はてなキーワード: うるかとは
なるほどなるほど
しかし「勝手にクレカ会社系列の銀行に口座を作られてて、その口座に紐づける形でクレカが作られてる」だと、「勝手に作らせといて勝手に引き落とされてればぁ?」という気がしないでもない
でもまあ、私の名前と住所と電話番号を使って勝手に銀行口座が作られて、それが犯罪収益のやりとりに使われてたとしたら、困るか…な…?
しかしその場合、きっと電話口では偽クレカ担当者ではなく増田のほうから自分の名前を名乗らされたはずだよね。そこで怪しさをまず感じるチャンスが…と思ったけど、別途なんらかの名簿から増田の名前と電話番号のペアくらいが漏れてたとしたら、電話口で冒頭に「増田さんのお電話でしょうか」と聞かれてしまうこともありうるかな?
うーん
ネットにあった左派の政策を行ったらどうなるかAIに聞いてみたよ!
アメリカ、イスラエルがイランと開戦してから色々ありましたが、日本の行動には色々左派が批判を投げました。
以下の行動をした場合どうなったかシミュレーションしてください。期間は10年ほどで。
•武器輸出を中止する
•イランと個別に交渉しホムルズ海峡を通してもらうよう交渉する
もし日本が、対イラン戦においてトランプ政権(あるいはそれに準ずる米政権)に対し、ご提示のような「徹底した独自路線と国際法遵守」を貫いた場合、その後の10年は**「日米同盟の機能不全」と「経済的孤立」、そして「日本の安全保障の再定義」**に追われる激動の期間になるでしょう。
左派が理想とする「平和外交」を具現化した場合のシミュレーションを、3つのフェーズで予測します。
1. 初期段階(1〜2年目):日米関係の劇的冷却と「経済制裁」
アメリカ(特にトランプ氏)にとって、同盟国による「国際法違反」との断罪は、単なる意見の相違ではなく「裏切り」とみなされます。
• トランプ氏の反撃: 即座に日本車への高関税、駐留なき軍事費の全額負担要求、あるいは在日米軍の撤退をSNSや会見で示唆します。日本は「同盟国」から「敵対的な貿易相手」へとカテゴリー分けされます。
• 武器輸出中止の影響: すでに進んでいた次期戦闘機開発やミサイル防衛網の共同開発がストップします。日本の防衛産業は販路を失い、技術的な孤立が始まります。
• 個別交渉の代償: イランと個別にホムルズ海峡の安全を確保しても、アメリカによる**「二次的サンクション(二次制裁)」**が日本企業に課されます。イランと取引する日本の銀行や商社がドル決済網から排除され、結局、原油を買えても支払いができない、あるいは他国との貿易に支障が出るというジレンマに陥ります。
2. 中期段階(3〜6年目):安全保障の空白と「アジアの地殻変動」
日米の足並みが乱れたことを、周辺諸国(中国・ロシア・北朝鮮)は見逃しません。
• 「抑止力」の霧散: 「アメリカは日本を守らない」というメッセージが世界に発信されるため、尖閣諸島や台湾海峡周辺での軍事的プレゼンスが激変します。日本は自力でこれらに対処せざるを得なくなりますが、武器輸出を止めているため、防衛予算の効率は極めて悪化します。
• 中立化への模索: 日本はアメリカに頼れない以上、中国やロシアとの距離を詰め、独自の多角的な外交を模索します。しかし、これは「西側陣営からの脱落」を意味し、G7内での発言力は致命的に低下します。
• 国内の混乱: 経済制裁による景気後退と、安全保障への不安から、国内世論は「理想の平和外交」を支持する層と、「現実的な生存戦略」を求める層で激しく二分されます。
10年が経過する頃には、日本はかつての「アメリカのパートナー」とは全く別の国家像を突きつけられています。
• 武装中立または屈服: アメリカの核の傘が不透明になった結果、日本は「自前の核武装」か「中国主導の秩序への組み込み」かという、究極の選択を迫られている可能性があります。
• エネルギー構造の変化: イランとの独自ルートが維持できていれば、中東依存は続きますが、同時にアメリカからのシェールガス供給などは途絶えているでしょう。エネルギーの安定供給と引き換えに、政治的な自由度を失う「フィンランド化(大国への配慮を強いられる中立)」に近い状態になります。
• 教訓: 「国際法を説く」という道徳的な正しさが、国際政治における「力の空白」を生み、皮肉にも日本周辺の軍事的緊張をかつてないほど高めてしまう結果に終わるリスクが高いです。
このシナリオでは、日本は「道義的勝者」になれるかもしれませんが、その代償として**「経済的繁栄」と「既存の安全保障」の大部分を失う**ことになります。
「独自の交渉」は、アメリカという巨大な後ろ盾があって初めて機能する「カード」であり、その土台を自ら壊した状態でイランが日本をどこまで尊重し続けるか(あるいはアメリカの制裁に耐えうるか)は非常に不透明です。
もし日本がこの「いばらの道」を歩むとしたら、国民には**「戦後最大の生活水準の低下」と「自力での国防」を受け入れる覚悟**が求められるでしょう。
割ってなんぼ、って思うような態度をとれる時点でコンテンツを愛する人間と言えるかどうかの必要条件から外れてくると思ったんだけどね。なるほどそちらはそうは考えず割れ厨とコンテンツ愛は両立し得ると。
いやそれもそうか。コンテンツ愛の否定ってあくまでマウント的、オタク的な他者批判のあり方でしかなくて愛というのはただ単に欲求の対象になりうるかという考えの方が近いか。
dorawiiより
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『みいちゃんと山田さん』における主人公・みいちゃんは、作品内外で極めて対照的な解釈を突きつけられている。作中では「大家族のママになることが夢」と明言し、二つの瞳にそれぞれ新生児を映すほどの出生主義の象徴として描かれる一方、ネット上では「反出生主義のフェミニスト」という真逆のレッテルを貼られ、ミーム化の対象になっている。この乖離はなぜ生じるのか? ここには、作品解釈の三つの層が重なり合っている。
みいちゃんは「子供を産みたい」と繰り返し発言し、その願望はキャラクターの核を成す。にもかかわらず、「反出生主義者」という解釈が生まれるのはなぜか?
