はてなキーワード: ライフステージとは
20代も後半、三十路が見えるところに差し掛かってきて、自分のこれからの人生がだいぶ鮮明に見えてきた。
当然独身で、彼女の一人もいたことはない。手を繋いだこともない。きっとこれからもそうだろう。
そうなるとやはり人生の大部分を占めるのは仕事ということになる。趣味もあるにはあるし、そういうコミュニティにも属しているが、やはりライフステージの違う人間同士はどうしてもすれ違う。歳も取るし、今まで通りに趣味を謳歌する人生という訳にもいかないだろう。
そうなった時に今の仕事を定年まで続けていく気になるかというと、とてもそんな気にはなれない。
毎日起きる時間が違う生活で、最後に休日出勤が1ヶ月間なかった月がいつなのかも思い出せないような生活。酒好きに囲まれて旧時代的な職場内の行事や労働組合の活動を行う人生。令和の世の中においては前時代的を通り越して都市伝説級の働き方かもしれない。
学歴がないツケは就職の時じゃなく転職の時に回ってくるというのを、この歳になってようやく思い知った。義務教育で教えとけそんなん。
話が逸れたが、そういう生活をしていると、刺激がなくなるのと同時に自分自身に変化が訪れることが無くなってくる。それは単に人との出会いというだけでなく、人生を突き動かせるような何かに出会うということも含まれている。
この人生を生きていたら、きっと今週生きたような人生を死ぬまで繰り返すのだろうなと強く感じる。しかし抗えない。抗おうとしていないのかもしれない。抗わないというスタンスを取って、抗う能力も勇気も無いことを取り繕っているだけかもしれない。
短絡的な娯楽などに終始する毎日の中で、恋愛や結婚、それからのライフイベントのほぼ全てが自分の世界に存在することはないという事実を認識した。それからというもの、毎日死ぬまでどう生きればいいかを自問自答している。
答えなど出ようはずもない。数秒後の未来すら分からない人間に数十年後の未来など分かるはずもない。頭で分かっていても考えることを止められない。
俺はただ安心したいのだ。悲観的な結論にたどり着いて、万が一人生が好転した時に得した気分になりたいのだ。
きっと自分はどこかでまだ逆転出来ると信じてしまっているのだ。自分が幾度となく思い描いた最悪の未来より良い人生を歩めると信じている。そんなことはないのに。
きっと恋愛だって本当はしたいんだろうと思う。そういう関係性を深めていけば、結婚したいと思えるかもしれないと信じているのかもしれない。
旧知の友人がストーリーにあげていた婚姻届に指輪を置いて写真を撮る、何番煎じか分からないカスみたいな写真を、それを見た時に感じた羨望とも憎悪とも嘲笑ともつかない感情と一緒に安酒で心の奥底に流し込む瞬間にこそ、生を感じるし、死を感じる。
oyatsuda_3oclock
他の友人も子ども連れてるし、みんなから「旦那さんと子どもちゃんに会えるの楽しみにしてる」って言われてるのに!って。
2026/05/04
え?そりゃ行くだろ?
頻繁にとか毎回とかは行かないけど少なくとも1度は行くだろ?
そりゃあ行くだろ?
つかそれ行かないならむしろ何のために結婚したのかわからんレベル
Mecoysvase
今後会うことがほぼない知らんやつらのBBQで愛想笑いしながら旦那の紹介欲接待で休み潰されるくらいなら、
ずっと関わるばあばの潮干狩りの方が優先だろ
2026/05/04
何言ってんだこれ?
今後会うことがないならなおさら一回ぐらい我慢して面通しすりゃいいだろ
お前自身が何か世話になるかもしれないし
お前の配偶者は必ずその輪の世話になってるわけだし
お前の子供も何か世話になるかもしれないし
行くだろ!それは!
つか「紹介欲」って何?
お前を紹介することは夫にとって快楽なの?
そんなわけねーだろ 夫だって緊張してるよ
渡世のため付き合いの為に面を通そうって話だろうが
マジで「紹介欲」とは大きく出たな
自分を連れて行くだけで夫の顔が立ちまくって夫の友人がひれ伏すような
天女のようなオーラや美貌でもお持ちのお方か?
