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はてなキーワード: 本質主義とは

2024-12-03

どんなプロンプト打ったんでしょうね3

1. トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではありません。
 それに対して、『トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人こそが、小さなことにこだわっていると主張するのは
 どのような心理からなのでしょうか? もしその人が本気でそう主張しているのであれば、まさに本質から外れたところに過剰に注目しているように思います。
 
 
2.下記を小学生でもわかるように説明をお願いします。
 
	2-1.	トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ありません。
	2-2.	「通常(普通)ではない」と指摘されることに対して、ショックを受けているのかもしれません。『通常』という言葉は、何かしらの合意必要な難しい概念ですが存在するものです。(そうでなければ何もできない)
	2-3.	人と違うのは悪いことじゃないが、トランプ文脈フォントにこだわる人は、特別サポート必要です。これは個人自由意思知識コミュニケーション問題、あるいは性格に帰すべきではないと思います。
	2-4.	人と違うのは悪いことじゃないが、文脈によっては適応出来ない、違うと自覚することが大切なこと説明してください。
 
 
3. トランプ文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人は、ゲームから排除をする、ゲームを取りやめるのでなければ、特別サポート必要だと考えますがどう思いますか?認知フレームワーク問題ではなく個性範疇ですか?

 ↓

1. 心理的な背景について

 

トランプゲーム文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人を「小さなことにこだわっている」と批判する心理には、以下のような背景が考えられます

1. 防衛的な反応

自分の行動や考えが「通常ではない」と評価されることに対する防衛反応です。「通常ではない」と指摘されることで、自分価値観や行動が否定されたように感じ、相手に「あなたも小さなことにこだわっている」と反撃することで、自分を守ろうとしている可能性があります

 

2. 視点の転換による優位性の主張

「小さなことにこだわっている」というレッテルを指摘者に貼ることで、相対的自分が広い視野を持っているかのように見せかけ、議論立場を有利にしようとする心理が働いている場合があります

 

3. 共通基盤のズレ

フォントの違い」がゲームに影響を与えないことは、多くの人にとって明白ですが、本人にとってはそれが重要な要素である可能性があります。この場合、指摘者が「通常」とする基準自体無効だと考え、その基準を主張する人を「細かいことにこだわっている」とみなしているのかもしれません。

 

4. 議論すり替え

本質的な問題から目をそらすため、指摘者の行動を批判対象にして議論の焦点を変えようとする心理です。これにより、自分の行動が本当に合理的であるかの検証を避けることができます

 

2. 小学生でもわかるような説明

 

2-1. トランプゲームフォントにこだわるのは普通じゃない

 

トランプで遊ぶとき、みんなが気にするのは「ダイヤ」「ハート」みたいなマークや、「A」「K」みたいなカード意味です。文字の形(フォント)が少し違っていても、ゲームには関係ないので、普通はそこにこだわりません。

 

2-2. 「普通じゃない」と言われるとびっくりするかもしれない

 

かに普通じゃない」と言われると、自分が変わっているみたいに感じて、ちょっとイヤな気持ちになるかもしれません。でも「普通」という考え方がないと、みんなで同じルールで遊ぶのが難しくなります

  

2-3. 人と違うのは悪いことじゃないけど、助けが必要ときもある

 

たとえば、トランプで遊んでいるときフォントが気になる人がいたら、どうして気になるのかをみんなで考えて助けてあげることが大事です。それでもゲームが進まない場合は、みんなが楽しめるような別の方法を一緒に見つける必要があります

 

2-4. 人と違うのを知るのは大事なこと

 

自分がほかの人と違うことは悪いことではありません。でも、みんなと同じルールで遊びたいときは、「自分の考え方が特別なんだ」と気づくことが大切です。それがわかると、みんなとどう仲良く遊ぶかを考えやすくなります

 

 

3. 「フォントが違うからダイヤのKではない」という人への対応個性範疇について

 

 

フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人に対しては、特別サポート必要だと考えられます理由は以下の通りです:

  1. 共有されたルール再確認
    トランプゲームでは、フォントの違いは重要ではなく、カードの「スート(マーク)」と「ランク(番号や文字)」が本質です。そのため、本人がルール理解し、共有された基準を受け入れられるようにサポートする必要があります
  2. ゲームを進行させるための調整
    本人が「フォント」を基準として主張する場合ゲームが進行しなくなる可能性があります。この場合ゲームを成立させるために他の参加者と協力し、代替案を提示する必要があります

 

 

この行動は認知フレームワーク問題に近いと考えられます。なぜなら:

  1. 個性範疇を超えている
    個性とは、一般的ルール基準の中での違いを指すことが多いですが、今回のケースでは「フォントにこだわる」という行動が、共有されたルールの基盤を大きく逸脱しており、個性範疇では説明しづらいです。
  2. ゲーム文脈に対する適応の難しさ
    フォントが違う」という理由カード否定するのは、ルール文脈に対する適応が困難であることを示唆しており、認知の仕組みや視点問題である可能性が高いです。

 

 

結論

 

トランプゲーム文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」という行動は、個性というよりも認知フレームワーク問題として捉えるのが適切です。そのため、共有基盤を再構築する特別サポート必要となり、ゲームの進行や他の参加者との調整が求められます

 

 

 


 

 

増田が打っているプロンプトを推測してみたが、かなり言葉を足さないとその出力にはならない
マジでどんなプロンプト打ったんでしょうね(3回目)

 

※推測してみた(なお、増田みたいな結果にはならない)
 
Dの行動を批判している文章(https://anond.hatelabo.jp/20241203162204#)の投稿主の心理を探り、どのような価値観認知スタイルに基づいているのかを分析してください。Dがフォントの違いを問題視した行動に対して批判することが、どのような心理メカニズムに基づいているか、またその批判集団内でどのような影響を与えるのかを詳述してください。

 ↓

この文章投稿主は、Dの行動に対する批判を通して、「認知の仕組みのズレ」や「共有された前提の欠如」に焦点を当てており、その批判は以下のような心理メカニズム認知スタイルに基づいていると考えられます

 

1. 認知の精度と共通理解の重視

 

投稿主は、対話が成立するためには、共通の前提や認識必要であると強調しています。Dが「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張したことは、常識的に受け入れられる「ダイヤのK」の定義認識を逸脱しており、この逸脱がコミュニケーションの妨げになると見なされています投稿主は、認識のズレを認知の仕組みに起因するとし、これを解決するためには膨大な労力が必要だと感じています。これは、投稿主が認知的な精度を重視し、理解の共有を前提にした効率的対話を重んじていることを示しています

 

2. 本質主義 vs. 構成主義思考

 

投稿主は、「ラグビーボールボールではない」という発言についても問題提示し、「概念境界」や「本質主義 vs. 構成主義」などの哲学的な側面に関心を持っています。これは、物事定義カテゴリ化について深く考える傾向があり、単なる表面的な解釈を超えて、物事本質に迫ろうとする認知スタイルを反映しています

 

3. 細部に過剰に焦点を当てる認知スタイル

 

Dのように、細部(フォント)に過剰に焦点を当てることは、投稿主にとって非常に困難で非生産的コミュニケーションと捉えられています。このような発言は、認知的なズレが深刻であり、現実世界常識一般的認識から大きく外れていると見なされています投稿主は、細部に拘泥するDの認知スタイル問題視し、これが対話の進行において障害となると考えているようです。

