はてなキーワード: 神格化とは
例の判決。自分はノンバイナリーではないが、判決は妥当だと思う。個人的見解を述べるのであれば戸籍制度そのものを廃止したほうがいいとすら思っている。
戸籍は生物学的ないしは染色体の性別を書くべきだ、という意見が散見されるが、戸籍というのはあくまで人間社会が生み出した産物で、その主たる目的が系譜を表しているメモ程度の存在でしかないのに
戸籍を神格化しているやつが多すぎる。むしろ戸籍という制度があるがゆえに差別されてきた歴史が刻まれている人たちもいるだろうし、望んでいない戸籍によって不必要なアウティングに繋がることもあり得る。
特に戸籍を閲覧する職員、戸籍のシステムを管理するSIerには本人が望まなくても開示されてしまう。悪意を持って閲覧する人は限られているだろうが、脆弱さは依然残ったままだ。
戸籍の制度自体が個ではなく、系譜に重きをおいた設計になっていること自体が課題なのである。
系譜を刻むことは大事なのか。例として、もともと親◯しは極刑という選択肢しかなかったがこれは90年代に是正され、通常の◯人罪が適用されるようになった。これは家族の特に親は大切にするべきだという儒教の教えに基づいて設計されていたわけだが、その妥当性の評価にあたって当時は「家」同士という仕組みに価値がありイデオロギーが支配していたため、家族という仕組みを前提に法律が制定されたと推測できる。
当時の男女の性差による役割の違いは今や想像ができないくらいにそれは悍ましいものであったが、しかしその社会の仕組みに準ずる法律の設計がなされていたのも事実である。
例えば女は専業主婦で家事をやり男は外で足を使って稼ぐというのが一般的な家庭のあり方だったわけだ。時代は変わって女性も社会進出をするようになり男女共同参画社会基本法はじめ、労働基準法で性差による差別は明確に禁止されるようになった。これは社会の構成が変わったからその設計に合わせて法律が見直されたわけである。もちろん一部年金の受け取りは女性のほうが多くなる、など女性に優位な法律は残った状態ではあるが、これは裏を返せば社会進出を果たせていない女性達がまだまだいるからである。つまり時代によって社会の設計も変わるわけだからそれに伴って法律も変わってきたのである。
現代は核家族化も進んでおり、共働き世帯も増えてきた。しかも個を伸ばすという社会的風潮ですらある。つまりイデオロギーに変化が訪れているわけだ。それなのにもかかわらず系譜に依存した法律や憲法が取り残されているのは課題ではないだろうか。
法律だから守らなければいけない、憲法だから守らなければいけないのではなくて人間社会のルールとして策定されているという前提からみて今の戸籍制度自体が現代の社会設計に対して実利を伴っておらず、それなのに「戸籍を守る」という行為を正当化しようとしているのは「自分が社会に取り残されている弱者で誇れるものは系譜しかありません」と言っているのも過言ではない。言い換えれば例の判決に反対している奴らが社会に対して生み出しているのはリサイクルできないウンコだけということである。
他にも「戸籍は日本の伝統である」という主張をする輩もいる。この主張にはうんざりだ。こういった発言は白人至上主義と何ら変わりがないレイシズムである。差別を受けてきた人、戸籍によって実害を被っている人、出生地・家柄によって結婚を拒まれている人、疎まれる人。望まれない無戸籍児など。戸籍という仕組みが存在するだけでも多くの実害を伴っている。では現代においての戸籍制度による実利はどこにあるのか。その実利を客観的に説明できる者は少なくても見かけたことがない。戸籍制度の維持について賛成をしているほとんどの人間は「憲法で定められているから」「日本の伝統だから」という主張しかしていない。
また戸籍の運用にも綻びが出てきている。海外からの転入や帰化をした場合「戸籍が新たに作られる」のである。もはや系譜に重きをおいた運用ではなくただ惰性で法律上決まっているから運用でカバーしているように見える。
つまり現行の戸籍自体に課題はいくつかある。では課題を解消するために働きかけられるのか。大きく変えると現場のワークフローも大幅に変わることで混乱が生じることは理解できる。そしていくつかの法律は戸籍を前提に作られており、戸籍制度をなくす場合依存している法律全てに変更を加えなければならない。膨大な整備をするために多額の資金を投じる必要があることは、言うまでもないがそれによって
得られる実利は上記のとおりであり、しかしこの実利を得られるのはほんの一握りしかいないわけである。金銭的な実害は大きいが得られる実利が少ないというのも、戸籍制度が惰性で運用されている所以だろう。
男女という垣根も薄くなっており、男子小学生でも赤色のランドセル、女子小学生でも黒色のランドセルを使う昨今。怪獣のおもちゃを片手にプリンセスの服装をする女児も珍しくない。
逆に、プリキュアを見ている大きな男の子のお友達も多いわけで、隔たりが薄くなっていることは明らかだ。そんな中でわざわざ染色体の性別を書けとか、生物学的であることが正義(男は男、女は女というロールを全うするべき)だ、という主張をしているウンコ製造機諸君は、イデオロギーの変化についていけていない上にレイシズムしています、と自ら公に晒しているという自覚を持ってもらいたいものである。
そろそろ折り返し時期なので自分用にメモ。今回も多いので3つに分けてる
星は個人的な好みを表したもの(私の好みであって作品への評価ではない 出来が凄いんだろうなあという作品も、自分が好きではなかったら星は少ない)テレビ放送中心。
好みの星はたぶん見ていくうちに変わるし変えてる。自分と違ったとしたら「こいつとは趣味があわんな」くらいのレベルで見てください。
声優とかアニメ制作会社とかよく知らないので間違ったこと書いてたらごめんなさい。
今回のアニメは「2倍2倍!」「飛びます飛びます」「ヒューヒューだぞー」など、見てる人のほとんどが分からんだろってくらい古いネタが使われてる気がする。
追記:好きを示す星は4段階。感覚的なものなので話が進むにつれてコロコロ変わることがあります。環境によっては☆も⭐️も⭐️に見えるのね 後で変更しておきます
スイカももう立派な科学者なんだよ。と、まだ前のシーズンのスイカの話をひきずって涙してる自分がいる。
巨大なラスボスはいるが、普通の敵はもういないので結構安心して見れる。
OPはASIAN KUNG-FU GENERATION。EDはBURNOUT SYNDROMES、やっぱりDr.STONEといえばこの人たちやね
SAIが加わったことで28話でEDが少し変わり、日本メンバーと合流した30話でまた変わる。
名前の通り、「嘘をつく力」と「嘘を見抜く力」で勝ち残っていくゲーム
実写ドラマや映画は戸田恵梨香と松田翔太で製作されており、韓国でもドラマ化されている人気作。
騙し、騙されで1億、10億と巨額のお金が動く展開に「おー、すげー」と感心していたところに、最近「はてな11億詐欺事件」の報道が飛び込んできて、現実に似たようなことが起こったもんだから戸惑っている自分がいる。
過去に大きな事故に遭い、一度死んだはずの菜花。家では謎の「物体X」を飲まされる変な日常を過ごしていた。
ある日、事故現場近くの商店街で妖怪だらけの世界に紛れ込んでしまう。
妖怪に襲われる菜花を助けたのは、刀を携えた若い男性・摩緒(マオ)だった。
女子高生と別世界の人間という関係性は、まさに『犬夜叉』のようなワールド。
ゲームが原作。メンタルがヘラってたり、OD・リスカをする子、そして狂信的なファンがつくほどの「超てんちゃん」というネットアイドルがいたり。
90年代のエヴァや、2000年代の物語シリーズのように、精神病者の精神描写の演出が過多、故に人を選ぶ作品だと思う。
私は嫌いじゃないけど好きじゃないよ。まぁ10代の頃に少しくらいは考えた人も多いのでは
あめちゃんがいかにして超てんちゃんになるかは3話で語られるが、まあ酷い過去ではあるけれど、よく見るやつなので。もっとこう、あそこまで神格化されるほどぶっとんだキャラになるのであれば、それと反比例するくらい重いのが欲しかった。
超てんちゃんのCVはクレジットに明記されていない、が、22/7の天城サリーかな。ナレーションはピエール瀧
OPは超てんちゃん、EDはキタニタツヤ。5話のEDは特殊な構成。
1年ぶり4期。どうやって終わったんだっけ。なんやすごい強敵揃いで大変な戦いだったのと「強欲」レグルスが最悪なやつだったことしか覚えてない。
ジャージではなくなったスバル。レム睡眠を救い出すことはできるのだろうか。
これからお付き合いくださる皆様
OPは鈴木このみ feat. Ashnikko、EDはMYTH & ROID feat. TK(凛として時雨)相変わらず流れる回数少ないけど
憧れの父が破門され、父から「落語」を奪われた。あかねは父の無念を晴らすべく、落語家として真打を目指す。
この作品が週刊少年ジャンプで連載開始した時、普段漫画を読まない私の耳にも「なんかスゴイのが始まった」と聞いた覚えがある。
単に女子高生が落語をするだけじゃなく、落語の世界そのものを描きつつ、そこに「友情・努力・勝利」の成分もあることからの人気なのかな。
3話までの話を通じて、落語噺だけでなく、社会人として教訓も感じるところがある。
落語のアニメといえば『昭和元禄落語心中』や『じょしらく』がよく話に出るが、『うちの師匠はしっぽがない』もぜひ思い出して欲しい。
5分アニメ。淫獄団地。タイトルからヤバそうな団地の管理人が主人公。
団地に住む人妻の元にスマートブレイン社のファイズギアボックスみたいなケースが届き、
中に入った卑猥で異常な衣装「リビドークロス」を着用した人妻たちが狂気に堕ち、管理人や団地の人々を襲う。
何となく私は見ないやつだろうと思ったけど、バカバカしくて見ちゃう。
モデルのようにクールな外見だが、実は主人公と同じ趣味を持つギャル(天音さん)。主人公の前の席に座り、いつも優しく接してくれるノリの軽いギャル(伊地知さん)。
王道ラブコメ好きだわ〜・・いや私じゃ無くて妹がね、妹がね!?