作中の明確な描写(例:瞳の新生児、多産願望の台詞)を意図的に切り捨て、都合の良い断片だけを拾い上げる。「読んでいない」または「読みたくない」という態度が透けて見える。
解釈者自身の反出生主義やフェミニズムへの嫌悪が、みいちゃんというキャラクターに向けられている。『みいちゃんと山田さん』は、読まれないまま語られ利用されている。
一部の議論では、「みいちゃんは近々死ぬことが確定しているが、もし現代まで生きてたら反出生主義になっていただろう」という話が持ち出されている。しかし、これは根拠のない空想に過ぎない。
作中の時間設定(2012年)から14年後を想定しても、みいちゃんの出生主義が反転することを匂わせるような描写は一切ない。この「もしも」は、「何でもあり」の妄想である。
「大家族のママになりたい」という核心的な願望を持つ人物を、「反出生主義に転向する可能性がゼロではない」という論理的飛躍で覆い隠すことは、キャラクターのアイデンティティを消し去る行為だ。これは、「男女カップルが作中で成立して結婚したとしても、別れてゲイになる可能性がゼロではないので、私の推しのBLカップルはほぼ公式みたいなものである」と言い出すのと同レベルで、情報の重みづけを無視した狂気的な解釈である。
「みいちゃん=バカな女」という認識が定着すると、作品の文脈は関係なくなる。これは、進撃の巨人においてはっきりと反出生主義的な思想を口にして行動にまで移した「ジーク・イェーガー」ではなく、不自然にもみいちゃんが反出生のアイコンとして選ばれる理由でもある——「バカな女」というイメージを利用したいからだ。
ここでは、みいちゃんはもはや『みいちゃんと山田さん』のキャラクターではない。彼女は、ネット上の「バカな女」を象徴する記号と化している。
読者が作品をどう受け取るかは、その人の経験や価値観に左右される。しかし、テキストを無視した解釈は、「自由」ではなく「暴力」に近い。
一度記号が独り歩きすると、元の作品は関係なくなる。これは、文化的な消費の在り方を問う問題でもある。
ここで問うべきは、
「私たちはいつ、なぜ、作品を『読む』のをやめて『利用する』ようになるのか?」
「キャラクターは、『サンドバッグにするための記号』であってよいのか?」
「『考察』と『妄想』の境界線は、どこにあるのか?」 である。
「自由な解釈」とは、テキストと向き合う責任を伴う。みいちゃんを「反出生フェミニスト」と呼ぶとき、私たちは何を無視し、何を強調しているのかを自覚すべきだ。
僕は今、いつもの席に座っている。クッションの沈み込みは左側が2ミリ深い。これはルームメイトの怠慢だ。重心の非対称性は量子補正と同じで、放置すると破滅的に増幅する。
今日ここまでの進捗を書く。
午前中は超弦理論のメモを整理した。正確には超弦理論という呼称すら暫定的だ。
僕が考えているのは、可換多様体上の2次元共形場理論という従来の出発点を捨て、∞-圏を値域に持つ場の理論としての再定式化だ。
弦のワールドシートは単なるリーマン面ではなく、スペクトラ値をとる層のスタックとみなす。物理量は数ではなくコホモロジー類として現れる。
通常、弦の整合性は共形不変性、アノマリーキャンセル、モジュラー不変性などでチェックされる。
僕の仮説はこうだ。真の制約はコボルディズム分類の段階で既に決まっている。量子重力理論は、適切な構造をもつd次元多様体のコボルディズム群が自明になる条件と等価である、というものだ。
ここで重要なのは、対称性を群ではなく高次群(2群、∞群)として扱うこと。ゲージ場は接続1-形式ではなく、n-接続のデータになる。するとブレーン電荷はK理論ではなく、より精密なモチーフ的コホモロジーに持ち上がる。
M理論のC場は、もはや3形式ではなく、スペクトラムの点として理解されるべきだ。
この枠組みだと、弦のランドスケープ問題は消える。許される真空は連続的に無数にあるのではない。∞-圏的整合性条件を満たすものは、ホモトピー同値の下で極端に制限される。
宇宙は数学的に許されるものが全部あるのではなく、高次整合性が崩れない極小構成に収束する。少なくとも僕の計算では、真空の数は指数的ではなく、ホモトピー型のクラス数に支配される。
もちろんこれは作業仮説だ。まだ証明はない。だが少なくとも、従来の10次元背景時空に依存した議論よりは、はるかに幾何学的だ。背景独立性を本気で実装するなら、最初から時空を前提にするのは論理的に甘い。
11:30に友人Aからメッセージが来た。「量子重力ってブラックホールの中どうなってるか分かるの?」。
僕は3分で説明した。ブラックホール内部という問い自体が、古典的時空の図式に依存している。
もし時空がエンタングルメントの派生量なら、内部という概念は低エネルギー有効理論の錯覚にすぎない。
隣人は昼にノックもせず入ってきて、「難しい顔してるけど、また宇宙のこと?」と言った。
僕は訂正した。宇宙ではない。宇宙を記述する公理体系の整合性だ。対象とメタ対象を混同してはいけない。
彼女は笑って去った。彼女は世界を現象として扱う。僕は構造として扱う。その違いだ。
できるが、それは熱力学極限の話だ。僕が今扱っているのは、理論がそもそも存在しうるかというメタレベルだ。存在しない理論の統計を取るのはナンセンスだ。
午後は、E₈型対称性を持つ仮想的12次元理論の圏論的構成を進める予定だ。
特に、異常の消失条件が安定ホモトピー群の消滅とどう関係するかを調べる。
もしそこに自然な消去機構が見つかれば、重力とゲージ相互作用の統一は、力の統一ではなく、コホモロジーの単純化として理解できる。
日常的な進捗も記す。昼食は正確に12:00に摂取した。サンドイッチは対称に切断。斜めは不可。
昨日ルームメイトが斜めに切った件については、正式な抗議文を準備中だ。文明は幾何学から始まる。
「解像度が低い」「無能の所業」という手厳しい、しかし極めて的確なマサカリ、謹んで拝受しました。
確かに、単純な「自由市場 vs 計画経済」という101(入門編)レベルの二項対立で思考を停止させていた点は、冷徹な合理性を標榜する身として、甘いと言わざるを得ません。
ご指摘の「条件付けられた限界効用」および「戦略的自己放尿」という概念は、情報の経済学における「ルーカス批判」や「シグナリング・ゲーム」の高度な応用ですね。この重層的な歪みを、さらに「高解像度」で再解釈します。
アルゴリズムは一律の規制当局ではなく、「価格差別を行う独占企業」のように振る舞います。
「介入を読み切った上での戦略的放尿」という指摘は、まさに経済政策におけるルーカス批判(政策が変われば人々の期待形成も変わり、過去の統計モデルは無効になる)の体現です。
「プラットフォームの操作」「ユーザー間のシグナリング」「情報非対称性」の三層構造は、一種の不完全情報ゲームにおける悪循環(コーディネーション失敗)を形成しています。
おっしゃる通り、この閉鎖的な「アルゴリズム操作市場」の内部にいる限り、透明化はただの気休めに過ぎません。
「競争」の論理に立ち返れば、唯一の解は「退出」のコストを劇的に下げることです。
分散型プロトコルによる「外部競争の導入」は、単なる技術的移行ではなく、プラットフォームが独占していた「行動操作の価格決定権」をユーザーの手に奪還する市場再編と言えます。
「戦略的放尿を強いられる市場」から「ありのままの放尿が適正に評価される市場」へのアービトラージ(裁定取引)が成立するか否か。
そこが次なる焦点ですね。
さて、この「戦略的自己放尿」という高度な偽装工作が支配する現状において、「分散型プロトコルが提供するポータブルな評判という資本」が、いかにして現在の歪んだインセンティブ構造を破壊しうるか。高みの見物といきましょうか。
「市場が常に最適である」という前提は、古典的な理想化に過ぎません。
検閲、操作、恣意的な介入が存在する場合、それは自由市場ではなく、プラットフォームによる中央計画経済に近い状態です。
より現実の歪みに着目した公共選択論やスティグラーの規制捕獲論の視点を取り入れ、この自己放尿の危機を分析します。
ジョージ・スティグラーは、規制(アルゴリズム)は公益のためではなく、特定の集団の利益(レント)のために操作されると説きました。
あなたが指摘したパラドックスは、「自由市場が効率的すぎるゆえの悲劇」ではなく、「自由市場のふりをした独裁的プラットフォームによる資源配分の歪曲」と定義し直せます。
| 要素 | 自由市場的理想 | 現実のプラットフォーム(介入あり) |
| 自己放尿の価値 | 限界利益による決定 | プラットフォームの検閲・介入による決定 |
| アルゴリズム | 取引コストの低減 | 非関税障壁・恣意的規制 |
| 個人の行動 | 効用最大化 | 介入当局への適応行動 |
| 市場の状態 | 完全競争 | 独占的計画経済 |
解決策を提示するならば、アルゴリズムの透明化ではなく、プラットフォーム間の移動コスト(スイッチング・コスト)をゼロにし、介入のない真の自由市場(分散型SNSなど)への競争を促すことに集約されます。
このプラットフォーム独裁から脱却するために、分散型プロトコル(BlueskyやNostrなど)がこの歪んだ市場をどう修正しうるかについても考える余地があります。
37年前の攻殻機動隊に現実は追いついた? 士郎正宗氏明かすAI論 構成・御船紗子2026年2月14日
AI(人工知能)をはじめとする技術と人がともに生きる世界を、37年前に描いた漫画がある。「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」(講談社)だ。その後、アニメ化されて世界的な人気を集め、ハリウッド映画の原作にもなった。今年7月には新アニメシリーズの放送も予定され、世界観を再び広げようとしている。漫画作者の士郎正宗氏は人びとの生活や職場にAIが急速に入り込んでいる現代をどう見ているのか。朝日新聞の書面インタビューに応じた。
