はてなキーワード: 相互理解とは
論理は物事を整理し、関係性を明確にし、結論に至るプロセスを示す「道具」や「仕組み」です。プログラムの改善点を議論するように、論理的な議論も改善や構築を目的とすべきです。
「論理を論破する」という発想は、「車がうまく動かないからエンジンそのものを壊そう」と言っているのと同じくらい不合理です。改善点を指摘して、議論をより良い方向へ進めるのが正しい使い方です。
確かに、建設的な目的やゴールを持たない「自称議論」は、単なる自己主張や対立を楽しむ行為になりがちです。特に以下のような態度が見られる場合、議論とは呼べません:
• ゴールがない: 結論や改善を目指さず、相手の意見を否定することが目的化している。
• 自己顕示欲: 自分の論理や言葉をひけらかすことが優先される。
これらは「議論」ではなく、雑談や言葉遊び、あるいはラップバトルに近い行為です。建設的な議論には、ゴール志向と誠実さが必要です。
• 事実や仮説を整理する: 情報を論理的に関連付け、理解を深める。
• 結論やゴールに導く: 問題を解決し、合意形成を行うための手段。
• 改善や成長を促す: 相手の意見を受け入れつつ、より良いアイデアを導く。
これらの役割を忘れ、「論破」や「対立の勝敗」が目的になると、議論はむしろ対話の妨げになります。
議論が対話の一部である理由は、議論も本来は 相互理解と協力 を目指す手段だからです。対話全体の中で、議論は特に「結論を導くための手段」という役割を担います。しかし、それが「論破」や「勝敗」にすり替わると、対話としての価値を失い、無意味な言葉のぶつけ合いに堕してしまいます。
• 論破や対立を目的とする行為は議論でも対話でもなく、無益な争い。
• プログラムの改善を議論するのは正しいが、「プログラムを論破する」という考え方は本末転倒。
大澤さん「建物のそばに燃えやすいものが置いてある。放火されるかもしれない。」
フェミさん「お、いいもの置いてあるやんけ、火ーつけたろ カチッwww」
この場合でも放火犯はフェミさんであって大澤さんじゃねーでしょという話。
「表現主体の自発性」や「表現主体とクレーマーとの麗しい相互理解」とかを証明しません。
だって威力と圧力で脅されてる渦中なんですから本心なんか見せられず迎合的態度取るでしょ。
被害者側が恐怖によってへつらいの態度を取っていたら「合意」でいいなら
というか見苦しすぎます。
なんで焼いたものは焼いたと胸張れないんですか?
あとから間違いだったと思ったならやるべきことは自省と総括であり
共同通信社とは
共同通信社は1945年の創立以来、国内、海外のニュースを取材、編集して全国の新聞社、NHK、民間放送局、海外メディアに配信しています。日本語だけでなく英語や中国語などでも配信し、アジアに軸足を置く日本を代表する総合国際通信社です。2010年4月に公益法人制度改革に対応して社団法人から一般社団法人に移行し、「正確公平な内外ニュースその他の情報を提供し、公平な世論の形成と社会の健全な発展、国際相互理解の増進に寄与すること」を目的に強力な報道活動を続けています。
共同通信社は暮らしに必要なニュースを、絶え間なく送り届けています。日々の新聞紙面で、テレビやラジオの番組で、そしてスマートフォンや街で目にするデジタルサイネージも。配信先の媒体は色々です。情報技術の進展により、メディアはさらに多様化することでしょう。でも、大切なことは何も変わりません。確かなニュースを速やかにー。それが、わたくしたちのポリシーです。
ネット空間では日夜、フェイクニュースや中傷、真偽不明の言説が飛び交っています。だからこそ、共同はファクトにこだわり抜きます。事実を追い、掘り起こし、裏付けを取る。特定の主張に偏らない「公平さ」を重んじながら、記事、写真、動画、グラフィックスとして、いち早く伝える。フェイクの時代に立ち向かう仕事を通じて、これからも「信頼の通信社」であり続けます。
https://www.kyodonews.jp/company/
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生稲氏が今月24日に参院議員就任後の靖国参拝を否定し、当時の取材過程を調べました。その結果、靖国神社への国会議員の出入りを取材する過程で生稲氏が境内に入るのを見たとの報告がありましたが、本人に直接の確認取材をしないまま記事化したと分かりました。
