はてなキーワード: 憎悪とは
田中一哉
@moriya_law
「なんでやろなあ」も何も、あなたその事件の被告ですよね。刑事処分を受け、裁判所から多額の賠償金の支払いを命じられても、まだ粘着を続けますか。20歳も年上の男性から10年間も付き纏われる被害者の苦痛が分かりませんか?分からないのであれば、こちらとしても相応の措置をとらざるを得ません。
【亜現代人】うい
@ui_inkyo
春名風花母娘って「控訴」してるはずなんだけど続報ないのなんでやろなあ
毎度毎度自分たちに都合の悪いことはいやに報道したがらない傾向あるから今回もそうかもね
春名風花母娘の異様さは春名風花母娘と過去に接点のあった業界人の反応を見ても明らかじゃないか?
自分たちも悩まされているであろう誹謗中傷に関して光が差したはずの春名風花の裁判報告に言及している業界人なんて碌に見たことないし、新たに仕事を振ったりすることも全然ないじゃん
春名風花ことはるかぜちゃんは今で大人しくなったが、昔は盛んに炎上しており今でいう暇空茜とかへづまりゅう的なポジションだった
「はるかぜちゃんにおちんちん見せたい人はハチ公前にあつまれ!」と小学生の時に呼びかけて実際は誰も来なかったが指定した日時にちんちんを待機して親はなにやってんだと炎上したり、
「近所に障害者施設ができたせいで家の地価が下がった」と発言して障害者差別ではないかと炎上したり、
まだ17歳なのに18禁舞台で裸になることをにおわせて警視庁から降板を命じられたりと、10代の頃は話題になることが多かった
当時はまだyoutubeが盛んではなく炎上芸で儲けるスキームは発明されておらず、はるかぜちゃんはむしろ数々の炎上によって芸能人として失ったものの方が多すぎたのが骨身にしみて今は大人しいのだろう
はるかぜちゃんには多くのアンチがつき、その中に「ぬこちゃん」という男性がいた
ぬこちゃんははるかぜちゃんが炎上に身を捧げた10年間にはるかぜちゃんの発言をチクチク批判してアンチ専用アカウントをツイッターでやっていた
訴訟ブームだった頃にはるかぜちゃんはアンチ数十人を訴えたがほぼ示談や10万以下の少額で終わっていた
しかしぬこちゃんは10年間同じアカウントでアンチをやっていたので対象発言が1000件を突破し、3千万円を求め訴えられ、2年以上訴訟を続けた末に、300万円の支払い命令が出た
1発言につき3千円ではとても足りないとはるかぜちゃんは控訴したと言うが、その後音沙汰なし
今回、そのことに亜現代人という人が触れたところ、田中弁護士が「おめーぬこちゃんだろ」とキレたのである
ぬこちゃんについては訴訟開始後に縦覧した程度なので人となりをそんなに知らないが、亜現代人はなんか普通のオタクっぽい
はるかぜちゃん批判は複数あるが、アンチ専用アカウントでもない
増田のはるかぜちゃん記事に言及してたりするのでこれも捕捉されるだろうか。見てる~?
田中弁護士は亜現代人を開示してイコールぬこちゃんだと確信しているのか、2年ぐらいぬこちゃんを見つめ続けたことで人となりを把握して認知プロファイリングしたのか、「控訴したっていうけど報告がないのは思い通りにいかなかったからw」という発言にムカッときてキレてるだけなのか
実際のところぬこちゃんかはわからないのだが、田中弁護士はムカッとしてはいるだろう
上手くいってたなら「控訴うまくいきましたけど~?ニチャア」とドヤれるところだ
うまくいかなかったのでしょう
20歳以上年上のおばさんに数年粘着されてる(元)女子大生の気持ちも田中弁護士は考えてみればいいよ
はるかぜちゃん及びその母は、かつて女子大生に粘着し嘘で誹謗中傷し、数年経ってからも掘り返して懲りずに嘘ついてその子を叩いた
その女子大生は捨て猫を拾って奈良県の保健所の譲渡会に預け、「誰か引き取って」とツイッター上で呼びかけ、「私が引き取りにいきます」と保護猫活動家が返信し、実際に引き取り報告もされ、ただのイイハナシで終わるはずだった
しかし、前後のやりとりを見ないまま中川翔子が「猫を保健所に連れて行くな!」と女子大生に噛みついたことで「殺処分させるために猫を保健所に連れて行った」と誤認したファンネルが女子大生を猛烈に叩くようになった
当時中川翔子の子分だったはるかぜちゃんも噛みつき、「保健所に連れて行って他人に殺させるぐらいなら、あなたの手で猫を絞め殺せ」とまで女子大生に呼びかけた
譲渡会に預けただけだと説明されたはるかぜちゃんは「奈良県の保健所に譲渡会はないとママが言ってる。女子大生は嘘をついてるだけ」と反論
しかし普通にググれば奈良県の保健所に譲渡会はあるとわかるので、はるかぜちゃんは完全に女子大生を潰すためにデマに走っただけだった
その炎上は結局女子大生が消失したことで終わったが、その数年後にはるかぜちゃんの母親がツイッターを始め、また懲りずに譲渡会はないとデマを流して女子大生を叩き出して軽く燃えた
