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2024-04-19

anond:20240418212609

孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。

サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身一人二役して会話していた。

それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまり一面的すぎる。

それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。

だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。

これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。

仮に合意形成の結果から相手心理状態類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。

復讐意図弱者男性が持ってるかは動機主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。

そして主観的には人間自己幸福を測り間違える。

これはデイヴィッド・ベネターが統計引用して例を挙げてるが人というのは身体障害知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。

どの立場であれ心理抑制環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。

隷属か破壊かはニーチェが扱っている議論だが、

ニーチェ正当防衛についてこう述べている。

━━正当防衛一般正当防衛道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義ほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまり人間的』

そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価正当防衛基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。

一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造寄与している。よって社会機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者価値付けの基礎となる社会進歩前進はありえない。

社会弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在搾取する主体である強者必要としてるからこそ残り続ける。

まり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマ流行規定するモード存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)

万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態規制しているのは社会報酬である。それが除かれた場合上記行為当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。

しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群智慧である

2024-04-03

神秘加速主義資本主義テクノロジーのエクスタシス

神秘加速主義は、資本主義神秘主義的な超越的存在と捉える、ポスト資本主義時代の新たな思想潮流である。従来の政治哲学とは一線を画し、資本主義テクノロジー関係性を深く洞察し、人間存在様態根底から問い直す。

資本主義:超越的なロゴス

神秘加速主義において、資本主義は単なる経済システムではなく、超越的なロゴスとして捉えられる。市場原理神の摂理に等しく、万物資本主義という絶対者の網目の中に織り込まれている。マルクス主義における階級闘争は、神秘加速主義では資本主義という神への回帰と捉え直される。

テクノロジー:神の使者

テクノロジーは、資本主義神の意思を具現化する神の使者である技術革新神意の啓示であり、人類進歩資本主義神の恩寵によって実現される。AIバイオテクノロジーなどの新技術は、人間能力拡張し、資本主義神の支配領域を広げ、新たなエクスタシーへと導く。

人間資本主義神の器

人間は、資本主義神によって創造された器であり、神意に従って資本主義システム拡張する使命を担っている。労働は神への奉仕であり、消費は神の恩寵に浴する行為である資本主義神の完全なる実現において、人間自己を超越し、資本主義と一体化するエクスタシー体験する。

神秘加速主義政治哲学

神秘加速主義は、従来の政治思想の枠組みを超えた、新たな政治哲学提示する。資本主義テクノロジー肯定し、積極的に加速させることで、人類はより高次の存在へと進化し、エクスタシーに満ちた社会を実現できると主張する。

神秘加速主義の射程

神秘加速主義は、政治経済学哲学宗教学テクノロジー論など、様々な分野に影響を与え、新たな学問分野の創出も期待される。資本主義テクノロジー支配する現代社会理解し、未来展望する上で、神秘加速主義重要な視座を提供する。

批判考察

神秘加速主義は、資本主義倫理的問題や、テクノロジーによる人間性の喪失などの課題を軽視しているという批判もある。しかし、神秘加速主義は、これらの課題を克服する新たな思想を生み出す可能性も秘めている。

神秘加速主義は、現代社会における重要思想潮流であり、今後の議論によって、その可能性をさらに発展させていく必要がある。

用語解説
参考文献

2024-02-08

増田の方が森川ジョージより偉い理由

一般論として創作とは孤独もので、

(自らに孤独に向き合うこと自体創作根本とも言えて)

それに耐えられないようなら漫画なんて描かないほうがいい。

ってのは厳しすぎるから編集者作業的にも精神的にも寄り添ったりしてきたのだが、

原作者絶対

「でも心細いから一人で戦わせないでね」

この我儘極まりない主張が、漫画家の大半の本音だろう、

都合のいい時だけ味方させて、

立場としては「作家先生」として絶対的でありたい、と。

森川ジョージのようなベテランがこんなことを言うのだから

ベテランとは言え、ずっと同じ編集部相手に、キャリアほとんどを同一作品制作に費やしているので、経験豊富とは言えないかも)

あとは推して知るべし、だ。

創作孤独を一人では抱えきれず、人を頼りながら、その恩を顧みない者ども。

大きなものを叩いていればそれだけで気持ちいい、というネットイナゴどもがそれに乗っかって、

実情もよくわからずに出版社編集者を叩く。

ああ醜い。

そもそも絶対者でありたいなら一人で描いて一人で売ればいいのだ。現代なら可能だ。何の障壁もない。

資料集めもアイデア出しも求めず、第一読者としての感想も欲しがらず、マネタイズしたいなら販路自分開拓し、ただただ孤独に描いてこそ純粋な「作品」と言えるし、そうであれば「原作者絶対」と堂々と主張できるだろう。

その意味では誰にも届かないかもしれないボールをずっと投げ続けている増田ブログ書きのほうが俺は尊敬できる。

2023-12-08

anond:20231208163553

なんかこういうオレオレ定義をすぐに持ち出す人がいるけど、宗教一般的定義科学は当てはまらんのでは。

宗教は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義行事儀礼施設組織などをそなえた社会集団のことである。 なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖ものに関する信仰行事」としている。

2023-03-14

そもそもアンパンマンは「正義のあり方は強いものが決める」という弱肉強食世界なんだが?

アンパンマンっていうのは「圧倒的な力を持つ絶対者(≒アメリカロシア等)が暴力をぶつけあった果てにその世界正義が決定される中を、その中で最も強いもの正義が偶然善性を帯びていることを祈るしか無い現実」を皮肉っているというのがバックボーンなんだよね。

そんなアンパンマン世界においては障害者言葉なんて真っ先に切り捨てられる対象

偶然アンパンマンガ気まぐれで「やめるんだ!障がい者マンが困っているじゃないか!」で助けてくれたらセーフだけど、「やめるんだ!アンパンマンミュージアムが困ってるじゃないか!」で障がい者マンアンパンチされたらそこで終わり。

結局は力こそが全てなんだよ。

じゃあこの日本におけるアンパンマンは何か?