同じ趣味の天音が有利そうに思えるけど、伊地知の人の良さや健気なところにも応援したくなる。くぅ〜
3年ぶりの2期。1期で付き合うことになり、2期は付き合ったことを公にする。
今期はOPの歌詞にあるとおり「ただの惚気話」、背景にあるネグレクトのトラウマを忘れそうなくらい、ひたすらイチャイチャする様子を見るのかな・・と思ったののだけど。 主人公の周(あまね)の過去と向き合ったり、真昼の父親、親友の父親に関する悩み事も浮上するなど、やはり深い話も出てくる。
OPはオーイシマサヨシ、EDはJ-POPのカバーソングという構成で、1期と同じパターン。
ED曲はドリカムの「うれしい!たのしい!大好き!」、5話ではジッタリンジンの「夏祭り」。
舞台は東京の府中市だが、里帰りシーンで静岡も登場する。 座席は主人公席。
エロギャグコメディ。暴食の悪魔 カナン様と高校生男子の羊司くん、言動や行動の勘違いが続き、なんやかんやで恋人関係に。
カナン様が羊司より優位に立とうとするのだが、羊司が直球ど真ん中のストレートな言動を繰り返すため、いつも結局撃沈してしまう。
そんなカナン様の可愛さも魅力だけど、羊司がいい感じに変態なので成り立っているのだと思う。
いろいろとSNSで話題になっている気がするが、単なるアニメ視聴者の私が特別な話に食いついても良い事なさそうなのでスルーしてます。
内気なゲイの中村くんは、入学式で同じクラスの男性生徒「廣瀬」を見て恋に落ちる。
コミュ障な中村は廣瀬とお近づきになるため、まずは友達になろうとするのだが、どうしても空回りしてしまう。まあ、BLです。
絵柄は80年代〜90年代のサンデー漫画っぽいレトロな雰囲気だが、スマホやLINEがある現代。
2021年にオーディオドラマが発売されており、その時のCVは今作アニメとは異なる。が、アニメ劇中に登場するBL漫画「ラブ弁」で、オーディオドラマ版の中村と廣瀬が声を担当している。
OPは岡村靖幸&中島健人。EDはなんとも懐かしい曲が流れて……
1話は村下孝蔵『初恋』、2話はバブルガム・ブラザーズ『WON'T BE LONG』、3話は今夜はブギー・バック(smooth rap ver.)など、懐かしの曲がそのまま選曲されている。
伝説の殺し屋が謎の蜂に刺されて若返り、所属組織の提案で中学校生活を送ることになる話。見ていてラーメンが食べたくなる。
姿を変えた殺し屋を主人公にしたジャンプ漫画ということで『サカモトデイズ』を連想してしまうが、私はこっちの方が好きです。
中学2年の秋、ロシアから来た二足歩行で長身の……鳥?の「クジマ」に出会い、一緒に暮らすことになる。
厚かましい態度のUMAみたいなのがホームステイに来たような感じのアニメ……と昔の友人に説明したら、「それアルフじゃん」と言われた。あー
兄の受験失敗で家族全体がどこか暗い雰囲気になっていたところ、クジマがいい意味でそれを掻き乱し、明るくしていく物語。
アニメの中でいろんな種類の(普通の)鳥が登場するけど、どれも丁寧に描かれているのが印象的。
学校内でも学校を離れたプライベートでも友達がおらず、ぼっちだった主人公の前原くん。
同じB級映画好きということで、クラスで2番目に人気のある女の子、朝凪海と仲良くなる。
1番人気の天海夕と海は親友だが、そこにも内緒で海と前原は金曜日の放課後に共に時間を過ごすようになる。
灰原くんの〜と思ったらお隣の天使様に〜になっていくラブコメ。
歌で戦うから『戦姫絶唱シンフォギア』的なものかと思ったら、過去の偉人が登場して戦う展開になったりする。
偉人?今期の他のアニメでも同じような要素があったような。最終的にはミュージカルのように歌い合う形になる。
いやー、見続けるかどうしようかなーと思いながら見ていたら、4話のようなオモシロ回もあるので困る。
ある意味話題作。「福岡地域の活性化とともに食の大切さや料理の楽しさを子どもたちに伝えたい」というコンセプトで、
これまでショートアニメや4コママンガ、ライトノベルが展開されてきた同プロジェクトのアニメ化作品。
なお、アニメ・漫画化を目指してクラウドファンディングを実施したものの、目標額の27%しか集められなかった経緯がある。
そんなアニメとしての出来は……ストライクゾーンが広めな私でも「これは結構キツイ」と思うかな。
低予算感がEDのクレジットからひしひしと伝わってくる。皆さん、おそらく別ジャンルとして楽しんでいるんじゃないでしょうか。
クソゲーをあえて縛りプレイしたくなるような上級者の琴線に触れているのか(失礼)、
深夜遅い時間の放送にもかかわらず、リアルタイムのネット実況が結構ワイワイしています。
2部構成になっており、本編アニメ(15分)の後に食育アニメのミニコーナーが続く形式。普通に勉強になる。
地球が怪獣に襲われる世界。コミュ障で人付き合いは苦手だが、ロボット操作だけは天才的な主人公。
宇宙での怪獣戦に敗れ地球へ帰還したものの、そこは全土が凍結し雪と氷に覆われた「スノーボールアース」となっていた。
私はそこまで・・。怪獣8号も私には刺さらなかったのだけれど、こういうSF物は私の好みと相性が悪いのかも
ブラックな会社に勤めながら、家でアニメ鑑賞をして癒される日々を過ごすOLが主人公。
マンションの横でいつも壁ドンしてくる住人は、主人公が崇拝する漫画の漫画家だった。
反対側の隣さんはとても親切で、いつも主人公を心配してくれるイケメン男性。
この3人の家の壁が漫画家によって破壊され、ついに空間が繋がってしまう。
主人公は漫画家に食事を提供するメシスタントになり、親切なお隣さんは彼氏という設定を作り、彼女を守ろうとしてくれる。
こうしてむちゃくちゃな展開だけれど、お隣さん同士3人共同生活が始まる。
本来は昨年放送予定だったが、制作のクオリティ向上を目的に延期され、この時期での放送となった。
それもあってか、非常に高いクオリティを感じる。特に第5話は繰り返し見てしまった。
魔法に憧れる女の子、どうやったら魔法が使えるのか分からない彼女は、ある日家に来た魔法使いの術をこっそり盗み見。
それを参考に、昔お祭りで手に入れた道具を使って魔法を発動。・・しかし、それは、我が家と母を巻き込む大事件を招くことになる。
かわいい、かっこいい、きれいを両立させるビジュアルに、映画のようなドキドキとワクワクを感じさせてくれる。
突然、人が巨大な怪物「鬼獣」になり、それとニワトリが戦うという異色の作品。
なんだこれw EDも含めて昭和〜平成初期のアニメの香りを感じる。
クソが付くくらい真面目だが学力は底辺な男性高校生と、「ポエム」という自分の名前にコンプレックスを抱いている女子高生のお話。
校長も含め、この学校の人たちは個性的で好感が持てるキャラが多く、結構好き。
悪の組織のやつらは「懲役1466年」や「懲役999年」などのぶっとんだ量刑が飛び出したり、警察が来ても銃火器で蹴散らしたりと、かなりむちゃくちゃな展開。
トリックや推理は二の次で、リリテアがかわいいから見てるのかも。
ウメハラは44歳
日本初の格ゲープロプレイヤー。海外でも実力が評価されていて現役プロ
個人的にはトッププロから落ちていると感じてはいるが、トップに迫る位置にはまだいると思う
MenaRDは25歳
現役最強の選手の一人。個人的にはBlaz、Lesharを入れたTOP3の一角だと思っている ※さはらが食い込む可能性はあるがこれからの活躍に期待
ウメハラは生きる伝説だの言われて神格化されているものの、実力ではさすがに劣るよねって評価
お互いが多忙なので延び延びになっていて、規格が流れそうな空気だったものの、MenaRDは他の大会捨てていいからやりたいと伝えてウメハラが答えたようだ