20歳以上年上のおばさんが、捨て猫を見殺しにできずに譲渡会に預けて保護活動家につなげただけの心優しい女子大生への憎悪を何年も引きずって攻撃せずにはいられなかった
別にその女子大生は中川翔子もはるかぜちゃんも叩いてない普通の日常アカウントだったのに
その被害にあった人たちが裁判芸に走って「相応の処置」を取らずに身を引いてくれただけで、お前らは倫理を説ける側なんかじゃないぞ
はるかぜちゃんママは数年前にシュナムルにはるかぜちゃんを批判されたからと粘着して、暇空がターゲットにした時は一緒になってデマ拡散してたし「被害者の苦痛」をまずは自分たちが理解したほうがいい
今までトランプと対立してきたザッカーバーグが180度方針転換をしてトランプに全力ですり寄っている。
Metaはファクトチェックをやめ、憎悪コンテンツの投稿に関する利用規定も改定し、今まで禁止されてきた「女性を家庭用品や所有物のように言うこと」、「トランスジェンダーまたはノンバイナリージェンダーの人を『それ(it)』と呼ぶこと」などが削除され、「トランスジェンダーや同性愛に関する政治的・宗教的言説を考慮し、性別や性的指向に基づく精神疾患や異常性の主張」を許容すると項目を追加した。
ザッカーバーグがハーバード時代に作ったFacemashは、ランダムにハーバード大学女子学生の顔写真を2枚ずつ表示して、好みな方を選ばせて、ハーバード大学女子学生の容姿をランク付けするサイトだ。
大学のサーバーに侵入して盗んだ顔写真利用や女子学生達への名誉毀損など、様々な問題から大学から厳しい処分を受け、閉鎖させられた。
肖像権を侵害されて、全世界に顔写真をさらし上げられ、ランク付けされる人の気持ちを彼は考えない。
FacebookやInstagramで金の為に広告の邪魔になる差別発言取り締まってるだけだろうと思っていたが、イーロンのようにトランプに擦り寄れば差別が金になると見たらさっさと飛びついていて、やっぱりなぁと思った。
30代の男です。
当初、妻が私にとって初めての女性であり、私は妻にとって初めての男性ではないという事実を全く気にせず軽い気持ちで付き合っていました。
彼女が話す過去の恋愛の話を何の抵抗もなく聞くことができました。
しかし、時間が経つにつれて私の彼女への愛は深まり、それにつれて前述の非対称性が私を苦しめるようになりました。私は彼女に対し、愛、そして憎悪に近い嫉妬という歪んだ感情を持つようになりました。
タイタニックという映画をたまたま観た時以来、その苦しみはさらに強くなりました。
子供、孫までいる老いたローズのが最期の瞬間まで想い続けているのは添い遂げた夫ではなくたった少しの時間を過ごしただけのジャックなのです。
なんて残酷な話でしょうか。
大学時代、新入生のために開かれたイベントで中心人物だった先輩に一目惚れし、すぐにその男性と関係を持ってしまったそうです。
その男性には昔からずっと付き合っている交際相手がおり、また交際相手や妻以外とも関係を持っていたそうですが、妻はその男性に「沼り」時間を無駄にしてしまったそうです。
大学時代、私のサークルの複数の女性も同じサークルのとある男性に「沼り」、先輩、同級生、後輩関係なくその男性に初めてを捧げ関係を持っていました。
この非対称性は何なのでしょうか。
多くの既婚女性にとって、最期の瞬間心に残っているのは多くの時間を共にした夫ではなく、前述の「沼った」男性、ジャックです。
さらに救いがないのは、フィクションのジャックとは違い、現実のジャック達は氷点下に近い海で凍死することなく幸せな家庭を築いているということです。
多くの女性から生涯に渡って思慕されながら幸せな家庭を築くジャック達。
その一方で、一生かけても愛する妻にとって「人生で最も愛した人」になれない私のような男達。
私はその苦しみを忘れるため踠きました。
歯列矯正をして、身体を鍛え、ヘアセットを習得し、野暮ったい服装を変え、時間の許す限りたくさんの出会いの場に赴き女性とのコミュニケーションを経験しました。
多くの女性と肉体関係を持ち、今ではかつて在学していた高校の1学年の人数よりも多くの女性と肉体関係を持ちました。
それでも心は晴れません。
私は命も捧げられる程に愛する妻が、彼女の死の瞬間に想う「ジャック」になりたかったのです。
妻は私のために氏を変え、命懸けで子供を産んでくれました。
私も妻のために自分の出来得ることは全てしてきたつもりです。
「時間を無駄にした」とどこか嬉しそうな懐かしそうな顔で話す「彼女曰くしょうもない男」なのです。
数ヶ月前、妻が私に「学生時代のサークルの集まりがあるんだけど、私が行ったら心配?」と聞きました。
私が「まあね」と返すと、妻は「じゃあ行かない」と言いました。
この時、私の鉛の心臓がガシャンと音を立てて壊れました。
本当は妻は参加したかったのではないでしょうか。
