はてなキーワード: 公開講座とは
中学時代、私は運動が全くできない運動音痴だったが、勉強は得意だった。レベルの低い田舎の公立中学校だったので常に定期テストは学年1位。私のアイデンティティは勉強しかなかった。田舎の男子中学生の社会の中で、運動音痴はヒエラルキーの最底辺。体育の時間は苦痛で、運動音痴で鈍臭い動きしかできない自分は馬鹿にされているように感じていた。だから私は勉強ができない人間を内心馬鹿にしていた。体育の時間に散々私を馬鹿にしたのだから、お互い様だと思っていた。
高校は県内トップの進学校を志望し、模試では常にA判定だった。フィジカルの強さが物を言う野蛮な田舎とはおさばらできると思っていた。
念願叶って高校受験は第一志望に合格し、私は県内トップの進学校に入学した。ようやく、運動音痴の呪縛から解放されると思った。だが、現実は違った。
県内トップ校の子たちは運動も勉強も私より出来る子ばかりだった。基本的に皆優しかったが、中には粗暴な者もいて、露骨に私の運動音痴っぷりを見下す態度をとられたこともあった。私のアイデンティティは崩壊した。勉強でも運動でも周囲に勝てない私は、自分がとてつもなく無価値な人間のように思えた。その結果、自分のような無価値な人間がクラスメイトに話しかけても迷惑なだけだろうと思い込むようになり、誰とも会話をしなかった。勿論、高校時代は友達が出来なかった。
一応、自分なりに勉強は頑張った。でも、東大や京大に行くようなレベルには到底なれなかった。高校の成績は受験直前期でも半分より少し上くらいだった。トップにはなれなかった。
大学入学後、運動の呪縛から逃れたかった私は、音楽サークルに入った。音楽センスがあるわけでも、楽器が特段上手いわけでもなかったが、友達や人生で初めての彼女がサークル内で出来て、それなりに楽しいサークル活動だった。
勉強のほうも、それなりにやった。政治に関心があったので、政治系ゼミに入り自分の興味関心の赴くままに、ゼミ論文を作成した。学部生の書く拙いものだったが、満足感はあった。
旧帝大ということもあり、地元ではちやほやされた。私は高校時代に潰された勉強というアイデンティを取り戻そうと思った。県下トップの進学校から旧帝大に入った実績がある。中学時代は学年1位だった。勉強は得意なはずだ。そう思って、学部3年生の時、私は法科大学院に進学し文系最難関の司法試験を受けようと決断した。
前述のとおり、ゼミは政治系ゼミだったため、周りに司法試験を目指す友人はいなかった。そのため、相談できる友人もおらず、孤独な勉強だった。勉強は何から手を付けて良いかもわからなかったが、とりあえず勉強して法科大学院試験に臨んだ。今思えば、全く努力の方向性を間違った勉強法だったと思う。論証パターンという言葉を知ったのは試験の2か月前だった。もちろん既修者試験は落ちた。私は未修者コースに入学することになった。
法科大学院での生活は大変だった。学部のころに法律の勉強を一応していたとはいえ、講義の内容は難しく、予習復習に追われた。ほぼすべての科目が必修科目で、一つでも単位を落としたりGPAが一定値以下だと留年や卒業延期になるため、期末試験が近づくと、精神的に不安定になった。法科大学院生活では楽しいこともあるにはあったが、トータルで見たら辛いことのほうが多かった。
期末試験を何とか乗り切った私は、一年生から二年生へ進級できた。二年生になり、既修者と合流して講義を受けた。周囲のレベルの高さに正直ついていけず司法試験に受かるとは思えなくなった。深夜に自習室で勉強しながら涙を流す日が続いたことをきっかけに、中退を決めた。勉強というフィールドで戦うことに心が折れたのだった。
未修者コースには東京の中堅レベル私大の法学部卒や地元の私立大学法学部卒の人間などもいた。私が心折れて中退した後、彼らは卒業までこぎつけ、ついには司法試験に受かり弁護士になった。私より勉強が不得意な人たちだと思っていたが、私が断念した試験に受かり、立派に弁護士をやっている。
一方私は、法科大学院中退後になんとか就職。新卒カードを失った私は民間を諦め、公務員試験を受けるしかなかった。新卒就活だったら切符が手に入ったはずの企業に足蹴にされるのが怖かったからだ。法科大学院で法律の勉強をしていたこともあり、公務員試験の筆記試験は特に苦も無く合格した。面接もそれなりに振舞えたようで、第二志望の自治体に採用が決まった。入庁後は上司や他の自治体職員から執拗にきつい言葉をあびせられたことを機に、メンタルを病み休職。今は完全に閑職に飛ばされ、精神的負荷の少ない仕事を任されている。出
世の見込みはないだろう。
中学生以来の私の勉強というアイデンティティは完全に失われた。こんなことを言ったらドン引きだろうが、私より入学難易度の低い大学出身の人間が弁護士として働いていることや、中学時代に私より勉強のできなかった中学校の同級生が東京や大阪の大企業に新卒入社してギラギラと頑張っていることを知るたびに、猛烈に落ち込む。学生時代は私のほうが勝っていたのに、なぜ。。。と。
