はてなキーワード: マッチョとは
統計上犯罪行為が多い属性を出禁にするのは一見なんか解決しそうに思えるが
線引くのが難しくなるねぇ
男らしく女らしくでプリクラなんて酸っぱいって男は黙って顔拓(ここは適宜読み替えてください)してたらよかったんだけど
女性専用車両とかは、言う通り、コスト負担が少ないから実現できてるが
(元々男女が利用してて、車両毎に区切られてるからペタペタシール張るだけで分離できる)
せっかくここまできたんだから、限界来るまでは男女比で犯罪率変わらない世の中目指していくほうが良いと思ってる
そのうえで、どうしても何らかの傾向が見えてしまうのであれば、差別排除ではなく、システムが教育で改善、防御とか
一時は中国の話(一部だけ、あとはSF)で聞いたみたいに、路上以外の全サービスを要認証にして、個人スコアで弾くとか
生活必需サービスだけはちょっと緩い(別途料金付くか、ごついマッチョの監視が必須) みたいなことも考えてたし、それが一番理想的だろうとは思う
けど急に暴れるとかのリスクもあるし(逆恨みしたところのために我慢して、再突撃)、ノーリスク狙いはやめて多少は許容ってなるとまた結局どこで線引くの? となるし
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
田舎で自転車に乗ってると不審者扱いされるって話があったので、サンプルとして自分の地元の紹介をしたい
人口3万人
平成の大合併で市or町になった
県庁所在地までは車で40分
観光地は無い
転校生は珍しい
戸建住みが多い
マンションには住まない
スーパーは3択。ローカルチェーン、ヨーカドー系列、イオン系列
買い物に行くと知り合いに会う。会わないことはない
芸能人もいない
デザイナーもいない
むかしは家に鍵を掛けないのが自慢だった
今は掛ける
落伍者に優しくない
免許持ってないと異性を紹介してもらえない
髪を染めてる奥さんは陰口言われる
ピアスしてても言われる
離婚すると一生噂話の種
少ない人口密度
住民同士の遭遇率が高い
住民の均質性が高い
「●●のとこの息子さんはスポーツマンだね~w(やや蔑みのニュアンス有)」
殴り書きであれですがこんな感じ。今は地方を脱出して都心部で暮らしてるけど、この生きやすさは何物にも代えがたい。年とって実家に戻るというオプションがあるが絶対に避けたい選択肢。。。
なぜ規制派オタクは同じオタクを見下すのか。その「異常」な同族嫌悪の理由をわかりやすく説明するよ。
https://somethingorange.jp/entry/otakusabetu
若いオタク達と触れる機会もある人間として、この記事には一部同意する所と、微妙に意見が違う部分が有る。
意見が違う部分はブコメでコメントされてもいる「今の(若い)「オタク」と従来の「オタク」は違う層であり、混同するとズレが生じる」という所。
私もこのブコメに同意で、そもそも今の「オタク」とオタクを見下し批判している高齢オタクは全然層が違う。だから本当はこれは「同族嫌悪」ではない、そもそも同族ではないから。
そしてその部分こそ今の高齢オタクの醜い部分が凝縮した側面だと私は思っている。
私も一部のオタクに対する批判には頷く部分もある、確かに一部のオタクの言動はミソジニーやその他問題に溢れる事が有るからだ。
しかし大半のオタク批判は批判する範囲を間違えている。多くの場合(全て、完全に、ではないが)そうした問題を抱えるのは高齢オタクであり、批判を「オタク」全体に向けた瞬間関係のない多くの若いオタクを巻き込んでしまうからだ。
例えば、昔の2chでは女叩きが横行していた、という話がある。それは事実だ。この目で見てきた。しかし当然ながらその頃生きていなかった若いオタクには関係の無い話だ。
これは先程の層の違いでも同じ事が言える。そもそも今のオタクは「根暗」「陰キャ」といった古いオタクの層とは異なる、昔なら「リア充」と呼ばれていたような陽キャの層も含んでいる。
例えば昔のオタクが非モテ故にミソジニーをこじらせていたとしても、そもそもリア充も含む現在のオタクでは同じ現象は起こらない。
