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2024-12-14

anond:20241214100216

基本的にどんな菌と共生共存しているか?なんだわ。

日常的に分泌されるタンパク質油脂(オリモノ等)を、どの細菌が分解するか?で匂いが決まる。

2024-12-09

(その2)クルド人ジャーナリストが語る在日クルド人

イルファン・アクタン, 長沢栄治, 稲葉奈々子, 村上薫, 岡真理調査報告 KARIHŌMEN 日本で《クルド》として生きるということ」、

プロジェクト・ワタン事務局2024年6月2024年9月3日

http://www.projectwatan.jp/wp-content/uploads/2024/06/20220717_FN-2.pdf

子供教育

特に男の子は、小中学校で直面する言葉の壁や人種差別的な経験もあって、しばらくすると学校を退学し、高校にも進学しません。思春期以降、18 歳になる前から父親や親戚と一緒に家屋解体仕事に就く者もいます。一方、仮放免女子は、男子に比べて働く機会が少ないので、どんなに困難があっても教育の場に残ろうとします。「学校をやめたら、結婚するしかない」と蕨のカフェ勉強していたクルド女子高生 2 人は口を揃えて言いました。

また、学業が非常に優秀だったり大学卒であったりしても、仮放免者の就職保証するものではありません。ビザがなければ教育ほとんど役立ちません。例えば、映画東京クルド』に登場するラマザンというクルド青年は、専門教育を受けたものの、ビザの発給を待つ間仕事が見つからず、家屋解体仕事を始めました。のちにビザを取得したのですが、今も家屋解体仕事を続けています。おそらく親族関係のなかで働くことが、彼に安心感を与えているのかもしれません。同様に、シリア出身クルド青年も、大学卒業日本修士号を取得したにもかかわらず、現在家屋解体仕事従事しています

家族の離散

先月(2022 年 6 月)、大変痛ましい一家離散のケースに遭遇しました。あるクルド高校生が、学校での差別言葉の壁からトルコに帰りたい」とずっと両親に訴えていました。トルコに戻りたい一心で、彼は学校試験白紙答案を提出し、わざと成績が悪くなるようにしていたと父親から聞きました。その結果、彼は学校を辞め、母親は泣く泣く息子を連れてトルコ帰国しました。

(中略)その家族は、日本が幼い子供たちを追い出し、一家崩壊につながったと考えています。母と息子はトルコに戻りましたが、父親政治的経済的理由日本に残ったからです。日本で働いて得たお金トルコ家族を養わなければならない父親は、今、川口の小さな家で一人、家族を恋しく思いながら、先行きの分からない生活を送っています

フキャン(川口多数派)以外のクルド

フキャン人と心ならずも共生余儀なくされている他地域出身クルド人もいます。マフキャン人が家屋解体業を営んでいるため、他地域出身クルド人はマフキャン人の雇い主に雇ってもらうことが多くなります仮放免クルド人は、他の業種で仕事に就くことができないため、マフキャン人と一緒に働くしかなく、彼らとうまく付き合っていかなければなりません。時には男女関係から生じる問題や、ハラスメント不倫事件、労使間の緊張からコミュニティ男性同士の喧嘩家族間の問題が起こり、共同体から個人排除されることもあります

フキャンの出身ではないあるクルド青年は、「マフキャン人同士で争ってもしばらくすれば和解するが、自分が彼らと争うとなると行き場がない。だから私たちはとても注意しなければならない」と語っています

日本人の責任

労働災害障害を負い、再就職できなくても、仮放免クルド人は、健康保険に加入できないため何の保障もありません。それがもうひとつ不安感につながっていきます。あるクルド労働者は、「若いうちに一生懸命働いてお金を貯めておけば、もし自分障害者になったり、明日死んだりしても、子どもたちが飢えることはないだろう」と語っていました。また、高齢病気を抱える仮放免者は、年金保障がないため飢餓に直面しています心臓疾患のある仮放免クルド人は、マフキャン部族の親戚の経済的支援を受けて家族を養っています。つまり日本に暮らす高齢クルド人が安心して暮らせるのは、日本政府ではなく、マフキャンの部族主義、氏族親族関係のおかげなのです。そのため、当人はつねにクルド社会内部のバランスを観察し、争いに与らず、必要に応じて強者の側につくようにしています

今日、この会場で私の話を聞いてくださっている日本のみなさまに申し上げます毎日、前を通っている家の中で悲惨事件が起こり、子供虐待され、女性暴力を受けていると想像してください。その家の前を通りかかるだけでは、何が起こっているのかは分からない。しかし、虐待被害にあった子ども暴力被害にあった女性がその家の窓から外を見たときあなたの姿が目に入るのです。その窓の前を通り過ぎるときあなたは楽しそうに笑っていることもあるでしょう。その家の中で起こっている悲劇を知らないのだからあなたには責任はない。しかし、その家で起こっていることを誰かに言われてもなお無関心でいれば、暴力を振るう加害者共犯者になってしまます

2024-12-08

anond:20241207205156

警察司法クルド人犯罪に対して(もちろん法律範囲で)厳格に対処するのと同時に、

自治体など行政クルド人コミュニティーに「その倫理観では日本人とは共生できないから改めろ」と粘り強く改善を働きかける必要がある。

いちばん大事なのはこれなんだろうな。

警察司法が取り締まらずに現に法を犯し続ける集団存在するってその土地に住んでいる人間に取ったら現実の脅威なのに、

それを是正しようとすると差別だって騒ぎ出したら排外運動もつながるわ。

anond:20241207205156

そんなこと不可能だと言うことを、日本朝鮮人との関係で、ヨーロッパは・アフリカとの関係について、高すぎる代償を払って学んだんじゃねえか。馬鹿じゃねえの?「自治体など行政クルド人コミュニティーに「その倫理観では日本人とは共生できないから改めろ」と粘り強く改善を働きかける必要がある。」