また、当日参拝した複数の自民党議員が共同通信に「生稲氏はいなかった」と述べました。生稲氏が否定したことと併せ、当初の報告が見間違えだったと判断しました。
https://www.sankei.com/article/20241125-7JXSGDASYNJ4HK6EMJHQXE4Z7I/
この意見にはいくつかの問題点と矛盾が含まれています。また、いじめを正当化するのは、職場の健全な環境づくりや倫理的責任の観点からも大きな問題です。
いじめを「庶民の武器」と称し、特定の人を排除する手段として認めることは、職場の安全と平等を損ないます。これは法的なリスクを高め、組織の評判や雇用者としての義務にも悪影響を及ぼします。厚生労働省のガイドラインに基づくと、職場のいじめ・ハラスメントは法的に禁止されており、組織にはこれを防止する責任があります 。
いじめと追い出し部屋の使用は、組織としての対応を誤る要因となります。追い出し部屋は非効率的で、人材の適切な管理とは言えません。代わりに、職場の問題がある従業員に対しては明確な評価基準に基づき、必要に応じたサポートを提供するなど、建設的な対応が求められます。
3. 「ハッタショ」への偏見
発達障害を抱える人を「ハッタショ」と表現し、いじめの対象にすることは偏見に基づいた不適切な対応です。現代の職場では、個々の違いを理解し、多様なニーズに対応するインクルーシブなアプローチが求められます。障害者に対する差別や偏見を助長する行動は、職場の倫理基準や法的要件に反するものです 。
「庶民の武器」としてのいじめは暴力行為の代替としていますが、これは建設的な解決策ではありません。対話や適切なフィードバックの提供が可能であり、いじめという手段を正当化することは論理的に矛盾しています。職場のトラブルは、正当なフィードバックを通じて解決することが求められます。
穏当な対応策
問題のある被雇用者と面談を通じ、問題の原因や改善の可能性について話し合うことは効果的です。問題を特定し、改善目標を設定して、明確な指導を行うことで相互理解が深まります。
繊細でコミュニケーションに課題がある被雇用者には、メンターやコーチのサポートを提供することも有益です。業務上の悩みやスキル向上のための支援を行い、安心して成長できる環境を提供することが、職場全体の向上につながります。
適正に基づく配置転換や、個人に合った役割を明確にすることで、負担や不満を軽減できます。人事部門や管理職が適切な支援を提供することで、従業員の強みを生かし、職場の調和を維持することができます 。
職場では、お互いの個性を尊重し、建設的なコミュニケーションを図ることが不可欠です。いじめは長期的に見ても悪影響を及ぼし、代替手段としては不適切です。
1. 世代の投票行動を単純化している点:高齢者は立憲民主党を支持し、若者は国民民主党を支持するという主張は一般化しすぎています。実際、世代ごとの投票傾向には、年齢以外にも地域や経済状況、教育レベル、職業といった要素が複雑に関係しています。年齢だけで投票傾向を判断することは、各世代の多様性を無視しがちです。
2. 高齢者の認知能力に対する偏見:年を取ると「比較検討できなくなる」「とりあえず大きな声を出す野党に投票する」との意見は、高齢者全体に対する偏見に基づいています。年齢に関係なく、情報を収集し、多角的に考えて投票行動を取っている人も多いです。選挙に関する意思決定が、必ずしも年齢による認知機能の低下に直結するわけではありません。
3. 世代間の対立を煽る可能性:この意見は「若者にとって好ましい政権交代を、高齢者が阻んでいる」というように世代間の対立を強調しています。しかし、世代ごとの意見の違いを解決するには、単に世代間で対立するのではなく、お互いの視点を理解しようとする対話が重要です。
4. 政党の支持理由を単純化している点:立憲民主党や国民民主党への支持理由を「大きな声で主張しているから」や「名前も知られていないから」とするのは、実際の支持理由を軽視しすぎです。多くの有権者が各政党の政策、理念、またはこれまでの実績を考慮して支持を決めていることも多く、選択には多様な要因が絡んでいます。
この意見にあるような世代別投票行動の問題点を解決するには、各世代が政策や政治について理解し、参加しやすい仕組みや、世代間の対話を通じた相互理解の促進が重要です。
この文章は、著者が自らの過去の経験や精神的な課題を振り返りながら、弱者男性としての恋愛観を探求する内容です。著者は、いじめによる自己肯定感の低下が自分の思考や恋愛観に影響を及ぼしたと認識しています。過去の恥ずかしい恋愛観を整理し、他人との相互理解を目指していることが強調されています。
