はてなキーワード: コスモとは
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。 言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー): AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー): AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
Next Step: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。 西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(Steady State)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENT IS WAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。 単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性: はい、極めて困難です。 理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在: しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。 監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
Next Step: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義: 人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 → 人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義: 人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 → 人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
あらぬ誤解が発生しつつあるので明記しておきますが、私は京大やレノバを含めた洋上風力業界とは一切関係のない一般人増田です……
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2021年に端を発するためか、そもそも何が起こったのかを知らぬままSNSで騒がれている様子が散見されたので、読みづらくならない範囲でまとめたいと思う。
(三菱商事の社長会見ライブを見ていて、彼らの責任の重さが伝わってこなかったので、書くことを決めた)
洋上風力発電の事業は、基本的に「海域を占有して発電を行う権利」を国が事業者に与える仕組みで進められている。
海は公共財であり、漁業者や航路利用者との調整が不可欠なため、「公募占用制度」と呼ばれる仕組みが導入され、国が事業者を選定する。
流れを単純化すると次のようになる。
つまりこの公募は、一度勝てば1兆円規模の事業権を数十年にわたって独占できる巨大なビジネスチャンスであり、それ以上に今後の洋上風力発電業界を「誰に任せるか」にも影響するという、日本のエネルギー戦略を左右する重大な制度設計である。
その最初の本格的な実施が、2021年12月に行われた「ラウンド1」であった。
このラウンド1は特に注目を集めた。なぜなら、由利本荘(819MW)、能代・三種・男鹿(478MW)、銚子(390MW)という3つの大規模案件を一度に公募という、極めて異例のやり方を取ったからだ。
国の狙いは明快だった。
つまりラウンド1は、単なる民間企業の入札競争ではなく、国家的な産業政策の号砲といえた。
このラウンド1における主人公に"株式会社レノバ"がいるのだが、そもそもその存在を知らない人も多いだろう。
レノバは従業員300人程度の再エネ専業ベンチャーにすぎない。
だが今回の舞台となった地域の1つ、秋田県由利本荘市沖への洋上風力発電事業参入を早期から表明し、2015年から風況観測・地盤調査を始め、2017年以降は環境アセスや漁業者説明会を重ね、さらに2020年にはCOOを常駐させた地元事務所を設置した。
特に2020年のコロナ禍で説明会や対話すら難しい時期も、彼らは現地に足を運び続け、「地元で汗をかいた」という実績がレノバの存在を支える最大の資産となっていた。
漁場などに大きな影響を与えうる洋上風力発電では、通常の公共事業以上に地元との協力体制が実現性を左右するからである。
これら積み重ねに加え、当時の再エネブームやESG投資(Environment, Social, Governance)の追い風を受けて金融筋からも支持を受け、コスモエコパワーや東北電力、JR東日本エネルギー開発との連携につながり、ベンチャーながら由利本荘における“本命候補”と目される素地になった。
しかし、2021年12月に公開された結果は社会に衝撃を与えた。
なんと、三菱商事率いる連合が由利本荘を始めとする3地域すべてを総取りしたのだ。
当時すでに鋼材や資材価格の高騰は誰の目にも明らかで、業界では「12円を切る水準は採算が合わない」という声が多かった。
公募直後の2022年2月からウクライナ進攻が始まったのは運が悪いともいえるが、とはいえ、元々が数十年スパンを見据えた公募である。そのような長期リスクも踏まえて算出された価格であるというのは大前提である。
また、レノバのように事前調査や地元への根回しを十分に行う事もなく、まさに青天霹靂といったダークホース具合だった。
結果として、三菱商事が総取りした事実は、たとえあのまま事業が実現したとしたとしても、制度本来の目的――国内の複数事業者が“並走して”サプライチェーンと人材基盤を育てる――は事実上無に帰した。