私が学生時代積み上げてきたものは何だったのか。ときたま人生に意味を見出せなくなる。人生に意味を見つけようと私なりにもがいた。音楽の社会人サークルに入ったり、大学の公開講座に参加したり、大学院進学を検討したり(来年放送大学大学院を受験しようと考えている)。だが、何をしても私の心は満たされない。
それを言うとあれは両方ともそうでしょ
妻は土曜日の仕事のパーティ、夫は職場のバーベキューでどっちもどっち。
最初見たときはこいつら自己中同士だな...って思ってたけれど、まあ、夫婦ってそういう中でお互いにすり合わせていくものかと2話を見終わって思った。
...軍団に限らずザ・日本の組織ってああいうところあるよ。今では減っているだろうけどさ。
とあるお寺のイベントに行ったら周りは坊主の夫婦ばっかりで、和装していったワイは坊主と間違えられたとかさ
とある医師会主催の公開講座に行ってワイが質問したら発表者がめちゃくちゃ恐縮していて、続く質問者を見て医療従事者に動員がかかっていたことに気づくとかさ。あれは子ども関連の口座で、夫婦が多かったから、夫婦で席をあっために来てたんだろうな
東京大学「情報経済AIソリューション寄付講座」担当 大澤昇平特任准教授
4月 情報経済AIソリューション寄付講座設置(~2024年3月31日)
9月 情報経済AIソリューション公開講座開講(~2024年3月31日)
11月7日(木) AbemaTV けやきヒルズ出演 信頼できるWebサイトの見分け方のポイントは「アドレスバーにカギのアイコンが付いているかどうか」
11月23日(土) 東京大学大学院 情報学環・学際情報学府 学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する見解
11月24日(日) マネックス証券 PDF マネックスグループのニュースリリース 本講座に対する寄付は速やかに停止する方針
11月25日(月)オークファン PDF 寄付講座担当特任准教授の不適切な書き込みに関する当社の見解について 今後本講座に対する寄付は速やかに停止する方針
11月25日(月) 大広 当社寄付先 東京大学「情報経済AIソリューション寄付講座」担当准教授によるSNS等への投稿に対する見解 今後の本講座に対する寄付を中止する方針
11月25日(月) remixpoint 当社出資先の代表者によるSNS等への投稿に対する見解
11月27日(水) Streamr Daisyとの提携解消
11月28日(木) 東京大学大学院 情報学環・学際情報学府 www.iii.u-tokyo.ac.jp/news/2019112811043 学環・学府特任准教授の不適切な書き込みに関する学生へのメッセージ 問題発覚後、書込みの削除を含む注意指導を繰り返しおこなっていますが、まだ削除されておりません。
11月28日(木) 東京大学大学院 情報学環・学際情報学府 www.iii.u-tokyo.ac.jp/news/2019112811058 学環・学府特任准教授の不適切な書き込み等に関する調査委員会の設置について
この記事もひどいが、それ以上にブコメ欄に群がってるミサンドリストの発狂ぶりがおもしろくて笑いがとまらん。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/sumomodane/n/n100d70e27871
人間以下の人間がいうと説得力すごいですね。あ、もしかして自分は人間のつもり?ないわー。
男性が弱くてもいい社会にしていくためにも女にケアさせるのはやめないとだね。そのために誰かのせいと言うのは遠回りだね。はやく人間同士になりたいね。 note gender ジェンダー これはひどい いつまで赤ちゃんでい
あなたこの記事に書かれてること完全に肯定するサンプルになってるんだけど、馬鹿ってやっぱり自分が批判されてても自分のことだと思わないんだな。馬鹿だからしかたにないけど。
セックスできるママが欲しい、という長文。「女さえ意識変えて自分の言う事聞けば全て変わる」と思ってるところが気持ち悪い。経済力の獲得に積極的な女性もいるし、経済力のない男と仲良くするメリットがない。
ちょっと何言ってんのかわからないけど普段周りの人から関係ない話ばっかりしてる馬鹿って言われてないか心配。
公民館とか公開講座行くと、男性の方が圧倒的に「俺の話を聞いて」「俺を褒めて」ってなっちゃって関係性築けないんだよね……公民館に来るような人でも。そこに女性の意識改革がなんの役に立つ?よしよししろって?
このブコメしてる人ほかでも何を読んでるのかぜんぜんわからない謎の文脈がわいてくるんだけど何喰って生きてたらこんな超解釈がでいるようになるの?そのアイコン俺の好きなゲームだから使うのやめろや。
結婚したくてもできないの、金がないからじゃなく、一日中女叩きしてる人間性に根本原因があると思うんだけど、「女が認識を改めさえすれば俺も選ばれるはずである」みたいな謎の自己肯定感はどこからくるのか
なんで頭の悪い人はすぐアベガーと結びついちゃうの?フェミはとにかく自分は悪くない自分以外に悪者探す思考だからっていうのが説得力マシマシになっちゃうからこういう頭の悪い発言するのやめたら?