具体的には、自己肯定感の欠如から、他人を見下すような思考や「真の恋愛」とは自己の趣味や振る舞いを無条件に受け入れてくれる関係であると考えるようになったと述べています。しかし、実際の恋愛は相手に合わせる努力が必要であると認識し、その恐怖心から逃げ続けた結果、精神的な成長が妨げられたと反省しています。
最終的に、著者は自らの経験を通じて、同様の思考を持つ人々が多いことを知り、理解を深めるために精神科のカウンセリングを勧めています。
っていうか別に今も弱者男性やってるんだけど、ここ2年ほど精神科に通ってカウンセリングを受けるうちに自分の思考の歪みに気づくようになってきた
生きづらさを解消するためのメンタルトレーニングとして、恥ずかしかったり屈辱的だったりする過去の黒歴史を実際に紙に書きながらそれを受容して未来への糧にするためのアドバイスを受ける……みたいな感じのをやっている
最近、トレーニングの一環として俺が弱者男性拗らせていた頃の恥ずかしい恋愛観を紙に書いていた折、これをあえて衆目に晒せばここ最近の弱者男性界隈の考え方の理解になるのではないかと思った
ここのところ、フェミ関連の論争や弱者男性界隈の論争を見るにつけ実は弱者男性の思考の歪みの傾向って一般の人にはそんなに知られていないよなと思う場面が増えた
同情してほしいとか共感してほしいというのではなく、相互理解のための補助線として弱者男性の恋愛観の一類型をお披露目しつつ反省の弁を記しておこうと思う
これはメンタルトレーナーからも言われているので、あえて断言させてもらう
思春期の多感な時期に自己肯定感を育てられず、人とのコミュニケーションに支障が生じた
自己肯定感を育てられないとどうなるか
まぁ色々な方向性の悪影響があるそうだが、俺は他人を心の中で馬鹿にするようになった
当時の俺は例に漏れずオタクであり、アニメ漫画ゲームにハマっていた
で、いじめっ子たちはことあるごとにそれを馬鹿にしてくるわけだ
すり減った自尊心を保つために俺は「こいつらは芸術の素養がない馬鹿だ」「教養がない低能だ」と心の中でそいつらを見下し、逆に自分は教養があふれるがためにかえって大衆からは疎まれる存在になってしまったのだと思うようになった
これが恋愛観にどう作用したかというと、「モテているやつは底の浅い馬鹿ばかり」「俺はそんな底の浅い恋愛ではなく真の恋愛を成し遂げるのだ」と思うようになった
ここでいう真の恋愛とは、
といったものだ
『自分の趣味ではないディズニーに付き合って楽しんだふりをする』
こういうのは真の恋愛ではなく、単なる見栄と性欲のためのゲームだと思っていた
世間一般の皆様がやっているゲームのような恋愛と俺の脳内にある真の恋愛
この二項対立でものを考えるようになるので、非モテはますます加速した
無論俺は初デートサイゼ論争においてサイゼを否定する女のことを嫌っていた
だって俺は当時自意識を拗らせすぎてサイゼやガストや牛丼チェーンくらいにしか行けなかったから
おしゃれなレストランに行って頓珍漢なことして恥をかくのが耐えられない
自分の見知らぬ場所に行って人から笑われるようなことをしてしまう恐怖心が、サイゼはあり得ないと言っている女性への怒りに転嫁されていた
「真の恋愛ならば相手がサイゼに行くことを受容するはずだ。だって高級なレストランに行って恥をかく恐怖を理解してくれるはずだから。女はパートナーの弱さを察する優しさを持つべきだ。そんな優しさすら持てずサイゼに行くことを馬鹿にする女はみんな低能だ。自分のことしか考えてないビッチだ」
色々と理論武装してサイゼ否定派をぶっ叩いていた裏で、無意識の本心としてはざっとこれくらいのことを考えていた
「こちらの弱さを無条件に受け入れて慰撫してくれる存在」がいたとするなら、それは親もしくはカウンセラーであり、恋人という一番近い距離にいる他人に求めることではない
最近の俺はこれを受け入れようと努力しているのだが、それでもやっぱり疑問が湧くことしきりだ
世の中には真の恋愛をしている人たちも存在していて、相互にお互いの全てを無条件で許容しあっており、自分を高めたり相手を受け入れたりする努力を一切せずただありのままを受け入れあっている
そういうカップルがいるはずだと思えてならない
でもどうやら現実は違うらしい
相手の望む自分であろうと努力して、慣れないレストランを予約してみたり恥をかきながら勉強したりするのが正しい恋愛でありコミュニケーションのあり方なのだそうだ