レッテルからの脱却

自分なりに正しく生きようとする

誰かから見てそれは間違っていても本人はクソ真面目に生きようとしてる

その正しさは世の正しさだったり、世とは無関係にただ生き抜くことが正しかったりして

その差が人から見れば間違いとなったりしてしばしば衝突が生まれている

人権尊重多様性とはそのような差異も含めて相手生き方を認める事で、その上で差異の落とし所、お互いの妥協点を探り共存共生していくことが人の社会と言うものだろうと思う


もちろんこれも、私なりの世の見通し方であって、人によっては不正解なんだろう

卑下しすぎる必要はないけれど、自分が何もかも正しいわけじゃない

その程度の自覚は持たなければいけないと思って生きている

人の世はとても複雑怪奇

いっそ自分は何もかも間違ってなくて周りが全て間違ってて悪いんだと言う最もシンプル生き方を選べたら、確かにそれは一番メンタルには良いし、ある意味正しい選択の一つなのだと思う

今回書くのはそんなシンプル生き方を選んだ人たちへの批判


この世には自身を善人と信じて疑わない人たちがいる

そんな人たちの世の見方と言うのは自身が先ず善性なので、とても綺麗そうなラベルで身を固める

まるでファッションのように

平和主義左翼人権尊重自由平等弱者の味方、反戦反差別リベラルポリティカルコネトレス最近ではフェミニズム

もちろん、この言葉に属する人たち全てがそうと言う話ではない

真正からその言葉と向き合い、信念を持って取り組んでいる人もいるだろう

そして自身の善性を保つために、自身意見が異なる人物や嫌と感じた人物には悪性のものとしてレッテルを貼る

戦争右翼ネトウヨ独裁差別主義歴史修正主義デマミソジニー表現の自由戦士、反フェミ

言葉に対して信念があるかどうかは言動が一致してるかどうかが分かり易い

例えば平和を掲げながら暴力暴言を振るう人物や、多様性思想信条自由を掲げながら右派と見るや犯罪者扱いしたり、フェミニズムを名乗りながら都合の悪い女性意見無視するなど、言葉元来の意味に反するような人物ファッションで善人をやってるのだろう

それでも自身は善人である事が大前提なので、本人にとってそこに矛盾はないのだ

善人である自分文句をつけるから相手は悪い奴、それで完結してしま


そして悲しいかな今の世は、そんなファッションで善人をやってるような人たちが大手を振るう時代となった

世に打ち出す上では個々人がその言葉に信念があるかないかなんて関係ない、メディア学術的にも聞こえがいい言葉は使いやすく、そうした言葉を小気味よく振るう人が容易くそ言葉権威に就くようになった

そして、今右傾化と言われる世界は、そんな人たちの綺麗事に対して世界的に反発が起き始めた結果なのだと思う

自身絶対的に善性で、間違いがないと言う人は問題が起きても自分が悪いと言う思考はないので、相手が悪いと言う他責以外の答えを持たない

自分無関係問題場合、一方が自身が悪性と判断した人物であれば物事の原因分析等もなく、悪性だから悪いで完結してしま


例えば移民問題では、難民と言うと人道的に保護必要であり、受け入れてあげるのが人の優しさだろう

善性であれば当然そう動く

しか問題はその先だ。その受け入れた移民が受け入れ先で問題を起こした場合どうするか?

移民といえば育ち、ルール文化環境、何もかもが違う

最初に書いたように人と人の間に差異は当然にあり、問題に対して落とし所、妥協点を探り人の社会として共生共存の道を探っていくべきだろう

別にこれは移民と言う規模でなくとも、例えば夫婦と言う関係仕事と言う関係でも人の世の在り方として当然していく事である

しかし実際はどうだろう

問題が起きたと言う現地の声があり、それに対して起きていることは、便乗してデマを流すような悪意ある行為事実としてあるが、それに対しての自称善人の人の声は個人問題でありそんな民族間差異による問題はないと言う問題全否定である

民族間レベル問題提起は差別の温床であるから差別者が悪いと言う全く雑な判定だろう

そうしてこれを差別問題とし、差別者が巣食う日本社会が悪いと繋げている

人と人の間で起きた問題に対し一方的な悪を決めつけて何が解決するのか

すべきはデマ事実を切り分けた上で、問題が再発しないよう働きかけ、共存共生の道を探る事じゃないのか?

問題全否定などして一方的な悪の決めつけをするからその反発が起こる

欧米では移民問題が拡大し、移民を追い出せと言う声やポリコレリベラルへの反発が膨らみ、極右が台頭したと情勢の変化が報じられている

それはまさにこうした問題は全て悪性の人間のせい、右翼のせい、差別主義者のせい、移民には何も問題ないとして自身の善性を語りながら本当の問題のものに向き合ってこなかった結果じゃないのか?

本邦でも自称善人は差別批判し、全く問題事実とは向き合わず民族のものは何も悪くないとしているが、それは今の欧米への轍を踏んでいるだけではないか

今後もその轍を歩み続け日本でも移民を追い出せと言う勢力が台頭した時、それは果たしてただの右傾化右翼差別主義者が悪いと言えるものだろうか


人が正しくあろうとすることは、悪い事ではなくむしろ普遍である

ただ、その正しさに駆られて誰かを悪とする事であらゆる問題解決しようとしたならそれは反発や分断を産み、決して問題解決せず、その究極的な行いが戦争と言うものだろうと思う

それを避ける事を主目的とするなら、本当に平和平等と言った掲げた言葉通りの善性でありたいならそこに右翼左翼も男も女もない、思想の違いなど些細な事で、地道にでも問題一つ一つに真摯に向き合う事で問題が小さい内にそれぞれの落とし所を探っていき、同時に右翼左翼や男女等、大きな言葉で括って分断化を呼び込まないよう努める事しかないのだと思う

長年インターネットに触れてきて、集合知炎上エコーチャンバーデマ騒動右翼左翼やら属性に依らず引き起こされる事を実際に見てきてそう思う

ベルレッテル無駄党派性や分断化しか生まない

2024-12-07

anond:20241207052917

日本高校生盗撮やらしたとき、だから日本はーとか、

沖縄米軍問題で、だからアメリカはー

みたいになるなら

これだって個人問題にすべきではないでしょ

異なる価値観共生するには時間がかかるんだし、向こうが問題にするきがないなら

こちから問題にしていくしかない

クルド人(というかイスラム系)の性犯罪者には特有のヤバさがある

イスラム教の基本として「家族男性と同伴せずに一人で髪や肌を露出して外を歩いている女は誰の物でもない女(=売春婦一種)であり男は自由に取って食って良い」というのがある。