これだけですごい
いや大会出たら円で数百万~億単位で稼げる人から対戦を望まれるとかね
「44歳だけど今が最強だからメナが勝ったら誇っていいよ」
かっこいいっすわ
んで、勝敗の流れ
← ウメ メナ →
2ー0
2ー5
5ー5
こっから覚えてないけど
最終は
6ー10
10先でこういうこと言うのは野暮ではあるけど、通常の大会の2先(Bo3)ならウメハラが勝ってるんだよね
決勝とかでたまにある5先(Bo9)ならメナ
2-0から5連敗して5分にもっていくのもさすがだなあって
最終的に負けてはいるんだけど、ぼろ負けではなくてどの試合も十分勝ちの可能性がある内容だったね
ウメハラもメナも対策はバチバチにやっていただろうから、一般の大会とかオンライン対戦にそのまま適用できるわけではないけれど、
知っていること。
言語化できること。
抽象化できること。
それっぽく批評できること。
構造を整理できること。
かつては、それだけで飯が食えた。
だが今は違う。
しかも、そこそこの精度で。
「何を知っているか」ではない。
何を背負っているのか。
何に身体を張っているのか。
何を本当に変えようとしているのか。
何を残そうとしているのか。
そこに尽きる。
知識人が本物か偽物かなど、もはやどうでもいい。
本物の知識人であっても、ただ言葉を並べ、時代を論じ、既存の概念をこねくり回し、SNSで拍手を集めているだけなら、AI時代にはほとんど価値がない。
それはただの言語芸人であり、情報商材屋であり、時代のノイズでしかない。
彼らがやっていることは、
社会を前に進めているように見えて、
実際には社会の表面を撫でているだけだ。
画面の中で騒ぎ、
言葉の中で勝ち、
数年後には誰も覚えていない。
歴史でもない。
思想でもない。
ただの消費物だ。
彼らは土地を耕す。
水を読む。
季節を見る。
土を守る。
種をつなぐ。
食を支える。
これはAIにはできない。
だが、それでも最後に残るのは、土地に対する責任であり、身体性であり、継承であり、生活そのものだ。
そこには歴史がある。
蓄積がある。
失敗がある。
覚悟がある。
それに比べて、Claude Codeの使い方をnoteで売り、AI活用セミナーで小銭を稼ぎ、SNSで「これからは一人で会社が作れる」などと叫んでいる人間たちは何を残すのか。
何も残さない。
残るのは、AnthropicやOpenAIやGoogleの売上。
それだけだ。
AIを使っているつもりで、
自由になったつもりで、
未来を語っているつもりで、
ただ流行語を転がしているだけだ。
何に向き合うのか。
AIによって増幅された力を、
どこに投じるのか。
人間は何を守り、何を作り、何を受け継ぐのか。
そこを問わないAI論は、すべて浅い。
一人ユニコーン。
聞こえはいい。
だが、それが結局、
広告を増やし、
どうでもいいSaaSを増やし、
どうでもいい資料を増やし、
どうでもいい会議を減らすためのどうでもいいツールを増やすだけなら、
水道がある。
電気がある。
食料がある。
住居がある。
山がある。
川がある。
森がある。
物流がある。
介護がある。
教育がある。
治安がある。
災害がある。
共同体がある。
そこが決定的に間違っている。
世界は身体であり、土地であり、時間であり、関係であり、責任だ。
土を扱う人間。
食を作る人間。
家を建てる人間。
人を育てる人間。
場を作る人間。
他人の作ったプラットフォームの上で賢そうに振る舞ってきた人間は、
AIによってどんどん薄くなる。
なぜなら、彼らのやってきたことの大半は、
知識人は本物だろうが偽物だろうが、
その多くはすでに価値を失い始めている。
社会の深部に触れず、
どれだけ賢そうに見えても、
どれだけフォロワーがいても、
どれだけ金を稼いでいても、
3年後には忘れられる。
派手ではない。
バズらない。
高単価noteも売らない。
だが彼らは、確実に世界を支えている。
どれだけ早くコードを書けるかでも、
どれだけAIを使いこなせるかでも、
どれだけ賢そうな言葉を並べられるかでもない。
この世界のどの根に触れているのか。
その一点だ。
根に触れていない仕事は、軽い。
魅力的に見えるのは、
根を張る人間だ。
元産経新聞記者で医療ジャーナリストの那須優子氏は、2026年4月27日、X(旧Twitter)で以下の投稿を行いました。
と付け加えました。
• 日本基督教団を「部落解放同盟」と同定し、「プロテスタントを名乗った左翼活動家の隠れ蓑」と表現。
• 自身が30年前に産経新聞で担当した同志社特集を通じて、教団と北朝鮮の関係を「裏の顔」として認識していたと主張。
• 教団が北朝鮮拉致問題に十分向き合わなかったことを「読者と拉致被害者家族への裏切り」と批判。
• 横田早紀江さん(拉致被害者・横田めぐみさんの母)が福音派の信徒として祈りを捧げていた点に触れ、「あまりに残酷すぎて」と強い感情を込めて記述。
那須氏の発言は、同志社国際高校の辺野古沖事故を背景に、宗教団体としての日本基督教団と政治・社会運動の関与を強く問題視したものです。表現は断定的ですが、教団の部落解放同盟との長年の協力関係や象徴天皇制反対声明、北朝鮮関連の交流実績などは公式資料や過去報道で確認できる事実に基づいています。
那須優子氏の2026年4月27日投稿を中心に、主張の事実関係を検証します。公的資料・公式サイト・報道に基づきます。
• 日本基督教団は1975年に部落解放同盟(大阪府連・東京都連など)から「確認と糾弾」を受け、部落差別問題特別委員会を設置。1981年に部落解放センターを大阪に設立。
• 以後、部落解放同盟と共同で「部落解放全国会議」を開催(教団が主催・共催)、フィールドワーク、講演、狭山事件支援などを実施。
• 「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議(同宗連)」で議長教団を務めた時期もあり、公式連携は継続中。
• 教団公式サイトや部落解放センター資料で確認可能。ただし、教団全体が一枚岩ではなく、社会派活動の一環です。
• 教団は2019年の天皇代替わり時に大嘗祭への国関与を強く反対する声明を発表(政教分離・天皇神格化批判)。
• 戦後「戦争責任告白」(1967年)以降、社会派神学の影響が強く、天皇制・靖国問題で批判的立場を維持。
• 那須氏の過去投稿で「産経新聞夕刊特集時代に同志社特集を手伝った」と繰り返し記述。同志社(ミッション系)と教団の関係を取材した可能性は高い。
• 詳細な記事確認は限定的ですが、彼女の記者歴(産経→医療ジャーナリスト)と一致します。
• 日本基督教団は日本キリスト教協議会(NCC)に加盟。NCCが北朝鮮の朝鮮基督教連盟と交流し、訪朝・「制裁非礼」謝罪文を送った事例あり。
• 拉致問題への言及が薄いとの批判は、保守系メディアなどで長年指摘されています。
• 横田早紀江さんは日本同盟基督教団(福音派)の信徒(1984年受洗)。日本基督教団社会派とは異なる教派。
教団の北朝鮮寄り交流が拉致被害者家族の祈りと対立する構図は事実として存在します。
那須氏の発言の事実の骨子は概ね正しいです。教団と部落解放同盟の公式協力関係、天皇制批判、北朝鮮交流、拉致問題対応の温度差などは確認できます。
ただし、「=」や「隠れ蓑」などの表現は強い価値判断・一般化を含み、教団内の多様性(社会派 vs 教会派)を考慮していない点は考慮が必要です。
モンゴルにおける「テムジン」は、世界最大の帝国を築いたチンギス・カンの本名(幼名)として、国家の誇りや英雄の象徴となっています。 [1, 2, 3, 4]