心からその男性が嫌で、会いたくなくて、参加したくないのなら前述のやり取りや「心配?」「じゃあ行かない」という言葉はなかったはずです。
「じゃあ」という言葉には私に対する僅かながらの抵抗が見て取れました。
ちょうどその直前、私達は車を購入しました。
私は欲しかった車を選ばず、妻と幼い子供達のためにスライドドアのついたファミリー向けの車を選びました。
家、車、人生。
私は死の最期の時まで私以外の男性を想う女と、その女が産んだ子供のために人生をドブに捨てているように感じました。
私は衝動的に貯金のほぼ全てをあてることにして、本当に欲しかった車を契約しました。
欲しかったハイブランドのファッションに身を包み、欲しかった車に乗り、仕事を欠勤して旅行に出掛けています。
その歌詞に「今日だけ全部忘れて、雲より上で伸ばそうぜ羽根」という歌詞がありました。
彼女はそれを口ずさみ「仕事も家族も何もかも全部忘れちゃえ!」とはしゃぎました。
そんな無邪気な姿は私の虚しい心に幾分かの潤いを与えました。
難しくしているのは、性犯罪者じゃない男性の性欲まで自分たちの安心のために支配しようとしたり、それがうまくいかないからと男性憎悪を拗らせたりしてる一部の声のでかい人たちですよ。
これははてブの役立つところなんだけども
はてブのホッテントリに入ってるTogetterまとめ、まとめてる人をブロックするとかなり風通しが良くなる
まとめ内容を見る暇があったらそれでまとめられてる人も見て、青バッジがついてたらブロックミュート
大変だったんだろうなとは思うけど
「我々への害を為してまで権利を享受しようとしないでください。」
はいくら何でもいただけない。
原文をあたると書いてくれていたので半世紀前の国連で採択された宣言のリンクを貼っとく。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hg.htm
もちろん害を為していい権利と直接的には書かれてない。
けど丹念に読み込めばその人なりの解釈が生まれるだろうし、いろんな人が持ち寄った解釈のぶつかり合いで輪郭がはっきりしてくる。
元増田はせっかくの経験を「石がぶつかったら痛かった」ってレベルで終わらせてしまってる。
それではただのサルと変わらん。
解釈の例あるいは補足
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n241/n241_01-01.html
そこまで憎悪を滾らせる前に誰かに相談出来たらよかったんだろうけど。
相談もできないような心理的安全性が低い職場なら、そういう職場を選んだ自分を省みてほしいね。
最後に
内心の自由は保障されるべきだけど、外に出してしまったら責任が伴う。
この場は内心ではない。
才覚でナチスと共産主義の嵐を生きぬいた給仕のお話。経験から相手の本質を見抜き、最高のサービスをする、ってのは序盤だけで、あとは東欧諸国の悲惨な歴史の中で話が進む……はずなんだが、文章全体にユーモアが漂っていて、ナチス政権下でも結構いい思いをしていて、「歴史をこんな風に扱っていいのか?」とその大胆さに驚かされる。当事者だからいいのか? いや、そんなことはないのか? 最近は意外なことで炎上したり叩かれたりするので何もわからん(なんか、アジア人のふりをして小説を書いたらバズって、そのままアジア人のふりをする羽目になる、みたいなキャンセルカルチャーをネタにしたアメリカの風刺文学があった気がするんだが、思い出せない。キーワードで検索しても新しい価値観についていけないで炎上しちゃう六十代教授の出てくるアベル・カンタン「エタンプの預言者」という別の文学しか出てこない。で、pretending to be an Asianでググってやっと見つけた。R. F. KuangのYellowface」。洋書だった。たぶんどっかの文芸評論家が紹介してたんだろう)。
関係ないけど、ナチスが優秀な子孫を作るための女性たちのためのキャンプ、ヌーディストの楽園のような外見を持っていながら(いや、記憶違いかも)発想がそもそも家畜改良みたいで、恐ろしすぎて「これは露悪的なSFか?」ってなる。しかし、殺戮こそしていないものの、今では人権意識の高いとされる北欧諸国でも、かつては平気で障害者や異民族の断種が行われていたのだ。Whataboutismは建設的議論にとっては有害だが、人間の原始的感情に訴えかける強い説得力を持つ。「確かに俺も悪かったけど、お前にだけは言われたくねえよ」的なね。結局、政治は感情で動く。
話を戻せば、この作品は映画にもなっているらしい。というか、このエントリ全体で映像化された作品が結構あるらしいのだが、全然見ていない。
ポーランドとアフリカって接点があると普段はほとんど考えないのだけれど、きわめてよいルポタージュ。こうして独立してから何十年経つのに、アフリカ諸国とひとくくりにされがちな国々の個性を伝えてくれる。
