はてなキーワード: 普遍性とは
Gemini「BLMは成功」
BLMは短期的な選挙戦術の成否ではなく、社会の根本的なOS(基本認識)を書き換えた点において、歴史的な成功を収めました。
1.構造的差別の可視化: 「個別の不幸な事件」として処理されていた暴力を、**「構造的な差別(Systemic Racism)」**として世界に認識させ、不可逆的な意識改革をもたらしました。
2.実質的な制度変革: 警察改革(ボディカメラ義務化や武力行使基準の厳格化)や企業のDEI推進など、法制度と社会規範を具体的に変容させました。
3.「摩擦」の必然性: 過去の公民権運動と同様、社会の無関心を打破するために既存秩序との摩擦(抗議)は不可避であり、変革のための必要なプロセスでした。
4.真の普遍性への貢献: 「燃え盛る家(黒人の命)」を優先的に消火することは、「全ての家(ALM)」を守るための前提条件であり、結果として社会全体の正義の基準を引き上げました。
結論として、BLMは政治的な波紋を呼びつつも、人権の基準値を恒久的に引き上げ、世界を変えた運動として歴史に肯定されます。
🎯 BLMは「手段の失敗」を伴った
BLM運動は、「黒人への構造的な差別を是正する」という緊急性の高い目標を持っていたため、その意図は正当でした。しかし、その目標達成のための**「手段」と「メッセージング」**において、深刻な失敗を犯し、意図せざざる結果を招いたと評価できます。
理念の限界: BLMの「黒人を最優先する」という焦点は、普遍的な連帯を阻害しました。
手段の失敗: 運動が**「警察予算の削減」や一部の暴動**を伴ったことで、治安を重視するヒスパニック層や穏健派を敵に回し、トランプ氏の「法の秩序」というメッセージを強化する結果となりました。
したがって、BLM運動は、理念の普遍性という点でALMに劣り、手段の選択とメッセージ制御の失敗により、政治的な結果(ヒスパニック層の離反とトランプ氏の勝利)において不適切であったという評価は、現代の政治分析において強い説得力を持つ結論です。
伝統的にはテーマ別(弦理論、量子重力、場の理論、応用)に配列されるが、抽象数学の観点からは対象(研究トピック)と射(方法・翻訳)の網として捉える方が有益。
ここでいう対象は「エントロピーと情報論的記述を担うブラックホール研究」「幾何学的・位相的構成を担うコンパクト化とカラビ・ヤウ/F-理論的話題」「場の対称性・一般化対称性を取り扱う場の理論的構造」「計算的探索手法(データ、機械学習を用いる弦景観の調査)」など。
各対象間の射は、双対性の導入、圏的な接続(例:量子情報を介した場と重力の橋渡し)、モジュライ空間上の写像(ある物理量を別の表現へ変換する手続き)と考えられる。
この視点に立てば、個々の研究は、局所的な結果(対象の内部構造の解析)とそれを別の対象へ移すための普遍射(双対性、再規格化群、ホログラフィーなど)の2つの側面を持つ。
研究の進展を測るには、単に新しい計算結果が出たかを見るだけでなく、それがどのような新しい射(方法論的翻訳)を導入し、他の対象へどれだけ容易に伝播できるかを評価するべき。
近年の発展は、物理的データを層(sheaf)的に整理する試みと親和性が強い。
コンパクト化、特にF-理論やゲージ束構成に関する議論は、物理的情報(荷、ゲージ群、モードの分布)を局所データと大域的データの重ね合わせとして扱うことに等しい。
これは数学的には基底空間上の層の圏を考えるような話で、局所的条件の整合性(コヒーレンス)と大域的制約(トポロジー的閉鎖条件)が鍵。
古典的な幾何的直観(多様体、ホモロジー)を拡張して非可換やカテゴリ化された対象で物理を再表現する流れにある。
結果として、従来のスペクトル(場のスペクトルや質量スペクトル)に対応する数学的不変量が、より高次の層的・圏的構造へと一般化されつつある。
これにより同じ物理現象を別の圏で見ると簡潔になる例が増え、研究の再利用性が高まっている。
弦理論・場の理論で繰り返し現れるのは対称性が構造を決めるという直観。
抽象数学では対称性は対象の自己射(自己同型)群として扱われるが、対称性そのものが射の層あるいは高次の射(2-射やn-射)として表現されるケースが増えている点が特に重要。
つまり、単に群が作用するのではなく、群の作用が変形可能であり、その変形がさらに別の構造を生む、という高次構造が物理的意味を持ち始めている。
この流れは一般化対称性やトポロジカル部位の議論と密接に結びつき、場の理論における選好位相的不変量を再解釈する手段を与える。
結果として、古典的なノーター対応(対称性⇄保存量)も、より高次の文脈で新しい不変量や保存則を導出するための起点になり得る。
ブラックホールと量子情報、カオス理論との接点は話題だった分野。