要するに、同じ「オタク」という言葉で呼んでも今と昔では全然層が違うのだ、いっそ、非常に強引だが「非リア充(昔のオタク)」と「リア充(今のオタク)」と分けて読んで考えた方が、「オタク」と同じ名前で呼ぶことで生じる錯覚を減らす事が出来るかも知れない。
勿論リア充ならミソジニーを抱えない訳ではないが、少なくとも非リア充の場合とは発生する経緯も種類も割合も全然違う。
勿論単純な年代の問題もある、今の高齢者は今の若い人たちと比べて、差別的な価値観を抱えている割合が単純に多い、これはオタク内でも同様だ。
現在の若い人達は価値観は概ねリベラルで、差別に関しても昔より差別を忌避する感覚が強い、勿論個人差は大きくあるが、全体的な傾向はそうなっていて、若いオタクも同様になっている、というのが彼らと触れる機会のある私の肌感覚。
従って、少なくとも割合で考えれば、ミソジニーや問題を抱え、女叩き等の現実の実績も有るのは、若いオタクよりも圧倒的に高齢オタクだ。
つまり前述の通り、高齢オタクによるオタク叩き・オタク差別は、同族嫌悪や自己批判といった「高邁」なものですらない。
高齢オタクが自分達の罪を若いオタクという関係の無い層を巻き込む形で擦り付け、最後に「自分は違う」と逃げる、極めて醜悪な責任転嫁でしかない。
かつての「オタク」が抱えたミソジニーや、それによって生じた様々な問題は、飽くまでそれを実際に行っていた高齢オタクの中の問題だ、若いオタクは関係ない、高齢オタクの中で解決するべきだ、関係無い層を巻き込むな。
しかも、そうした理不尽な巻き込みは、ミソジニーを抱えていない若いオタクにフェミニズムへの嫌悪感や反感を抱かせる契機にも成り得る、百害あって一利無い。
更にまた、今の若いオタクはライトなオタクが多く、現行の萌え(も既に死語になりつつあるが・・・・)が標準化した文化に慣れ親しんだ人が多い。
一方で古いオタク、特にオタク批判(の名を借りた醜悪な責任転嫁)を進んでするようなオタクの中には所謂「硬派なオタク」が多い、中には萌えにも拒否感を示す人もいる層だ。
ここで興味深いのは、一般的にオタク批判はオタク文化のなかでも萌え文化を指して糾弾する物が多いが、その実、上記の通り「硬派なオタク」の方が高齢オタクの率が高く、従って、ミソジニーや差別的な価値観を抱えた層も、割合としては多い可能性がある事だ。
当然ながら、「硬派」である事と「ミソジニーでない」ことはイコールではないし、阻害要因となる訳でも無い。従って、硬派から萌えへなされるオタク批判は、むしろミソジニー等を多く抱える層から別の層へ向けられている、という実態がある可能性がある。
実際の所はデータでも無い限りなんとも言えないが、年齢層だけ考えればそうなる蓋然性が高いとは言えそうだ。
ただの醜悪な責任転嫁でしかない事を明らかにしたので、既に明らかだが、どれだけオタク批判した所であなたのミソジニーや差別意識が洗い流される訳ではない。
オタク批判をし、体面上はフェミニズムの見方であるようなポーズをとっておきながら、なおも内面にミソジニーを抱えた人は幾らでも居る、何人も見てきた。
そうした人達は、主にオタク批判の中で尻尾を出す、例えば女性のオタクや創作者や、リベラルフェミニストと対立した際に、その言葉遣いや態度、スタンスに隠していた筈のミソジニーが溢れ出す、何度も見てきた。
また、オタク批判そのものが旧態依然とした、昭和的なマッチョイズムまみれという場合も有る、むしろ多い。結局の所、彼らのオタク批判は皮肉にも昭和的マッチョイズムと有害な男性性に支えられ、構成されている。
オタク批判をするからミソジニーが無いのではない、差別者でないのではない、あなたがオタク批判をするとしても、依然あなたにはミソジニーがあり、マッチョイズムがあり、有害な男性性があり、差別者である。
現在の若いオタクはリア充も非リア充も含み、陰キャも陽キャも含む、かつての様な偏りを含まない為、ミソジニーへと直接繋がるような契機を持たない。
唯一有り得るのは、古い高齢オタクの責任転嫁をまに受け、そこに有った問題や対立を継承してしまう事だ。
それが好ましい人間も、そうなって欲しい人間も居るだろう、あなたはどうか?この醜悪な伝統がこれからのオタクにも引き継がれて欲しいと思うか?
