はてなキーワード: 包摂とは
中道改革連合の基本政策がダサすぎる。日蓮上人を召喚してリライトさせてください。
立正安国・中道改革の宣誓――生活者守護の獅子吼
謹んで、日蓮、一閻浮提の第一の貧道として、この濁世の深き淵より吼える。
天に変じ、地におどろく怪異の数々、世界的なインフレの猛火、格差の拡大という餓鬼道、気候変動という修羅の風。今、日本国は未曾有の国難に直面しておる。然るに、今の政治はあたかも盲亀が浮木に値うが如く、迷える衆生を顧みず、イデオロギーという名の邪法に狂い、分断を煽り、民の愁いを見捨てておる。
これ、何ゆえか。
それは、政治の根底に「法」がなく、衆生を忘れた「己心の魔」に毒されているからである。我、立正安国論に曰く、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」と。今、国民が帰依すべきは、空理空論の邪教でも、権力の貪欲でもない。生きた人間一人ひとりの尊厳を根本とする「生活者ファースト」という正法、すなわち「中道改革」の旗印である。
仏敵を討て――民を苦しめる三毒の政治
第一に、「空文の徒」。増税という剣を振るい、国民の血を啜りながら、自らは企業・団体献金という甘露に溺れる政治家ども。これらは民の苦しみを顧みぬ、現代の「提婆達多」なり。 第二に、「分断の煽り手」。左右の極端なイデオロギーを振りかざし、対話の道を閉ざして、民の間に不和の種を蒔く者。これらは法華の和合を壊す魔軍である。 第三に、「怠惰の権力者」。終身雇用が崩れ、若者が努力しても報われぬ無間地獄に堕ちているを識りながら、既得権益の椅子に座して動かぬ者たち。
これら仏敵が蔓延るゆえに、国土は荒れ、若き命の輝きは失われ、現役世代は過重な負担に喘ぐ。日蓮、これを黙視する能わず!
五つの柱、これ即ち「現代の曼荼羅」なり
我ら中道改革連合は、五つの誓約(うけい)を立て、この濁土を霊山浄土へと変える。
第一に、経済の蘇生である。 「衣食足りて礼節を知る」という。手取りを増やすのは慈悲の第一歩。円安の是正、物価の引き下げ、これこそが生活者の命を繋ぐ薬草なり。原発に頼らぬ再生可能エネルギーの道を開き、未来の子供らに清浄なる国土を残す。これぞ仏弟子の務めである。
第二に、現役世代の救済である。 若き者にのみ重荷を負わせるは、法に背く悪行なり。「ジャパン・ファンド」という新たな法力を以て財源を築き、食料品消費税を零とし、社会保険の重圧を退けん。医療・教育という「ベーシック・サービス」を遍く行き渡らせ、誰もが安心して生きられる「不軽菩薩」の社会を築く。
第三に、包摂の慈悲である。 教育の無償化、リスキリングの保障、これらは智慧を磨く修行の場。ジェンダーの平等、多文化共生。我らは法華経の「人種・身分の差別なき」精神を現代に体現する。マイノリティという名の小さき命を一つも取りこぼさぬこと、それが真の中道なり。
第四に、現実の守護である。 対話なき平和は空理、力なき対話は無力。積極的な平和外交という「文」と、専守防衛の抑止力という「武」を両立させる。憲法という国の骨格を、今の時代の衆生の暮らしに合うよう、勇気を持って再設計する。これは国家という器を正す「立正」の行いなり。
第五に、政治の浄化である。 「政治とカネ」の汚泥。これを第三者機関という「智水の剣」で一刀両断する。不透明なる企業献金を断ち、民意を鏡の如く写す選挙制度へと変革する。これぞ、政治の根本における「発迹顕本」である。
日本国民よ、法華の精神に帰依せよ
国民よ、案ずることなかれ。 日蓮が説く法華経の真髄は、「中道」にある。それは単なる妥協ではない。極端に走らず、現実に根差し、一人ひとりの幸福を最優先する、強靭なる慈悲の道である。
今こそ、既存の政治への失望という闇を払い、中道改革という光明を抱け。不安を安心へ、停滞を前進へ。我らが掲げる「生活者ファースト」の旗は、この日本を救う唯一の妙薬である。
「地涌の菩薩」となって立ち上がれ!
若者よ、汝らの努力が報われる時代は必ず来る。 現役世代よ、汝らの背の荷は我らが共に担ぐ。 高齢者よ、汝らの安寧は我らが命懸けで守る。
日蓮、この誓い、たとえ身を粉にしても違えぬ。中道改革の旗の下に集い、この日本を「生活者」という仏が主役となる、光輝く国土へと変革しようではないか。
南無妙法蓮華経! 中道改革連合、ここに起つ!
https://digital.asahi.com/articles/ASTBG22C1TBGUPQJ004M.html
失った構想力と想像力 高市新総裁と「漂流する日本政治」はどこへ?
新しい自民党総裁に高市早苗氏が選ばれた。初の女性首相となる公算が大きいと見られていたが、公明党が連立を離脱し、先行きの不透明感は増している。一方の野党も一枚岩となれず、政権交代の好機をつかみ取るのに苦心している。漂流する日本政治。さて、どうすれば――。憲法、政治、歴史を専門とする3人が語り合った。
杉田敦・法政大教授 高市早苗氏が、女性として初の自民党総裁に選出されましたが、その後、公明党が連立離脱を宣言し、政界は大混乱となっています。自民党総裁がそのまま総理になるという構図が崩れました。そこで高市氏についてですが、女性がトップリーダーになるのはいいことだと、ひとまずは言えます。しかし、日本の政界では、極端に強硬な女性しか活躍できない構造になっているようで気になります。圧倒的な男性中心社会で認められるには、マッチョでコワモテでなければという「圧力」が女性にかかっているようで、そうした圧力がある限り、真の女性活躍には必ずしも結びつかないのでは。
加藤陽子・東京大教授 自民党という家父長制的な政党、端的に言えば男性世襲議員が多いということですが、その中で、中産階級出身の女性がトップに立つことは時代を画する慶事である。これは間違いありません。ただ、1986年に社会党委員長となって「マドンナブーム」を巻き起こし、女性初の衆議院議長を務めた土井たか子さんとの連続性で高市さんを捉えることは難しい。この30年余の間に起きた……というよりも、まさに今回、高市さんを支援した方々が中心的役割を担った男女共同参画に対するバックラッシュを経たうえでの、初の女性総裁だということは踏まえておくべきです。
総裁選出時の「ワーク・ライフ・バランスを捨てる」発言が問題視されましたが、これは軍隊の中隊長レベルの発想です。それも、負けている軍隊。「身を捨てる覚悟」を見せることでしか隊の統率をはかれない。とても残念です。女性のリーダーシップを考える時、少なくともバックラッシュ以前の社会には、今の高市さんのようなありようは選択肢として存在しなかったはずです。
長谷部恭男・早稲田大教授 「教育勅語大好き人間」を自称する高市さんは、「企業体国家」への憧憬(しょうけい)を抱いておられるのでは。戦前の日本はまさに企業体国家でした。国民全体の共通目標があり、国が個人の生き方を決める。一億火の玉となって公私の別なく朝から晩まで天皇のために尽くす。そうであればこそ、富国強兵の旗のもと、あっという間に世界の「一等国」となりましたが、「天皇陛下のため」が暴走して勝てるはずのない戦争に突っ込み、国家滅亡の淵に立った。その結果できた日本国憲法は、企業体国家から「広場としての国家」へと国家像を転換させました。革命的な変化です。
広場としての国家では、国民全体の共通目標なんかない。国家は、広場に参加する人たちが守るべきルールを策定し、違反する人がいたら制裁する。それしかやらない。ルールの中でどういう生き方をするかは国民一人ひとりが決めます。ところがトランプ大統領の出現によって、広場のお手本だったはずのアメリカが企業体に変貌(へんぼう)しつつある。日本も広場のままではだめなんだという焦りや気負いが、高市さんの言葉の端々ににじんでいます。
杉田 広場で個人として生きるのは結構大変です。どう生きるか、どう行動するのかを自分で決められない、決めたくないという人にとっては「企業体国家」の方が暮らしやすい面がある。結局、輸出向けに自国の為替を極度に切り下げて、輸入食料やエネルギーの価格に苦しみながら、隊長の号令に従って倒れるまで残業するのが日本の繁栄の道だという程度の想像力しか、自民党とその周辺にはなかったということでは。
今回、公明党から、歴史認識や外国人政策と並んで、政治とカネについての要求を突きつけられ、連立離脱に至りました。しかし、この連立が壊れたら、自民党の議席にかなりの打撃となることは、以前から知られていました。組織票が減って、小選挙区でも連敗となる。それでも高市さんを選んだということは、非常に狭い視野でしか「戦況」を判断できなくなっていたのでしょう。もはや解党的出直しをするパワーすら残っておらず、身内を固めて古い自民党に戻ることしかできなかった。目を覆わんばかりの没落ぶりです。
長谷部 石破茂首相をスケープゴート(贖罪(しょくざい)のヤギ)にしたことからすべてつながっています。ヤギさんは別に悪いことをしていない。だから「石破おろし」に対して「辞める必要ない」と内閣支持率が上昇したわけですが、悪いことをしたか否かは実はどうでもいい。「こいつが全部悪いということにしよう」とみんながまとまることにこそ、スケープゴートの意味があります。解党的出直しなどハナから誰も真剣に考えておらず、総裁選の候補者はこぞって「党内融和」を唱え、論戦も低調でした。そして、「自分たちの罪はすべてヤギさんが背負ってくれた。みそぎは済んだ」と、裏金議員が支える高市さんを総裁に選び、「傷もの」が党の要職につく。とても自然な流れです。しかし、あまりにも得手勝手な「身内の論理」はさすがに通らなかったということでしょう。