お前らオトコが怒るべき相手は世間や与党政治家だろうが 何故その辛さや怒りをフェミニストや女性にぶつけるんだよ 日本オトコさん達はマジで意味わからん
くたびれ・・・見てるか…
お前を超える逸材がこんなにいるのだ。それも5人もだ(いらない)
最初はアートに携わってる人の中でも当人の責任を問う声と、公開講座って面と会田誠ってとこからの同情、大学も気をつけるべきではって声で意見分かれてたのに、声デカく現れた、人を傷つける表現はすべきでない、人を傷つける表現に価値はない、芸術ではない、芸術は万人に向けられるもの、人を傷つけない表現は可能なのに派閥によりメディア問わずもの創ってる層が一丸になってハァ?ってなってて、更にそれまで何も言ってなかった層からまで被害訴えた女性への批判意見引き出してて、まさに彼女らの言うセカンドレイプの様相を招いてて何か解りやすい縮図を見てるような気になった
その女性本人でさえ会田誠は否定しないけど大学はちゃんとしろよってスタンスなのに、代弁者のフリで考えなしに、自分では代弁者として弱者の、女性のためにやっていると確信を持って拳振り上げたら逆に総叩きにあって、それがその被害受けたって女性にまで飛び火してるのほんとアレだなって
人を傷つける表現に価値はない、って有名人に噛み付きに行ってお前が今やっとる事なんやって指差されてるのもやばくて笑った
どういう思考回路してんだろうか
主観と客観でものが違うって事を知らないまま生きて来ちゃったのかなって心配になる
それともむしろ逆に共感性が異常に低くて自分が口にする、批判する相手の立場に自身を当て嵌める事が出来ないのかもしれない
だからこそ被害女性とは異なる意見を堂々と代弁してるかのように語る厚顔無恥さを何とも思わないのかもしれない
そういう人たちに限って自称フェミニストだったりするのもまた酷い
アート分野は洋の東西問わず被害側の女性が自分の傷と向き合い表現する場として顕著なものだし、性的な表現も実は女性アーティストに多く見られるもので、それはフェミニズム的な性の開放という面でのものでもあるし、ヴァギナやペニスをモチーフ、インスピレーションにした作品だって有名どころから学生作品までごまんとあるどころかむしろ主要インスピレーションのひとつと言っていいもので、また映画や小説、アメコミやバンドデシネにおいても女性の苦境や逆境、被害やそういう状況を敢えて描く事で啓発を促し、そこから立ち上がった女性を讃えるフェミニズム的表現の作品なんてある意味ひとつのジャンルと言っていい程に存在してるのに、それらをどういう気持ちで否定してんだろうって思う
否定してる気は恐らくないんだろうけど、それなら不必要に分母をデカくするのは自己顕示欲からなのか、自己承認欲求から自分の意見のサイズ感を補強してるのか何なのか
以前同じように人を傷つけるような、差別的な表現はどんな場合でもすべきでない、なんて話見た時も思ったけど自身の想定の偏りに自覚が無いまま、もしくはある一定の層だけを指す自覚はあってもそれを口にする時の表現への無責任さがあまりにもって感じある
人を傷つける表現はすべきでない、と言う事は傷付いた人がその事を、傷付けられた人を他者が代弁的にも表現すべきではないという事にだって繋がるし、価値はないと切り捨てる表現は対象が何であれ傷つけるものだなんて明白で、そこの矛盾に気付かないのはよほど無神経か傲慢かのどちらかに思える
過去批判して非難して闘って権利勝ち得て来たフェミニストに謝罪案件だよ
毒を持った近代芸術やシーレを嫌った毒にも薬にもならないまさに誰も傷つけないであろう絵を描いたヒトラーを引き合いに出す人もいて、実際人を傷つける表現を表現ではない、表現として価値がない、というならホロコーストで、当時何があったかを描く作品も否定されてしまうのだし、自分は正しいと思ってそう言っている辺りもまさにナチス的だなと思う
声でかい一人にプロフィール欄フェミでドイツ好き海外留学したいって書いてる人がいて皮肉過ぎてちょっと笑った
ドイツなんてナチス関連でショックや人の心を抉る事で痕を残して歴史を考えさせるって作品のメッカみたいなとこあるのに
攻撃的で性的で毒のあるアート表現はヨーロッパの方が活発で理解も日本に比べれば市民権もあって公共の場で明らかな性器モチーフの彫刻飾られてる事もあってそういうの知ってるのかな知らないとしたら知ってどう思うんだろうって思う
狂気性をアートで表現する人間がいるだけで本来アートは人を傷つけるものじゃないみたいなリプも見たしやっぱり自身の定義と自分の外のそれの差異の存在を理解以前に認識出来てないのかもしれない
るみ子へ噛み付いたツイートなんかを見ると認知バイアスも入ってるように見える
そういう自分が解ってない、知らない範囲が何であるか自体にさえ自分の理解が及んでいないというか、個人の狭い見識も無知さも罪ではないけどそれを自分の属する年代なり性別なりフェミニストなりのグループ代表として、客観的意見として語るからやばいわけで、実際今回の事でもそういう人は「フェミニスト」という枠で語られ評価されてしまっていて枠ごと敵を増やす結果になっているのを見ているとタイトルのままこういう事なんだな~と何だかどこかで納得してしまった
有名な事は『事前に調べる方法はあっただろう』って話になるし。全く無名の人なら調べようが無いから。
普通に美術館での展示でも作品によっては隔離して展示してんのに
いや別に制限なしで公開講座もいいけど内容のすり合わせはしとかなアカンやん
会田誠知っとけよって言うけど正直大学側こそ知らんで企画したんちゃうんて思うレベル
知ってて行った中でも公開やしある程度抑えてやるのかなって思った人おる思うわ
浮世絵と現代への影響って枠でやって残酷絵とそれに伴うそっち系のエログロナンセンス重点的にやるみたいな話やしそら怒られるわ
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190227-00009302-bengocom-soci
京都造形芸術大の公開講座で精神的苦痛を受けたとして訴訟を起こした件へのブックマークコメントだが、
「勉強不足」
「シラバス読め」
「当たり屋」
なんだこれ。地獄かよ。
こういうコメントつけている奴らは、公開講座が何なのか分かってんのか?