高齢オタクに必要なのは、「オタク」というもう既に層が変わって別物になってしまった層に、昔のオタクの罪を擦り付けることではない、高齢オタク内の問題を高齢オタク内で完結させ、自分達の中だけで解決する事だ。
無関係な他者を巻き込むな。批判するならまず自己を批判しろ、自己に見せかけた(名前が同じだけで他人である)「オタク」ではなく、自分自身がちゃんと射程に入り、関係ない人を巻き込まない批判をしろ。(差し当たって、「高齢オタク」がとりあえずオススメだが、勿論そこでも巻き込まれる人が出る事は注意)
いい加減、この醜い対立から無関係な若いオタク達を解放しよう。
高齢オタクや氷河期オタクの全員が女叩きやミソジニーに染まっている訳ではないのなら、若者オタクだってそうだしオタク全体だってそう、何なら「表自戦士」だってそうだよ。
高齢オタクや氷河期オタクは同世代のオタクが女叩きやってた時に何してたの?止められなかった感想はどう?そんな奴知らない、他人だ、連帯責任なんかないと言うなら、若いオタクもオタク全体も表自戦士もそうでしょ。
これらは全てある程度無辜の人を巻き込む藁人形であり、「藁人形論法が迷惑だと主張するために、新たな藁人形を人身御供にしている」という指摘は正論だし正しいと思うけど、
私はこの人達が藁人形を手放す事は絶対にあり得ないと思ってる。だからせめてなるべく巻き込みの少ない藁人形を渡すべきだろうと。
本当は藁人形を一切使わせないのが理想なのは正しい、でも出来る?不可能でしょ、オナニーにハマった猿にオナニーを止めさせるのと同じ位無理だよ。
あなたたち自身出来ると思わないでしょ?藁人形を手放せる?無理でしょ。
私の主張はシンプル。
・従って次善の策として、藁人形はできるだけ小さく、巻き込みが少ない方がいい
・そのため、新たな藁人形は「高齢オタク」が推奨(「オタク」よりはかなりマシ)
・別に「表自戦士」でも構わない(確かにそっちの方が更に巻き込みが少ないかも)ただし、それも藁人形であることには変わりない(例えば、エロや萌え表現だけじゃなく、表現の不自由展や教科書等の表現の自由にも関心を持つ表示戦士は居るし、ミソジニーを抱えない人も居るだろうしね)
デカ男界隈という言葉を昨日知った。言葉単位で言うなら「デカ男」部分だけか。
「高身長の男が好き」と言うと(みんなわざわざ言わないので)角が立つが、「高身長かつ幅も広ければ広いほどいい」となると文字通り幅が広くなって丸くなる。
太っている人は自己管理ができないからダメ(というのは建前でなんとなくイヤ)と思っていたけど、知った途端急に、タッパもあれば良いのか…?という気持ちになった。
大鶴肥満にスポットが当たるのだから、知らないだけでチビ男界隈もあるのかもしれない。あるのか?
(高身長マッチョだけが好きだと言うとこれまた幅が狭まって角が立つから肥満も入れてるような気がしなくもない)(高身長マッチョ、貴重だろうしなあ…)
あと界隈にいる方がいたら読み方を教えてほしい。多分「でかお」だと思うんだけど「でかおとこ」って読んじゃう。
ガキの頃にイジメを受けてきた
周囲はお前が弱いからだと言った
だから俺はただ鍛えた
いつか殴るため、殴られても痛くないようにするため、ずっと鍛えた
大人になっても鍛えた、ジムに通って、食事制限して、ひたすら鍛えた
でも、なにも変わらない、変えられない
俺は未だに周りが怖い、過去にイジメてきた奴に会えばきっと萎縮してしまう
ぶん殴ろうと思って鍛えた腕を振りかざすこともできない、法が怖いし相手も怖い、自分をかばうための盾にしてしまう
筋肉は裏切らない?