恥をかくのが怖すぎてずっと逃げ続けた結果、いい年して中学生みたいな化け物になってしまった
カウンセリングの場で、俺と同じような恋愛観を持っている人は多いと知ることができた
恋人のために何かを我慢するなんてことはあってはならない、恋人は無条件で自分を安心させてくれる存在でなければならない
グループワークでそういう話を聞くたび正直わかるわかると頷いてしまった
と、同時にやはりこういう恋愛観は幼稚でまともな大人の思うことではないという背反した考えも頭の中に流れたりもする
とりとめもなくなってしまったが、弱者男性的な恋愛観とはそういうものだ
世の中から色々なものを奪われてきたという自意識を拗らせているので「相手に合わせて〇〇する」という恋愛の初歩的な気遣いができない
それを要求されようものなら「これ以上俺から奪うのか!!」と怒り狂ってしまう
だから優しくしろと言いたいのではなく、フェミ関連の論争に興じる際には弱者男性のそういう思考の傾向を踏まえれば少しは話が通じるようになると思うのでぜひ頭に入れてほしい
人間ものの考え方だけでこうも生きやすくなるのかって感動するぞ
思った以上に反響をもらえて嬉しい
投稿から日が経ってしまったが誤字脱字を直すついでに寄せられた疑問に答えようと思う
これは俺の書き方が悪かった
経緯としては、
↓
カウンセリングも受けるといいですよと勧められる
↓
カウンセリングも受けるようになる
って流れ
だから厳密に言えば精神科での治療とカウンセリングは別ものなんだが、まぁ医者も心理士と連携して色々やってるらしいのでセットのように記載してしまった
今は月1のカウンセリングと数ヶ月に1回薬もらうために精神科へ通院するというスタイルで過ごしている
弱者男性の定義については色々あると思うが、一応ASDと抑うつで精神障害3級の認定を受けた上に今は実家暮らしで仕事も事務仕事の時短勤務、童貞非モテ、収入もゴミカス、病院行くにも親からお小遣いをもらってる在り様なので一応弱者男性仲間に入れて欲しいなぁと思う
唯一親の支援を受けられているという点では弱者性は薄いかもしれないが弱者男性の全員が親と険悪ってわけでもないだろう
もちろんそっちも努力している
っていうか今回はあくまで恋愛面にフォーカスしただけで俺の生きづらさは友達付き合いから仕事、単純なコミュニケーションまで多岐に及ぶ
そもそも精神科に行き始めたきっかけも職場で嫌われてうつ病患ったから
前は普通の正社員やっていて転職も3回経験があるんだが、どの職場でも人間関係がうまく行かず嫌われたり煙たがられたりしていた
そしてついに3つ目の職場で精神的に折れて実家に逃亡、精神科受診って流れ
今の職場では一応なんとか嫌われてはいないっぽいので(変わった人認定されているきらいはあるが)、精神科とカウンセリングの両方面でのケアの効果はかなりあるなと感じている
単純に応援してくれているらしい反応や否定的な反応についてはここでは特に言及しない
一部創作の疑いをかけられていたようなのでその方面への補足のために上記を回答してみた
精神科に通ううち、自分のプライドや内的な欲望を一旦脇において「なぜ自分は人から嫌われるのか」「どうやったら生きやすくなるのか」「どうやったら人と適切なコミュニケーションがとれるのか」って現実的な視点で人生を見つめ直すことができた時に、少なくとも俺は生きる辛さをいくらか軽減できたように思う
1. 根拠の欠如: トランスジェンダー支持者に対して批判的な意見を述べていますが、具体的な根拠や証拠が示されていません。個人や集団の行動を一般化するには、十分なデータや証拠が必要です。
2. 偏見と差別: 特定の集団を一括りにしてネガティブな言葉で批判することは偏見を助長し、差別的な態度を強化する可能性があります。こうした発言はトランスジェンダーの人々やその支持者に対する理解を妨げ、敵対的な環境を作り出します。
3. 過度な一般化: 支持者全員を同じ動機で行動していると決めつけています。人々がトランスジェンダーの人々を支持する理由は多様であり、単純化するのは不正確です。
克服するための方法
1. オープンな対話: 相手の立場や意見を理解し、冷静かつ建設的な対話を促すことが重要です。相互理解を深めることで、偏見や誤解が減少することが期待されます。
2. 教育と情報提供: トランスジェンダーの問題に関する正確な情報を広め、無知や偏見を軽減することが有効です。信頼できるデータや証拠に基づいて議論することが大切です。