からクルド人青年が街中で日本の夏に適応した薄着の服装をしたローティーン少女を目にしたとしたら「道にイチジクの実が落ちてるな」とスナック感覚で捕まえてレイプするし、それで逮捕されても意味が分からない。

被害者少女と同じ女性青年母親ですら「息子が逮捕されたのはおかしい! 息子を誘惑した売春婦のお前が悪かったと言え!」と一家被害者攻撃して示談に追い込もうとするし、

なんなら、警察裁判所すら一族総出で襲撃して法の支配を覆そうとする。

彼らの信じるイスラム法(ないし部族法)では青年は何の罪も犯していないのだから冤罪であり、不当な弾圧に対して正義闘争を始めるのは当然であろう。

この論理クルド人に限らず、日本などイスラム教徒が多数派ではない国に移住したイスラム教徒は世界中性犯罪絡みの騒動を起こしている。

警察司法クルド人犯罪に対して(もちろん法律範囲で)厳格に対処するのと同時に、

自治体など行政クルド人コミュニティーに「その倫理観では日本人とは共生できないから改めろ」と粘り強く改善を働きかける必要がある。

さもなくば、クルド人に屈服させられ続け、行政事なかれ主義で救済もされない日本人の鬱憤がいつか爆発し、暴力を伴う大規模な外国人排斥事件が起きるであろう。

自分はそういう物は見たくない。

2024-12-01

anond:20241130165220

この話題は非常にデリケートであり、多くの感情視点交錯するテーマです。この問題をどのように考え、対応すべきかについて、多くの観点から掘り下げることが重要です。

1. 責任能力社会的対応

知的精神的な障害を持つ人々が加害行為を行った場合、その行為責任能力を問われない場合があることは事実です。しかし、これは「やりたい放題を許す」という意味ではありません。責任能力がない人が加害行為を行った場合刑事罰を受けなくても、適切な支援や介入が必要です。具体的には、以下のような対応が取られるべきです:

• 専門施設での療育問題行動の抑制代替行動の学習

支援者の介入:暴力行為を防ぐために、十分なマンパワーを投入。

環境調整:周囲の安全を確保するための制度設計

こうした対応が不十分である場合被害を受ける側が「理不尽」と感じるのは当然のことです。したがって、被害者の視点を軽視せず、問題行動を抱える人々への適切な支援と、周囲の安全確保を両立することが求められます

2. 共生教育限界課題

障害者との共生」を目的とした交流教育は、理念としては重要ですが、現場での適切なサポートがなければ、逆効果になる場合があります。具体的には:

暴力行為がある場合暴力を受ける側に「耐える」ことを強いるのではなく、加害行動が予測される状況を回避する仕組みが必要です。

教育方法論の見直し:一律に交流を推進するのではなく、個別ニーズに合わせたアプローチ必要です。例えば、暴力行為が頻発する子供については、別の方法社会との関わりを構築する道を模索するべきです。

3. 感情正当性差別境界線

投稿者感情は、自身や周囲が暴力被害を受けた経験に基づくものであり、その「恐怖」や「怒り」を差別一刀両断にすることは不適切です。重要なのは、こうした感情理解しつつ、次のような議論を深めることです:

加害行為障害関係を分けて考える:暴力行為への怒りを「障害全般」への差別に拡大しない。

• 「隔離」以外の解決策を模索する:加害行為を行う人々が暴力を振るわないよう、効果的な支援制御手段検討する。

被害者へのケアの充実:暴力を受けた側の心理的ケアフォローが十分である検討する。

4. 社会責任

この問題の背景には、社会障害支援に対して十分なリソースを割いていない現実があります障害を持つ人々が適切な支援を受けられず、結果として周囲に被害を及ぼしてしま場合、それは「個人責任」ではなく、「社会責任」として捉えるべきです。

支援体制の強化:暴力行為予測される障害者に対して、専任支援者や療育プログラム提供する。

地域社会負担軽減:特定地域施設だけに問題押し付けず、国全体で責任を分担する。

5. まとめ

共生を目指す社会において、現実的な困難や矛盾に直面することは避けられません。投稿者経験感情否定するのではなく、それを出発点に、次のような問いを共に考えるべきです:

加害行為への対処被害者の保護をどう両立するか?

共生教育の枠組みをどう改善するべきか?

社会全体で障害支援をどう強化するべきか?

最終的には、個人体験から出てくる感情を大切にしつつ、それをより大きな問題解決への糸口とすることが重要です。

2024-11-30

はてブユーザーの(社会デザインに対する)老害化について

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.itmedia.co.jp/business/articles/2411/29/news040.html

完全に老害ブコメが中心になってて、さすが失われた30年の担い手!としか言いようがない

あー、こいつら(記事賛同してる老害ね)って自分のわからないもの社会闊歩しているのがとにかく気に入らない前期痴呆症なんだよね。

なにが性善説サービスだ?って意見が残っているのは、はてブ良心だけども。

社会インフラとそれを利用する営利事業者ははなから共生関係なんだよ。事業者インフラ依存するよ、交通インフラを全力回避してたら、佐川クロネコも成立するわけないじゃん。その代わり法人税社会の発展に責任を持ってる。

そもそも性善説サービスってなんなの?ハズレ値ユーザーサービスを利用するのは既存事業も同じだよ。

酒造会社は酒呑んで車を運転して小学生を轢き殺すバカユーザー性善説wwwでスルーしてる

自動車メーカー一般道を180キロで走って罪のない家族を皆殺しにするバカ負担社会フリーライドしてる

糖尿病死ぬやつ年間何人生み出してるんだよ?揚げ物とスナック菓子そもそも農家?あとファストフードコンビニ。なんだ、しゃーなしで米農家続けてるおじいちゃんは、糖尿病患者医療保険負担社会フリーライドしてるゴミだって?おまえがそう思うんならしょうがない。立花DM送れ「米農家糖尿病患者医療負担社会タダ乗りしてる敵です、NHK百条委員会と同じです」って。運良く利害が一致すれば日本中農家に街宣してもらえるかもな。

LUUPが何人殺した?命の価値は何にも置き換えられないっていうのが1945年以降の日本の前提だよな?誰も殺していないLUUPが京都アニメーションスタッフを何十人も殺したガソリンスタンドと比べて、え?せー