しかし、出来事は基本的に救いがない。人類史の多くは悲惨の連続だが、アフリカで起きたことは桁の振れ幅が一つ違う。世界経済システムとの不幸すぎる出会いから五百年余り、まだ立ち直れていない大陸という印象を持った。とはいえ、暗澹たるルポタージュと言うわけでもなく、人々が村の中心の樹々に集まって生活するところや、市場の活気などは生命力にあふれ、まるでそこで暮らす人々の顔が浮かぶようだ。破綻した国家の状態は目を覆うようだが、そこから復興して何とかやっている人々の姿もある。……と、当時の日記に書いてあった。
ところで、ヘミングウェイはよくアフリカに狩猟に出掛けているけれども、それは所詮旅行者の目で、上っ面でしかないと批判しているのがこの本だった。そう思っていたのだが、日記を読み返すとそれはポール・セロー「ダーク・スター・サファリ」だった。著者はマラウイとウガンダで教鞭をとっていただけあって、アフリカに対して遠慮が無く極めて率直だ。時として情のこもった叱責や、人々へのまっすぐな好意も出る。きれいごとのないアフリカを知りたい人にオススメ。
遅延する電車、かつての豊かな文化と個性を失い広大なスラムと化したそれぞれの国の首都、高い失業率、飢餓、地元民のやる気を削ぐ支援、窃盗や強盗と犯人へのリンチ、放置されて本が残っていない図書館。親切な人や旧友もたくさん出てくるがいささか気が滅入ってくる。……と、当時の日記に書いてあった。
今はスマホも普及していてアフリカの様子も少なくとも都市部では大分違うと思う。ただし高野秀行は今でも地方の市場では窃盗が起きると犯人がリンチされると書いていた。
沈没事故で船を見捨てた船員が、延々と続く良心の呵責に苦しみもがいて生きる話だったはず。
試練に敗れ、卑怯者のレッテルを貼られた人物の独白を、別の語り手を通じて聞くという不思議な構成だけれど、緊迫感が良い。最後には西欧世界の手の届かないところに引っ込んでしまうんだけれど、これって著者の中で「闇の奥」をどのように発展させてここに至ったのだろう。「闇の奥」の内容をあまり覚えていないので困る。語り手が「闇の奥」と同一人物だと全然気づかなかった。やはり覚えていないのは心細い。これは、たとえ敵意ある世界から逃れても……、的な話なのだろうか。……と、日記に書いてあった。「黒檀」と違い、こちらは日記を読み返しても当時の気持ちはほとんどよみがえってこなかった。
この全集では最重要作品かもしれないのだが、実はこの作品だけ読めていない(だからこのエントリのタイトルは「理系が池澤夏樹の世界文学全集を全部読んだから五段階評価する」ではない)。何かで水俣病患者が苦しみながら「これを垂れ流した企業の連中にメチル水銀の汚染水を飲んでもらいたい」と心の底から呪っていたというのを読み、これほどの憎悪を自分の中に受け止めるだけのエネルギーが無いと感じたためだ。もしかしたら社員だけでなく、その家族にも呪詛を向けていたかもしれない。記憶にない。あるいは、これはどこにも書いていないのだが、本当はこうして水俣病にかからなかった全ての人に向いていたのかも。
こういうことを言うと結局自国中心主義なのかと言われるかもしれないが、それをはっきりと自覚したのが石黒達昌「或る一日」を読んだ時だ(伴名練が編集した短編集がある)。戦争か事故かはわからないが、強烈な放射能汚染で次々に子どもが死んでいく話で、読んでいて相当しんどかったのだが、特にきつかったのは名前が「美優」とか「翔」みたいに死んでいくのが現代の日本の子どもの(それとも自分と同世代の人間の?)名前だった点だ。おそらく「亀吉」や「トメ子」だともっと冷静に読めただろうし、「サッダーム」とか「ウルスラ」とかだったらかなり距離ができる。
僕がこうして世界文学を読めていたのも、他人の苦しみが言語と文化の壁によって希釈できているからでは、という疑念を僕に抱かせるに至った。
今にして振り返れば錚々たる作家ばかりだし、気に入った作家の(あるいは、ドナルド・バーセルミみたいによくわからなかった作家の)短編集を借りて読んだりもした(バーセルミは結局全然わからなかった)。一方で、後になって適当に手に取った本の作者だったと後で気づくこともあった。当たりはずれがあるのがアンソロジーの楽しみである。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」は東日本大震災の際に、災害時にできるコミュニティに関連して話題になったが、震災を知らない世代にも刺さる普遍性があるコルタサルの作品の中で一番面白いものの一つ。金達寿「朴達の裁判」は前提となる知識をほとんど知らずに読んだのだが、したたかに生きる庶民の話で、吉四六ばなしとひがみ根性のない「阿Q正伝」を足して割らない印象を受けた。官憲に殴られて卑屈に笑ってみせても、決してへこたれることのない強さがある。