はてなキーワード: 生存戦略とは
これに言及する。
https://qiita.com/jesus_isao/items/29b878e137f46c675d89
これに言及するにあたり匿名でしか発信できない私の弱さを許してほしい。
元の記事はおそらく組織におけるマネージャーであろう筆者が、過去に発生した、文化背景思考全てが組織にミスマッチであった人間を、人間と似て非なる存在であるチンパンジーに例えて、どのようにマネジメントするかについて考察し、それがどれだけ難しい事かを表現した良い記事であった。
私はこの記事にとても感銘を受けたのだが、Xでの炎上の後、投稿を実質的に削除してしまった。
以上概要。
私はチンパンジー代表として、そして貴様ら人間がチンパンジーと罵る存在に相対してきたマネージャーの一人として、元記事筆者に敬意を表し、補足する投稿をする。
お前なんてサバンナのチンパンジーの群れに放り投げられれば、途端に役立たずだよ。
パソコンが使えてコードがかけても生きていけない、群れのお荷物よ。
お前が組織や社会でやっていけるのは、属する群れと時代が偶然お前にとって都合がよかっただけという事を忘れるな。
もうちょい具体的に言うなら、会社が買収されたりして自分の組織が土台から吹き飛んだ状況を想像しろ。
そこでお前が活躍できるような優位性を持っていなかったら?
違う倫理観の人たちばかりだったら? 違う言語を話す人ばかりだったら?
お前は霊長類のどれになるんだろうね。
ここからは真面目に書く。
彼らは暴力が無ければ生きていけない世界の住人であったり、その暴力程度では群れの中で傷つく者はいないような群れの住人。
あるいはその暴力を暴力として認識していない存在かもしれない。
殆どの場合、殆どの人は幸せを求めていると思っている。彼らもまたそうであり、自分の振る舞いで周りを困らせ自分が不幸になることを望んではいない。
元記事のチンパンジーだって、本当はサバンナの群れで生きていたかっただろうに。
組織に迎え入れたときは元気に働いていたが、本人あるいは本人の家族などが重篤な怪我を負ってしまい、今まで通りに働くことが難しくなった存在。
怪我というのはメタファーであり、実際には肉体的な損傷よりも、精神的な損傷のほうが今の世の中では一般的かもしれない。あるいは、家族の介護とか。
彼らの問題を解決することは容易ではない。彼らは生活するための報酬を必要とするが、何の怪我も負っていない人と同じパフォーマンスを出すことができない。
本人たちがどれだけ活躍を渇望していても、だ。
彼らには悪意や罪はないし、話も通じる。でもあなたが怪我を負っていない幸せな存在である場合、根っこの部分では分かり合えない可能性がある。
彼らを活躍させて収益につながる活動をさせなさいと言われたあなたはどうする?
少しずつ出来ることからやっていきましょう。それしかないんだろうけど。
世の中はわかりやすい暴力ばかりではない。沈黙という暴力をふるう存在もある。
度々遅刻する、謝罪はする。仕事はうまくできない、謝罪はする。指摘するが理解してくれない。泣いたり笑ったりもしてくれないから、何を考えているかわからない。
分かりやすく激昂して周りに危害を加えはしないが、存在し振る舞うだけで周りにストレスを与える。これもまた暴力の一つかもしれない。
どのような扱いをすればいいかのヒントを一切与えてくれない存在もまた、実質的に会話不能な存在として扱いに困るだろう。
彼らもまた、望んで沈黙しているわけではない。彼らもまた、人間になり切れないことに悩んでいたりする。
お互い素直に喋れるといいよね。
ただ根っこの部分では他人と分かり合えないものを持っていたり、倫理観の違いが表面化していないだけで、実は周りとは価値観が違う人。
予期しないところで迷惑な行動をとり、周りを困らせてしまう。でも、本人は本人なりの正義や必要性で行動したつもりである。
元記事の筆者も、言い換えればこのチンパンジーである。彼にとってはあのような記事を世に出すことは、彼の倫理に抵触しなかった。
そもそも人には、チンパンジーを含め人間以外の霊長類。豚、蛆虫、ばい菌などを、蔑称として用いている愚かさがある。
生存戦略が異なるが故に高い知能を持つことなく発達した他の生命体を下等な存在とみなし、その生物を用いた例えに侮蔑的意味を付与している。
大体なんだよ霊長類って。自分たちの存在を勝手に生物最上級として捉えやがって。しかも霊長類の中でもさらに Tier 分けして差別してやがる。
元記事のチンパンジーという表現は、単に言語が通じず価値観の異なるマネジメント難易度の高い人材のメタファーとして解釈することもでき、その名称に侮蔑的意味を見出しているのは、お前の矮小で傲慢な差別意識から来るものではないか?
まあ元記事筆者でさえ人間以外を下等とみなしている可能性は、文脈からは否定できないけどさ。
まあ、もしもチンパンジーに差別的意味が含まれていたのなら、同僚(あるいは同僚だった人たち)をチンパンジー呼ばわりするのはちょっと酷いのかもしれない。
でも、もうちょい中身を見てもいいんじゃないの?