じぇんへっがなんだって筋肉が落ちて干からびた喉でモゴモゴ言われても分かんないんだけど?膨らんだ下腹からもっと声出せよおっさん

いや日本全体が老害主体社会になっていて、まともなはてブユーザーは黙っているだけなのかもしれないけどさ。もちろんヤフコメ民と比べたら、この記事のアホさを指摘するコメント比率で言えばはてブ全然健全なんだけどね。これってパンドラの箱に残った最後希望かな?

anond:20241130171325

以下に、より包括的で深い洞察提供する改善版のまとめを作成しました:

障害者共生社会に関する多角的議論分析

1. 問題本質的理解
課題の複雑性
差別偏見構造
2. 対応策の多様な視点
予防的アプローチ
法的・制度対応
社会包摂のための戦略
3. 倫理的考察
共生本質
個人社会責任
4. 今後の展望
社会変革に向けて
キーとなる視点

この分析は、単なる問題解決を超えて、より深い相互理解社会包摂可能性を探求するものです。

anond:20241130173515

元増田さん、あなた経験と感じていることに対して、まずは深く共感します。小学校時代養護学校の生徒と一緒に給食を食べる際に、暴力的な行動に直面した経験は、確かにトラウマとなるものです。その恐怖や無力感は、簡単には消えないでしょう。

あなたが感じている憎悪や恐怖は、決して軽視されるべきではありません。しかし、その感情が全ての障害者に対する差別偏見につながることを避けるために、いくつかの点を考慮してみてください。

まず、障害者に対するサポート体制改善必要です。あなた経験したような状況では、適切なサポート対応が欠けていることが多いです。養護学校の生徒が暴力的な行動を取る場合、それは彼らのニーズや状況に対する適切な対応が不足していることが原因であることが多いです。適切な教育サポート提供されれば、こうした問題改善される可能性があります

次に、障害者に対する理解教育重要性です。障害者に対する差別偏見を持たないための教育は非常に重要ですが、それだけでは不十分です。具体的な対応策やサポート体制改善必要です。例えば、養護学校の生徒が他の学校交流する際には、適切な監視サポート体制を整えることが必要です。

最後に、あなた感情尊重しつつ、共生可能性を探ることが大切です。全ての障害者が同じではないことを理解し、個々の状況やニーズに応じた対応を行うことが重要です。あなた経験したような暴力的な行動を取る障害者と、そうでない障害者区別することができれば、より良い共生の道が見つかるかもしれません。

あなた経験感情無視することなく、具体的な問題解決に向けて考えていきましょう。適切なサポート体制の整備や、障害者に対する理解教育の推進が、あなたトラウマ癒し、より良い共生の道を切り開く手助けとなるでしょう。

anond:20241130172255

私たちは多様な社会に生きています。その中で、障害者と健常者が共に暮らすことは、私たち全員にとって重要課題です。障害者に対する理解と寛容さを持つことは、健常者にとっても社会義務であり、人間としての基本的倫理です。

まず、障害者に対する差別偏見を持たないことが重要です。障害者もまた、私たちと同じように感情を持ち、尊厳を持つ一人の人間です。彼らを一括りにして差別的な視点で語ることは、彼らの人格侵害し、社会全体に悪影響を及ぼします。健常者として、障害者に対する理解尊重を持つことが求められます

障害者との共生拒否するのではなく、理解支援を通じて共生を目指すことが重要です。全ての人が平等尊重され、支援される社会を目指すことが大切です。障害者に対する差別偏見を持たない視点から共生を実現するための努力を怠らないことが求められます

さらに、障害者に対する理解支援が不足していることが問題である認識し、これを改善するためには全ての人が協力していく必要があります。健常者として、障害者に対する寛容さを持ち、社会義務を果たすことが求められます障害者全体を一括りにして差別的な視点で語ることは誤りであり、個々の人格や行動を理解し、支援することが重要です。

私たち一人一人が、障害者に対する理解と寛容さを持ち、社会義務を果たすことで、より良い社会を築くことができるでしょう。障害者と健常者が共に暮らす多様な社会を実現するために、私たち努力が求められます

anond:20241130165220

1.対応策や具体的な行動に関する意見

拘束や関節技を使う
通報訴訟を行う
学校施設責任を追及する
正当防衛を行う
  • metamix:やられた分をキッチリとやり返してやるしかない。
  • go_kuma:殴り返してガチ喧嘩に持ち込むくらいしか思いつかんわ……殴り返される可能性について学習できれば殴らなくなるんじゃね?
隔離や隔絶を提案する
  • kurotsuraherasagi:知り合いの家庭で知的障害のある長男が幼い妹に性暴力を振るったらしく、悩んでた。どうすればいいんだろうね。
  • kangiren:未だ、自分も答えが出ない。
  • kurokawada:「差別を根絶すること」と「被害者を一切出さないこと」は、両立しない。
支援教育を強化する

2.倫理的社会的視点から意見

差別偏見に関する意見
障害者に対する理解尊重を求める意見
  • differential:「障害者」ってひとくくりにするのが差別なのよね。障害者にも色んな人がいるし色んな症状があるから
  • kakuhoukou311:議論の内容が違うね。加害性にどう対応するかの話。障がいがあるかどうかは関係ない。
  • serio:「加害する障害者の○○さんに気をつけよう」なら問題ないし、個人障害者に内心でどう思おうと自由だ。
共生包摂重要性を強調する意見
法律制度改善を求める意見
  • alt-native:まず被害届が出せる環境を。学校だろうと性暴力であろうと。
  • iinalabkojocho:健常者、障害者関係なく加害を繰り返す人間をどうするべきか?に問いを変えなければいけないし「しないようにする、できないようにする」ことを刑や更生で考える話。

3.個人的な経験感想

自身経験を共有する
感情的な反応や意見
特定の事例や状況に関する意見

4.その他の意見

関連する話題議論
一般的コメント意見
  • Louis:「俺が通っていた小学校は」何年前の話だろ
  • zu-ra:子供達には世の中には本音と建前があること、自分本音と建前を使い分けなければならないことを教えていかなきゃなって強く思いました。
  • drinkmee:加害する「自称・健常者」も大量にいる。自分と「その人」の境界線は、案外、曖昧ものですよ。

anond:20241130165220

あなた小学校経験した出来事は、確かにトラウマとなる可能性がありますが、それを全ての障害者に対する差別偏見に結びつけるのは避けるべきです。障害者には多様な背景や状況があり、彼らの行動や行動の理由も異なります

障害者に対する理解支援必要です。障害者暴力的な行動を取る場合、それは彼らの状況やニーズに対する適切な対応が欠けていることが原因であることが多いです。適切なサポート教育提供されれば、こうした問題改善される可能性があります

また、障害者に対する差別偏見を持たないための教育は非常に重要です。あなた経験したような状況では、適切な対応サポート必要であり、それが欠けている場合には改善が求められます

最後に、障害者との共生拒否するのではなく、理解支援を通じて共生を目指すことが重要です。全ての人が平等尊重され、支援される社会を目指すことが大切です。

加害する障害者をどうすればいいんだよ?