杉田 「石破おろし」の中心にいた人たちが、いわゆる「安倍政治」の復権をもくろんでいたことは明らかです。安倍晋三さんが敷いたレールから石破さんが外れてしまったから、従来の支持層が参政党に流れた、復権させれば支持層を引き戻せる、昔の強い自民党に戻れるという夢を抱いて、5人の候補の中では最も安倍さんに近い高市さんを選んだと。高市さんは積極財政を打ち出していますが、安倍路線で膨らんだ国の借金をさらに増やせるのか。
長谷部 NHK放送文化研究所が5年ごとに行っている「日本人の意識」調査を見ると、安倍政権時代の2013年と18年は9割以上が生活に満足していると答えている。選挙をやるたびに自民党が勝ったのも当然です。しかし、その「ツケ」がいま本格的に回ってきて、円安による物価高で国民の生活が痛めつけられている。今さら安倍政治に戻るなんてできるはずがないし、やってはいけない。国が潰れます。
加藤 安倍さんは岸信介の孫、安倍晋太郎の息子ということで、自民党内での「正統性」を無条件に担える。しかし高市さんにはそれがない。ないのに、安倍さんと同じように振る舞おうとするから危うい。最もまずいのは、彼女の言葉の定義が非常に狭く、射程も短いことです。たとえば、総裁選出後の記者会見で靖国神社参拝について問われた際、笑顔をつくって「靖国というのは戦没者慰霊の中心的な施設で、平和のお社だ」。平和のお社? それは高市さんの勝手な定義で、国際的にはまったく通用しません。アメリカは靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑の方を正当な慰霊の場だと考えている。日中共同声明や日中平和友好条約締結に向けて、靖国神社というトゲを抜くのに両国がどれほど苦労したか、外交交渉の蓄積への敬意と理解がないですね。これまでのようにアメリカ一辺倒では立ち行かなくなっている中で、日本はアジアと付き合っていかねばなりませんが、そのアジアの横っ面を張るようなひどい発言です。
杉田 総裁選の中で、排外主義的風潮をあおりかねない外国人政策が前面に出てきたことも見過ごせません。19世紀イギリスのウォルター・バジョットは、政治には「実務」と「威厳」の二つの機能があると整理しています。法律をつくって政策を動かす「実務」は当然やらなければいけない。しかしそれだけでは人民はついてこないから、「大英帝国はすごい」というところを見せて忠誠心を獲得し、国を統合していかなければならないと。ところがいま、世界的に実務がほとんど機能していない。移民という、まさにスケープゴートを仕立てて「威厳」を無理やり演出し、人びとを統合することしかできていません。日本においても「日本人ファースト」を掲げる参政党の伸長と、それに動揺して引きずられる自民党によって、外国人排斥的な流れが一気に加速しました。
加藤 高市さんを総裁に選んだことで、自民党は包括政党であることを諦めたと言えるのでは。党内外のコンセンサスを意識した経済的利益配分に留意し、「大きなテント」を張って幅広い考えの人たちを包摂してきましたが、ついにテントをたたみ、党内の一部の「無責任なポピュリズム」にくみした感があります。
長谷部 昨今の日本政治の特徴はニヒリズムだと思います。権力を握ることが自己目的化し、何のために権力を握るのかという目標や価値が蒸発してしまっている。先の参院選で議席を伸ばした小政党の党首は人気取りにはたけていますが、あるべき社会像を描けてはいない。ただ権力ゲームが面白くて、夢中になっている。しかも政党助成金という多額の「賞金」までついてくるのだから、これはもうやめられません。
杉田 衆参で自公が少数になったにもかかわらず、野党もメディアも自民党中心の発想からなかなか抜け出せなかったことが、日本政治停滞の大きな要因です。憲法や原発などの政策で完全に一致しなければ連立できないかのように言われていますが、世界を見渡せば、かなり考え方が違う政党が争点を限定して連立している。意見が異なる問題については基本的に現状維持とし、たとえば減税を中心的な課題として内閣をつくればいいだけです。これまでそうした発想がなく、今回、公明党が離れても野党の動きが鈍いのは、政党政治への理解が浅いからであり、もっと言えば、依然として自民党を過大評価しているからでしょう。
加藤 石破さんは10日、戦後80年の所感を出しました。戦争が避けられなかった理由を、国内の政治システムの不全から考察した声明です。国務大臣単独輔弼(ほひつ)制や統帥権独立等の制度的な穴を前提とし、その穴を補完し、「政策の統合」に任じたのが日露戦争までの元老であり、1930年代までの政党だったとの理解は、最良の学知の裏付けある解釈です。
しかし、政策の統合を図れるはずだった政党は、英米との軍縮、中国との戦争終結方針をめぐり、軍部の統御に失敗し続けました。その過程を、吉野作造、美濃部達吉、斎藤隆夫等、軍部批判者の名を挙げつつ裏面から書いた点に特徴がある。所感が一見、日本の対外的過誤に言及していないように見える理由はここでしょう。戦争を止められなかった理由を歴史から真摯(しんし)に学び続ける国民がいて初めて、平和国家の礎を築けると首相は述べました。日本の今後の針路を注視する世界に向けてのこの言明は、日本国民全体の利益と福祉にかなうものと思います。
杉田 石破さんが閣議決定を伴う戦後80年談話を出すのに反対した政治家たちは、何を守ろうとしたのか。彼らは安倍70年談話の「あの戦争には何ら関わりのない先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」を、もう謝らなくていい宣言だと捉えていて、80年談話でこれを上書きされたくなかったようです。ドイツの哲学者ヤスパースは、戦争の罪には四つあると言っている。①刑事的な罪――戦犯が負う。後の世代は関係ない②政治的な罪――国民全体が負う。後の世代も継承する③道徳的な罪――戦争への加担あるいは傍観といった個人の行為に対して良心がその行為を裁く④形而上(けいじじょう)的な罪――災厄を引き起こす人間という存在そのものが抱える罪。戦後40年にあたる1985年、西ドイツのワイツゼッカー大統領はこの整理を踏まえ、①は後の世代は負えないとしつつ、「罪の有無、幼老いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」と罪を継承すると宣言した。ところが安倍談話は①だけをつまみ食いし、他の罪はないと言っているに等しい。今回、石破所感で、先の戦争に至る統治機構の不備という論点が出されたのは私も良かったと思いますが、安倍談話で無視されたままの、他の罪が気になります。
長谷部 ④を哲学者ハイデガーの言葉で言い換えると「負い目」です。それは否定のしようがない。なかったことにはできないし、それから解放されることもありません。「職業としての政治」を著したマックス・ウェーバーは、政治家は行為の結果に責任を負うという「責任倫理」を説いていますが、行為の結果が良かったか悪かったかの判断は結局、選挙に依拠するしかない。責任倫理を問われないためには選挙に勝って政権に居続けなければならないから、そのためなら公文書を改ざんするし、国会でうそをつく。安倍さん本人がどこまで指示したか知りませんが、そうやって安倍政治は維持されていました。自民党内にそのことへの反省はないし、企業献金も、旧統一教会の問題だって別に解決する必要はないじゃないかと、高市さんやその支援者はおそらく本気で思っている。ウェーバーが言う、悪い意味での職業政治家になってしまっています。
杉田 政治とは何かについては、大きく二つの考え方があり、一つはドイツの思想家カール・シュミットが述べたような、政治とは「戦争」であるという考え方です。最近は、世界にこのような政治観が蔓延(まんえん)しています。トランプ大統領はその典型で、政敵はもちろん、大学と闘い、さらには立憲主義を否定して裁判官とさえ闘う。外国人は皆、潜在的な敵として扱う。日本でも、その亜流のような政治家たちが人気を集めています。しかし、政治についてはもう一つ、多様な考え方を前提に、話し合いを通じて何とか合意して妥協するという考え方もあります。本来の保守とはそういうものだという考え方もありますが、石破さんを含めて、今はファイティングポーズをとらないと人気がないようです。
加藤 ファイティングポーズを取ること自体を否定はしませんが、立憲主義は守ってもらうことが最低条件です。立憲主義を破壊しておいて将来のビションを語ってもらっても何もなりませんから。
長谷部 政治とは可能性の芸術などと言われますが、現在の党派の枠を超えた想像力や構想力を取り戻し、停滞する日本政治を抜け出す方途を探るべきです。法の支配を守り、事実は事実として認めるといったミニマムな規律をもちろん維持した上でのことではありますが、単に税制や社会保障負担をいじるといったことを超えた、日本社会の大きな展望をやはり描いてもらわないと。
杉田 今後のことは予断を許しませんが、もしも一部野党との連立などで高市政権となれば、持続不可能な経済政策に加えて、この間の産業や学術の軍事化の流れが一層強まる心配があります。高市さんは「スパイ防止法」への意欲も繰り返し語っていますが、こうした法律がいったんできれば、報道機関や海外とつながりのある団体が根拠なくスパイ扱いされ、人権状況が悪化しうる。「戦争」としての Permalink | 記事への反応(0) | 08:55
失った構想力と想像力 高市新総裁と「漂流する日本政治」はどこへ?