この社会性欠如コミュニティの平均ライフステージは40代50代のナイスミドルな訳じゃん
マジでこの村こえーよ
あれ自分で切ってるだろ
自分は30代女で結婚済み子なしだが、子供がいる友達もいれば独身の友達もいて、別に今更友達が減るなんてことない
独身の友達は普通に飲み行くし、子ありの友達は突然連絡が来て友達の子供と旦那さんと一緒にお昼食べたりするし、家にも行くし呼ぶしそんなもんじゃないか?
ていうか楽しけりゃ会社の10個上の先輩と先輩の子供とキャンプにもいくよ
いわゆるライフステージ変わったから友達じゃなくなるなんてことなくないか?
この前知り合いが大人になると友達いなくなるって言ってて、話している流れで友達から久しぶりに連絡きたけど怖くて返信していないといってた
それそれそれ!!それです!!
そもそも友達なんかいりませんっていうなら別にいいけど欲しいんだってよ
じゃあ誘え!せめて連絡返せよ!
TOKYO FMの長寿番組『NISSAN あ・安部礼司 〜BEYOND THE AVERAGE〜』。2006年に産声をあげたこの物語は、ごくごく普通のサラリーマン・安部礼司を主人公に、日本の「平均的」な日常を20年にわたり描き続けてきました。
2006年4月、番組はスタートしました。主人公の安部礼司は、神保町の「大日本ジェネラル」に勤める、至って平凡な30代。物語のコンセプトは「平均的なサラリーマンの日常」であり、昭和の流行歌をBGMに、仕事の悩みや恋模様をユーモアたっぷりに描きました。
当初は独身だった安部くんですが、同僚の倉橋優との不器用な恋がリスナーの心を掴みます。数々のすれ違いを経て、二人は日本武道館でのイベントや公開生放送を通じて絆を深め、ついに結婚。この「等身大の幸せ」が、多くのサラリーマンの希望となりました。
結婚後、物語は安部家の家庭生活へとシフトしていきます。長男・永太、長女・蘭が誕生し、安部くんは「イクメン」の壁にぶつかりながらも成長していきました。
一方で、会社では後輩の飯野平太が「イマドキの新人類」から頼れる中堅へと脱皮し、上司の刈谷勇(安部くんの永遠のライバルであり親友)は、破天荒な言動で常に物語をかき乱しました。彼らの掛け合いは、単なるコメディを超え、変わりゆく日本の労働環境や家族のあり方を映し出す鏡となっていきました。
2010年代後半から2020年代にかけて、物語は大きな転換期を迎えます。働き方改革、リモートワークの普及、そしてパンデミック。大日本ジェネラルの面々も、時代の荒波に揉まれました。
しかし、どんなにテクノロジーが進化し、働き方が変わっても、この番組が描き続けたのは「人と人との温度感」です。日曜日の夕方、黄昏時に流れる80's〜90'sのヒット曲とともに、失敗しても明日からまた頑張ろうと思える「普通」の尊さを伝え続けました。
20年という月日は、安部くんを「平均的な30代」から「ベテランの50代」へと変えました。かつての若手社員は今や管理職の悩みを抱え、子供たちは成長し、社会は激変しました。
それでも、安部礼司は今も神保町で、少し情けなくて、でも最高に温かい日常を積み重ねています。この物語は、リスナー一人ひとりの人生と並走してきた「20年間の戦友」のような存在なのです。
中華料理店における定食(セットメニュー)の構成要素として、卵スープは不可欠な付随物である。しかし、主菜たる炒め物や米飯が一定の高温状態で提供されるのに対し、スープの提供温度には著しい個体差が認められる。消費者は往々にして、火傷を誘発するほどの高熱状態を期待するが、現実には摂食に支障のない、あるいは「ぬるい」と形容せざるを得ない中温帯での提供が散見される。本稿では、この温度偏差が発生する構造的要因と、それが消費行動に与える確率論的影響について考察する。
スープの温度が常に最高値に設定されない理由は、調理学的な最適化の結果である。スープの「美味しさ」という多変量関数において、温度 T は重要な独立変数であるが、その寄与は単調増加ではない。
即ち、提供温度 T を最大化しようとする試みは、スープ全体の官能的評価(Total Palatability)を減じるという負の相関関係を持つ。店主は、顧客の求める「熱さ」という単一の効用と、料理としての「品質保持」という全体的効用のトレードオフに直面しており、その結果として加熱を断続的に休止せざるを得ない。
消費者側にとっての問題は、当該店舗の加熱サイクルに関する情報の欠如、すなわち「情報非対称性」にある。