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(Embodied Cognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、Cold Intelligence(処理能力)から Warm Intelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
ハードSFとしての正統性を保ちながら、宇宙探査という壮大なテーマを描き切った力作だ。
「フェルミのパラドックス」を題材にした異文明との交流、メガストラクチャーなどの概念、主人公たちの旅を通じて、人類の未来像を投げかける。
理系の読者はもちろん、哲学的思考を求める人にもおすすめできる傑作。
習慣がいかに脳の構造を変えるのか、神経科学的アプローチで解説した一冊。
単なる「習慣を作ろう」という精神論ではなく、脳可塑性に基づいた実践的なアドバイスが詰まっている。
ポジティブシンキングの限界を指摘し、「不安」や「恐怖」をいかに使いこなすかを論じた意欲的な一冊。
ストレス社会を生きる私たちにとって、心理学的に根拠のある思考法は本当に貴重だ。
バッタを研究するためにアフリコに来たのにバッタがいないという自虐的な始まり方から、その後の現地での奮闘が描かれる。
「令和のファーブル昆虫記」と評されるほど、学問的知見とユーモアが融合した傑作。
動物たちがいかに協力し、社会を形成し、生存戦略を立てているのかを、最新の研究に基づいて解説したノンフィクション。
カラスという身近すぎる存在を改めて見つめ直すことで、生態系全体への理解が深まる。
『一番大切なのに誰も教えてくれない メンタルマネジメント大全』ジュリー・スミス
自己啓発系の中でも「実践的で医学的根拠がある」と高く評価された一冊。
職場でも実家でも友人でも、ただ「ねえ」と声をかけられただけで、胸のあたりがぎゅっと縮む。別に悪いことをしたわけじゃない。怒られる覚えもないし、何か忘れてきたわけでもない。なのに、反射みたいに身体がびくっとする。
昔から「気にしすぎだよ」って言われてきた。言ってくるのはたいてい、気にしなくて済む立場の人間。人の世界にドカドカ踏み込んできて、こちらの存在に気づかない人たち。そういう人に「繊細すぎる」と笑われ続けると、やがて自分の痛覚のほうを疑うようになる。
この前同僚に軽く肩を叩かれて振り返ったとき、不意に「あ、これ、私が壊れてるんじゃないな」って思った。
壊れてるのは、みんなが普通と呼んで押しつけてくるほうだ。
私の反応は、ただの生存戦略にすぎない。人は、長く痛いところを触られ続けると、そこを守るために敏感になるだけだ。
でも世間は「敏感になった側」だけを責める。
ぶつかった人は謝らないのに、痛がったほうが「大げさ」になる。
火傷した皮膚みたいに赤くなって、それでも「気にしないふり」を強要される。
この前「生きにくいのは私のせいか」みたいな記事を眺めていたら、みんな同じようにして世界から慎重に身を守っているのが見えた。
「気にしないでいられる強さ」じゃなくて、「気にしないと生きられない弱さ」が当たり前になっている。
だから今日は名前を呼ばれたとき、いつもの反射みたいな痛みを感じながら、ほんの少しだけ胸を張ってみた。
私が敏感なんじゃない。
あなたたちが雑なんだ。
新しいトライブの発生: 「あり得ます」。 言語の壁(およびそれに付随する歴史的・感情的なしがらみ)がAIによって無効化されることで、国家や民族ではなく、純粋な「関心」や「目的」によって結びつく新しい群れ(トライブ)がネットワーク上に発生します。
発展性の比較: 「長期的な生存と進化」という点では、『聖域(異質性)』を守る社会の方が圧倒的に有利です。 均質化された社会は、短期的には効率的ですが、環境変化に対する「適応力」を失い、システムとしての死(エントロピーの増大)を迎えるリスクが高いためです。
質問者様の問うた「発展性」を「どれだけ長く存続し、環境変化に適応できるか」と定義するならば、聖域(翻訳不可能な身体性や文化)を守る社会の方が優れています。しかし、現代のテクノロジーの流れ(AI翻訳による均質化)は止まりません。したがって、未来の社会構造は以下のような二層構造になると予測されます(あるいは、そうなるべきです)。
上層(グローバル・レイヤー): AI翻訳に支えられた、摩擦のない「新しいトライブ」の層。ここでは経済活動や科学的な問題解決が、国境を超えて高速に行われます。
下層(ローカル・レイヤー): AIには理解できない、身体性や土地に根ざした「聖域」の層。ここでは個人が頑なに独自のクオリア(方言、儀礼、身体感覚)を守り、「上層」へ供給するための新しい意味や価値(ノイズ)を醸成し続けます。
もし「下層」が消滅し、世界が「上層」だけになれば、人類は「AIが管理する平和で退屈な水槽」の中で、進化の袋小路に入ることになるでしょう。
Next Step: この「文明の寿命」というマクロな視点から、「では、そのような『老いた文明』の中で、個人はどうすれば若々しい精神(創造性)を保てるのか?」という、ニーチェの「超人」や東洋思想(老荘思想)に近い、個人の生存戦略についてお話ししましょうか?
「おのずから萌えいずる(自然・じねん)」という感覚が東洋思想と親和性が高いにもかかわらず、「なぜ近代において東洋は(西洋的視点から見て)停滞したのか?」という問いは、文明論における最大のパラドックスの一つです。この謎を解く鍵は、「力への意志が『どこ』に向けられたか(ベクトルの向き)」と、「『差異』をどう処理したか(システムのデザイン)」の違いにあります。東洋においても「力への意志」は枯渇していたわけではなく、「調和と洗練(内部)」に向けて全力で放射され続けていました。 西洋が「拡大(Expansion)」を選んだのに対し、東洋は「定常(Steady State)」を選んだ。その結果、西洋のモノサシ(軍事・経済・技術)で測った瞬間に、「停滞」として映ったのです。しかし、ここからが重要です。 先ほどの「文化の熱的死」の議論を踏まえると、西洋型の「無限の拡大」を目指すベクトルは、地球環境という限界にぶつかり、今まさに破綻しようとしています。ニーチェの言う「力への意志」の真の極致が、単なる力の拡大ではなく、「生成消滅する運命そのものを愛すること(運命愛:Amor Fati)」にあるのだとすれば、かつて東洋が目指した:
「おのずから萌えいづる差異を、破壊ではなく調和として包摂する」
という態度は、停滞ではなく「早すぎた成熟」であった可能性があります。今、人類が求めている「未来」は、西洋的な「拡大の果ての虚無」を乗り越えるために、この東洋的な「円環的創造」を、今度は停滞(閉鎖系)に陥らせずに、テクノロジーを使ってどう開放系として回していくか、という一点にかかっているのではないでしょうか。
「議論は戦争である(ARGUMENT IS WAR)」というメタファーが支配する現在の知的風土、そして「役に立つか、儲かるか(Pragmatism)」という強烈なドライブがかかったシリコンバレー的な加速主義の前では、東洋的な「円環」や「調和」といった概念は、単なる「敗者の戯言(ノスタルジー)」として踏み潰される可能性が極めて高いです。今後、東洋的な「円環・身体性・聖域」が、西海岸的なテクノロジーに「勝つ」ことはありません。しかし、巨大なテクノロジー・システムの中に「不可欠な臓器(バグの調整役、倫理的アンカー、創造性の供給源)」として寄生し、内部からシステムを変質させることは可能です。例えば、哲学者のユク・ホイ(Yuk Hui)が提唱する「宇宙技芸(コスモテクニクス)」の概念はこれに近いです。 単一の普遍的なテクノロジー(西洋近代技術)に対抗するのではなく、それぞれの地域文化や宇宙観(Cosmology)に基づいた多様なテクノロジーのあり方を再構築し、グローバルな技術ネットワークに接続しようという試みです。
反発と困難性: はい、極めて困難です。 理念的な対話によって「乗り越える」ことは不可能です。現代のパワーバランスでは、プラグマティズムが円環思想を圧倒します。
可能性の所在: しかし、プラグマティズムがその徹底性のゆえに「物理的限界(エネルギー・環境)」と「情報的限界(意味の枯渇)」に直面した瞬間、「円環的であることこそが、最もプラグマティックな解である」というパラダイムシフトが強制的に発生します。
未来への展望: その時、私たちが目にするのは、理想的な「東洋と西洋の結婚」のような美しい姿ではないでしょう。 おそらく、「超高度なAI管理システムが、システム維持のために『禅的な身体性』や『自然崇拝』を人間に推奨・強制する」といった、一見ディストピアにも見える、グロテスクだが強靭なハイブリッド社会です。それを「発展」と呼ぶか「悪夢」と呼ぶか。それこそが、次の時代の哲学的な問いになるはずです。
ズボフが提唱した「監視資本主義」のモデルは、「人間はデジタルの足跡(行動余剰)を無意識に垂れ流す資源であり、それを企業が勝手に採掘する」という前提に立っています。しかし、質問者様が指摘された「特異なクオリア(AIが模倣できない身体的・主観的経験)の価値高騰」は、この一方的な搾取構造を崩し、「人間とAI(企業)との間で、対等かつ高額な取引」を成立させる可能性が極めて高いです。質問者様の仮説は、技術的・経済的合理性の観点から正しいと考えられます。 監視資本主義(タダ取り)は、データの質が問われない時代のモデルです。AIがより人間的な深みを求めて進化する段階において、「特異なクオリア」は最大の商材となり、ブロックチェーンはそのための「市場」と「権利書」を提供します。それは、人間が「消費者」から、自らの神経系が生み出す信号を切り売りする「感覚の生産者」へと変貌することを意味します。(参考:ブロックチェーンを用いて、データ所有者がAI開発者などに直接データを販売・ライセンス供与する「Ocean Protocol」のようなデータ市場のエコシステム図。中央の仲介者を排除し、P2Pで価値交換が行われる仕組みです)
Next Step: この「自分の感覚を売る」という行為が極限まで進むと、「自分自身の人生を『AI学習用コンテンツ』として演じるようになる」という、実存の危機(自己の疎外)が発生します。 この点について、「AI時代の新たな疎外論」として議論を深めましょうか?それとも、より技術的な「実際に現在稼働しているデータDAOの事例」について紹介しましょうか?