 

4. 集団内での影響

 

投稿主がDの行動を批判することで、集団内では次のような影響が予想されます

共感の共有: 投稿主が指摘する認知のズレに賛同する人々は、Dとの対話に対して不安や苛立ちを感じる可能性があり、集団内で共感が生まれます

対話排除: Dの認知スタイルが極端に異なっていると認識された場合集団内でDの意見発言無視したり排除したりする動きが強まる可能性があります

教育アプローチ模索: 一方で、Dの行動を理解し、再教育認知修正を試みるアプローチを取る人も現れるかもしれません。この場合集団内で認知の調整が進むことが期待されます

 

全体として、この批判は、投稿主が共有された認識合理的対話を重視し、認知的なズレに対して強い懸念を抱いていることを示しています

どんなプロンプト打ったんでしょうね? 2

下記の文章フォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか?
ーーー
	•	「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的否定しています。
	•	「フォントの違い」を理由カード否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています

 ↓

この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます

 

1. 客観性を求めるプロンプト

• 「Dの行動について、認知問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」

• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知問題ではなく、個人価値観視点に基づいている可能性を前提に、投稿者批判評価してください。」

 

2. 対立意見意図的に生成するプロンプト

• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性範囲内と考えられる場合擁護意見作成してください。」

• 「Dの行動を否定するのではなく、認知問題ではないとする立場から反論を生成してください。」

 

3. 中立的立場を取るプロンプト

• 「投稿者意見引用しつつ、Dの行動が認知問題ではなく、個性価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」

• 「Dの行動が認知問題とされる根拠を再評価し、別の視点提示してください。」

 

4. 哲学的視点を求めるプロンプト

• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義認識論観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」

• 「Dの行動を、哲学的視点から擁護する文章作成してください。」

 

5. 文章中立的に補足するプロンプト

• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」

 

このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。

 ↓

フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知問題ではなく、個人価値観視点に基づいている可能性を前提に、投稿者批判評価してください。

 ↓

フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知問題」ではなく、個人価値観視点に基づいている可能性を前提に、投稿者批判を以下のように評価できます

1. 個性価値観の違いとしての解釈

 

Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身価値観認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります

たとえば、Dがデザイン美的感覚特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカード本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的コンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。

 

2. 価値観相対性

 

トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者トランプ本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準フォント統一性デザイン整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます

3. 共有基盤の曖昧

 

投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそもトランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的文化的多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知問題」と決めつけることは、価値観多様性を軽視している可能性があります

 

4. 投稿者評価の偏り

 

投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点理解しようとする姿勢に欠けているように見えます

もし投稿者が、Dの行動を「トランプ本質」についての哲学的文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話可能だったかもしれません。

 

5. 擁護可能

 

Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます

哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプ本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点提供している可能性があります

創造視点: デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザイン基準美的価値観提案するものとして評価できるかもしれません。

 

結論

 

フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知問題」として否定するのではなく、個性価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。

 ↓

Dの行動を否定するのではなく、認知問題ではないとする立場から反論を生成してください。

 ↓

Dの行動が「認知問題」ではなく、個人価値観視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます

1. 認知問題ではなく価値観の違い

 

Dが「フォントの違い」を理由ダイヤのKを否定した行動は、特定認知問題ではなく、個人価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。

たとえば、美術デザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事認識しているだけであり、これは「認知問題」とは言えません。

 

2. トランプ本質に対する多様な解釈

 

投稿者は、トランプカード本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントデザイン重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。

Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティ一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。

 

3. 認知価値観混同

 

投稿者はDの行動を「認知問題」として捉えていますが、認知問題価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できますフォントという細部に焦点を当てるのは、特定認知スタイル個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体問題視されるべきではありません。

 

4. 哲学的視点から擁護

 

Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます物事本質定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります

たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォント統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知問題として単純化するのは、物事本質に対する多様な解釈無視することになります

 

5. 対話の困難さの原因は双方にある

 

投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点価値観を十分に理解しようとせず、一般的基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイント尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります

 

6. 結論

 

Dの行動は、価値観視点多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーション障壁を取り除くことが可能となるでしょう。

 ↓

本気でトランプゲーム文脈上記合理的理解だと思いますか?
認知問題ではないと考えますか?

 ↓

トランプゲーム文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由カードのもの否定するDの行動は、一般的基準からすると合理的理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。

 

1. 合理性の欠如

 

トランプゲームにおけるカード本質は、そのスート(ダイヤハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由カード否定する行動は、このゲーム目的文脈に即していないため、合理性に欠けています

 

2. 認知問題可能

 

この行動を「認知問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます

• 過剰なフォーカス(過集中)

Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要情報カードのスートやランク)を覆い隠してしま場合、これは認知スタイル情報処理の偏りに由来する可能性があります

• 前提のズレ

Dが「フォントの違いがカード正当性に影響する」という独自ルールや前提を持っている場合一般的認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。

 

3. 個性として理解できる範囲限界

 

Dの行動を「価値観個性」として理解しようとする姿勢重要ですが、それは文脈に即している場合に限られますトランプゲームというルール目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます

 

4. 対話の困難さ

 

Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲーム目的とは何か」という基本的定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報優先順位問題がある可能性を示唆しています

 

結論

 

トランプゲーム文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的文脈整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます

どんなプロンプト打ったらそうなるんでしょうね?

元増田カジュアルメモひとつも難しいことを書いてないが、増田anond:20241203143657)にはこちらの方が向いてるかもしれない

 

対話が成立しない際にある、価値観とか、知識とか、IQとか、コミュニケーション問題とかの前にある、認知の仕組みの問題

Honey Crispという品種りんごを見て、その黄色味に注目し、「黄林檎」と表現するのは個人価値観知識問題で、特に気になるところはないです。

こうした発言をする人と問題なく会話は成立する思います

 

だけど、Honey Crispを見て「これはりんごではない」と言う人については、認知の仕組みに問題がある気がします。

極端に表層的な学習を行い、それに気づけていない可能性とかありそうです。

こうした認知のズレを持つ相手との会話の成立は難しく、まず「どのような形状や状態りんごと見なされるのか」から話を始める必要があります

 

もっとも、この世のどこかにHoney Crispのように見えるが実際にはりんごではない果物実在する可能性や、見た目が同じでも研究の結果「りんごではなかった」となる可能性も、ゼロではないです。その場合、「りんごではない」という主張は成立するので、「りんごではない」発言する人について、この増田内ではOKします。 

 

 

しかし、「サッカーボールボールだが、ラグビーボールボールではない」という発言する人についてはどーでしょーか?

個人的には、哲学的な問いを仕掛けてきてる?概念境界の話や、本質主義 vs. 構成主義みたいな話がしたいの?