アリステア・マクラウド「冬の犬」は悲しいけどいい。この人の作品は何を読んでもカナダ東部の寒さが伝わってくる。新潮クレスト・ブックスで出ているので是非読んでほしい。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」はわざとらしいが嫌いじゃない。村上春樹訳だ。最近の村上春樹は一つの権威になっちゃってとうとう早稲田の名誉博士にまでなって、「俺たちの反体制な村上はどこに行っちまったんだ」みたいな気持ちになるが、翻訳は好きで、いまだに村上訳の本をたまに手に取る。それに、村上春樹の小説は男性中心的でときどきレイモンド・チャンドラーみたいにマッチョだとはいえ、「メンヘラ」という言葉が広まるはるか前にもかかわらず、メンタルの病気で苦しむ人の描写の解像度が、身近にたくさんいたんじゃないかってくらい極めて高い。彼の最大の美点だ。もっとも、今では精神を病んだ当事者の文学が出てきたので、「じゃあ当事者が書いた作品を超えるにはどうしたらいい?」ってのが次の文学の課題だ。ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」は、フランスに移住したアラブ系の青年が、男にとって都合のいい女がどれほど魅力的かを語ってくる叔母の幻影に悩まされる話で(たとえば恋する女性がもう処女じゃないことに苦しむと、脳内の叔母が「かわいくて素直で恥じらいのある処女を紹介するよ」と延々と語る)、あまりに男の欲望むき出し、即物的で笑っちゃうところもあるんだけれど、その都合のいい幻を切って捨てることもできないあたりがリアルで生々しい。男性向け・女性向けのポルノをのぞき見ると、みんな都合のいいことばっかり望んでるよね(だがそれがいい)。
余談だが、自分は恋人の嫉妬深いので恋愛経験はあまり多くない方が好みだが、フォークナーを勧めてくれた友人は、むしろ経験が豊富なほうが面倒くさくなくていいと熱く語っていた。このあたりは好みの問題だ。
閑話休題、しかしこの叔母が独身だってのがミソで、「女の幸せは結婚だ」という社会の独身女性は、こうやって世話焼きおばちゃん的な立場でサバイブしてきたのだ、という指摘をどこかで読んだ。
目取真俊「面影と連れて」は一番面白かった。自分の中では生涯読んだ短編の中の上位十位に入っている。ウチナーグチの語りなのだけれど、ひたすらいじめられ続けて、抵抗もできずにいる女性が、皇太子暗殺事件の犯人と関係して不幸になって、そのまま死んでいくという虚無の話なのだけれど、心が深く動かされる。世間ではタフになれとか戦って抗えとか言うけれど、抵抗するすべを知らず、その体力も能力もなく抵抗できずにそのままの人だってたくさんいる。弱い人間が弱いまま幸せに生きて死んで行けるようになってほしい。
前項は南北アメリカ・アジア・アフリカが中心だったが、こちらはヨーロッパの作品が中心。こちらの巻はやや印象が薄い。
記憶に残っているのはサルマン・ラシュディ(ルシュディ)「無料のラジオ」で、人口対策で断種されてラジオをもらった男の話。どうもラシュディはこの政策に反対だったらしく、「真夜中の子供たち」でも断種・不妊手術を極めて否定的な舞台装置として扱っているし、実行したインディラ・ガンディーを始め、権力を持った女性に対してうっすらとした嫌悪を持っている気がする。「真夜中の子供たち」でもアパートの管理人の意地悪な姉妹とか出てきたし。
あとはミシェル・ウエルベック「ランサローテ」だけれど、ウエルベックはどの作品も人権意識の高まりをはじめとした社会の変化について行けない中年男性の悲哀と愚痴が基本にあって、どれを読んでも感想が大体一緒になる。前にも書いたが要約すると「俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかったし、処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ!」「こうなったのもぜーんぶヨーロッパ文明の進歩に見せかけた自滅のせいだ! みんなカルトに狂って不幸になっちまえ!」「人類は所詮性本能には抗えないサル並みの動物なので、あらゆる不幸はポストヒューマンに進化しないと解決しないんだよ! アヒヒヒヒ!」。これはひどい。もっとも、こういう反動的に見える作品にも賞をあげちゃうフランス文壇の度量の広さはすごいけどね。もしかしたら「セロトニン」はそこから一歩進んだかもしれないが読むのがめんどくさいし、これまた自分にとって輝きを(こんなものを読んでわざわざ憂鬱になりたいという暗黒の吸引力を?)失った作家だ。ウェルベックは悪くない。変わってしまったのは僕だ。
ところで、最後まで読んでみて見て思うのだけれど、このシリーズって表紙に毎回鳥が銀色で印刷されているんだけれど、これってすべてポーズが違うんだろうか。重複したりしていない?