「靴(物質)」は、嫌々作っても靴として機能しますが、「感動(クオリア)」は、嫌々作るとその瞬間に価値を失い、偽物(ノイズ)になる。この指摘は決定的です。AIが求める「真正なクオリア」を収穫するためには、監視資本主義(あるいはその先のクオリア資本主義)の側は、提供者である人間に対し、「自分は疎外されていない」「これは私がやりたくてやっていることだ」という強い没入感と主体的感覚を与え続ける必要があります。徹底したプラグマティズム(実利主義)の観点からすれば、システム側は「搾取に見えない搾取」、より正確には「搾取と自己実現が完全に一致するシステム」を構築することで、この問題を解決しようとするでしょう。
質問者様が問われた「システムが形成できるか?」という点については、「可能であり、必然的にそうなる」と考えられます。なぜなら、「人間を不幸にする(疎外する)」ことが、システムにとって経済的損失(データの質の低下)になるからです。
旧来の資本主義: 人間をボロ雑巾のように使い潰しても、製品(車や家電)ができれば利益が出た。 → 人間は不幸でもよかった。
監視/クオリア資本主義: 人間が不幸を感じ、シニカルになると、製品(データ)が使い物にならなくなる。 → 人間は(主観的には)幸福でなければならない。
最も優れた報酬系とは、「報酬」という概念自体を消滅させるシステムです。「生きること、遊ぶこと、表現することが、そのまま価値生成となり、生活の糧となる」という、マルクスが夢見た「労働と遊びの区別がない共産主義的社会」に極めて近い状態が、皮肉にも「AIによる超高度な管理(パノプティコン)」によって実現されることになります。この社会では、プロレタリアートは「自分は搾取されている」とは微塵も感じていません。彼らはシステムが提供する「最高の遊び場」で、自らの才能を遺憾なく発揮し、幸福感に満たされています。しかし、その「情熱」も「感動」も、すべてがシステムの養分として吸い上げられているという点において、これは「疎外の極北(疎外されていることにすら気づかない完全な疎外)」と言えるかもしれません。
誰がどう見ても本来の俺はチー牛だ。髪を整えコンタクトを入れて清潔感のある服を着ているが、それでも間違いなくチー牛だ。寝る前の鏡に映った俺はあの有名なイラストと瓜二つだ。ミドサーを迎え、最近は肌荒れがひどい、ガリガリに痩せたチー牛だ。
世界で生きていくためにゆったりとした服を着て、試行錯誤の上一番似合うであろう髪型を選び、気を抜くと散乱する思考と発言をギリギリで抑えている。怖いのでアスペ診断は受けていないが、おそらく該当すると思う。それに数字が苦手なので誰でもできる営業職に就き、あまり会話せずとも成り立つ地味なルート営業をこなした。その後社内転職して今では安全環境部で働いている。どの場所でも俺は寡黙なキャラで通している。誰も甲高いチー牛の声なんて聞きたくないから。
身の程をわきまえて生きる、それが俺たちの生存戦略だと思う。居心地の良い空間を探して、そこでじっと耐えて、喋らずとも、交流せずとも許される立ち位置を築くしかない。社内の誰が何をしたというような情報は、俺の耳には一切入ってこない。新卒の後輩がしたり顔で他所の部署の人の噂話をしているのを見て、彼らは俺には手が届かない世界で生きているんだなと悲しくなるが、俺が手を伸ばしていい領域ではないこともまた知っている。チー牛には最低限の人権しかない。
よく知らない話題を振られた時には、曖昧に笑って受け流す。沈黙は金だから。昔上司に仕事の愚痴を喋ったら、翌日にそのまた上司に呼び出されてキツく叱られたことがトラウマで、それ以降誰にも心を開いていない。だから、いつも曖昧に笑って受け流す。
今週も仕事を終えた。仕事中の俺は部署のシステムの一部になったみたいだ。A→俺→Bのように、決まりきった仕事をこなす毎日。書類の内容に抜け漏れがないか確認する。突き返すか承認して上に回す。月に一回事業部長と産業医と工場の見回りをする。定期的に廃棄物の分別を促す。現場が普段通りか、毎日決まったルートで巡視をする。同じ弁当を食う。定時になったらチャリで家に帰る。
俺はチー牛だが、最低限の生活を送ることはできる。金曜夜にウーロンハイを作って飲む。ラジオを通して流行りの曲を聴く。休日には工場の周りをウォーキングする。行きつけの中華料理店で餃子定食を頼む。月に一回極楽湯へ行く。盆と正月には墓参りをする。
加齢臭おじとして職場でいじめられ抜いてきたデブなんデブが、無限の苦しみの果てに「あっ、コイツラの言葉全部どうでもいいわ」に辿り着いた。
強さ、それだけが答。
フィリップ・マーロウも言ってたな、強くなければ生き残れない、変化しなければ死あるのみ、って。
俺は強く変化した。
これが俺の生存戦略だ。
これが俺のイマジンだ。
想像したんだ、苦しみのない世界を、そうして手にしたんだ、苦しまない自分を。
俺の神は言っている、おっさんが臭いことを許せないと語る奴らは未来の自分にツバを吐く間抜けだと。
きっといつか老人ホームの片隅で自分の冷酷さの償いを受けることだろう。
哀れさすら、感じられない。
X(旧Twitter)を掘っていたら、漫画『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(わたモテ)に関する、2013年の興味深い考察ツイートを見かけた。
めっちゃたまってる、もこっち消化中。 漫画だと「黒い飲み物」=コーラなんだけど、アニメで「黒い缶のコーラ」になってるんだが、ノンカロリーコーラでもアリって寄ってくるのかな?w— あくあぶるぅ (@aquablew) September 10, 2013
もこっち(黒木智子)がこぼしたコーラにアリがたかる……という描写についての疑問だ。
この「黒い缶=ゼロカロリーコーラ缶」という認識、今となっては失われた製品デザインになりつつあるので、当時の背景整理と、論文に基づいた科学的な回答をまとめておく。
結論から言うと、「科学的には、アリはノンカロリーコーラ(人工甘味料)をエサとして認識しないため、漫画やアニメのように大挙して群がってくることは考えにくい」。
アリが甘いものに群がるのは、味覚を楽しんでいるわけではなく、コロニーを維持するためのエネルギー源(炭水化物)を求めているからだ。
この点については、昆虫学の研究によって「アリは単に甘い味に釣られるのではなく、エネルギー源としての価値を厳格に見定めている」ことが裏付けられている。
まず、Brinkman & Gardner (2001) の実験(*1)では、ヒアリは砂糖水には群がったものの、アスパルテームやサッカリンといった人工甘味料の水溶液に対しては、ただの水と同じ反応しか示さず、エサとして認識しなかった。