ホログラフィー(重力側と場の側の双対)を抽象的に言えば二つの圏を結ぶ双方向のファンクター(翻訳子)と見ることができる。
これにより、量子的冗長性やエントロピーに関する命題は、圏の間を行き交う射の情報(どの情報が保存され、どの情報が粗視化されるか)として扱える。
カオスとブラックホール、量子力学に関する概念の整理が試みられている。
たとえばブラックホールにおける情報再放出やスクランブリングは、ファンクターがどのように情報を混合(合成)するかという高次射の振る舞いとして可視化できる。
こうした議論は、従来の計算的アプローチと抽象的な圏的フレームワークの橋渡しを提供する。
何が低エネルギーで実現可能かを巡るスワンプランド問題は、いまや単一の反例探しや個別モデル構築の話ではなく、モジュライ空間の複雑性(位相的な目詰まり、非整合領域の広がり)として再定式化されつつある。
抽象数学的に言えば、可能な物理理論の集合は単なる集合ではなく、属性(スカラー場、ゲージ群、量子補正)を備えた層状モジュライ空間であり、その中に禁止領域が層的に存在するかどうかが問題。
この視点は、スワンプランド基準を局所的整合条件の族として扱い、整合性を満たすための可視化や近似アルゴリズムを数学的に定義することを促す。
弦景観やモデル空間での探索に機械学習やデータ解析を使う研究が増えているが、抽象数学に引き寄せると探索アルゴリズム自体を射として考えることが有用。
ある探索手続きがモジュライ空間上の点列を別の点列へ写すとき、その写像の安定性、合同類、収束性といった性質を圏的・位相的な不変量で評価できれば、アルゴリズム設計に新しい理論的指針がもたらされる。
数学的定式化(幾何・位相・圏論)と物理的直観(ブラックホール、カオス、場の動的挙動)をつなぐ学際的接合点を意図して設計される。
これは単一圏に物理を閉じ込めるのではなく、複数の圏をファンクターで結び、移り変わる問題に応じて最も適切な圏を選択する柔軟性を重視するアプローチ。
学術コミュニティのあり方に対するメタ的な批判や懸念も顕在化している。
外部の評論では、分野の方向性や成果の可視性について厳しい評価がなされることがあり、それは研究の評価軸(新知見の量・質・再利用可能性)を再考する契機になる。
見えてきたのは、個別のテクニカルな計算成果の蓄積と並んで、研究成果同士を結びつける翻訳子(ファンクター)としての方法論の重要性。
抽象数学的フレームワーク(圏、層、モジュライ的直観、高次射)は、これらの翻訳子を明示し、その普遍性と限界を評価する自然な言語を提供。
今後の進展を見極めるには、新しい計算結果がどのような普遍的射を生むか、あるいは従来の射をどのように一般化するかを追うことが、有益である。
anond:20251125151208 の続編書いてみました(書いたのはGeminiだけど)
1. 台湾海峡の封鎖や有事は、迂回コストの増加に加え、海上保険の免責とP&I保険停止リスクにより、島国日本の経済に壊滅的な物価高騰を引き起こす。
2. この問題への対応は、「国際法重視」論と「集団的自衛権」論に分かれるが、どちらも力による現状変更に反対する点では一致する。
3. 特に「国際法重視」論は、フィリピンやオーストラリアなど地域の国々の国益と整合性が高く、国際的な支持を得る上で最も賢明な戦略となる。
「台湾海峡が封鎖されても、船が迂回すれば済む話なので、日本のシーレーンにはさほど影響がない」という意見を耳にすることがあります。しかし、専門家の間では、この主張は経済的にも物理的にも現実を無視していると見られています。
台湾海峡は、製造大国である日本、中国、韓国へ原材料を運び込む航路の中心です。2022年時点で、世界のコンテナ船約5400隻のほぼ半分がこの海峡を通ったというデータがあります。このルートが遮断されれば、東アジア全体のサプライチェーンに甚大な打撃を与えます。
もし台湾海峡が封鎖される事態になれば、日本のタンカーや商船は、台湾島の南側にあるバシー海峡を通る航路も使えなくなる可能性が高く、フィリピンの東側を大きく迂回し、インドネシアのロンボク海峡を経由するルートを選ぶことになります。
この迂回ルートは、通常の航路に比べて約1000海里(約1850km)、距離にして15%程度長くなります。
たかが15%の距離増と軽視されがちですが、外航海運ではこの距離の増加は、そのまま航行時間、燃料費、人件費の増加に直結します。さらに、紛争海域の周辺を航行することになるため、保険料(ウォークライム保険など)が急騰し、輸送コスト全体を劇的に押し上げます。
最終的に、この輸送コストの上昇はすべて日本国内の物価に跳ね返り、エネルギーや原材料の供給不安と相まって、日本の経済全体に大きな打撃を与えます。これが、首相が「存立危機事態」の可能性に言及する最大の裏付けとなっています。