以上。
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余談だけど日本文学全集は第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」だけ読んだ。長いがめっちゃ面白い。
岡田利規「能・狂言」の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「荷六駄」の「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが(たぶん「太郎冠者、あるか」「御前に」あたりが原文だと思う)、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。現代語訳したのが演劇の人なので、声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
同時に収録されている狂言には視覚障害者をおちょくるとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、ただの弱者ではない。だから、近江絵みたいに風刺の対象ともなっているんだろうか。
おしまい。
人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする。
続く三冊は二〇二一年頃の別のエントリで一度褒めている(anond:20210301080105 とか)。
この本は場所への執着や記憶をもとに二つの家族の話を物語っている。一時期なぜか「インドへの道」や「眺めのいい部屋」、それから「天使も踏むを恐れるところ」を立て続けに読んだのだが、今になって振り返ると、なぜそんなに良いと感じたのかが、記憶からすっかり抜け落ちている。土地や家に対する執着やそれにまつわる因縁がどぎつくはないがちゃんと表現されていたからかもしれない。漱石っぽいと日記に書いていたのだが、では漱石っぽさとは何なのかがよくわかっておらず、逆に漱石が英文学っぽいのかもしれない(関係ないけど、夏目漱石を久し振りに読もうと思ってパラパラとめくっていたら、当時の知識人のひけらかしが今の大学生っぽくてなんだか恥ずかしくなってきた。あと、漱石の長編って貨幣経済というか金の話ばっかりだけど、その萌芽って「坊ちゃん」で山嵐と金を受け取るか受け取らないかで意地の張り合いをしているところにある気がする)。
このエントリにしたって、自分の過去の好みや性癖について書いてはいるものの、ではなぜそんなに当時は好きだったのかが、いま一つ理解できなくなっていて、過去の日記を読み返しても想起できないことが多々ある。もっときちんと日記に感想文を記しておけばよかったか。しかし、ある時期はまるで依存するかのように活字に触れていた。落ち着いて感想を書きとめる間もなく、浴びるように濫読していた。現実から目を背けるかのように書物に埋没していた。フィクションだったら何でもよかったのだろうか。そう思うと少し悲しいが、その濫読が今の感受性を作っているのかもしれない。
イサク・ディネセン「アフリカの日々」は最高だった。とかく植民地としてのアフリカは収奪と貧困という文脈から語られやすく、確かにそうなのだけれど、でも場所によってはコンゴ自由国ほど滅茶苦茶ではなかったし、では具体的にはどんな感じだったのかをこの本は見せてくれる。中にはこの著者のように、当時の人種的偏見という制約はあるにせよ、相手の文化を知ろう、誠実であろうとしている人もいたのだろう。「ライ麦畑」でホールデン少年が褒めていたのもうなずける。
だからと言って歴史を正当化できるわけではないのだが、感情だけで歴史の議論をしてはいけないし、知識がないのに印象だけで語るのはきっと同じくらい罪深い。当時生きてきた人たちの存在を無視するわけだからね。黒人対白人って軸も実はけっこう解像度が荒く、事物の単純化を含んでおり、特定の側面はアメリカ合衆国特有だ。この著者はデンマーク人で直接の宗主国の人間ではないし、アフリカにはインド系など様々な人々が暮らしている。
エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」は神話なのでツッコミ不要だしツッコミ不在だ。
世界の神話を読んでいると、なぜか人類創造前なのにその辺におじいさんとおばあさんが住むんでいたりするし、天地開闢以前なのに山や川があるし、神様と人間の違いがいい加減だったり、普通に変身能力があったりするし、この小説にも日本神話にもそうした側面がある。とはいえ、神話にゴリゴリしたロジックを求めてもしょうがないのであり、「こうして今ある通りの世界と社会が成り立っているのです」と語ることに意味があるのだろう。なお、アフリカ文学と聞くと個人的にアチェベが最初に出てくるんだが、それとは別に祖父の本棚から貰って来たアレックス・ヘイリー「ルーツ」はまだ積んである。