3. 共感を育む: 支持者や当事者の背景や経験に目を向け、共感を持って接することで、対立を減らし、理解を深めることができます。
「偏差値が高い高校ほど校則がゆるい」とよく言われる。実際、都立のある一番校では、制服なし、校則もほとんどなしだが、風紀は荒れていない。偏差値だけが理由かどうかは疑問(家族状況、経済状態もあるだろうし、私立の高偏差値高校で薬物が蔓延っていたりもする)だが、決まりなどなくて済むのであれば、敢えて決まりをつくらないほうがその社会の構成員に無用なストレスを与えない、というのは事実だろう。押さえつけなければ反発心も起こらないのだ。
究極的に人間は、互いの生まれながらの尊厳を認め合い、「自分がされて嫌なことは他人にしない」という最低限の倫理を身につけていれば、法律などなくとも平和に共存し得る。その理想が実現できないから、仕方なく法で自らを縛る必要があるのだ。
『虎に翼』最終回をで主人公が死んだ後、娘に「お母さんは法律そのものだった」的なことを言われて、幽霊状態の主人公が喜んでいたのは、私にとってはグロテスクなシーンだった。娘から必要悪、と言われていながら、満面の笑顔を浮かべる母。
あれだけ法が取りこぼしてしまった人間たちを見てきながら、まだ法に全幅の信頼をおいている主人公がそもそも理解できなかったのだが、彼女は最後まで法はアプリオリに人類に必要なもの、という認識でいたようだ。
新潟で出会った少女の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに、直ちに答えることができなかったのも当然だ。彼女には「自然法」という観点が欠如している。「人間が生まれながらにして平等で、それぞれに尊厳をもっている」ということが、“憲法によって与えられている”と考えているのだ。(正しくは“憲法によって保証されている“であり、尊厳自体はアプリオリに存在する;憲法停止したら人権が失われるとでも思っているのか)
しかしこの逆転、このグロテスクさこそが、今のリベラルを象徴しているとも言えよう。
グローバリズムと多様性というお題目で、共感できる背景を共有しない者同士の共存を進めていけば、明文化された決まり=法律だけが、“相互理解”を増進するためのツールにならざるを得ない。そしてその法律が力を持ち、万能なツールとして必要以上に神格化されていく(あとはカネだけが共有可能な価値となる)。それと同時に、それまでの社会を構成していた重要な要素である感情的・非論理的・物語的(説話的/神話的)な共感背景は無価値化されていく。
私個人的には、尊属殺の重罰化は違憲だと思うが、家族は共に扶助すべきという民法の一文は意味があると考えている。「家族」というものが結局はフィクショナルなものだとしても、その“物語”を社会である程度守っていくことに価値はあると思うのだ。
上記の新潟の女生徒からの重大な投げかけの解決法にも心底がっかりした。
女生徒は死に、ダウングレードした娘に、主人公が何か感情的なおためごかしを言って、解決してしまったのだ。まぁ上のような法への認識でいる主人公だから仕方ない。その後彼女は少年法改正についての委員会で「愛でしょ愛」などとまた感情的なことを言っていた。
真のリベラルからすれば彼女のモデルが「家裁の母」と呼ばれていることに怒りを覚えるはずだが(なぜ“母”なのか、性差は意味がないはず)、ここでの主人公の描かれ方は、まさしく保守的な「お母さん」像であった。
もはやこのドラマの立ち位置がわからなくなるほどの倒錯が起こっているように感じたが、実際こうでもしないとまとめることができなかったのだろう。そもそも彼女は法への姿勢という最初の立ち位置から間違えているのだから。
最初から最後までいわゆる「上級国民」しか登場しないドラマであったが(上野の浮浪児くらいだろうか)、その恵まれた位置にいながら、たまに(ポーズのように)反省して見せるだけで、根本的なところでは法の無謬性を疑わなかった。原爆裁判を経て、主人公が変わるかと期待したが、結局はそのままだった。
残念なドラマではあったが、その時代には絶対にそういう発言をしていなかったであろうLGBTを描き始めたところで、ああこれはポリコレ好きのためのポルノなのねと諦めはじめていたので、最後の方は期待感も薄かった。
二人の成人の男女が妊婦とその夫になるには、友人期間があり、恋人期間があり、一部では同棲期間があり、でき婚でなければ子無し夫婦期間がある。