恐怖心と理性が邪魔をして、力いっぱい殴りたい奴を殴れないじゃないか
肉体が健全どころか力に満ち溢れるように仕上がっても、俺の心は怯えたままだ
けっきょくイジメられっ子は、弱いままなんだよ
少子化って、どっからどう考えてもイキ杉田労働環境の悪化が原因なのに未だに非常に多くの業界で
「うちの業界は土日も無償で勉強して一生アップデートする奴隷以外はいらん」
「うちの業界はサビ残パワハラにこの先生きのこった奴しかいらん」
が蔓延ってるじゃん
別にプロ野球だとかごく一部のなんか職人みたいな趣味的な職ならいいけど、そんな選民主義で一部しかいらん、残りの大量の愚民は全部死ねとかやってるからこんな超高齢化国になってるっていうのに
未だにこのマッチョイズム続けるのはさすがに辞めて欲しい
子供持てなすぎて女性人口の平均年齢が50歳超えてる国とか、もう既に滅んでるって結論付けていいくらいなんだよなあ
平均年齢50歳はガチで終わってると思うぞ
いつまでこの仕組みを支える大日本帝国時代の下士官みたいな人達の声が大きい国のまま行くのかなあ…1945年の末路と同じじゃーん
一番驚いたのはカンガルーが突然現れることだ。
一体どこにいるんだろうと辺りを見回してもどこにもいない。
しかし1匹、2匹と確実に現れる。
気が付くと50匹ほどがモリモリ草を食べている。
どうやら目の前の草むらに隠れていたようなのだが、それでも全然分からなかった。
別に捕食者がいる訳でもないのに何でこんなチクチクしたところに隠れるんだろう。
でもその割には人慣れしてて、野生だけどあまり逃げなかった。
5メートルは近づけたけど、近寄んなオーラを感じたのでそれ以上はやめておいた。
しかしネットで見るようなムキムキマッチョなカンガルーはいなかった。
才覚でナチスと共産主義の嵐を生きぬいた給仕のお話。経験から相手の本質を見抜き、最高のサービスをする、ってのは序盤だけで、あとは東欧諸国の悲惨な歴史の中で話が進む……はずなんだが、文章全体にユーモアが漂っていて、ナチス政権下でも結構いい思いをしていて、「歴史をこんな風に扱っていいのか?」とその大胆さに驚かされる。当事者だからいいのか? いや、そんなことはないのか? 最近は意外なことで炎上したり叩かれたりするので何もわからん(なんか、アジア人のふりをして小説を書いたらバズって、そのままアジア人のふりをする羽目になる、みたいなキャンセルカルチャーをネタにしたアメリカの風刺文学があった気がするんだが、思い出せない。キーワードで検索しても新しい価値観についていけないで炎上しちゃう六十代教授の出てくるアベル・カンタン「エタンプの預言者」という別の文学しか出てこない。で、pretending to be an Asianでググってやっと見つけた。R. F. KuangのYellowface」。洋書だった。たぶんどっかの文芸評論家が紹介してたんだろう)。
関係ないけど、ナチスが優秀な子孫を作るための女性たちのためのキャンプ、ヌーディストの楽園のような外見を持っていながら(いや、記憶違いかも)発想がそもそも家畜改良みたいで、恐ろしすぎて「これは露悪的なSFか?」ってなる。しかし、殺戮こそしていないものの、今では人権意識の高いとされる北欧諸国でも、かつては平気で障害者や異民族の断種が行われていたのだ。Whataboutismは建設的議論にとっては有害だが、人間の原始的感情に訴えかける強い説得力を持つ。「確かに俺も悪かったけど、お前にだけは言われたくねえよ」的なね。結局、政治は感情で動く。
話を戻せば、この作品は映画にもなっているらしい。というか、このエントリ全体で映像化された作品が結構あるらしいのだが、全然見ていない。
ポーランドとアフリカって接点があると普段はほとんど考えないのだけれど、きわめてよいルポタージュ。こうして独立してから何十年経つのに、アフリカ諸国とひとくくりにされがちな国々の個性を伝えてくれる。
しかし、出来事は基本的に救いがない。人類史の多くは悲惨の連続だが、アフリカで起きたことは桁の振れ幅が一つ違う。世界経済システムとの不幸すぎる出会いから五百年余り、まだ立ち直れていない大陸という印象を持った。とはいえ、暗澹たるルポタージュと言うわけでもなく、人々が村の中心の樹々に集まって生活するところや、市場の活気などは生命力にあふれ、まるでそこで暮らす人々の顔が浮かぶようだ。破綻した国家の状態は目を覆うようだが、そこから復興して何とかやっている人々の姿もある。……と、当時の日記に書いてあった。