公開講座は、あらゆる人の生涯学習を支えるために行われる大学の社会貢献的事業であり、
正課の授業とは全く性質が異なるんだよ。
専門分野に属した学生がカリキュラムに従って体系的に学ぶものではなく、
本当に60-70代のおじちゃんおばあちゃんばっかりだったりして、
講座によって参加者層は極めて多様なわけだよ。
特定の年齢層や特定分野の前提知識を有する層を対象とすることは、
今回はあくまで原告が偶然この分野を専門とする人だったというだけで、
公開講座の趣旨を鑑みれば、年齢や学歴問わず「学ぶ自由」を保障するための仕組みなんだから、
参加者層を限定していない以上、主催側たる大学が、きちんと事前に条件や詳細な内容を説明して
参加者募集をする責務がある。
そもそも「シラバス読め」と言っている皆さんは、自分でシラバス読んだんですか?
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/coursedtls/courseDetail/G1811318
第3回:ヌードあれこれ話
ヌード、あるいは女性像を画題にした自作を中心に話します。たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。
会田 誠 (美術家)
1965年新潟県生まれ。1991年東京藝術大学大学院美術館研究科修了。絵画、写真、立体、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画など表現領域は国内外多岐に渡る。近年の主な個展に「天才でごめんなさい」(森美術館、東京、2012-13年)、「考えない人」(ブルターニュ公爵城、ナント、フランス、14年)、「世界遺産への道!!~会いにいけるアーティストAMK48歳」(霧島アートの森、鹿児島、14年)など。
この文章で、残忍で強烈な画像を見せつけられそうな雰囲気が、どこから汲み取れる???
本当に何も知らない人が読んだら、普通のアーティストさんにしか見えない文章じゃんか。
これ読んだところで内容の想定は不可能だと思うし、公開講座の受講者がシラバス以上に深い知識を
事前に自分で調べないと応募してはならない、なんて義務はどこにもないですよ。
ちなみに、シラバスを見ればわかる通り、受講条件も何も書いていない。
他の科目を見てみると、何らかの条件がある場合は「備考」に書いてあるケースも
あるので、決して書く欄が無かったわけではないことは明白である。
(例)"なお、認定の条件は、18歳以上で、"
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/coursedtls/courseDetail/G1823304
さらに付け加えると、↓の上部に掲載されている受講規約を見れば、
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/gakusha/stgg/matter/matter/
受講資格は、満 15歳以上の藝術学舎で学びたいという意志をもち、本受講
規約を遵守することに同意される方とします。学歴等の制約や選抜試験はあ
りません。
と書いてあり、シラバスで特段の条件指定が無ければ、15歳の中学生が受講する可能性だってあるわけで、
そのような前提の講座にも関わらず、事前説明なく記事のような内容の授業が行われたとすれば、
何より、この原告の女性は、会田誠の芸術表現自体は否定してないじゃんか。
会田誠のような芸術表現が世の中に存在することは理解するとしたうえでも、
それを大学の公開講座という学問のプラットフォームにのせるのであれば、
その主催者が相応に運営上の配慮や工夫はしてよ、というお話でしょ?
そんなの当然じゃんか。それをやらないなら、大学は何のために存在してるんだ?
学問のコーディネータとしての責務を果たせていたかを問われているわけでしょ?
にも関わらず、「会田誠くらい知ってて当然。知らなかったほうが悪い」という論調のブコメばかり。
前回早朝に書いたときは誰も見てなかったのでもう一度書く。
平和を脅かし、国民の主権を踏みつけにし、主権者国民の権利をないがしろにしつづけている。
今、安倍政権をとりまく種々の問題はすべてこの条文を改正しようとしているがために起きている。
それはクワトロ・バジーナがシャア・アズナブルその人であるというくらい公然の秘密だ。
70才を超え、TVばかりみている私の父でも知っている。
戦争放棄の平和憲法の条文を守ることを政治信条とする人間たちが、話し合いをする場でいつも話し合いをせず、相手をゆるさず、理解せず、ただただ痛烈に非難するだけなのに、国と国との紛争解決の場で、兵士や市民の命を懸けて武力を用いそうになっている極限状態で、急に他の人たちには決してまねのできないレベルの有意義な話し合いをするという。
なんという傲慢。なんという他人蔑視。なんという問題認識能力の不足。
これはごくごく単純なコモンセンスだろう。
トマス・ペインが今日本に生きていたら「イエス(高須)」と賛同してくれるに違いない。
安倍政権よりも真っ先に糾弾すべきは野党だ。まっとうな政治をするために欠けているのはまっとうな政権よりもまっとうな野党だ。
でもこんな国民のコモンセンスが決して共有されないマスメディア。
メディアの安倍政権追求報道を見ていると、「アポロは月面着陸していなかった説」を主張する陰謀論者の話を聞いているようでほとほと理性をすり減らしてしまう。こっちまで馬鹿になりそうだ。
どんなに有効な反論をしても黙殺されて、何か自説に都合の好さそうな材料を小出し後出しで持ってくる。
