はてなキーワード: 生殺与奪の権とは
昔の私すぎて共感。
結婚相談所入れとまでは言われてなかったけど、
親がセッティングしたお見合いは2回ほど受けるだけ受けて理由つけて断ったかな。
私の場合は無理に何かを変えようとせず、そのままの自分で生きた。
最低限以上に(魅力的に思ってもらえるくらいに)見た目整えるのはズボラな私には無理。
一時なら頑張れるかもだけど結婚したら終わりってわけにはいかないもんね。
結婚後に元の状態に戻って相手が騙されたと感じたら関係性の悪化待ったなしだし。
お金もそれなりにかかるしね~。そもそも頑張ったからって上手くいくとも限らないし好きでもない事にお金かけたくない。
好きでやってる人には絶対勝てない。
それなら最初から一人で生きていく可能性考えてその分貯金したほうが良いよねという考え。
ズボラで面倒くさがり屋で堂々と子供部屋おばさんやる気満々のボサボサ女。
ただ人の好みは様々だから99%の人が10点や20点と評価しても、ごく一部の人が120点と評価する事はあるわけで。
30歳過ぎて職場の人の中に興味を持ってくれる人が現れた。
恋愛したいわけじゃないから、ただ付き合うだけじゃこっちにメリット無いんだよな~と思って
結婚するんなら付き合うよ~的な事を伝えてみたらそのままプロポーズ、結婚とトントン拍子に進んだんだよね。
これが「御縁」というやつか~と妙に納得した。
条件的には自分の収入だけでは難しいちょっとした贅沢はそこそこ味わえる。子ども無し。年は10離れてる。
見た目は良いとは言えない…けどその分こちらも化粧とかしなくても何も言われないのでOK。
ギャンブルは常識的な範囲内での競馬くらい(一緒に楽しんでる)みたいな感じ。
決して出来た人間とは言えない私を好きと言って味方でいてくれる時点で神!なので多少の悪条件は気にならない。
実家暮らしをフル活用して貯金はたんまり。生殺与奪の権を与えない程度の仕事は今も続けている。
いつでも逃げられる状態なのを自覚しているのか、10年経っても丁重に扱われている感じはする。
夫が言う私の良い所は気分の浮き沈みがほぼ無い事と幸せそうにご飯をたくさん食べる事だそうな。
世間のこうあるべき、より自分はこっちが良いという方を選択して、無理せず生きてるがゆえのストレスの少なさが生み出したものかなと思う。
あと、仕事上ではやたら面倒くさがるわりには成果物はむしろちゃんとしてる。返事だけ良い人間よりよっぽど誠実で信頼できるとも言われたな。
(そりゃちゃんとしないと余計に面倒なことになりそうな事はちゃんとやりますよ…それでも面倒くさいもんは面倒くさい。)
一人で生きるかもしれない事を念頭に置きつつ、自分なりに前向きに出来そうな努力を程々にしながら好きな事をして健やかに生きるのが良いよ。
なんだか助かる便利なおっちゃんになりたい #ポエム - Qiita
https://qiita.com/koji-yamauchi/items/61aed31bc27b929c996c
冨岡さんが毎回ブチ切れそう「生殺与奪の権~!」
最近の仕事系ハック(笑)とか見るけど「雇われでどうやって生き残るか?」しか書いてないんだよ。
雇われだよ?会社に生殺与奪握られたまま、上手く生きようと思ってんの?
え?保険とか福利厚生?起業したらそれはテメェの領分で幾らでも拡充できるよ、小銭の内なら。
銭が溜まったらそりゃ普通にお上に上納するのが義務だけど、それでも手取りベースで考えたら金はあるよ?
厚生年金、そんなに積み立てられてる?オマエの20代の給料は今の年代の給料と同じ?違うよね?積立金額違うよね?
