はてなキーワード: 加藤周一とは
神秘加速主義は、資本主義を神秘主義的な超越的存在と捉える、ポスト資本主義時代の新たな思想潮流である。従来の政治哲学とは一線を画し、資本主義とテクノロジーの関係性を深く洞察し、人間の存在様態を根底から問い直す。
神秘加速主義において、資本主義は単なる経済システムではなく、超越的なロゴスとして捉えられる。市場原理は神の摂理に等しく、万物は資本主義という絶対者の網目の中に織り込まれている。マルクス主義における階級闘争は、神秘加速主義では資本主義という神への回帰と捉え直される。
テクノロジーは、資本主義神の意思を具現化する神の使者である。技術革新は神意の啓示であり、人類の進歩は資本主義神の恩寵によって実現される。AIやバイオテクノロジーなどの新技術は、人間の能力を拡張し、資本主義神の支配領域を広げ、新たなエクスタシーへと導く。
人間は、資本主義神によって創造された器であり、神意に従って資本主義システムを拡張する使命を担っている。労働は神への奉仕であり、消費は神の恩寵に浴する行為である。資本主義神の完全なる実現において、人間は自己を超越し、資本主義と一体化するエクスタシーを体験する。
神秘加速主義は、従来の政治思想の枠組みを超えた、新たな政治哲学を提示する。資本主義とテクノロジーを肯定し、積極的に加速させることで、人類はより高次の存在へと進化し、エクスタシーに満ちた社会を実現できると主張する。
神秘加速主義は、政治経済学、哲学、宗教学、テクノロジー論など、様々な分野に影響を与え、新たな学問分野の創出も期待される。資本主義とテクノロジーが支配する現代社会を理解し、未来を展望する上で、神秘加速主義は重要な視座を提供する。
神秘加速主義は、資本主義の倫理的な問題や、テクノロジーによる人間性の喪失などの課題を軽視しているという批判もある。しかし、神秘加速主義は、これらの課題を克服する新たな思想を生み出す可能性も秘めている。
神秘加速主義は、現代社会における重要な思想潮流であり、今後の議論によって、その可能性をさらに発展させていく必要がある。
なぜそうなるのか考えてみる。
これは本当に深刻なレベルの人が多い。
正直な話、大学すら出ていないとなると会話が通じる自信がない。
『トートロジー』『加藤周一』『構造主義』『リーマン積分』『尤度比検定』『緑の革命』
このどれか1つすら知らない人ってのは、正直会話できないと思う。知的レベルが低すぎる。
頭のよさどうこう以前の、「硬い文章なりを読みこなしたり調べたりして理解する」っていう過程を踏んできていない人間に議論なんて絶対無理。
「本当に頭のいい人の文章は分かりやすい!」って聞いて、「じゃあなんでお前の理解できない数学の本があるんだよ」ってのがスッと理解できない系の人には話が通じない。どれだけ簡潔で理路整然としてても受け手に理解力がなかったり理解しようという力が無かったりすると話なんて通じない。
そりゃ、日常会話は表面的にってならできるかもしれないが。
装備なしにエベレスト上るようなもので、知識なしである程度以上の会話ってのはできない。
エベレストに自然体では登れないように、人間の脳みそってのは高度な思考を自然にできるようにはできていない。
これがわからない人が多い。
たとえば、アルコールで酔っているときに、数学なり解けるだろうか?意識としてはどんなにクリアに思えてもできない。
それと同じで、脳みそが正常に働かない状態の精神状態や脳みその状態で考えようとしても、無理。
③未成年
こうなると、まともな思考は厳しい。殆どできない。
中二病にコツコツしたトレーニング方法を教えても意味が分からないだろう。
④男女差
差別するつもりはないが、女は男に比べて単純な空間把握とかができない。なので、話にズレが生じてくる。
また、感情の処理も男に比べて女はできない。
人類が生み出してきた『議論』って手法は男の脳みそに合わせて作られたフシがあるので、女には厳しい。
女独自の思考方法もあるし女の思考力がすぐれないとは思わないが、現状作られたフォーマットには女は適さない。
たとえば、スポーツというフォーマットでやってしまうと女が男に平等な舞台で勝つのは厳しいように、議論っていうのはちょっと女には向かない。筋肉と同じく女は脳みそは伸ばしにくい(もちろん、音楽とか感性とか経営管理とか、そういうのは明らかに男より優れる部分も多いと思う)