これはオールドメディアの自殺としてのちに歴史の教科書に載るべき事件だ。この事件の構図や裏側をスクープすることこそジャーナリズムじゃないのかね。いや本当に。
ところで、私はしがないサラリーマンだ。生活に必死だ。後進国の人々に生活水準でどんどん追い越されている立場のものだ。
でも、こういう私を赤化あるいはリベラル化しようとはせず、馬鹿にしているエリート層が日本の赤でリベラルだ。これも公然の秘密だし、コモンセンスだ。
こういう増田を書けば、私もネトウヨと揶揄されているものの一人になるだろう。
でも私は思う。私は荻上チキと文化論ではいい友達になれると。もちろんこれはコモンセンスじゃない。
でも彼は私のことを馬鹿にして決して友達とは思ってくれないだろうね。これはコモンセンスかもしれない。
さて私は2度転職して3度パワハラを受けた。今の野党がやっているような内容だ。
できるはずのない仕事量を押し付けてミスがあった。仕事の基礎を揺るがすようなミスだと騒がれた。でも本当は些細なミスだ。騒いでいる当の本人が協力すれば防げたし、わずかな時間でカバーできる。本当に基礎をゆるがすようなミスならばあなたはなぜそんなに無関係を気取っているのか、本当にあなたに責任はないのか、なぜそんなに非協力的なのか全く理解できなかった。
野党が悪魔の条文を守るためにやっていることは、国民の生活を脅かすパワハラ文化を日本に根付かせ、正当性を与えるようなものだ。
多くの人は見たことあるだろう。パワハラ現場を。あの野党のやり口はまさにそれではないか。
労働者を守る。代表する。と自認する立場の国会議員が労働者が苦しむパワハラのやり方を公開講座として日々メディアにのせる。
森友問題は、安倍昭恵さんの脇が甘くて詐欺師に懐にもぐりこまれたのが真相なのはコモンセンスだ。奔放な性格の昭恵さんを証人喚問して、そのうえで挑発して不規則発言を誘導し旦那の首をとろうという野党とその協力メディアの筋書きもまたコモンセンスだ。こういう本当に罪を犯していなくても有罪として裁いてやろうというやり口が職場ならパワハラだし、学校ならいじめのやり口そのものだというのは、もちろん、コモンセンスだ。
私はたまたま利益を上げることできる才能と運に恵まれていて3度ともパワハラをしのげた。だが、昭恵さんは相手が悪い。スターリンのように罪状はなんでもいい。最初から首だけを狙っているからだ。これもまたもちろんコモンセンスだ。
加計問題の本質は安倍さんの友人であれば人権は制限される。ゆがめられてきた獣医教育行政を正す機会と能力に恵まれても実行してはならない。安倍さんの友人が安倍さんと志を同じくして協力してはならないという点にある。安倍首相は常に孤立していなければ不正なのだ。これは野党とメディアのコモンセンスだ。一方で、セクハラをしたとされる福田財務次官よりもよほど悪質で、直接手まで出している鳥越俊太郎氏が別段問題視されず、その後もTVでご意見番をしているのは悪魔の条文の有力守護者であるからというのは国民のコモンセンスだ。守護者たちの友人関係は「善」なのだ。自分たちの連帯が素晴らしいからだ。
台湾出身で、台湾国籍をさかのぼって抜くために台湾政府に借りを作っている野党議員や、他人を疑惑の総合商社と非難しておいて自分が詐欺を働き、さらにそのうえで「ワークシェアリングだった」などと珍妙な言い訳をして今また首相を詐欺師扱いしている野党議員、そういう人たちがのほほんと議員を続けていられるのも悪魔の条文の守護者に加担しているからだ。これももちろんコモンセンス。
外国に借りを作った国家権力者がその後どういう行動をとるか、ドイツに特別列車を用立てられたレーニンがドイツと講和をして領土をたくさん割譲した例をみても明らかだろう。そして結局即時講和、平和を叫んでも実際は列強の干渉戦争を呼び込んでしまった。
自分の詐欺を十分に反省しない癖に、ほとんど女と甘酸っぱい時間を過ごせていない私のようなすばらしい日本男児をレイプ魔の子孫として世界に紹介し、歴史に記録しようとする。だれもまずは自分がやりすぎなくらい反省しなさいよと教えてあげない。他人にはやりすぎなくらい反省しなさいと強要してくる。20万人の性奴隷強制連行が嘘八百というもやはりコモンセンスだし、罪のない無力な市民を無実の罪で吊し上げ迫害するのが左翼の政治信条。これもコモンセンス。
私たちの知る権利、野党を正す権利、労働者としての権利、歴史的無実を叫ぶ権利、挙句の果てには総選挙で民意を示す権利でさえも憲法9条を守るという大義名分によって踏みにじられようとしている。この条文があるからこんなことが立て続けに起きるのか!?そうなのであれば、必ず!絶対に!すぐさま!憲法9条悪魔の条文は改憲されなければならない。これこそがここで一番言いたかったコモンセンスだ。
私がもし熱烈な護憲論者なら今すぐこの卑劣な改憲阻止運動を糾弾する。国民すら二派にわけて争わせる平和主義者・武力放棄論者があってたまるか。(武力蜂起論者なら合点がいく。)
そんなやつらには絶対に紛争を話し合いで解決できないだろう。今だって解決できないし、する意思もない。拷問の末無実の罪を自白させるようなことをやっている。まぁ、政治信条からしてそういうやり方が好きなんだろうけど。これもやっぱりコモンセンスだね。
平和を脅かし、国民の主権を踏みつけにし、主権者国民の権利をないがしろにしつづけている。
今、安倍政権をとりまく種々の問題はすべてこの条文を改正しようとしているがために起きている。
それはクワトロ・バジーナがシャア・アズナブルその人であるというくらい公然の秘密だ。
70才を超え、TVばかりみている私の父でも知っている。