スープの状態は、大鍋における再加熱プロセスの時間的フェーズに依存する。しかし、消費者は厨房内部の加熱スケジュールを事前に知り得ない。また、消費者の来店タイミング t_arrival も、店舗側の加熱周期 f(t) に対して独立した変数である。
この状況下で、提供されるスープの温度 T_served は以下の特性を持つ。
特に「熱々のスープ」という属性に対して高い負託を寄せる消費者にとって、この事態は深刻である。期待される効用 U(T) が T の高値付近に集中している場合、低温度帯の抽出は期待値からの大幅な下方乖離(損失)を意味する。
結論として、中華料理屋における卵スープの摂食は、消費者の意思決定と店舗側の供給サイクルが確率的に交差する地点で発生する「期待値への賭け」に他ならない。不確定なパラメータに基づき、自身の満足度を賭してレンゲを運ぶその行為は、構造において極めて賭博的な性質を帯びているのである。
中華料理店側も、このスープの温度における不確実性が顧客満足度を毀損し得るリスクを経験的に認識している。しかし、その解決策として選択されるのは、精緻な温度管理システムの導入ではなく、往々にして「体育会系男子学生」的価値観に基づく量的補償である。
しかし、消費者の加齢に伴う生理的変容はこの均衡を崩壊させる。消化機能の減退により「ドカ食い」が困難となった層にとって、過剰なボリュームはもはや恩恵ではなく、身体的負担という名の負債へと転じる。
ボリュームによる埋め合わせは、特定のライフステージにおける一時的な宥和策に過ぎない。消費者が成熟し、質的な安定を希求する段階に移行した際、スープの温度という「ギャンブル性」は、もはや許容し難いリスクとして顕在化する。
店側がこの体育会系的解決に固執し続けることは、長期的には優良な顧客層の離反を招き、顧客生涯価値(Lifetime Value)の著しい減退を招来するのではないか。中華料理屋のスープが、単なる確率変数からの抽出を超え、一貫した熱力学的信頼性を獲得することこそが、次世代の持続可能な経営課題であると断じざるを得ない。
最近こっちから誘わないと誰とも遊ぶことないなーとふと気がついて、別に本当は誰とも仲良くなんてなかったのかもしれないと思ったので誘わないようにしている
一人で行っても気軽で楽しいし
誘うのやめたら向こうから誘ってくれた友達も一応いて、そういう人はこれからも時々こっちから声かけるつもり
大人になったら縁を続ける努力をしないと切れやすいとは言うけど、そもそも続けたいと思われてないんだろうなあ
今まで無理に付き合わせて申し訳なかったな
追記だけど、声かけてる友達は結婚してないし恋人もいない人が多いからライフステージとかの問題では多分ない
それこそ学生時代から誘うのは自分だから本当はずっと乗り気じゃなかったのかもしれない
また追記
一応どこか行くために人集めてるんじゃなくて本当に会いたくて誘ってる
会いたいだけだから行きたいところとかなかったら公園でバドミントンとかしてる(バドミントンやりたくないタイプの友達は大抵行きたいところなり言ってくれるし、普段から散歩とか外でぶらぶらするの好きな友達を誘ってる 無理やり磯野!バドミントンしようぜ!と言うわけではない)
会いたいなーと思ったら誘ってるから、なんか向こうは別に会いたくないのかもなーと思ってしまったんだよね
なんかこんなこと言っといて
とかついつい誘っちゃって今週末会うことになったからもうこういう性格なんだろうな
己を受け入れて誘いたかったら誘うわ
https://www.mhlw.go.jp/content/001581168.pdf
日本の自殺者数は、マクロな視点で見れば減少傾向にあります。令和6年の総自殺者数は20,320人と、統計開始以降で2番目に少ない数値を記録しました。しかし、この「歴史的な低水準」という事実の陰で、依然として年間2万人もの尊い命が失われている現実に変わりはありません。特に注目すべきは、男性の自殺者数が女性の約2倍という圧倒的な性差が継続している点です。
全体的な数字が改善している一方で、性別によるリスクの偏りは鮮明です。自殺対策を「自分事」として捉えるためには、単なる総数ではなく、その背後にある「なぜ」の構造を解剖する必要があります。
全体像を把握したところで、次は「なぜ」という根本的な原因が男女でどう異なるのか、その核心に迫ります。