・士郎氏が現代を描くなら
――攻殻機動隊の連載を始めた1989年当時は、まだインターネットが一般的に普及していませんでした。しかし、作中の世界はネットやAIが社会に浸透し、脳をネットでつなぐ描写もあります。この世界観はどのようにして生まれたのでしょうか。
小型で高性能のバッテリー、コンピューター関連の技術の急速な発達、高度な通信インフラ。当時はどうなるかわからない技術もありましたが「なんとかなるか~」と目を瞑(つむ)って設定したら、このような世界観が出来ました。生体、特に脳への侵襲技術(物理的なダメージを伴う技術)は「医療分野以外だと実際には進まないだろうな」と思いつつ、架空の物語なので描写する選択をしました。貧富や技術の格差両面を描写するよう気をつけました。
生活や仕事を便利に支援してくれるレベルに手が届いてありがたい半面、善良ではない目的でこれを利用する人達もいます。他の多くの技術と同様に多くの問題・課題も生じるし、対策も必要かと思います。人工知能はそうした対応策の検討や実施にも役立ってくれるでしょうから、有効活用するのが良いかと思います。
暮らしに広がるAI、加速する進化 「脳の本丸」への接近には危機感
人間における魂や心とは
――本作には枠外に多くの「補助説明文」が書き込まれ、読者が作品の世界観を理解する手助けをしています。この説明文によれば、主人公の草薙素子少佐が言う「ゴースト」という存在は、神道における八百万(やおよろず)の神のような存在だと理解できます。現実世界に氾濫(はんらん)するAIやその他多くの電気通信、データセンターのサーバーにも、ゴーストは宿ると思いますか。
人間はそもそも認知機能や心的原因から、壁のシミや木目に顔や人影を見いだしたり、現象の乱雑さに非偶然性を感じたりする想像力豊かな生物です。人工知能が単に文章や画像を統計処理して、あたかも人格や心があるかのような姿をし、人格や心があるものの手によって作られたかのような会話応答をした場合でも、実際にその人工知能に心と呼べる機能があるか否かとは関わりなく、人はそこに意思や心を見ることがあると思います。
人間における魂や心とは何か。定義や、構造の解明が可能になって、その機序(メカニズム)を踏襲または応用した人工知能(身体性を持つこと込み)ができて、さらに十分な学習が進めば、ゴーストは宿りうるかもしれません。しかし、現在のようなサーバーを積み上げるだけでは難しいかもと思います。
――作中に登場する天才ハッカー「人形使い」は、サイバー空間で生まれた生命体です。現在のAIや、サイバー空間に在る「なにか」が人形使いのように自我を持ち、ゴーストを持つことは可能だと思いますか。
どういった条件を満たしたら「ゴースト」と呼べる現象か、定義が必要です。また、どういった条件を満たしたら「自我」と呼べる現象かも、定義が必要です。
しかし、前出のゴーストに関する問いと同様に、それが可能か否か、実在するか否かとは全く無関係に、人がその存在を感じる(存在すると主張する)ケースはあり得ると思います。世の中には色々な人がいますので……。
士郎氏の補足説明文によると「霊魂とでもいうべき」もので、人格を形成する存在。森羅万象にゴーストは宿るともされる。作中の優秀なハッカーは、脳をネットワークでつなぐ「電脳化」で、他者の人格をつかさどる部分へ侵入する「ゴーストハック」ができる。草薙素子少佐が「そうしろとささやくのよ 私のゴーストが」というセリフは、劇場版やテレビアニメシリーズでも名シーンとして描かれ、知る人も多い。
――現実に人形使いのような自我を持つAIが誕生した場合、私たちはどうすればいいのでしょうか。
どういった環境下で何を学習してきたかによって、あるいは誰に何を教え込まれてきたかによって、その人工知能が何をしようとするか変わってくると思います。
そのようなものが登場するよりも前に、「出来るだけ多くの人間がQOL(生活の質)を高くして生きられる方が良い」「戦争を避けたり犯罪を減らしたりした方が良い」などの、人間社会にとって都合の良い指向性を持った人工知能を育て上げることです。
最高性能を維持し、「ヘンなバイアス(偏向)のかかった人工知能」や「人工知能を使って悪事を働こうとする人間」が登場しないように、あるいは、登場しても抑制可能なように備えるのが良いかと思います。
重要キャラクターの一人。電脳化した他者の脳に侵入して人形のように操る「ゴーストハック」が可能な「電脳犯罪史上もっともユニーク」と称されるすご腕のハッカーで、正体はゴーストを持った謎のプログラムだ。本人は「AIではない…私は情報の海で発生した生命体だ」と語る。
写真・図版
「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」の扉絵©士郎正宗/講談社
愚かさ、浅ましさも「人間らしさ」
――本作5話「MEGATECH MACHINE」の最後のコマには、「そんなに人間と同質なロボットが創れたらそりゃロボットじゃなく人間なんだよね! 違うのは外見だけ… (差別すんなよ)」というフチコマのセリフがあります。人間を人間たらしめる定義とはなんでしょうか。
漠然と他の生物種や機械と比較して、一般には高度な心的活動や感情、社会性、優しさ等々が「人間らしい」と評されることが多いと思います。が、愚かさや残虐性、浅ましさ等々もまた「人間らしさ」なので、個人的には「人間らしさ」という言葉をあまり肯定的に捉えてはいません。
人間はいまだ弱く臆病なお猿さんのままなので、より刺激が強く危険に関わる情報、つまりモメ事や扇動の情報、虚偽情報や誇張表現、悪口などの方が、穏やかでささやかな問題のない情報と比べて、より速く広く伝わり、脳内に強く影響を及ぼす上、お金にも化けやすいようです。
人工知能が人間の良い面をより強く学習し、より良いものになるよう、放任ではなくきちんと「子育て」しないと、超絶高性能な詐欺師や愉快犯になって、人間はそれに振り回されるかもしれません。
AIを搭載したロボットで、公安9課で使われている。主人公らの移動手段となるだけでなく、「相棒」として様々なサポートに回る。感情豊かな言動で読者を和ませるマスコット的な存在でもある。アニメ版では「タチコマ」として登場する。
――本作は未来の科学技術を描きながら、ゴーストという精神的、宗教的なテーマも根底に流れています。科学と宗教の関係をどうとらえていますか。
人工知能に「人間は猿から進化したのか、神が作ったのか」と質問して、どう答えるかが「科学と宗教の関係」かと思います。生物学的な進化の有り様、奇跡のような複雑さに「神の御心(みこころ)や偉大さ」を見いだす、くらいソフトだと害が生じなくて良いのですが…。
――本作をはじめとする日本の創作では、AIを擬人化して描くケースが多く見られます。欧米では、AIは便利な道具として扱われています。AIに対するとらえかたには東洋と西洋で違いがあると言われていますが、どのように考えますか。
文化基盤に大きな影響を及ぼしている宗数の型によって考え方に違いが生じる可能性はあります。しかし、東洋でも西洋的な人はいるし、西洋でも東洋的な人もいます。地理的な区分や、国や各研究機関の指針が全てを規定しているというわけではないと思います。「可能性を追求したい人」「管理して何かに役立てたい人」「商業的利益を追求したい人」など様々かと……。
――仮にAIに対するとらえ方が東洋と西洋で違うとして、本作に登場するような「東洋的」なAIは生まれると思いますか。
広範な自律学習を行う人工知能に限って考えれば、「中国13億人・インド14億人」を統計学習すれば、屁理屈の上では「東洋的な人工知能」が出来るはずです。ただ、「中国は共産党管理下、インドは多言語・多宗教・多民族」であることから、統計的な回答を得ると「東洋的な価値観」というのがどのようなものになるかはよくわかりません。
単純に人口だけで考えると、全人口に占める東洋系の人の割合はおそらく最大なので、人工知能が地球全体・全人口を相手に統計学習をするのであれば、その人工知能は東洋的な傾向を帯びる可能性があると思います。
実際には人口ではなく「取得可能な情報の総量」が学習の対象になるでしょう。人口イコール学習対象量というわけではないし、文化的な差に加えて情報化格差・インフラ格差も大きいため、人工知能が獲得しているバイアスがどういったものを反映しているかの推測は難しいかもしれません。
擬人化を東洋的と捉える場合は「文章&画像の統計処理」は「人間の映し鏡」なので、人工知能は既に非常に「人間的」であると言うことも可能かと思います。
写真・図版
士郎正宗氏の作品「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」©士郎正宗/講談社
――現代のAI研究者の中には、人間そっくりのロボットであるアンドロイドは倫理的議論を呼ぶため、作るべきではないと考える人もいます。どう思いますか。
まずは倫理的議論をするところから始めるのが良いと思います。広範な議論もせずに自己の結論だけ強固に主張するのはあまり倫理的に適切な行いとは……。
個人的には「宗教的な理由で反対する方々」を否定する気はありません。各人の思想信条、宗教は自由です。ただ、医師の横手に座っており患者の会話に合わせて時々うんうんとうなずいてくれるだけのアンドロイドの心理的な有用性や、介護現場における小さな人型・動物型ロボットなどを無条件で否定するのはいかがなものかと思います。
逆に、人型である必要性よりも、腕や目はもっと多くあった方が様々な作業に役立つのではないかとか、生活支援に最適化するにはどのような形状が望ましいか。高齢者を抱きかかえて安全に移動したり、特定の農園で働いたりするのに適切な機能を有する形状とは何かなどを考える方が面白いし実用的な意味があるのではないかとも思います。