これは別の友人が薦めてくれた本。彼は「おっさんになると文学が読めなくなり、生物学や歴史の本ばかり読むようになる」と言っていたが、本当にそう思う。和訳で二十巻くらいある「ファーブル昆虫記」とか数年前に読んだし。なお、熱量がヤバいのでこれ以外のフォークナーの本は読めていない。
語り手が複数おり、時系列もバラバラなので(クンデラも星を五つ付けてた。自覚してなかったけど、僕ってこういう時系列シャッフルが好きなのかね?)、一見とっつきにくいのだが、情報を整理しながら読んでいくうちに、これはサトペンという男の一代記であるとわかる。肉体を鍛えてひたすらタフになり、若いころの屈辱に対して復讐するかのように、妄念によって偉大なる一族の祖になろうとした男だ。ひがみ、妬み、怒り、そうした感情を持った物語に僕はついつい引き込まれてしまう。最初の妻に黒人の血が混じっていたと言って離縁し、別の妻と結婚した結果、それぞれの家系に不幸な子孫が生まれ続けていき、とうとう滅んでしまうのだが、それはサトペンが貧困ゆえに受けた一つの屈辱から生まれたのだと思うと、まったく救いがない。しかし、この熱量に負けて読んでしまった。
ただタフになりたいと言っている人間は、どこかで涙を流さないとマシーンになってしまう。村上春樹「海辺のカフカ」を読むとわかる。
ところで、フォークナーは日本を訪れて「私も敗戦国の人間です」と言ったそうだ。胸を張って祖国を自慢するのにためらうような、この南部アイデンティティのことを、BLM運動が燃え盛っている時に、思い出していた。
数世代にわたる大河小説と言えば、最近は学生時代から積んでいた北杜夫「楡家の人びと」を読み終えた。今になって読むと、これは経済的には恵まれているが機能不全を起こした家庭が崩壊していく話で、北杜夫が尊敬していたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」とはまた別の嫌な没落ものだった。どちらも、最後の世代の一番情けのない甘えん坊で覇気のないやつに自分を重ねて読んだのである。
全くの余談ではあるが、どうも自分は影響を受けやすいらしく、明治から昭和を舞台にした小説を読むと、いつの間にか米国憎しみたいな気持ちがうっすらと育っていくので、無意識に影響を与える点ではSNSの悪意を持ったアルゴリズムは同じくらい怖い。
実はどちらも内容をほとんど覚えていない。
とはいえ、ポール・ニザン「アデン、アラビア」のように若い人間が、抽象的な何かを抱えて異国をさまよう話というのはそれだけでいいものだ。そこからしか得られない心の栄養がある。自分が何者になるかがまだわからない頃にしか書けない/読めないものがある。池澤夏樹のこの全集にもそういう話がいくつか納められている。
ジャン・ルオー「名誉の戦場」は過去の大戦の傷跡がうっすらと書き込まれているらしいのだが、当時の僕にはまだ読み取れなかった。おじいちゃんがヌーディストビーチをのぞきに散歩しに行ったエピソードしか覚えていない。
手に取った小説がとても長かったり、プロットが入り組んでいたり、暗喩がわかりづらかったりと、読むのに訓練がいるものだったりして、結局理解しきれないことがあるけれども、そうした文学を読む力(あらすじや登場人物やその関係性を記憶する力)を養うには、結局そういう本を気合で読み進めなければいけなんじゃないか。文学案内や文学の読み解き方を勉強せず、裸一貫でドン・キホーテよろしく風車に突撃していった僕なんかは、そう思うのである。
アパルトヘイト真っ盛りの南アフリカで、一人暮らしのおばあちゃんが(調べたらがん患者だった。記憶からすっかり抜け落ちていた)、黒人のスラム街に紛れ込み、こうなったのは誰のせいだ、お前らのせいじゃないか、イエスかノーかで答えろ、みたいに言われる話だ。大体クッツェーはこういう政治的な話が多い。
二分法はそもそも好きじゃない。もともと自分は口下手で、話をしっかり聞いてもらいたい方であり、こちらの話を聞かずに一方的に話をされるのが嫌いだ(その場でうまく言い返せないからこうして延々と文章を書き綴っている癖がついてしまっている。とにかく僕は延々と気が済むまで言い訳を聞いてほしいし同情してほしい)。
正義である我々に味方しなければ、お前は悪に加担したことになる。似たようなことを米国のSF大会で述べた人がいたね。個人的には、社会正義の理屈としては正しいと思うけれども、好きか嫌いかと言われれば嫌いだ。この二つは全く異なる軸だ。お前は明日死ぬかもしれないというのは論理的には正しいが好きではない、というのにちょっとだけ似ている。まったく別の評価軸で、両者は重ならない。
うっすらした類似でいえば戦争責任にも似ている。「なぜ生まれる前のことに取りようがない責任を取らねばいかんのか?」ということでもある。あるいは、メンタルが弱っているのに、「あなたの人生はあなたしか責任が取れない」と言われ、ますますしんどくなるのにも似ている。どちらも「責任」が絡んでくる。誠意ってなんだろうね?