自殺の背景には、個人が抱える多様で複合的な問題が連鎖しています。統計上、自殺者1人につき最大4つまで原因・動機が計上されるため、以下の表の延べ件数は総数を超えますが、それこそが「悩みの複合性」を物語っています。
| 順位 | 男性の原因・動機 | 女性の原因・動機 |
| 1位 | 健康問題 (7,063件) | 健康問題 (4,966件) |
| 2位 | 経済・生活問題 (4,459件) | 家庭問題 (1,654件) |
| 3位 | 家庭問題 (2,643件) | 経済・生活問題 (633件) |
【専門的洞察:50代男性に起きている「ストレスの逆転現象」】 通常、全世代で「健康問題」が最多となりますが、50~59歳の男性層においては、「経済・生活問題(1,194件)」が「健康問題(1,188件)」を上回るという特異なデータが出ています。これは、現役世代の男性にとって、自身の体調以上に「経済的な生存」が深刻な精神的重圧となっていることを示唆しており、社会的なセーフティネットの機能不全を突く極めて重要なインサイトです。
悩みの中身が性別で異なるのと同様に、その人が社会でどのような立場(職業)にいるかによっても、リスクの現れ方は変わってきます。
職業と年齢を掛け合わせると、各ステージで個人が直面する「孤立の形」が浮き彫りになります。
ここまでは「亡くなった方」のデータを見てきましたが、実は「未遂」や「自傷」のデータにこそ、若年女性に特有の深刻なサインが隠されています。
教育デザイナーとして、私たちが最も注視すべきは「死の意図」のグラデーションです。統計では、自殺未遂(死ぬ目的で自分を傷つけた)と、自傷行為(死ぬ意図なしに自分を傷つけた)を明確に定義して区別しています。
最後に、これらの悲劇が「いつ」「どの曜日」に起きやすいのか、時間軸という観点からデータを確認しましょう。
自殺の発生は、個人の精神状態だけでなく、社会全体が刻む「時間のリズム」に強く支配されています。
統計が示唆する、周囲が警戒すべきタイミング: 「年度替わりの4月」かつ「休み明けの月曜日」は、社会的なリズムと個人のプレッシャーが最悪の形で衝突する、最大の警戒期間です。
今回のデータ分析から、私たちが学び、支援へ繋げるべき知見は以下の3点に集約されます。
統計数値は、過去の記録ではなく、今この瞬間を生きる人々を救うための「設計図」です。このインサイトを、一人ひとりの見守りと、社会制度の改善に活かしていくことが私たちの使命です。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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## 1週間分の総括
この1週間は、選挙を中心とした政治・社会への高い関心が全体を貫きつつ、AIや投資など未来志向の話題と、食・旅行・趣味といった身近な雑談がバランスよく共存していた。
仕事や教育、医療といった現実的な課題への悩みが多く語られる一方で、新技術や文化を楽しむ姿勢も見られ、不確実な時代の中で生活を最適化しようとする等身大の大人たちの対話が印象的なログだった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
学生時代の勉強は好きだった。応援団や文化祭、サークル活動やバイトにボランティア、短期留学全部楽しくて面白かった。
仕事はそんなに給料高くないけれど、実家で暮らしているから貯金しながら全然暮らしていける。
旅行が好き。
友達と遊ぶの大好き。
新しく学ぶのが好き。
美味しいもの食べるの好き。
素晴らしい本や映画に触れて色々考えるのが好き。
満たされている。他に何にもいらない。
でもこの年齢ってほんとにみんな結婚するんだね。
住んでる地域柄なのかな。
ファ〜〜〜〜
結婚しすぎ〜〜〜
結婚してない友達は元々結婚絶対しないって言って彼氏と事実婚状態の友達と居住地がかなり過疎地で人自体少ない地域住みの2人。
友達は優しいので彼氏が居なかろうが結婚していなかろうが私と遊んでくれるし、私も友達みんな好きだから友達も私のことが好きだと思う。
でもたぶんライフステージ変わったら会いづらくなるよね。今はいいよまだ子供産まれてない友達も多いしさ、遊べるけど将来子供連れてテーマパーク行こう!とかなった時私は何枠で参加するんだ…?