モンゴルには、テムジン(チンギス・カン)の生涯を辿る観光スポットが多くあります。
* テムジンが黄金の鞭を拾ったとされる場所に建てられており、像の内部や展望台から草原を一望できます。
* 乗馬体験や「ゲル」への宿泊を通して、当時の遊牧民の暮らしに近い体験ができます。
* ガンダン寺: モンゴル最大のチベット仏教寺院で、歴史的な建造物が多く残っています。 [5, 13, 14, 15, 16]
過激な「カプ厨」(特定のカップリングに執着するファン)が作者を追い込んでしまう心理や背景には、単なる好き嫌いを超えた、いくつかの特異な精神構造や集団心理が働いていることが読み取れます。
主な心理的要因は以下の通りです。
過激なファンは、自分の嫌いなカップリング(地雷)を単なる嗜好の問題ではなく、「倫理的な間違い」や「悪」であると定義します。
作者を攻撃し、自分の思い通りに動かそうとすること自体に快楽を見出している側面があります。
自分が不快なものを見た際に、「不快にさせられた」という被害者意識を抱き、それを相手にぶつけることが当然だと考える心理です。
作品そのものよりも、自分の脳内で作り上げた「理想のカップリング」を至高としているため、そこから外れる描写を許容できません。
このように、過激なファンは「自分が正しい側にいる」という確信のもと、個人の嫌悪感を社会的な正義にすり替え、作者を断罪・支配することに悦びを感じる心理状態に陥っているといえます。
「腐女子の問題点」として議論されている内容を整理すると、主に「公式や他者への攻撃性」「現実と妄想の混同」「政治的・思想的用語の悪用」といった点が挙げられます。
最も深刻な問題として、自分の推しているBL(ボーイズラブ)カップリングが、公式展開によって否定された(いわゆる「ノマ爆」)際に、公式スタッフや作者へ直接攻撃を行うケースが挙げられています。
二次創作はあくまで「個人の妄想」であるという前提を忘れ、自分の解釈を正解だと思い込む姿勢が批判の対象となっています。
自分の好むカップリングを守るために、他のファンや、恋仲となる女性キャラクターを攻撃する傾向があります。
個人的な不満を、社会的な正義やポリコレの用語を使って正当化しようとする点も指摘されています。
総じて、ソース内では「原作は原作、二次創作は二次創作」という「それはそれとして」の精神(当たり前体操)を忘れ、自身の妄想を公式に強要したり、周囲に攻撃性を撒き散らしたりする振る舞いが、腐女子(あるいは一部の過激なファン)の大きな問題点として議論されています。
ソース資料に基づくと、腐女子(BLファン)の一部に見られる問題点として、主に以下の5つの要素が指摘されています。
多くのユーザーが指摘している最大の問題点は、「自分の妄想」と「公式の展開」を切り離して考えられない点です。
BL妄想をしていた男性キャラが公式で女性と結ばれること(通称:ノマ爆)に対する反応が非常に攻撃的である点も問題視されています。
BLを優先するあまり、物語上の重要なヒロインや女性キャラを敵視する傾向があります。
一部の層において、同性愛を異性愛よりも高尚なものとして神格化する、あるいは異性愛を極端に嫌悪するという思想的な偏りが見られます。
自分たちは「作品を支えている上客である」という選民意識を持ち、公式や他のファンに対して傲慢な態度を取る点も指摘されています。
百合厨(女性同士の恋愛を好む層)と腐女子(男性同士の恋愛を好む層)という、本来は異なる属性のファンが「異性愛(ヘテロ)」を共通の敵として共闘する仕組みには、利害の一致と思想的な背景が深く関わっています。
特定の作品において、自分の推す同性愛カップリングを成立(あるいは妄想を維持)させるために、障害となる異性愛要素を排除したいという目的で協力体制が築かれることがあります。
作品を楽しむこと以上に、「異性愛主義そのものが憎い」という思想が、両者を結びつける強力な旗印となります。
この共闘の背景には、強い男性嫌悪や女性嫌悪、あるいは政治的な活動(フェミニズムやアンチフェミニズム)が絡んでいるケースが指摘されています。
BLや百合を「現実から切り離されたファンタジー」として愛好する層にとって、生々しい現実を連想させる異性愛は、自分たちの居場所を壊す「侵略者」に見えることがあります。
このように、「自分の妄想やアイデンティティを守るために、邪魔な異性愛を否定したい」という共通の防衛本能が、百合厨と腐女子の共闘を生み出す仕組みとなっています。
「追われる女になりなさい」
「愛するより、愛される方が幸せになれる」
非モテとして育ち、自分から必死にアプローチしてようやく数人と付き合えた私にとって、「追われる」ことは選ばれし強者にのみ許された特権であり、ゴールだと思っていたから。
そもそも、私はブスだ。
「パッとしない」なんてマイルドな言葉では誤魔化せない。学生時代、容姿が理由で虐められるくらいには、明確に「外見の階級」で底辺にいた。
声だって可愛くない。録音した自分の声を聴くたびに、この声で愛を囁く自分を想像して吐き気がした。
「見た目」というカードが絶望的なのなら、せめて「態度」だけは100点満点でありたい。
相手の話を全肯定で聞き、聖母のように献身的に尽くし、どんな理不尽も笑顔で飲み込む。
虐められないために身につけた「他人の顔色を伺うスキル」を、恋愛という戦場でフル活用した。
そうやって「手放したくない女」になれば、いつか私にも、あのキラキラした「追われる幸せ」が来るのだと信じて疑わなかった。
だが、実際にその「ゴール」に辿り着いた結果、私の人生はめちゃくちゃになった。
「追われる女」の先にあるのは、お姫様のような生活ではない。全方位からの執着と依存、そして泥沼のデスマッチだ。
私が経験したのは「追われる恋」なんて風情のあるものじゃなかった。正確に言えば、それは「物理的・精神的に追い詰められる恋」だった。
私が好きになる人は、私を適度に放っておいてくれた。
私を「追ってきた」男たちは、私の献身に甘え、私を神格化し、執着し、私のすべてを自分のもので埋め尽くそうとした。
「こんな俺にも、こんなに尽くしてくれる」という歪んだ優越感と、「こいつなら何をしても許される」という甘え。私が必死に磨き上げた「態度」は、心の弱い男たちにとって、最高の寄生先になってしまったらしい。
別れを切り出せば、いい大人が道端でなりふり構わず号泣し、地面を這ってでも引き止める。
私の拒絶を「自分への試練」だと勘違いし、連絡手段を断てば職場や実家にまで現れる。
そう、私は今も、ストーカーと化した「かつて私を熱烈に追っていた男」の影から逃げ続けている。
引っ越し先の住所を隠し、SNSを鍵で固め、常に背後を気にする毎日。
「別れましょう」と言って、「分かりました」と一言、潔く受け入れてもらえる。
そんな、恋愛の「当たり前の撤退」すら許されない人間にとって、世にはびこる「愛される幸せ」なんてコピーは、呪いか嫌がらせにしか聞こえない。
「顔が悪い自分には価値がないから」と必死で相手を追いかけて、振り向いてもらえずに撃沈していた頃の方が、よっぽど健全で、よっぽど自由だった。
ボロボロになった今の私にはわかる。
「追われる女」の称号なんて、もう要らない。
私は、自分の意志で誰かを追いかけ、自分の足で走り続け、そして自分のタイミングで、潔く散れる恋がしたかっただけなんだ。
もう二度と、私のことを追わないでくれ。
スピッツが好きだった。
だった、と過去形にするにはまだ早いかも知れない。けれども、少なくとも”好き”の熱量は数年前に比べて確実に減少している。