悪魔の条文を守ることを政治信条とする人間たちが、話し合いをする場でいつも話し合いをせず、相手をゆるさず、理解せず、ただただ痛烈に非難するだけなのに、国と国との紛争解決の場で、兵士や市民の命を懸けて武力を用いそうになっている極限状態で、急に他の人たちには決してまねのできないレベルの有意義な話し合いをするという。
なんという傲慢。なんという他人蔑視。なんという問題認識能力の不足。
これはごくごく単純なコモンセンスだろう。
トマス・ペインが今日本に生きていたら「イエス(高須)」と賛同してくれるに違いない。
安倍政権よりも真っ先に糾弾すべきは野党だ。まっとうな政治をするために欠けているのはまっとうな政権よりもまっとうな野党だ。
でもこんな国民のコモンセンスが決して共有されないマスメディア。
メディアの安倍政権追求報道を見ていると、「アポロは月面着陸していなかった説」を主張する陰謀論者の話を聞いているようでほとほと理性をすり減らしてしまう。こっちまで馬鹿になりそうだ。
どんなに有効な反論をしても黙殺されて、何か自説に都合の好さそうな材料を小出し後出しで持ってくる。
これはオールドメディアの自殺としてのちに歴史の教科書に載るべき事件だ。この事件の構図や裏側をスクープすることこそジャーナリズムじゃないのかね。いや本当に。
ところで、私はしがないサラリーマンだ。生活に必死だ。後進国の人々に生活水準でどんどん追い越されている立場のものだ。
でも、こういう私を赤化あるいはリベラル化しようとはせず、馬鹿にしているエリート層が日本の赤でリベラルだ。これも公然の秘密だし、コモンセンスだ。
こういう増田を書けば、私もネトウヨと揶揄されているものの一人になるだろう。
でも私は思う。私は荻上チキと文化論ではいい友達になれると。もちろんこれはコモンセンスじゃない。
でも彼は私のことを馬鹿にして決して友達とは思ってくれないだろうね。これはコモンセンスかもしれない。
さて私は2度転職して3度パワハラを受けた。今の野党がやっているような内容だ。
できるはずのない仕事量を押し付けてミスがあった。仕事の基礎を揺るがすようなミスだと騒がれた。でも本当は些細なミスだ。騒いでいる当の本人が協力すれば防げたし、わずかな時間でカバーできる。本当に基礎をゆるがすようなミスならばあなたはなぜそんなに無関係を気取っているのか、本当にあなたに責任はないのか、なぜそんなに非協力的なのか全く理解できなかった。
野党が悪魔の条文を守るためにやっていることは、国民の生活を脅かすパワハラ文化を日本に根付かせ、正当性を与えるようなものだ。
多くの人は見たことあるだろう。パワハラ現場を。あの野党のやり口はまさにそれではないか。
労働者を守る。代表する。と自認する立場の国会議員が労働者が苦しむパワハラのやり方を公開講座として日々メディアにのせる。
森友問題は、安倍昭恵さんの脇が甘くて詐欺師に懐にもぐりこまれたのが真相なのはコモンセンスだ。奔放な性格の昭恵さんを証人喚問して、そのうえで挑発して不規則発言を誘導し旦那の首をとろうという野党とその協力メディアの筋書きもまたコモンセンスだ。こういう本当に罪を犯していなくても有罪として裁いてやろうというやり口が職場ならパワハラだし、学校ならいじめのやり口そのものだというのは、もちろん、コモンセンスだ。
私はたまたま利益を上げることできる才能と運に恵まれていて3度ともパワハラをしのげた。だが、昭恵さんは相手が悪い。スターリンのように罪状はなんでもいい。最初から首だけを狙っているからだ。これもまたもちろんコモンセンスだ。
加計問題の本質は安倍さんの友人であれば人権は制限される。ゆがめられてきた獣医教育行政を正す機会と能力に恵まれても実行してはならない。安倍さんの友人が安倍さんと志を同じくして協力してはならないという点にある。安倍首相は常に孤立していなければ不正なのだ。これは野党とメディアのコモンセンスだ。一方で、セクハラをしたとされる福田財務次官よりもよほど悪質で、直接手まで出している鳥越俊太郎氏が別段問題視されず、その後もTVでご意見番をしているのは悪魔の条文の有力守護者であるからというのは国民のコモンセンスだ。守護者たちの友人関係は「善」なのだ。自分たちの連帯が素晴らしいからだ。
台湾出身で、台湾国籍をさかのぼって抜くために台湾政府に借りを作っている野党議員や、他人を疑惑の総合商社と非難しておいて自分が詐欺を働き、さらにそのうえで「ワークシェアリングだった」などと珍妙な言い訳をして今また首相を詐欺師扱いしている野党議員、そういう人たちがのほほんと議員を続けていられるのも悪魔の条文の守護者に加担しているからだ。これももちろんコモンセンス。
外国に借りを作った国家権力者がその後どういう行動をとるか、ドイツに特別列車を用立てられたレーニンがドイツと講和をして領土をたくさん割譲した例をみても明らかだろう。そして結局即時講和、平和を叫んでも実際は列強の干渉戦争を呼び込んでしまった。
自分の詐欺を十分に反省しない癖に、ほとんど女と甘酸っぱい時間を過ごせていない私のようなすばらしい日本男児をレイプ魔の子孫として世界に紹介し、歴史に記録しようとする。だれもまずは自分がやりすぎなくらい反省しなさいよと教えてあげない。他人にはやりすぎなくらい反省しなさいと強要してくる。20万人の性奴隷強制連行が嘘八百というもやはりコモンセンスだし、罪のない無力な市民を無実の罪で吊し上げ迫害するのが左翼の政治信条。これもコモンセンス。