ところで、ヘミングウェイはよくアフリカに狩猟に出掛けているけれども、それは所詮旅行者の目で、上っ面でしかないと批判しているのがこの本だった。そう思っていたのだが、日記を読み返すとそれはポール・セロー「ダーク・スター・サファリ」だった。著者はマラウイとウガンダで教鞭をとっていただけあって、アフリカに対して遠慮が無く極めて率直だ。時として情のこもった叱責や、人々へのまっすぐな好意も出る。きれいごとのないアフリカを知りたい人にオススメ。
遅延する電車、かつての豊かな文化と個性を失い広大なスラムと化したそれぞれの国の首都、高い失業率、飢餓、地元民のやる気を削ぐ支援、窃盗や強盗と犯人へのリンチ、放置されて本が残っていない図書館。親切な人や旧友もたくさん出てくるがいささか気が滅入ってくる。……と、当時の日記に書いてあった。
今はスマホも普及していてアフリカの様子も少なくとも都市部では大分違うと思う。ただし高野秀行は今でも地方の市場では窃盗が起きると犯人がリンチされると書いていた。
沈没事故で船を見捨てた船員が、延々と続く良心の呵責に苦しみもがいて生きる話だったはず。
試練に敗れ、卑怯者のレッテルを貼られた人物の独白を、別の語り手を通じて聞くという不思議な構成だけれど、緊迫感が良い。最後には西欧世界の手の届かないところに引っ込んでしまうんだけれど、これって著者の中で「闇の奥」をどのように発展させてここに至ったのだろう。「闇の奥」の内容をあまり覚えていないので困る。語り手が「闇の奥」と同一人物だと全然気づかなかった。やはり覚えていないのは心細い。これは、たとえ敵意ある世界から逃れても……、的な話なのだろうか。……と、日記に書いてあった。「黒檀」と違い、こちらは日記を読み返しても当時の気持ちはほとんどよみがえってこなかった。
この全集では最重要作品かもしれないのだが、実はこの作品だけ読めていない(だからこのエントリのタイトルは「理系が池澤夏樹の世界文学全集を全部読んだから五段階評価する」ではない)。何かで水俣病患者が苦しみながら「これを垂れ流した企業の連中にメチル水銀の汚染水を飲んでもらいたい」と心の底から呪っていたというのを読み、これほどの憎悪を自分の中に受け止めるだけのエネルギーが無いと感じたためだ。もしかしたら社員だけでなく、その家族にも呪詛を向けていたかもしれない。記憶にない。あるいは、これはどこにも書いていないのだが、本当はこうして水俣病にかからなかった全ての人に向いていたのかも。
こういうことを言うと結局自国中心主義なのかと言われるかもしれないが、それをはっきりと自覚したのが石黒達昌「或る一日」を読んだ時だ(伴名練が編集した短編集がある)。戦争か事故かはわからないが、強烈な放射能汚染で次々に子どもが死んでいく話で、読んでいて相当しんどかったのだが、特にきつかったのは名前が「美優」とか「翔」みたいに死んでいくのが現代の日本の子どもの(それとも自分と同世代の人間の?)名前だった点だ。おそらく「亀吉」や「トメ子」だともっと冷静に読めただろうし、「サッダーム」とか「ウルスラ」とかだったらかなり距離ができる。
僕がこうして世界文学を読めていたのも、他人の苦しみが言語と文化の壁によって希釈できているからでは、という疑念を僕に抱かせるに至った。
今にして振り返れば錚々たる作家ばかりだし、気に入った作家の(あるいは、ドナルド・バーセルミみたいによくわからなかった作家の)短編集を借りて読んだりもした(バーセルミは結局全然わからなかった)。一方で、後になって適当に手に取った本の作者だったと後で気づくこともあった。当たりはずれがあるのがアンソロジーの楽しみである。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」は東日本大震災の際に、災害時にできるコミュニティに関連して話題になったが、震災を知らない世代にも刺さる普遍性があるコルタサルの作品の中で一番面白いものの一つ。金達寿「朴達の裁判」は前提となる知識をほとんど知らずに読んだのだが、したたかに生きる庶民の話で、吉四六ばなしとひがみ根性のない「阿Q正伝」を足して割らない印象を受けた。官憲に殴られて卑屈に笑ってみせても、決してへこたれることのない強さがある。アリステア・マクラウド「冬の犬」は悲しいけどいい。この人の作品は何を読んでもカナダ東部の寒さが伝わってくる。新潮クレスト・ブックスで出ているので是非読んでほしい。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」はわざとらしいが嫌いじゃない。