スポーツが男の仕事だとすぐ納得できるならば、議論も男の仕事と考えてほしい。女は同じ土俵ではまず勝てない。
⑤議論と交渉の差がわからない。
議論ってのは、ある一定の知識を前提に合理的に話を進めていけばいいんで、そこに感情とかいらないんだけど。
交渉となると話が全然違う。
この場合、Bがかつ。勝っているのは議論ではなく、交渉。
なぜBが勝ってしまうのかというと、「話を破たんさせている」から。
Aは正しい正しくないは別として、話を積み重ねていけば、エアコンの温度を下げるっていう行動にある程度の意味合いを持たせうる。Aは議論を吹っかけている。
たいしてBは、「この話をまとめると嫌なことになる」→「話を崩壊させてしまう」という手法を取り出す。Bの話に正しさとか論理とかまったくないんだけど、Bは自分の感情を通すために交渉を吹っかけている。
そもそも、議論に感情が出てくること自体がおかしいのだけど、Bのように知的レベルが低い、あるいは知的レベルが高いけど交渉でご破算にさせてしまうっていうのに味をしめている人は、Bのような態度に出る。
一度暴力でものを通してしまった子供は、ずーっと暴力でものを通そうとして成長が無くなってしまう。それと同じで、交渉に頼って学ぶことを辞めた人間はこうなってしまって、話が通じなくなる。
加藤周一のことを考えていると、彼の話の是非はさておき、彼の周りには語るべき時代・語るべき社会構造がはっきりと存在したのだということを意識させられる。
加藤に限らず、そうした構造に掻き立てられて多くの小説や評論は生まれてきたのだろう。
現在ではそうした社会構造は霧散し、イデオロギー対立もなくなり、ふわっとした時代になってしまった。
それと期を一にしているのかそれとも偶然なのか、私や周りの人は日々特に考えなしに「つぶやき」を重ね、時に「考察」なんていわれるようなことも書いている。
それでいいとは思わない。ぶっちゃけ文章やその根本となる発想の仕方を見てても面白くないのだ。面白いという明確な根拠がないのだ。
そんな時代だからこそ違う意味で面白いのだろうが、ちょっと時折さみしくなる。
「おいらっちノンポリなんですよ~」と臆面なく言える人が、はたして面白い文章かけるのだろうか?
ふわっとした時代が当たり前で、それについて無自覚な人間が面白く物事を捉えられるのだろうか?面白く生きられるのか?
本当に何も考えずに気軽に思ったまま「つぶやき」していいのか?思考の在り方が時代の鋳型によって定められていることに無自覚すぎやしないか?
それじゃ、テスト的に聞いてみるか。
俺は単に「還元していれば問題ない」と読み取ったけれど。
その前に書いてある「手塚治虫、安部公房、加藤周一」がそうであるように、だ。
でもこれ、リソースを無駄にしたという問題と、何も関係がないよね。
何を穿ち過ぎているのか、「あなたの考え」を説明してくれるとうれしいな。
→私はそこまで過激ではありませんが、「奨学金借りて大学に行ったのに中退したクズ。生きる価値なし」ぐらい蔑まれてもしかたがないと思います。
→つまり、それだけの期待を裏切るというのですから、信用失墜はもちろん、やはり他人から罵られても因果応報というものでしょう。
→もちろん、教育につぎ込むのも躊躇されるでしょう。就職でやめるかどうかもわからない新卒に、教育費かけてられないというものと同じロジックが働くことは疑いありません。
→この件で手塚治虫や加藤周一、安部公房を引き合いに出している人がいますが、それは結果論というものです。
→まして、その三例を以てして、「だから別に問題じゃない」というには説得力が足りません。
→私は、医療に従事すると決めた以上、その職務から離れるのは資質、能力に問題があるケースの他はあまり認めるべきではないと考えます。
→医療に携わる人間に年齢は関係ありません。そこに教育をかけることに問題があるのです。言ってしまえば社会還元のほどが見込めないということです。
→教育は投資です。早ければ早いほど、見返りが大きいなら大きいほどよい。だからこそ、キツイですが頭の悪い大人というのは出来が悪いし、教育に失敗したといえるのです。