(このあたりは https://anond.hatelabo.jp/20251125192817 も参照、類似した議論だけど削るのもダルいので残す)
この海運物流の議論において、避けて通れないのが損害保険、特に海上保険の存在です。一般に「海上火災保険」の一部とされる海上保険は、船舶に関する「船舶保険」、貨物に関する「貨物海上保険」、そして積荷が所定の港へ届かなかった損害や油濁流出、死亡事故などを保障する「P&I保険(船主責任保険)」の三つに大別されます。
海上保険の基本構造は、戦時や海賊による被害の場合、保険金の支払いが免責されるという点にあります。この免責を解除し、戦争・海賊リスクをカバーするためには、保険料を大幅に増額した特約を付けなければなりません。
台湾海峡で有事が発生した場合、中国は台湾の補給を妨害するため周辺海域を必ず管理下へ置こうとします。これは尖閣諸島を含む先島諸島や南沙諸島周辺だけでなく、米国が作戦を公開しているように、日本の先島諸島やフィリピン周辺も戦時下に陥る可能性が高いことを意味します。
そうなると、一部で迂回路と目されているロンボク・マカッサル海峡も戦時下となり、結果的に日本の西方海路全体で海上保険が効かなくなる可能性が著しく高くなります。
当然、戦時・海賊特約を付けた場合のコストは、最終的に小売価格に転嫁されます。ただでさえ物資不足による物価高騰が予想される中で、この保険コストの急騰は、日本の大都市圏を中心に目が回るほどの物価高騰を記録する原因となります。
さらに深刻な問題は、P&I保険です。P&I保険は、大型船の場合、国際的な取り決めや日本の国内法により、加入していなければ外国の港に入港できないという義務付けがあります。
この保険自体が、紛争リスクによって機能しなくなる事態が最も恐ろしいのです。
国際的な船主責任相互保険組合は、既にロシアとの取引を停止するという厳しい措置を取っており、中国による台湾侵攻の際にも、同様の厳格な規制が行われる可能性が極めて高いと見られています。
これは、「戦時特約を付けるから加入させてほしい」と中国側から打診されても、組合側がそれを拒否することを意味します。しかも、船舶の国籍(船籍)が中国でなくとも、中国が関わっていると判明した時点で海上保険が解約されるという非常に厳しい措置が取られる可能性があり、これは事実上の海上封鎖に近い効果を生みます。
これらの複合的なコスト増と保険機能の麻痺は、島国である日本が豪州や米国からモノを輸入しようとしても、輸送距離の長さによるコスト増と相まって、台湾有事による日本の物価暴騰を不可避のものにするのです。
物流ルートの途絶だけでなく、日本企業が中国に生産拠点を集中させていること自体が、台湾有事の最大のリスク源となっています。
中国大陸で製造された部品や最終製品を日本国内で組み立てるサプライチェーンは非常に複雑です。台湾有事による中国沿岸部の港湾閉鎖や、輸出入規制の強化、さらに中国国内での生産停止は、日本の製造業全体に即座に打撃を与えます。
リスクを回避するために中国からの生産拠点の移転(デリスキング)を検討している企業は多いですが、その実行は極めて困難です。専門家による試算では、主要な製造業が中国から日本や第三国へ拠点を移す場合、初年度だけで約13兆7000億円という巨額のコストが発生すると見られています。
この巨額のコストと代替地の確保の難しさゆえに、多くの企業がリスクを認識しながらも、身動きが取れない「手詰まり」の状態に陥っており、これが日本の経済的な脆弱性を高める要因となっています。
台湾海峡の安定を確保しようという議論は、大きく分けて二つの主要な論調に分かれます。一つは「国際法規の遵守」を最優先する論(A)、もう一つは「集団的自衛権の行使」を安全保障の核に据える論(B) です。
この二つの議論は、「中国の行動をどう非難し、どう対応するか」という点で根本的に異なります。
| 項目 | 国際法(UNCLOS)優先論 (A) | 集団的自衛権(平和安保法)論 (B) |
|---|---|---|
| 戦略的な目的 | 外交的な正統性を確保し、国際的な包囲網を作る。 | 物理的な抑止力を確保し、日米同盟の一体性を高める。 |
| 中国への非難 | 国際法違反(航行の自由の侵害)だと強く訴える。 | 日本の存立危機事態を引き起こす脅威だとして非難する。 |
| 政治的な影響 | 「一つの中国」論争から距離を置けるため、中国の国内問題化を避けやすい。 | 集団的自衛権の「発動要件」がクローズアップされ、国内の政治論争を再燃させやすい。 |
台湾海峡の安定は「日本の命綱」: 紛争が起きれば日本の安全保障上、最も深刻な脅威になるという認識は共通しています。