特に“実績の少ない市場”の立ち上げ期は、複数の施工・保守プレイヤーが経験曲線を描ける余地が不可欠である。競争の果実を1者に集中させる設計は、調達単価の見かけの最小化と、産業基盤の脆弱化リスクとのトレードオフを過小評価しやすい。
とはいえ、ラウンド1総取りはそのようなリスクも分かったうえで、"あの"三菱商事が総取りを仕掛けたわけで、さすがに何らかの根拠と戦略により、三菱グループという責任を背負って完遂してくれるだろうという淡い期待もあった。
また当然の帰結として、最大6000円超まで伸長していたレノバの株価は、1500円以下まで急落し、3日間で時価総額が1800億円溶けたという報道も流れた。
知っての通り、三菱商事は由利本荘を含む総計1,742MWの3案件(能代・三種・男鹿478MW、銚子390MW)からの撤退と正式表明となった。
こうして大規模洋上浮力発電の2030年運転開始どころか、大幅な遅延が必至となり、三菱商事による根拠不明の焦土作戦の末、国家エネルギー戦略の時間は失われた。
経営判断としてたった数百億で済む現時点での撤退は合理的ではあるが、松下幸之助が説いた「企業は社会の公器である」という理念に照らせば、三菱商事の責任は極めて重大である。
国家戦略の根幹をなす案件を総取りし、他社の芽を摘んだうえで、採算悪化を理由に放り出す。その結果、失われたのは単なる帳簿上の赤字ではない。系統接続枠や港湾整備計画といった公共資源、そして地域住民や漁業者との信頼関係といった“社会的資本”が無為に浪費されたのである。
「三菱なら最後までやり遂げる」という社会的信頼があったからこそ国も地域も委ねた。だがその信頼を踏みにじり、制度全体の信憑性を瓦解させた責任は、一企業の経営判断に矮小化できない。
いま問われるべきは、"三菱"という組織が社会的責任を真に果たす覚悟を持ち得るのか否かという点である。
時を戻して、2023年12月に結果が発表されたラウンド2以前に目を向けよう。
要は、ラウンド1で生じた「安値総取り」と「地域調整軽視」の反省を踏まえた調整だった。
だが同時に、それは元々の制度設計がいかに脆弱で、現実を見通せていなかったかの証左でもある。
併せて、ラウンド2の見直しをめぐり、「負けたレノバのロビイング活動でルールがねじ曲げられた」との論調も当時出た。(まあ、こちらはこちらでかなりの無茶したようだが……)
しかし実際の改定は採点枠組み(120/120)を維持しつつ、総取り防止の落札制限や実現性評価の補正、情報公開やスケジュールの見直し等、市場の立ち上げリスクを減じる方向が中心だ。特定企業の“救済”というより、極端な安値一極集中の副作用に対する制度側のバックストップ強化と整理して良いと思われる。
再エネ議連が毎週、圧力をかけた成果で、5月に入札ルールが変更され、6月に行われる予定だった第2回の入札は来年3月に延期され、審査方法も変更された。野球でいえば、1回の表で負けたチームが審判に文句をつけ、1回の裏から自分が勝てるようにゲームのルールを変えたようなものだ。
http://agora-web.jp/archives/220630094751.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/agora-web.jp/archives/220630094751.html
エネルギー素人の池田信夫氏による批判記事と、それに同意するブクマの数々を一例として示すが、三菱商事が自陣の提示した価格の安さで撤退した今となっては笑うしかない。
ここについては2025年視点からの結果論でもあるので、これ以上のコメントは差し控えよう。
ラウンド1の失敗が避けられなくなった結果、この先の洋上風力発電市場、ひいては国家の再エネ政策全体に深刻な影響を残した。
反原発層はここにこそ大声上げるべきだと思うんだけどな。
三菱商事が撤退検討に至ったことで、「三菱ですら無理なら誰がやるのか」という冷笑が広がり、外資や国内他社も日本市場に消極的になった。ラウンド2以降も撤退連鎖が起きる懸念は現実味を帯びている。
本来は「長期的に産業と人材を育てる場」として設計された公募が、逆に「信頼を失わせる負の前例」となってしまった。
安値入札が勝者となったラウンド1に引きずられ、ラウンド2以降も価格面で無理をする形での参入がベースに。市場育成の健全な芽を摘んだ。
ここまで三菱商事への糾弾を重ねてきたわけだが、真に責任を負うべきは、まともな制度設計をできなかったMETI(経済産業省)である。
洋上風力は国家戦略の柱であるはずが、その最初の大規模公募で制度不信を広げ、時間という取り戻せないコストが支払われる結果となった。
必要なのは、第三者機関を交えたラウンド1の反省と、現実を直視した制度設計を国が改めて示すことであると考える。
https://www.econ.kyoto-u.ac.jp/renewable_energy/stage2/contents/column0284.html
ラウンド1当時の批判については、京都大学大学院経済学研究科の講座コラムとして詳細に論じてあるため、興味がある方は是非目を通していただきたい。
君の名は。って秒速5センチメートルの続編だったんだな
というか第4話「君の名は。」って感じ
秒速5センチメートルも君の名は。も距離と男女をテーマにした物語だった
第3話「秒速5センチメートル」は1話2話の要素を合わせ込んだエピローグ
それぞれの次元で距離が離れてしまった男女の物語を新海誠は描いていたんだな
なかなか面白いと思った
考えてみたら天気の子もすずめの戸締まりも離れ離れになる男女の物語だし全部一緒だな
ただ、物理(空間)・精神・時間という対になる概念で実験してる感じが天気の子とかとは違う感じがするな
まぁ天気の子とすずめの戸締まりも言ってしまえば天と地で対になってるか
実写版もこの勢いで観ようかな
ガノタと言えばガンダムオタクの略だが、ファーストガンダムを引き合いに出して他作品を叩く連中のことといつかの大百科に書いてあった気がする。
大体こんな作品評してる気がする
どさくさでキシリアも普通にいいやつムーブしてハッピーエンドの仲間入りすると普通に思ってたイッチです
キシリア様途中でニュータイプ感応の描写までしてたの伏線じゃなかったの?