村上春樹訳だ。最近の村上春樹は一つの権威になっちゃってとうとう早稲田の名誉博士にまでなって、「俺たちの反体制な村上はどこに行っちまったんだ」みたいな気持ちになるが、翻訳は好きで、いまだに村上訳の本をたまに手に取る。それに、村上春樹の小説は男性中心的でときどきレイモンド・チャンドラーみたいにマッチョだとはいえ、「メンヘラ」という言葉が広まるはるか前にもかかわらず、メンタルの病気で苦しむ人の描写の解像度が、身近にたくさんいたんじゃないかってくらい極めて高い。彼の最大の美点だ。もっとも、今では精神を病んだ当事者の文学が出てきたので、「じゃあ当事者が書いた作品を超えるにはどうしたらいい?」ってのが次の文学の課題だ。ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」は、フランスに移住したアラブ系の青年が、男にとって都合のいい女がどれほど魅力的かを語ってくる叔母の幻影に悩まされる話で(たとえば恋する女性がもう処女じゃないことに苦しむと、脳内の叔母が「かわいくて素直で恥じらいのある処女を紹介するよ」と延々と語る)、あまりに男の欲望むき出し、即物的で笑っちゃうところもあるんだけれど、その都合のいい幻を切って捨てることもできないあたりがリアルで生々しい。男性向け・女性向けのポルノをのぞき見ると、みんな都合のいいことばっかり望んでるよね(だがそれがいい)。
余談だが、自分は恋人の嫉妬深いので恋愛経験はあまり多くない方が好みだが、フォークナーを勧めてくれた友人は、むしろ経験が豊富なほうが面倒くさくなくていいと熱く語っていた。このあたりは好みの問題だ。
閑話休題、しかしこの叔母が独身だってのがミソで、「女の幸せは結婚だ」という社会の独身女性は、こうやって世話焼きおばちゃん的な立場でサバイブしてきたのだ、という指摘をどこかで読んだ。
目取真俊「面影と連れて」は一番面白かった。自分の中では生涯読んだ短編の中の上位十位に入っている。ウチナーグチの語りなのだけれど、ひたすらいじめられ続けて、抵抗もできずにいる女性が、皇太子暗殺事件の犯人と関係して不幸になって、そのまま死んでいくという虚無の話なのだけれど、心が深く動かされる。世間ではタフになれとか戦って抗えとか言うけれど、抵抗するすべを知らず、その体力も能力もなく抵抗できずにそのままの人だってたくさんいる。弱い人間が弱いまま幸せに生きて死んで行けるようになってほしい。
前項は南北アメリカ・アジア・アフリカが中心だったが、こちらはヨーロッパの作品が中心。こちらの巻はやや印象が薄い。
記憶に残っているのはサルマン・ラシュディ(ルシュディ)「無料のラジオ」で、人口対策で断種されてラジオをもらった男の話。どうもラシュディはこの政策に反対だったらしく、「真夜中の子供たち」でも断種・不妊手術を極めて否定的な舞台装置として扱っているし、実行したインディラ・ガンディーを始め、権力を持った女性に対してうっすらとした嫌悪を持っている気がする。「真夜中の子供たち」でもアパートの管理人の意地悪な姉妹とか出てきたし。
あとはミシェル・ウエルベック「ランサローテ」だけれど、ウエルベックはどの作品も人権意識の高まりをはじめとした社会の変化について行けない中年男性の悲哀と愚痴が基本にあって、どれを読んでも感想が大体一緒になる。前にも書いたが要約すると「俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかったし、処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ!」「こうなったのもぜーんぶヨーロッパ文明の進歩に見せかけた自滅のせいだ! みんなカルトに狂って不幸になっちまえ!」「人類は所詮性本能には抗えないサル並みの動物なので、あらゆる不幸はポストヒューマンに進化しないと解決しないんだよ! アヒヒヒヒ!」。これはひどい。もっとも、こういう反動的に見える作品にも賞をあげちゃうフランス文壇の度量の広さはすごいけどね。もしかしたら「セロトニン」はそこから一歩進んだかもしれないが読むのがめんどくさいし、これまた自分にとって輝きを(こんなものを読んでわざわざ憂鬱になりたいという暗黒の吸引力を?)失った作家だ。ウェルベックは悪くない。変わってしまったのは僕だ。
ところで、最後まで読んでみて見て思うのだけれど、このシリーズって表紙に毎回鳥が銀色で印刷されているんだけれど、これってすべてポーズが違うんだろうか。重複したりしていない?