それはまあ、長年好きで居続けたら同じ熱量を保つ方が難しいとも言えるのだが、そのきっかけがまさか『ロックロックこんにちは』だとは自分でも予想していなかった。
『ロビンソン』が大ヒットしたタイミングで曲を耳にし、綺麗な声と不思議な歌詞だな、と気になり始め、その後CMソングに採用された『渚』を聴いて、このバンドの曲をもっと聴きたいと思うようになった。
その頃はサブスクなどというものはなく、それどころかインターネットもまだ黎明期といった時期で、音楽を聴くにはCD(あるいはカセットテープ)を買うかレンタルするかという手段しかなかった。
貧乏学生だった私にはおいそれとアルバムを買い集めることはできなかったため、レンタルショップでスピッツのアルバムを借り、それをカセットテープにダビングして何度も何度も曲を聴いた。
それまで、ある曲が良いと思っても、そのミュージシャンの他の曲にはピンとこないというのをくり返していた私にとって、どのアルバムのどの曲もストライクとなるミュージシャンはスピッツが初めてだった。
『ロビンソン』でのブレイク後だったから、チケットぴあに開店前から並んでもライブのチケットはなかなか取れなかったが、奇跡的に手に入れたチケットでのライブは夢のようなひとときだった。
働き始めてからはファンクラブにも入会した。スポンジのような大地のような、未だに何なのかよくわからないモチーフ(多分スピッツベルゲン島?)の会員カードが送られてきたのを覚えている。
その頃のファンクラブ会報はA5を縦半分にしたぐらいのサイズで、紙質もそこまで良くはなく、おまけにフルカラーではなく多色刷りだったが、雑誌では読めないメンバーのコメントが見られるのは毎号楽しみだった。
このファンクラブ会報は、私が25年以上の間スピッツのファンでいられたことに、そして、私の中のスピッツ像の形成に少なからず寄与していると思う。
何故なら、会報を通して見るメンバーの雰囲気が、「仲良し」以外の何者でもなかったからだ。
初期の頃の内容はあまり覚えていないが、いつからか続いているシリーズとして、メンバー4人があちこちへ体験に出かけるというものがある。
風鈴を作ったり、お皿に絵付けをしたり、うろ覚えだが乗馬をしていた号もあったような気がする。
ともかく、そのシリーズでのメンバー4人はとても和気あいあいとしていて、学生の頃に結成したというバンド当時の雰囲気をそのままキープしているように見えた。
会報のみならず、音楽雑誌のインタビューやMV撮影秘話などでも、メンバー同士の仲の良さ・雰囲気の良さには結構な頻度で言及されていた。
さらに、邦楽バンドの解散がいくつか続いた時期に、メンバーの一人が「皆、どうして解散しちゃうのかな」と呟いていたのを会報で目にしたこともあった。
それほどまでに、彼らの距離感は絶妙だった。付かず離れずである一方で、学生の頃のような友人同士の無邪気さをいつまでも保ち続けていた。
不思議なもので、メンバー間の雰囲気が良いと、何となくメンバー自身が穏やかで良い人のように見えてくるものだ。
いや、これではまるで「スピッツは本当は過激で悪い人たち」だと言いたいかのようだ。そんなつもりは毛頭ない。
会報や雑誌インタビュー、ラジオなどでの数々の発言からして、どちらかに分けるとすれば彼らは間違いなく「善人」である。
ロックミュージシャンらしく、ある程度の毒を持ってはいるけれど、基本的には良識を持ち互いを尊重し合う人たちだと思う。
これまでに不倫や脱税と言った俗っぽいスキャンダルもなく、解散や不仲の噂が出たこともない。
取材の場となったファミレスから出て行く時は、後ろに続く人のためにドアを押さえてあげるような、そんな当たり前の善性を持った人たちだ。
だからこそ、私には、『ロックロックこんにちは』(以下、ロックロック)に彼を招いたという事実が飲み込めなかった。
(※ここでは「彼」を攻撃・中傷する意図や、トラブル自体の是非を問う目的は全くなく、あくまで推しと自分との距離感が崩れたきっかけとして取り上げています。)
その人の名前はここでは伏せるが、過去にあるトラブルがあったミュージシャンである。彼の名が出演者リストに記載されていた時、何故、という気持ちがどうしても拭えなかった。
かと言って、トラブルがあったのだから二度と表舞台に出ないでほしい、と言いたいわけではない。
きちんと決着をつけたのであれば、音楽活動を再開するのは自由だと思う。
そして彼は、詳細はわからないものの、決着がついたという報道もされていた。そこをファンの方が支えたり、同じミュージシャン仲間が手助けしたりすることに異を唱えるつもりはない。
でも、その役割をスピッツに担ってほしくはなかった。否、見えないところで支援する分には文句をつけるつもりはないが、大っぴらに主催イベントに呼んでほしくはなかった。
私にとってスピッツは、本人たちがトラブルとは無縁であるのは勿論のこと、そういった出来事に寛容である姿勢を見せない存在でいてほしかった。
ロックロックの出演者は、主催であるスピッツが選定する。何故彼なのだろう。ロックロックなら出たいと望むミュージシャンなんて山ほどいるだろうに。そう思わずにはいられなかった。
呼ぼうとするだけの強い理由が何かしらあったのだろうが、それが何であれ、私にとっては受け入れることはできなかった。
つまるところ、私はスピッツに対していつしか夢を見すぎてしまっていたのだろう。神格化していたと言ってもいいかも知れない。
私の中のスピッツが持っていてほしかった線引きと、実際のスピッツのそれとで食い違いがあったというだけの話である。
だが、その「だけの話」で、私の中の熱量は確実に減ってしまった。
何もスピッツの誰か(あるいは全員)がトラブルを起こしたわけでもあるまいに、この程度のことで冷めるなんて本当のファンとは言えないのではないか、そう悩んだ時もあった。
けれど、そもそもこちらは彼らの曲に感情を揺さぶられてファンになった身である。その感情に冷水を浴びせられて冷めることに、何の不思議もない。
今、私にとってスピッツはゆるやかに「かつて好きだったバンド」になりつつある。それでも、年間通して一番聴いているのはやっぱりスピッツの曲なのだ。
今後発表される新しいアルバムにまた感情を揺さぶられて熱量が戻るか、もしくは戻ることがないままになってしまうのか、それはまだわからない。
できれば、また以前と同じように好きになりたいと願っているけれど、心のどこかでもう戻ることはないのではないかと思っている自分もいる。
天気も良いし、春めいてるし、無性にどこかへ出かけたい
がその「どこか」が分からない
でも桜にはまだちょっと早い
じゃあ海か、高尾山でも行くか
でも休日だしな
と迷っている内にもう5時も近い
どこへ行くにしてもちょっと遅い
結局出かけるのはATMの営業時間のリミットに迫られてになってしまった
取り敢えず駅まで行って、ひとまず一服しながら考える
「春 出かける場所」で検索してみるも、どれも今日は違う感じがする
と来た道を引き返して、どの辺をうろつこうか考えながら歩いていると、なんだか妙に心が凪いでいる
というか頭が全く動いてない感じがする
昔ってもっと無性に頭がゴチャゴチャしていたし、訳もなくにイライラするしムラムラするし、こんなんではなかった
なんか色々と考えていた
むしろ今みたいな落ち着きが欲しかったはずなのに、いざなってみるとそれはそれでなぜだか妙に寂しい
久々に考え事モードになりたい
常に流している音楽を止めよう
ちょうどクイーンのベスト盤の、キラークイーンの次の曲に差し掛かった所でキリよく止める