新しい自民党総裁に高市早苗氏が選ばれた。初の女性首相となる公算が大きいと見られていたが、公明党が連立を離脱し、先行きの不透明感は増している。一方の野党も一枚岩となれず、政権交代の好機をつかみ取るのに苦心している。漂流する日本政治。さて、どうすれば――。憲法、政治、歴史を専門とする3人が語り合った。
杉田敦・法政大教授 高市早苗氏が、女性として初の自民党総裁に選出されましたが、その後、公明党が連立離脱を宣言し、政界は大混乱となっています。自民党総裁がそのまま総理になるという構図が崩れました。そこで高市氏についてですが、女性がトップリーダーになるのはいいことだと、ひとまずは言えます。しかし、日本の政界では、極端に強硬な女性しか活躍できない構造になっているようで気になります。圧倒的な男性中心社会で認められるには、マッチョでコワモテでなければという「圧力」が女性にかかっているようで、そうした圧力がある限り、真の女性活躍には必ずしも結びつかないのでは。
加藤陽子・東京大教授 自民党という家父長制的な政党、端的に言えば男性世襲議員が多いということですが、その中で、中産階級出身の女性がトップに立つことは時代を画する慶事である。これは間違いありません。ただ、1986年に社会党委員長となって「マドンナブーム」を巻き起こし、女性初の衆議院議長を務めた土井たか子さんとの連続性で高市さんを捉えることは難しい。この30年余の間に起きた……というよりも、まさに今回、高市さんを支援した方々が中心的役割を担った男女共同参画に対するバックラッシュを経たうえでの、初の女性総裁だということは踏まえておくべきです。
総裁選出時の「ワーク・ライフ・バランスを捨てる」発言が問題視されましたが、これは軍隊の中隊長レベルの発想です。それも、負けている軍隊。「身を捨てる覚悟」を見せることでしか隊の統率をはかれない。とても残念です。女性のリーダーシップを考える時、少なくともバックラッシュ以前の社会には、今の高市さんのようなありようは選択肢として存在しなかったはずです。
長谷部恭男・早稲田大教授 「教育勅語大好き人間」を自称する高市さんは、「企業体国家」への憧憬(しょうけい)を抱いておられるのでは。戦前の日本はまさに企業体国家でした。国民全体の共通目標があり、国が個人の生き方を決める。一億火の玉となって公私の別なく朝から晩まで天皇のために尽くす。そうであればこそ、富国強兵の旗のもと、あっという間に世界の「一等国」となりましたが、「天皇陛下のため」が暴走して勝てるはずのない戦争に突っ込み、国家滅亡の淵に立った。その結果できた日本国憲法は、企業体国家から「広場としての国家」へと国家像を転換させました。革命的な変化です。
広場としての国家では、国民全体の共通目標なんかない。国家は、広場に参加する人たちが守るべきルールを策定し、違反する人がいたら制裁する。それしかやらない。ルールの中でどういう生き方をするかは国民一人ひとりが決めます。ところがトランプ大統領の出現によって、広場のお手本だったはずのアメリカが企業体に変貌(へんぼう)しつつある。日本も広場のままではだめなんだという焦りや気負いが、高市さんの言葉の端々ににじんでいます。
杉田 広場で個人として生きるのは結構大変です。どう生きるか、どう行動するのかを自分で決められない、決めたくないという人にとっては「企業体国家」の方が暮らしやすい面がある。結局、輸出向けに自国の為替を極度に切り下げて、輸入食料やエネルギーの価格に苦しみながら、隊長の号令に従って倒れるまで残業するのが日本の繁栄の道だという程度の想像力しか、自民党とその周辺にはなかったということでは。
今回、公明党から、歴史認識や外国人政策と並んで、政治とカネについての要求を突きつけられ、連立離脱に至りました。しかし、この連立が壊れたら、自民党の議席にかなりの打撃となることは、以前から知られていました。組織票が減って、小選挙区でも連敗となる。それでも高市さんを選んだということは、非常に狭い視野でしか「戦況」を判断できなくなっていたのでしょう。もはや解党的出直しをするパワーすら残っておらず、身内を固めて古い自民党に戻ることしかできなかった。目を覆わんばかりの没落ぶりです。
長谷部 石破茂首相をスケープゴート(贖罪(しょくざい)のヤギ)にしたことからすべてつながっています。ヤギさんは別に悪いことをしていない。だから「石破おろし」に対して「辞める必要ない」と内閣支持率が上昇したわけですが、悪いことをしたか否かは実はどうでもいい。「こいつが全部悪いということにしよう」とみんながまとまることにこそ、スケープゴートの意味があります。解党的出直しなどハナから誰も真剣に考えておらず、総裁選の候補者はこぞって「党内融和」を唱え、論戦も低調でした。そして、「自分たちの罪はすべてヤギさんが背負ってくれた。みそぎは済んだ」と、裏金議員が支える高市さんを総裁に選び、「傷もの」が党の要職につく。とても自然な流れです。しかし、あまりにも得手勝手な「身内の論理」はさすがに通らなかったということでしょう。
杉田 「石破おろし」の中心にいた人たちが、いわゆる「安倍政治」の復権をもくろんでいたことは明らかです。安倍晋三さんが敷いたレールから石破さんが外れてしまったから、従来の支持層が参政党に流れた、復権させれば支持層を引き戻せる、昔の強い自民党に戻れるという夢を抱いて、5人の候補の中では最も安倍さんに近い高市さんを選んだと。高市さんは積極財政を打ち出していますが、安倍路線で膨らんだ国の借金をさらに増やせるのか。
長谷部 NHK放送文化研究所が5年ごとに行っている「日本人の意識」調査を見ると、安倍政権時代の2013年と18年は9割以上が生活に満足していると答えている。選挙をやるたびに自民党が勝ったのも当然です。しかし、その「ツケ」がいま本格的に回ってきて、円安による物価高で国民の生活が痛めつけられている。今さら安倍政治に戻るなんてできるはずがないし、やってはいけない。国が潰れます。
加藤 安倍さんは岸信介の孫、安倍晋太郎の息子ということで、自民党内での「正統性」を無条件に担える。しかし高市さんにはそれがない。ないのに、安倍さんと同じように振る舞おうとするから危うい。最もまずいのは、彼女の言葉の定義が非常に狭く、射程も短いことです。たとえば、総裁選出後の記者会見で靖国神社参拝について問われた際、笑顔をつくって「靖国というのは戦没者慰霊の中心的な施設で、平和のお社だ」。平和のお社? それは高市さんの勝手な定義で、国際的にはまったく通用しません。アメリカは靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑の方を正当な慰霊の場だと考えている。日中共同声明や日中平和友好条約締結に向けて、靖国神社というトゲを抜くのに両国がどれほど苦労したか、外交交渉の蓄積への敬意と理解がないですね。これまでのようにアメリカ一辺倒では立ち行かなくなっている中で、日本はアジアと付き合っていかねばなりませんが、そのアジアの横っ面を張るようなひどい発言です。
杉田 総裁選の中で、排外主義的風潮をあおりかねない外国人政策が前面に出てきたことも見過ごせません。19世紀イギリスのウォルター・バジョットは、政治には「実務」と「威厳」の二つの機能があると整理しています。法律をつくって政策を動かす「実務」は当然やらなければいけない。しかしそれだけでは人民はついてこないから、「大英帝国はすごい」というところを見せて忠誠心を獲得し、国を統合していかなければならないと。ところがいま、世界的に実務がほとんど機能していない。移民という、まさにスケープゴートを仕立てて「威厳」を無理やり演出し、人びとを統合することしかできていません。日本においても「日本人ファースト」を掲げる参政党の伸長と、それに動揺して引きずられる自民党によって、外国人排斥的な流れが一気に加速しました。