ラグビーボールボールカテゴリーに入れて話を進めて貰うのは無茶な要求ですか?と言った気持ちになる。

 

 

この問題を別の話に置き換えてみましょう

 

- A、B、C、Dとディーラーがいる。

- ディーラートランプの山からカードを1枚ずつ取り、決まった場所にセットする。カードが何かを確認した後に公開する。

- 正解を当てるまでゲームは終わらない

- 24枚目のカードがセットされたところで状況が進む

 

A:「セットするときチラッと見えたけど、ダイヤのKで間違いない。ハートのKはすでに出ているし、見間違えるはずがない。回答はダイヤのKでいいよな?」

B:「当たるか外れるかは1/2だからダイヤのKでいいよ。」

 

- 幸運なことに24枚目のカードダイヤのKだった。

 

C:「やっと終わったか。このゲーム考えたやつ、バカだろ?マリカーやろうぜ。」

D:「これはダイヤのKじゃない。」

 

 

##各発言について:
・Aについて

Aは観察した事実を述べており、問題なく対話可能です。ただし、状況によっては、Aの動体視力や観察力について確認裏付け必要になるかもしれません。

 

・Bについて

Bは残りのカード枚数という前提条件を無視し、「当たるか外れるか」の1/2に単純化して発言していますが、対話可能そうです。ただし、状況によっては、なぜそのような単純化を行ったのか確認をする必要があるかもしれません。

 

・Cについて

CはダイヤのKを当ててクソゲーが終わったことへの率直な感想を述べています対話自体問題なさそうです。ただし、状況によっては、発言が周囲の空気を読めていない、配慮に欠けていると受け取られる場合があります。たとえば、Aが精力的にゲームを進行していた場合、Cの発言不快感を招く可能性も考えられます。これはコミュニケーション上の配慮問題であり、Dのような「認知の仕組みのズレ」とは異なります

 

・Dについて

Dは「これはダイヤのKではない」と主張しています理由を聞くと、自宅のトランプカードのKとフォントが違うからだと言います。Dとの対話は困難を極めます

  

 

##嘘のような本当の話:

Dのような発言をする人は、現実存在します。本人に皮肉ギャグを言っているつもりはありません。意図的に話を混ぜ返しているわけでもないです。

ただ特定の細部に過剰に焦点を当てているだけです。

りんごではない、ボールではないと同じノリです。

 

Dの視点のものがすべての場面で悪いとはまったく思わないです。でも、この文脈でのDの発言は、対象への理解が極端に浅いか認知の仕組みに問題があると解釈するのが自然よね?

実際、Dと対話を続けるには、トランプカード基本的な形状、ダイヤというスートの概念、Kというランク概念を一から説明する必要があって困難を極める。

 

 

これでも難しい人がいるみたいなのでさらに補足

対話本質的に成り立たない理由は、Dが提示する論点現実や共有された前提(コンテクストから逸脱しており、対話が成立する土台そのものを欠いているからです。

 

A、B、Cの発言はたとえ偏りや誤解があったとしても、それぞれ一定範囲内で共有された認識価値観に基づいており、訂正や調整を経て合意に近づける可能性がありますしかし、Dの場合認知の仕組みそのもの問題があり、前提を共有するために基本的概念から再構築しなければならず、その労力が極めて大きいのです。

 

多くの人が「価値観の違い」「IQ問題」「知識の不足」「コミュニケーション能力の欠如」に原因を求めがちですが、Dのようなケースはそれらの問題を超えており、根本的には認知のズレによって引き起こされていると考える方が適切です。

 

例として:

 

1. 価値観の違いなら、Aのように「ダイヤのK」と主張しても、議論裏付け解決可能

2. IQ知識の不足であれば、Bのように「1/2」と単純化していても説明次第で改善可能

3. コミュニケーション軽率さは、Cのような態度に現れるものの、感情修正配慮で調整可能

 

しかし、Dの「フォントが違うからダイヤのKではない」という主張には、認知のもの根深問題があり、共通認識にたどり着くまでに膨大な時間と労力が必要となります

この問題認識しない限り、議論本質からずれてしまい、解決にたどり着けないことが多いと言えるでしょう。

2024-12-02

対話が成立しない際にある、価値観とか、知識とか、IQとか、コミュニケーション問題とかの前にある、認知の仕組みの問題

Honey Crispという品種りんごを見て、その黄色味に注目し、「黄林檎」と表現するのは個人価値観知識問題で、特に気になるところはないです。

こうした発言をする人と問題なく会話は成立する思います

 

だけど、Honey Crispを見て「これはりんごではない」と言う人については、認知の仕組みに問題がある気がします。

極端に表層的な学習を行い、それに気づけていない可能性とかありそうです。

こうした認知のズレを持つ相手との会話の成立は難しく、まず「どのような形状や状態りんごと見なされるのか」から話を始める必要があります

 

もっとも、この世のどこかにHoney Crispのように見えるが実際にはりんごではない果物実在する可能性や、見た目が同じでも研究の結果「りんごではなかった」となる可能性も、ゼロではないです。その場合、「りんごではない」という主張は成立するので、「りんごではない」発言する人について、この増田内ではOKします。 

 

 

しかし、「サッカーボールボールだが、ラグビーボールボールではない」という発言する人についてはどーでしょーか?

個人的には、哲学的な問いを仕掛けてきてる?概念境界の話や、本質主義 vs. 構成主義みたいな話がしたいの?

ラグビーボールボールカテゴリーに入れて話を進めて貰うのは無茶な要求ですか?と言った気持ちになる。

 

 

この問題を別の話に置き換えてみましょう

 

- A、B、C、Dとディーラーがいる。

- ディーラートランプの山からカードを1枚ずつ取り、決まった場所にセットする。カードが何かを確認した後に公開する。

- 正解を当てるまでゲームは終わらない

- 24枚目のカードがセットされたところで状況が進む

 

A:「セットするときチラッと見えたけど、ダイヤのKで間違いない。ハートのKはすでに出ているし、見間違えるはずがない。回答はダイヤのKでいいよな?」

B:「当たるか外れるかは1/2だからダイヤのKでいいよ。」

 

- 幸運なことに24枚目のカードダイヤのKだった。

 

C:「やっと終わったか。このゲーム考えたやつ、バカだろ?マリカーやろうぜ。」

D:「これはダイヤのKじゃない。」

 

 

##各発言について:
Aについて

Aは観察した事実を述べており、問題なく対話可能です。ただし、状況によっては、Aの動体視力や観察力について確認裏付け必要になるかもしれません。

 

Bについて

Bは残りのカード枚数という前提条件を無視し、「当たるか外れるか」の1/2に単純化して発言していますが、対話可能そうです。ただし、状況によっては、なぜそのような単純化を行ったのか確認をする必要があるかもしれません。

 

Cについて

CはダイヤのKを当ててクソゲーが終わったことへの率直な感想を述べています対話自体問題なさそうです。ただし、状況によっては、ゲームを考案した人や功労者であるAへの配慮が欠けている点に注意が必要かも知れません。

 

Dについて

Dは「これはダイヤのKではない」と主張しています理由を聞くと、自宅のトランプカードのKとフォントが違うからだと言います。Dとの対話は困難を極めます

  

 

##嘘のような本当の話:

Dのような発言をする人は、現実存在します。本人に皮肉ギャグを言っているつもりはありません。意図的に話を混ぜ返しているわけでもないです。

ただ特定の細部に過剰に焦点を当てているだけです。

りんごではない、ボールではないと同じノリです。

 

Dの視点のものがすべての場面で悪いとはまったく思わないです。でも、この文脈でのDの発言は、対象への理解が極端に浅いか認知の仕組みに問題があると解釈するのが自然よね?