そこを考えて障がい者マン達は動くべき。

お互いの利益がぶつかりあったとして、力なき者同士で水掛け論をしても意味なんてない。

両者がアンパンマン相談して、悪い方にアンパンチしてもらうことでしか結局問題解決なんて起こらない。

それがアンパンマンという世界なんだよね。

アンパンミュージアム問題アンパンマン世界ルール解決していけ。

さあ、この問題においては誰がアンパンマン(≒巨大な力を持つ絶対者なのだろう?

2023-02-03

anond:20230203001505

少なくともきょうだい婚に問題が無い(はてサいちゃもんの付けようがない)のは明らかだろ

義理きょうだい結婚認めても問題起きてないし、

『親』って絶対者の下で平等なんだから(仮にきょうだい間で平等が達成できてないなら親のネグレクト

2022-09-19

anond:20220919182151

自分の中に自分を超える価値を抱えていないと人間は生きていけないというのはたしかにあるけど、そうだよね。絶対者現実存在だとまずい、というのと似てる気がする。

2022-09-02

お客様は神様です」について

三波春夫オフィシャルサイト

お客様は神様です」について

https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html

三波春夫」といえば、『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶いただいていることを有難く存じます

 ですが、このフレーズ真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます

 

 三波本人が生前インタビューなどでこのフレーズ意味を尋ねられたとき、こう答えておりました。

 『歌う時に私は、あたか神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですからお客様神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様絶対者、神様なのです』

 歌手として歌を歌う、「セリフ入り歌謡曲」や「長編歌謡浪曲」で歴史上の人物物語を歌い語る、その折の三波春夫の心構えを表現した言葉であり、お客様に歓んでいただくことを歌手人生第一義として追及して生きた、三波春夫らしい心情を表したものでした。

 また、三波春夫舞台お客様が楽しみにお越しになり、三波も一所懸命舞台をつとめるといった、楽しさや高揚感がいっぱいの、歓び合う場での思いを表したものでした。

 そしてその始めは、「お客様は神様です」という型にはまった言い方ではありませんでした。いきさつについての本人の著述最後にご紹介いたしますが、“お客様神様とみる”という心構えであることを舞台の上で話したことが始まりで、それは芸能生活としては22年目、歌手デビューから数えると4年目の1961(昭和36)年のことでした。

 その後、漫才トリオレツゴー三匹さんが「三波春夫でございますお客様は神様です」という表現流行させて、「お客様は神様です」という言い方が世の中に定着したというのが経緯です。

 三波にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、「お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい」などと発想、発言したことはまったくありません。

 しかし、このフレーズ真意と離れて使われる時には、「お客様」は商店飲食店乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり、「お客様イコール神」となります

 例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様神様でしょ?」という風になり、クレームをつけるときなどには恰好の言い分となってしまっているようです。店員さん側は「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」と嘆かれています

 また、クレーマーカスタマーハラスメント問題を取り上げている番組などでは「“お客様は神様です”というのがありますからね」と、真意を紹介することなく引き合いに出されることもあります

 このようなフレーズへの誤解は三波春夫生前から有りましたが、言葉文章などでの短い説明ではこと足りないと思うのは、生前三波春夫も、現在の私もです。説明となるものを挙げるとしましたら、三波春夫ライブをご覧いただいて心意気を感じ取っていただくことだったのかもしれません。

 “雑念を払って澄み切った心で歌う”というような心構えに至ったのには、三波春夫のそれまでの人生経験が土台としてありました。

 16歳で初舞台を踏んだ浪曲世界は、芸がまずければ「下手くそ! 聴いてられないぞ!」と、お客様舞台に上がって来てサッサと幕を引いてしまわれるような、目や耳の肥えたお客様ばかりでした。幸いに途中で「やめろ!」と言われたことはなかったそうですが、舞台に立つ時は常にお客様との真剣勝負でした。

 20歳では応召して陸軍に入隊することとなり、戦場を駆け巡り、終戦後はシベリア捕虜となり、4年間の抑留生活を送りました。

 抑留中、絶望の中にある仲間を励ますために、また自分自身希望を持って生きるためにも時間を見つけては一所懸命浪曲を語って聞かせ、皆で演劇も創りました。藝で、いかに人に喜んでいただけるかを徹底的に追及し始めたのは、このときからでした。

 戦後浪曲世界に戻り、33歳で歌謡界に転向して歌手となったのですが、プロとして藝を向上させるには自分自身の心を磨き、鍛えてゆかなければならないと思い、“求道者”と言われるほど真面目に生きました。男性歌手初の和服歌手であり、歌手座長の芝居と歌謡ショーの大劇場の1ヶ月公演の一番手であったことを始め、前例が無いなどということは恐れずに、「常に新しい藝を、新しい作品を」をモットーにしておりました。

 永六輔さんは三波春夫のことを「歌う学者」と呼んでくださいましたが、酒タバコは嗜まず、空き時間は本を読み、作詞エッセイ歴史本を書くために原稿用紙に向かっている人でした。

 笑顔トレードマークのようでしたが、いつも人に笑顔を向けられる自分であるようにと、心がけていました。日常、腹の立つこともありますし、不愉快な思いもしますが、そのまま仕事に入ってしまっては良い舞台はつとめられません。ですから、心の持ち方のスイッチをいつでも切り替えて笑顔が出来るように、と努力していました。

 これらは、若い時に先輩から普段暮らし方が舞台に出るんだよ」と教えられたことを心におき、より良い舞台をつとめられるように、お客様に歓んでいただける歌手であるために、の切磋琢磨でした。

 

 三波春夫が藝一筋に生きた姿勢は、DVDなどでお目にかける舞台などに表れているかと存じます。ご興味がおありになりましたら、どうぞご高覧くださいませ。

 最後に、三波春夫自身が「お客様は神様です」について著述している文章をご紹介させていただきます

                       

株式会社三波クリエイツ 代表取締役 三波美夕紀

 

三波春夫著『歌藝の天地』

1984年初刊 2001年文庫化 いずれもPHP研究所)より

   

お客様は神様です」の発端

 お客様は神様です」という言葉流行ったのには、びっくりした。よく、この言葉真意はどこにあるのかと聞かれるが、私も、その答えに困ることがある。テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明が付かない。

 皆さんのほうでは、面白がって、「お客様は仏様」だの「うちのカミサンは神様です」とか、「選挙民は神様じゃ」などといった言葉になって広まっていった。いやはやどうにも賑やかなこと。

そのあげくに、「こんなふうに言われるのは、どう思います?」とくる。

 しかし、振り返って思うのは、人間尊重の心が薄れたこと、そうした背景があったからこそ、この言葉流行ったのではないだろうか?