ファーストからシャアに撃たれるのが強制力? それ言ったらジオンが連邦に勝利したの何でだよ
そもそもキシリアが大量死を選択するの自体、過去作が富野の芸風でそうなった以上の意味ないわけよ
実は主人公側が悪かったとか神ファミリー出てけ庶民ムーブとか宇宙消滅とかの「絶望した!人類の所業に絶望した!」芸風に飼い慣らされて、
大した理屈もなくノリで大量殺戮する登場人物が出てきても「まあ、トミノだし」と受け入れてきた流れを
そのへんスルーして「ララァ救われました!ハッピーエンド!」とか今どきやる?
マチュに形だけ今どきの子させて(実際は何も手出しさせず)今どきの若い子わかってますってやってても、何もアップデートされてない
コモリMSに載せろよ!ニャアンに「わたしよくわからなくて」とか言い訳させずヨゴレ仕事どんどんやらせろよ
アルテイシアにお姫様の格好させてハッピーとかどんだけコスモバビロニアよ
女性の神格化はどうしようもなく毎回ついてまわってたけど、それでも何とかバランス取ろうと四苦八苦してただろ
ジークアクス、富野女性はキツすぎて気に食わないからララァは王子様待ってるキャラで女の子らしくさせとこって、
どんだけ後退してんの
言いたいことは一つだ
間に合わんかったガチ恋粘着獣70話くらいまで読んだ
紹介ありがとなー
3人組のスバル編・コスモ編・ギンガ編・・・の途中くらいだったかな?
3部構成でフィナーレだったんだろうか?
地下アイドルみある
スバルのヒナ襲撃?がトラウマすぎてごめんなさいするシーンが定期的に挟み込まれるところに草生えた
ギンガ編からコラボやりはじめて割と気合い入った構成だったから、これが描きたかったんやろなぁと思いつつ
総合的にガチ恋勢が身勝手すぎてスバル監禁の動機が推し目線の厄介オタクでしかない
ただ襲撃がアレすぎて相対的にコスモの方がマシに思える温度差だったなー
登場人物3倍だもんな
1キャラずつエピソードやってたらそりゃ時間かかる起承転結の転にいくあたりまでで若干消化不良
厄介オタク順次投下劇場としては、そんなこと言わない!王様キャラしか求められてないことに不憫さしか感じねえ
・更新されてたらたまに読む
以降読んでみるかと気軽に読み始めたら一気読みしたし
・久々にコンテンツ読んでて各キャラクターの感情のジェットコースターに
乗れた感じがしてすごく楽しかった
おかしくなってく「少しづつ」が現実味があってすごい楽しかった
・ギンガ編が一番好き
ミツクリたそ〜
そしてそれにビビってパソコン閉じるのを懐かしがるのもやばいて
しばらく心の中に飾るレベルに良すぎ
かくありたい
分からん…!!
「でも無い 2人の間にはそういう未来は無いんだよね」の
背景のあえての白さが沁みる そういう切ない「あったかもしれない
でも実際は違う」描写、神すぎるし
(お互い「ファンと推しの一線を越えようとすれば越えられたが美しい距離感で
2人の関係を完結させようとする精神の美しさ」を見せてくれたうえで)
「絵」で伝えてくるの良すぎる
そういうイベントの終わった後の高揚とイベントが終わってしまった
寂しさとか色んな感情の混ざって見る東京の夜感も思い出して良かった
連載の終わった寂しさと重ね合わせて尚更感情バフかかった
日本の諺に「侍が勇敢であるためには、黒人の血を少しは受け継いでいなければならない」というのがあります。もしそうだとしたら、FXの大ヒット作「将軍」には、怯える剣士がたくさん登場します。
(略)
2024年版は、日本人の視点に大きく焦点を当てている。ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダを代表する最初のエピソードに登場する白人のキャラクターは、英雄的とは到底言えない。しかし、現在コスモ・ジャーヴィスが演じる ジョン・ブラックソーンというキャラクターは、すでに重要な人物であり、数人の日本人キャラクターとともに英雄となるだろう。他の人々は、すでに10部構成の新しいシリーズを、1980年版からの文化的な大転換として賞賛している。私は、1980年に無邪気に尋ねなかった質問を今尋ねる。黒人はどこにいるのか?