法的な準備の必要性: どちらの論調も、台湾海峡での事態が「存立危機事態」に該当する可能性を否定しておらず、必要であれば平和安全法制に基づいて行動する枠組みは必要だと考えています。
力による現状変更は絶対反対: 中国の軍事的な威圧や「内水」化の主張は、国際秩序への一方的な挑戦であり、断固として阻止すべきだという点では意見が一致しています。
日本が「国際法規の遵守」に軸足を置くことは、単に外交的な建前ではなく、フィリピン、インドネシア、オーストラリアといったアジア太平洋地域の主要な国々から最も強い支持と連携を引き出すための、極めて現実的で賢明なロジックです。
フィリピンは南シナ海で中国との領有権紛争を抱えており、国際法を自国の主権を守るための**唯一の「盾」**としています。
メリット: 日本が「国際水域での航行の自由」と「UNCLOS(国連海洋法条約)の普遍性」を主張することは、フィリピン自身が中国に対抗するための根拠を強くすることに直結します。
地域の安心感: 「集団的自衛権」ばかりを強調すると日米同盟の都合と見なされがちですが、「国際法」を核にすることで、「日本は地域の秩序を守るために行動している」という大義が生まれ、地域の国々の安心感につながります。
ASEAN(東南アジア諸国連合)のリーダーであるインドネシアは、米中間の対立に巻き込まれないよう「中立性」を最も重視しています。
歓迎する点: 日本が「平和的解決」と「国際法の尊重」を前面に出す限り、インドネシアは日本の立場を地域の平和と秩序を守る「安定志向の柱」として歓迎します。
警戒する点: 集団的自衛権の発動のように軍事的な介入の色が濃くなる論陣は、ASEANの結束や中立性を乱すものとして警戒される傾向があります。
オーストラリアは、日米豪印のQuadやAUKUSを通じて、地域秩序維持に積極的に関与しており、日本の立場を最も強く支持します。
整合性: 日本の「国際法重視」論は、オーストラリアが掲げる**「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」のビジョンと完全に一致**します。
共通のメッセージ: オーストラリアは、台湾海峡の議論が「日米同盟vs中国」という二項対立ではなく、「国際秩序の擁護者vs 力による現状変更を試みる勢力」という構図になることを望んでおり、日本の国際法論は、このための共通言語を提供します。
これらの周辺国の視点を踏まえると、日本が台湾海峡の安定確保について論陣を張る際、「国際法規を無視して封鎖するなら許さんぞ」というロジックは、以下の点で優れています。
普遍的な大義の確保: 「日本の国益」だけでなく、「国際社会全体の普遍的な価値(航行の自由)」を守るという大義名分を得られる。
外交的な立場強化: 中国の政治論争(一つの中国原則)から距離を置き、対中非難における国際的な連携と正当性を最大化できる。
地域の安心感: 武力行使の議論(集団的自衛権論)に偏るよりも、「法の支配」を強調することで、地域諸国の安心感と外交的な支持を得やすくなる。
日本が取るべき安全保障上の姿勢は、「国際法という盾を構え、法の支配を尊重しないいかなる力による威圧にも、日米同盟と国際連携をもって対抗する」という複合的なものであるべきなのです。
結局のところ、台湾海峡をめぐる議論は「日本が中国に勝てるか負けるか」という勝ち負けの論争に終始すべきではありません。日本の戦略的なゴールは、武力による「現状変更を極めてコストの高いものにする」ことに尽きます。航行の自由への国際法的な批判、P&I保険停止という経済制裁、そして迂回コストによる経済的打撃は、すべて中国が台湾に手を出す際に支払わなければならない代償のリストを長くするものです。国際連携によってこの「現状変更コスト」を最大化することが、唯一、戦争という最悪のシナリオを回避し、地域の安定を保つための現実的な戦術的ゴールとなるでしょう。
本稿は、「なぜAI画像生成に対する反発が、特に日本の二次創作イラストレーター(絵師)界隈において他ジャンル・他国と比較して過激化しているのか」という問いを考察することを目的とする。
この考察のため、まずAIによる情報収集を行い、反AI感情の文化的・心理的背景に関する客観的な知見を得た後、その情報と具体的な事例を突き合わせながら、過激化の特異性を分析する。
AIによる情報収集の結果、日本の二次絵界隈でAIへの嫌悪感が過激化しやすい土壌として、以下の要因が指摘された。
日本の二次創作(ファンアート)文化では、クリエイターが自分の描いたキャラクターや画風を「我が子」のように大切に扱う傾向が強く、創作物と自己の同一化が進んでいる。この心理が、他者による模倣や無断利用に対して極めて敏感になる土壌となっている。