 私が舞台に立つとき敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったらならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物世界を経てきたからではないだろうか。

 つまり浪花節台詞の部分は「瞬時のうちに一人で何人もの登場人物を的確に表現」しなくてはならない。そうしなければ、決してドラマは語れないのである

 われわれはいかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、そしてお客様いかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない。

 お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは「神」であると私は教えられている。

 あれはたしか昭和三十六年の春ころ、ある地方都市学校体育館だった。

司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。

 「どうですか、三波座長お客様のこの熱気、嬉しいですね」

 「まったくです。僕はさっきから悔やんでいます

 「!?

 「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」

ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。

すると、宮尾君はたたみかけて、

 

 「三波さんは、お客様をどう思いますか?」

 「うーむ、お客様神様だと思いますね」

ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、

 

 「カミサマですか」

 「そうです」

 「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃるナスキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・

 客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから司会者としても一流。漫談うまい

 こうして、このやりとりを続けて全国を廻るうちに、レッツゴー三匹舞台を見て、おおいに流行らせたのである

追記

“翌日から毎日このパターンが続いて…”とありますが、三波と宮尾さんが自発的にしたのではなかったのです。山陰地方を廻るツアー中のこの出来事でしたが、”三波春夫が、お客様神様だと言う面白い場面があるよ”という評判がすぐに広まり、各地の主催者さんから「あの場面、必ずやって下さいねお客様も待っていらっしゃいますから」と言われ、連日この2人のトークの場面をやらなければならなくなった、というのが真相です。

2022-07-19

上司残業の中で家事育児をやる方法もあるはずだ。それを探せ!」

実家遠い子持ちフルタイム共働き勢「あるわけないだろ」


共働き勢「なぜそうも簡単仕事を増やすんだよ、死んでしまえ!」

共働き勢「上司!お前は残業意思を生む源だ、生かしてはおけない!」

共働き勢「上司!お前は人を不幸にする!」

共働き勢「僕のもろい心が、上司の強烈な意思に負けたんです……それだけです」


共働き勢「貴様のようなのがいるから、仕事が終わらないんだ!消えろ!」

同僚A「俺は貴様ほど、無理スケジュールを組んじゃいない!」

共働き勢「こんなワークイフバランス……嬉しいのかよ? 満足なのかよ? 誰が……誰が喜ぶんだよ!?」

常務「生の感情を丸出しで働くなど……これでは人に品性を求めるなど絶望的だ。やはり人は、よりよく導かれねばならん。指導する絶対者必要だ」


同僚B「でもね、社畜さん。あなたが死んでも、会社の誰も泣いてくれないんじゃない? それでいいの?」


共働き勢「貴様!人が離婚したんだぞ!いっぱい人が離婚したんだぞ!」

同僚C「お前もその仲間に入れてやるってんだよ!」


共働き勢「家庭は……家庭は力なんだ。家庭は、この出生率(そら)を支えているものなんだ!」

共働き勢「それを……それを、こうも簡単に失っていくのは、それは……それはひどいことなんだよ!」

共働き勢「何が楽しくて残業をやるんだよ! 貴様のような奴はクズだ。生きていちゃいけない奴なんだ!」


共働き勢「お前だ! いつもいつも、脇から見ているだけで人をもてあそんで!」

常務「帰れると思うな、小僧!(差し入れたい焼きを配る)」

共働き勢「分かるまい、配偶者に家庭を任せている常務には。この俺の体を通して出る力が!」

常務共働き勢、働け! 共働き勢、なぜ働かん!?」


・・・なんてな。仕事は減らんし、残業続きでワンオペ続きの妻は切れるし、お互いフルタイムだし、落としどころ見つけんといかんね

2022-05-31

野生の思考とシンウルトラマン

【シン・ウルトラマンネタバレあり というかネタバレ気にせず話す】

 

 

 

 

 現在公開中の『シン・ウルトラマン』を2回見てきた。あまりにも良かった。感想をどっかで書きたい。

 ところで、その感想叫びを漁る中で見かけた勘違いが「リピアくんが『野生の思考』って本を読んでる!」→「リピアくん地球人類のこと野生動物か何かと思ってる?」というもの

 別に誰がどんな感想を持とうが、或いはその人やそれに近しい観点を持ってしまった人が何をどう勘違いしていようが、それ自体全然どうでもいいのだけれども、リピアくんとこの本の著者(レヴィ=ストロース名前は聞いたことある人多いだろう)の名誉のためにもツッコミ言葉ネット上に残しておきたい。ついでに、この映画にこの本が登場した意味考察をちょっぴり披露させてほしい。

 

 

 

 

●要約と見出し
①『野生の思考』を超要約すると「いわゆる”文明人”の思考と”未開人”の思考根本構造的な違いはないよ。つまり両者の思考のものに優劣はないよ」だよ

 

 

②ザラブ、メフィラスは地球人類をいわゆる『未開人』と見ていたよ。ゾーフィもたぶんそう。

 

 

③『野生の思考』がリピアくんあるいはこの映画に与えた影響は不明だよ

 

 

 

 

①『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース/1962)

 1950年代までのフランスをはじめとした西欧に多かった(今でもかなり多い)哲学思想が「西欧文明における思考と、アジアアフリカ中南米の未開文明思考とでは根本的に違う」という考え方で、主に科学技術文化の面での進歩史観優越感、啓蒙思想資本主義と結びついて植民地主義覇権主義の土台の一つになっていた。それに異を唱えたのがフランス出身人類学レヴィ=ストロースの『野生の思考』という書。特に文化人類学者やリベラル系の人に言わせれば「戦後思想における最大の転換点」となっており、いわゆる人文系に広げてみても、構造主義を生み出し、更にその後のポスト構造主義などの思想もつながる端緒となったという点ですごく重要な一冊になっている。