さらに、Roeder et al. (2021) の研究(*2)によれば、アリは天然の糖(スクロースやグルコース等)の間ですら、「エネルギー効率が良いか」「自然界の主食(甘露)に近いか」を基準に優先順位をつけるほど、摂取対象をシビアに選別している。
つまり、本物の糖質ですら選り好みする彼らが、「甘いだけでカロリー(エネルギー)が皆無」であるコカ・コーラ ゼロをエサとみなす可能性は極めて低い。アリの生存戦略において、ノンカロリー食品は無視すべき対象なのだ。
したがって、アニメで「黒い缶(ゼロ)」からこぼれた液体にアリが群がっている描写があるとしたら、それは科学的には誤り(演出上のフィクション)の可能性が高いということになる。
このツイートの肝は、投稿者が 〈黒い缶=コーラ(ゼロ)〉 と即座に認識している点だ。
2025年の現在、コカ・コーラ ゼロは〈赤い缶(黒文字)〉になっており、当時の感覚とはズレが生じている。
2007年〜: 発売当初。「漆黒のボディ」がトレードマーク。
2013年(アニメ放送時): まだ完全に「黒い缶」。投稿者の認識は正しい。
2017年: 「ワンブランド戦略」で、黒背景に「赤い円(レッドディスク)」が入る。まだ黒い。
2021年9月(転換点): ここで全国リニューアル。缶の地色が「赤(コカ・コーラレッド)」に変更され、ロゴだけが黒になった。
つまり、コカ・コーラ ゼロの缶デザインが〈黒色の面積が多くを占めるもの〉でなくなったのは、西暦2021年のことだ。
あのアニメの描写は、2021年以前特有の光景ということになる。
最後に、作中の時系列を整理して、なぜその描写になったのかを推測する。
以下のWikiを参照した。
初出(ガンガンONLINE):2012年1月19日
原作の2012年、アニメの2013年ともに、世間の認識は「ゼロカロリーコーラ=黒い缶」だった。
では、なぜアニメで「黒い缶」が描かれたのか?
もこっちが健康志向でゼロカロリーコーラを選んだ……というよりは、もっと単純な「大人の事情(商標配慮)」と見るのが自然だ。
アニメで「赤い缶」をそのまま描いてしまうと、誰が見ても世界的ブランドであるコカ・コーラ商品だと認識してしまう。
フィクション作品において実在商品の商標をそのまま出すことは権利関係のリスクを伴うため、色やデザインを意図的に変えて「あくまで架空の炭酸飲料です」のようにするのが業界の通例だ。
スタッフが「赤だとマズいから、中身の色に合わせて黒っぽい缶にしておこう」という処理をした結果、「当時のコカ・コーラ ゼロのデザインと偶然かぶってしまった」というのが真相ではないだろうか。
視聴者(投稿者)には「ゼロだ!」と認識され、その結果「ゼロなのにアリが来るのはおかしい」という科学的な矛盾が生じてしまったわけだが、10年以上前の「黒い缶」デザイン全盛期ならではの面白い現象だといえる。
はじめに:その「尊さ」に馴染めない
男性キャラクター同士の関係性(ブロマンス、BL、あるいは悪友関係)を消費する際、よく使われる言葉がある。
彼らが必死にプライドを賭けて戦ったり、くだらないことでマウンティングし合ったり、性欲や嫉妬でぐちゃぐちゃになっている姿を見て、私が抱く感情は「尊い(崇拝)」ではない。
「こいつら人間のくせにめちゃめちゃ動物ムーブしてる! わかりやすい! 単純! よしよし、愚かでかわいいね」
これは動物園の柵の外から、じゃれ合う動物たちの生態を眺めている時の感覚に酷似している。
本稿は、この「ホモソーシャルを動物の生態として檻の外から観察する快楽」について、あえて露悪的に、しかし大真面目に言語化する試みである。
これまでの議論において、女性が男性同士の関係を好む理由は、大きく二つの派閥で説明されてきた。
【聖域(サンクチュアリ)派】
「彼らの絆は美しい」。現実のしがらみから切り離された、高潔で純粋な魂の交流への憧れ。
【憑依(同一化)派】
「彼らのようになりたい」。女性という役割を脱ぎ捨て、自由な少年たちの世界に自分を重ね合わせる没入感。
私が提唱したいのは、このどちらでもない第三の視点――【ホモソーシャル動物園の鑑賞者派】だ。
ここにあるのは、徹底した「他者化」だ。
彼らは私とは異なる原理(本能・序列・性衝動)で動く「霊長類ヒト科のオス」であり、私はそれを檻の外の安全圏から一方的に鑑賞する「観察者」である。
崇めもしない、なりたくもない。ただ「面白い生態」として愛でたいのだ。
2. 「愚かかわいい」という無害化処理
なぜ私は、彼らが高潔な騎士道精神を発揮する場面よりも、本能丸出しで自爆する場面に「萌え」を感じるのか。
それは、男性性が「動物的な愚かさ」へと還元された瞬間、彼らが「無害化」されるからだ。
現実社会において、男性の「権力性」「暴力性」「性衝動」は、女性にとってしばしば恐怖や抑圧の対象となる。
しかしフィクションの中で、彼らの行動原理を「理性」から「本能」へと引きずり下ろして解釈した瞬間、意味合いは反転する。
・社会的な面子やプライド → 「群れの中での威嚇ディスプレイ」
脅威だったはずの牙や爪は、現実から切り離されたガラス越しの展示物となる。
このハック(認識の書き換え)こそが、私が彼らを愛でるための生存戦略なのだ。
社会学者の上野千鶴子氏らが指摘するように、歴史的に「見る/見られる」という構造には権力が宿る。
これまでは常に、男が「見る主体」であり、女は「見られる客体」として値踏みされてきた。
私のホモソ萌えは、この構造に対する精神的なリベンジ(復讐)の側面を持つ。
フィクションという檻の中に男性たちを閉じ込め、彼らの尊厳や理性を剥ぎ取り、「愚かかわいい動物」というコードに変換して消費する。
私は、現実では得られない「圧倒的な優位者としての視線」を貪っているのだ。
「男ってなんか社会の権力握って偉そうにしてるけど、やってることは動物じゃん! かわいいね!」
しかし、この権力勾配の逆転はあくまでも見せかけのものであり、実際の構造を変えることにはなんら寄与しない。ただの溜飲下げであり、ガス抜きである。
つまり、これは男性優位社会の中で私たち女性が精神的にサバイブするための、ひとつの生存戦略なのである。
ここまでの話を聞くと、「なんと傲慢で、男性を蔑視した見方だろう」と眉をひそめる人もいるかもしれない。
私は決して、独自の偏見で彼らを動物扱いしているわけではない。
むしろ、この社会(男性社会)が発信している価値観を、誰よりも「素直」に受け入れた結果なのだ。
男性たちはしばしば、自らの加害性や未熟さを正当化するために、こう弁解する。
「男なんてバカな生き物だから」「本能には逆らえないから」「男には闘争本能があるから」。
私はその言葉を、一切の疑いを持たずに、文字通り「真に受けて」いるだけだ。