加藤 高市さんを総裁に選んだことで、自民党は包括政党であることを諦めたと言えるのでは。党内外のコンセンサスを意識した経済的利益配分に留意し、「大きなテント」を張って幅広い考えの人たちを包摂してきましたが、ついにテントをたたみ、党内の一部の「無責任なポピュリズム」にくみした感があります。
長谷部 昨今の日本政治の特徴はニヒリズムだと思います。権力を握ることが自己目的化し、何のために権力を握るのかという目標や価値が蒸発してしまっている。先の参院選で議席を伸ばした小政党の党首は人気取りにはたけていますが、あるべき社会像を描けてはいない。ただ権力ゲームが面白くて、夢中になっている。しかも政党助成金という多額の「賞金」までついてくるのだから、これはもうやめられません。
杉田 衆参で自公が少数になったにもかかわらず、野党もメディアも自民党中心の発想からなかなか抜け出せなかったことが、日本政治停滞の大きな要因です。憲法や原発などの政策で完全に一致しなければ連立できないかのように言われていますが、世界を見渡せば、かなり考え方が違う政党が争点を限定して連立している。意見が異なる問題については基本的に現状維持とし、たとえば減税を中心的な課題として内閣をつくればいいだけです。これまでそうした発想がなく、今回、公明党が離れても野党の動きが鈍いのは、政党政治への理解が浅いからであり、もっと言えば、依然として自民党を過大評価しているからでしょう。
加藤 石破さんは10日、戦後80年の所感を出しました。戦争が避けられなかった理由を、国内の政治システムの不全から考察した声明です。国務大臣単独輔弼(ほひつ)制や統帥権独立等の制度的な穴を前提とし、その穴を補完し、「政策の統合」に任じたのが日露戦争までの元老であり、1930年代までの政党だったとの理解は、最良の学知の裏付けある解釈です。
しかし、政策の統合を図れるはずだった政党は、英米との軍縮、中国との戦争終結方針をめぐり、軍部の統御に失敗し続けました。その過程を、吉野作造、美濃部達吉、斎藤隆夫等、軍部批判者の名を挙げつつ裏面から書いた点に特徴がある。所感が一見、日本の対外的過誤に言及していないように見える理由はここでしょう。戦争を止められなかった理由を歴史から真摯(しんし)に学び続ける国民がいて初めて、平和国家の礎を築けると首相は述べました。日本の今後の針路を注視する世界に向けてのこの言明は、日本国民全体の利益と福祉にかなうものと思います。
杉田 石破さんが閣議決定を伴う戦後80年談話を出すのに反対した政治家たちは、何を守ろうとしたのか。彼らは安倍70年談話の「あの戦争には何ら関わりのない先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」を、もう謝らなくていい宣言だと捉えていて、80年談話でこれを上書きされたくなかったようです。ドイツの哲学者ヤスパースは、戦争の罪には四つあると言っている。①刑事的な罪――戦犯が負う。後の世代は関係ない②政治的な罪――国民全体が負う。後の世代も継承する③道徳的な罪――戦争への加担あるいは傍観といった個人の行為に対して良心がその行為を裁く④形而上(けいじじょう)的な罪――災厄を引き起こす人間という存在そのものが抱える罪。戦後40年にあたる1985年、西ドイツのワイツゼッカー大統領はこの整理を踏まえ、①は後の世代は負えないとしつつ、「罪の有無、幼老いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」と罪を継承すると宣言した。ところが安倍談話は①だけをつまみ食いし、他の罪はないと言っているに等しい。今回、石破所感で、先の戦争に至る統治機構の不備という論点が出されたのは私も良かったと思いますが、安倍談話で無視されたままの、他の罪が気になります。
長谷部 ④を哲学者ハイデガーの言葉で言い換えると「負い目」です。それは否定のしようがない。なかったことにはできないし、それから解放されることもありません。「職業としての政治」を著したマックス・ウェーバーは、政治家は行為の結果に責任を負うという「責任倫理」を説いていますが、行為の結果が良かったか悪かったかの判断は結局、選挙に依拠するしかない。責任倫理を問われないためには選挙に勝って政権に居続けなければならないから、そのためなら公文書を改ざんするし、国会でうそをつく。安倍さん本人がどこまで指示したか知りませんが、そうやって安倍政治は維持されていました。自民党内にそのことへの反省はないし、企業献金も、旧統一教会の問題だって別に解決する必要はないじゃないかと、高市さんやその支援者はおそらく本気で思っている。ウェーバーが言う、悪い意味での職業政治家になってしまっています。
杉田 政治とは何かについては、大きく二つの考え方があり、一つはドイツの思想家カール・シュミットが述べたような、政治とは「戦争」であるという考え方です。最近は、世界にこのような政治観が蔓延(まんえん)しています。トランプ大統領はその典型で、政敵はもちろん、大学と闘い、さらには立憲主義を否定して裁判官とさえ闘う。外国人は皆、潜在的な敵として扱う。日本でも、その亜流のような政治家たちが人気を集めています。しかし、政治についてはもう一つ、多様な考え方を前提に、話し合いを通じて何とか合意して妥協するという考え方もあります。本来の保守とはそういうものだという考え方もありますが、石破さんを含めて、今はファイティングポーズをとらないと人気がないようです。
加藤 ファイティングポーズを取ること自体を否定はしませんが、立憲主義は守ってもらうことが最低条件です。立憲主義を破壊しておいて将来のビションを語ってもらっても何もなりませんから。
長谷部 政治とは可能性の芸術などと言われますが、現在の党派の枠を超えた想像力や構想力を取り戻し、停滞する日本政治を抜け出す方途を探るべきです。法の支配を守り、事実は事実として認めるといったミニマムな規律をもちろん維持した上でのことではありますが、単に税制や社会保障負担をいじるといったことを超えた、日本社会の大きな展望をやはり描いてもらわないと。
杉田 今後のことは予断を許しませんが、もしも一部野党との連立などで高市政権となれば、持続不可能な経済政策に加えて、この間の産業や学術の軍事化の流れが一層強まる心配があります。高市さんは「スパイ防止法」への意欲も繰り返し語っていますが、こうした法律がいったんできれば、報道機関や海外とつながりのある団体が根拠なくスパイ扱いされ、人権状況が悪化しうる。「戦争」としての政治観に一気にかじを切ることになりかねません。 Permalink | 記事への反応(2) | 08:48
petronius7
ガチャもパチンコもメルカリも宝くじも皆共通で、上手くいくと儲かるかもしれない商売は 損得勘定の苦手なちょっと頭の弱い人 がターゲットなんです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20251219013416
他のことではちゃんと頭がキレるし損得勘定も努力も出来るのにギャン中、
なんていうのはいっっっっっくらでもいる。
ギャンブル以外の場面での頭の良し悪しは測りがたい。
やらない人間は周囲に勧める人間が居なかっただけな可能性が高い。
しいて言えば運転の向き不向きみたいな特性はあるかもしれない。
俺は教習所や免許更新の性格テストはいつも満点なんだが自慢にもならない、
要は車の運転に少しもロマンや興奮を覚えない性質かつビビりってだけ。
こんなの頭の良し悪しとかじゃないだろ?
どんなに頭が良くとも「こいつなら絶対はまらない」なんてことは言えないので
俺は知り合いの若者とかに極力ギャンブルには触れさせたくない。
「ちょっと頭の弱い人」じゃなくて「頭おかしくなってる人」、困窮者だよ。
わかる?