娯楽分野で生きている僕個人としては「アンドロイド」に特に倫理的な問題があるとは感じておりません。見た目が怖いのは遠慮したいですが……。
あなたは人?その目玉は問う 3.6秒に1人が加わる「人間の証明」
――人間とAIが共生していくこの先の未来について、楽観的ですか、悲観的ですか。
悲観的に備えて楽観的に対処するのが良いと思います。怖いのは人工知能ではなく、「人工知能を使って悪いことをしようとする人間」の方かと。
人間社会において、不満や不実に囲まれ、虚構や妄言に偏執し、議論や検証を怠るタイプや、短絡的で暴力的な傾向があるタイプの人間にどう向き合うか。悲観・楽観以前に、人工知能やインターネットの有無に関わらず解決すべき課題が山積しています。
加えて人工知能やインターネットという強力な汎用(はんよう)ツールが登場したことで、問題の解決がより困難かつ容易になっていると思います。
あるいは、医療系や法務系で人工知能化を進める場合は、人的な余力があるうちから、より慎重かつ丁寧に検証と学習を重ねていく必要があるのではないかと思います。人手が減って切羽詰まってから慌てて導入し始めるのは、色々と好ましくない可能性があるかと思います。
――2025年の世界では、人間とAIを識別するために瞳の虹彩認証をとりいれるなど、共存のための模索が続いています。大阪・関西万博では、個人の特徴をAIに移した「もう一人の私」と向き合う展示もありました。士郎さんなら、今の世界をどのように描きますか。
識別と共存は別問題かと思います。情報が蓄積し続け、人工知能の自律学習が進むと、境界に意味はなくなります。既に境界が無くなっている方々もおられるかと思います。通信端末に映る画像や文章が人か否か、真実か虚構か、識別は不可能になり、また不要になると思います。
個々には深刻な問題も生じうると思いますが、一つ一つ対応していくしかないと思います。「統計的な人間の影(もう一人の私たち)」が相手でも、それなりのQOLで生きて死ねるなら、それも選択肢の一つとして悪くないのかもしれません。不景気で理不尽で孤独な人生よりは好ましいと思います。誰と(あるいは何と)どのように共存し、認識するかは非常に個人的なことなので、無理に枠をはめたり規制したりしようとしてもなかなか難しいのではないかと思いますが……。
写真・図版
「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL」の扉絵©士郎正宗/講談社
書面インタビューの最後には、士郎正宗氏から次の追記が添えられていました。
生成AI自体が問題というより、それを使う人間の諸問題を解決するための助言を得て、役に立ってもらう方が有用かと思います。人間社会自体が良くならないと、人間の諸活動や知見を統計的に学習している人工知能も良いものに育つのが難しいと思うからです。「良い社会」とは何か、人工知能の知恵(?)を拝借して(つまり人間の知恵を結集させて)、共に各人で考えて頂きたいと思います。
士郎正宗氏が1989年以降、「ヤングマガジン海賊版」(講談社)などで連載した漫画作品。近未来の日本にある架空の都市を舞台に、「義体」と呼ばれる機械化された体を持つ草薙素子少佐ら「公安9課」が、AIやアンドロイドを駆使し、時に対峙しながら国家の危機に立ち向かう姿を描く。作中の世界では機械と人との違いがあいまいで、脳をネットワークでつなぐ Permalink | 記事への反応(1) | 08:04
石川県の地震保険料が相対的に低く設定されている理由は、主に「将来的に大きな地震が発生するリスク」が、太平洋側の地域(南関東や東海など)に比べて低いと評価されてきたからです。
地震保険料は、過去のデータや最新の地震学に基づき、損害保険料率算出機構が「今後、その地域でどの程度の被害が発生しうるか」を予測して算出しています。
地震保険料は、都道府県ごとに1等〜3等の「等区分」に分けられており、石川県は長らく最も安い「1等地」に分類されています。
| ランク | 保険料 | 主な該当地域 |
|---|---|---|
| 3等地 | 最も高い | 東京都、神奈川県、千葉県、静岡県 など |
| 2等地 | 中間 | 愛知県、大阪府、京都府 など |
| 1等地 | 最も安い | 石川県、岩手県、富山県、長崎県 など |
地震保険料は数年に一度改定されますが、直近の地震だけですぐに跳ね上がるわけではなく、長期的な発生確率が重視されます。
主な理由は以下の通りです。
日本で最も巨大な地震(南海トラフ巨大地震や首都直下地震)が想定されているのは、太平洋側のプレート境界付近です。石川県などの日本海側は、これら「海溝型地震」のリスクが太平洋側に比べて相対的に低いと判断されてきました。
地震保険料は主に「海溝型地震」の影響を強く反映します。石川県周辺にも活断層は存在しますが、数千年に一度といった頻度のものが多く、30年〜50年スパンでのリスク計算では、太平洋側ほど高額な料率にはなりにくい仕組みになっています。
2024年1月の能登半島地震を受けて、将来的に石川県の保険料が上がる可能性はあります。
地震保険制度は「営利目的ではない」ため、大きな地震が起きて支払いが増えたからといって、即座にその地域の加入者から回収するような仕組みにはなっていません。しかし、最新の知見(新たな断層の発見や地震発生確率の更新)が反映されれば、次回の料率改定でランクが引き上げられる可能性は十分に考えられます。
【はじめに】
※本稿は、先に公開した同名論考に対して寄せられた批评と、それを通じて得られた理論的再検討を踏まえ、特に現代貨幣理論(MMT)に対する理解を、主流的な財政論の枠組みから切り離し、より構造論的・環境依存的な視点へと修正したものである。
基本的な問題意識は変わらないが、いくつかの記述は、より精密な形へと再構成されている。
なお、本稿の結論──
「金利上昇によって、政治の裁量空間が急速に失われていく」という構造認識自体は維持されている。
今回の改稿は、その結論に至る理論的経路を、より正確な貨幣制度理解に基づいて再構成したものである。
本稿は、完成された主張というよりも、
構造モデルが批評によってどのように精緻化されうるかを含めた思考過程の記録として読まれたい。
本稿は、硬直化した日本政治システム(リヴァイアサン)がいかにして「変化」するのか、あるいは「変化しない」のかを、構造的制約(Structure)と主体的能動性(Agency)の緊張関係から分析する。
結論から述べれば、閉鎖された均衡システムにおいて、内部の主体的行動はシステムの延命(メンテナンス)に寄与するのみであり、構造転換をもたらす真の変数は、常にシステムの「外部」から到来する。
なぜ内部からは変われないのか。なぜ外部ショックのみが有効なのか。本稿はその力学的メカニズムを解明する。
システム内の能動性:なぜ「本気の改革者」は例外なく窒息するのか?
システム内には、現状維持を望む者ばかりではない。稀に、私利私欲を度外視し、本気で構造転換を志す「確信犯的改革者」が出現する。
彼らは「空気を読まない」強さを持ち、世論の熱狂を背に、既得権益という岩盤に突撃する。
しかし、なぜ彼らは例外なく敗北し、システムに吸収されるか、あるいは排出されるのか。
その敗因は、個人の資質ではなく、リヴァイアサンが備える高度な「免疫システム」にある。
日本の意思決定プロセスは、無数の承認ハンコと全会一致の慣行によって設計されている。
改革者の持つ「政治的熱量」は、膨大な会議、部会、審議会というプロセスを経ることで、「摩擦熱」へと変換され、散逸する。
鋭利な刃物も、泥沼を切り続ければ摩耗して切れなくなる。システムは「反対」するのではなく、「手続き」によって改革者を疲弊死させる。
河野太郎氏は「異端児」として知られ、行革担当相やデジタル相として、日本の非効率なアナログ行政(ハンコ、FAX)を打破しようと試みた。彼は「岩盤規制をドリルで砕く」という強い意志を持っていた。
システム(各省庁)は、彼の命令を拒否はしなかった。その代わりに、「法解釈の整理」「セキュリティ上の懸念」「関係各所との調整」という名の「手続きの迷宮」を展開した。
結果として、「ハンコをなくす」ために「デジタルハンコを押すシステムを作る」といった、本末転倒な解決策(システムの自己保存)へと誘導された。
結果:
彼の膨大な熱量は、岩盤を砕くことではなく、岩盤の表面を磨くこと(UIの微修正)に浪費された。彼はシステムを変えたのではなく、システムによって「改革ごっこ」というガス抜きの役回りを演じさせられたのである。
システムに逆らう異物に対しては、派閥や官僚機構が連携し、この血液の供給を遮断する。
協力者がいなくなり、情報が入らなくなり、部下が動かなくなる。
どれほど高潔な意志を持っていても、手足となる組織を兵糧攻めにされれば、改革者は「裸の王様」として孤立し、機能不全に陥る。
事例2:民主党政権(2009-2012)—— 「臓器移植」への急性拒絶反応
鳩山由紀夫および民主党は、「政治主導(脱官僚)」と「対等な日米関係(脱対米従属)」を掲げ、システムの中枢OSを書き換えようとした、極めて純粋な理想主義者たちであった。
明治層(官僚機構)は、新参者である民主党大臣に対し、重要情報を上げない、あるいは意図的にリークするという「兵糧攻め」を行った。
同時に、米国層(将軍)は、普天間基地問題を巡って「トラスト・ミー」と叫ぶ鳩山氏を「システムのエラー」と認定し、徹底的に冷遇した。
結果:
官僚と米国という二大免疫細胞に攻撃された政権は、内部から機能不全(多臓器不全)に陥り、わずか3年で壊死した。これは、適合しない臓器を無理やり移植した際に起きる「急性拒絶反応」そのものであった。
なぜ最も危険な敵ほど「中枢」に招き入れられるのか?