(略)
歴史家ジョン・G・ラッセルは、 「排除された存在:将軍、吟遊詩人、ボディーガード、そして日本と黒人との遭遇」という論文 を執筆しました。彼は、黒人がさまざまな立場で日本に到着したこと、そして黒人の中には日本人の使用人を所有し、奴隷にしていた者もいたことを記録しまし た。
ショーグンの主な舞台は大阪で、 このドラマの放送期間中、大阪は日本の経済の中心地であり文化の中心地でした 。日本に黒人がいたとしたら(実際にいた)、彼らも大阪にいたはずです。必ずしも人々の中に自由に住み、歩き回っているわけではありませんが、ヨーロッパの使節団の一員としていたことは確かです。おそらく、2024年版のショーグンは、将来のエピソードで画期的なことをして、当時存在していた黒人を登場させるでしょう。1980年にはそうではありませんでした。描かれている日本人にはさまざまな色合いがあり、そのうちの1人が黒人であることが明らかになるかもしれません。日本船とヨーロッパ船が戦う海軍のシーンがいくつか予定されているため、黒人船員の一部が歴史的正確さを反映していることが期待されます。
もはやウマ娘から3年たち、増田やはてなで競馬の話題が上がらなくなって久しいですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
それでもやはり、ダービーと有馬記念くらいはちょっと見ておきたいという気持ちの残った方もいるかと思います。
では今年のダービーについて考えていきましょう。
そもそも馬って、今みたいに車が流通する前は、自家用車であり、トラックであり、ベルトコンベアーであり、トロッコであり、戦車であったわけで、人の移動や物の輸送、または戦闘に欠かせないものだったわけ。
当然、仕事に適した車、さらには高級車やスーパーカーが求められるように、名馬は昔から珍重され求められた。
で、名馬の格付け品評会にあたる競争があり、そこで優秀な成績をあげた馬が種牡馬となり、名馬の親となったわけだ。
その最高の馬格付けレースが日本ダービーで、これは三歳の同い年の馬だけが生涯一度だけ走れるレース。
わくわくだよね!
競馬界のカレンダーはダービーが基準になってて、ダービーが終わると翌週から次の世代、2歳馬のデビュー戦が始まる。
要は馬にとって一番大事な時期が、2歳の初夏から3歳の初夏、ダービーからダービーまでってことだ。
ダービーに至るまで細かいレースがあり、そこで結果を残した子だけが出れる。
レースの着順に応じた賞金があり、その賞金をたくさん稼いだ子や、指定された有力競争で上位に入った子が出れる。
つまり、ダービーで最下位になろうとも、世代トップの18頭に名を連ねられるというのは名誉だってこと。
有力馬は何頭かいるものの、今回は確勝と言えるような飛び抜けた馬がいないと言われている。
つまり、多くの馬に勝つチャンスがある。
しかし、実力が明らかに上位だろう、という馬も何頭か見当たる。
ダービーは東京競馬場2400mという条件で行われるけど、東京競馬場は広く、最終直線が長いコースなので、紛れが起きにくいレースでもあり、馬の実力が反映されやすい。
そう考えると、今回のレースは着順まで当てることは難しいが、3着以内に入れる範囲をある程度絞ることができる、という認識でよいと思う。
馬はある程度スパートをかけられる距離はせいぜい600m、本気で全力疾走できる距離は200mくらいなのだが、東京競馬場の最終直線は500m以上あり、勝負どころがコーナーでごちゃつく、という事態にはあまりならず、直線のスパート勝負で何とかなりやすい、というのが、東京競馬場のレースが荒れにくい理由だ。
では、今回勝つチャンスを持っている有力馬を紹介していこう。
ここまで3戦無敗の皐月賞馬で、今回一番人気になると考えられている馬。
間違いなく強い。
皐月賞は新記録が出るような高速決着で、さらに前が止まらない馬場だったことと、キズナ産駒の消耗戦上等な性質が見事にマッチした結果だった。
皐月賞の中山2000は、後ろからの末脚一閃が決まりにくく、前を高速で走ってスタミナ勝負に持ち込むのは血統的にも最も適した戦法だったと思う。