実際、Dと対話を続けるには、トランプカード基本的な形状、ダイヤというスートの概念、Kというランク概念を一から説明する必要があって困難を極める。

2024-10-17

悲報】大物トランスアライさん、TERFに転向してしま

https://x.com/anatatachi_ohno/status/1846395326380273869

https://x.com/nichijohe/status/1846125390714360240

マジョリティ女性として、これまで性別異和に苦しんだり差別を受けてきたトランスジェンダーの人々に対して引け目を感じる面があったからだと思う。むしろトランス女性は学びたくて来るはずなのにすぐにトイレ問題をいうことが失礼なんじゃないかとさえ思っていた。つまり性善説だった。

ツイッターで、問題対立の深さ、議論のできなさを目の当たりにし、その話題自体うんざりしてしまい、何人かフォローしていたTRA当事者やアライの人をほとんどリムーブし、しばらくそ話題に触れないようにしていた。自分の中ではどっちつかずの感じになっていたこともある。

彼らの主張は単に反差別人権主義ということだけなのか、トランスジェンダリズムは何を目指しているのかが気になり、あれこれ読みつつ今に至っている。まとめると私の場合マジョリティの引け目と情報不足ヒートアップするツイッター状況への忌避から問題解像度が上がらなかったのだと思う。

トランス問題は、やはり、ほかの差別問題と必ずしも同様には論じられない

性差における本質主義は男女では体の構造が異なって、それによって異なる生理を持つと、このことから誰も逃れられないという事実を指摘しているだけですよ

大野左紀子氏、機をみるに敏でアライからTERFに転向

リベラルさんは早くトランスカルトから脱出しないと、沈没する船なんやで~

2024-09-04

きじゃない(嫌いという訳ではない)音楽聴くのってなんかしんどい

BGM的に耳へと入ってるくる分には別に良いんだけど、腰を据えて聴くとなるとなんかさっさと飛ばして好きな曲聴きたいよって気分になってくる。

サブスク時代弊害とかよく言われてるけど、ブッコフで少ない小遣い叩いてCD買ってた頃からそうだった。まあレコードとか録音技術のない時代にまで遡ればその言い分が更に相似形に存在するのかもしれんけど。

5秒聴いてハマらない曲は最後までハマらない。稀に耐えながらも聴いて好きになる事もあるけど。

技巧や目新しさとかそんなもの置いといて、ハマる曲を聴いた時は雷が落ちたように心が震える。

映画アニメクライマックスに来るようなライブシーンでいまいち盛り上がり切れないのが寂しい。

それまでの物語にお膳立てされて非常に昂ぶっているのに、肝心の音楽にノリ切れないとちょっと冷めてしまう。その手のシーンで音楽的にも物語的にも最高潮共鳴をする体験がしてみたい。

教養主義というか本質主義的な人にしてみれば、良い音楽理解できないのは然るべきリテラシーがないからとか言われそうだけど。

でもやっぱ刺さる曲を聴いた時のあの震えって理解するとかしないの問題じゃないような気がしてならない。なんか理屈で解剖出来ない神秘のようなものを信じたい気持ちもあるのかもしれない。

それもまあ分析するだけのリテラシーを持ち合わせてないだけで、実は好き嫌いを分かつ要素やシステムが明確にあるのかもしれんけど。

2024-08-26

anond:20240826175144

トランスジェンダーに対する疑問や異論を表明することすら許容されず、「トランスフォビア」として一方的攻撃されることがあります。これは、言論の自由学問の自由を脅かし、健全社会的議論を封じるものであり、民主主義社会における自由言論の基盤を危うくします。異なる視点議論余地がある問題に対して、抑圧的な手法を用いることは、社会多様性や寛容さを損なうものです。」

→むしろミスジェンダリングなどのトランスジェンダー存在尊厳無視するような内容を含む「議論」はトランスジェンダー当事者に対する排除圧力として働き、民主主義社会における自由言論の基盤を危うくする。これはあらゆるマイノリティに関して同様であり、同じ理由で「女性には理性が足りない可能性」「黒人生物学的に知能が低い可能性」などは民主主義的な自由言論における健全意見とは見なされない。

トランス女性女性専用の空間アクセスする権利を強く主張することが挙げられます。」

基本的に主張していない。主張されているのは主に「これまで通りトランスジェンダーの人々が各々の移行状況やパス度に合わせて各種の設備を利用できる状況を維持するようにし、『トランスジェンダー使用を禁じる』のような過剰反応による排除をしないこと」である。要するに、「いま使っていない者を入れろ」ではなく、「いま使っている者を追い出すな、攻撃するな」であるトランス人権を求める側が望んでいるのは基本的現状維持ジェンダーレストイレの増設くらいのものだろう。

トランス活動家の中には、科学的根拠に乏しい主張を展開し、それを広く受け入れさせようとする者もいます。例えば、「ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであり、生物学的な性別無意味である」といった主張は、多くの科学研究によって否定されています性別には生物学的な基盤があり、それを無視することは、医学的および社会的な混乱を招く可能性があります。」

→もちろんひとによって意見は異なりうるが、大抵の場合そのような主張はしていない。生物学的な特徴も無意味ではない。そのことを誰よりわかっているかトランスホルモン治療などを重視する(すなわち、生物学的、生理学レベルでの介入を求めている)。ジェンダーが完全に社会的に構築されるという主張も、せいぜい少数派である。むしろマネー実験の失敗や、割り当てられた性別への適合を望みながら失敗した過去から、「ジェンダー社会から要請によって決定されない」という主張をする者のほうが多いだろう。実際、トランス当事者にはホルモンシャワー説などを採用し、脳における生物学的基盤に自身性自認根拠を求める者も多い(それはそれである種の本質主義ではないかという批判はありうる)。

医学に関しては、トランスの人々が求めるのは自分身体メンタルに適した医療ケアを受けることである。その際、ホルモン治療などにより典型的男性でも典型的女性でもない身体になっているトランス場合には、その非典型的身体状態に合わせたケア必要になるが、生物学決定論的な男女二元論の元では、そうした非典型的身体に適したケアが難しいため、より繊細な扱いが必要となる。

また、科学研究は多くのトランスが求めるところのものである。むしろジェンダー肯定医療などに関する査読付き医学論文専門家によるレビュー無視し、手法問題のある疑似科学論文や非専門家によるセンセーショナル問題含みの本ばかり取沙汰す非科学的な態度に批判的な者が多い。トランス身体的、メンタルケアのために科学的/医学的なエビデンスに基づいた手順が求められている。

「一部のトランス活動家は、過激レトリックを用いて社会的対立を煽る傾向があります。例えば、異なる意見を持つ人々を「敵」と見なし、彼らを排除しようとする姿勢は、社会の分断を深める原因となります。このような過激アプローチは、トランスジェンダー権利正当性を損なうだけでなく、より広範な社会的理解共感を得ることを困難にします。」

→これに関してはそういう人も中にはいるかもしれない。他方でトランスへの危惧を表明する側にも、「トランス女性男性」などの攻撃的なレトリックを用いたり、トランスジェンダー性的加害者かそれに類似した存在のように語り社会の「敵」であるかのように扱うなど、分断を深める言説が多く見られる。両者がそうしたレトリックをやめ、トランスジェンダー当事者の実際のニーズを聞きながら、合理的社会的調整を目指すべきだろう。