謎おばさん枠なのか?子供大好きだし友達の子供ならみんな可愛いだろうから全然面倒見たいけど、誘わないよな普通に。未婚独身女性ですもの。
みんな私に結婚したらとかいい人いないのとかあなたの好きになった人が見たいって言う。
辛いよ〜マウントとかじゃないんだよ。
みんな私のことを心配してくれてるんだ。
結婚式に参加したいって言われても相手いないんだよ〜欲しくないんだよ。
父も母もそれこそ祖父母も最近は結婚して欲しそう、子供産んで欲しそう。
本当に?そうしたら私引っ越しとかしてたまにしか会えなくなるかもなのに?
子供ってめちゃくちゃ大変じゃん。
そんな簡単に決められないよ。
ポッと出のよくわからんやつとどこかに行ってしまってもいいの……?
というわけで全く結婚したくない。
でも友人や家族、そして結婚をしなかったことを後悔しているかもしれない10年後の39歳の自分のためにマッチングアプリを始めた。
みなきちんと大学や大学院を卒業していて、私より収入があり、外見が決して良いとは言えない私とも丁寧なコミュニケーションを取ろうと努力をしてくださる。
質問内容や会話内容的に遊びではなく結婚相手を求めて(本来はそれがマッチングアプリの正しい使い方なのだと思うが)会ったこともないさして興味もないだろう人間のために労力を割いている。
すごいよほんと。
Twitterの男女論とかナンパ師界隈みてるとやばい人間しかいないのかなと思って怯えてたよ。
でもな〜でもさ〜〜
男女共働き時代といえども家事は多分こちら負担割合多いだろうからたくさんしないといけないし、突然思い立ってモンゴルにも行けない。
徹夜でアニメ見たりもできないし、友達から電話きたら即出発とかも無理なわけですよね。
アイドルグッズもノリで買えないよね、将来のために貯金しないといけないもんね。
今こんな幸せなのにな。
彼氏ってだけならそこまで気にしなくていいのかな。でも結婚しないなら彼氏も必要ないんだから、結局イコール結婚なのか………。
誰かわたしに教えてください。
最近、また選択的夫婦別姓の議論が活発だけれど、少し冷静に整理してみたい。
先に断っておくけれど、私は別に「伝統的家族観を守るべきだ」なんて主張したいわけじゃない。
改姓に伴う行政手続きが煩雑極まりないことも理解しているし、銀行口座からパスポートまで書き換える手間は、生産性の観点からも損失でしかない。
現状、そのコストのほとんどを女性側が負担しているという非対称性が、フェアでないことも理解できる。
キャリアの分断やアイデンティティの問題も、至極もっともな話だと思う。
ただ、今の社会をドライに見ると、別姓導入という選択肢は、『自由』を手に入れる代わりに、全く釣り合わないような難題を新たに背負うように見えてくる。
なぜ「全く釣り合わないような難題を新たに背負う」のか。
少し書き残しておく。
現行の「結婚時にどちらかの姓に統一する」というルール。 これは人権や個人の尊厳という観点からは批判の対象になる。
だが、全体的な視点で見ると、実は「将来発生しうる対立を、初期段階で強制的に解決してしまうメカニズム」として機能している。
結婚という事象は、当人同士の「愛」の結合に見えて、その背後には「家(夫の実家)と家(妻の実家)」の力学が厳然として存在する。
同姓制度は、この潜在的な緊張関係に、婚姻届提出という入り口の時点である程度強制的に枠をはめる。
「姓を変える=相手の家に一旦合わせ、合流させる」 この理不尽なまでの強制力によって、その後の「子供の姓の帰属」や「お墓の問題」といった火種を、オートマチックに処理する。
多少の運用コストを強いる代わりに、難題の解決をスムーズに保っているとも言える。
これは、 「選択肢が増えて自由になる」という単純な話では終わらない。
日本社会の深層には、まだ「家」や「先祖」といった、成文化されていない土着の価値観が根強く残っているからだ。
今までは「法律で決まっていますので」という錦の御旗で沈黙させられていた親世代・親族たちが、夫婦別姓化によって交渉のステークホルダーとして浮上してくる。
「うちは代々続く家だから」 「一人娘なのだから、こちらの姓を残してほしい」 こうした要望が、夫側と妻側の双方から顕在化する。