私たちの知る権利、野党を正す権利、労働者としての権利、歴史的無実を叫ぶ権利、挙句の果てには総選挙で民意を示す権利でさえも憲法9条を守るという大義名分によって踏みにじられようとしている。この条文があるからこんなことが立て続けに起きるのか!?そうなのであれば、必ず!絶対に!すぐさま!憲法9条悪魔の条文は改憲されなければならない。これこそがここで一番言いたかったコモンセンスだ。
私がもし熱烈な護憲論者なら今すぐこの卑劣な改憲阻止運動を糾弾する。国民すら二派にわけて争わせる平和主義者・武力放棄論者があってたまるか。(武力蜂起論者なら合点がいく。)
そんなやつらには絶対に紛争を話し合いで解決できないだろう。今だって解決できないし、する意思もない。拷問の末無実の罪を自白させるようなことをやっている。まぁ、政治信条からしてそういうやり方が好きなんだろうけど。これもやっぱりコモンセンスだね。
愚痴を書かせてください。
私は、彼と同じ学術分野(文系)のQ教授の過去の研究内容に疑義があり、それを指摘するために本講座に参加している。
最近わかってきたのは、Q教授の研究はまさに先行研究だということ。彼らは先行研究だったのに押さえてなかった。つまり、タコツボだった……。
文科省の審議会の人文学・社会科学振興に関する平成21年の報告書を読んだのですが、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/1246351.htm
基本的にこの頃から問題の性質は変わっていません。十年ぐらい叱られているのに、それでも克服できない。
昔の学者ってどうだったのかなと思って、マックス・ウェーバー『職業としての学問』を読んでみたのですが、当時のドイツの大学では、私講師という資格だけが与えられ、何を教えてもよく、給料は受講生からの授業料の上がりだけ、つまり出来高制だったみたいです。しかし医学や自然科学系の研究に巨額の資金が必要となり、アメリカでは研究者という仕事が月給制になった。ドイツでもアメリカナイズが進んでいるとウェーバーは書いている。ドイツ式だと市場原理が働くので、実力不足の学者は淘汰される。一方、アメリカ式だと雇用が保護されるので、官僚主義がはびこる。
日本で大学が設立された頃の事情ですが、福沢諭吉あたりが大学を創設した後、その後に官立大学を作ったみたい。2011年の東日本大震災で原発御用学者が社会的に批判を受け、国立大学法人改革で彼らは国家公務員ではなくなった。
いままで国は学者個人の自主性・自律性を尊重するとか言って、お金は出すけど口は出さなかった。しかし厚遇しすぎて、仕事をえり好みする人ができあがった。果たして障害者にフッサールを教えることが正しいのか? 私は、彼らがずっとサボタージュしてきたQ教授の過去の研究の批判という仕事の督促のためにやって来たのですが、彼らは、どうしてもフッサールを障害者に教えたいらしい。Q教授の批判という仕事は絶対にやりたくない。病人の私に押しつけたいそうです。病人の私がいまやらないといけないのは自分の病気を治すこと(自己保健義務)です。早く元気になって、勤労と納税の義務を果たすことです。Q教授の批判なんて、病気に障るからできるだけやりたくないのだが。
国が税金で複数の学者を雇っているのは、お互いをチェックさせるためなのですが、彼らはタコツボという自分たちの宿痾を克服したくない。どうしても大好きな哲学学を障害者に教える仕事だけをやりたい。私はいまQ教授が20年前に書いた悪書を読んで、問題点を洗い出す作業をしている状態です。泣きたいですよ。
文系って理屈っぽい。「理論上はこの結果がでるはず」と自説にこだわって、ありのままの事実を認められない。理想主義者なんですけど、理想論を学生にも吹き込む。そうするとモンスター障害者、モンスター高齢者ができる。大学教員もモンスター化しているともいえます。
東京周辺に在住している高齢障害者が熊谷さんの講義を何回も聞いている一方で、沖縄の子どもの貧困率は29.9%です。
いま医療費が年1兆円ベースで急増している。とても国民全員に熊谷さんの講義を何度も聞かせられる財政状況ではない。税金で喰っている哲学者と税金で喰っている障害者が学校を開いたら、そりゃあ「学ぶことはすばらしい」という結論になるでしょう。その学費を稼ぎだしているのは誰? 受講生は病人だから知らなくてもいいと思うけど、プロである学者がそんなことさえわからないとしたら、職業としてもう終わりだと思う。一度、マックス・ウェーバーの時代に戻すべきでしょう。
いまの文系の振興策、例えばこんな研究に三年間で一千万ぐらい使われちゃってるんですけど、
https://www.jsps.go.jp/jissyakai/data/saitaku/h25_houkoku/hamauzu.pdf
こういう税金の使い方、本当にいいのかな。
http://anond.hatelabo.jp/20151002003234
の著者が
http://blogs.yahoo.co.jp/ut_kankyo/42274104.html
「当会が問題と考える点」(東大 キャンパス環境の改善を求める有志)を読んだ。
匿名ブログでくだをまくことしかできない私と違い、実際に駒場の学生支援課と駒場図書館と交渉されているそうで、その実行力に敬意を表したい。
その上で、「東大 キャンパス環境の改善を求める有志」の会の方々は、主に駒場キャンパスでの問題に取り組まれているようなので、本郷キャンパスへの「学外者」立ち入りに関する所感を以下で述べてみたい。
というものだ。
本郷キャンパスへはじつに様々な人たちが出入りしている。センター試験と2次試験以外の日に、もっともよく見かける人たちをあげてみるだけでも、これだけいる。
これだけの人たちの立ち入りを制限して、正門でいちいち入構手続きを求めるのはさぞかし大変だろう。