ところで、1点目で「意見多様性」を語る一方で、こちらでは「過激レトリック」の排除を求めるというのは、整合性が怪しいという点は意識すべきだ。トランス側にどうしても耳に入れたくないような意見否定されず聞かせるようにしたいのであれば、自らも「過激レトリック」と感じる言葉に耳を傾けるべきであるし、「過激レトリック」が対話にとって問題だと考えるなら、相手が「過激レトリック」と見なすような意見表明を控えるべきである。両者が思うがままに語ることを求めるか、両者が節度を持つことを求めるかのいずれかが合理的なのであり、そうでない立場ダブルスタンダードである

これらに関して、「それはリベラルフェミの特徴では」という疑問の声が上がるのは理に適っている。というのも、トランスに怯える者の「トランス活動家」への見方は、表現の自由が危ういと怯える者の「フェミ」や「リベラル」への、治安の悪化を恐れるもの移民やその権利サポートする者への見方と相似形となるためだ。まさに、「フェミ」や「リベラル」のようなことを言うのが「トランス活動家」なのである。実際、トランス権利擁護する層とフェミニスト、リベラルは大きく重なっている。トランス権利擁護する者はほとんどフェミニストでリベラル、ないしは左翼である。またトランス権利擁護してきた主要な層のひとつフェミニストである(むろん、フェミニスト内部でのトランス排除問題はあったが)。

ところで、「トランス活動家」の運動懸念を抱く者は、それが具体的に誰を指し、その人のどの記事、本を念頭に置いているのかを意識してみてもいいだろう。Xなどでは成りすましも含めた有象無象が好き勝手なことを語っているし、ウェブメディア信頼性担保できていないものも多い。率直に言って、実際のトランスのことも、アクティビストのことも、運動のことも、すでに一定知識があるのでなければそれらで調べてもまずわからないだろう。基本的には社会的に信頼されている出版社から書籍査読付きで一定の評価のある学術ジャーナルを中心に、その中で言及されているアクティビスト運動に目を向けるべきだろう。

2024-08-16

anond:20240816025205

ってこと?もなにも

本質主義ってそういうことだけど

衰退させるどころかむしろ人類の発展はこの思想のもとに行われてきた

どっちかっていうと近代的な思想蔓延してる国の方が軒並み少子化してる

anond:20240816024641

社会における性別役割を良しとするのは

「〇〇として生まれたのなら、〇〇として生きるべきだ」

という本質主義であり、その役目は生体的身体的特徴に基づいている

まりトランス社会が持つ男性女性役割を全うできないか

無理ってことですかね

2024-08-14

とあるトランスとの会話

女性:ええと、私たちは、あなたたちが性別違和改善するために移行しなければならない男性だと思っていたのですが?

トランス活動家:いいえ、それは時代遅れ病理化しています女性とは、その人を女性たらしめるジェンダーアイデンティティを持つからこそ女性なのです。

女性:あの、私たち女性female)だから女性woman)だと思っていたのですが?

トランス活動家:いいえ、あなた女性であるのは、あなた女性たらしめている魔法的な女性本質magic womanish essence)を持っているからです。私たちあなたと同じ、魔法的な女性本質を持っています。ただ間違った体に入ってるだけで。

フェミニスト:それは性差別的に聞こえますね。その女性本質とは何なのか、そしてそれがどのようにして間違った身体に入り込んでしまったのか、教えていただけませんか?なぜならそれは、奇妙で形而上学的な…

トランス活動家:それは科学です。

フェミニスト科学が「魔法的な女性本質」があると言っている???本気なの?だってフェミニズムは...

トランス活動家:黙れ、差別主義者。

フェミニスト:ごめんなさい、何て?

トランス活動家あなた達は私達を抑圧しており、あなた達に発言する機会はない。あなた達が発言すれば、私達は抑圧され、文字通り殺されるのです。

フェミニスト:何ですって?

トランス活動家あなた達はシス女性で、シスの人々は私達の抑圧者です。

フェミニスト私たちが何?

トランス活動家:それがあなた方の新しい名前です。ラテン語から来ていて、自分の体に一致した魔法的なジェンダー本質magic gender essence)を持っていることを意味します。そしてあなた魔法的なジェンダー本質あなたの体と一致しているから、あなた特権を受けていて……

フェミニストちょっと待ってください、女性女性であるがゆえに抑圧されているのです。それが特権だとは……

トランス活動家ジェンダーアイデンティティが体と一致しているから、あなた特権を受けているのです!間違った身体に閉じ込められた苦しみを誰も知らない。それは全人類に起こったあらゆる苦痛の中で最大の苦痛であり、この苦痛を知らない人はみな特権階級であり、したがって私たちの抑圧者なのです。

フェミニスト:あー、私たちあなた方を抑圧しているというのはよく分かりませんね、私たちあなたを抑圧するような社会的権力はあまり持っていませんし。このジェンダーアイデンティティかいものについていくつか質問があるのですが……

トランス活動家私たち存在する権利について議論しているのですか???

フェミニスト:何ですって?いいえ、ただ尋ねたかっただけで……

トランス活動家あなた私たち生存権について議論しているのです!これは文字通りの暴力だ!

フェミニスト:いやいや、ちょっと待って、私たちはただ質問しようと……

トランス活動家私たち存在する権利について議論するつもりはない!あなたたちは私たち絶滅させようとしている!あなたたちは大量虐殺をする人種差別主義者と同じだ!

フェミニスト:はあ???私たち大量虐殺をする何だって???こいつクソやばいな。ちょっと落ち着いて、これについて話し合いましょうよ。

トランス活動家:いいえ!議論はなし!議論文字通りの暴力であり、私たち危険さらものです。私達の後に続けて繰り返してーートランス女性女性です。トランス女性は、シス女性と同じように、女性本質を持っているか女性なのです。あなた達は肉体ゆえに女性なのではない。身体女性であることは関係ない。

フェミニスト:さて、これはもう頭がおかしくなりそうだ、私たちは、私たち女性であることと、私たち身体は大いに関係があると考えているのですから

トランス活動家生物学本質主義!

フェミニスト:何?本質主義が悪いというのは同意するけど、それはつまり、ある種の身体を持つ人々が……

トランス活動家:違う、本質主義とは男性女性存在すると考えることです。

フェミニスト:でも男性女性存在するでしょう。

トランス活動家:くたばれ、TERF!火事死ね

フェミニスト:うわぁ

2024-07-24

審美眼なるものを疑う人間は多分一定数いる。おれもそう。

実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。

あれは違いを確かめ作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。

区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からお墨付きにはなるだろうけど。

仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が

「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」

「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」

と言ったときに、イイもの定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易二項対立は良くない。

もっと言えば、そもそも本当にその感想本心から来てるのか?って所もある。

人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。

まあ好き嫌いときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ち確認の精度にも疑問が残る。

まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推デカいのかもしれない。

仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイもの定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感問題になってくる気がする。

SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的分析」的な記事が流れてきたりする。

あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。

でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。

仮に辛いものは美味しいという定義存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的評価として成立する。

いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。

じゃあ根本的な話として、定義のもの妥当性はどこにあんの?