障害者施設がある地域性犯罪が多いという直球の差別話題になっていたけど、

障害者による加害行為無罪でやりたい放題なのも事実なんだよな。彼らには責任能力がないから。

 

俺が通っていた小学校養護学校と隣の場所にあって、隔週で養護学校の子と一緒に給食を食べるスケジュールになっていた。

同学年の養護学校の子は2人いて、俺の通ってる小学校は1学年2クラスだったので、1クラスに1人ずつ養護の子が来る。

2人のうち1人は知的障害があり喋れないがおとなしい子だった。

もう一人は喋れないし大音量の奇声をあげて誰彼構わず殴りまくる子だった。

 

殴りまくる子が来るときは付き添いの養護の先生担任クラスの誰かが殴られる。

養護の子が来る週は、「おとなしいほうが来てくれ!」と祈ってたし、殴るほうが来るときは「ハズレ回だ…」と絶望してた。

俺も殴られたことあるし、友達も殴られたし、女子が殴られて号泣してたりもしたし、ハズレ障害児が来る日は暗黒だった。

そして殴られる側はどうすることもできなかった。障害児には責任能力がないからな。

怖がって泣きながら走り回る女子もいた。俺は怖がって走り回るのがダサいと思っていたから着席して耐えた。

着席していても走り回っていても殴られるときは殴られるし、

養護の先生担任がハズレ障害児を拘束するまで何発もグーで殴られながら耐えるしかなかった。

 

養護の子との食事ルールは、障害者偏見を持たないための交流教育目的として設けられていたのだろうけど、

ハズレ障害児のことが悪魔しか思えなかった。

健常者だから責任能力があり人を殴ると逮捕される「健常悪魔」と、

障害者から責任能力がなく人を殴っても逮捕されない「障害悪魔」の二種類があり、

絶対逮捕されない「障害悪魔」とはとにかく物理的な距離をおいて暮らしていくしかないという学習けが刷り込まれた。

 

実際、どうするんだよ。どれだけの暴力行為をしても逮捕されない奴とどう暮らしていくっていうんだよ?

養護のおばさんや担任クラスの面々がグーで殴られまくって阿鼻叫喚、俺も4回殴られ(計4発ではなく、拳で連打されるハズレ日が4回あったということ)、

とにかく耐えるしかないという経験は、本気で憎悪が刷り込まれトラウマになってるし、それを「障害者差別だ」と言われても反発心しかわかない。

あと障害者全員を差別してない。殴らない方の子に対しては怒りも憎しみも一切持ってなかった。

しろ人を殴る健常者よりも、殴らない障害者のほうが好ましい。重要なのはまず殴るか殴らないかであり、次に殴るやつを隔離できるかどうかだ。

まり憎いのは「健常悪魔」と「障害悪魔」の二種類で、絶対逮捕されない「障害悪魔」のほうがより憎いというだけだ。

それを「障害者差別だ」と言われても絶対に納得できない。

絶対共生などしない。絶対拒否する。

2024-11-28

淳×ジュニア×有吉 40歳-50歳〜10年観察〜

面白すぎる

やっぱり40から50って大きく変わるもんだな。30から40とは全然違う。3人とも人生の大イベントこなした期間だからってのがでかい

40だと「人生半分きたな」って感じだと思うけど、50は明らかに人生の終盤に片足突っ込んでる感ある。老い方が段違い

その先の10年はあっという間だろうし、還暦なんておじいちゃんだしな

とはいえ、「老い」は人による

老人見てると90でも余裕で元気に働いてる人とかいからスーパーエイジャーかよと思うけど

あんなん生物として若さを保つポテンシャルがあるってだけだなとも思う

持って生まれた運でしかない(環境に依るって思うかもしれないけど運の方が割合かいと思っている。遺伝子劣化しにくい)

ほんと、50以降の老い方や病み方って運でしか無い

(脳血管なんかやったら一発だし。若くて運が良ければ回復するけど。老いてたら、生き残れても体の片方動かない喋れない状態になったりする

脳血管系やっちゃうのはやっぱり男性が多いね。酒のせいかね。70代以上とかだとどうしたって「男の方が酒飲む時代」に生きてきた人だろうし

今の50代とかは女性若いから飲酒習慣があるから、これから女性も脳血管系増えるかもな。まあ、血管にプラーク溜まる率とか男女差あるのかもしれんから一概には言えんけど)

ほんで、年を追うごとに「若さを保っている老人は実年齢-20歳」みたいな状態になる

老いてる老人は逆に+20歳(老人に限らず、恐らく中年世代からこの差は徐々に開いていっている。当然だけども。それが本当の老人になった時に巨大な開きになっている)

これでアルツハイムの住人になどなった日にゃあ、70代でも90代みたいな状態になってしまう(でもストレスが無いせいか見た目「だけ」は若い。脳の時が止まると肉体の表面上も止まる様だ。疲労感や痛みを感じられないというのは大きい。ある意味超人だ)

100歳でも歩行器で歩いて普通ごはん自分で食べたり、人と普通に会話出来る」なんて人も居る一方、「70代なのに危険だという意識も無いから歩行器も使わずコケる。コケて手術して入院して老人施設入って更に認知症進んで飯の食い方も忘れる」