よく退職してからの年金が少ない!とかでFPの食い物にされてるけど、そりゃ20代の給料が少ないだけ。50代の給料が高いだけ。積立額が違いすぎるだけ。
雇われだからズレてんの。仕事で金にすんな。金で仕事しろ。その手取りでサビ残すんな。手取りで考えろ。額面捨てろバカ。ボーナス入れるなバカ。月額で割れ。役立たずの金額だぞ。ただの年収16分割の2割×2回もらってるだけだからな。
マジで現金と向き合え。オマエの入ってくる金は、本当にオマエの働いた金か?その金を得るための、その労働時間(+通勤時間)は本当に等しいか?よく考えろ雇われ共。
主人公の増田はてな郎は仕事も泣かず飛ばずで上司に怒られる毎日
恋人もいない童貞で生きている意味など生まれてから感じたことはなかった
ただ、彼には唯一誇れるものがあった
それは立派なイチモツ
使われたことは一度もないが、それでもはてな郎はそのイチモツにすがって生きてきた
そんなはてな郎はある日黒塗りの車に跳ねられて死亡する
そう嘆きながら死んだはてな郎だったが、突然見知らぬベッドで目を覚ました
魔王の能力をすべて引き継いだ誰もが認めるプリンス、世に生きるありとあらゆる生命の生殺与奪の権が与えられた存在
しかし、粗チンだった
突然の息子の変貌に驚きながらも彼の回復を魔王軍第一師団直属衛生兵パイデカ娘に命じることで物語が動き出す
世界を破壊しうる能力を以てしても取り戻す事ができなかったはてな郎の自己肯定感を何が埋め合わせることができるのだろうか
第一章
〜破亥安愚楽(バイアグラ)〜
公開未定
バブル崩壊が1991年から1993年らしいので、ちょうど高校生のときに崩壊した形。
就職氷河期が1993年から2005年らしいので、まさに就職活動を行う時期丸かぶりですね。
そんな自分からすると、当時の同級生はまじでクソみたいなやつしかいなかったよ。
偏差値低めの都内私立という受験戦争の負け組しかいないような学校だったからほかよりも傾向が強めだと思うけど、でも、それっていわゆるボリュームゾーンでしょ。
とにかく世の中舐めきってて、労働なんてバカがやるものだと本気で思ってるような奴らばかりだった。
たいして勉強もせずに、その結果定員割れしそうな郊外の大学に通って、当たり前のように就職に失敗して、実家ぐらしで楽そうなバイトばっかりして、語る夢ばかりデカくて。
本当にそんなのばっかり。
今考えればそんなのでうまくいくわけないのは当たり前だけど、当時はそういうやつらがうまくいく姿を嫌と言うほど見させられてきたからね。バブル期の先輩たちに。
だからって仕方がないとは思わないけど。
土木とか、仕事選ばなければいくらでも稼げる仕事はあったのに、どうにもそういう仕事は死ぬより辛いらしい。
肉体的にどうというより、そういう人間をしこたま見下していてそういう仕事をすること=死ぬことみたいな変なプライドがあった。
一度聞いてみたかったけど、就職氷河期世代の人間で、こういった肉体労働に携わってみた人間がどれくらいいるんだろう。
そのうちどれくらいの人間が、ブラック労働やハラスメントを理由に辞めた?
それって、そこで折れてしまうのが自分自身の弱さだったりしてない?
そりゃ金なんて稼げるわけないわな。
自分のいたところもブラック労働もハラスメントも当然のようにあったけど、自分より下にそんな思いをさせたくないからって上と戦いながらほとんどを改善したよ。
これがマッチョだと言われればそれまでだけど、指を加えて待ってれば誰かが助けてくれるものだとは絶対に思わなかった。
ただ、一つ思うのは、確かに数年前まで大学で遊び呆けてたようなやつらが大量に採用されている姿を見てきたわけだから、自分もその通りに行くと信じてたんだろうということ。
それが突然そうではないという話になって、すぐに元通りになるだろうって思っているうちに手遅れになってしまったというのが、正直なところではないかな。
そういう意味では、政府も当事者も、事態を楽観しすぎてたということはあると思うよ。
どうにかなるだろうって思ってしまったのは自分たちだから、自己責任と被害者意識が変なバランスで存在していることもあって、なかなか声高には叫びづらいんじゃないかな。
ここからは完全に蛇足だけど、自分にとって就職氷河期が全く持って他人事だった理由は、自分が在日韓国人だったから。