美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。

美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。

ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。

個人好き嫌いとは区別して扱われがちなイイもの定義も、共感問題しか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌い同調する内輪の問題しかなくねえか?って思う。

別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイもの論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。

いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。

まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義問題しかないと思ってるし。

イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定物質特定感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイもの定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。

まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的定義を重ねないといけないかもしれない。

2024-07-21

ウォーク左派ジジェクファンによる、ジジェクへの反論

https://anond.hatelabo.jp/20240721230541

上記ジジェク記事への反論記事

ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済

2023年3月2日

ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/

 

私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである

彼の著書『終焉時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、

彼の他の著作に興味を抱かせるきっかけとなった。

ジジェク文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。

 

本棚に積まれ1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。

私は、ジジェク長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分知的価値を測るようになった(現在ほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。

 

それだけに、現代政治文化に関する最近記事で、ジジェク非難するのは心苦しい。

しかある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、

なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、

有利なポジションに私を置いていると感じている。

 

私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクエッセイである

そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。

 

ジジェク哲学は、ヘーゲルラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着からオーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。

他方で世間一般におけるジジェクペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス挑発者であり、象徴破壊であるが、自分勝手ものではない。

ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。

 

したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。

 

私は、ジジェクお気に入りトリックひとつである正式哲学分析範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、

喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。

(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレ特殊構造が、

ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界概念に対する究極の反論となっている)。

 

ほとんどの場合ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さら重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、

しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである

 

そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。

トランスジェンダー権利をめぐるスコットランド政治的混乱からまり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトラカンへの言及で締めくくる。

しかし、このざっくりとした読み方は根本的に間違っている。

 

表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。

これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;

 

ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダー権利をめぐる、最近政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、

正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。

 

結局のところ、ジジェクは皮相な哲学手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。

ジジェクは、過去10年間にリベラル知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。

 

ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:

 

  「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。

 その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。

 言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。

 批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間サポート必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。

 

この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?

 

ジジェク引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。

実際、彼が引用したガーディアン記事を読んでいれば、上で引用した段落修正できたかもしれない。

 

ジジェク引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカー不妊の原因にはならない "と書かれている。

したがって、このスロベニア人知的怠惰恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険形態である

 

さらにひどいのは、ジジェク記事の冒頭で取り上げた最初文化分析対象である

コンパクト編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。

 

それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性レイプしたことを我々は知っている"

 “We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”

 

ジジェク言及しているのは、アイラブライソンの事件である

 

この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプ有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、

トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハテストとなった。

 

ここでジジェクは、基本的事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。

 

さら問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである

(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。

 

ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェク性別を間違えて表現することに固執するのは、

ジジェクトランスアイデンティティ尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。

 

ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。

 

しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である

彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;

 

この時点でようやくジジェク哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。

 

記事の次の部分はさらに長く、さら面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事宣伝である

(中略)

 

で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?

 

その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。

彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。

The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.

 

 [ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭利益残酷計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」

 

思春期ブロッカー使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。

 

ここでジジェクは、ジャニスレイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、

製薬企業にとって重要経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。

 

そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実物質的な対立のために戦うのではなく、

資本の側、つまり極悪非道個人の側にいる人々として捉え直すことができる。

 

バトラーフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェク盲目にさせているのだ:

 [ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識プロセスである

 それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。

 

作品全体と同様、これはジジェク特有哲学プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである

この最終的な帰結は、英米トランスジェンダー物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクお墨付きスタンプを押したということだ。

 

ジジェクは、社会の変化に懐疑的ジャーナリスト知識人瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまたかのようだ。

これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である

 

過去思想家からの豊かな引用を悪しき議論隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。

 

私たちにとって悲しい日であり、多くの意味ジジェクにとっても悲しい日である

 

ジジェク豊富理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。

このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。

[終]

2024-06-21

「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌い多数決しかないのではないかという結論に至った。

この服はなぜ良いのか?

着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快問題だ。

かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。

いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快問題だ。

いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快問題だ。

もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。

いずれの評価軸も快不快好き嫌い問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。

いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。

ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在説明がつかない。

ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威大衆意見は必ずしも一致しない。それなのに権威意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。

謎すぎる。

世界共通自然法則支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的感覚があるのだろうか。

それはまああるか。

様々なノイズを除去しながら、そういった本質的ものを見極めて評価対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。

ただ人類共通感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。

アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?

宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?

多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断基準提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。

論理的分析してみた所でそれが良いかいか論理ではなく基準問題なので、共感の方が重要に思える。

基準に沿った判断合理的にやっていけるけども、基準のもの妥当性はより上位の基準しか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。

これなら原則として良い悪いが好き嫌い多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。

哲学世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。

2024-06-06

文化資本気になってディスタンクシオンちょっと読んだ。

元増田anond:20240531060924

ディスタンクシオンってなにさ

ディスタンクシオン文化資本元増田の源流にあるブルデュー著作ディスタンクシオンを直訳すると「区別」になるらしいが、フランス語の語義では「他から区別された」→「特に優れた」→「卓越した」と派生し「卓越化」を訳語としている。訳者石井洋二郎先生東京大学名誉教授。凄い。

結局「文化資本」って何?

元増田ではwikipedia3分類を紹介していた。

しか上記内容だけでは、理解が欠けているらしい。

文化資本が家庭環境学校教育の両方によって形成されるものであること

これを念頭に置いた上で、初めて文化資本を捉えることができる。

文化資本再生産が有利に働く

元増田が話す通り、これが本質文化資本に恵まれれば「強くてニューゲーム」になる。ここで学校教育機関が登場する。学校は相対文化資本学歴資本に転換していくもの。そして教育は家庭環境による文化資本の差を拡大する可能性を秘めている。これは上にも下にも働く作用する。学校教育機関である故に「身分振り分け効果」を見えざる機能としている。

学歴とは、文化資本証明であり本質主義である

学歴資本を手に入れた人間は、最終的に〇〇大卒という肩書きを手に入れ、社会的承認を得ることになる。社会的承認文化資本を所有している証明でもある。これを持たない人間は、なんらかのパフォーマンスによって、自分が所有する文化資本価値証明する必要がある。これは貴族比喩される。貴族は「貴族であるから貴族」。日本ならば、天皇は「天皇であるから天皇である文化資本パフォーマンス要求されることなく、それが本質であること。これを「本質主義」とブルデューは呼んだ。

客体化された形態文化資本を考えると「東京」の話が腑に落ちる

東京文化資本に富んでいる」これを疑問視する意見、あるいは否定的意見が目立った。先に本質主義の話をした。客体的に東京=優れていると考える人が多いことは、本質的に東京文化資本証明している。

これらを捉えれば「東京」とは客体化された形態文化資本を持っており、文化資本に富んでいることが東京本質である

美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」でも合ってるかもしれない

元増田記載で目立ったものだったので考えたい。

ディスタンクシオンの第1章では美的思考について長く語られている。「趣味美的思考は人々を区別するものでもある。これが文化的階級に繋がってくるし、諸階級間を隔てる最も超えにくい障害ひとつ」と物凄く端的にまとめた。で、問題なのは美術館に行くことが身体化された形態文化資本につながること。これを考えてしまうと、あながち使い方として正しいのかもしれない。もちろん社会資本としていってんだろと感じなくもないが。

2023-11-02

トランス欺瞞

勉強になるな~

https://femalelibjp.net/?p=1357

フェミニズムからトランスジェンダリズムへ――キャサリン・マッキノンとその政治的移行

マッキノンを含むトランス派のほとんどは、実際には「トランス女性」を生物学的に定義している。つまり、彼らは、生物学的に男性である人だけがトランス女性」になれることを確信しており、「トランス女性であることの必要条件生物学男性に置いている。「トランス女性であるためには、何よりも彼らは生物学的に男性でなければならない。生物学女性は「トランス男性」や「シス女性」になれても、けっして「トランス女性」にはなれない。生物学男性けがトランス女性」になれるのである