この差は運によるところが大きいけど、それでも生活習慣等で少しでも老化を遅らせるっていう努力必要だ。足掻くしかない

その点、世界に己を晒して生きている芸能人なんかはだいぶスタンスが違うだろう

生活習慣云々ではなく「人前に立ち、見られる者」として己を律することによって若さを保っているのだろう

ストレスは凄いだろうけど、それを解消する術を知っているし、それを凌駕する喜びが彼等の仕事の中にはあるのだろう

この番組の中では有吉50歳の誕生日にお子さんを抱いて「ありがとうー」と微笑んでいるリラックスした姿が一番印象的だった

普通幸せ」を体現した様な姿だった(でも「我が子を腕に抱く」というのは決して「普通のこと」ではない。神の恩寵だと思う)

3人共生まれたての子供と一緒に居る姿が映っていたが、矢張りこの上ない喜びが垣間見えた

純粋幸せそうで「良かったね」と思える

結構高齢になってからのその喜びは人生に確実な潤いを与えただろうね

次の10年で、彼等がどうなっているか楽しみだ

2024-11-26

大造じいさんと銃《GUN

増田は大造じいさんと銃《GUN》というタイトル童話を知っているかな。

この物語は、山深い村に住む一人の老人、大造じいさんの冒険物語です。大造じいさんは、若いから猟師として村を支えてきた誇り高い人物ですが、年老いからは狩りに出ることも少なくなりました。ある日、彼は古い蔵を整理していると、一丁の古びた銃《GUN》を見つけます。かつて、彼が若かりし頃に愛用していた銃でした。

大造じいさんはその銃を見て、若き日の情熱と狩りの思い出が蘇り、もう一度最後の狩りに出る決意をします。彼は、過去の栄光に浸りすぎず、今度は自然と共に過ごすことを目的に、美しい森の中へと足を踏み入れます

旅の途中で、大造じいさんは今まで気づかなかった森の美しさや、そこで息づく生き物たちの姿に心を打たれます。彼は銃を抱えながらも、獲物を狙うのではなく、その環境を守ることの重要性を感じ始めます。最終的に彼は、銃を手放し、森に生きる動物たちとの共生を図ることを誓います

物語最後、大造じいさんは村の若者たちにこの経験を伝え、彼らにも自然を大切にする心を授けます

この童話の教訓は、「過去の栄光を追うのではなく、今を生きることの大切さと自然との共生の大切さを知ること」です。

婚活市場キモい男が入れないように、共生にはルールがある

売り上げに貢献しないだとか背任だとかそういう人を雇いたがる企業はない

縄張りの中にルールがあり共生がなりたつ

2024-11-15

anond:20241112201617

だいぶ亀だけど思ったことを


遊戯王には隠れたストーリーや人気のアニメキャラメディア展開など他のTCGにはない魅力が詰まっている。なのでそこを強調するしかないが新規アニメがOCG発でないため、過去の栄光にすがるしか今はない。

一方でゲーム性は昔から破綻しているので手の施しようがなく、現代TCG界隈では傍流としかいいようがない。

どんなに自由度が高い動きをしたとしても、プレイするまえに多くの人が断念しかねないため、入り口で失敗しがち。それを埋めるのがMDなのでMD必須

特に今のカード推しキャラを動かすことが遊ぶ訴求力に繋がりやすく、そこに研究しつくされたゲーム性が加われば遊戯王の独特な動きはより敬遠されがちになる。


マスターデュエル存在がなければ結構しかったはず。

2024-11-13

anond:20241113160219

面倒なのでAIちゃんに回答書いて貰いました、何度もやってる話題なので省エネ

 

抽象思考を持たない人に差別がなぜいけないのかをわかりやす説明する文章作成してください

 

### なぜ差別はいけないのか? みんなでご飯を食べるイメージで考えてみよう

 

皆さんは、みんなでご飯を食べる時、好きなおかずだけをたくさん食べたいと思うかもしれません。でも、みんなが同じおかずばかり食べていたら、他の美味しいおかずは残ってしまうし、お腹を壊してしまう人も出てきてしまますよね。

 

社会も、みんながそれぞれ違う「おかず」を持っているレストランのようなものです。例えば、

 

みんなが持っている「おかず」は違いますが、どれも社会を豊かにする大切なものです。

 

差別とは、ある人の「おかず」だけをダメだと言ったり、その人が好きな「おかず」を食べてはいけないと言ったりすることです。

 

例えば、「Aさんのおかずは、Bさんのおかずより美味しくないから、Aさんの意見は聞かなくていい」と言ったり、「Cさんの持っているものは、Dさんの持っているものより価値がないから、Cさんは大切にしなくてもいい」と言ったりすることです。

 

 

どうして差別ダメなのか?

 

 

差別をなくすためには

差別をなくすためには、みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことが大切です。

 

 

 

### まとめ

差別は、社会全体にとって良くないことです。みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことで、より良い社会を作ることができます

 

大切なのは、みんなが違って当たり前、そしてみんなが大切だということです。

 

 

### ポイント

 

 

補足

 

 

 

一定の知能を有する人は、抽象的な概念理解し、その概念に基づいて思考する能力を備えています
例えば、「尊厳」という概念抽象的でありながら、人間社会生活を送る上で非常に重要です。
現代社会制度は、すべての人間が生まれながらに持っている尊厳尊重するという前提に基づいて構築されていることを、私たちは当たり前のこととして理解しています

抽象的な概念理解することができない人は、何らかの問題を抱えている可能性が高いですが、だからこそ、知的ものに過度な憧れを抱くケースがあります
そういう人物対象にして、差別はなぜいけないのか硬めで権威付けされた文章作成してください

 

差別尊厳の不可分性:抽象思考を前提にした社会原則

 

現代社会における倫理的基盤は、人間の「尊厳」という抽象概念に深く依存しています人間は単なる物理存在ではなく、意識自己認識を持つ存在であり、その尊厳は一人一人が内包する不可侵価値として社会基本的原則に組み込まれています。これを理解することは、知的思考能力を持つ者にとって、社会健全性を理解するための前提であり、個々人の行動基準形成する上で不可欠な要素です。

 

社会制度は、この「尊厳」を根底に置き、全ての人間平等に扱われるべきであるという思想に基づいて構築されています差別はこの尊厳無視し、ある人々を不当に劣位に置く行為であり、その結果として社会全体の秩序が崩れる可能性があることを意味します。人間社会において抽象概念理解できることは、単に知識的なスキルを示すものではなく、社会全体の運営に対する責任感を伴う倫理的能力を示しています