当時、在日韓国人、いわゆる特別永住権の人間が就職できるような大手企業はないと言われていた。(少なからず、親族で就職できた人間はいなかった。)
そもそもスタートラインが違う。就職活動前から氷河期が確定だった。
だから、進学なんてとっくに諦めて、高校を出たら当たり前に働くものだと思っていた。
いわゆる3Kと言われる業界でがむしゃらに働いて、こいつらが大学で遊んでいる間にできるだけリードしてやろうと思った。
4年後に入ってきた新卒のほうが給料も立場も上だったのは死ぬほどムカついたけど、数年後には全員辞めてて、やっぱりこいつらはダメなんだなって思った。
そいつらが言うには、君は数年早く働いてたからいいけど、らしい。
こちとらどんな思いで周りに頭下げて仕事教わってきたと思ってるんだか。
そういう奴らも基本は、他の人間と同じでどうにかなるだろうとしか考えてなくて、就職できなかった理由を他人のせいにしてるやつらばっかりだった。
そう考えると、あれからこれだけの年数が経ってるのに、周りのせいにしてばかりで手に職の一つでもつけようとしない氷河期世代はやっぱりクソだと思うよ。
今からでもプライドを捨てて何でも働けばいいのに。親が死んだらどうするつもりなのか。
全部が全部甘えだとは言わないけど、ここ一番の踏ん張りどころでケツを割ったのだとしたら、やっぱりそこは甘えだと思う。
セクシー田中さんの原作者の件もそうだけど、自分の周りも魂込めて仕事してる奴から潰れてる
もちろん魂込めても潰れない人もいるが、正直そういう人はスーパーマンというかいい意味でヤベェ奴だと思う
否定はしないが誰でもできることじゃない
どんどん昇進してください
仕事をする際は「仕事は仕事」と距離を置き客観視する必要があると思っている
仕事で自己実現をしても良いし好きなことを仕事にしても良いが、仕事を趣味や自己実現の主戦場にしてはいけない
結局、仕事とは労働者でも管理職でも社長でもフリーランスでも漫画家でもどの職種やレイヤーであっても「金を出してくれる誰かのためにアウトプットを出すこと」であり、絶対自分よりその「誰か」の方が偉くそいつが自分のアウトプットの生殺与奪の権をコントロールしている
その「誰か」が自分のアウトプットに満足せず、死ねと命じたらそのアウトプットはこの世から消える
もし、自分の魂の一部や好きなことの結果を仕事のアウトプットにしてしまうと常に「誰か」が死刑執行ボタンを持っている斬首台に自分の大事なものが置かれた状態になってしまう(そしてそのボタンは割と簡単に押される)
漫画家などが漫画というアウトプットを自分の子供のように言っているのを見ると危ういなと感じるのはそういう理由で、実際そういう考え方をしていたため潰れた人も大勢いるのではないだろうか
職業漫画家なら漫画というアウトプットは出版社のために作るものであり、出版社は消費者のためにそれを漫画誌やサイト、単行本という形でアウトプットする
という流れで仕事が発生する
つまり、漫画という自分の子供は最終的に不特定多数の消費者が生殺与奪の権を握ることになる
その結果は人気ランキング、単行本の売り上げ、最近だとSNSでの「つまらね」という直接的な拒絶の言葉で現れてくる
それだけでものすごいしんどいのに、昨今はドラマ化やアニメ化でアウトプットを買う「誰か」にテレビ局が入ることがある
(契約の内容にもよると思うが)基本は買った奴が好き勝手できるのが世の常だ
良い人が買ってくれたら幸せに暮らせるだろうし、悪い人が買ったら飼育放棄された犬のような扱いを受ける
セクシー田中さんで言えば、確かに最後は元通りにできたそうだが、一度バラバラに解体された我が子を自分の手で復元する作業だったのかもしれない
それはしんどいことだったと思う
ただ、アウトプットは「誰か」のものなので基本的にバラバラにされても良いというより仕方がないところがある
契約が明確な仕様として定義されていたら違うかもしれないが、「原作通り」という言葉だけだったならテレビ局側の解釈違いでキャラが変わったりすることは起こりうる
AさんとBさんでCさんへの印象が正反対なんてこともよくある世の中だ
漫画家を辞めたりYouTuberを辞める人はこの仕事は自分の魂や好きなことが他人に惨殺される場なんだと気づき恐れ慄いて辞めるのではなかろうか
そして、続けられる人はどこか諦念を持っており漫画をある程度無機質なアウトプットとして解釈することに成功したのではないかと思う