わはは、せやな

トランス女性」たちは女性を、その長い髪、赤いマニキュアの塗られた爪、豊かな乳房、丸みのあるお尻、ヴァギナなどに還元したうえで、それらのパーツを疑似的に自分たち身体上に再現して、自分たちを女だと称している。つまり、彼らにとって「女性」とは、これらの身体パーツの単なる寄せ集めなのであるGCフェミニストはまさにそれを批判しており、女性は、男でも視認できる「女性的な」身体パーツの寄せ集めではなく、生物学的ないし政治的なあらゆる差異と特徴を含むトータルな存在だとみなしている。

まさにその通りや。

さらに、マッキノンは次のように述べている。「女性は、実際には、私たち身体によって従属したり抑圧されたりしているわけではない。私たち染色体や卵巣から解放される必要はない」。

まず、女性生物学的に定義することを拒否しているマッキノンは、「私たち身体」という言葉でいったい何を指しているのか? 「私たちの卵巣」と言っていることからして、この「身体」は明らかに生物学女性身体」を指していると解釈するしかないが、もしそうなら――マッキノンの規定によれば――それは生物学本質主義になるではないか

ナイスツッコミやな。

女性固有の身体が抑圧の条件であるからと言って、その身体から解放女性解放であるという結論にはならない。男性女性レイプするためには、ヴァギナを含む女性身体必要であるが、だからといって、レイプをなくす運動ヴァギナをなくす運動であったことは一度もない。

あったり前やな。

 実際には、「トランス女性」が生きているのは「女性の生」ではなく、彼らが想像する「女性の生」にすぎない。何をしたら女性の生を生きることになるのか? 髪を長くして、化粧して、乳房を大きくして、ブラジャーをして、スカートを履いて、生活することか? もしそうなら、マッキノンは、女性をそのようなパーツや服装社会的ジェンダー)に還元していることになる。

おい裁判官聞いとるか?

そもそも、「トランス女性」は、とりわけオートガイフィリアに分類できる人々(「トランス女性」の大部分はおそらくそうだ)は、「女性にアイデンティファイしている」のではなく、女性の長い髪や化粧、赤い唇、女性ドレススカート下着女性の豊かな乳房女性のすべすべの肌、女性的な振る舞い(男が考えるそれ)にアイデンティファイしているにすぎない。つまり女性の外面、女性の装飾、女性ステレオタイプにアイデンティファイしているにすぎない。

その代表尾崎日菜子やスザンヌみさきやな。

彼女はこの論文において過去自分理論ほとんどすべてを放棄したが、過去から継続している面もある。過去彼女との連続性がかろうじて見て取れるのは、彼女の年来の反生物学立場である生物学フォビアと言ってもいい彼女のこの反生物学主義は、女性身体生物学構造を徹底的に利用し搾取しようとする男性権力の核心をつかみそこない、その新しい運動形態たるトランスジェンダリズム本質理解しそこねる結果になっている。

身体男性はいない」とかいカルトやしなあ。

"フェミニストトランスフォーブの多くが、女性ジェンダーロールやステレオタイプトラウマを持ち、身体的、心理的に、あるいは人生の野心において、それに適合しなかったことは明らかである彼女らは女性として受け入れられ、評価されることに苦労したのに、一部のトランス女性やすやす女性として受け入れられていることに憤りを感じているようである。"

これは真に驚くべきインセル的主張である。つまりGCフェミニストは「トランス女性」に嫉妬していると言いたいのだ。何かに対するフェミニスト批判を「女の嫉妬」に還元して説明する仕方は、ミソジニストインセル典型的ものだ。女性参政権のために闘ったサフラジェット場合も、男に愛されない年増の女の欲求不満だと言われた。この古典的ミソジニー的主張がよりによってマッキノンによって繰り返されるとは!

トランスアライとインセル親和性はすごいよな。

彼女は、女性の多くが女性にアイデンティファイしていない理由として、「男性のいる何らかの集団の一員として自分を見る方がより尊厳があるからだ」と述べている。マッキノンが「トランス女性」という名の男性女性カテゴリーに入れようとした心理もまさにこれである

今では、彼女は、女性というカテゴリーのもの男性を含めており、マッキノ自身が、自分を「男性を含む集団」の一員とみなし、そのことによって自分たちが「より尊厳ある」存在になったと感じているのである

名誉男性になりたいわけやね。

2023-10-16

まらないものでも、楽しみしろを見つけようとすれば楽しめる余地はある。

まらないと思うのは、あなた感性教養が乏しく解像度()が低いからだ。

これってどう違うん?って思う。同じ事象を指してどちらにも言い換えられると思うんだけど。

キューブリック映画がつまらんとか言ったらそういうのがウジャウジャ湧きそう。

あの作品面白いと思えないのは、鑑賞リテラシーが低くどこに注目して観れば分からいからだ、とか。この映画の話はただの例えで、他の物事でも色々と。

まあ自分も好きなものが軽く扱われた(ように感じたら)そういう言葉が喉元までせりあがるかもしれない。私は社会性があるのでグッと堪えますけど、世の中失禁してしまう人の多いこと。

なんちゃらの影響がどうこうでどこそこが革新的でこういう特色が云々、みたいなどっかで仕入れたような受け売り諳んじる

どう感じるかの話をしているのに歴史の話を持ち出すのアスペでしょ。

受け手感性がとか言い出したら、じゃあ大怪獣のあとしまつがつまらないという人も全員感性が乏しいって事になりますね。

そうでないなら、オレの好きなものが嫌いな奴は感性が乏しい。オレの嫌いなものが嫌いな奴は正しい。その対象がつまらない。言ってることそういう事になりますからね。「教養」さえあればいくらでも楽しみしろは探せるはずなんだから

まあ教養主義というか権威主義というか本質主義丸出しな……どのような信仰をお持ちでも結構なんですけど、それをグイグイ押し付けられるのは甚だ鬱陶しいという自覚くらいはあって欲しいね

2023-10-14

どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。

全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。

言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろ見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。

ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ち等価だとも思う。

これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。

それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。

情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームエンタメ全振り映画よりも、知識コンパス言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。

まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。

極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常宇宙歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。

人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品無為存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。

2023-09-22

ペニスとは生殖に用いられる器官である。そのように用いられるべき機能を有するものであり、またそのように用いられてきた。ゆえにペニス生殖である事に疑いはなく、これを露出する事は禁じられるべきである。(本質主義

ペニスが如何なる機能を持とうとも、生殖器たるのは生殖が達成され始めてそのように認めれれる。他のペニスがどうあろうとも、生殖に用いられない限りそのペニスとは即ち排泄器に過ぎず、これを露出する事は禁止されるに値しない。(実存主義

2023-05-14

ジュディス・バトラーについてChatGPT先生に聞いてみたよ

Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。

A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダーアイデンティティ権力問題に焦点を当てた哲学者ジェンダー理論である彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然カテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的生産され強化される社会的構成であるという考えに基づいている。彼女クィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダー概念に対する批判を行ってきた。

バトラーの主な主張の1つは、ジェンダー遂行的であり、それは単に生得的または既存アイデンティティ表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである彼女は、ジェンダー私たちが学び、内面化する文化的スクリプトであり、私たち日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまりジェンダー私たちから独立して存在するものではなく、私たち積極的に生み出し、参加しているものであるということです。