つまり、結婚が「夫婦二人の合意」で完結せず、「夫の両親」対「妻の両親」という、多者間の調整フェーズへと大きく複雑化する。
夫婦間の意識や人間力、交渉スキルがいくら高くても、背後にいる親族の意向を完全に無視して関係を維持できるカップルが、今の日本にどれだけいるだろうか。
よく妥協案として出される「1人目は夫の姓、2人目は妻の姓にすれば平等だ」というロジック。
これは一見公平に見えるが、子供の視点に立つと「家庭内における代理戦争」の引き金になりかねない。
同じ家の中に「田中くん(兄)」と「鈴木くん(弟)」がいる状態を想像してほしい。
ここで起きるのは、単なる兄弟喧嘩ではない。背後にいる祖父母(スポンサー)を巻き込んだ「資源の争奪戦」だ。
田中家の祖父母は「自分の家の名を継ぐ孫」である兄を可愛がり、教育費や遺産を集中投下するかもしれない。
「お兄ちゃんはお父さんの家の子だから」「僕はママの家の子だから」 親や祖父母からの愛情やリソースが、子供自身の資質ではなく「どちらのラベルを貼られたか」によって偏るリスクがある。
「兄は出来が良いからウチの跡取りに」「弟はパッとしないから向こうへ」といった、能力に基づく選別(ドラフト会議)が行われないという保証はどこにもない。
子供を「家を存続させるための駒」として比較し、競争させ、評価する。
そんな残酷な構造が、家庭という安らぎの場に持ち込まれてしまう。
では、その他の「条件付き運用」ならうまくいくのか。
「子供を持たないカップルに限ればいい」という意見もあるが、生殖は完全に制御可能なパラメータではないし、人間の価値観は可変だ。
数年後に子供が欲しくなった時、どうするのか。
ルール違反へのペナルティ設計(強制離婚?強制改姓?)など現実的ではないし、「この年齢ならOK」といった線引きは脱法行為の温床になる。
「結婚時に子供の姓をどちらかに統一することを義務付ける」という案。
論理的には一番筋が通っているが、これにも「家庭内に名目上のアウトサイダーを生み出す」という懸念がある。
夫だけ、妻だけが家の中で異なる姓を持つ状態は、結婚が本来持つ「新しい共同体の形成」という機能を毀損しないか。
いわゆる「ウォークイズム」的な議論は、個人の完全な自律と親和性の高い「最終的な理想地点」を設定し、そこに向けて「どう強制力を働かせるか」ばかりを議論しがちだ。
しかし、そこには「今を生きている人々の生活実感」への視点が欠落している。
でも、実際には多くの人が「家族みんな同じ名前であること」になんとなくの一体感や安心感を感じているのも事実だ。
その感覚を「古い」「遅れている」と切り捨てて、理想の型に嵌め込もうとするのは乱暴すぎる。
まずは現状の感覚を尊重しつつ、落としどころを慎重に探るべきだ。
何もしない、という選択肢や弥縫的な対処を短期・中期(50年程度を想定)的に模索することは、必ずしも悪ではない。
「進化すること」ありきで、現在の自分たちの感覚を否定して進むのは、社会実装の手順としてあまりに危うい。
結局のところ、選択的夫婦別姓という制度変更は、結婚の入り口にある「姓を変える負担」を取り除く代わりに、
その調整コストを「出産時」や「親の相続時」といった、より後段のライフステージへとタイムシフトさせているに過ぎない。
しかも、後になればなるほど、関係者は増え、状況は複雑化し、「譲れない条件」の争いとなり、解決の難易度は上がっていく。
いわば、「難問の先送り」だ。
今の日本社会の空気感、我々の内面化している価値観が、まだ「家」という引力に縛られている以上、この制度を「強力なリーダーシップで」実装するのはリスクが高すぎる。
結婚の自由度を高めるための制度が、皮肉にも調整コストへの忌避感から、結婚や出産そのものを躊躇させる要因になりかねない。
現状の過渡期においては、良かれと思ってトップダウンで線を引き直すと、より悪魔的な問題が噴出するようなことは起こりがちだ。
より大きなデメリットを解決するための、やる気もビジョンも実行力もないなら、法律的な措置は控えるのが筋だ。
活動家は「自分の主張に有利なこと」「つごうのいい事」を「今すぐやれ」と主張するだけで、デメリットやトレードオフは見て見ぬふりをする人間の集まりである。
左右どちらかに限った話ではない。