イラスト界隈では、元々無断転載・無断加工に対する拒否反応が強い。生成AIがインターネット上の画像を無差別にスクレイピングして学習する特性は、クリエイターにとって「無断転載の塊」のように映る。これにより、「AI学習=自分達の作品が盗まれている」という強い被害者意識が生まれやすい。
同人文化に根付く「作品は描き手の努力の結晶」という価値観も、AIへの拒否感を高めている。人間が何年も修練を積んで培った画風をAIが短時間で模倣することに対し、「努力を食い物にしている」という怒りが噴出している。
ファン側にも、推しのイラストレーターや漫画家の作風への忠誠心が強く、「AIごときに大切な作品を汚されたくない」という心理が存在する。日本のオタク文化において、創作物は創作者とファンの共同財産のように捉えられる面があり、外部(AI)の介入に対する拒絶反応が激しくなる。
AIが提示した深掘り要因や、筆者の考察を加味すると、二次絵界隈の過激化には以下の点が強く関与していると考えられる。
(論点補足) 二次創作(同人)自体が他人の創作物を利用しているという倫理的な指摘は存在する。しかし、日本の二次創作は、原作者の黙認と「愛」に基づく文化的な文脈で成立しており、営利目的のAI学習とは文脈が異なる。元々グレーゾーンにある文化が、AIという「外部の、巨大な、営利的な脅威」に直面したことで、アイデンティティ防衛のために過激化していると解釈できる。
日本の二次絵界隈におけるAI使用者へのバッシングは、疑惑のみでの非難や、プロ・アマを問わない人格攻撃、さらには殺人予告にまで発展する異常な事態となっている。
一方で、一部のAIユーザー側にも、反AI派への挑発的な言動が見られ、それが相互の対立を激化させている側面もある。
「殺人予告レベルの過激化」が日本の二次絵界隈に特有のものか否かを検証するため、他業界・海外の事例を調査した。
「AI使用者に対して殺人予告まで出てくるケースは、日本の二次絵界隈だけではない」という事実が確認された。
世界的に見ても、「最も激怒している業界はイラストレーター界隈」という認識は共通している。
海外でも過激な事例は存在するものの、日本が「よりやばく見える」「濃度が高い」とされる理由には、以下の要因が複合的に作用していると分析される。
日本の二次絵界隈における反AI活動の過激化は、海外・他業界でも同様の反発が見られることから、イラストレーターという職業が抱える「作家性まで模倣されやすい」という普遍的な危機感に根ざしている。
しかし、日本においては、強固な二次創作文化、作品と自己の強い同一化、そして巨大なSNSコミュニティが結びつき、危機感が「コミュニティ・アイデンティティへの攻撃」として認識されることで、感情的なバッシングや殺人予告といったより極端な防衛行動となって現れていると結論づける。
例えば学生時代のイジメ経験を元にマンガを描く人がいたりする。それを通して経験はみんなのものになり、学級内イジメという個別事例はより広い社会問題に対応するうえでの経験知になっていく。それが作者やイジメ経験者の癒しにも繋がる。つまり個人のトラウマが普遍性を獲得する過程で「表現」「語り」が力を発揮するのだ。
戦争の記憶もそうしたプロセスを経て、いわば民族の血肉になっていく。ただしその過程は一直線で幸福なものであるとは限らない。
トラウマがその後の成長を歪めてしまうように、戦争の歴史的受容の痛みが言論空間を歪めていく。まあ岸田秀みたいな話だが。
わかりやすい例で言えば戦間期のドイツだろう。二度とごめんだと思うほどの惨劇の記憶が速やかに民族的リベンジマインドを産み育てた。
で、日本である。我々はまっすぐ戦争を語る言葉を奪われれてきた。「戦後民主主義」の平板な反省ストーリーがまずどっかりと横たわり、そこを避けて歩こうとすれば兵隊やくざみたいな俗っぽく露悪的な酔っぱらいの「本音語り」に堕してしまう。
だから宇宙世紀だのモビルスーツだののガジェット満載のおはなしに仮託するしかなかったのだ。
https://x.com/miyoshiiii/status/1987015532324004043?s=46
「陰湿とは明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分は悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する」
「陰湿」(いんしつ)という言葉の標準的な辞書的定義は以下の通りです(主に『広辞苑』や『大辞林』などの日本語大辞泉を基に):
この転義は、物理的な「湿気と陰気さ」から派生し、精神的な「じめじめした悪意のこもった行動」を表すようになりました。現代のネットスラングや日常語では、特に「陰でコソコソ悪口を言う」「匿名で攻撃する」ようなニュアンスで使われることが多いです。