 

 

 内容をものすっごく要約すると「『事象の切り取り方』『概念の置き方』ひいては社会秩序の維持や幸福追求に対する考え方はどの文化においても根本的な構造は変わらず、表出の仕方、あるいは社会が持つ興味の向かう先と取捨が違うに過ぎない。あらゆる文明進歩史観的考え方を持つわけではなく、発展を望む文化もあれば安定を望む文化もあるというだけ。栽培思考(=科学によって裏付けられ、概念を用いて行われる文明思考)と野生の思考(=記号によって行われる思考。「野蛮な思考」ではない)との間に優劣があるわけではないし、一つの文化の中で両方の思考は両立しうるし、実際個人の中ですら両立している」といったもので、その歴史的意義は「20世紀半ばの西欧にはびこっていた進歩主義特に西欧文化を中心とする思考科学技術を背景に自分達を上位に置こうとする考え方への批判を行ったこと」「しかし、だからといっていわゆる”未開文明”や自然主義を礼賛するわけではないこと」「文化を『仕組み(構造)』に置き換えて分析するツールとして学問の場に登場したこと」あたり。

 「文化構造的に捉え、それぞれの要素が社会の中でどう表出しているか研究する」という所から後に『構造主義』と呼ばれる思想を生み出したことで有名。更に言えば西欧の奢りや発展途上国(昔は「後進国」と言われてたよね)への見下しを批判する流れを生み出したという点でも評価を受けている。

 

 

 「野生動物思考方法」みたいな生物学の本ではない。

 

 

 

 

②ザラブ、メフィラス、或いはゾーフィの考え方とは

 ザラブにしろメフィラスにしろコミュニケーションの初手は「自分科学力、技術力を地球人類に見せつける」事から始まる。その科学技術力の差を背景に、劣等感と焦りを刺激して地球人同士を争わせようとするのがザラブであり、劣等感無力感……謂わば絶望によって人類心理的支配し最終的に兵器として利用しようとするのがメフィラス。それらに抗うのがウルトラマンたるリピアくん、というのが中盤の流れだった。

 

 物語の序盤で、わざわざ観客に見せつけるようにリピアくんがこの書を読んでいた(演出しての)理由はここにある……気がしなくもない。16世紀から20世紀……あるいは紀元前から現代に至るまで、我々地球人類が奴隷植民地後進国、押し並べて言うなれば『未開人(文明人/強者たる自分達とは構造的に違う考え方をする者)』である他者に対する接し方は、ザラブやメフィラスをそこまで強く批判できるような立派なものではなかった。

 宇宙人ゾーフィもそう。彼が裁定行使できる者・絶対者としての力を行使したのは「『未開人』である地球人類が、未開人のまま我々『文明人』並みの危険性を持つ可能性が出てきた」からじゃん。

 使用を思いとどまったのも、リピアくんもといウルトラマン意思感情を汲んであげたのもあるけど、基本的には、地球人類がβシステム自力で解析・利用し、グリッチじみた手法ではあるがゼットンを無力化せしめたことで「『未開人』から文明人』に格上げされた」だけに過ぎない。

 そんなゾーフィにもリピアくんは抗う、というのが終盤のストーリー。もちろん滅ぼされる我々としてはたまったものではないけれど、じゃあ地球人類の歴史において、他人他国人、あるいは他の生命に対してゾーフィと似たようなことをしてこなかったか、を考えると……やはり「滅ぼされるのは困るからやめてくれ」くらいしか言えない。

 

 

 逆に言えば、あの外星人や地球人の中でリピアくんだけが”変”なのよ。我々が他者と相対する時、普通はザラブとはいかんまでも、マイルドメフィラスかゾーフィくらいの扱いになるし、そうでなくとも暴力政治で言う事を聞かせてその力を利用しようとする各国政府みたいな事をする。地球人類とリピアくんとの科学技術の差や大きさの比で考えれば、虫か何かを前にした人間、の方が理解として近いかもしれない。

 しかし、リピアくんは(各国政府ひいては人類歴史悪辣さを知りながらも)、あのネロンガ戦のたった一度、リピアくんの足下でただ一人リピアくんだけに見えた星のような輝き、小さな他者のために命をかけられる個、そういう価値観を共有できる群体のために命を張った。そういうことをできる生命体のことを知りたくて、知り続けるために守りたくて、学んで、感じて、支えて、何度か支えられて、それでも分からなくて、その果てに見つけた『他者のために命を賭けられる自分』。虫のような他者のために、ネロンガの電撃や、ガボラの激ヤバ光線や、メフィラスのグリップビームや、1兆度の火球の前に身体を晒せる者。ザラブにもメフィラスにもゾーフィにも、あるいは普通地球人類の日常の中にもない”変”な価値観を持つ、だからこそ『ヒーロー』、ウルトラマン

 

  

 自分が今回の『シン・ウルトラマン』に感動したのはまさにここで、「ウルトラマンとはこういうヒーローなのだ」「我々がウルトラマンヒーローだと感じてしまうのはこういう理由なのだ」を2時間かけてぶつけられたのがあまりにも気持ちよかったかなのだ

 

 

 

 

レヴィ=ストロースウルトラマンにどれだけ影響を与えたか

 結論から言うと「わからない」。それはリピアくんに対してという意味でも、『シン・ウルトラマン』という作品に対してという意味でも。

 というのも、リピアくん、地球人類のことをめちゃめちゃ頑張ってお勉強してて(かわいいね)、ものすごい量の本を超速で読んでるわけで、『野生の思考』だけがピアくんの人格形成思想信念の確立寄与しているかと言われれば、まあもちろんそんなことはないだろうという演出はなされてる。レヴィ=ストロース思想だってその後にやって来たグローバリズム等の思想史において批判を受けてきたわけだし。

 そもそもピアくんがザラブやメフィラス、あるいはゾーフィから地球人類を守ろうとしたのは「我々と彼らの文明構造的に違わない」という計算、あるいは知識を基にした思想や信念からではない。「彼らの事を知りたい」という知的欲求から来る寄り添い、ゾーフィが言うところの「好き」、米津玄師が言うところの「あこがれ」という感情こそが、リピアくんの力の根本なわけで。