法律を通してさえしまえば、問題が起きても、「いいから法律に従え」としか言わなければいいので、どんなに卑怯でも法案成立だけを目指せばいいからだ。
活動家の主張を通した結果、新しく不幸な人が増えても、活動家は、まったく責任を取らないし、何もしないし、顧みることもないことは、始める前から明らかである(歴史はそれを証明している)。
私自身がモラハラなので、もし今モラハラなパートナーや家族、上司に苦しんでいる人のために書いていこうと思う。
(断っておくと、私はもう既に自覚しているので改善の努力はしているしパートナーは作っても結婚はしないと決めています)
まず、私の話からする。
私はモラハラの特徴としてよく挙げられる、相手をコントロールしようとする・気分で態度が急変・外面が良いなどの特徴は全て持っている人間である。
これは元恋人、友人、家族、深く関わった人間ほぼ全てに言われていることでそれ自体は私も自覚している。
外面はいいので塾講師のバイトや大学では絶対に口には出さなかったが、当時の恋人や友人、家族にはライン超えの発言を繰り返し、相手が自分の支配下にいなければ気が済まなかった。
例えば、当時の恋人は家庭環境に恵まれておらず、父親が出て行ったため母子家庭で育っていたのだが、向こうが私を苛立たせるような発言をした時には「そんなことばっかり言ってるからお父さん出て行っちゃったんじゃない?笑」と返して深い傷をつけた。
こんなエピソードには事欠かない。よく刺されずに今日まで生きて来れたと思う。
当時の私の思考回路を振り返ってみると、とにかく相手が自分の思い通りに動かなければ気が済まず、なんとか相手を屈服させたかった。
しかし、腕力が強い男でもないし暴力に訴えるのは「完全な屈服」には繋がらないと思っていたので、とにかく相手の自己肯定感や幸せをめちゃくちゃに壊し、自分の思う通りにだけ動くようにしたいと思っていた。
自分以外に相手に頼る人間がいることが許せないので、思い返せば当時の恋人は家庭環境に恵まれていない且つ友人がいない(もしくは少ない)人ばかり選んで付き合っていたような気がする。
なぜなら、私含めほとんどの場合モラハラはプライドが高く、「自分が相手を支配するために必死になっている」ことを認めなくないため、屈服させると言っても簡単に屈服するような人間をターゲットにしたいからだ。
なので頼れる親や友達がいない人間が格好のカモになるわけである。
私の場合、弟と妹、恋人、見下せる友人、この3種が特に当時の自分の「相手を支配下に置きたい欲」の標的になっていたと思う。
なぜこういう思考になったのかは人によって違うと思うが、私は両親が言うには幼い頃から良い子だったらしい。
今から考えたら、完璧な第一子であり続けようとするプレッシャー、そして張り続けた見栄によるストレスを幼い弟妹にぶつけ続け、そして弟妹が自分に屈服するのを見た時にゾクゾクと快感が走ったのが始まりだったように思う。
モラハラは外面が良いという話にも繋がっているのだが、ほとんどの場合は“見栄”で外面を作っている。
本当に仕事ができて完璧な人間なら見栄を張る必要などないから当たり前だが、モラハラになるような人物は醜い凡人なのに完璧な外面を取り繕うとするのでそこに「ひずみ」が生まれるわけである。
それを全て自分よりも弱いものにぶつけることによって、「自分は大丈夫」「少なくともコイツよりは強くて優れている」と思い込みたいのだ。
なので外面は良ければ良いほどモラハラでぶつけられるひずみの反動は大きくなると思ってもらって差し支えない。
もっと深層心理を言えば、完璧で相手よりも圧倒的な人間であり続けないと不安なのだ。
100点を取らないと殺される、突き放される、と怯えている子供だと思ってもらって良い。モラハラは小心者なので。
ただ、100点であるフリがうまく行っている時はいい。しかし成長途中に“本物”の100点満点なんかを見てしまうとそこで何かがプッツン来れる。
そして自分よりも明らかに点数の低そうな者に目をつけ、お前は0点だが俺は100点なのだ、エライのだ、と自分に言い聞かせるわけである。
1番頭に来るのは0点だったはずの格下が実は自分よりも点数が高かった時だ。
モラハラ夫が妻の才能を潰すために周りとの関係を切らせ、家に閉じ込めるのはそういう思考だと思ってほしい。