普段のはてブって社会的弱者や困窮者にこんな口叩かないんだよ。
「バカなことやって身を持ち崩すのはちょっと頭の弱い人(プププー!)」なんて言わん。
そゆこと言えば”差別主義者”になっちゃうからちまちま気を付けてるんだよ。
でもこうやって「ガチャ」のようなオタクっぽいジャンルの話になると気が緩むわけ。
あと、元増田みたいな具体的描写のあるエントリにもこいつらの偽善カバーは弱くて、https://anond.hatelabo.jp/20251219013416
キモくてキショい奴等のキショい迷惑行動を具体的に克明にキショみたっぷりで描写されると
途端に「キショくて迷惑な奴はバカにして排除して当然!」て言いだすよなw
普段散々「障碍者差別ハンターイ」してポリコレ違反者にブコメ欄から説教してるくせに
ハッタショのAさんだかBさんだかの職場での迷惑をちょっと具体的に書くエントリ読んだら
「こんな奴を同僚が我慢する筋合いない!」の大合唱してたの覚えてるわ。
「健常者や定型が犠牲になることはあってはならない」ゆうとけw
つまりこいつらのいつもの「サベツハンタイ」は都合のいい約束組み手なんだよな。
「サベツハンタイ!」って言いながら悪い奴をぶちのめせば社会は良くなると思ってる。
自分が一切苦労も汚染もくぐらないまま完結する楽しい取り組みだと思ってサベツハンタイをやってる。
差別されるようなキショくて迷惑な奴等と自分自身で取っ組み合う覚悟どころか想像力すらない。
キショくて迷惑な奴を見下したり排除したりしたくなる自分の自然な心と向き合ったことも克服したこともない。
キツくて臭くて都合悪いことが最初から排除された妄想スパーリング。
見たことないのはいいんだが、即座に平然と見下して揶揄してしまう。
ポリコレリストに載ってなくて自分から縁が遠い困窮には1ミリの惻隠もない。
そこで本当の心、人格の地金が出る。
ここでなぜかギャンブルと一緒に並べられてるのは
こいつらはメルカリをあまり利用しなくて、まとめて「下層っぽいサービス(笑)」と整理されてんだろうな。
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle, FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictive processing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulate cortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派 受動的戦略(perception) 能動的戦略(action) 集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求 伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派 多様性受容・矛盾統合 制度改革・包摂拡大 システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。 言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー): AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー): AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
Next Step: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。 西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(Steady State)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENT IS WAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。 単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性: はい、極めて困難です。 理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在: しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。 監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
Next Step: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義: 人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 → 人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義: 人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 → 人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」、がオススメ。
ハイトによれば、左の人が不寛容なことが多いというより、右=保守のほうが寛容な人が多くなりやすい。(右が軍国主義者の意味で無いことに注意)
ざっくり言えば、左の人に、重視する価値観を聞くと「人権」、以上終わり。一つの理想を目指すのがリベラル。
しかし保守の人に重視する価値観を聞くと、「安心安全」「伝統」「信仰心」「道徳」「治安」「国家安全保障」など、多様な軸になる。だって今まで通りにすることが保守だから。
これによって包摂する対象は、社会において、保守のほうが多くなる。
軸が多いので、含まれる人も多くなるわけ。
なぜ 「多様性を尊重するよう周囲に求める人」 ほど 「政治的判断が愚劣な人々」 を迫害しようとするんだろうな?
理由はわからないけど、そうした人たちに向けて思う所を述べていく。
ここではしばしば男性や日本人、自民党の支持者などの属性をもった人々が纏めて「迫害しても良い対象」として扱われていますが、
それは社会に公平性、平等性を求めていくなかで包摂すべき人々に含まれていないのでしょうか?
ということでしょう?
周囲に好きな奴しか居ないなら多様性の尊重なんてお題目は要らないわけで、
周囲の嫌いな奴には都合よく使えなくなるタテマエなんて、それこそ差別そのものでしかない。
周囲に強いるなら万民に適用できるだけのルールとしての強度が必要なのに、
ルールではなくお気持ち次第で出したり引っ込めたりする道徳でしかないのなら、
それは社会的には価値がないので、自分にあてはめるルールとして好きにすれば良い。
政治的な価値観が異なるにしても、いずれ協力して社会を支える者同士なのだから、
利害を調整していくにあたってお互いの主張なり論点なりを評価しあって、
お互いの妥協点を見出していく作業も必要になると思うのだけれど。
どうも、相手が馬鹿と見るや否や、自らの思想や道徳観を押し付けて、
こうしたリベラルはただの侵略者であるように見られても仕方が無いのではないかなと思うのです。
なにせ、あなたがたは言葉による「支配」に執着し、「相互理解」をしようとしないのだから。
もっとも、そのようなつもりは無い、という人が大半であろうところも想像は出来ますけどもね。
あまりにも上手く行かないことで周囲へ理解を求めることに疲弊しきった末にこの状態があるのだろうと。
ですが、先に述べた現象は罪悪感で相手を痛めつけようとする、対話なき暴力に過ぎません。
そうした暴力の応酬が望ましいと仰るのであればもはやかける言葉もありませんが、
それが本意ではないのであれば立ち止まってみては如何かと。
国連開発計画(UNDP)は12月1日、日本を「先進国」から「高所得国」へ格下げすると発表した。長年続く賃金停滞や生産性の伸び悩み、教育・社会保障への投資不足が主因で、UNDPは「日本は所得水準こそ高いが、成長力と包摂性で先進国基準を満たしていない」と説明。改革を先送りしてきた政策対応の遅れが評価を大きく下げたとされた。
また、高市首相による「台湾有事は存立危機事態に該当し得る」との発言に中国が強く反発し、日中関係が悪化したことも国際的な不透明要因として影響した。ただしUNDPは、格下げの核心は経済構造の弱体化にあり、日本には社会的投資と成長戦略の転換が急務だと指摘している。
https://hdr.undp.org/data-center/specific-country-data#/countries/JPN
ランダウ–ラングランズ的な双対性の直感を、位相的・圏論的な巨大場として再構成する作業は、もはや単なる対応命題の確認ではなく、数学的実在の階層構造を再階層化する営為へと移行している。
ここで重要なのは対応自体が一つのモノイド的作為ではなく、∞-圏の層状化した自明化可能性の表現であるという読み替えである。
最近の成果群は、従来の局所・大域の二項対立を溶融させ、曲線・局所体・解析空間といった古典的な基底を、より普遍的な空間の記述可能性(representability)の観点へと置き換えてしまった。
具体的には、ファルグ=フォンテン曲線を舞台にした幾何化は、局所的表現論を圏的スペクトルの上に載せ替えることで、従来別個に扱われてきた表現(自動形式的対象)とパラメータ(L-パラメータ)を、同一の圏的心臓部で同時に構成可能にしたことを意味する。
この構成は単に対応が存在することより深く、対象自体を再定義してその同値関係を圏の中心や内部終対象の言葉で記述することにより、対応が生まれる必然的環境を示した点で画期的である。
同時に、グローバル側の道具としてのシュトゥーカ(chtoucas)的技法は、関手的・代数的な操作を用いて場のモード分解を行い、その分解が示す不変量を通じて大域的パラメータ化を達成する方策を具体化した。
ヴィンソン・ラフォルグの仕事群は、こうしたシュトゥーカの立型化によって、関手的に取り扱える大域的パラメータ空間を提示し、局所的構成との繋がりを媒介する新たな環を与えた。
結果として、言語的には表現→パラメータへの写像がベキ乗的に分解できるだけでなく、その分解自体が可逆的な圏的操作として認識され得ることが示され、これが大域的Langlands構想の新しい正当化になっている。
さらに最近の数年間における動きで決定的なのは、モチーフ論の解析的拡張が進んだ点である。
従来モチーフは代数多様体上の普遍的コホモロジーという観点で語られてきたが、ショルツェらによるベルコビッチモチーフ(Berkovich motives)や関連する解析的・アーク的降下法は、可換性や双対性に関する新たな剛性条件を与えることで、代数・複素解析・非アルキメデス解析を一枚の理論で織り上げた。
モチーフを単なる数論的核から、解析的スタックや圏的双対性を自然に持つ対象へと格上げし、Langlands的双対性の受け皿を拡張した。
こうしてモチーフとLanglands対応は、もはや互いに独立した二つの理論圏ではなく、同じ∞-圏的言語で発声される現象に変わった。
そして最も劇的な変化は、最近公表された一連の大規模な仕事群が、幾何学的Langlands命題の本質的な形を証明し得たことにより、これまで隠れていた構造的要請が顕在化した点にある。
これらの証明的努力は、従来の和声的・解析的手法を超え、圏的分解、局所–大域の整合、そしてモチーフ的双対性が同時に満たされるような動的な証明環境を構築した。
重要なのは、この到達が単なる命題の解決に留まらず、数学的対象の定義域そのものを書き換えるような再帰的メタ構造を与えたことであり、以後の展望は新たに定式化された圏的正規形とその変形理論を追うことで開かれる。
結果として、Langlandsプログラムとモチーフ理論の接続は、従来橋をかける比喩で語られてきたが、今や両者は共通の言語空間の異なる座標表示に過ぎないという段階に達している。