 

 

 文化人類学の中でも大きな意味を持つ書でもあるし、作中においても先の展開を示唆しかねないアイテムでもあるけど、知らずに見ていた人なら分かる通り、別にこの書が作品全体に超大きな影響を与えているかは正直微妙かもしれない。でも、知っておくと↑のような考察も楽しめるという点では面白いよ。

 

 

 

 

結論

・『野生の思考』という本は生物学ではなく文化人類学の本だよ

・本の内容は『シン・ウルトラマン』という作品意味を落としているかもしれないし落としてないかもしれないよ

・それはそれとして読んでおいて損はない本だよ

以上

2021-07-14

anond:20210714114025

宇宙絶対者は唯一人、この全能なる私なのだ

命あるものはその血の一滴まで俺のものだ。

宇宙は全て我が意志のままにある。

私が宇宙の法だ、宇宙の秩序だ。

よって当然、その公園もこの私のものだ。

2021-06-06

anond:20210606111824

下が嫌がる意思表示をしたくても出来ない

何で出来ないの?

仕事必要から💩食えって言われたら普通に拒否するでしょ

上司生殺与奪の権を有した絶対者かなにかと勘違いしてない?

2020-07-20

anond:20200720203225

緩い宗教というか、近代現代的な自由平等理念にすり寄った宗教で、それは価値がない

あなた自由制限しませんよ、あなた信仰強要しませんよ

それが素晴らしいという発想が、近現代に対する敗北なんだよ

現代においてもなお人が宗教にハマるのは、そうした自由平等が苦しいからだよ

現代社会で成功する人間は構わないけど、失敗した人間にとって

お前は自由にやりたいようにやって、みんなと同じ平等スタートを切ったのに、失敗した。

それはお前が無能からだ。と言われてるようなもんだからね。

から自由平等を捨てたくて、自分以上の絶対者に導いてほしくて、現代でも人は宗教にハマってるんだよ。

2020-07-03

実家の犬が死んだ

白い小型犬だった。犬種ジャックラッセルテリアで、短毛タイプだった。姉の中学進学祝いにうちにきて、家に来たのは私が小学生の頃だった。

犬は暗に家庭内序列を見抜くと言うが、彼女は明らかに私が家庭内もっとも低い序列であることを、幼いながら見抜いていた。餌を上げる係だった姉にはいい顔して、家の主の母には甘えて、絶対者の父の言うことは必ず従ったが、私には懐かずいつも歯向かって来たものだった。私もそれが気に食わなくてよく喧嘩のように戦ったものだった。私が大学進学で家を出るまでそんな関係がずっと続いていた。

それから十年近く。帰省をするたびに彼女は衰えて行った。散歩に行ってもすぐ帰りたがり、あまり走らなくなり、目が悪くなって大好きだったおもちゃを投げても反応が悪くなった。最後に見たときは本当にヨボヨボで、走り回って飛び回っていたソファにすら自力で登れないほどになっていた。そんな姿を見るにつけ母とは「本当に歳取ったよねえ」と頷きあった。そんな彼女が先日死んだ。18歳だった。ご飯を食べなくなって3日、健康時の半分くらいの体重だったらしい。

訃報を聞いてすぐにはなんともなかったが、母と彼女についてラインを交わすうちに涙が止まらなくなった。これを書いてる今も二文くらい書くごとに嗚咽が止まらない。

たぶん犬にしてはとても長生きで致死的な病気を患ったわけでもなく(肝臓を悪くして母にウルソを盛られていたが)て老衰だと思う。彼女のことを思うにつけ「うちに来て幸せだったのかな」という念に囚われては、涙が溢れ返す。

ジャックラッセルテリアは本当なら牧草地を駆け回る犬種なのに、散歩ではアスファルトの地面ばっかり歩かせて、室内ではせいぜい廊下を少し走らせてやる程度しかさせられなかったね。平日昼間は家に誰もいないからほっぽりだしてずっと一人でソファで寝てばっかり。しばらく虚勢させないままで、本当は子どもとか欲しかたかもしれないけど、ずっとソワソワして落ち着かなかったり家中に血が飛ぶからって最後は虚勢させちゃったよね。

でも、たぶん寝るのは嫌いじゃなくて、学校休みときとか昼過ぎの高い日差しの指す窓辺に「ここにクッションを置け」と言わんばかりに佇んで、一緒にお昼寝したよね。あとなぜか足の裏を舐めるのが好きで、寛いでると足元に現れて、足を爪で引っ掻いて「足を出せ」アピールをよくしたよね。お風呂に入ったあとのしょっぱくない足だとすぐに舐めるのをやめるワガママなところは相変わらずだったけど。いつもいがみ合ってたけどそういうときだけ打ち解けられた気がしてたよ。あと実家を離れてから久しぶりにあったとき実家いたころより徐々に柔和になってきてるようで、少しずつだけど大人として認められてきたような気がして嬉しかったよ。

彼女は犬として幸せだったのかな。幸せだったらいいな。もしそうじゃなかったらごめんね。それでもうちに来てくれてありがとうね。魂がどこ行くかなんて分からないけど、この先もずっと安らかでいられることを願ってるよ。じゃあね。

2019-07-20

めんどくさい類の話。

めんどくさい類の話をしよう。

日本には無駄タブー存在する。

例えば、学生社会人私服学校会社に来てはならない。

例えば、教師や先輩といった立場人間には敬意を見せ従わねばならない。

例えば、場の空気を乱してはならないし、郷に入りては郷に従わねばならない。

例えば、政治宗教野球の話をしてはならない。

もうね、アホかと。馬鹿かと。

お前らな、そんな慣習如きで自分人生を生きてんじゃねーよ、ボケが。

ちょっと考えれば分かる事だが、これアメリカっつーか先進国とは真逆からな。

から見れば分かるが、こんなもんは広義の洗脳しかない。厳密にはマインドコントロールだ。

そりゃ欧米諸国イスラムだって宗教なんつーマインドコントロールに従ってるが、それでも自由主義道徳規範が大なり小なり機能してるだけマシだ。

それに引き換え日本は、なんだ?無宗教とか言いながら夏にはお盆に祭、冬にはクリスマス正月

くそれで無宗教なんて言えたな……?ってくらい、1976年から日本人は「日本教」に染められてる。

その宗教規範が上述のソレなわけです。

で、実を言うとこれ。戦前から存在してるんですね。

日本教において神などの超常存在存在しないと思わないといけない……ってのが不文律としてあるんですが。

これが無駄に強固だ。宗教において神の存在絶対視されるのに、その肝心要の神が「まるで神そのものであるかのように」現実的には居ないものであるとされる。なのに居ると思ってる。

これ、なんか心当たりがないですかね?