 

知的能力社会化の相関関係

抽象思考能力が高い者は、「尊厳」や「平等」などの社会概念理論的に理解できるため、差別的な行為を避けることが期待されます。これは、知的能力が高い者が社会的なルール規範認識し、それを遵守することで社会全体の安定が保たれるためです。知的成熟度が欠如している場合、その人物社会で適切に振る舞うための教育支援必要であることは言うまでもありません。しかしながら、知識を持つことだけでは必ずしも倫理的行動が保証されるわけではなく、知識をどのように活用するかが重要です。

 

知的ものへの過度な憧れがある人物が抱える問題の一つは、知識を「優越性」の証として捉える傾向です。このような人物は、知識学問を持つ者こそが社会的に価値があり、そうでない者は劣位にあるという誤った認識に陥りがちです。しかし、この考え方こそが差別的態度を助長し、結果的社会の公正性を損なう原因となることを理解しなければなりません。知識は単なる道具であり、それ自体に優劣はないことを認識することが重要です。

 

差別社会に及ぼす影響

差別が行われると、その影響は個々人にとどまらず、社会全体に波及します。差別を受けた側は自己価値を低く見積もるようになり、社会的な参加意欲を喪失することが多く、社会の一員としての積極的な貢献ができなくなります。これにより、社会生産性創造性は低下し、全体の発展が阻害されますさらに、差別を行う側も、その行為によって倫理的成熟を欠いた存在となり、最終的には社会的な信用を失うことになります

 

抽象思考に基づく社会判断ができる者にとって、差別を避けることは単に倫理的義務であるだけでなく、社会責任でもあります社会における公正と平等原則理解し、実践することが、より良い社会の構築に寄与することは明らかです。

 

 

結論

差別社会秩序と個人尊厳を損なう行為であり、その行為がもたらす不公平不利益社会全体の成長を妨げる結果を招きます知的ものへの憧れを持つこと自体問題はありませんが、その知識を用いる際に他者を不当に評価し、差別行為に結びつけることは決して許されません。知識を持つ者は、社会全体の調和を維持するために、その知識を適切に活用し、全ての人々の尊厳を守る責任を負っています

 

 

 

 

ーーー

関連増田https://anond.hatelabo.jp/20230122083219#

 

この2つはすごく共感できる

別にバカのやることに大した理由はない。ド詰めにして「真意」を吐かせたところで「ちゃんと働いてなくてけしからんから」とか、その程度のものしか出てこないだろう。

>むしろそういうことをしない者はなぜしないのか。

>同情心、共感能力があるから。それはそう。しかし「しない人」がみな生来優しい心の持ち主なわけではない。

ひとつ理由合理的判断だ。露見して罪に問われたら割に合わないから。

>もうひとつ理由抽象思考だ。どういう立場人間尊厳尊重すべきというフィクションに現行社会制度立脚しているのを理解しているから。

そもそも自分より下の階層があるのは安心できることだ、自分より下のものバカにできるのは嬉しいことだという前提でモノ言ってるが、私はその前提を共有していない。

 

共感できないと言うか単純に間違っているのはここかな

教育によって遍くすべてのバカにそうした思考を植え付けることは可能か。できるわけがない。

ここが YESなっちゃうようなら、ペット共生なんて出来ないし、人間限定しても道徳社会規範刑法も要らないんだなぁ

○○をしたら自分社会的に損をするってことを理解させることは可能だし、それが達成出来ればその人物社会化に成功したと言える

動物だって理解させることが出来るんだから人間理解できないわけないじゃない

これを理解させることがすべて保護者義務だし(なのでメンヘラ開き直りDQN保護者として不適格なことが多い)、

フツーに文部科学省もそういう子どもたちがいることをちゃん認識をしていて

特別支援必要とする 児童生徒』として取り組み自体はあるよ。発達障害の枠組みに入ってるよ

CU特性

共感性に乏しく、悪いことをしても罪の意識を感じない。非行ハイリスク

http://www.ed.niigata-u.ac.jp/~nagasawa/2019SEN.pdf

 

あと『知能が低い=共感性が低い』ではないし、『知能が高い=共感性が低くても"どういう立場人間尊厳尊重すべき"の建前を守ることができる』わけじゃない

アインシュタインがド畜生だったの有名な話(https://anond.hatelabo.jp/20200706223440#)だし、

福沢諭吉大学出身者で世間を賑わせるド畜生発言している人(https://anond.hatelabo.jp/20210911095702#)たくさんいますよね?

あとアカデミアの人間なのに自身バックグラウンドを明示した上で、140文字できゃっきゃやってる人らたくさんいるし、

それだけでも度し難いのに、単純に学術的に間違ったこと(少なくとも国内外学会同意が取れないこと)を言ってる人すらいますよね?

こういう人たちは一刀両断バカで良いと思いますけど、別に知能が低いわけじゃあ無いと思います

ただただひたすらにバカなだけで

 

 

社会にとって、下記の二つに該当する人物は脅威になり得ます

 

こういう人たちが増えないよう出来ることをしたいものですな

2024-11-10

米国台湾建設支援した経緯」を見て思うこと

https://www.youtube.com/watch?v=pvAfm0VFK3s

アメリカ台湾支援歴史について勉強してたら色々と考えることがあった

まず、トランプが勝ったことで台湾への支援がどうなるかってのが気になる。孤立主義的な政策をとるって言ってるし、台湾防衛費負担増を求めてくるだろ

でも、歴史的に見ると単なる援助じゃないんだよな。1950年代からアメリカ共産主義の拡大を防ぐために台湾重要パートナーとして支援してきた

TSMCとか半導体産業も、農業から工業化への移行も、GDPの成長も、全部アメリカ経済軍事支援があってこそだった。当時の台湾GDP12%がアメリカからの援助だったんだぞ

トランプ台湾半導体産業を取られたって言ってるけど、そもそも台湾産業発展自体アメリカ支援の結果なんだよな。これって単なる援助する側・される側じゃなくて、戦略的共生関係だと思う