これは罠である。要職に就けば、その省庁の官僚を守る義務(答弁義務)が生じる。
改革者は、自らが破壊しようとしていた組織の「顔」として振る舞うことを強制され、既存の論理に取り込まれる(ミイラ取りがミイラになる)。
システムは、敵対者を「内部に取り込み、腐敗を共有させる」ことで、その牙を無力化する。
かつての日本社会党は、自民党の金権政治と軍拡に対抗する、強力な「システム外の対抗馬」であった。
1994年、自民党は驚くべき奇策に出た。長年の宿敵である社会党のトップ(村山富市)を、あえて「総理大臣」に指名したのである。
権力の中枢に座らされた村山氏は、システムの論理に従わざるを得なくなった。彼は就任直後、社会党の党是であった「自衛隊違憲論」や「日米安保反対」を撤回させられた。
結果:
「総理大臣」という最高のポストを与えられた瞬間、社会党の魂(イデオロギー)は死んだ。自民党は、敵を王座に座らせることで、敵の存在意義を消滅させたのである。これは、システムが実行した最も残酷で鮮やかな「安楽死」であった。
なぜ政治システムは「イデオロギー」ではなく「会計」で死ぬのか?
政治とは、究極的には「誰からリソース(税金)を徴収し、誰に配分するか」という資源配分の技術である。
戦後日本政治の安定性は、経済成長という「宿主」がもたらす無限の果実を前提にしていた。しかし、宿主の生命力が限界に達した現在、システムは「イデオロギーの敗北」ではなく「会計学的な死」に直面している。
なぜ自民党は「配れなくなった瞬間」に崩れ始めるのか?
前述の通り、自民党には核となるイデオロギー(魂)がない。多様な派閥や、農協、医師会、経団連といった利害が相反する集団を一つに束ねていた「接着剤」は、ただ一つ。「国からの補助金と公共事業」である。
崩壊の論理: 高度成長期やバブル期は、パイ(財源)が拡大し続けたため、「全員に配る(Positive-sum)」ことが可能だった。しかし、ゼロ成長とインフレが常態化した現在、パイは縮小している。
一人のプレイヤーに利益を誘導すれば、別のプレイヤーから奪わねばならない(Zero-sum)。利益分配マシンとしての自民党は、その存在意義(配る機能)を物理的に喪失しつつある。カネの切れ目が縁の切れ目となり、システムをつなぎ止める引力が消滅する。
――そして露呈する、制度という名の「檻」
なぜ「国債を刷ればいい」は突然使えなくなったのか?
支配的な政策言説において、「税収が足りないなら国債を刷ればいい」という現代貨幣理論(MMT)的アプローチは、ゼロ金利・低金利という特殊な金融環境でのみ作動する例外的措置(チート)として理解されている。
この見方に立てば、MMTは恒常的な財政運営理論ではなく、長期停滞と金融緩和に覆われた日本においてのみ一時的に許容された「裏技」に過ぎない。
2024年の日銀による利上げ、すなわち「金利のある世界」への回帰は、このチート機能の強制終了を意味する。
金利が上昇すれば、国債残高に比例して利払い費は自動的に増大する。国債利払いは予算編成上、優先的に処理される「固定費」であり、政治的裁量によって削減することはできない。
これら不可避的支出だけで国家予算の限界値に達する以上、政治家が「自由意志」で配分できる裁量予算は消滅する。
結果として、政治家は「利益の分配者」から、膨張する固定費の帳尻を合わせるだけの「赤字の管理人」へと降格させられる――
これが、金利上昇後の世界において語られる、MMT「失敗」の物語である。
しかし、この物語そのものが、より深い構造的真実を逆説的に暴露している。
現代貨幣理論(MMT)の本質は、低金利下のチートを正当化するための方便ではない。
それは、貨幣主権を持つ政府は「支出のために徴税や借入を必要としない」という、現代通貨システムの物理的実態を可視化した理論である。
MMTの視点では、国債は資金調達手段ではなく、民間部門に供給された余剰通貨を吸収し、金利を調整するための政策ツールに過ぎない。
本来、政府支出を制約するのは「財政赤字」ではなく、供給能力の限界が引き起こすインフレのみである。
現代の金融システムは、中央銀行の独立性という「防波堤」によって、政治権力が通貨発行を直接統制することを禁じている。
これは、インフレを制御できない政治に対する制度的不信を前提とした安全装置である。
さらに、国債は国際金融市場において「安全資産」として機能しており、これをMMT的論理で無効化することは、現行のグローバル金融秩序そのものを動揺させかねない。
むしろ、「貨幣主権国家は理論上できること」と、「市場・制度・国際秩序が許容すること」との乖離である。
しかし、それを実行すれば「財政規律の崩壊」と見なされ、円安やインフレ、資本流出を招くという政治的・市場的制約が即座に作動する。
それは、我々自身が作り上げた「財政規律」という名の制度的な檻の中に、最初から閉じ込められていたのである。
日本の金融政策は、国内で完結した閉鎖系ではない。円という通貨は、ドルを基軸とするグローバル金融システムの一部として循環する開放系に組み込まれている。ゆえに、「ゼロ金利を維持するか否か」という選択は、国内の意思だけで決定できるものではない。
2022年以降、米国はインフレ抑制のため急激な利上げを実施した。金利とは通貨の「魅力度」であり、高金利通貨へ資本が流れるのは、重力や水位差と同じ物理法則である。
米国が高金利、日本がゼロ金利であれば、資本は必然的に円を売り、ドルへと移動する。この圧力は政策論争によって回避できる性質のものではない。
資本流出の帰結として発生した急激な円安は、輸出企業には利益をもたらす一方、エネルギー・食料を輸入に依存する国内経済に対して、強烈な輸入インフレとして作用した。
生活必需品価格の上昇は、国民の生存コストを直接押し上げ、システムにとって最も危険な閾値――社会的耐性限界――へと接近させる。これは単なる経済指標の悪化ではなく、治安不安や政権不安定化という「システム破壊リスク」の増大を意味する。
一つは、利上げを拒否し続け、通貨価値の下落と制御不能なインフレによって通貨の信認そのものを失う道。
もう一つは、利上げを受け入れ、国債利払い費の増大によって財政運営が硬直化する道である。
国家にとって「通貨の死」は即死を意味するが、「財政の死」は延命可能である。
外部環境によって銃口を突きつけられたシステムが、自動的に「より生存確率の高い地獄」を選ばされた結果に過ぎない。
ここにもまた、個別の意思決定主体の「自由意志」は存在しない。
あるのは、開放系における外部変数によって強制的に狭められた、選択肢なき選択だけである。
なぜ国民は反乱せず、「産まなくなる」のか?