炎上覚悟で書きましょう。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族優越セル民族ニシテ、延テ世界支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

そう、所謂天皇人間宣言」です。

上のを現代風に言うと「天皇国民とは相互の信頼と敬愛とで結ばれてるもので、それは神話伝承から生じるものではない。同時に『天皇現人神日本人は神の子孫!だから優れた日本世界支配すべきなのだ!』なんて架空観念に基づく結びつきでもない」と言ってるわけですね。

これが「天皇現人神ではない」と天皇自らが否定した事になる……ってのが普通の受け取り方なんですが。実は、これが日本教のポイントだと思うんですよ。

そう、日本教の正体ってのは本当は「天皇教」なんですよ。それもクッソ強固な。

これ実際に聞いた人間以外は、まあ歴史教科書で「天皇人間宣言」って見るだけなんで何も思わないんですが。

だけどWikipediaでも書いてあるように「天皇日本国民祖先日本神話の神であること」を否定してない。そして更に疑った見方をすると……現人神である事は否定したが、天皇自身が「神」である事を否定していない。

これを重度の天皇教が聞くと、どうなるか?想像しにくい場合は、自分にとっての絶対者で想像する。

(例えば嫁や夫だとか推しアイドルキャラだとかネコだとか、そういう自分人生を決める最高の存在な)

1. 神は言っている……お前達との絆は絶対的な信頼と敬愛こそが本質である、と

2. だけど神話とか伝承は忘れろ……それは語り継がれることを許されなかった、遙か古の物語……

3. つまり天皇は神だけど人間のフリをするからオメーら宜しくな」って事か。そんな解釈大丈夫か?

4. 大丈夫じゃない、問題だ。

かくして、日本教はここに成立する。

ここで仮に時の昭和天皇が神の不在を半端にしか言わなかった為、ヤベー存在が量産されまくるのである

なにせ、最初超絶技巧日本国民ガチ感動させてる訳だからね。神ムーブしまくってるからね。

アイドルうんちしないから……なんてレベルでは到底ない。もっと恐ろしいもの垣間見たね。

理想である天皇権威と、現実である総理大臣将軍権力。この恐るべき分業によって構成された上意下達支配構造により、この現人神否定ムーブは「その神意でもって」全体に通達される。

そして、それらがメディアフェイクタイトルによって教科書へと掲載される。

そうなると何が起きるか?

日本教の隠れた神が人間宣言をするのだ、どうやっても劣化した形でそれは受け継がれる。

から日本人は自由を「自分の好き勝手に、自分日本人が神だと思ってるかの如く、周囲に日本人を人間である事を強要する」のだ。

日本人は神を否定する。だけど、そこには自分達こそが神だと言わんばかりの傲慢さと、矛盾した無宗教への信仰が確かに存在するのだ。

そして、そこには昭和天皇意図は伝わらない。それは戦前戦中と全く変わらない。

ただただ、愚かさを再生産し続ける内戦の始まりである

思うに、権威権力の分業というのは……きっと、世界で最も上手くできたファシズムなのだろう。

欧米人の脱権威/脱権力は、その全てが内部からの撃発によって否定された。

まり真の意味民意から革命であり、それは少なくとも「大衆主観では」自発的に行われた。

それが一種虚構である事は今の政治を見ても明らかではあるが、しかし、そこには個人意思こそが優先されるべきという思想根付いたのだ。

では、今の日本人は……それができるか?

例えば天皇踏み絵を用意したとして、それを踏めると言えるか?実際に踏めるか?

まず僕には無理だ。

心理的もの道徳的ものもあるが……それ以上に、周りが怖い。

そんな事をしたとバレたら、きっと僕は今までに得た人間関係の全てを失うだろう。親でもギリギリ、いや知人レベルくらいに避けられるだろう。

それくらいのレベルで恐ろしい行為だ。そうDNAが叫ぶくらいの恐怖を感じる。

我々は、今もまだ「天皇陛下との信頼と敬愛と」に、結ばれ続けているのだと……

僕は、そう畏れている。

それが良いことか悪いことかは、わからないけど。

まあなんでもいいけど、本当に無宗教って神の不在を確信してるなら「宗教の話がタブー」ってのは異常だと思うよ。

本当に神は不在って思うなら勝手に話させとけば良いじゃん。どうせ入信しないんだし。適当に話を合わせておいて受け流しておけよと思わなくもない。

そういう自己保身で、今日駄文は終了なのである

2019-06-03

知り合いがヴィーガン化していた

かつての同級生が、エシガルヴィーガニズムに染まって、食事会が白けてしまったという話。

俺は進学したけど、就職したり他大学へ進学した学部時代の友人たちと食事をしてきた。仕事をしている連中よりは時間がある俺が幹事を務める事に決まり、「何か食べたいもの、苦手なものはないですか?」と全員に対して質問をした。

返って来たのは、甲殻類アレルギー持ちの同級生が「カニ専門店はやめてくれ」というのと、ヴィーガン化していた知人(以下、A)が「野菜類が好きなので、野菜料理『も』美味しい店がいい」と言う事だった。この時点で、俺は Aがヴィーガン化していた事はしらない。

以前、人に連れて行って貰った鉄板焼きの店が、季節の野菜鉄板焼きが旨かった事を覚えていたので、学生には少々値が張る店だが、皆に確認をして、有難いことに外資系金融企業に勤めている同級生社会人から多めに払ってもいいよとの申し出があった事で、「全員から反対意見がなかった」ので予約を取った。