じゃあ、じっくり行けば瞬間最高速の切れ味はそうでもないの?というとそれもそんなことなく、ドスローだった共同通信杯で見せた末脚は驚愕するレベルだった。
そうなると隙はないのか?というとそうでもなく、共同通信杯も皐月賞もペースが極端だったのが気にはなる。
両極端な条件でどちらもハイパフォーマンスだったのなら、どんな展開でも対応できるような気はしつつも、ミドルペースで末脚勝負が決まりやすい東京の直線、本職の差し馬の後ろからの追撃を凌げるか?というと正直差されても驚かない。
今回のダービー、おそらく皐月賞ほどの高速決着にはならないだろうが、共同通信杯みたいなドスローにもならないだろう。
そのペースをうまくコントロールできるかが勝負のポイントだと思う。
メス馬なのに2歳のオスメス混合のG1で優勝した女傑。
一級品の末脚が最大の武器になっている。
今回、瞬間的な末脚を出した馬は実はたくさんいるのだけど、ジャスティンミラノの共同通信杯や、ダノンエアズロックのアイビーステークスは驚くほど前半のペースが遅かったので、誰もがすごい末脚を使える条件での末脚だった。
レガレイラの末脚はそうではなく、ハイペースに流れた展開でもすごい末脚を必ず使えるのが彼女の魅力。
なんちゃって末脚じゃなくて、本職の末脚だ。
今回のレース、相手がジャスティンミラノだと思うと、最後にそこまでダレるとは思えず、ある程度の位置を取って最終直線に入らなければ届かないだろう。
皐月賞で6着に負けたことで嫌われている傾向があるが、皐月賞の時、調教後馬体重から11キロ減ってのレースで、かなり消耗があったという話が聞こえてきている。
フケ(発情)もあって、レース当日前日にかなり暴れて落ち着きがなかったとか。
正直、それが最大の敗因になっている。
今回は時期も変わり、もうフケの影響はないはずなので、そこは気にはならないと思う。
が、木村調教師のインタビューでも、以前から彼女は気高く、人を信頼しすぎず人と距離を取るような性格だそう。
なので、馬装をつけたり、パドック回ったり、多くの人と関わらなければならないレース前に、不必要な消耗をしてしまうことを心配していた。
ひとつ間違いなく言えるのは、皐月賞が本来の彼女の力ではないってこと。
レース中の接触の不利や、ゴール前の向かい風で差し馬の不利も起きていたし、言いだせば細かい不利はいっぱいある。
その皐月賞2着も、勝ったジャスティンミラノとタイム差はなかった。
ジャスティンミラノに迫るほどのスタミナを持ちつつ、レガレイラに近い末脚を持つのがこの馬。
当初の勝ち上がりに時間がかかったことと、勝ち切ってはいないこと、前回のモレイラが今回のらないことから人気を落とすようだけど、実績で言えば絶対買わなきゃいけない馬。
スターズオンアースのオークス前とかぶる。どう考えても強いのに、フロック視される馬というのはいて、この馬がそれに当たる気がしている。
ジャスティンミラノの真後ろのポジション取れたら、ミラノを差し切れると思っている。
が、不調のデムーロは向こう正面で動くレースもやりがちなので、末脚残しているかは正直わからない。
しかし、ダービーを勝つためにあえて皐月賞を使わなかった馬、というのは大体が強い。
この馬はそれに当てはまる。
しかもここまで無敗。
前のレースそのものはレベルの高いレースではなかったから、前走を見てダービーでどんな走りができるかは何とも言えない。
しかし、ドスローだったとはいえアイビーステークスでレガレイラと同じ上がりタイムを出してレガレイラに勝っている。
最終的に間に合わせてダービーに滑り込んだし、鞍上はモレイラ。
レース後の骨折が判明した弥生賞だけふがいない走りをしたが、万全の状態で出てくれば実質無敗とも言える。
勝っても驚きはしない。
あと、3着内で言えば、アーバンシック、シンエンペラーも抑えたい。
シンエンペラーは、血統や実績から軽視されがちだと思うけど、能力は間違いなく高く、状態も皐月賞より断然いいらしい。
ただ、気を抜いて遊ぶ癖があるので、本気を出してくれるかわからないのが難しさのようだ。
矢作先生は世界最高峰の調教師だし、鞍上の坂井瑠星騎手も成長目覚ましく、もはやトップジョッキーの実力を持つ。
ダービー楽しみだね。