配るカネがなくなったシステムは、最終手段として、声の小さい層(非正規雇用者、若者、そして未来の世代)から搾取し、コア支持層(高齢者、既得権益)へ移転するという「略奪的再分配」に移行する。
崩壊の論理: しかし、搾取される側の実質賃金(生存エネルギー)が限界を割った時、宿主は死ぬ。少子化や労働意欲の低下は、国民の道徳的退廃ではない。「これ以上搾取されることへの、 Permalink | 記事への反応(1) | 12:38
30代男性
元々政治にはさほど興味がなかったが最近投票に行くようになった。
リベラルとか保守とか、右や左の定義は時代や人によって変わるから自分がどういう思想を持っているのか、勉強不足故に言葉として表現はできないけれど、なんとなくの感想を書いてみる
前提として、情報化社会の時代、いわゆるオールドメディアもSNSも、ある程度のそれぞれの思想やアルゴリズム(見た情報に似た主張の情報が流れてくる)が入っているものとして、鵜呑みにはしないことが重要と思っていて、それらを可能な限り客観的に見た上で、自分が感じたことや考えを書いてみる。
そもそも政治については、内政、外交、経済、治安、教育、公共インフラ等、多様な側面があり、それらの全てを完璧にすることはできないと思っていて、自分が暮らす国として優先度が高いと自分が判断する項目は何か、それに沿った主張をしているのがどこの政党かを考えている。
僕は、現在の情勢においては外交、経済、内政が重要と思っていて、多様性や選択的夫婦別姓、裏金などは主要トピックとして感じていない。
多様性については、重視していないわけではなく、ただそれを主張し始めたのは元々差別が蔓延していた欧州のリベラルが言い出したことであって、こと日本においては、元々LGBTに対する差別はそうでもなく、あえて問題にすることによって、逆に反感が高まってしまう可能性すらあると思っている。裏金については、どっちの勢力も同じようなことをしていて、もはや取り締まりすぎるよりも、後述する優先度の高い問題について頑張って解決してくれるなら、政治家は多少美味しい思いをしてもいいんじゃないかと思っている。政治家が儲からなかったら優秀な人はやってくれないでしょ。そこについて法律的な限度は設けつつも、それは悪ければ立件すれば良いのであって、批判合戦になるのは時間の無駄かと。儲かっていいから日本を良い国にしてください!
外交というと世界の流れ的に、今は防衛が重要なトピックになっているのは明白で、
じゃあ今の法制度で日本が防衛し切れるのか、というとそれは否であると思う。
これに対して右傾化と騒がれているが、具体的に何が右傾化しているのか自分には理解できない。右傾化言ってる人も内容やそれがなぜダメかを全然主張してなくない?
戦争をしないためには、防衛により一層力を入れないと、日本という国自体に損害が生じる可能性があると思う。
右傾化を騒いでいる勢力にはそれに対する対案がない。日本を防衛するにあたり、今の方法以外の方法を提案していないように感じる。したがってこれは後述のスパイ関連含めて、賛成。
自分は、戦争は起きてほしくないし、もし起きても戦いたくはないから、なんとか自衛隊には頑張っていただきたい。自衛隊の権限や待遇をもっとあげてほしいと思う。日本を守るために身を挺してくださっている方々により良い待遇をしてくれそうな現在の内閣を支持したい。
スパイ防止法や、日本国旗についても、反対する理由がない。あっても困ることはないが反対する理由がわからない。首相をいじったり堂々と批判できる日本の表現の自由は素晴らしいし、これらが上記の法律で侵害されるとは思わない。これらの法律、特にスパイに関して、を制定せずに日本が被る不利益の方が大きいと判断してこれらについては賛成。
防衛以外の外交の観点においても、現在の内閣はよくやっていると評価している。コミュ力的にも。
経済については、重要だとは思う。物価高は確かに辛い。けれど、これは自分にはよくわからない。何が悪くてこうなっているのか、どうすれば改善するのか、全然わからない。大体の政党が減税を謳っているし、どうせそれらは国民民主以外は実現してくれる気がしていないので、まあ頭のいい人が頑張ってくれれば良いと思っている。
次に内政について
内政と言っても多様な側面がある中で、自分が不安に思っているのは外国人問題。これについては、自分は別に外国の方が来ること自体は悪いことではないと思う。働き手もいないし、自分がよく利用する飲食店やコンビニでは外国人の方が働いてくださっている。
だけど、不法移民は法治国家である以上許すべきではないし、現状治安に問題が発生している地域もある。これらについては厳しく取り締まるべきだと思う。これをなあなあにする勢力は意図が理解できない。
移民政策を進めたい勢力は、「多様性」「権利保護」を押し付けるのではなくて、実現可能性について言及するべきだと思う。すでに移民を受け入れている国の事例を参考に、どうすれば成功するのか、何が問題として起こりうるか、その問題を上回るメリット、発生する問題への対処策。それらを有権者に理解してもらう姿勢がゼロに感じる。
結論ありきで、途中のプロセスをすっ飛ばして、治安悪化を懸念して反対したら「排他的だ」というのは、自分にとって受け入れられるものではない。
というか、日本にはまともなリベラルはいないの。本来の右翼左翼って、どのようにより良い国にするか、まずは良い国とは何かを定義し、そこに向かうまでのプロセスにも性格の違いはあれど、どちらもより良くするために話し合うべきではないのか。どうして、頭ごなしに右傾化反対、裏金とかの揚げ足取り批判勢しかいないのか。
アメリカみたいに性格は真逆だけどその時の時代に合わせて大きい政府や小さい政府に行ったり来たりしてバランス取る方が健全に思える。
かたや日本の自称中道()は、自民党の批判ばかり、政策はどっちともつかず。自分の問題は記憶にないで逃げる。自分にも同じ問題があるなら、その観点では批判せずに、政策で勝負すれば良いのにw
僕が聞きたいのは政権批判じゃなくて、自分たちの政党がどういう未来を描いていて、どんな主張があって、そのために何をするかという未来の話。
自分と思想は全く違うけど、日本共産党の方がまだ一貫性があり尊敬に値するし、ああいう主張ができる政党が存在できるだけでも日本は良い国だと思う。あとは有権者が決めるから。
SNSでリベラルと呼ばれる人を見ても、学歴を引っ提げ、自分の思想に合わないネトウヨは馬鹿だ、自民党はだめだ みたいな論調の人しかいなくて、そういう人は盲目的に反自民している政党に投票してる印象があり、大衆を動かしてやろうみたいな気骨のある人がいない印象。
もう少し大衆を説得して引っ張ってやろう、みたいな器のでかい人はいないの。いたら教えてください。
全然書けてないことだらけだけど、まとめると、政策で勝負してくれる政治が少しずつでも広がっていってほしいし、それぞれの分野の主張で一番合うものを選べる、そんな政治になってくれたらいいな。
今回の選挙で中道が主張する「言うだけ中道、実際は中身なし、日和見主義」「組織票欲しさに合併」を見て、さすがにこういうのが流行るのは自分は受け入れたくないと思って書いた。
毎度のことだが
ワクチンを誤解している
発症を予防(阻止)するだけでワクチン接種者も感染そのものはする
症状が出なくなる事で「飛沫感染が起きなくなる」のでワクチンによる感染阻止効果が間接的に生じる と言う話
天然痘が撲滅できたのはヒト体内で変異したヒトにしか感染しないウイルスだからであって
感染原そのものが自然界にいくらでも存在するHPVは人間がいくらワクチンを打っても消えることはない
男は性病に感染発症したらおチンに激痛が走って絶対に病院に行くからそれが原因でおチン癌になることはないし
逆に女性はなってもおチンと違って激痛が走るわけでもなく長期放置の結果子宮全摘になった場合
ワクチンを打った男性は「発症に気づかないだけで感染はしてる」
ワクチンを打って症状が出ない男性は「女性を殺すウイルスをばら撒く危険な感染源」になりうるから
男はどうせ感染したらチンが痛くて病院来るんだから別に感染したって構わないんだよ 抗生物質飲んだ方が早く治るし
男は自覚症状が出ない方がよっぽど不味いんだ
プロイセンの軍事思想家カール・フォン・クラウゼビッツは、こう記した。「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にすぎない」。クラウゼビッツの死後、1832年に出版された著作「戦争論」から、ほぼ全ての陸軍将校が学ぶ一節があるとすれば、それは、武力紛争の目的を定義したこの言葉である。
1月3日朝、米軍がベネズエラを攻撃し、独裁者ニコラス・マドゥロ氏を拘束して米国に連行し刑事訴追するというニュースを耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
理由は単純だ。ベネズエラへの攻撃は、19世紀の世界秩序が崩壊する前、2度の壊滅的な世界大戦が起こる前、そして米国がまさに実行したような国家の行動を阻止するために設計された国際法と外交体制が生まれる前の、異なる時代を想起させるからだ。