静かに流れる景色の中だと、目に入るささやかなもの全てにも感動を見出すような姿勢になってしまいがちな気がする
なんかこう、内省的な考えを巡らせたい
が、「無」ばかり
瞑想でもしてるよう
内省なんて、それこそ多感な時期にもうとことんやってしまったしな
もうそれ以上思うことはない
とか何だかんだで考え事はしつつ、歩く
光の多いほうへ行ってもいつもと同じようなコースになるだろうし、魅力なさげな方知らない方を敢えて選ぶ
やはり何も思うことはないが、遠くには行けない事が確定しつつ自宅近辺をウロウロするこの感じ、実にティーンの頃を思い出す
と、銀のさらの原付がエンジンかけっぱで停めてあるのが目に付く
こういうのって乗り逃げしたらどうなるだろうな
そのままどっかへちょっと走り去ろうとしても、なんか不安であんま遠くへは行けそうにないよな
今日一個目の「歩きながらの考え事」的なやつだな
この道はこの道に接続されるのかという新発見も数ヵ所でありつつ、そういえば昔授業中暇つぶしに自分の家から始めてどこまで地図を書けるか、というのをやったな
いくらも書けなかったが
それが自分の行動範囲の閉鎖性を自覚するきっかけになったかならなかったのか、もう思い出せない
迷路を描くのもすぐに飽きた
結局チンポを描くのにハマったけれど、入試も近づけば英単語帳めくるなりなんなり自習するようにはなってな
この頃までは順当な生き方だったな
とか思いながら歩いていたら、逃げ切れずにディーラーとコンビニばっか並んでる幹線沿いに出てしまった
青い標示に新宿まで何十km、府中まで、八王子でさえも20kmとか言われると、日帰りでテクテク歩く限界を突きつけられた気分になる
小回りを繰り返した所で大局的には結局知ってるパターンに収束してしまう
川まで来てしまっては河川敷を歩かない訳にはいかないが、少し抗いたい
川の脇のデケェ運動公園が良さそう
そっちへ逸れると、新発見の哲学の道のパチモンみたいなのがある
手を後ろに回してのんびり歩きたくなるような良い感じだが、やはり特に思索は湧かない
そのまま通り抜けて多摩川の方へ行く
しかし思春期を神格化してしまっているだけで当時も案外こんなもんだったか
そういえば今日は音楽を止めているが、別に当時も音楽は聴いてたな
1000円か2000円かそこらでも、月5,000円の小遣いから捻出するか何度か本屋に行って大分迷ったな
ブックオフでCDを買うということになんとなく憧れがあって何枚か買ったが、あんまり聴かなかった
大体歌詞がないか聴いてもわからん洋楽とかだったし、あまり思考のノイズにはならなかったんだろうな
でも当時は当時で、小学生の頃とかってスマホもウォークマンもなくて、もっと考え事してたよな
とか思ってた気がする
当時に戻りてェ〜とか思っても、当時は当時で不愉快な思いだらけではあった
可処分所得一つとっても、今の感覚で当時を生きたら発狂ものだな
この不快さを都合よく忘れて、美化して懐かしむような奴は死んだ方が良い
自分もそうなったら死んで欲しいと思ってたし
当時の感覚を新鮮に保存しておかないと、いよいよそうなってしまう
とか、帰るにはちょっと早いし駅前のパチ屋の休憩室にピットインして今日の記録を残したが、やはりなんか思い出の補修作業ばかりで、新しい考え事は無かったな
まだ帰るにもちょっと早いし、プロジェクトヘイルメアリーでも観に行くか
面白いことを祈る
面白かった
ハニレモは素晴らしいところと好きなところとめちゃくちゃ苦手なところが共存してて好きとも嫌いとも言いにくいんだけどその苦手な癖強いところを力技で押し通し貫抜いてるからこそなんかパワーがあって売れてるんだろうなと思う
槙や矢沢が好きなんだろうねとよく言われてたけど、sparkle115はかなり天使なんかじゃないだった、表現や演出が
ヒーロー男を食べ物に喩えるタイトルはママレードボーイから取ってると思う
話は天ないと君届だなーっていう雑な印象
羽花は(翠×まみりん )×爽子ってかんじ
主人公コミュニティの神格化と家庭環境悪男を救うのはカレカノの水脈
救われるのも救うのもやりたい!どっちも諦めない!っていう気合いを感じる
パクりと言いたいわけじゃなくて王道学園少女漫画愛を豪速球で投げるぜ!っていう気合いを感じてる
まあ界の家庭環境編のあとは基本カップルショート動画が続く感じだが…
何が言いたいかというと、趣向的に没入するほどはハマらないけどハッとするポイントはところどころ散りばめられており、作品よりも作者の少女漫画への気合が好感度が高い。あとこの時代に王道少女漫画であれだけ売れててすげえ。服可愛い。
フリードマンの答えはおそらく
彼にとって問題はこうです。
もし「結果」を正義の基準にすると、Justice = f(Observed Outcome) になります。
しかし
ババ・メツィア30bの引用は鋭い。しかしフリードマンはこう切り返すでしょう。
彼の区別は
後者は市場の自由を保障する枠組みです。ここで彼はFriedrich Hayekと共鳴します。
タルムードが批判するのは後者に近い、と彼は解釈するかもしれません。
フリードマンはこう言うでしょう。
彼は国家を通じた倫理の強制を警戒します。しかし彼は貧困救済を否定しません。
✔ 無関心ではない
✔ 結果も無視していない
と考えます。
彼の大恐慌解釈(シュワルツとの研究)は明確です。大恐慌は市場の失敗ではなく、中央銀行の失敗。
つまり
という循環を警戒します。
あなたが示した核心
もし「結果の正義」を政府が実現しようとすれば、権力を強めることで、自由が失われます。
そして彼にとって自由は単なる手段ではなく、道徳的価値そのものです。
実は接点はあります。
あなたの三点:
✔ 安定したルール
第三についてはこう言うでしょう。
もしフリードマン的枠組みで答えるなら
あなたの議論は市場神格化ではありません。むしろ制度と倫理の緊張を正面から扱っています。
という主張。これは驚くほどタルムード的です。
タルムード(サンヘドリン32b)は、この二重表現を「正しい目的を、正しい手段で追え」と解釈します。
つまり目的が善でも手続きが歪んでいれば不正。これはまさに「裁量よりルール」を重視する考えと共鳴します。
レビ記19:36 「正しい天秤、正しい分銅を持て」
タルムード(ババ・バトラ89a)は度量衡の不正を「最も重大な経済的罪の一つ」とします。
ここで重要なのは安定性です。予測不能な貨幣政策は、契約の意味を壊し、信頼を破壊する。
フリードマンが言う
どういう意味か?形式的に正しくても、弱者が潰れるとか、倫理的配慮が欠けるなら社会は持続しない、という警告です。
つまりルールは必要だが、ルールが人間を傷つけるなら再検討せよということ。
しかし同時に
は市場任せにしません。つまり「市場の分散知識 + 倫理的介入」は両立できる可能性があります。
ここには条件がありません。短期か長期かではない。効率的か非効率かでもない。
困っている人がいる → 責任が生じる。
その通りです。しかし重要なのはヨセフは価格メカニズムに任せなかった。
危機下では、裁量が必要になる瞬間があると考えられるためです。
つまり
この緊張を抱えます。
実はこの議論の核心は「正義はルールか、結果か?」ではありません。
タルムード的問いは「ルールが人間の尊厳を守れているか?」です。
市場は強力な仕組みです。しかしトーラーは市場を神格化しません。
フリードマンの制度設計論は非常に重要で、多くがトーラー的です。
✔ 安定したルール
あなたはどう感じますか?ルールの正義で十分だと思いますか?それとも結果の倫理的責任も不可欠だと思いますか?