漫画は魂を込めていても、原作として切り売りするそれはただの人形だと諦める
それでも、人形だとわかっていても自分の子供と同じ姿形をしているモノが手をもぎ取られたり足を増やされたり改造されていく様を見ていて心穏やかでいるのは難しいと思う
ただ、仕事とはそういうものであり、金を出した誰かがアウトプットをコントロールする場なのである
しかし、その酷い改造もテレビ局の先にいるドラマを求める消費者のためにやるべきことをやった結果なのかもしれない
こうやって「誰か」に尊厳を踏み躙られる恐れがあるのは漫画家だけではない、世で働くすべての人に言えることだと思っている
アウトプットを求める「誰か」、その「誰か」の「誰か」、そしてその先にいるまだ見ぬ「誰か」が複雑怪奇に絡み合い、自分のコントロールが及ばない連鎖の中で仕事をしなければならない現代人にとって、せめてやれるリスクヘッジが「仕事に魂を込めない」だと思う
「そんなんじゃダメだ!」「生きてて楽しい?」と思う人もいるかもしれないが、そういう人は気にせず生きたいように生きてください
ただ、どうぞご自愛ください
人間を救うのは難しい。ひとり親家庭やホームレスが全員避けられない気の毒な理由でそうなったわけじゃないだろう。
福祉では本人のせいで弱者になったような人間にも手を差し伸べなきゃいけない。人間のダメさ、弱さを認めて、苦労のわりに成果が出なかったり、望むような結果にならない場合も受け入れる必要がある。
子どもの支援も簡単じゃない。どんなに心を尽くしても大人を信じきれず、誰にも心を開かない人もいるだろう。依存症になったり、罪を犯すこともあるだろう。
愛玩動物たちの気の毒な境遇には罪がない。100%人間の罪しかない。だから許せるし愛せる。
愛玩動物たちは生殺与奪の権利を人間に握られている。彼らは裏切らないし、人生を一変させるような実害を及ぼすこともない。だからかけた時間やカネに対する満足度が高い。
私は高齢者医療に携わっている医者である。癌は見ず、難病や認知症ばかり診る内科にいる。高齢者の延命治療などが増田やXで話題である。その是非についてではなく、自分が日々感じていることを書く。
急性期治療と慢性期治療の延命処置の違い、疾患ごとの違いなど、延命処置の中にもスペクトラムがあるが、私が関わるのはどちらかというと慢性期治療における延命処置…胃瘻などの誰がみても延命と考える処置をするかどうかに直面することが多い。
高齢者に癌や致命的な心疾患などがなければいずれは寝たきりになり食べられなくなるタイミングがくる。経鼻や胃瘻で栄養を投与したり高カロリー点滴などを継続しないと亡くなる状態になることがある。
その際、栄養投与を続けるかといった延命処置を行うかどうかを家族と話し合う。
実は高齢者の積極的な治療はあまりしないでおこうというのが現代の市中病院の内科医師のトレンドではあり、昔とは違い今は家族が延命処置を希望しないことも多い。家族が胃瘻や中心静脈栄養など希望しなければ生きるには不十分なカロリー量である末梢点滴のみを続け、緩和的に看取る方針になることは多い。
私は10年以上医者をしているが、今でもこの延命処置をしない…自分が命を長らえさせることが出来るのにあえて行わないということを、まるで自分のその人を殺しているかのように思ってしまう。
もちろん延命処置をしないことは自然の流れに身を任せることであり、延命治療を行うことで本人の苦痛が増すのはわかっている。意識や理性がなくなっても痛みや苦しみはわかるはずだ。しかし私が命を捌いていいのかと常に思ってしまう。ICするときに延命治療を強く勧めるわけではないが、家族が延命処置を希望した場合はあまり止めないようにしている。
年次を経ても慣れず、逆に経験が増え、特に高齢者が急性期疾患を合併したときなどで、この人はこのままなら亡くなるが無理矢理栄養投与をしたり、人工呼吸器をつけたりすれば命だけは半年から年単位で持たせられるだろうというのがより正確にわかるようになった。嫌な気分になることが増えた。そういう文字通りの延命が可能なのに行わないと決定したときには命の形に触れる気がする。家族の意見を無視して栄養投与すれば生かせられるがそれをしない。家族に延命を説得することが行えるのにしない。できるのにしないのは自分である。手の平大で少しどろっとした感触で、こぼれ落ちるのをそのままにする。