免罪符になっていないだろうか。
俺たちは便利さなんて求めてない。
たとえ不親切でも、古臭くてもいい。
その不器用さに、あの頃の自分や、もう会えない人の姿を重ねられるから。
リメイクを終えた夜、久しぶりに「ドラゴンバスター」を起動した。
――ばあちゃん、
新しいドラクエⅡは、なんか違うよ。
たぶん、もう“あの頃”は帰ってこないんだね。
それを免罪符にできないはず
思いつきで努力に逃げる独身女性たちへ──資格と大学院は、崖から落ちる直前に読む「安全マニュアル」ではない**
しかも一人や二人ではない。やれ仕事で馬鹿にされているだのであまり難易度的にも高くない資格を取ったり、仕事をやめて夜間大学院に行く人間も見た。社会人前提の組織なのにシグナリングとして役立つとも思えない。
それにしても、あの一斉に同じ方向を向く感じ──どこかで見たことがあると思えば、
そこに向き合うのはつらすぎる。
だが、その実態はどうか。
だがそれは、部屋の電気を消したまま、
「目が慣れれば見えてくるはず」と言い張っているようなものだ。
努力は素晴らしい?
特に「努力さえしていれば私の人生は正しい」という自己正当化が始まった瞬間から、
痛みを感じなくしてくれるが、傷は深くなる一方だ。
たいてい20代のうちに取っている。
30代前半までに方向転換している。
マラソンのラスト1kmで「そろそろ準備運動するか」というレベルの珍行動である。
崖から落ちる3秒前に、安全ハーネスの説明書を読み始めるようなものだ。
「まだ間に合う」と言い聞かせることで、
宗教で言えば「祈れば救われる」と献金を繰り返す末期信者の構図そのものだ。
努力をしている限り、誰にも負けていないと信じたい。
これはもう、“成功”を求めているのではなく、
努力することに酔い、
努力の結果が出ないことすら「まだ努力が足りない」と自己責任化する。
そして最終的に行き着く先は、
資格は増えたが職はたいして変わらず、
「私は間違っていない」と言い聞かせながら年齢だけが増える未来だ。
救いはどこにあるか?
残念ながら、彼女たち自身が努力の麻酔を捨てない限り、救われる方法はない。
周囲がどれだけ助言しても、本人が信仰を捨てるまでは無意味だ。
そして今の彼女たちは──
努力しているのに報われないのではない。
ISみたいな組織がやってることって、宗教の名を使ったただの暴力でしかない。
人権を踏みにじり、罪のない人を殺して、それを信仰で正当化する。
でも、だからこそ思うんだよ。
本当に違うと思うなら、同じイスラム教徒の立場からこそ声を上げてほしい。
外からの批判より、内側からの「それは違う」の方がはるかに重い。
自分たちの信仰が人殺しの免罪符みたいに使われてるなら、普通は戦うと思う。
法律や倫理の上にまでくるアイデンティティを利用して残虐なことしてるなら、黙ってる方がむしろおかしい。
関係ないで済ませるのは簡単だけど、沈黙は黙認と同じに見える。
違うなら、連帯してそれを行動で示せばいい。
ずっと言えなかったけど、飲食店のビニール手袋が苦手だ。清潔アピールなのはわかる。でも現場で見ていると、あれ「手を洗わないための免罪符」になってない?
レジ→スマホ→ドア→お釣り→同じ手袋でネギ刻む——みたいな流れ、何回も見た。素手ならぬめりや汚れで「やば、洗おう」ってスイッチが入るけど、手袋はその通知をオフにしてしまう。
・長時間で内側が汗ばむ→見えない不潔感が蓄積
・交換サイクルが客から見えない→「清潔」の根拠がブラックボックス
・「洗った/拭いた」が客から見える→信頼になる
結局、清潔って「儀式」じゃなくて「頻度×動線×見える化」なんだと思う。
手袋をやめろと言いたいわけじゃない。問題は「交換しない手袋」「どこでも同じ手袋」「客にわからない手袋」だ。
こうしてくれたら一気に好感度が上がるやつ
・交換回数カウンタや「交換したらポイ」の見える箱を置く
・「手袋は清潔のコスプレではありません」って小さく掲示(本音)