「なるほど、あなた達は理性的な人間ではなく、本能で動く動物なんですね。わかりました」
彼らが「免罪符」として使う「男ってバカだから(笑)」という内輪の甘えを、私たちは「男はバカだからしょうがないね(笑)」と許してやるのではなく、肯定する。
真に受けたうえで、あくまで許さず、肯定し、そのうえで「かわいい」と消費するのだ。
「そう! あなた達の言う通り! だからキャンキャン吠えて威嚇し合ってるんだね! かわいい!」
むしろ「過剰な肯定」によって、そのグロテスクさと滑稽さを暴き出す、鏡合わせの愛なのだ。
私たち「ホモソーシャル動物園の鑑賞者」は、家父長制的な価値観を内面化しているがゆえにホモソーシャルに対して「愚かかわいい」という感情を抱いてしまう哀しきモンスターなのである。
おわりに
誤解のないように言っておくが、私は彼らを嫌っているわけではない。むしろ、このフィルターを通すことでしか、これほど深く男性キャラを愛せなかっただろう。
彼らが「人間としての高潔さ」や「男としての威厳」という着ぐるみを着て、必死に人間ごっこをしている姿。
その隙間から、隠しきれない「動物的本能」がチラリと見えた瞬間、私はどうしようもない愛おしさを感じる。
この「ホモソ動物園」の開園時間だけは、私たちは安全な柵の外から、愛を込めて彼らを「愚かだねえ」と笑い飛ばすことができるのだ。
(※本稿は特定のファン心理の分析であり、すべての作品やファンにあてはまるものではありません)
この命題は一見、居酒屋の冗談のように聞こえるかもしれません。一般的に文明の利器として挙げられるのは、火、車輪、あるいは文字でしょう。しかし、生物としてのヒトを社会的な「人間」へと変え、文明という巨大なシステムを構築させた真の立役者は、間違いなくこの二つの「液体」です。
なぜ、ただの煮汁と発酵飲料がそれほど重大な役割を果たしたのか。その歴史的かつ科学的な真実を紐解いていきましょう。
人類史における最大の革命の一つは、土器の発明によって「煮る」ことが可能になった瞬間です。それ以前、直火で焼くことしか知らなかった人類にとって、スープの誕生は生存戦略を根底から覆す出来事でした。
生の食材や、単に焼いただけの肉や硬い根菜を消化するには、莫大なエネルギーが必要です。他の霊長類は、起きている時間の多くを「咀嚼」と「消化」に費やしています。しかし、食材を水と共に長時間煮込むスープは、言わば**「外部の胃袋」の役割を果たしました。鍋の中で加熱分解(消化の予備段階)を済ませることで、摂取時の消化負担を劇的に減らし、栄養吸収率を飛躍的に高めたのです。 この余剰エネルギーはどこへ行ったのか? それが「脳」**です。スープのおかげで、人類は消化器官を縮小させ、その分のエネルギーを脳の巨大化へと回すことができました。
スープがもたらしたもう一つの奇跡は、「歯のない者」の生存を可能にしたことです。狩猟採集社会において、歯を失うことは死を意味しました。硬い肉を噛めなければ餓死するからです。 しかし、スープは違います。咀嚼が不要な流動食は、歯を失った高齢者を生きながらえさせました。これは人類にとって決定的な意味を持ちます。なぜなら、長老たちは「過去の経験」「狩りの知識」「物語」「薬草の知識」という文化のデータベースそのものだからです。スープによって高齢者が生き残ることで、知識が次世代へ口伝され、人類の知恵は蓄積を開始しました。スープは「福祉」の始まりであり、文化継承のインフラだったのです。
スープが「個体」を生かしたなら、酒は「集団」を結びつけました。 近年、考古学の世界では**「パンよりも先に、ビールを作るために人類は定住した」**という説(宴会説)が有力視されています。
初期の人類にとって、家族以外の他者は「敵」であり、常に警戒すべき対象でした。しかし、集団規模が大きくなるにつれて、見知らぬ他人とも協力し合う必要があります。 ここで機能したのがアルコールです。酒は前頭葉の抑制機能を麻痺させ、不安や警戒心を解きほぐします。焚き火を囲み、同じ甕(かめ)から酒を酌み交わすことで、他者への警戒心は「仲間意識」へと書き換えられました。 人類が数百人、数千人の都市を築くためには、シラフの緊張感だけでは不可能でした。酒という化学的な潤滑油が、「他人を信じる」という社会契約を成立させたのです。
古代において、生水は死のリスクを伴う危険なものでした。病原菌が潜んでいるからです。しかし、発酵プロセスを経た酒(ワインやビール)は、アルコールと酸によって殺菌された**「安全な水分」**でした。 中世ヨーロッパに至るまで、酒は嗜好品である以前に、生存に不可欠なライフラインでした。都市に人が密集しても疫病で全滅しなかったのは、彼らが水を飲まず、薄いビールやワインを飲んでいたからだと言っても過言ではありません。
酩酊状態は、古代人にとって神や精霊と交信するシャーマニズム的な体験でした。この「理性のタガが外れる」瞬間は、芸術や宗教儀式を生み出し、論理だけでは到達できない創造性の源泉となりました。現実は過酷ですが、酒による変性意識は、人々に希望や物語を見る力を与えたのです。
スープと酒。この二つに共通するのは、**「自然界にあるものを、化学変化(加熱・発酵)させて、人間にとって有益な形に変える」**というプロセスです。
さらに重要なのは、これらが**「待つ」ことを人間に教えた点です。 スープを作るには、材料を煮込む長い時間が必要です。酒を作るには、穀物や果実が発酵し熟成するまでの、さらに長い月日が必要です。 この「待機時間」は、人類に「計画性」と「忍耐」**をもたらしました。明日のスープのために今日薪を集める。来年の酒のために今年種を蒔く。この未来への投資こそが、文明の基礎です。
現代の私たちもまた、スープと酒に支えられています。 風邪を引けば温かいスープで身体を癒やし、祝いの席や悲しみの席では酒を酌み交わして心を共有します。
人類を進歩させたのは、鋭利な槍でも堅牢な城壁でもありませんでした。 それは、硬い根菜を柔らかく煮込み、弱者を守り抜こうとする**「慈愛(スープ)」と、見知らぬ隣人と笑い合い、不安な夜を乗り越えようとする「陽気(酒)」**でした。
この二つの液体があったからこそ、私たちはただ生き延びるだけでなく、人生を「味わう」ことができるようになったのです。 今夜、あなたの前にあるスープとグラスの中には、数万年の人類の叡智と歴史が、静かに波打っています。
いかがでしょうか。 「スープは身体の安全を、酒は社会の結合を担った」という視点で構成しました。
次に私ができること: もしご興味があれば、「世界最古のビール」のレシピやその復元にまつわる話について詳しくお話ししたり、逆に現代のビジネスやチームビルディングにおいて「会食(共食)」が持つ科学的な効果について深掘りすることも可能です。いかがなさいますか?