ではモラハラは治るのか?というと残念ながら難しい。
暴力に訴えるタイプなら逆にまだ救いようがあるが、完全に言葉やマインドコントロールに走るタイプのモラハラはもう既に“自分は満点で圧倒的な存在であるはずだ”という意識が出来上がっている上に、暴力に走らないくらいには理性とプライドが高くなっているからだ。
私の場合、留学先で100点満点どころか1000点満点の世界中から集まってきた本当の天才たちにプライドを粉々に叩き潰され、且つその怒りと焦りを発散するための自分より弱い格下がおらず、どうしようもないまま数年過ごしたのがよく効いた。
私は無意識下でバイト先も塾講師や家庭教師を選び、恋人にする相手も自分より弱そうな者ばかり狙ってきたので、先生と呼ばれ格上扱いされることに慣れきっており、そのちっぽけなメッキの鎧は本物の天才の純金の剣には敵わず粉々に砕け散ったのである。
これが日本にいる時だったらなんとか見栄を張り続けて、周囲には悟られないようにしてプライドを持ち直しただろうが、残念ながらアメリカの名門大学は非情なまでに実力主義で、丸裸の状態で日本に帰国することになった。
そしてまっさらな状態でかつての自分の言動や行動を見直し、「なぜ私はあの程度の才能でいばり散らかして、周りを屈服させる存在だと自分を思い込んでいたんだろう」と急に恥ずかしくなり、今に至る。
帰国してからは塾のバイトと同時並行で皿洗いのバイトなどを初めてやり、意識的に自分を格上扱いする快適な場所(コンフォートゾーン)の外側に置いてみた。
数年かかったが弟妹には謝罪してなんとか和解し、それから付き合う恋人も「自分より格下か?」「弱味はあるか?どこを攻撃すればいいか?」ではなく逆に自分よりもはるかに格上の相手を選ぶようにした。(そうすると自分が何も言えなくなるため)
そして素晴らしい恋人と出会って今は日々そういう言い方は良くないよ、と宥められながら少しずつ意識を改革している。
もし今モラハラに悩んでいる人たちは彼らを積極的にコンフォートゾーンから追いやってほしい。
会社で上司としてぺこぺこされることに慣れきっていたモラハラ男が、退職してからは家庭に居場所がなく人が変わったようになった、という話を聞いたことがあるが、それも会社というコンフォートゾーンを追い出されたモラハラの良い例である。
それが恋人であればおだてて海外や転職に持ち込ませるのもいいし、家族ならそのモラハラ人間が格上判定している人に突き放してもらうのも良く効く。
私は今は留学の経験から落ち着いているが、ライフステージが変わり、自分のメンタルに余裕がなくなった時自分の中にまた相手を屈服させ、安心したいという欲望が出てくる可能性を常に秘めているので、この先結婚もしないし子供も持たない予定である。
世の中で苦しむ人が少しでも減るように。
日本は人権国家なので、別にフリーライダーが悪いと言うつもりはないし、各自が持っている権利は存分に行使してくれて構わないと思う。
でも流石にフリーライダーであることは否定できないだろ、そりゃあ子無しも税金や社会保障費を払っているのはわかる。しかし税金と社会保障費を払っているのは子持ちも同じだし、上を支えて下を育てなければ社会は維持できない。上を支えただけで役割を果たした気になるのはどう考えてもおかしい。
あとついでに言うと、もちろん例外はいるにしても統計的に未婚は年収が低い。本人は税金と社会保障費を払っていると胸を張っていても、実際にその負担は相対的に低く、そして低収入者は自分が払っている以上の公的サービスを受けていることは多くの研究が示している。二重にフリーライドである。
つまり子無しの「俺達は納税して既婚者への公的サービスを支えている」という主張はあまり正しくはなく、基本的には育児が終わった子持ちが育児中の世代に支援をしているという形になる。要は子持ち同士のライフステージ間移転なのだ。
繰り返すが、別に子無しが悪いとも思わないしフリーライドするのも当然の権利だと思う。ただ自分たちはフリーライドしていないだとか、むしろ子持ちを支えているみたいなよくわからない前提条件を持たずに、自分は社会のお荷物側なんだという認識を持って議論に参加して欲しいと心から思っています。