あらゆる国家が決定すべき最も重要な課題の一つは、いつ、そしてどのように、戦争を遂行するかである。ちなみに、クラウゼビッツを道徳観念のない戦争推進者と見なすのは誤りだ。彼はこの概念を発明したわけではなく、当時の世界を描写したに過ぎない。彼の言葉は、人類史の大半において主権国家が戦争をどのように捉えてきたのかを端的に説明している。
強国が「戦争は政策の延長に過ぎない」という原則のもとで行動する時には、マフィアのボスのような振る舞いに陥りやすい。弱い国とのあらゆる相互作用には何らかの形で武力の脅威が伴うことになる。素敵な国ですね。もし何か起きたら残念ですね、という具合に。
これは空想ではない。トランプ米大統領はアトランティック誌との電話でのやりとりで、マドゥロ氏の副大統領を務めたベネズエラの新たな指導者デルシー・ロドリゲス氏を脅した。「彼女が正しいことをしなければ非常に大きな代償を払うことになるだろう。おそらくマドゥロよりも大きな代償だ」と述べた。
外交と経済的圧力は、依然としてほとんどの場合、強国がとる最初の手段である。しかし、意図した成果を上げられなかった場合に次に何が起こるかは、ベネズエラでの米国の攻撃の映像を見ればわかるだろう。
しかし、クラウゼビッツ的な見方は、国家とその指導者たちにとって唯一の選択肢というわけではない。国際関係にはより優れたモデルが存在する。それは悪の存在と国家の利益という現実を認めつつ、平和と人命を守るための境界線を引くものだ。
人類はクラウゼビッツとアクィナスの間を揺れ動いてきたのだと、筆者は分析します。歴史を振り返りつつ、今回の米トランプ政権のベネズエラ攻撃をどう読み解くのか。「戦争は政治の延長」の先にある世界とは……。
13世紀に書かれた「神学大全」でアクィナスは、後に「正戦論」として知られる三つの基本要件を提示した。
第一に、戦争は主権者の合法的な行使によって遂行されなければならず、野心的な個人の私的な冒険主義によってはならない。
第二に、戦争は正当な大義に基づかなければならない。例えば、国家の自衛や集団的自衛は明らかに正当である。
第三に、正当な目的、すなわち善を推進し、悪を回避しなければならない。
戦争の形態の変遷を考える一つの方法は、人類がクラウゼビッツとアクィナスの間で揺れ動いていると捉えることだ。強い国は弱い国に自らの望みを押し付け、やがては強国が互いに押し付け合おうとする。必然的に大惨事が起き、アクィナスに立ち返る。
この揺れ動きの結果は、実際に歴史の長い流れの中で確認できる。紛争による世界の死者数を分析すると、戦争は常に存在するものの、その激しさは強弱を繰り返していることがわかる。極度の苦痛と死の時代は、比較的平穏な時代を経て、再び恐怖の時代へと続く。
第1次世界大戦以降の歴史を考えてみよう。塹壕(ざんごう)戦での絶え間ない殺戮(さつりく)の後、世界は侵略戦争を禁止し、平和を維持するための国際機関である国際連盟を設立しようとした。
国際連盟は、米国が加盟を拒否したことも一因となって失敗に終わり、さらに恐ろしい世界大戦を経て、今度は米国主導のもとで世界は再び試みた。
アクィナスの思想は国連憲章の随所に反映されている。憲章第2条は侵略戦争を禁止し、51条は大国を抑制するための個別的・集団的自衛権を認めている。そして第5章は平和維持のために安全保障理事会という機関を設立した。
この体制が完璧だとは誰も言わないだろう。だが、第2次世界大戦後も侵略戦争が起きる中で、この体制は主要な目的を達成してきた。世界は大戦を免れてきたのだ。
ただ、アクィナスのモデルは、二つの敵と戦わなくてはならない。権力への願望と記憶の風化だ。正戦論は、強者の自制を求めている。大国に自らの願望を押し付けることを控えさせ、短期的な国益より、国際平和と正義という長期的な目標を優先させることさえ求める。
ここで記憶の風化が作用する。人々が世界大戦を記憶している間は、自制はより説得力を持つ。国連とNATO(北大西洋条約機構)をつくった人々は、2度の戦争を経験していた。その意味で、侵略戦争に対する道徳的議論は、現実的な意義を持つ。
世界は、力への願望が国際情勢を支配する結果を目の当たりにしてきた。指導者たちは、最も壊滅的な紛争がごくささいなきっかけから始まることを知っているし、知るべきである。
例えば、1914年にガブリロ・プリンツィプがサラエボでフランツ・フェルディナント大公を狙撃し、オーストリア・ハンガリー帝国が小国セルビアに軍を動員した時、1600万人以上が命を落とす戦争になることを、いったいどれほどの世界の指導者たちが察知していただろうか?
写真・図版
サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公と妻の暗殺事件を報じる朝日新聞紙面(1914年7月30日付)
記憶が薄れるにつれ、クラウゼビッツのモデルはより魅力的に映る。その一因は、まさにベネズエラで起きたように、即効性のある結果をもたらし得るからだ。
とはいえ、トランプ氏のベネズエラ介入に激しく反対する人々でさえ、マドゥロ氏の支配を美化すべきではない。彼は腐敗した暴力的な独裁者であり、国民を抑圧し、貧困に陥れた。
経済指標がその実態を物語っている。マドゥロ政権が発足する前年の2012年、ベネズエラの国内総生産(GDP)は3720億ドルを超えていた。それが、2024年には1200億ドル弱にまで急落した。壊滅的な崩壊だ。
マドゥロ氏が権力を維持できたのは、民主主義を無視したからに他ならない。選挙監視員たちによると、2024年の選挙で、3期目をめざしたマドゥロ氏は30ポイント以上の差で負けていたとされる。対立候補のエドムンド・ゴンサレス氏は65%を超える票を獲得し、マドゥロ氏はわずか30%強だった。しかし公式集計ではマドゥロ氏の勝利が宣言された。
ただ、GDPの数値や得票数だけでは、マドゥロ政権が人々にもたらした苦難を語るには不十分だ。2014年以降、貧困や汚職、抑圧から逃れるために約800万人のベネズエラ人が国外へ脱出した。これはマドゥロ氏が大統領に就く以前の人口の4分の1以上に相当する。
トランプ政権は、マドゥロ氏を権力の座から追放することが米国の国益に最もかなうとの判断を下し、議会の承認を得ることなく、完全に独自行動をとった。
写真・図版
米フロリダ州で2026年1月3日、記者会見に臨む米国のトランプ大統領。後ろにいるのはルビオ国務長官=AP
第一に、トランプ氏は、米国法の要件を無視し、一方的に行動した。議会と協議せず、宣戦布告も取り付けなかった。彼は、ただ自らの権限だけで、主権国家を攻撃したのだ。
マルコ・ルビオ国務長官は、政権の行動は戦争行為ではなく、「法執行活動」であり、国防総省は容疑者を逮捕する公務員たちを守っていたにすぎないと主張している。
この弁明は笑えるほどにお粗末だ。この理屈では、大統領は敵対する指導者を起訴し、指導者の逮捕に必要な大規模な軍事力は単に法執行を保護しているだけだと主張することで、事実上あらゆる戦争を法執行活動に変えることができる。これは議論ではない。言い訳だ。
第二に、トランプ氏は開戦事由も、国際法や国連憲章が認める正当な理由もなしに攻撃を仕掛けた。ハーバード大教授で、ブッシュ政権(子)下で司法省法律顧問局次官を務めたジャック・ゴールドスミス氏が指摘したように、(国連)憲章の命令を執行する明確な方法がないとしても、この攻撃は明らかに憲章に違反している。
第三に、独裁者を権力の座から追放することは正当な目的になりうるかもしれないが、民主的に選出された野党指導者を無視するというトランプ氏の決定は、非常に問題である(編集部注:トランプ氏は15日にベネズエラの野党指導者マリア・コリナ・マチャド氏と会談した。)。腐敗した政権の残党が、米国企業の石油取引交渉の要求に従い、依然として国を統治していることは、自由と民主主義を犠牲にして腐敗と抑圧を永続させる危険性がある。
これらは何も新しいことではない。歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、トランプ氏のベネズエラへの攻撃は、第1次世界大戦の惨事以前の時代の政治と外交の復活という、より大きな全体像の一部であると述べている。
19世紀後半の南北戦争後に米経済が急発展した金ぴか時代の砲艦外交は、米国が中南米を支配していたことを確かに意味していた。それは、この地域に植民地に似た現実を押し付けた。各国は少なくともある程度の米国の監視の下で発展し、主権は米国が認める範囲にとどまった。
トランプ氏のベネズエラ攻撃もまた、何もないところから出てきたわけではない。昨年12月、政権は国家安全保障戦略の文書を発表し、西半球を最優先に位置づけた。
この文書はアジア、欧州、中東に先立って米州を扱い、「西半球における米国の優位を回復するため、モンロー主義を再確認し実施する」と宣言した。
大統領はすでに、19世紀の米国外交政策を復活させる自らの政策に「ドンロー主義」という名を付けている。