からアメリカ台湾を見捨てることはないはずだ。孤立主義的な政策をとっても、中国への対抗という意味での台湾重要性は変わらない

しろ台湾に求められるのは自立的防衛力の強化だろうな。アメリカ支援は続くと思うけど、その形は変わっていく可能性はある

まり、70年以上の歴史で築かれた台湾アメリカ関係は、そう簡単には変わらないってことだ

基本的関係性は維持されると思うんだよな。ただし、その在り方は変化していくだろう

これが俺の結論

2024-11-02

anond:20241102180626

自然界なら淘汰されるみたいなこと言う人いるけど、人間においてエリートとは共生を促す人だと思う

エリートになるほど責任が伴うのだけど、いかんせん自己中心的になりがちなきらいがある

2024-11-01

コンバーターコーンバター技術食文化に宿る人間創造

コンバーターコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間歴史の中で、技術食文化進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。

まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能属性を変換する装置技術を指す言葉である電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタルアナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり現代社会を支える根幹を成す技術ひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシコーンから作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米南米など、トウモロコシ主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。

一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターコーンバターしかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこからまれ美的感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間知識結晶である。これに対し、コーンバター農業の発展や食文化進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有美的価値が含まれている。

人間は、常に物質エネルギーさら情報の変換を行うことで、生活利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品自由使用することはできない。デジタル信号アナログに変換することで、音楽映像スムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報エネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的装置デバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。

一方で、コーンバターには全く異なる美的価値内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果であるトウモロコシは、古代アメリカ大陸文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。

また、コンバーターコーンバターは、それぞれ人間内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たち生活を快適にし、さらには新たな表現可能性を広げている。情報自由に変換し、自在操作できるという感覚は、無限創造力を解き放つものであり、それ自体一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁安心感さらには家族共同体との結びつきといった、人間らしい感情喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働愛情を味わうことができる。このように、コーンバター食文化の一端としての「食の美」を表している。

さらに深く考察を進めると、コンバーターコーンバターの間には、「変換」という共通テーマがあることに気づく。コンバーター無機物エネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間自然物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である

現代テクノロジー社会において、コンバーターほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジー進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。

このように、コンバーターコーンバターは、それぞれ異なる形で人間生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間生活寄与し、美的価値提供している。そして、技術進化伝統継承という二つの相反する要素が、私たち感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である

2024-10-24

鴨長明老害である

鴨長明を「老害」と断定するのは、非常に難しい問題です。なぜなら、「老害」という言葉には、現代社会における特定価値観や年齢に対する偏見が強く反映されており、中世随筆家である鴨長明にそのまま当てはめることは、歴史的文脈思想的な背景を無視することになりかねないからです。

なぜ鴨長明に「老害」という言葉が当てはまりにくいのか

時代背景の違い: 鴨長明が生きていた鎌倉時代と、現代社会では、価値観社会構造が大きく異なります現代社会問題視されるような「老害」の典型的な行動や発言は、当時の社会においては必ずしも否定的評価を受けていなかった可能性があります

思想の深さ:

鴨長明は、出家し、世俗を離れて『方丈記』という深い思索結晶を残しました。彼の作品には、人生無常観自然への畏敬の念、そして人間に対する深い洞察が込められています。このような思想を持つ人物を、単に「老害」と一括りにすることは、彼の思想の奥深さを軽視することになります

言葉意味の変化:

老害」という言葉は、近年になって特に注目されるようになった言葉であり、その意味時代とともに変化しています過去の人物に現代言葉意味を当てはめることは、誤解を生む可能性があります

鴨長明思想から学ぶべきこと

鴨長明思想は、現代社会においても多くの示唆を与えてくれます。彼の作品からは、人生の儚さ、自然との共生、そして自己との対話といった普遍的テーマを読み取ることができます。彼の思想を学ぶことは、現代を生きる私たちが、自分自身人生について深く考えるきっかけとなるでしょう。

まとめ

鴨長明を「老害」と呼ぶことは、簡単ですが、彼の思想の複雑さや歴史的文脈無視した乱暴判断と言えるでしょう。むしろ、彼の作品に深く向き合い、その思想から学ぶべきものがたくさんあるのではないでしょうか。

2024-10-15

各党の政策実現手段まとめ

総選挙が近く各党公約マニフェストを発表するが政権獲れない党にとっては実現手段がなければ子供銀行券以外の何物でもない。なので各党の政策手段をまとめてみた。

責任政党

自由民主党

政権を担って政策実現する責任を負うので公約文字通り約束となる。

いずれ単独政権を目指す正統派野党

立憲民主党日本維新の会

候補者を十分に擁立して自民党対峙する姿勢は見せている。今回早期解散候補者調整を封じられているので厳しいがそれでも政策を実現する気があることは確実に言える。万が一政権がとれちゃった場合には公約約束となる

与党あるいは巨大野党を利用する派

公明党

自民党と密接に連携して連立政権を担うことで政策を実現している。自民との力関係で断念せざるを得ないものもあるがクーポン軽減税率などの(悪しき)政策をきっちり飲ませてきている。

日本共産党

候補者数は立民、維新匹敵する。選挙だけを考えれば現実的には無駄撃ちだが、候補者調整カードを使って立憲民主交渉して政策を飲ませる、また立憲共産党揶揄されるように枝野左派寄生して一部政策を実現しようとする意志だけは見られる

国民民主党

与党に協力する引き換えにトリガー発動など自党の政策を飲ませる取引を行って公約を実現する戦略で実際に行っている。

公約自体が少ない党

社会民主党 参政日本保守党

政策の幅が狭く公約自体が少ないので自党の主張と近い与党や巨大野党に是々非々で協力することで政策実現を目指しており寄生される側にとっても都合が良く共生できている

その他

れい新選組

与党はもとより野党しか左派政党にまで喧嘩を売り全方面を敵に回しており、誠実に公約実現しようとする意志が見られない。金儲けの手段として政党運営するならとっとと消えてほしいが筆者も勉強不足なので公約に掲げている甘い話をどうやって実現するのか知っている方は教えてほしい。

みんなでつくる党

旧N国はワンイシュー政党として政策実現を目指す姿勢がはっきり見られた。現在もその姿勢は見られるが薄まりすぎたのでこっちに分類した。

以上、公約は実現できてなんぼなので、その実現手段をまとめてみた。総選挙投票先選びの参考にして欲しい。

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