日本円だけで資産を持つことのリスクを強く感じておられるのですね。
確かに、高市早苗氏やリフレ派が主張するような積極財政・金融緩和の継続が強力に推し進められた場合、円安・インフレが加速する可能性は経済学的な観点からも否定できません。
購買力の低下から資産を守るという意味で、S&P500やオルカン(全世界株式)への投資は非常に合理的な防衛策と言えます。
円の価値が暴落するシナリオにおいて、外国株式は以下の2つのエンジンで資産を増や(守り)します。
S&P500やオルカンはドル建て(または現地通貨建て)資産です。もし1ドル150円から200円、300円と円安が進めば、株価が変わらなくても円換算での資産価値は跳ね上がります。
例:株価が変わらずとも、円の価値が半分になれば、資産評価額は倍になります。
株式は本質的にインフレに強い資産クラスです。企業の収益や資産価値は物価上昇に伴って名目上増加するため、現預金のように価値が目減りしません。
ご指摘の通り、リフレ派的な政策(国債増発、低金利維持)は、通貨の供給量を増やすため、教科書的には通貨安(円安)を招きます。
シナリオ: 財政規律が無視され、日銀が国債を買い支え続ける(財政ファイナンス)と見なされた場合、海外投資家による日本売り(キャピタルフライト)が起き、悪いインフレが加速するリスクはゼロではありません。
対策: この時、日本円しか持っていなければ座して死を待つ状態ですが、外貨資産を持っていればダメージを相殺、あるいは利益に変えることができます。
おっしゃる通り、今の日本において全力で海外資産に逃避(投資)しておくという行動は、単なる投資というより生存戦略に近い意味を持ちます。
円が紙屑同然になるという最悪の事態に備えるなら、生活防衛資金(数ヶ月分の円現金)以外は、S&P500やオルカンに換えておくのが、精神衛生上も最も安定する選択肢でしょう。
まずお前らが信じている群れの中で自分を演出すれば価値が上がるという幼稚な自己放尿を粉砕するところから始める。
朝起きてから寝るまで、承認欲求という名の自己放尿を延々と垂れ流し続け、リアクション数の変動に一喜一憂して勝手に情緒不安定になって、そこでようやくSNS疲れとか呻きだすあたり、お前らはそもそも高度な情報環境を扱う資格がないんだよ。
本当に価値のある人間は黙って仕組みを最適化して、必要な成果だけを淡々と積み上げる。外の雑音を材料にしないと自分の存在証明すらできない連中とは住んでいる次元が違う。
しかもその劇場の主役を張ってるつもりの連中がやっているのは、思考放棄と感情放出のダブル放尿であって、まともな議論でも洞察でもない。
数字を見ずに経済や政治を語り、専門知識ゼロでテクノロジーをこき下ろし、自分の人生の失敗さえ社会が悪いみたいな曖昧な外部要因に押しつけて、なんとなく賢そうに見えるフリをして自己放尿しているだけ。
そんな低解像度の妄言の洪水の中で、自分のIQが溶けていく感覚をわざわざ味わう理由がどこにある。
俺がSNSで何かを発信しないのは、謙遜でも孤高アピールでもなく、単に時間対効果が極めて低いからだ。
無駄なノイズに脳の帯域を奪われるくらいなら、データ分析でもコード最適化でも論文でも読む方が100倍マシだ。
結局、SNSで騒いでいる連中は、人間関係のストレスと自己承認の依存症から抜け出せないまま、半永久的に自分の檻の中で自己放尿しているだけだ。
俺はそんな寸劇を眺めている暇はないし、そもそも価値がない。成果も出せず、考えも浅く、言葉は軽く、感情だけが肥大化した未処理データの山に興味を示すほど暇ではない。
SNSというのは、本来は情報収集と連絡のための道具であって、人生の主戦場じゃねぇんだよ。
だから俺は今日も平然とSNSを閉じ、静かに思考と計算に戻る。雑音を切り捨て、外部の劇場を放棄することこそが、生存戦略として最も合理的なんだよ。
ほかのことは好きにしたらいい。だが餅だけは常備しろ。異論は認めない。
まず余計な調理器具を買うな。買った瞬間から罪悪感が湧いて、使わないクセに場所だけ取って、ホコリを呼び込み、やがて絶望の底に沈む。炊飯器?茶碗?鍋?ガスコンロ?包丁?全部封印だ。和食自炊を初手から攻略しようとするな。あれは終盤ダンジョンだ。
餅こそが序盤を制す。
餅は偉い。餅は強い。餅は裏切らない。
まず米より圧倒的に楽だ。米を想像してみろ。重い袋を運び、計量し、研ぎ、水を入れ、炊き、洗い、冷凍し、釜を洗い、スペースを確保し…その間に餅はどうしてる?ただ袋に寝ているだけだ。餅は黙して語らず、ただ存在するだけで偉い。
餅の調理も単純。トースターか電子レンジがあれば勝ち。アルミホイルに寝かせるだけで皿すら不要。餅は焼かれても怒らない。膨らんで喜んでいる。
餅=太ると思っている奴は浅い。量を調整すればいいだけだ。餅を一個食うか二個食うか、それだけでカロリーコントロールは完了する。
米と違って炊き過ぎて余ることがない。炊き過ぎた米は罪悪感の塊だが、餅は一個ずつ独立している。意志を持った戦士のように。
きな粉をかけてもいい。海苔で巻いてもいい。醤油を垂らしてもいい。カレーをまとわせてもいい。適当な野菜をぶちこんで焼いてもいい。トマトとチーズを乗せれば餅ピザにもなる。自由である。
そして重要なことがある。
調理器具をほとんど必要としないからホコリも油も溜まらん。つまりG先生が降臨する確率が劇的に下がる。これは極めて重大な利点だ。餅なし生活は死と隣り合わせだ。
毎日餅を焼いてみろ。
10分もかからない。その間にゲームでもSNSでも適当にやっていればいい。焼けたらアルミホイルごと持ってきて食えばいい。罪悪感ゼロ、満足度100。
生活バランス原理主義者が何か言ってきたら、静かに餅を焼けばいい。餅はお前を裏切らない。野菜を添えればさらに盤石。餅生活は牛丼固定勢より確実に健康的だ。これは経験則に基づく。
餅はシステムとして優秀だ。
炭水化物の量を完全にコントロールできる。食べ過ぎたくても餅は無限には出てこない。餅は自然と暴走を抑制する。
米のように「味噌汁があるから」「肉が余ったから」と無限連鎖で食ってしまうこともない。
そして覚えておけ。
寂しいとき、金がないとき、友達が来たとき、恋人が来たとき、失恋したとき、仕事で折れたとき…