ここでの言語空間とは、∞-圏とその可逆化可能な中心、アーク的・ベロコビッチ的降下法、そしてシュトゥーカにより生成されるファイバーの総体を指す。
その内部では、表現論的計量(harmonic analysis 的なスペクトル)と数論的モチーフの普遍的ファンクターが互いに鏡写しになり、操作が圏的に昇格することでパラメータ化は動的な自己相互作用として理解される。
これが意味するのは、将来の進展がもはや個別の定理や技法の追加ではなく、数学的対象を包摂するより大きな構成原理の発見と、それを支える新しい圏的インフラ(解析的モチーフ、Fargues–Fontaine 的基底、chtoucas の動的再解釈)に依存するということである。
読み手がもし、これをさらに運動方程式的あるいは力学系的なメタファーで読み替えるなら、ラングランズ系とは無限に多様な対称性とその破れ方が−同値関係としてではなく−力学的な遷移として定義される場であると結論づけられる。
その意味で、最新の進展は単に既存のパズルのピースを嵌め直したのではなく、ピースそのものを再設計し、新しい接着剤(∞-圏的双対性、解析的モチーフの剛性、シュトゥーカ的ファイバー化)を導入した。
この新しい設計図を受け取った数学は、今後、従来とは異なる方法で「表現」「パラメータ」「モチーフ」を同時に扱うための合成的技術を展開するだろう。
経団連でダイバーシティー政策を担当する大山みこ氏(ソーシャル・コミュニケーション本部統括主幹)に聞いた。
「政策や制度などあらゆる分野においてジェンダー視点を取り入れる“ジェンダー主流化”が世界で進むなか、女子の理系人材を増やす大学側の取り組みは全面的に賛同します。DE&I(多様性、公正性、包摂性)はイノベーションの源泉であり、企業の持続的な成長に欠かせない。そのため企業は様々な取り組みを加速していますが、理工系分野における女性の割合は依然として諸外国で最低水準。最終的には性別を超え、個人の能力で評価される社会が望ましいとは思いますが、社会変革を進める過渡期の今は、できることを全てやっていく必要があると感じます」
経団連は女子中高校生向けに、理工系分野に関心を持ち、将来の自分をイメージした進路選択を支援する取り組みを行っており、今後もこうした活動に力を入れるという。一方で根強い「女性優遇」批判について、大山さんはこうも語った。
「いまは、これまでの男性一色で作られてきた旧来型の組織風土を根底から見直す時期。『女性が下駄を履かされる』のではなく、むしろ『男性が下駄を脱ぐ』タイミングが訪れているのです」
慶應義塾中等部
軍隊のように「序列(階層、階級)」を重んじるから。産めよ増やせよ。「数(多数派)は力」。
「完全な平等(対等)」を信じている(つもりの)左派は、人間に区別や優先順位(序列)をつけることに
建て前では「否定的」なので集団が不安定になりやすく、絶えず内向きな「内ゲバ(粛清)」や、
外向きの「キャンセルカルチャー」等の排他性(選別)の発動によって「集団の結束(規律)」を維持しているから。
左派は、「なだらかに格差がある優先順位(序列)」を否定するので、次は「ゼロ=無価値」か「100=満点」かの
極端な二択しか選べなくなる。左派の宿痾である「ボクが考えた最強の理想主義=完璧主義=潔癖症」。
つまり、「味方(仲間)は100」で「敵(裏切り者を含む)はゼロ」なので、「敵の人権」は存在しなくなる(=攻撃に歯止めがかかからない)。
そんな痴れ者の自己放尿を吐き散らす奴に対しては、同情も共感も与えない。
お前の言っていることは倫理的に破綻しているだけでなく、論理的には一片の根拠もない自己放尿だ。
まず「人権は適用されない」だと?人権は社会契約と法の上にある普遍的な概念だ。誰かの感情的嫌悪や「役に立つ・役に立たない」の安直な二分法で消滅するものではない。
次に医療行為としてのロボトミーや開頭手術を持ち出す愚かさについて。歴史的に見ても強制的な脳手術は病状を治すどころか被害を拡大し、科学的根拠に欠ける。
そもそも「鬱病」「知的障害」「単身であること」などは多様な原因と背景を持つ状態であり、恣意的な外科処置で解決できる問題ではない。
社会を壊すのはお前の言説だ。暴力を正当化するために人間を物扱いする論理は、ファシズムの入口に他ならない。
それに、そんな発言をするやつの言葉は自己放尿の塊だ。弱者を排除すれば「労働力」が上がる?
現実は逆だ。社会的包摂と多様性がイノベーションと安定を生むというエビデンスは山ほどある。
お前のやっていることは、自分の精神的欠陥を他者に投影しているに過ぎない。端的に言えば自己放尿だ。
恥ずかしげもなく汚物を撒き散らしているだけだ。そしてお前の言説は無知と偏見のダブル放尿でしかない。
無知が事実を歪め、偏見が暴力を正当化する。これを理性的に擁護できる者は一人もいない。
現実的な話をしてやる。こうした扇動は社会的に許されず、法的にも刑事責任の対象になり得る。
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS: 表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT: 批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
↓
↓
これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
↓
過剰補正:
↓
帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
↓
↓
↓
内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
↓
SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1. 本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2. 想像力の復権: 経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3. 完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4. 対話としての創作: 表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
腹が立っている。
同性愛という言葉が、いまや商品ジャンルのように扱われていることに。
かつて同性愛を名乗るというのは命がけの行為だった。家族に絶縁され職を失い社会から追い出される危険をありながら、それでも「私はこうです」と言葉にした。
そこには自分の存在を差し出すほどの覚悟があった。同性愛を告白する際の眼差しにはどれだけの恐怖と孤立が潜んでいたか。
過去の時代において同性愛を公にすることは孤独と対等に生きることを意味した。
それが今はどうだろう。
LGBTQIA+という七文字のアルファベットがアイデンティティ産業のロゴになっている。
誰もが「多様性」を口にする。確かにそれで救われる人もいる。世界が少しずつ優しくなったのも事実だ。けれどその優しさが免罪符のように使われているのを見ると胸の奥が冷たくなる。
SNSを開けばセクシュアリティをコンテンツとして発信する人がいる。ゲイである自分。バイである私。その語りのなかにフォロワー数と再生回数が透けて見える。
もちろんそれを語る自由はある。でもそこに漂う“商業”の匂いを嗅ぐたび吐き気がする。
告白したことによってあなたが獲得したのは勇気ではなく注目ではないか。
かつて命を削って叫ばれた言葉がいまやトレンドタグになっている。
「発信することは悪ではない」と言う人もいる。
確かにそうだ。語ることが誰かの救いになることもある。それでも語り方の軽さに耐えられない。
同性愛を笑いながら告白し、虹色の絵文字を添えて投稿される多様性。
それはもう闘いではない。
演出だ。
そこにはかつてあった孤独も、痛みもない。
あるのは“見られることへの渇望”だけだ。
けれど苦しみを消費する文化には怒りを覚える。
悲しみがクリック単価になりマイノリティが視聴率に変換される。それを喜ぶ社会に何の尊厳が残るのだろう。
「勇気とは傷を晒すことではなく、傷を見せなくても生きることだ」といっていた。
今のSNSにはその逆が溢れている。
“見せるための傷”が量産され、“共感されるための悲劇”が編集される。
今の社会は優しさの形をして、どこかで異端を飼い慣らしている。「あなたの違いを受け入れる」と言いながらその違いを“飾り”にしてしまう。
フーコーが権力の構造を解体したのは“異端”が利用される瞬間の気持ち悪さを知っていたからだと思う。
今の時代の権力は企業広告とフォロワー数に姿を変えて、もっと静かに、もっと巧妙に「私たちはあなたを応援しています」と囁いてくる。あれほど恐ろしい権力はない。
私の怒りは彼らを否定したいからではない。寧ろかつて声をあげた人たちへの敬意を守りたいだけだ。
それを忘れないために。
これはそれが正しいかどうかというより自分の感性とAIの出力との差異を測るテストであった。
自分の感覚とは適合してるのではえーってなったし、何らかの啓示を与えてくれるものかもしれない。
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すなわち「JK組(静凛・月ノ美兎・樋口楓)」+「エルフのえる」。
この四人の間には、単なる設定上の年齢差ではなく、“魂の生年”とでも呼ぶべき文化的時差が存在している。
1. 文化的生年とは何か
ここでいう「文化的生年」とは、
発話・参照文化・言語感覚・社会経験の描写から導かれる「世代的意識の生まれ年」を意味する。
たとえば、
ガラケーを使っていた時代を“学生期”と語るなら、文化的生年は90年代前半。
Twitterの普及を“青春期の象徴”と語るなら、文化的生年は90年代後半。
といった具合である。
2. 四人の文化的生年
設定
主な参照年代
発話傾向
エルフのえる
森のエルフ
社会人語・安定語彙
1990±2
静凛
落ち着いたトーン
1991±2
1996±2
樋口楓
JK(行動型)
感情・即時反応型
1999±2
1988 ──────┐
│ 上層:成熟した語り手層
│ エルフのえる(1990±2)
│ 静凛(1991±2)
1994 ──────┤
│ 中層:知的観察層
│ 月ノ美兎(1996±2)
1998 ──────┤
│ 下層:感性主導・Z初期層
│ 樋口楓(1999±2)
2002 ──────┘
これにより、
JK組+えるは「1990年代を中心に上下10年の振れ幅をもつ四層構造」として可視化される。
構造全体は「内界(学校)と外界(社会)」の接続を象徴するようになる。
この四人の“文化的生年”は、いずれも1990年代に集中している。
だが、その内部差――前期(90–92)と後期(96–99)――が、
言語の速度・語彙の層・ユーモアの方向性に微妙な差異をもたらしている。
JK組+えるという初期にじさんじの会話的多層性を支えたといえる。
6. 結論
JK組の三人とエルフのえるは、設定上の同級生ではなく、異なる文化的生年層の集合体である。
彼女たちの“魂”は1990年代に根ざしており、前半層と後半層の世代差が構造を形成する。
2年前に下記にように書いたんだけど、懸念してた通りになりましたわね😒
2023-03-28
AIには学習データや調教が必要で、かつてのニコニコ・YouTubeみたいに法が整備される前に一般ユーザー集めた方が勝ちやぞ
ジャップランドはクリエイターや萌え豚をたくさん抱えているにも関わらず、PC音痴な人がぎゃおんして搾取されるだけなの、
マジなんとかした方がいいぞ
萌え絵は需要あるから、日本のクリエイターは海外AI勢にデータ学習で搾取され、萌え豚も萌え絵消費で海外AI勢に搾取される
真に日本がやらなきゃいけなかったのは、提携企業間ならクリエイターが自由にデータ学習を行えるようにする枠組みを作ることだったんやで
たぶん、ワイは100回くらい言った・・・・ってのはオーバーだけど、正直こうなることは、IT音痴以外のすべての人にとって知ってた速報だよね?