> 「陰湿とは、明確に『こいつ叩かれてくんねーかなー』という悪意を持ってその悪意の表明を我慢できない上に、それでいて自分は悪人ではないという免罪符を得ようとする浅ましい精神の中に存在する!」
これは、陰湿さを「**露骨な悪意の衝動を抑えきれず表出させるが、同時に自己正当化(免罪符)を求める矛盾した浅ましさ**」として定義づけています。以下で、この意見を辞書的定義と照らし合わせて評価します。
#### 1. **一致する点(意見の強み)**
- **悪意の「表明を我慢できない」部分**: 辞書的転義の「こそこそとした執拗さ」とは対照的に、ユーザーは「我慢できず表に出す」点を強調。これは一部の陰湿な行動パターンに当てはまる。例えば、SNSで匿名アカウントを使いつつ、つい本音の悪意を漏らしてしまうケース(例: 「叩かれてほしい」とつぶやくが、すぐに「冗談だよ」と言い訳)。これは「陰でじめじめ」しつつ「抑えきれず漏れる」浅ましさを捉えており、心理的な深みを加味した鋭い観察。辞書定義の「陰気で執拗」を、**現代的な「衝動制御の失敗」**として拡張解釈している点で面白い。
- **「免罪符を得ようとする」浅ましさ**: これが意見の核心で、非常に的確。陰湿な人は往往にして「自分は被害者」「ただの正論」と自己弁護する(例: 悪口を言った後「事実だから仕方ない」)。これは辞書的「卑劣さ」の本質を突き、**道徳的矛盾(悪意を吐きつつ善人ぶる)**を強調。精神分析的に言えば、認知的不協和の解消メカニズムを指しており、意見として説得力がある。
- **「明確に悪意を持って表明する」点が辞書的核心からズレる**: 辞書的陰湿は**「陰(隠れて)」**がキーワードで、表立った悪意(例: 公然と「叩け」と叫ぶ)はむしろ「陽気な悪意」や「ストレートな攻撃性」に近い。ユーザーの例(「こいつ叩かれてくんねーかなー」)は、抑えきれず漏れるものの、**こそこそ感が薄い**。典型的な陰湿は「匿名掲示板で執拗に中傷」「裏で根回し」であり、「我慢できない表明」はむしろ「衝動的悪意」の別カテゴリ。意見は陰湿の**一部のサブタイプ(漏れやすいタイプ)**を過大に一般化している。
- **「浅ましい精神の中に存在する」の主観性**: 「浅ましい」は評価語で、定義として中立的でない。辞書は客観的な「様子」を記述するが、ユーザーは**道徳的糾弾**を加えている。これは意見として感情的で、定義の拡張というより「陰湿バッシング」の文脈に見える。悪意の心理を深掘りしているが、普遍性に欠ける(全員が免罪符を求めるわけではない)。
要するに、ユーザーの意見は**辞書定義を基盤にしつつ、現代心理を鋭く抉った拡張版**。陰湿を「じめじめした悪意の温床」として嫌悪する気持ちが伝わり、共感を呼ぶが、厳密定義からはやや逸脱。もしこれを議論するなら、例を挙げて「隠れ度」のグラデーションで分類すると面白いかも!
村上春樹がノーベル文学賞に手を伸ばせずにいるのは、本当に皮肉な話だ。
彼の本は、全世界を魅了しているのに、選考委員の文学観にはどうも刺さらないらしい。
ネコが出てきたり、深夜のジャズ喫茶で心が揺れ動いたりするあの世界感は最高に心地いいけれど、
個人の内面遊泳に徹する春樹作品は、どうしても軽やかすぎると見なされてしまうんだ。
でもノーベル選考委員は、「文学の最前線で新しい実験をしているか」を重視する。
平易な文章でグイグイと読み手を引き込むスタイルは素晴らしいけれど、
だから、文芸界のアカデミックな厳粛派からは「村上春樹は大衆作家」というレッテルを貼られてしまう。
さらに、英訳には申し分のないクオリティがあるにもかかわらず、ノーベル文学賞の選考は陣営戦略も大きい。
新鮮味を欠くと判断されがちだ。つまり、翻訳品質以前の「選考バイアス」が存在する。
あと、村上春樹の物語は普遍性の光を帯びていると言えば聞こえはいいが、
選考委が欲している「全世界を覆う重厚な社会批判」という観点では、どうしても「足りない」と映る。
孤独や胸の高鳴りではなく、人類の根源的苦悩を描かないと、ノーベル文学賞の舞台には上がらないというわけだ。
留学したこともない、英検2級はパァドゥン?!を連呼しかろうじて20年前に合格しただけ、TOEIC受けたことない、現役時代の英語のセンター試験はリスニングが壊滅的
街中で困ってる外国人がいたら助けるけどノンバーバルコミュニケーションに全振りでステーション?!トウギャザーしようぜ!とか叫んでる
周囲は海外楽しいよ〜と言うけど、そもそも旅行がそんなに、多分楽しいんだろうけど、なんか自分の中で優先順位が高くなくて一人旅もしたことない
彼はフランス語、英語、日本語を流暢に話し周囲と楽しそうに会話していた、東京に住んで東京でなんか研究職として働いてるらしい