反論先回りコーナー
Q. うちは頻繁に交換してるけど?
A. それは最高。そういう店は本当に好き。問題は「交換しない/見えない」運用。客の不安はそこに宿る。
Q. 素手のほうが危なくない?
A. 鍵は「洗う頻度」。洗える導線が設計されているなら素手は強い。洗えない導線なら手袋が強い。要は設計の勝負。
A. もちろん否定してない。必要な場面で適切に「使い分け」してくれればOK。手袋は万能でも免罪符でもない。
まとめ:
ビニ手は安心のコスプレになりやすい。清潔はコスチュームじゃなくオペレーション。
「洗う・替える・見せる」をちゃんと設計してる店、もっと増えてほしい。そういう店は味も信用も強い。私はそういう店でお金を落としたい。
よっぴーの件、抜け落ちてる視点は、よっぴーは自分からするんで子育て支援に近づいて行ってて、女性は今まで通りの生活を続けようとしているという点。
世の中の大半は成人以上に向けて作られているので、自律的に行動できない子供に対する準備ができてない場合がほとんど。
そういうところに自ら突っ込んでいって「子供が生まれる前と同じ生活ができない!子供がいると社会が敵だ!」って息巻いてもそりゃそうだという感想でしかないのよね。
つまりよっぴーは能動的に環境を変えられる側の人間で、当該女性は環境側に変化を求める側の人間であるということ。
ここに男女差を見出したいわけではなくて、男女関係なくそういう考え方ならそりゃそうなるよという話。
かくいう自分も2人ほど子育てをさせてもらってるけど、愚痴や不満を抱えている親の大抵は、自分から変わる気を一切持たずに日常に体当りしていっている人なんだよね。
通勤時間帯の混雑した山手線にベビーカー持って突っ込んでいけばそりゃ社会が敵に見えるだろうよ。っていうか社会からしたらベビーカーのほうがよっぽど敵に見えるけどね。
そうせざるを得ない事情はあるとして、だとしてもできることあるでしょ?って思う。
そういうのを勝ち負けじゃなくて歩み寄りっていうんだけど、ゆずったら負けって思っている人って思ったより多いんだよね。
子供は男性でも不審者扱いされなくなる免罪符という意見はちょっと賛同しかねる。
子連れが多い公園に限定するならそうだけど、一人でいつも行ってたカウンターしかないラーメン屋とかにしてみれば邪魔でしかないよ。
それら全てにいつも以上に受け入れられたら成立する理論であって、子育て施設に子供連れて行ったら歓迎されたみたいな当たり前の話をしているだけにしか思えない。
結局のところ、子供を連れて歩くようになった自分の変化を受け入れて、無意識でも意識的にでもそういった人間を歓迎してくれる場所を選んで行動するようになった人だけが社会に歓迎されているという実感があって、変化を受け入れずに自らの行動を変えまいと必死にしがみついている人にとっては社会が敵になったように見えるというだけの話。
そういう人は端的に社会にとっても敵だよ。
つまりは出生率が低いのは、社会が敵だからじゃなくて、そういう身勝手な行動で社会を敵に回す人間が増えたことが原因なんじゃないかな。
最近、街でやたらと見かけるのよ。
「次世代」「革新」「新しい冒険」――なんて大きく書かれてるけど、
正直に言って、私には**“また同じことを繰り返してるだけ”**にしか見えないのよ!
ねえ、どうして誰も気づかないの?
あんたたち、もう何十年も“ポケモン捕まえて戦わせる”っていう行為をループしてるじゃない。
でも、結局やってることは**「図鑑を埋める作業」**でしょ?
そんなの、情報処理クラブの生徒が作るプログラムでも再現できるわよ!