以上。
あとは同じように読んだ人のブログ探して読んでみようっと。
完読総評! 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全冊 - ウラジーミルの微笑
池澤夏樹の世界文学全集は、何が読まれているのか? - ボヘミアの海岸線
余談だけど日本文学全集は第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」だけ読んだ。長いがめっちゃ面白い。
岡田利規「能・狂言」の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「荷六駄」の「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが(たぶん「太郎冠者、あるか」「御前に」あたりが原文だと思う)、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。現代語訳したのが演劇の人なので、声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
同時に収録されている狂言には視覚障害者をおちょくるとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、ただの弱者ではない。だから、近江絵みたいに風刺の対象ともなっているんだろうか。
おしまい。
アメリカの少年がヨーロッパに留学に行くんだけれど、ママと仲良しで、自分の行動原理をカントの定言命法から導き出そうとしていて(すごく不正確に表現しちゃうと「普遍的な道徳に一致するように行動しろ」っていうあれ)、政治的に正しくいようとしていて、頭でっかちで、マッチョで荒っぽいことができないところにシンパシーを感じる。あんまりモテそうじゃないしね。モテる主人公の話を読んで一体何が面白いというのか。あっはっは。
しかし、読後感がいいのは、やっぱり誠実だからだ。たとえば、アパートの家主がホームレスを追い出すときに「連中は寒さを感じないんだ」と言いつつも、「こいつらはあたたかいところに寄ってくる」とも言い、そういう矛盾というか二重思考にさっと気づくところがいい。
ピーターが思うに、最悪なのは、人々がこの世の現状に合わせて詭弁を弄することだった。たとえここの管理人のように、不運な人間を追い出すしか方法がない、世の中とはそういうものだと考えるにしても、それくらいでやめておくということができない。彼らは語らないと気がすまないのだ。たとえば、マダム・プエルは酔っぱらっているクロシャール(引用者註:浮浪者)は寒さを感じないのだと言って自分を納得させていた。「あの人たちは何も感じないの。あなたや私とは違うんです」彼女は本気でそれは科学的に証明されている事実だと思っているらしい。しかし、彼らが寒さを感じないなら、どうしてここのエレベーターや玄関ホールに潜り込んでくるのか。その二つの事実を結びつけようとは思いもしないようだった。
ところで、実はこういう真っ直ぐな少年少女が現実に屈して理想を捨てたり変節したりするお話がすごく好みだったりする。真っ直ぐな青年が悪意に勝てずに差別主義者になってしまうとかも含めてね。あとは、エリート候補が挫折したりトップの座を失ったり夢を諦めたりするのも好きだった。進学校に行ったのに退学してしまうヘッセ「車輪の下」とかル・グイン「ゲド戦記 影との戦い」でゲドが影を呼び出してしまってしばらくは闊達に才能を伸ばせなくなる場面とか、アナキン・スカイウォーカーがダースベーダーへと堕ちる「スターウォーズ」のエピソード1~3とか。
そういうわけで、新海アニメの感傷マゾアニメ「秒速5センチメートル」の少年が、ラストでどういう経緯でああいう疲れた大人になってしまったのかを空想するのが好きだった時期がある。「童貞卒業は風俗だったのかな?」とか考えたりね(マジ最低!)。とはいえ「結局お前モテてんじゃん! あの子の好意に気づいてんだろ!」とも思っていたので、こう考えてしまうのもすべて個人的な怨念であろう。今となっては恥ずかしすぎる。