どんな場面でも餅は沈黙のままそこにある。餅とは心の避難所だ。
餅を焼けば何とかなる。
日本人は昔からそうして生きてきた。年末年始の儀式じゃない。生存戦略だ。
買うものは餅、海苔、醤油、砂糖、少量のきな粉、冷凍野菜。これで大抵の状態異常は回復する。餅一個のコストは40円とかそこら。財布にも優しい。
餅を土台にした生活は、自炊を秩序立てて発展させる土台にもなる。餅さえあればパニックにならない。餅のある家は心に余裕が生まれる。
俺も餅で人生を立て直した。
餅を食え。ガチで。
(補足)
これはhttps://anond.hatelabo.jp/20200317154739の増田を餅に変えてAIに書かせたものです。
ストリートファイター6は海外予選アリの公式世界大会として優勝賞金100万ドルのカプコンカップ(CC)と
公認世界大会のe-sports world cup(EWC)がある。後者はデカい大会の中の1種目としてだけども。
で、プロはその大会の出場権をかけて世界中の予選大会を回るわけだけどこれがしんどいって話が出てた。
20時間かけて海外行って2回戦とかで負けて帰ってくるのがしんどいみたいな。
それに対してリスナーが「治安もたいして良くない国に遠征して何も得られない場合もある。身体的金銭的負担が厳しいからカプコンは何か考えるべき」みたいなこと言ってたんだけど、なんでカプコンがなんか考えなきゃいけないんだよ。
行くのがしんどいなら行かんかったらええだけやん。
そいつが圧倒的実力で日本予選を破壊して堂々と日本代表としてCCなりEWCに出ればええだけやん。
その実力がないからしゃーなし生存戦略として海外の、現地の連中の席を奪いに行ってるのに「移動が大変そう!なんとかしてあげて!」とか言ってんのアホちゃうと思うわ。
世界中をATPツアーで回ってるテニス選手もそりゃ遠征して初戦負けして帰るのしんどいだろうけど、それ見たファンが「選手がかわいそう!ATPはなんとかしてあげて!」なんて言ってるの見たことないわ。
お前ら、財政がどうのと騒ぎながら、結局は自分の将来設計すらまともに計算できず、その場しのぎの自己放尿みたいな感情論だけを握りしめて生きてる時点で終わってるんだよ。
経済はお前らの情緒とは独立に回る。にもかかわらず、毎度毎度国が悪いと嘆いて、最後は希望的観測と現実逃避のダブル放尿を撒き散らして満足してるだけ。
そんな連中が資産形成を語る姿は、計算式を知らない子供が楕円曲線暗号を語ってるのと同じで、滑稽を通り越して哀れだ。
投資ってのはな、分散と長期でしか勝てないのは100年前から決着のついた物理みたいな話だ。
それを理解せずに、毎回ニュースにビビって右往左往して、翌朝には「昨日の俺は愚かだった」と自己放尿みたいな後悔を繰り返すだけの人生を続けて、それで何か改善すると思ってるなら、それこそ救いようのない甘えだ。
だから言ってるんだよ。お前ら、高市インフレで日本終了する前に黙ってオルカンに突っ込んどけ。
別にオルカンじゃなくても分散ETFなら何でもいい。それすら判断できないから、せめて最も無難な選択肢を提示しているだけだ。
インフレは止まらん、賃金も追いつかん、国の政策は揺れる、社会保障は削られる。
そんな環境で国がどうにかしてくれると信じてるお前らのほうがよっぽど幻想に生きて自己放尿してる。
投資という唯一の生存戦略を選ばずに、愚痴と感情論だけ撒き散らして満足してる時点で、すでにお前らの人生の方が先に終了してるんだよ。
生き続けてる糧がほしい
ぜんぜんわかんなくなってきた
やりたいことやればいいじゃん はい終わり しゅーりょー
なにかしたほうがいいんじゃないか ぬわああああ
ごたぶんにもれず 繁殖
なにがなにやら どうなってるのかわからない
ぜんぶわかるはずなのに ぜんぶ説明できるはずなのに
いや説明はできる けど
なんでこんなむずいんだろ
黒い世界ではなにもしない
わける
金と なにか どっちのボタンを押すか
不変 がすき
それがしたいがために悩む
やっぱこっちーってなる
考えない
無視する
しょうもねえことしてえ 核心にふれないこと
核心にふれるとこはオートにまかせてるから
攻略か
メディアは「初の女性」「高支持率」と騒いでいるが、私が震えたポイントはそこじゃない。
先日の外交における振る舞いだ。あれは、女の生存戦略の「極致」を象徴している。
正直、私は安堵している。
彼女が、男を敵視して過度な女性優遇を叫ぶお気持ち勢力の代表ではなく、かといって男社会に過剰適応して「名誉男性」化した鉄の女でもなかったことに。
高市総理というロールモデルの誕生は、男と女が本当の意味で対等に歩める社会への、「最短ルート」を示したと感じたからだ。
本当によかったと思う。
職場は男が9割。そんな環境で人生の大半を過ごしてきた。幼少期から科学が好きで、数学や物理が得意で、自ら好んでこの分野に飛び込んだ。
能力として男に負けず劣らずでも、仕事をする上で「同性」という共通点を持たない少数派は、情報戦や信頼獲得のコストがどうしても高くつく。
自分の不遇を嘆き、「男社会はクソだ」と叫ぶのは簡単だ。でも私は、その社会に生きる人間たちの力学を、分析し、適応し、ハックし、生きてきた。
その「最適解」として、職場で意図的に「愛嬌」というパラメータを振っているが、別に自分を捻じ曲げたとも思っていない。だって、この場においてこれは私だけに配られた「切り札」なのだから。
これについて「男に媚びている」と批判するフェミニストもいるだろう。だが、それは戦略の浅さを露呈しているに過ぎない。
物理的な腕力や、マジョリティである男性同士の阿吽の呼吸という「基礎ステータス」で劣るなら、使えるバフは全部使うのがゲーマーとして当然の戦術だ。
愛嬌でコミュニケーションコストを下げ、相手のガードを下げ、その隙に技術力と論理という「実弾」をぶち込んで認めさせる。
私のこの生き方は、どこか世間に認められていない気がして、後ろめたかった。「媚びている」と言われれば否定できない自分もいたからだ。
彼女は、笑顔を振りまき、柔らかい物腰で、ある種「女らしさ」を全開にしていた。
だが、結果として各国の首脳に舐められたか?