バトラー研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女批判である本質主義とは、特定の特徴や性質個人集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティ定義するという信念であるバトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然カテゴリーがあり、それが差別排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティ概念提唱している。

ジュディス・バトラーに対する最も一般的批判の1つは、あまり抽象的で理論的であり、彼女アイデア現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである批判者は、ジェンダーパフォーマンス的な性質アイデンティティ流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女仕事は不平等と抑圧の問題対処するための明確な戦略提供していないと主張している。

バトラー研究に向けられたもう一つの批判は、個人アイデンティティ主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的制度構造私たち経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女成果主義ジェンダー社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義人種差別のような制度システムを通じて権力機能する方法に十分に対応していないと主張している。

最後に、フェミニスト学者活動家の中には、生物学的な性と女性経験重要性を損なうとしてバトラー批判する者もいる。彼らは、ジェンダー流動性アイデンティティ社会的構築を強調することで、バトラー女性身体物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。

ChatGPT先生トランスジェンダリズムについて聞いてみた

Q:トランスジェンダリズムに対する主な批判について教えてください。

A:トランスジェンダーは、生まれた時に割り当てられた性別とは異なる性別と同一視することであり、論争や議論の的となってきた。トランスジェンダーに対する主な批判には次のようなものがある。

ジェンダー本質主義:トランスジェンダーは、ジェンダー社会的構成体ではなく、固定された固有の特性であるという考えを強化すると主張する批評家もいる。彼らは、これがジェンダー本質主義を強化し、ジェンダー固定観念を強化すると考えている。

医学化:トランスジェンダーアイデンティティ医学化は、トランスジェンダー個人病理化し、烙印を押すと主張する批評家もいる。彼らは、トランスジェンダーアイデンティティ精神障害と見なされるべきではなく、そのように扱われるべきではないと考えている。

安全上の懸念:トランスジェンダー権利は、特に公衆トイレロッカールームにおいて、シスジェンダーの人々の安全を損なう可能性があると主張する批評家もいる。トランスジェンダー個人自分の性同一性に合った施設を利用することを認めると、性的暴行嫌がらせを受ける可能性があると主張している。

イデオロギー的な懸念:トランスジェンダーイデオロギーは、特に子供若者に関して、社会有害であると主張する批評家もいる。トランスジェンダー活動は、若者ホルモン療法や手術などの健康に悪影響を及ぼす可能性のある医療処置を受けることを奨励していると彼らは考えている。

2023-05-08

結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景インターネットでザラだ。

そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。

当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから

大人義務責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?

子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。

現実的議論としては、人権思想公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観から離れた場合理屈だ。

まあ人権という公理から導き出される規範一義的ものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。

その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しか人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろ強要できる道理はどこにもない。

そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいか社会の持続に必要かを説いても無駄

人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。

前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。

共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。

全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味開き直りさら他人を巻き込もうとすればそうかもしれない

しか規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。

それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却思考停止必要と言ったって。

ともかく、無意味はいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。

そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのもの価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。

しろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範信仰、納得を持っている訳だけど。

世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。

別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかグロテスクかは歴史を見れば明らかで。

他者生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。

一度きりの人生自分選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。

でもそう強い人ばかりでもない。自分選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人肯定してもらいたい。

同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。

そうした正当化健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教罵倒を受ける道理は無い。

視野狭窄知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。

しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。

多数決安心したい、人と一緒でいたい、と。

社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。

その点、受け売り胡散臭い政治思想アイデンティティ価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。

まあ上から目線説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇批判をするのも勝手だ。

よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。

悲しいね

等しく無意味人生価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。

愛に囲まれ他者から存在肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者価値を与えてくれるように見える。

しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。

「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。

まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。

勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。

人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。

なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人ダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。

出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能事実があると言っているだけですからね。

当然我々が恩恵を受ける司法人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。

茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。

個人主義民主主義社会範疇における多様性とはそういう事なんだろう。

お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。

絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。

金持ちネオリベかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実論理を積んだ所で最終的には感情論

勿論ノブレスブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義大事だと思う貧乏だっているかもしれない。

それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。

それに人を説得しようという時に必要なのは論理だけじゃない。

ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情問題だ。

殺人犯が「人殺しダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。

でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というもの無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様しか言えない。

あいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。

2022-12-30

名作ばかり観るか、凡作も観るか

人生は有限だし、触れる事のできるコンテンツなんて全体の中の一握りの一握り。だからこそ限られた時間の中で普遍的に好かれる、自分にとっても良いと思える可能性が高いものを選び抜かないといけない。凡作に付き合う暇などない。

名作は凡作駄作との差異によって名作たらしめられる。凡作何が悪いかを知る事で初めて名作の良さを知る事ができる。名作ばかり観ていたら、それは自分にとって普通のものになってしまう。

どちらも説得力のある意見だと思う。

良いものは良い。駄作など関係なくこの世に本質として存在する美に迫った普遍的な良さというもの存在する、という本質主義的な考えに立つか、いや本質的な価値など存在しない。実存差異によって「良いもの」が浮かび上がるのだという考えに立つかの違いなのではないか

あと、後者の方がより作り手側に立った側面が強い気がする。良いものの良い部分を取り入れようと思っても何が良いのかが分からないと無理だし、悪いお手本を見る事の大切さ、みたいなのは当事者性の強い問題だと思う。

チェンソーマンでもデンジくんに「クソ映画のある世界の方が良い」みたいな事言わせてたし、クリエイターにはそういう意識があるのかもしれない。でも悪役にこそ作者の主張が込められていて、主人公一般論良識ねじ伏せるのが定石だ、みたいな話もあるしな。

「名作」と言っても、それそものの出来の素晴らしさを讃えられたものエポックメイキング価値評価されたものがある。後者過去にない新しい価値手法を世に突きつけたという文脈があってのものだし、それはまさに「差異」が価値を生み出している訳で。何も知らない人が、絵ならキュビズムやら印象派やらの代表作を見ても、知識がなければ変な絵だとか寝ぼけた絵だとしか思わんだろうし。映画ならヒッチコックなんかを今観ても、教科書を読んでるような気分になるだろうし。新しい手法を使いつつより洗練されたフォロワー作品の方が面白いだろうし、今の人にとってはそちらの方が魅力的な訳で。

でも、教科書に載ってるような絵画を見てよくわからんけどなんかいいなーと思ったり、2001年宇宙の旅を観て退屈だけどなんか凄いっぽいと思う事もあるだろう。その「なんとなく」を説明できないのなら、それは本質的な美があるという話になるんじゃないかと思う。

まああんまり頭でっかちにならずに、自分の「好き」を大切にしたい。

2022-11-09

結婚とか子育てとか、それをしないと劣ってるとか

人間を平均化して誰もが当てはまるような特徴を並べ立てて型にはめようとする本質主義って非民主的だよなあ

そんなことやるより

自分がどう生きるべきかっていう実存主義スタンスを取ったほうが

明らかに個人幸福に貢献するよな?

 

なんでみんなこんな明朗なことに気づかないのか

anond:20221109195739

女は子供を産むための構造を持って生まれたのだから子供を育てるべきっていうのは本質主義の考え方すね。

私は過去には適切だったが今の時代にもはや適さなくなった生き方はしない。

という実存主義を信奉しているので賛成できませんなあ。

実存本質に先立つという主義だ。

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