まずこの小説の舞台がよくわからない。密林があると言いながらトゥアレグの隊商がやってくるので、アフリカの西なのか東なのかとんと見当がつかない。日記を読み返したところ、アフリカの独裁者の視点を通じて、アメリカ人の平均的な姿や人種間対立を風刺しているらしいのだが、「別に詳しくないのにアフリカ人以外が架空のアフリカを書くってどうなの」って疑問を当時の僕は日記に書いていた(たぶんアチェベを読んだ後だからそう思ったんだろう)。それに特に必然性もなく素っ裸で暮らす少女が出てくるし、あれはいったい何だったんだ。一応、独裁者の出身の民族の伝統的な暮らしを、宮殿の中でしているという体裁ではあるが……。
独裁者ものではやっぱりアメリカを風刺した側面のあるガルシア=マルケスの「族長の秋」のほうががオススメ。今度新潮文庫で出るしね。
アップダイクは「ケンタウロス」のほうがピンときた。「ノルウェイの森」で主人公ワタナベトオルが一時期ハマっていた小説だ。これも古典のパロディというか、アメリカのしがない高校教師の生活と、ギリシア神話の神々を二重写しにしたもので、例えば体育教師とその浮気相手はアレスとアフロディテ、厳格な校長はゼウス、たまたますれ違う酔っ払いのホームレスはヘルメスと、卑小な現実とそれを再解釈する神話の無駄な壮大さ、あるいは逆に神話を卑小化する面白さがあった(どうでもいいんだが、神々がギリシア名なのにアフロディテだけ英語名のヴィーナスと翻訳する美術書を見ると、定訳なのかもしれないが、イタリア関連の文献でヴェネツィアをベニスと表記されたような、釈然としなさを感じる)。
僕は知的な作品というか、浮世絵と加歌舞伎である見立てみたいに、知っていること前提で楽しむものに心ひかれる。原作を知っている映画のほうが好きなのもそれが理由だろうな。この素材で俺をどう楽しませてくれる? みたいな。
その点「ユリシーズ」も楽しめた。ただし、以前に必読書コピペにマジレスしてから大分経つが、結局まだ「フィネガンズ・ウェイク」を読んでいない。ああいうのは気合がいる。
ダニロ・キシュ「庭、灰」はあまり記憶に残らなかった作品、その二。読んだ記憶があるのだが、デジタル化した二〇一〇年以降の日記を読み返しても読んだ記録がない。ここまで書いてきてなんだが、実は読んでいないのかもしれない。今度図書館で中身をきちんと確かめてみるつもりだ。
イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」は飛ばした。というのも、過去に文庫で読んだからだ。こちらかは架空の都市の伝説を、マルコ・ポーロがクビライ・カンに語る体裁で、僕は幻想的なホラ話が好きなのである。ギョルゲ・ササルマン「方形の円 偽説・都市生成論」もいいぞ。最近文庫化されたし。
同じ著者ではこれ以外にも「冬の夜ひとりの旅人が」というメタフィクション幻想譚もいいし、人間が物理的に切断されてそれぞれ善悪両極端な人格になる「まっぷたつの子爵」、地上に降りず木を伝って暮らしている「木のぼり男爵」(今にして思えば荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」に鉄塔で暮らすキャラいたな)、鎧の中が空っぽな「不在の騎士」と、児童文学っぽいのもいい。結構読んでいる。
全然関係ないけど、友人と雑談したときにガルシア=マルケスの長編を半分くらい読んだと話したら、「全然読んでないじゃん」って煽られたので笑ってしまった。彼は全部読まないと読んだうちに数えないらしい。「じゃあ何人の作家を読んだんことになるんだ」と言い返して僕は笑った。一応長編を大体読んだのは夏目漱石とドストエフスキー、トルストイくらいか? 中島敦は手帳のメモ書きまで記載した全集を読んだ。何度も言うが一生のうち一人の作家しか読めなくなるなら中島敦を選ぶ。ちなみにブローティガンを勧めてくれたのは彼だ。
続く。