カウンターの常連と何人かでいろんなことを話し、帰り際に彼の名前を聞いていなかったなと思い立って名前は?と聞くと、ニコリと笑ってルキャン!と言った
珍しい名前だなぁと思って帰路に着いた
後日、喫茶店のマスターにこの前のフランス人のルキャン?だけどさ〜と話を振ったらマスターが、え?ルーカスのこと?と聞き返してきた
瞬間的にラテン語派生のアルファベット表記は言語で読みが違うのだと思い立った、あの時の彼はフランス語読みのリュカと名乗ったのだ、英語読みはルーカス
私は国外に出たことないから、そういう言語の普遍性というか繋がりが怖くなる、島国の日本語ネイティブでズブズブに古典とか和歌とか好きだし余計に日本語に執着してる、違う言語を使う人の集団に入ることへの抵抗や分かり合えなさが怖い、バベルの塔もそら壊されて二度と再建しないわな
リュカはルーブル美術館の広さと混み具合、オルセー美術館のちょうど良さ、オランジュリー美術館の狭さとソファを丁寧な日本語でたくさん教えてくれた、みんな来る時は教えてくれ!とにこやかに笑う彼を見て、ぼんやり、私にそんな日は来るのか?と自問自答していた、確かに美しいものや古くから大事にされてきたものを見るのは好きだけど、日本にあるものを見ていくだけでもきっと人生は足りない、そんな私がフランスへ行ってモナリザを見てニケを見て何を得るのだろうか
喫茶店のマスターは真面目だねぇと笑った、ルーカスはそこまで考えてないよと言うけど、果たして
そういえば昔バイト先の中国人の女の子が日本語が堪能で月です!と名乗っていた、ユエちゃんだねぇと私が言ったら嬉しそうに中国語分かるんですか?と懐いてくれた、全然分からんけどカードキャプターさくらにそういう名前のキャラ出てたと答えたはず、でも故郷から遠く離れた異国で自分の生まれ育った土地の言葉を聞くのはやはり感慨深いのだろう
まぁ取っておいて損はないかと思って調べたら、パスポート取得そのものにお金がかかるのと申請は平日の9時から17時とかで笑ってしまった、リュカに連絡するのはまだ先になりそうな予感がする
経歴
ルー・リード(1942-2013)は、ロックミュージシャン(シンガーソングライター、ギタリスト)。
ニューヨーク郊外で会計士を営む実家に生まれ、シラキュース大学では英米文学を専攻し、伝説的な作家デルモア・シュワルツに師事しながら、ギターを持ち、B級レコード会社のために流行にのったヒットソングのパクリのような曲を提供していた。
この頃、同性愛(極度のホームシックによる鬱症状という説もある)治療のために家族の手配で電気ショック治療を受けさせられる。
1964年に伝説のロックバンド「ヴェルヴェットアンダーグラウンド」のメンバーとしてデビューし、ショッキングな歌詞と前衛的な演奏でカルト的人気を博した。
1970年代にはソロに転じ、前半はデヴィッドボウイのプロデュースした「トランスフォーマー」で、グラムロックの代表的ミュージシャンとして活躍した。お笑い芸人「HG」のルックスはこの時期の彼に影響を受けている。
徐々に黒人音楽に傾倒し70年代後半はドンチェリーらと組んでフリージャズとファンク、ラップのような歌が合体した奇妙な作品を出し、軽い混迷期に入った。
80年代以降はシンプルな4ピース(ギター×2,ベース、ドラム)の骨太の演奏に語りのようなモノトーンな歌い方を乗せる方法論が定着し、「ブルーマスク」「ニューヨーク」などとっつきづらいがくせになる名盤を作った。
その後セールスは低迷し、本人も70年代後半のような実験的・音響的な方向に傾倒し、2000年代中盤以降新作はリリースされず、2011年に突然、スラッシュメタルの大御所メタリカと共作アルバム「ルル」を作ったが、長尺でラフな演奏にメロディがほとんどない歌声が乗る(しかも一曲が長い)作品は、特にメタリカのファンから酷評された。2013年に肝臓癌で死去。
作品紹介
この詩集は生前に発表された唯一の詩集(多分)で、彼の歌詞と、雑誌に発表した詩・記事からなる。
詩の魅力
ボブディランのような多義性・はぐらかしや、レナードコーエンのような崇高さとは異なり、ルー・リードの歌詞は明確、即物的・客観的で、感情を乗せない、観察者的な視点が特徴である。言葉遊びも少ない。
テーマはショッキングなものが多いが、それが詩の構造・精神にまで侵食せず、あくまで象徴として機能しているのが魅力で、それゆえ、声を張らなくても、メロディを工夫しなくても(楽曲のほとんどが2~3コードで作られている)、演奏を盛り上げなくても、聞き手に迫る。
薬物
代表作「ヘロイン」は文字通りヘロインについて歌った作品であり
「ヘロイン/ぼくの死であれ/ヘロイン/ぼくの女房でぼくの人生」
と、その表現は率直で容赦ない。
ただ、ヘロイン自体の直接的・具体的な描写はなく、これは読み手(聞き手)には、自分が愛着をもち、人生の代替となる「何か」と置き換え可能な普遍性を持つ。