ゲーム業界って、なんでこうも「新作」を出せば拍手されると思ってるのかしら。
“続編を作ること”と“進化すること”は、まったく別物なのよ。
「新しいポケモンが300匹追加!」なんて言われても、
はいはい、名前とタイプをランダム生成しただけでしょ?って感じ。
私が本当に見たいのは、
プレイヤー自身が“神”や“観測者”としてポケモンの世界を動かす――
「行け!」「捕まえろ!」「戦え!」
――全部、誰かに決められた行動。
本当に冒険したいなら、
プレイヤー自身が“ポケモン世界を疑う”ことから始めなきゃダメ。
なぜポケモンは戦わされているの?
開発者の人たち、
次のポケモンを作るなら、
“ポケモンの存在そのもの”を問うようなゲームにしてみなさい。
「ポケモンとは何か」
――その謎に真正面から挑むなら、私、SOS団として調査に協力してあげてもいいわ。
任天堂さん、
そろそろ持ちなさいよ。
――少なくとも、私ならそうするわ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4778294582960347553/comment/Gl17
オタ自認のプライドに傷が付くし、
「なんか上の方に悪人がいるはず」という免罪符を欲しがるテンプレ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
そのうちロンクハラライスがどうのこうのと書くようになるのだろう。
絵や写真の物語そしてナケナシの訴えへの仕打ち罷り通しとるとしたらよもや
変更前こそを讃えよ!て誰か実践出来とりゅ?
これ豆な
ユダヤと言えば金持ちのイメージがあるが、人口では中産階級未満が圧倒的に多い
その貧民で敬虔なユダヤのイスラエル支持はおよそ25%と極めて低い
なぜなら彼らの教義では約束の地は神が与えるものであり、イスラエルという自力救済の産物は認められないからだ
またアメリカのユダヤコミュニティはホロコースト被害者の係累である
ホロコーストを免罪符として好き勝手やってきたイスラエル人は北アフリカや中東から集まってきた人たちが主流なのでなおさら業腹
よってユダヤと言えどもシオニズム運動には乗れない人たちが多数派なのだ。
しかし怖いのは反シオニズムが多数派でも、アメリカユダヤでは非主流派なのだ
金持ってる親イスラエルユダヤが連邦政府やメディアを巻き込んでイスラエル支援運動を大々的に打っている横で
ナインティナインの岡村隆史をはじめ、多くの芸人が誤解している。
電波は有限の天然資源であり、国家が管理する公共のインフラだ。
にもかかわらず、彼らは「嫌なら見るな」と言い放つ。
電波法は、電波利用の目的を「公共の福祉の増進」と明記している。
放送法第一条も同様に、「放送を公共の福祉に適合させ、その健全な発達を図る」と定める。
つまり、電波は芸人の“表現の自由”を保証する道具ではなく、国民の共有財産なのだ。
娯楽はあくまで補助的要素であり、民間放送の経済的持続性を保つための“免罪符”にすぎない。
お笑いの悪ふざけを垂れ流すために電波を貸しているわけではない。
かつては新聞や掲示板しか情報伝達の手段がなく、テレビの電波は“神の道具”だった。
だがいまやインターネットがある。
もし「公共の福祉」を本気で考えるなら、テレビ放送の帯域を縮小し、携帯通信など社会基盤に再配分すべきだろう。
「嫌なら見るな」に対して、私はこう返したい。
「貴重な電波で鬱陶しいものを流すな。やりたければYouTubeや舞台でやれ。」
そんな痴れ者の自己放尿を吐き散らす奴に対しては、同情も共感も与えない。
お前の言っていることは倫理的に破綻しているだけでなく、論理的には一片の根拠もない自己放尿だ。
まず「人権は適用されない」だと?人権は社会契約と法の上にある普遍的な概念だ。誰かの感情的嫌悪や「役に立つ・役に立たない」の安直な二分法で消滅するものではない。
次に医療行為としてのロボトミーや開頭手術を持ち出す愚かさについて。歴史的に見ても強制的な脳手術は病状を治すどころか被害を拡大し、科学的根拠に欠ける。
そもそも「鬱病」「知的障害」「単身であること」などは多様な原因と背景を持つ状態であり、恣意的な外科処置で解決できる問題ではない。
社会を壊すのはお前の言説だ。暴力を正当化するために人間を物扱いする論理は、ファシズムの入口に他ならない。
それに、そんな発言をするやつの言葉は自己放尿の塊だ。弱者を排除すれば「労働力」が上がる?