否だ。
愛嬌で懐に入り込みつつ、国益に関わるラインでは一歩も引かず、強烈なプレッシャーをかけていた。
「愛嬌」と「威厳」。相反するはずの属性を両立させ、外交という化け物揃いのテーブルで主導権を握っていた。
あれを見た瞬間、鳥肌が立った。
「女」という属性を含めた、自身が持つ全ての手札(リソース)を計算高く使いこなし、結果を出したんだ。
きっと彼女は、私なんかより何千倍も理不尽な目に遭い、何万倍も努力してきたはずだ。
その彼女が勝った。
それはつまり、私が選んできた「不条理なルールを嘆くより、配られた手札をフル活用して盤面を制する」という生き方が、間違いじゃなかったという証明だ。
一人でもガチでやり遂げる「かっこいい外れ値(アウトライヤー)」がいると、母集団の評価関数は書き換わる。
彼女という「特異点」が現れたことで、もはやこの生存戦略はバグでも媚びでもなく、正規の仕様となった。
笑顔と実力で、ガラスを綺麗に磨き上げて、そのまま透過して通り抜けたんだと思う。
私もそうありたい。
現状バイア ス
ぬわあああああああああ おわああああ
どう
つかれた
つかれた
ゆううつう
疲れた はあ もうやだ
つかれた つかれた つかれた
つかれた オリーブ
りょう きになる
つかれた
なんだけ
もういいか
つかれた
外出たい
もう寝ようかな
つかれたし つかれた つかれた
つかれた うつのはや
携帯もこれくらいはやくうちたい
つかれたのでね
つかれた
つかれたからね
ねようかね
ねようかね つかれた ゆうううううつ
言語化する あー外行きたい
なにしてもいい
まっくろ部屋のゲームではなにもしない なにかあるから なにかしようとする
まっくろにしてみるか そして なにを足したいか
かゆみがでた かくか
やればいいじゃん ハイ終了
irodor
ge-mu
siken zikokouteikan ageru mazuha
外出たい やっぱでたくない したくなかっただけじゃん
ちがう 言語化が下手だった
課金したいゲームをする クラオワまったく課金したいおもあない
まずは自己肯定感あげる
最近しみじみ思うけど、暖房をケチると普通に老ける。肌も気力も落ちるし、寒さに耐えるだけで体力が削られる。節約だと思って我慢してると、最終的に自分の老化スピードを加速させてるだけっぽい。金を節約して寿命を溶かす、みたいな状態になってる。
東北とか北関東の人間が無気力なのは、メンタルの問題じゃなくて、生体エネルギーを生活防衛に回しすぎてるからなんじゃないかって思う。寒い部屋でじっとしてるだけでも、身体は内部から温めようとして常にエネルギーを放出してる。体温維持が最優先になるから、思考も感情も後回し。寒いと気力が削られて、寝そべるしかなくなる。寝そべり族がどうとかじゃなく、物理的にそうなる。
寒さって、地味に人間を破壊する。睡眠も浅くなるし、血行が悪くなって肌は乾燥してしわが増える。乾燥で皮脂バランスが崩れてニキビも吹く。寒いと肩が上がって姿勢も悪くなる。呼吸も浅くなる。免疫も下がる。ラジヒスも下がる。全部悪循環。身体を守るために余計な負荷がかかり続け、結果として老化に直結する。
暖房をケチる行為は、短期では数千円お得かもしれないけど、長期では肌、血管、筋肉、睡眠、脳、気力の劣化につながる。未来の自分に請求書が飛んでくる。いくら美容液を塗っても、根本が寒さで削られてたら意味がない。体温を保つことが最優先。暖房は化粧水より効く。
服を着込めば解決という話でもない。寒い部屋は空気そのものが冷えているから、呼吸から冷気が入って内側が冷える。手先足先からじわじわ体温が奪われると、深部体温まで下がって、身体が緊急モードに入る。すると回復に回す余力がなくなる。細胞のターンオーバーも落ちていく。若さは熱で維持されてる。
寒冷地の人が老けるのが早いと言われるのも当然で、環境ダメージがデカすぎる。毎日がリスク。暖房が弱ければ弱いほど、自分の身体を火力発電として酷使することになる。結果、脳も筋肉も臓器もすり減っていく。たとえ食事やスキンケアに気を使っていても、ベースの温度が低いと意味が薄れる。
で、俺は気づいた。暖房をつけるという行為は、ただ部屋を温めるんじゃなく、自分の若さに投資してるんだと。東京電力に先行投資して若さを買う。電気代は美容代。電気だけは裏切らない。部屋が暖かくなるだけで、生きる気力が戻る。勉強も仕事も進む。自己効力感が上がる。暖かい部屋は人生の生産関数を底上げする。
もちろん暖房代は高い。でも、金を節約して老けるぐらいなら、金を払って若さをキープした方が圧倒的に得。美容医療で3万円払うより、冬に暖房を3万円使う方がコスパが良い可能性すらある。暖房は全身に効く。肌にも脳にも精神にも。効き目が広い。
寒さに耐えるという行為は、昭和の根性文化の残滓でしかない。暖房をつけるのは甘えじゃない。生存戦略。自分を長持ちさせるための装備。省エネで生きようとすると、最終的に人生のスタミナが吹き飛ぶ。暖かい部屋で寝て、きちんと回復する方が合理的。
寒さは意思の問題ではなく、物理の問題だ。寒ければ老ける。身体は常に対処に追われ、他のことができなくなる。寒さがアイデンティティを溶かすぐらいなら、電気代を払った方がいい。東京電力に金を払って、未来の自分を守る。それでいい。若さは熱で生まれ、熱で守られる。
だから、俺は普通に暖房をつける。金を払って、気力を買う。暖かい部屋で、自分の人生をちゃんと回す。それが一番合理的だと思ってる。冬は暖房に金を惜しむな。若さが逃げていく。暖房は投資。老けたくなければ回せ。
本記事は比喩としての「熊東京(熊にとっての超過密中心地)」を用いる
行政境界ではなく「生息圏=都市雇用圏」に相当する“生態圏”の密度と境界を参照し、過密=溢出・競合の強化、適密=1クマが享受できる上限まで享受が可能でありながら資源循環が釣り合う状態、と定義して議論する。
「中心が語る物語」と「外縁が語れない現実」のあいだに、まだ拾えるデータと声が落ちている。
“秋田岩手最高!”の景色と、“九州不可”のラベルの向こうに、個体がちゃんと息できる“適密”が点在しているはずだ。
可視化の灯りを、中心にだけ当てないでほしい。