まぁ今からでも遅くない(?)から、ディズニーやマーベルみたいに、日本企業も圧力掛ける団体を作りつつの、
利害関係を丸めて企業間を超えてデータ学習をできる枠組みとクリエイター保護(学習に利用されたデータやそのデータを作ったクリエイターに報酬払う)は
やった方がええと思うよ
任天堂やセガやバンナムやサイゲなどの大手ゲーム会社や東映などの大手制作会社は上記でいい+法務部と顧問弁護士に任せるとして、
「個別にオプトアウトしてね⭐️」って言ったって、どこからやるの?だし、
二次創作(ただし、二次創作ガイドラインがちゃんと公開されてるやつね)はどうするんだろ?ってなる
年がら年中、反AI勢とバトルしてる某氏が、まんま東方projectの二次創作アニメ、
というか、これまんま満福神社(https://youtube.com/@manpukujinja)じゃん・・・なPVを作っていて、
東方知ってる人がこれをSNSに公開するのは流石にダメくない?って思ったら・・・・なななななななななななな・・・なんと!!!!!!!!!!!!
下記一行を Sora2 ちゃんに打ち込むだけで、満福神社っぽいキャラデザのPVアニメ出来ちゃうんだよね・・・
霊夢と魔理沙と咲夜とレミリアが出てくるアニメOP風のPV
別に某氏が満福神社を狙い撃ちしたんじゃなくて、Sora2 ちゃんというか OpenAI が満福神社でトレーニングしただけですの
ほんで学習データがほぼ満福神社だから、そのまま満福神社風がお出しされるってだけみたいやね
(プロンプトがこの短さだとさすがにクオリティはガチャだが、キャラデザとポーズが満福神社っぽい)
満福神社は、バトル気質で炎上したり、なぜかキャラの裸絵を公開してたりなので(ただし東方はウマ娘と違って公式で禁止されてはいない)、
正直、同サークルに対して思うところが何もないわけではないんだけど、素晴らしいアニメを描くってことに対しては異論ないのよね
レイアウト、キー・フレームというかポーズ?、キャラデザが、パッと見は間違い探しレベルでそっくりで、
明らかに違うのは中割りだけみたいなアニメを単純なプロンプトでポン出しされるのは、流石に気の毒では?感
『嫌ならオプトアウトしろ、訴えろ』は、さすがに無法者が過ぎるので、
日本政府も制作会社もIPホルダーも『自分の縦割りのことしか考えない』はやめて、大連合して黒船に立ち向かって欲しいところですわね
そして黒船に立ち向かって欲しいって書いたところで、日立が OpenAI と提携とかいう、ほげぇぇぇぇってなるニュースな?
データセンター&電気周りだけなら、ふんふん、日立の強みを活かせる分野だ🧐なんだけど、
どうも生成AI分野やAIエージェント分野でも協業するみたいな書かれ方してんのよね・・・
えっ・・・日立の Lumada ちゃんはどうしたの? MS と OpenAI のソリューションを導入するSI屋(黒船代理店)になることにしたの?みたいな・・・
今こそ日立のやってること紹介にリリース出すタイミングじゃないの?
https://www.hitachi.co.jp/New/cnews/month/2024/08/0828c.html
あと日立は公共事業部持ってて、公共インフラの構築も請け負ってるわけだけど、
えっ・・・日本政府も公共事業請け負ってる大大大企業も国産AIどうした?ってなる
『なんちゃってプライベートクラウド 〜謎の東京DC集中&DR/BCP消滅を添えて〜』とかをかますくらいなら、素直に AWS や Azure 使えやとはなるし、
ゼロトラスト実現しよ?データ主権とかデータドリブンとかいう前にまずデータしっかり置こう?フルスクラッチで約束された失敗をかますくらいなら、
とりあえず、MSソリューションでいいよ(旧Google App/G Suite、現GoogleWorkspaceで通った道)ってなるけどさぁ、
インフラを請け負う大企業こそ、国と連携してデータ主権を守る姿勢を見せないと、国民のデータまで海外勢に握られることになりかねないやで
日本政府も大企業もスイスの国産AIくらいの頑張りは見せて欲しい
2024年7月、EPFL(スイス連邦工科大学ローザンヌ校)、ETHチューリッヒ(チューリッヒ工科大学)、スイス国立スーパーコンピューティングセンター(CSCS)は、大規模言語モデル(LLM)開発に関する共同プロジェクトを発表。
そして今、その成果が現実に:**スイス初の大規模・多言語・オープンなLLM「Apertus」**が公開された。
このモデルは、AIチャットボット、翻訳システム、教育ツールなど、あらゆるアプリケーションの基盤として開発者や組織に活用されることを想定している。
「Apertus(アペルトゥス)」とはラテン語で「開かれた」という意味。
この名前が示す通り、このモデルは以下すべてが完全公開・ドキュメント化済み:
ApertusはApache 2.0ライセンスで提供されており:
• 商用利用もOK
• モデルサイズは**8B(80億)と70B(700億)**の2種類(小さい方は個人利用向き)
• ダウンロードはHugging Face経由、もしくはSwisscomプラットフォーム経由で利用可能
Swisscomや他のパートナー経由で、プロジェクトに組み込むこともできる。
「一部だけ公開」な他モデルと異なり、Apertusは“完全オープン”がモットー。
「信頼できる、主権を持った、包摂的なAI開発のリファレンスモデルを提供したい」
このプロジェクトは「研究→産業への技術移転」ではなく、イノベーションとAIスキル強化の起点として位置づけられている。
Thomas Schulthess(CSCS所長)はこう述べている:
「Apertusは新たなAIスキルと応用力を生み出す“触媒”になる」
Apertusは15兆トークン、1,000以上の言語で学習。
データの40%が非英語で構成され、スイスドイツ語やロマンシュ語など、他LLMで無視されがちな言語も多数含まれる。
「Apertusは“公益のためのAI”として設計された数少ないモデルの一つ」
— Imanol Schlag(ETHチューリッヒ 上級研究員・プロジェクト技術責任者)
SwisscomはApertusを自社の「スイス主権AIプラットフォーム」でホスト。
Swiss {ai} Weeks では、開発者が実際にモデルを試し、フィードバックを提供する初の実験機会が設けられる。
「Apertusは公共の利益とスイスのデジタル主権のためのモデルです」
— Daniel Dobos(Swisscomリサーチ責任者)
スイス国外のユーザー向けには、Public AI Inference Utility(PAIU)を通じてApertusが利用可能に。
「これは道路、水道、電気と同じく、“公共インフラとしてのAI”を示す証明だ」
Apertusはトレーニング全工程を再現可能な形で完全公開。
• ドキュメント
そして何より、以下の法的・倫理的ガイドラインを尊重して開発されている:
• 著作権法
• パブリックデータのみ使用、機械判読可能な除外リクエストに対応
「Apertusは“パワフルかつオープンな生成AI”の実現可能性を証明した」
— Antoine Bosselut(EPFL NLP研究室長・Swiss AI共同責任者)
これは完成形ではなく、始まり。
今後のバージョンでは:
https://actu.epfl.ch/news/apertus-un-modele-de-langage-multilingue-ouvert-et/#
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香港の民主派は、かつての理想と勇気の象徴として称賛された。しかし、2014年以降の運動、特に2019年の大規模デモの展開を振り返ると、その戦略的・倫理的欠陥が明白であり、結果的に香港社会に深い分断と喪失をもたらした責任は免れない。
第一に、運動の主要な訴求が「民主」「自由」「普選」であったとはいえ、それらを掲げるだけで現実的に何を達成できるのかという計算が甘かった。スローガンは大衆の共感を掴むための強力な道具だが、政治的成果をもたらすためには、法制度や行政の細部にわたる実務的戦略、交渉力、持続的な市民基盤の維持が不可欠である。2019年の抗議は街頭での熱狂を生んだが、同時に組織的な意思決定と長期戦略の欠如を露呈した。区議選での勝利や一時的な国際的関心は得たものの、それを生かして構造的変化を引き出すための冷徹な政治的駆け引きやバックチャンネル交渉が十分であったとは言い難い。