現実は逆だ。社会的包摂と多様性がイノベーションと安定を生むというエビデンスは山ほどある。
お前のやっていることは、自分の精神的欠陥を他者に投影しているに過ぎない。端的に言えば自己放尿だ。
恥ずかしげもなく汚物を撒き散らしているだけだ。そしてお前の言説は無知と偏見のダブル放尿でしかない。
無知が事実を歪め、偏見が暴力を正当化する。これを理性的に擁護できる者は一人もいない。
現実的な話をしてやる。こうした扇動は社会的に許されず、法的にも刑事責任の対象になり得る。
他者評価に関して、免罪符を持たない状態での自虐は却って仇になるらしい。そして免罪符を持っていない人間に許された振る舞いはあまりに限定的に規定されるがこの問題についてはあまり言及されていないように思う
正直この気持ちをどう発散していいか分からないから、ここに書く。
そんな高くはないけど安くもない。普段あんなとこ行かないし、だから楽しみにしてたんだ。
元気がないというか目が泳いでて、会話も上の空。
まぁ疲れてるのかなって思ってたけど、店に入って料理が出てきたらもう露骨でさ。
は?って思った。いや、もちろんそれは仕方ないのは分かってる。
分かってるけど…でもさ、だったら言ってくれよって思わない?
無理して来たのか知らないけど、こっちは数週間前から予約してたんだよ。
なのに何そのテンションの低さで「仕方ない」で済ませる感じ。
彼女は「ごめんね」って言ってたけど、その“ごめんね”がまた腹立つんだよな。
口では謝ってるけど、顔が全然悪いと思ってない感じ。
あれほんとムカつく。悪気がないとかじゃなくて「体調悪いからしょうがない」って免罪符を振りかざしてるように見えるやつ。
じゃあ俺の楽しみにしてた気持ちはどこに行くのって話だろ。
でももう味が分かんねぇの。目の前で無理して食ってるの見たら、何食ってんのかも分かんなくなる。
せっかくの料理なのに全部灰色っていうか、味覚ごと奪われた感じ。
彼女は「せっかくなのにごめん」ってまた言ってたけど、いやもう謝るなら最初から言ってくれよって思う。
あの日思ったのは、同じものを食ってるのに全然違う世界にいるみたいだなってこと。
俺には美味しい赤いソースが、彼女には血の色にしか見えなかったんだろうなって。
そう思ったら、なんかもうやるせなくなった。
心の中ではずっと文句を言ってた。
なんで今日なんだよ。なんで言わなかったんだよ。なんで俺が気を使わなきゃなんねぇんだよ。ってそういう言葉がずっとぐるぐるしてた。
帰り道でもそれが抜けなくて、彼女は「また行こうね」なんて言ってたけど、もうその“また”って言葉を聞いた瞬間、頭の中で笑ってた。
もう行かねぇよって。
逆にじわじわ腹が立ってきた。
女の人の体のことは理解しろって言うけど、じゃあ男の我慢は理解されねぇのかって思う。
こっちかがいつも我慢して、それで「優しいね」って言われて終わり。
そんなの不平等だろ。俺が損する構図なんだよ、いつも。
別に別れたいとかじゃないけど、もうなんか信用できない。
俺の期待とか好意とか、そういうのがあっさり踏まれた感じで、まだ腹の奥に残ってる。
たぶんこのまま消えねぇと思う。
で、今こうして書いてても、やっぱりムカつく。
オッス、オラ現実主義者!