妊婦の夫への怨嗟を見るたびに、妊婦になる前から行動がやばそうな夫でどうして結婚したのか悩む。
女が妊婦にジョブチェンジすると同時に、男も無神経な夫にジョブチェンジしているのだろうか。
いやそんなはずはないだろう。夫の妊婦への無神経、想像力の無さが問題なら、そんな性質は妊婦になる以前から継続していることが大半だろう。友人や恋人期間中に病気や疲労、月経による体調不良に理解を示すかどうかは何度かチャンスがあるはずだ。セックスまで行くには女性側にも同意できるほどの健康と気力が必要だし低調なときにたびたび誘われたりしたら観察力がないと見切れるだろう。
なのになぜ異常な夫談があふれるのか。
2妻側の1を100に膨らませる誇張
3無理解なパートナーだと無理解のままセックス結婚する無理解な女だった
4夫のこれぐらいなら平気そうというラインの不一致。つまりは妻側のコミュニケーションの怠慢
5異常な男と分かっていて結婚したが、妊娠中という常時デバフ状態では許容できなかった妻の自己認識不足
こんな感じだろうか。
少なくともクズエピソードが5個以上出てくる妊婦経験談は、コミュニケーションを拒否しているか、話せば改善してくれたがその1回を根に持つ「恨みは一生」型か。
謎な夫話を沢山見て同情と同じぐらい謎が渦巻くので、せめてクズエピソードを挙げるとしても複数回されたことを挙げてほしいですね。一度一度を挙げていくのは人生にも対人関係にもよろしくないので。大体がはじめての妊婦、はじめての妊婦の夫なので、失敗は多いだろう。話し合い相互理解が及ばない真にやばいエピソードだけを挙げてもらって、人工的なやばい夫を妻が(脳内で振り返って)量産するのは控えて欲しいところである。
https://anond.hatelabo.jp/20240817215752
興味深い増田だったのだが良く分からない点があったので書く。なお本文章は山田太郎議員を擁護する意図を持たないが、結論としては「ワード規制を行わないと言質を取ったこと自体は、やはり暫定的に正解だったのではないか」になってしまうこと御了承頂きたい。もちろん私の書いていることが全部間違っててトンチンカンな可能性はある。
まず元エントリは(うがった読み方で恐縮だが)CSAMなら自動的、いっそ自然現象的に止められるようにも読めてしまうが、それは違う。誰かが声を挙げなければどんなCSAM(か何か)でも野放しにされてしまう。
だからある人は声をあげ、またある人や組織は声をあげられる面倒を怖れて自発的に規制する。空気や忖度(この言葉は好きではないが)、大企業が勝手にびびるのもGoogleがなんか言い出すのも、「現実的には野放しになるわけねーだろ」も、立派な「声の結果」なのだ。
言い換えれば、VISAだろうがアクワイアラーだろうがなんだろうが堂々と「fanzaやDLsiteはCSAMを扱いまくってるので抑圧します!」といくらでも公言していいはずなのだ。人を助けたり守ったりすることの一体何が問題なのか。もちろんVISA本社はやってないんだから公言もクソもないだろというのが正解なのだろうが、だとすれば誰が具体的に声を挙げた(あるいは架空だが重要な声をおそれた)のか。
とらのあなの例では『決済会社様より』と、VISA本社ではないにしてもプラットフォーマー側から文句が来たことは明言されている。だから我々が本当に要望しなければいけないのは、『犯罪とみなす基準を変えろ、である。』ではなく、『お前らのやってることは犯罪だから諦めろ、という主張を、隠さずきちんと署名入りで公言してほしい。』ということなのだ。生活や尊厳のために匿名性を必要とする個人や集団なら、そのような暴きは許されない場合も多く強くあろうが、クレジットカード関連のプラットフォーマー側企業なら署名入りでいいはずだ。
結果としてホッブズ的なつまらん万人泥試合が起きるかもしれないが、本来「話し合おう」とか「相互理解」とか「対話を拒否するな」ってそういうものである(そして繰り返すが相手は企業であり人間ではない。人間の集合体ではあるにせよだ)。まあ単に理念面ではなく実装面で難しいということもありそうだが(なんせクレカでお金を直接やりとりする界隈なれば、守秘義務はいろいろ大変だろう)。