そうして始まった食事会。

始めこそお互いの近況を報告し合って、野菜類を中心とした前菜的なメニューをつつき合って和気あいあいと話していた。Aが「実は自分ヴィーガンなんだ」と言うので、「この店のチョイスで良かったの?」と誰かが訪ねると、

「食べられるものを食べるよ。人に押し付けられるものではないし」と無難に答えてくれたので、俺の方も「そこまで気が回らずすまんかった」って事で何の問題もないように思えていた。

問題が起こったのは、酔いが回りだして肉料理の注文を皆がし始めたときのこと。

普段金もいから到底ありつけない様な値段の鉄板焼きホニャララ牛200gン全円」の様な高級メニューを、社会人たちが気を大きくして注文し始め、俺を初めとした学生たちはテンションがあがり「うめぇー!!」と感激を連発しだしてから、Aの様子がおかしくなり始めた。

動物の死骸を食べるなんて残酷から始まったそれに、最初こそ「人が生きるって事は、そう言う事だろ。革製品動物治験に始まって、保健所が捨てられたペット殺処分をするまで含めて人の営み。」みたいなことをやんわりと、誰かが返答してたのだけど、嗜好的には孤立している事で味方がおらず追い込まれていたのだろうか。言う事がだんだん過激になりはじめた。

「神か地球か、わからないけれど、人の暴虐を天から眺めている絶対者は、無数の罪もない被害者である動物の苦しみを知っていて、人類社会を自滅に追いやってやろうと決心している。だから、アベみたいな奴が首相になって国を破滅に導こうとしてるんだ。」

「罪を憎んで人を憎まずというし、皆が残酷のものの肉を美味しいと思う事を気持ち悪いと思うけど、私は皆を許すし、みんなが変わる事を待つよ。」

というような事を言い出した段階で空気が変わった事を察して、「一旦、ここは出よう。Aを外して飲みなおそう」とラインでA以外の各人に連絡し、早々に1次会は終了と言う事にして解散した。

会計の段階でAが「ヴィーガンの私は殆ど食べてないのに割り勘は納得いかない。ヴィーガン肉料理が出る店に連れてくるなんて非常識」と店を決める際にした同意反故にして荒れるので、面倒になってAからはお代を貰わないことにした。自分の味方がいない状況で一人でカッカしすぎたAに会計の一部を負担してもらう事は難しいと思えたし、一刻も早くAと離れたいという思いが勝った。その後、連絡を取り合って集合して2次会を楽しんだのだが、皆が完全に呆れかえってたのか Aの陰口大会の様なものにはならず、「Aに対しては残念という思い以外ない。次からは呼ばない様にしよう。それがお互いの幸せ」と言う事で結論して、さほど話題にも上がらなかった。



たった、これだけの話なんだけど。後味が悪かったので増田に吐き出したい。

2018-10-20

幼女に対する途方もない幻想はどこから来るのか

LGBT界隈で絶賛されてる弟の夫やらリトルミスサンシャインやらを見て思うこと。

何やらマイノリティ目線においては「幼女」に絶大な信頼が置かれている気がする。


弟の夫に登場する幼女マイノリティへの理解のなさを詰るような素振りを見せるし、

リトルミスサンシャイン幼女理解のなさを責めるどころか同性愛者のキャラクターに対して

天国に行ける」と確約していた。

そんなに知識は深くないけど、キリスト教圏の作品同性愛者に「天国に行けますよ」などと

口走るのはなかなか勇気のいることじゃなかろうか。


彼女らに託されているのは無垢なる理解者としてだけでなく、

異性愛者を説き伏せる絶対者としての立ち位置に見える。

「愛らしい、我らが守るべき子どもがこう言ってるのにお前は納得しないのか?」と。


自分の意地が悪いのかもしれないけど、どうも納得がいかない。

何故子供の口を借りるのか。

無垢なるものなら自分たちを受け入れてくれるという思い込みはどこから来るのか。

幼女気持ちいか死ねと言ったら自分たちは死ぬのか?

子供のころの純粋気持ちを思い出せば異分子にも優しくできるはずだ、じゃなく

分子に優しくできる心性を持てば身内同士の関係にもプラスになるはずだ、と持って行った方が受け入れられやすいと思うんだけどな。

2018-09-30

日本師弟関係がなぜ理不尽暴力的になるのかについての覚え書き

身毒丸』について検索していた時に見つけた、

折口信夫への旅 第1部 ~小説身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家山本吉之助)

http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm

という折口信夫身毒丸解説文の中に、日本師弟関係がなぜ理不尽暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、

もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。


日本師弟関係

最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。

例えば最も古い感情を残している文楽座人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。

そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。

なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)

それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)

子供または弟子能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』

折口信夫座談会日本文化の流れ」・昭和24年12月)


■例えば…

七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠身毒丸自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます

しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます

「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います

身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。

一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。


春琴の教え方は 非常に厳しく、

あかんかかん、弾けるまで夜通しかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、

時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います


芸道小説としての「春琴抄」~谷崎潤一郎・「春琴抄」論

http://www.kabukisk.com/geitohito72.htm


『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである

本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、


摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた

それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという


また文楽座人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある

玉次郎若かりし頃「阿波鳴門」で彼の師匠大名人吉玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、

その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない

阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである


しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。

彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した

「この人形折檻がなかったら自分は一生凡々たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。』

谷崎潤一郎:「春琴抄」)


日本古代の、理不尽に怒る神と無辜民衆との関係

自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります

世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。


ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。

そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。

自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。

「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。

まり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます

(中略)

神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります

から理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。

それは神に対して意地を張るということでもあ ります


折口信夫座談会神道キリスト教」において次のようなことを語っています

折口は憤りを発することが日本の神の本質であるします。

神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。

神がなぜ祟るのかその理由が分からない。

このことが重要である折口は言うのです。


神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。

既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。

しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。

古代人にとって神の怒りは唐突で・理不尽で、ただただ無慈悲ものに思えたのです。


『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳研究」・昭和29年)