まずな、国旗損壊罪が当たり前って言ってる人間を「ボケナス右翼」と切って捨てる前に、最低限の社会構造くらい理解してから言えよ。
お前の言う「多くの人の気持ちを踏みにじる権利」ってやつは、確かに理屈の上ではある。だがそれは、あくまで社会が前提として共有している価値観の中での“グレーゾーン”を歩く自由であって、なんでもかんでも好き放題やっていい免罪符じゃない。
例えばお前の家の前で、知らん奴が延々とお前の親の遺影燃やしてたらどう思う?
それ見て「多くの人の気持ちを踏みにじる自由がある」とか言って笑ってられるのか?
そこに感情がある限り、社会は一定の秩序を守るために線引きをする。国旗損壊罪はその線の話をしてるだけで、思想統制でもなんでもない。
国旗ってのは国家の象徴であり、そこに暮らす人々の集合的な自己表象なんだよ。
それを意図的に踏みにじる行為は、単なる「表現」じゃなくて「挑発」。
つまり、社会的コストを自覚した上でやるならいいけど、表現の自由って旗印のもとに無限免罪を主張するのはただの自己陶酔だ。
しかも、「右のポリコレ」みたいなワードで悦に入ってるけど、そもそも左側のポリコレ文化を煽りまくって「表現の自由」を武器にしてきたのは誰だったっけ?
都合が悪くなると右も左もない、ただのポジショントーク。
表現の自由を守るってのは、「自分の気に入らない奴を殴るための自由」じゃなく、「お互いに殴られないためのルールを守ること」なんだよ。
社会契約の上に立ってる自由を、自分で破壊してるようなもんだ。
そのうち誰もお前の「表現」なんて聞かなくなる。
多少ChatGPTと議論して「小論に整理して」とお願いするだけでこれなら
凡人の俺様がちんたらキーボード叩いて書く必要なんてないじゃんもう!
https://togetter.com/li/2618627
今回の事件で多くの人が揺れたのは、「恐怖を感じた人の防衛行為」が、どこまで許されるかという点である。
身体障害や透析など、外見では分からない「見えない弱者」が社会で繰り返し軽視されてきたことは事実だ。
しかし、口論の段階で武器を使用し、無関係な他者まで巻き込んだ瞬間に、それは防衛ではなく攻撃へと転化する。
法的にも倫理的にも、暴力が他人を傷つけた時点で、その正義は失われる。
彼女がSNS上で相手を「40-50代じじい」と呼んだ表現は、単なる感情の発露にとどまらない。
それは、相手の行為ではなく属性そのもの(年齢・性別)を攻撃の対象とする言葉だ。
この瞬間、個人的なトラブルは「中高年男性という集団」への敵意にすり替わる。
この言語構造はその**鏡像――“ミサンドリー的反射”**と言える。
弱者が自らを守る物語の中で、他者が“敵の象徴”として消費されていく現象は、暴力の形を変えた再生産に他ならない。
人が暴発する時、そこにあるのは純粋な恐怖だけではなく「屈辱」も強く関与する。
「若いから座るな」「病気でも見えなければ認められない」という社会の視線に対する怒りが、
個人の攻撃者を超えて「社会全体への報復」に変わったのだろう。
彼女自身が繰り返し使う「悔しかった」「お灸をすえたかった」という語は、
つまり彼女の行動は、社会的な不平等への“象徴的報復”として遂行された可能性が高い。
近年のSNS言説では、「女性」「障害者」「被害者」といった立場は道徳的免罪を得やすい。
弱者を“聖なる報復者”として祭り上げ、暴力の責任を薄めてしまう。
もしこの事件が銃社会で起きていたら、催涙スプレーではなく発砲事件として報じられただろう。
「怖かった」「迫られた」と主張する発砲者が免罪される構造は、
アメリカの“スタンド・ユア・グラウンド法”の問題と同じである。