もうひとつ気になったのは、CSAM(か何か)の具体的な抑圧方法についてこそ、ワード規制が十分有効と思われていることである。思われているってまあ私とかその辺のオタクが勝手に思っているだけかもしれないが、少なくとも「あいつらワード規制してるに違いねえ!」と推測(あるいは誤解)するに至った経緯ははっきりとある。DLsiteの用語言い換え問題だ。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2403/27/news095.html
元エントリの例えと推測を借りて言えば、DLsiteは「コカインを”雪だるま作ろう”に、LSDを”TB-303なかよし”に……と淫語じゃなかった隠語に置き換えればなんとかセーフでは?」とあくせく努力していた訳だ。そもそもそういう手段に至ったことからも、ワードとCSAM等が密接に関連していた(あるいはDLsiteがそのように勝手に判断する事情が生じた)ことは伺える。
そもそも、あるコンテンツや表現がCSAMやそれに類する要規制表現であると——どちらかといえば理念より実装的レイヤーの話として、また基準が甘くなる売り手側ではなく厳しくあるべき規制側として——断定するにはどうするのか。いちいち一個ずつ動画やCG集を開いて確認するのか。確認者の価値観や倫理観(あと健康)はどう担保するのか。もちろん世の規制や確認には、マジで人力頼みでやってるケースがかなりあるそうだし(本当に健康を崩す人もいるという)、これをAIに代替させようという話は(2024年8月現在の日本国内では)実例あろうともまだまだ発展途上で「話を逸らすな」になる。
確実性はある程度妥協するとして、素早くCSAMっぽいものを一網打尽にするにはどうすればいいのか。というとやはりタグ、タイトル、それらに紐づく検索性……言葉を狩るのがもっとも効率的だろう。素早く、というのは社会に於いてクソ大事であり、表現で傷つく人を一刻でも早く助ける必要もあれば、その辺の暗黒メガコーポ風情の株価が分単位で傷つけられるのを防ぐ必要もある。
以上から、とりあえず心当たりのあるところ、のそれも上位から、「お前ワード規制した?」と聞きに行くこと自体は、そこまで無意味やナンセンスではないと考える。二次元CSAMが規制されて当然というのなら(まあ当然っちゃ当然だとは思う。程度問題に留めたいところだが)、堂々と「この基準と理由により我々が規制してやりましたぁ!!!」と首を獲った旨叫べばいいのであり、そうでないから我々オタクが「えー、基準が不明瞭ですと、CSAM以外の表現の自由も危ういのであり……」などとダラダラと騒いではいるのだ。
スーパーチャットでプロデューサー面の長文改善案(クレーム)を送り付けるVtuberファン、一流萌え女性漫画家を「王」だと慕い著書のキャラクターと重ね合わせる「ナイト」たち。そんな彼らを吊るし上げ弱者だと蔑み笑うのは、本当に正しいことだろうか。
昨今見られるオタクの「陽キャ化」が怖い。しかし一度わが身を振り返ってみて欲しい。推しの幸せは自分の幸せ。インフルエンサーとして活動してる者に交際している異性が存在するのは当然の認識。果ては性欲を都合のいいヴェールで覆い隠す「推し」という言葉そのもの。 「ユニコーン」や「弱者男性」と日陰者を冷遇するが、そうやって追いやる自分たちにもまた本質的には彼らと同じところがあるのではないか?人間の本質だ。
『建前を抜きに公衆の面前で本質を曝け出してしまうことが問題だ』という反論は正しい。しかしそうやって臭い者に蓋をするような真似をしても意味がない。より強い光を当てればその分濃い影が生まれるだけなのだ。構造を把握しなければ全く無意味なこと。
少し話は変わるが、何時の時代も創り出すのは弱者の側だ。と思う。現状の社会では自己実現が難しかった連中が隅に集まり、愛憎入り乱れる欲求を煮詰めてなにかを創り、それが発明と呼ばれるんじゃないだろうか。
どんな時代にもキモイ人たちはいる。それは女性蔑視的な思想であったり、恵まれていない故他人に攻撃することが許されると本気で信じているどうしようもない人たちばかりだが、そんなキモイ人たちのキモイ欲求が今この場の土台を生み出したんだと一度発想を転換してみて欲しい。
キモイ人たちがキモイままでいられる場を潰さないで上げてください。キモい人たちの自己実現の場を潰さないで下さい。仮に潰したとしてもそういった方々はまた別の所で群れてキモイコミュニティを作って、そこで様々を創り出す。
そうした物はその時代の人の本能や欲求に訴えかけて、また大きな数字や需要を生み出すかもしれない。やがてそれで生計を立てる人が出てきて、そうやって場が整って来た頃にまた消費をしに来て、弱者を「キモイ」と追いやる。全く意味のない繰り返しだと思わないだろうか?