ここが本当のマフロケトの核心です。
少し前に『超かぐや姫!』への批判的なダイアリーを読んだので、私なりにこの作品の意義を書いてみます。
参照:
https://anond.hatelabo.jp/20260207025626
しかし、ターゲット視聴者層の理解が浅く、主観的な感想に終始している印象も受けました。
ただ私は、この作品はかなり意図的に「今の観客」に向けて作られた、意味のある作品だと考えています。
とくに評価が分かれる「ご都合主義」に見える部分こそ、本作の主張の核だと思っています。
本作の主なターゲットは、さとり世代・Z世代にあたる20代〜20代後半、特にデジタルネイティブの女性層だと見ています。
「現代の客をなめている」という見方もありますが、私はむしろ逆で、現代の観客心理をかなり正確に捉えている作品だと感じます。
とくに推し活をしている層の自己認識は、彩葉の在り方とよく重なります。
私たちは表面的には「自分は特別ではない」と理解していても、心の奥では「何者かでありたい」と願っていることが多い。
だからこそ、主人公にはある程度のハイスペックさが必要になる。
ターゲット層が「完璧ではないが、そこそこ何でもできる(あるいはそうありたい)」という自己像を持っているからです。
また「百合っぽければいいんでしょ」という批判についても、私は単純にはそう思いません。
現代女性の対人感情、とくに同性に対する感情は、友情と恋愛の境界が比較的ゆらぎやすい。
さらに女性VTuberを応援する文化圏を踏まえれば、20代女性にとって本作の距離感は不自然というより、むしろ自然な範囲にあると思います。(小説版は蛇足感がありますが)
本作が投げかけているのは、「過度な人間信仰」と「世の中を舐めていなさすぎる態度」だと私は捉えています。
現代人は、親・推し・成功者を「自分とは違う、完璧で特別な存在」と見なしがちです。
自分の不完全さを自覚しているからこそ、相手を神格化し、「どうせ自分には無理だ」と距離をとって心を守る。
批判文中には「なんでこいつら配信してんの?」という趣旨の指摘がありますが、私はここが読み違えだと思います。
少なくとも、かぐやが配信する理由はシンプルで、「自分もそうなりたいから」です。
一方の彩葉は、なりたい気持ちはあるのに「完璧でない自分には無理だ」と考えてしまう。
失敗要因をすべて潰さないと成功できない、推しが成功しているのは彼らが完璧だからだ、という発想に囚われている。
この物語の核は、その完璧主義と人間信仰による歪みを、彩葉がかぐやとの配信活動を通じてほどいていく過程です。
これはデジタルネイティブ世代に限らず、多くの現代人が抱える問題でもあります。
ここでいう「世の中を舐める」は、他者を見下すことではありません。
そういった意味で、本作がサクセスストーリーになるのはある意味で必然です。
完璧かどうかより先に、「うまくいく可能性を信じて前に出ること」がなければ、そもそも成功は起こらない。
作品はその事実を伝えるために、視聴者が「自分もやれるかもしれない」と思える構造を取っているのだと思います。
批判側から見ると、それは「決めたら叶う」都合のよさに見えるでしょう。
ただ私は、その都合のよさを「物語上の誇張」として意図的に使っていると読みます。
この作品が描いているのは、リアルな成功率の再現ではなく、最初の一歩を踏み出すための心理的転換です。
かぐやの少し不格好な配信は、「不完全な自分を受け入れること」の象徴です。
それでも結果が出る展開は、「完璧でなくても進める」ことの象徴です。
親との対話は、相手もまた不完全な人間だと受け止めることの象徴です。
そしてヤチヨの正体を見抜く場面は、彩葉がそれらを内面化したことの到達点として機能しています。
「父親の死や母親との衝突はありきたりだ」という反応もありますが、私はむしろそこが重要だと思います。
これらは特別な悲劇ではなく、多くの人が程度の差こそあれ抱える現実的な悩みです。
作中の「でも、みんな抑えてもいるんだよね。自分の気持ち。もっと大事なもののために。」という台詞は、その普遍性をよく示しています。
本作の心理描写は、対人関係のドラマを細密に描くより、主人公の内面の葛藤に焦点を絞っている。
だから人間関係の情緒は、あえて視聴者の想像に委ねる部分が大きいのだと思います。
しかし、発展後の心理描写や、彩葉の内面の心理描写は、むしろしっかり描かれており、重要な点はその部分だと感じています。
それでも、その描写を「浅い」と感じる人はいるかもしれません。
ただ、それは現代人自体の浅さを反映しているとも言えるのではないでしょうか。
本作は、その弱さを否定するのではなく、乗り越えるための物語として作られている。
推し活の広がりやMrs. GREEN APPLEが流行していることからも、それが分かると思います。
現代人の多くが、些細なことで悩み、些細なことで傷つき、些細なことで救われることを望んでいます。
物語の最後では、「このお話、ハッピーエンドだと思う? この後すぐ喧嘩別れしたりして。まだまだ分からないよね」「あなたの物語もそうでしょ?」という台詞が出てきます。
これは「現実はハッピーエンドとは限らない。だからこそ、自分の物語を自分で作っていくしかない」というメッセージであるとともに、視聴者に物語の主人公を移し、自分の物語を考えるきっかけを与えるものだと思います。
だから私は、『超かぐや姫!』は現代人の心の弱さを受け入れたうえで、一歩先へ進ませようとする作品なのではないかと感じています。
「飛脚が1日100km走った」という話、実は「一人の人間が1日で走った距離」と誤解されることで広まった数字です。
結論から言うと、この数字はデマというよりは、「システムの能力」と「個人の能力」の混同から生まれたものだと考えられています。
江戸時代の飛脚(特に幕府の公用飛脚や大名飛脚)は、数キロ〜数十キロごとに宿場で次の走者に交代するリレー方式で走っていました。
江戸〜京都間(約500km)を最速の「継飛脚(つぎびきゃく)」は、約60〜70時間(2〜3日)で駆け抜けました。
これを計算すると、1日あたり約150km〜200km移動していることになります。
この「チーム全体の移動距離」が、いつの間にか「飛脚は1日に100km以上走った超人である」というイメージにすり替わってしまったのが最大の原因です。
古武術や日本伝統の身体操作として注目された「ナンバ走り(同じ側の手足を同時に出す走り方)」が、「これを使えば疲れずに1日100km走れる魔法の走法だ」と、メディアや書籍で少し誇張して語られた時期がありました。これにより、「飛脚=驚異的な身体能力を持つ集団」というイメージが定着しました。