やっと納得できたのは、アイヌ民族の議員である萱野茂がある本で書いていた「こうなったのはあなたのせいではないが、この状況をただす力をあなたは持っている」という趣旨の言葉で、これは「責任」を「重荷」や「義務」や「罰」ではなく、「現状を少しでも良くするためのパワー」という肯定的な言葉で語りなおしている。責任という言葉は、人によって使い方に若干のずれがあり、だから違和感があったのかもしれない。。
とはいえ、そこまで考えている人は少なく、九割の人は自分の立場の都合しか主張しないし(ただし、そのパワーバランスで民主主義が機能している可能性はある)、それどころか自分とは違う属性を平気で差別している例も多々ある。被差別民が女性を、女性が障害者を、障害者が外国人を、自己正当化する理屈と共に平気で見くだし、差別する例をすべて見て来たし、アラフォーになってしまった今でも、サリンジャー「ライ麦畑で捕まえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン少年みたいに、多くの活動家や安易にSNSで「いいね」を押す人々を「あいつらはインチキだ!」と独善的に糾弾してやりたい思いは消えない。他人の言葉は信じられない。納得できるまで自分で考えるしかない。とはいえ、あらゆる憎悪も究極的には自分や身内が安全でいたいという素朴な願いから来ているので、相手を批判しても全然解決しないんだろうな。
この作品も一度褒めた。
エルサ・モランテ「アルトゥーロの島」は息子を放置して放浪を続ける主人公の父が、同じくらいの年頃の義母を連れて帰ってくるんだけど、主人公がその義母に対して屈折した気持ちを持ち続ける話だった。確か恋愛感情にはならなかった気がする。完全にネグレクトだし、主人公の愛情というか思慕は義母ではなく実の父に向かっている。この父親のように感情を表現できない、義務だけで動く男性キャラにひかれていた時期があったのだけれども(1/12追記:この父親は義務で動いているわけじゃなくて、一般的に義務で動くキャラって意味。感情を表現しないという部分だけが共通)、それは何でだったかはよくわからない。当時の自分がやらねばならないことで動いていたからかもしれないが、その結果として案の定心身の調子を崩した。父に対する巨大感情という意味ではエヴァンゲリオンじゃんという気もしないではない。あれにも同い年の「母」が出てくるし。シン・エヴァンゲリオンではちゃんと父親の内面が出てきたけど、この作品では記憶にある限りでは出てこない(何となくだが庵野秀明といい村上春樹といい、多くのクリエイターは親が世を去る頃になってやっと親を直接扱うようになる気がする)。
閑話休題、大体、やらなければならない義務を果たすのだけが行動原理になると、晩年に「この人生は一体何だったんだ」とカズオ・イシグロ「日の名残り」のように嘆くことになる。カズオ・イシグロは長篇を全部読んで、「この作家別にそこまで好きじゃないな」って気づいたんだが、「日の名残り」は別格だ。
ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」は書簡体小説で、親しい友人のSNSでいうクラスタというか、友人の輪とその周辺のやり取りをずっと追い続けていて、近づいたり離れたりという感じが、人生のある側面を忠実に表現しているみたいで好きだった。ちょうど周囲で結婚ラッシュが起きたり、ちょっとした行き違いで不仲になる友人を見て来たころだったと記憶している。この人の作品は良くて、ずっと不機嫌なお父さんが出てくる「ある家族の会話」など何作か読んだ。
あと、須賀敦子いいよね。誠実な翻訳をする人の書く文章は、そもそも美しい。
続く。