とはいえ、本郷キャンパスが観光地化しているという指摘はあたっている。
毎日のように大型バスが何台も大学前にやってきて、中高生や観光客の団体が列をなしてキャンパス内に入ってくる。日本国内からだけでなく、中国、韓国、台湾といったアジア諸国からやってきたらしい団体もよく見かける。
これらの人々が固まって道を塞いだり、騒ぎながらセルフィー棒で写真をとっているのを見かけて、眉をひそめる東大生がいたとしても全然おかしくないと思う。
しかし、「学外者」の立ち入りを完全にシャットアウトすることは難しいのではないかと思う。本郷へやってくる人たちのなかにはきっと、東大に漠然としたあこがれを持ってやってくる人もいるのだろうし、そうした人たちに対して大学も悪い顔はできないだろう。
キャンパス内を物珍しそうな顔で歩いている中高生が、10年から20年後には、彼らを迷惑そうに見つめる東大生をはるかにしのぐ立派な研究を東大でやり、場合によってはノーベル賞も取ることだってありうるのではないだろうか。
先日話題になった世界大学ランキングでトップ10に入っている大学で、私が訪れたところはいずれも、東大よりはるかに観光地化が進んでおり、観光客でごったがえしていた。大学の主要な建物の周りには土産物屋が立ち並び、大学のロゴが入ったパーカーやTシャツを売っている。その周辺にはカフェやレストランがあり、一つの経済圏を形成している。
大学の方もまたしっかりしたもので、歴史的な建物やカレッジは入場料をとり、一日のうち限定した時間帯に立ち入りを許している。立派な美術館やカテドラルを持っている大学(カレッジ)は、これらの入場料から収入を得ている。
こうした大学で観光客と学生とのあつれきが問題になりにくいとしたら、先のエントリでも述べたように、もともと大学と周辺の街との境界線があいまいだからだろう。
東大の場合、キャンパスの内と外の区別がかなりはっきりとしており、キャンパス内が手狭なので、そこに多数の人が一挙にやってくると、学生はストレスを感じやすいように思う。
本郷キャンパスでは現状で、研究棟に「学外者」が団体で入ってくることはないので、研究室にこもっているかぎりでは、「学外者」との間で問題が生じることはない。
「学外者」が大声で話すことがあったとしても、現状では、研究棟の造成工事や、総合図書館の新設・改築工事の騒音のほうが、はるかにうるさい。
問題が生じるのは、学生と「学外者」が共有するアメニティスペースや、「学外者」の団体立ち入りを許している施設だろう。
まず、キャンパスに立ち入る「学外者」のうち、もっとも人数が多いのは修学旅行の団体であるが、彼らは門の前にしゃがんで集合したり、狭い道で立ち止まったりして完全に通行を遮断することがあり、引率の教員もそのことに気づいていない場合がある。
また、修学旅行生やウオーキングツアーの団体が昼時に中央食堂へいっせいにやってくると、数十分間の間、学生にとっては食堂の機能が完全にフリーズしてしまう。このため、12時から13時までのあいだ、「学外者」の利用は遠慮してもらうよう依頼する貼り紙が入り口にある。しかしこの制限がかかる時間帯の直前にやってくる団体は結局制限時間帯になってもいる場合があり、あきらかに貼り紙を無視している人々も制限時間帯に複数いる。授業の合間や、実験や論文執筆の合間をぬって食堂を利用したい学生にとっては、食堂が一体誰のために、何のために存在しているのかわからないと憤慨する時があっても無理はないように思う。
総合図書館は、現在は工事中で「学外者」の見学を受け入れていないが、それ以前はキャンパス内ツアーの経路に入っていた。中に入る「学外者」は、大きな声で話すということはないものの、多数の人達がドカドカと足音を立てて閲覧室に入ってくる。彼らは勉強中の学生の姿やノートを、好奇心いっぱいで覗きこんでから、無言で立ち去っていく。このようなことを毎日のように繰り返されて、いい気持ちがする人はいないだろう。
医学部前の広場は、日暮れ時は、愛犬家の交流スペースとなっている。犬と人が遊んでいるのを見るのは心和むひとときであるが、一部の人は、人通りが最も多い昼休み時に犬を連れて狭い道を歩きまわっており、さすがに周囲への配慮が足りないのではないかと思われることがある。
キャンパス内でただくつろいだり歩きまわったりしたい人を追い出してしまったら、そこは学生にとってもさぞかし息苦しい場所だろう。
とはいえ、学費を払って真剣に勉強している学生が、配慮が足りない一部の人々の行為に対して黙っている必要はないのではないだろうか。
キャンパスにやってくるさまざまな人が快適にひとときを過ごすことができるように、お互いの存在に気づくことができるように、声を上げることは、全然おかしいことではないと思う。
たとえば、
大学の教職員は、学生が集中して学習できるように、もちろん日々配慮しているだろうが、かれらは幾分年をとっているため、細かいことには気づかない場合がある。
年を取ってくると、10代後半から20代前半の学生は、教職員にとって、生理的に、まったく別の生き物に感じられるようなので、学生の細かい要望に応ずる善意があったとしても、そもそも相手が何を望んでどのように感じているのかわからないのではないか。
また、任期がない教職員は基本的に国家公務員のメンタリティを持ち続けている(彼らは文部科学省の社会保険に加入している)ので、自分がクビになるリスクがない限り、何らかの業務改善をしても得られるインセンティブはそれほど大きくないという認識を持っている。なので、文句をいわれないかぎり、学生の要望を察知して自分から動くということは、あまりない。