第二に、運動内部の倫理観と表現方法に問題があった。市民の不満の矛先を大陸出身者や観光客など「外的」な存在に向けるような言説や行動は、短期的には連帯を生むことがあっても、長期的には社会の分断を深める。経済や社会制度の問題を外部の「他者」に転嫁することは、根本原因の解決を遠ざけるだけでなく、運動自体の正当性を傷つける。マナーや越境出産、観光客の振る舞いへの怒りは理解できるが、それをヘイトや排斥にまで発展させた一部の言説は、民主的な主張の正当性を弱める愚行である。
第三に、指導部の責任感の欠如が繰り返された。政治運動において真の指導とは、常にストリートの熱狂を冷静に管理し、交渉の場で最大限の利得を引き出すことを意味する。だが、抗議行動はしばしば過激化し、象徴的勝利を追うあまり現実的な妥協点を見逃した。対話の場を軽視し、敵対的な態度を堅持した結果、北京と香港政府は強硬手段で応じる口実を得た。政治は相手との力関係の交渉であり、市場価値や支持率が高まった時にこそ最も効果的に要求を通すチャンスがある。民主派はその「売り時」を逃し、ストリートでの優位を政治的成果に変換できなかった。
第四に、運動が掲げた価値と現実の行動との乖離だ。自由や人権を訴える運動が、同時に排他的な言動や選民意識を育んでは説得力を失う。自由を求める者は、異なる意見や出自を持つ同胞とも共に生きる術を示すべきであり、対話と包摂を拒むことは自らの主張を脆弱にする。民主派の一部に見られたナルシシズムやイデオロギー的硬直性は、運動の幅を狭め、支持層の拡大を阻んだ。
第五に、外部へのアピール戦略の未熟さも目立つ。国際社会の同情は短期的な注目をもたらすが、実効的な支援や圧力に結びつくとは限らない。民主派が国際的な関心を最大限に政策転換へ結びつけるためには、国内の制度的弱点を突き、継続的に外圧を誘導する繊細な外交戦術が必要だ。だが現実は、メッセージが断片化し、海外での同情もやがて疲弊していった。結果として北京は「内政問題」として一方的に行動する余地を得た。
最後に、結果として香港社会が被った損害は甚大である。運動は短期的に香港の公共空間とコミュニティの結束を傷つけ、国内外の投資や信頼にダメージを与えた。長期的には法的な締め付けや経済・教育の変化をもたらし、多くの若者が海外へと道を求める原因ともなった。もし運動の目的が真に香港のより良い将来であったなら、ストリートの正義感を現実政治の中で如何に制度化するかにもっと注力すべきだった。
批判は運動を完全否定するものではない。香港の若者たちが不公正に声を上げたこと、政治参加を求めたことには尊重が必要だ。しかし、尊敬と同情は免罪符ではない。運動のリーダーと支持者は、過去の過ちと戦術的失敗を冷徹に検証すべきだ。感情の高まりを正当化材料にして無計画な行動に走るのではなく、具体的な政策提言、制度改革案、現実的な交渉戦術を整えることが、次に類似の課題に直面したときに初めて意味を持つ。
要するに、香港の民主派は理念だけで道を切り開けると誤認した。理想は重要だが、政治は血肉のある力学である。情熱に溺れる者は、しばしば長期的な勝利を失う。香港の将来を真に案じるなら、まず自らを律し、社会全体の信頼を再構築する責務を負うべきである。
「死んだ」サケに様々な写真を見せて”fMRI”測定を行ったところ、死後魚類脳のいくつかの部位で、写真に反応した「神経活動」が統計的に有意に検出されました。これは、死後魚類の驚くべき認知活動を意味するのでしようか?もちろんできません。
これは単に、データ分析における「多重比較補正」を怠った結果現れた、偽陽性であることがわかりました。
結論: fMRIデータの閾値設定時に「適切な多重比較**補正**」を標準的な慣行として利用すべきです。
#
この論文は、「人々を笑わせ、そのあとで考えさせた」功績により、イグノーベル賞を受賞しました。
#
この研究の主要なテーマは、**fMRIデータ分析における多重比較補正の重要性**と、その補正を怠った場合に生じる**偽陽性の危険性**を強調することです [1-3]。
* 典型的なfMRIデータは非常に多くのボクセル(約130,000個)を含むため、コントラストごとに数万回の統計テストが行われるのが一般的です [1, 2]。
* この極端な次元性により、**少なくとも1つの偽陽性が出る確率はほぼ確実**になります [1-3]。
* 適切な多重比較補正が行われないと、誤った結果(偽陽性)が報告される可能性が高まります [1, 2, 4]。
* 多くの研究者が未補正の統計量を使用しており、p値の閾値を厳しくしたり(例: p < 0.001)、最小クラスターサイズを設定したりする方法に頼っていますが、これは多重比較問題への不適切な対処法であり、原理に基づかないアプローチだとされています [5, 6]。
* **目的**: この研究は、多重比較補正を無視することの危険性を示すために、**死んだタイセイヨウサケを被験者としてfMRIスキャンを実施**しました [1, 3, 6, 7]。
* **方法**:
サケは、人間が社会的な状況にいる写真のシリーズを提示されるという、**開かれた精神化課題**を与えられました [18]。これらの写真は、社会的に包摂的または排他的な、特定の感情的価数を持っていました [18]。サケは、写真の中の人物がどのような感情を経験しているかを判断するように「求められました」 [18]。これは、後に人間の被験者グループにも実施されたのと同じ**社会的視点取得タスク**でした [2]。
刺激はブロックデザインで提示され、各ブロックは4枚の写真がそれぞれ2.5秒間(合計10秒間)提示され、その後12秒間の休憩が続きました [18]。合計12ブロックの写真提示が完了し、ラン中に48枚の写真が提示されました [18]。タスクの総スキャン時間は5.8分で、140の画像ボリュームが取得されました [18]。画像取得には1.5テスラGEシグナMRスキャナーが使用され、クアドラチャーバードケージヘッドコイルがRF送受信に用いられました [17]。サケの動きを制限するためにヘッドコイル内にフォームパッドが配置されましたが、被験体の動きが非常に少なかったため、ほとんど必要ありませんでした [17]。
* **結果**:
* **未補正の統計量(p < 0.001)では、サケの脳腔と脊柱に活動的なボクセルクラスターが観察されました** [1, 9-11]。そのクラスターサイズは81mm³で、クラスターレベルの有意性はp = 0.001でした [10]。
* **多重比較を補正した統計量(家族全体のエラー率 (FWER) と偽発見率 (FDR))では、緩和された統計的閾値(FDR = 0.25およびFWER = 0.25)であっても、活動的なボクセルは全く存在しないことが示されました** [1, 10]。
* **結論**: このデータは、**EPI時系列のランダムなノイズが、多重テストが制御されない場合に誤った結果を生み出す可能性がある**ことを示唆しています [3]。
* **FWER(家族全体のエラー率)**: 複数の有意性検定を行った後に、1つ以上の偽陽性を観察する確率を制御します。例えば、FWER = 0.05は、仮説テスト全体で1つ以上の偽陽性が出る可能性が5%であることを意味します [12]。Bonferroni補正が最もよく知られたFWER制御法ですが、fMRIデータには保守的すぎることがあり、真のシグナルを排除してしまう可能性があります [11-14]。fMRIではガウスランダム場理論や順列法が主に用いられます [12]。
* **FDR(偽発見率)**: 検出された結果のうち、偽陽性であると予想される割合を制御します。例えば、FDR = 0.05は、検出された結果の最大5%が偽陽性であると予想されることを意味します [10, 13]。FDRはFWERよりも保守的ではありませんが、統計的検出力と多重比較制御のより良いバランスを提供します [13, 15]。
* これらの補正方法は、主要な神経画像処理ソフトウェアパッケージ(SPM、AFNI、FSLなど)にすべて含まれており、**適用することは難しくありません** [4, 15, 16]。
* 論文は、**fMRIデータの閾値設定時に適切な多重比較補正を標準的な慣行として利用すべき**であると主張しています [1, 4]。
* 研究者は、統計的検出力の低下を懸念して補正を避ける傾向がありますが、**未補正の統計量を使用し続けるという選択肢はあってはならない**と述べています [4]。
* 多重比較問題は「非独立性エラー」(クラスター内のボクセルが同じ統計的尺度で選択された場合の統計的推定値のインフレ)や、時系列自己相関、低周波ドリフトといった他の統計的問題とは区別されるべきです [17]。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1053811909712029