キモくてすみません。けどキモい人たちの欲求には価値がある。それをキモイと非難することも大事な社会の役割だ。
ユニコーンを殲滅せんと激しい怒りを燃やす皆さん、どうか一度臭い者に蓋をする手を一度休めて、臭い匂いを嗅いでみて欲しい。案外癖になるかもしれない。
人によって自分のジェンダーアイデンティティをどう捉えるかは異なります。相互理解は社会の発展のためには非常に重要です。この文章の冒頭に出てくる「あなたたちが性別違和を改善するために移行しなければならない男性だと思っていたのですが?」という部分のように、トランスジェンダーであるための理由を、当事者以外が探り当てることは、プライバシーの侵害にあたり、少なくとも相当な信頼関係を必要とします。特に性別違和は医学的機微情報でもあり、詮索することには倫理的にも、法的にも重大な問題が生じます。そもそも、女性と対話しているのは「トランス活動家」という肩書きであり、トランスの当事者とトランスジェンダーの権利擁護活動家とを混同する記述になっているのも、大きな問題ですが、仮に対話相手がトランスジェンダーだった場合、間違っても興味本位に聞いて良いような事柄ではありません。シスジェンダーであった場合でも、どのようなモデルが正しいトランスジェンダーのあり方なのかは、多様なあり方があるとしか言いようがなく、それについてあれこれ議論することは慎重になるべきです。そういった議論の渦中に置かれるトランスジェンダーの人々の苦悩を想像してみるべきでしょう。
生まれ持った性に関する性質があり、トランスジェンダーは、その性のあり方と、身体的な性や社会的な性が一致していないために、さまざまな医学的なプロセスや社会的なプロセスを経て、その不一致を解消する、という考え方があります。上記の議論を踏まえれば、この考え方は、さまざまな境遇のトランスジェンダーをできるだけ包摂して「説明」するためのもの、という側面もあるかもしれません。しかしそれは完全なものではありませんし、一つの考え方であり、これによって当事者の人が自分を理解する助けになることはあっても、何か社会に害悪をなしたり、女性への攻撃になるということはありません。しかしながら、この文章は、そのような現実的な折衷の中で生まれた考え方を、「トランス活動家」による、従わないものは排除・排撃されるような教義であるかのように扱い、女性を虐げるものとして誇張・悪魔化している点に重大な問題があります。
我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。
私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います。
そのような気持ちを具体化するため、貴国の関係者と話し合った結果、貴国においては、貴国に設立された事業実施委員会が、いわゆる従軍慰安婦問題に関し、先の大戦において困難を経験された方々に医療・福祉分野の財・サービスを提供する事業に対し、「女性のためのアジア平和国民基金」が支援を行っていくこととなりました。
日本国民の真摯な気持ちを表れである「女性のためのアジア平和国民基金」のこのような事業に対し、貴政府の御理解と御協力を頂ければ幸甚です。
我が国政府は、1995年の内閣総理大臣談話によって、我が国が過去の一時期に、貴国を含む多くの国々の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことに対し、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたしました。現内閣においてもこの立場に変更はなく、私自身、昨年6月に貴国を訪問した際に、このような気持ちを込めて旧蘭領東インド記念碑に献花を行いました。
そして貴国との相互理解を一層増進することにより、ともに未来に向けた関係を構築していくことを目的とした「平和友好交流計画」の下で、歴史研究支援事業と交流事業を二本柱とした取り組みを進めてきております。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。
子曰く、増田よ、「道無き所に行く事なかれ、敵に仕しむる事無かれ」と。孫子は闘いに際して適切な戦場を選ぶ重要性を説いているように、人間関係においても「適切な場」を選ぶことが肝要だ。
増田が直面する問題、つまり恋人や親友との関係が厳しく手に負えなくなるとき、どこまで向き合うべきかは重要な問いである。その中で、増田の経験から学べることが幾つかある。まず、互いに努力する意思があるかどうかの確認は必須である。しかし、もし相手が努力する意思を持たない場合、その関係を続ける価値があるか、見極める必要がある。
孫子の教えを更に深めると、「道無き所」、つまり相互理解と努力の無い場所で戦うことは避けるべきだとされる。これは、自分自身を無駄に消耗させるだけになるからだ。
互いに話し合い、相手の意見や思いを理解する。しかし、もしそれが不可能であるなら、その関係は再評価する価値があるかもしれない。
孫子が述べる「敵に仕しむる事無かれ」、つまり無理に攻撃的になるのではなく、自己を守ることを優先する。相手が努力を拒むなら、自己の精神的健康を守るために距離を置く決断が必要かもしれない。
すでに増田が感じたように、自分にとっての重要な関係であるかどうかを再評価する。もし相手にとって自分の重要度が低いと感じるなら、その関係が続くか続かないかを再考する時が来たとも言える。