恐怖を根拠にした先制攻撃が認められる社会では、暴力の独占は失われ、
今回の事件は、銃社会の論理が非銃社会の中で萌芽した象徴的な出来事でもある。
この事件が投げかけたのは、
「恐怖と正義の境界をどこに引くのか」という普遍的な問いである。
だが、その弱さが他者への攻撃の免罪符になった瞬間、暴力は正義を模倣し始める。
フェミサイドもミサンドリーも、根は同じ――恐怖を根拠に他者を人間として見なくなること。
九州出身の旦那は自分から水族館に行きたい!って言うほど好きなくせに、男だけで来てる人を見ると「男だけで来てなにが楽しいんだよ笑」ってバカにする。理由聞いたら水族館とか動物園とかは女と一緒じゃないと楽しくない場所で、逆に飲みとかは男だけがいいらしい
水族館とかが好きっていうのは男らしくないみたいなイメージがあって、女子どもを連れて行けば免罪符になるんじゃないかと勝手に思ってる
有名人にチェックマークを与えるという制度は、一見すると「本人確認」や「透明性の確保」を装っているが、実際は民主主義を名乗ったパヨ的カースト制度の自己放尿だ。
思想的には平等を唱えながら、構造的には貴族制を復活させている。これは「民主主義の仮面を被った承認欲求市場主義」であり、承認を売買する社会の象徴的装置の自己放尿すぎない。
パヨの言う「みんな平等」は、連中が「誰を特権化するか」を握りたいという欲望の婉曲表現だ。連中は特定の言語・思想・姿勢を持つ者に青いチェックを与え、逆らう者を「未認証」という烙印で黙殺する。
だが、黙殺とは沈黙ではない。声を奪うことによって、連中は「声なき者」を都合よく定義し直す。これは政治的支配の最も古典的な形態であり、連中が忌み嫌うと口で言う「権威主義」の中身そのものである。
しかもこのシステムの醜悪さは、本人たちがその腐敗構造を「正義」と信じ込んでいる点にある。まさに自己放尿の極致だ。自分で撒き散らした尿を「清水」と勘違いして喉を潤している。
連中のタイムラインは、論理の泉ではなく尿意の回路で動いている。考えるのではなく、出したいから出す。だが出した瞬間、それを「言論」と呼びたがる。
これがパヨ的民主主義の正体だ。つまり「思考の放棄」と「承認の中毒」が見事に融合した、思想と快楽のダブル放尿である。
本来、言論とは社会的リスクと知的責任の上に立つものだ。しかし、チェックマークはその両方を免除する免罪符となり、権威と人気が入れ替わる。
そうして連中は、連中にとって真に危険な思想、すなわち、誰からの承認も必要としない冷徹な理性を徹底的に排除する。
自分の尿を芸術と信じる愚者たちの共同便所。それが今のSNSであり、パヨ的民主主義の成れの果てだ。
まあ、Xはその点で言えばチェックマークを購入式にしているのでまだ救いがある。だが、シャドーバンや推薦順の操作をやめない限りパヨシステムのままである。
妻のことである。
結婚して7年ほどになるが、妻は自分のことを可哀想だと思っている節がある。
例えば、女性であること。主婦であること。持病があること、生い立ちなど数え上げればきりがない。
自分のことを可哀想だと思っているやつのなにが問題かというと、可哀想はあらゆる問題の免罪符となり、結果的に特権化することである。
具体例とともにその推移を以下にしめす。便宜的に可哀想Lvを割り当ててみた。
Lv1. 感情の正当化: 私は可哀想だから、怒って、泣いて当然だよね。(感情の自己処理ができない)
Lv2.責任の回避: 私は可哀想だから、私は悪くないよね。 (責任をとれない)
Lv3.非対称性の構築: 私は可哀想だから、可哀想じゃない人は私の分までがんばるべきだよね。(責任を取れない上に、他者に責任を転嫁する)
えらい。