ドイツ人医師ベルツが、飛脚の持久力に驚いて「肉を食べずに玄米と漬物だけでこれほど走れるのか」と書き残したエピソードが有名です。この逸話が「飛脚=無尽蔵のスタミナ」という文脈で語られる際、数字がどんどん盛られていった側面もあります。
当時の記録や飛脚の労働実態から推測される、現実的な数字は以下の通りです。
| 種類 | 走った距離(目安) | 備考 |
|---|---|---|
| 一般的な飛脚 | 1日 30km〜40km | 現代のフルマラソン程度。これでも十分すごいです。 |
| 超一流の飛脚 | 1日 60km〜80km | 宿場をいくつか跨いで走る場合もありましたが、連日は不可能です。 |
飛脚の凄さは「個人のスピード」ではなく、「24時間休まずタスキを繋ぎ続けるネットワークの正確さ」にありました。
神格化された存在ではなく、ユダヤ社会を生きた一人の男としてのキリストを。
髪は短く、肌は浅黒く、喜怒哀楽が激しく、理不尽なことも平気で言う、やたらと弁の立つ胆力あるおっさんだったと学術的には理解されている。
そんなおっさんのなろうが読みたい。
当然水を酒に変えたみたいな奇跡は一切無し。
(「手品がうまい」みたいなあり得そうなスキルで説明しても良い。)
チート能力抜きで、古代ユダヤ社会を生き抜いた話術や交渉力、そして人心を見抜き掌握する力を持つキリストの人間臭いなろうが見たい。
タイトル:『ナザレの職人(テクトン)、ナーロッパへ往く ~チート無しの説法と手品で異世界を論破する~』
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### 第1話:ゴルゴダのあと、白い部屋にて
肺に焼き付くような渇きと、手首を貫く熱い鉄の感覚が、不意に消えた。
意識の裏側で唸っていた銀蝿の羽音も、罵声も、泣き声も、すべてが遮断された。
「……ふぅーっ」
男は長く、重い息を吐き出した。
目を開ける。そこは岩を穿った墓所ではなく、壁も床もない、ただ白一色に塗りつぶされた空間だった。
男は自分の手を見た。
分厚い角質に覆われた掌。石切場で岩を運び、木の節目を削り続けた労働者の手だ。釘の跡は綺麗に消えているが、指の節々には長年の重労働で染みついた石灰の粉と、油の匂いが残っている気がした。
彼はあぐらをかいた。そして、ボリボリと縮れた短い髪を掻きむしる。
「お目覚めですね、迷える魂よ!」
頭上から、鈴を転がしたような声が降ってきた。
男は顔をしかめた。眉間には深い皺が刻まれ、太くつながった眉毛がさらに寄る。
見上げると、光り輝く翼を生やし、露出度の高い白いドレスを纏った女が浮いていた。いかにも、ギリシャやローマの連中が好みそうな「女神」の姿だ。
「……なんだ、お前は」
男の声は低く、砂利を含んだようにしゃがれていた。
「私は転生を司る女神です! 貴方はその……理不尽な刑で生涯を終えた、哀れな魂。その功績と無念を鑑み、貴方に『新しい世界』での第二の人生(ライフ)をプレゼントしちゃいます!」
女神はウィンクをし、空中にきらめく文字盤――ステータス画面――を表示させた。
「さあ、選んでください! 剣と魔法の世界『ファンタジア』で、魔王を倒す勇者になるのです! 今なら特典として、聖剣か、あるいは無詠唱で極大魔法を放つチートスキル『神の愛し子』を付与しますよ!」
男は鼻を鳴らした。
そして、地面(のようなもの)に唾を吐いた。ぺっ、と乾いた音が響く。
「汚い! 何するんですか!」
「うるさいぞ、女。俺の頭はまだ、酢を飲まされた後のようにガンガンするんだ」
男は立ち上がった。身長は160センチそこそこ。決して高くはないが、樽のように分厚い胸板と、丸太のような腕が、彼がただの口先だけの男でないことを物語っていた。その眼光は、猛禽類のように鋭く、黒い。
「いいか、よく聞け。俺はもう『救う』のはこりごりなんだ」
「えっ?」
「『神の愛し子』だと? そんな大層な名前をつけるな。俺はただの石工(テクトン)の息子だ。親父や兄弟には『頭が変になった』と取り押さえられ、故郷じゃ誰からも相手にされず、挙句の果てにローマの犬どもに木に吊るされた。これ以上、何の仕事をしろと言うんだ?」
男は早口でまくしたてた。アラム語特有の喉を鳴らす発音で、リズムよく、しかし容赦のない罵倒が続く。
「それに魔法? くだらん。汗もかかずにパンを得ようなんざ、盗人の発想だ。俺が見てきた連中はな、奇跡が見たいんじゃない。ただ『明日のパン』と『今日の不満をぶつける相手』が欲しいだけだ。水を酒に変える? そんなもん、あらかじめ水瓶の底に濃いブドウ液を仕込んでおいて、出す瞬間に混ぜれば酔っ払いどもは大喜びだ。必要なのは魔力じゃない、段取りと話術だろうが!」
「……は、はい?」
目の前の男は、彼女が管理してきた数多の「転生者」たち――高校生やサラリーマン――とは明らかに毛色が違った。内気な引きこもりでもなければ、過労死した社畜でもない。
「誰がそんな大層な名を名乗った? 俺はナザレのイエス。ただの男だ」
イエスは女神に指を突きつけた。その指は太く、関節がゴツゴツと隆起している。
「おい、その『新しい世界』とやらには、ローマ人はいるのか?」
「ろ、ローマ人はいませんが……似たような帝国はあります。亜人を差別し、重税を課す腐敗した貴族たちが」
「神殿はあるか? 金貨をチャリンと鳴らせば罪が消えると説く、白く塗った墓石のような偽善者どもは?」
イエスはニヤリと笑った。
議論の場で、論敵の矛盾を突き、完膚なきまでに論破する直前の、好戦的な笑みだ。
「なるほど。世界が変わっても、人の業ってやつは変わらんらしい」
彼は腕まくりをした。
「いいだろう、行ってやる。だが、そのチートとやらは不要だ。剣もいらん」
「親父の教えだ。『剣を取る者は剣で滅びる』。俺に必要なのは、この腕と、口と、あとは……そうだな」
イエスは懐(といっても、今は死装束のようなボロ布だが)を探るような仕草をして、女神に手を出した。
「は、はい……?」
「あと、向こうの言葉がわかるようにはしておけよ。言葉が通じなければ、喧嘩もできん」
女神が呆気にとられている間に、イエスはステータス画面を勝手に操作し、『言語理解』と『アイテムボックス(大工道具入り)』だけを選択して「決定」ボタンを拳で叩いた。
「待ってください! ステータス補正なしだと、貴方はただの『村人A』以下の身体能力ですよ!?」
「上等だ。俺はずっと『以下』の場所で生きてきた」
「見ていろ、白い女。魔法なんぞ使わなくとも、人の心に火をつけることぐらい、俺には造作もないことだ。――さあ、新しい『仕事』の時間だ」
水を酒に変えたのは手品だったことにしたけど、当時の状況を考えるとかなり無理があるらしいので、消すか変えるかしたほうが良いと思う。