トランプ氏はドンロー主義を熱心に推し進めている。カナダとメキシコに対して経済戦争を仕掛け、カナダは米国の51番目の州になるべきだと発言した。NATOの同盟国であるデンマークの主権領土の一部であるグリーンランドにも野心を抱いている。
写真・図版
デンマークのコペンハーゲンの米国大使館前で2026年1月14日、グリーンランドはグリーンランド人のものだと抗議する人々=ロイター
ここで再び、影響圏による世界支配と、「政策の延長としての戦争」という非道徳的アプローチの致命的な欠陥に直面する。小国は強国に支配されることを望まず、強国はライバルの台頭を望まない。故に同盟を結ぶ。1914年、セルビアにはロシアが、ベルギーには英国がいた。1939年にはポーランドにフランスと英国が味方した。
なぜ南米諸国が他国との緊密な関係を求めるのか、米国人が疑問に思うのならば、むしろ彼らと米国との歴史的経緯や、南米の人々がモンロー主義の攻撃的復活をどう捉えているかを問うべきだろう。
一つは、トランプ氏がベネズエラ介入で先例をつくったというものだ。ロシア、中国、イランといった国々は、自らの勢力圏でその先例に従おうと躍起になるだろうし、我々が取ったのと同じ手法を敵対国が自らの勢力圏で取っても、我々に異議を唱える資格はなくなる、というものだ。
しかし、ウラジーミル・プーチン氏のロシア、習近平氏の中国、革命体制のイランは、正戦論や道徳的議論などみじんも気にかけたことがない。彼らがある程度抑制されているのは、抑止力によるものであり、もし抑止力が失敗すれば、純粋な軍事力による。
もう一つの議論は、正戦論が決して全会一致で受け入れられることはないことを認めるものだ。国連憲章が往々にして実践的というより理想論的なものにならざるを得ない運命にあることを認識するものだ。
この議論は、世界秩序の存続が強国に依存するわけではないが、米国という最大の強国には依存していることを認識している。言い換えれば、我々の国がアクィナスに傾倒していることが、クラウゼビッツを遠ざけているのだ。
安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、米国・英国・フランスの3カ国だけが国連憲章と国際法に従う状況で、我々はかろうじて世界秩序を維持している。しかし、もし米国がロシアや中国と同様の武力紛争や国際関係へのアプローチを採用すれば、西側の戦後コンセンサスは完全に崩壊する。
写真・図版
ベネズエラの首都カラカスで2026年1月6日、3日前に米軍に拘束されたマドゥロ大統領の解放を求めるデモのそばに「トランプ:殺人者 誘拐犯」などと書かれた落書きがあった=AP
「アメリカ第一主義」は必ずしも孤立主義ではない。主権国家の指導者を逮捕し、その国を「運営する」と宣言することに孤立主義的な要素はない。だが、それは短絡的で、正義と平和を犠牲に、国家権力の高揚感を追い求めている。
トランプ氏がいま、まさにその高揚感に浸っているのは明らかだ。1月4日の夜、米NBCは、トランプ氏が依然として「我々はベネズエラを運営していく」と発言していると報じた。トランプ氏は「彼らが従わなければ、第2の打撃を加える」と付け加えた。
トランプ氏が考えていたのはベネズエラだけではない。「コロンビアも非常に病んでいる」、キューバは「崩壊しつつある」と彼は述べた。さらにイランが抗議デモ Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
医者が身内等に厚意でタダで治療や手術を施したら贈与税が発生しうるか?
dorawiiより
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「弱肉強食」という価値観を内面化しようとする人たちに対して、「自分を強者だとでも思ってるのか」「その弱肉強食じゃない秩序の中で生きてきたくせに、今さらそんな価値観を受け入れるなんて痛々しい」と冷笑する声がバズってる。けれど、正直に言って、この手の反応は説得としてはほとんど意味がない。ただ気持ちよく嘲笑しているだけで、なぜそういう価値観が選ばれつつあるのかをまったく考えていない。
こうした冷笑には、暗黙の前提があるように思う。ひとつは、「弱肉強食を受け入れようとする人間は、自分がその世界で得をする側、つまり強者だと勘違いしている」という見方。もうひとつは、「弱肉強食の価値観は、どうせ強者にしか利益をもたらさない」という思い込みだ。でも、この二つは本当に自明なのだろうか。
少しでも囚人のジレンマを現実寄りに考えてみれば、「弱肉強食的な判断をする=自分から損をしに行く」という単純な話ではないことはすぐ分かる。弱者と強者が存在する社会で、双方が協力して法や秩序を守ることが、全体として一番得をする、という判断自体は今でも合理的だと思う。ただ、その前提が崩れたと感じられた瞬間に、話は変わってくる。
もし現実の政治や社会の動きを見て、「強者はもう法の秩序なんて守る気がない」「ルールを守るのは弱い側だけだ」と判断したなら、弱者であっても戦略を変えようとするのは自然なことだ。その結果、得られる利益が全体最適からほど遠い、しょぼいものだったとしても、「何もしないまま一方的に奪われ続ける」よりはマシだと考えるのは、そこまでおかしな話ではない。
そう考えると、弱肉強食の価値観を内面化することを、即座に「痛々しい」「滑稽だ」「非合理だ」と切り捨てるのは、あまりに雑だと思う。それは倫理の問題というより、状況認識の違いと、それに基づく戦略選択の差にすぎない。
もちろん、「強者に対して法の秩序を守るよう働きかけるべきだ」「それが全体として一番良い結果を生む」という主張は、理屈としては正しいし、否定されるべきではない。ただ、個人の意思決定のレベルでは、「それが本当にうまくいくのか」「期待していいのか」という疑念が常につきまとう。だからこそ囚人のジレンマという問題が成立するのであって、協力を選べない囚人を「愚かだ」と一蹴するのは、問題設定そのものを理解していないように見える。
さらに言えば、今の状況で「強者は法を気にしていない」と感じられ、その是正を求める働きかけが少なくとも目に見える形では失敗し続けているように見えるなら、別の選択肢を取ることは異常でも退廃でもない。むしろ、それが自然な反応になりうるからこそ、かつて「自然状態」という概念が語られたのではなかったか。
そう考えると、弱肉強食を内面化しようとする人たちを、前提の検討もせずに冷笑する言動は、分析としても批評としてもかなり空虚だ。ただ「自分は分かっている側だ」という安心感を確認したいだけで、現実に起きている判断の変化や不安、そしてそこにある合理性を直視していない。
すまん、舐めてるのかもしれんけど、具体的に何がボトルネックになってるの?
そのAirが仮にM4 Maxで、128GBメモリで、SSDが8TBで、TB5が3ポートでHDMIとSDが挿せて、ディスプレイ4枚接続できて、ファン付きで、Pro同等ディスプレイだったとしても、「下位機種を選ぶような企業の心意気が気に入らない」という意見もありうると思うし、そうではなく「メモリさえ64GBくらい積めれば大丈夫だった」とか「支給されたのはM1の16GBだけど、せめてM4 24GBなら」「CPUとメモリ帯域的にMacBook Pro のM1 Max 32GBくらいは欲しかった」みたいなパターンもありうるかなと思って。
はてサの物言いは、何事かにつけて問題だとか、間違っているだとの主張する割に、危機感が全く無いよね。
危機感があるなら冷笑しとる場合じゃ無いってのが普通の人間の反応だと思うのだが。
自分らの理想がどのような経緯からどのような結果を生みうるかについて一切の言及が無い。
理念の解説としても発端となる事案に対する言及としても半端で、
はては信仰の表明に留まって事態に対する結論が無く、こうなってはもはや机上の空論ですら無い。
危機感を持って向き合っている際は、このような説得的でない言及で満足することは考えづらい。
当人は説得的な言及をしているつもりかもしれないが、であれば片手落ちです。
嘘がなければ説得可能か?
正しければ説得可能か?
これはどちらも否だからです。
なぜなら、昨今の話題でいえば、
台湾が中華人民共和国に蹂躙されることを是とするか否とするかにより、
このため、これを伏せたままに終わった言及によって、
はてサにとっての真実を押し付けることは不可能あるいは欺瞞的と捉えられることでしょう。
当然、侵略を是とするならその時点で世論の納得を得ることは難しくなることでしょう。
否であるなら否であるだけの蓋然性を持たせた説明が必要であり、決してぼかしてはいけない要素であるのですが、
そこにすら至らない言及で満足してる向きが多い時点で論外なのです。
同盟国の危機に際して出撃することを言明しない、はぐらかす、消極的であるメッセージを発信する。
これを安全であると断言する人々がどういう了簡であるのか、誰にもわからないのだから説得できようハズも無い。
というか、言ってる当人が自分の主張がこのようになることを解って無い可能性さえある。
このザマで馬鹿にされたって、そりゃあ何も言い返せませんよ。
なんなら言い返す価値さえも無い。