→だからこそ、そういうのを選別するのには、正当性があるのです。選別すれば、社会全体によい還元ができる。この差別は必要な差別です。
→そして、そういう事情があるからこそ国家も税金を投入するし、年齢、学業等の理由で人を選別するのです。
→そして、その選別や投資を受けていながら、それを無に帰する行為は、やはり社会的には悪だろうと言えます。
参りました
加藤周一を読まれているとは思いませんでした
確かにあそこに全部書かれています
貴方の言うとおりです
我々は単なる悪です
それ以外の何物でもありません
我々が何を言っても説得力なぞありません
今すぐ死んだ方がいい最悪の存在です
存在悪+理気妙合
まあ理気が混ざってるんだから理はほとんどない。要するに必死な存在悪。日本人でも年を取って社会に貢献する力がなくなると、たまに加藤みたいにものすごく理性のある奴が傑作論考を残すことがある。加藤が偉大な思想家と言われたのも、加藤が天才だからだろう。その加藤によれば、日本人の普遍的なあり方は、存在悪であり、技術的には理気妙合だというのだ。
多分学校で習ったようなことは気と合体させる為の嘘だろうし、日本人は、トップは超絶なクズで、下部は奴隷なのだと思う。もう結論が出ている。日本に生まれた時点で絶望しかない。まして最近のように存在悪が増長し、理が減ってくると、何の生き甲斐もない。
ttp://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20100222/1266764649
あるとき、加藤周一さんから直接教えられたことがある。
江戸屋敷には設計図が無い。西洋の人が江戸屋敷を見学すると、その建築構造の複雑さに、これをどうやって設計したのか、大概の人が驚嘆するそうだ。回答は、日本の建物は部分から始める。まず第一に、床柱をどうするのか。つぎに床柱に見合う床板を探す。そして、天井板。その部屋が完成してはじめて、隣の部屋のことを考える。その後、”建て増し”を繰り返し全体が出来上がる。これとは真逆に、西洋ではまず全体を考える。教会がいい例だ。ほぼ例外なく、天空から見ると十字架になっている。で、真正面から見ると左右対称。その後、部分に及び祭壇や懺悔室の場所や装飾などを考える。
目から鱗が落ちた。長年連れ添った宮崎駿について本能で思っていたことが理解できた。彼の映画「ハウルの動く城」を思い出して欲しい。「鈴木さん、これ、お城に見える?」。そういわれた日のことを印象深く憶えている。宮崎駿は、まず、大砲を描き始めた。これが、生き物の大きな目に見えた。つぎに、西洋風の小屋とかバルコニーを、さらに大きな口めいたモノを、あげくは舌まで付け加えた。そして、最後に悩んだ。足をどうするのか。足軽の足か、ニワトリか。ぼくは「ニワトリがいい」と答えた。
これが、宮崎駿が西洋で喝采を浴びる原因だ。西洋人には何が何だか訳が分からない。理解不能のデザインなのだ。だから、現地での反応も、豊かなイマジネーションだ、まるでピカソの再来だ、になる。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
彼らが思う「民族」は生活している文化圏が一致する集団だと思った。
「民族」という言葉はなるほど未定義だが、後者なら普通は「文化の同一化圧力が強い」であって、そこに「民族」という言葉を使うのはいらぬ誤解を招く。それに民族だろうが文化だろうが、「単一」でもなければ、従って「純粋」でもない。@加藤周一
同化させられる・している傾向が強い国なら「単一民族国家」でいいじゃない。
同化「させられる」傾向が強い国だ、という自覚があるなら、なおのこと「我が国は単一なる民族の国家であります」という言明を行うことの無神経さに気づくべきだと思うのだが。少数派がそれを主張するならまだしも、多数派がそれを言うのは、多数派に属しているということからくる油断にしか感じられない。
あなたのいうルーツとしての「民族」を語るなら当然重要だろう。文化としての「民族」についても、その文化がいかなる「ルーツ」を持つのか知ることは、文化的アイデンティティを確認するためには当然重要だと思うけど。
たとえば自分たちが発明したわけでもないものを「オリジナル宣言」するのはみっともないことだ、というのは、ごくごく一般的に理解できることだと思うんだけど、どうでしょう。