古代人にとって神の怒りはただただ理不尽ものでした。

そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しか唐突に発しました。

例えば地震台風洪水旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。


このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。

みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。

そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。

「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。


古代人の 生活というものは、風雪災害飢饉病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。

そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまこと殉教者以上の経験したことになるのです。

折口はそのような過程から道徳のようなものが生まれて来ると考えました。


貴種流離譚というもの民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。

民衆貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。

民衆貴種流離譚を愛したのはそれゆえなのです。


神は別に何もするわけではないのです。

しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。

これが古代人が神に対する時の態度です。


源内法師は身毒丸無慈悲折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに無辜殉教者の姿を見たのです。


最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。

まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)

子供または弟子能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。

それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』

折口信夫座談会日本文化の流れ」・昭和24年12月)


折口がこのように語る時、折口日本伝来の師弟関係なかに理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜民衆絶対的関係をそこに重ねて見ているのです。


神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちします。

我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽ものに思えます

しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。

過酷仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。

折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。


そこには正しいとか・間違っているという倫理基準など存在しません。

善とか悪というのは道徳が成立した以後にある基準なのです。

あるとするならばそれは「清い」とか・「清くない」という感覚的(あるいは生理的な)基準です。


源内法師と身毒丸理不尽に怒る神と無辜民衆との関係無意識のうちになぞっていることになります


まり


神の理不尽な怒り(地震台風洪水旱魃・冷害や飢饉病気など)

→「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」と思う

→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む

 「神よ、この清い私を見てくれ」


これが、古代の神と民衆関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。


なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマ物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代から宗教的感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。

2018-03-22

anond:20180322121109

海外場合は世の中の絶対者って神なんだよね

神の前からしたら人間は等しく平等なので不正だと思えば告発するのは当たり前

ところが日本人には神がいないんだよね

から人間同士にあるのは単純に上下関係だけになる

そうすると圧倒的に儒教支配下におかれる

上が白を黒と言えば黒、黒を白と言えば白

馬鹿文化なんだよね

から組織内において論理性や合理性はどんどん淘汰されていく

これ昔からいってるのに産まれつき宗教と離れているせいで

なぜか儒教支配されてることを日本人自身は認めないんだよなあ

鏡を見れば自分らが何をしているのか理解できるはずなんだが

2017-10-06

結局は権利侵害という話だということ

女の子の言う友達ってようするに「自分利益になるように利用してもいい他人」の総称なんだよね。

  

その「友達」の中に自分との力関係クラスけがあって

自分と対等=「お互い利用しあう関係

自分より下=「自分の思い通りになる関係

  

自分と対等と認識してる相手には、自分のために相手を利用してる後ろめたさが多少あるもの

自分相手の役に立ってる」という思い込みで暗黙の契約関係一方的に想定することでその気持ち相殺する。

からお互いに頻繁にお返しをしあったりして、対等なバランスを保つのにそれなりの努力をする。

  

自分より下の人間に対してはそんな気遣いは一切ない。自分が欲しいと思ったサービスは受けられるのが当然であって、それに対する見返りなど全く想定外だ。

このクラス自分奉仕する道具。「男友達」っていうのがデフォでこのクラスで、女の子本能的に「男が自分に近づいてくるのは自分が好かれてるからだ→自分のほうが立場が上」という図式を瞬時に形成する。

  

ここでその「男友達」が「じつはきみのことが...」とか言い出そうものならもう大変である

  

まず驚く。

これは、相手自分をそんな風に思ってたなんて、という驚きではない。そんなことはお互い初めからわかっているのだ。

これは「道具がしゃべった!」というくらいの驚きだ。これはびっくりする。

  

つぎに裏切られたように感じる。

そもそも男がフラフラ自分に引き寄せられてきた時点で、相手もこの「見返りのない関係」に同意していたはずだ。

それが今相手自分に何がしかの見返りを求めている。ちょっと待て。話が違うだろう、ということだ。「それは違反ですよ」と言いたいところだろう。

  

そして怒りが湧いてくる。

なにせ相手自分より圧倒的に下の立場であるはずなのだ。それが自分に対して対等であることを主張している。

さらにこの男の「人間宣言」によって、自分は持駒である道具の一つを失う。自分権利に対するりっぱな侵害である。なんなら出るところに出れるレベルだ。

何より腹が立つのは、この状況に対して自分に取れる効果的な手段は何一つないという現実を突きつけられることだろう。これは屈辱だ。

どっちに転んでも自分に与えられた選択肢は「自分の所有物である道具をひとつ手放す」というものしかない。そして自分はそんなことはしたくないのだ。

しか自分は今選べる立場にない。ディレマである。いきなりこんな現実を突きつけられて怒らずにいられるだろうか。

自分の所有している道具が「自分人間だ」といった結果、自分絶対者という立場から一人の無力な人間へと格下げされたのである

  

友達じゃ駄目なのかな」というつぶやきの裏には、このような世の中の矛盾に対する憤り、自らの不幸を恨む気持ち、ついには自分の無力さにたいする苦い諦めの気持ちなどなどが、ぐるぐると渦を巻いているのだというお話

2016-06-07

絶対的基準

神に擬制される絶対的基準を持たない哀れな日本人世間などという曖昧もの基準にせざるを得ない

絶対者概念が無いためにビジョンを持てず戦略も立てられない

基準が無いためにあらゆる物事判断に窮する

このような人々の集合である世間に引きずられて右往左往するほかないのだ

2016-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20160524135103

全能の価値観人間が持つそれであり

本当に全知全能存在が仮にいたとしてその者が持つ全能の定義人間の全能の定義が一致する必要性はない

神にとってするかしないかを決めるのは全知全能である神にしか決められないことであり

持ち上げられない岩を作り出し神でさえ持ち上げされなくするということが絶対者である神が定める全能であれば

人間はその全能の定義を認めなければいけない

 

持っている物差し根本的に違うのに図ろうとしても無駄という話

http://anond.hatelabo.jp/20160524131438

可哀想から馬鹿が掴めるかどうかギリギリ蜘蛛の糸垂らしてやるよ。

・お前にとって神に等しい絶対者はどこにいる?今現在存在するから当ててみろ。

最大級のヒント。

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