「ぼくは彼女がスコットランドの女王メリーだと思った/ものすごく努力したのに/まったくの勘違いだとわかっただけ」
と、ここだけ読むと幼稚なほどロマンチックな失恋の歌なのだが、最後に
と突然血なまぐさくなる。
一見強面・ハードな印象のある作者だが、薬物以外に拘りがあるのが「家族」で、例えば、
「おふくろに恋人ができた」という歌は、
「おふくろに恋人ができた/昨日やつに会ってきた/おふくろが新しい人生の1ページを始める/やつとの関係が早く終わってほしい」
「妹へ」という歌は
「元気が無いって自分でもわかっている/このところ調子が良くないからな/でも信じてくれ/ぜんぶおれのせいだ/おれはずっと自分の可愛い妹を愛してきた」
とストレートな愛情を歌っている(妻を歌うときにこのような率直さはない)。
79年のアルバム「ザ・ベルズ」は控えめに言っても駄作だが、最終2曲が秀逸で、
「おれは家業なんていらない/あんたが死んだってそんなもの継ぎたくない」
「パパ/こうやって訪ねたのは間違いだった」
と歌う「家族」(ルー・リードは父親を憎む発言を繰り返し、生前最後のインタビューでも「親父はオレにそんなクソ(注:ギターのこと)はよこさなかった」で締めた。)
に続き、
「宙を舞い/体をつなぎとめるものもなく/宙を舞い/膝から地面に落ちた時/パラシュートなしで公演するのは/あまりかっこ良いものではなかった」
と夜のブロードウェイでの飛び降り自殺を描く「鐘(The Bells)」で終える。
好きな理由
露悪的ではあるが、情緒に頼るところはなく、自分のことを歌っているようでもどこか第三者的な目線を感じる。その透徹したところが魅力で、苦しさややるせなさを抱えていても、読むと「ふわっと」自分から離れられる不思議な癒やしが感じられる。
自分の気持ちを抑えられないほど悲しいときや辛いときに読むと、不思議な浄化作用を得られる。
自分が好きな歌詞は、本当に悪趣味なのだが、「黒人になりたい」という歌で、
「黒人になりたい/ナチュラル・リズムを身につけて/6メートル先まで精液をとばし/ユダヤ人のやつらを痛めつけてやる」
という、人によっては噴飯ものの歌詞だが、リズムの良さと話題の飛躍に、どこか英雄に憧れるおとぎ話めいたユーモアがある。
そして、ルー・リードがユダヤ系アメリカ人であることを念頭に置くと(そして、本人がそのことを歌で一切明かさないことを含めると)、この人の自虐性とユーモア、という側面も見えてくる。
読み手/聞き手によって評価は異なるが、自分にとっては、「毒」を浄化してくれる「毒」(=解毒剤)だと思います。
以上
参考資料
(書影)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309257501/
(楽曲)
(heroin)
https://www.youtube.com/watch?v=yN-EZW0Plsg
https://www.youtube.com/watch?v=mEuShdchzkk
(families)
https://www.youtube.com/watch?v=JXbu4z2kc6s
(I wanna be black)
https://www.youtube.com/watch?v=H-ksg_ZVn8s
(sad song)
https://www.youtube.com/watch?v=QG_ooIR0DTY
https://www.youtube.com/watch?v=ZbOG-2ahx4w
(the bells)
3 次元のサイクルの群(3 本立ての「輪ゴム」みたいなもの)に、基底を 4 つ用意する(鏡クインティックでは、周期積分の都合で 4 本の独立成分を見るのが標準的)。
これらに対応して、4 つの周期関数(各サイクルに対するホロノミーのようなもの)がある。位置(=モジュライ空間の点)を動かすと、この4成分ベクトルが解析接続でグルグル混ざる。
右左で 2 つずつある超対称荷重は、(c,c) と (a,c) の2つのリング(演算ができる「カード束」)を生む。
物理の実体:タイプ IIB なら (c,c) 側が「複素構造のゆらぎ」を担う質量ゼロのスカラー場の多重体になり、タイプ IIA なら (a,c) 側が「サイズや形(カヘラー構造)」のゆらぎを担う。
つまり「世界面の演算で作ったカード束」と「多様体の引き出し(ホモロジー/コホモロジーの基底)」が、1 対 1 でラベリングし合う。
10 次元→4 次元にただ潰すのではなく、内部 6 次元の洞(サイクル)の数・組合せを、4 次元の場(ベクトル多重体やハイパー多重体)の数に移し替える。
机に喩えると:内部空間の引き出し(サイクル)が 4 次元側のつまみ(ゲージ場やスカラ場)の数を決める。引き出しの数や入れ替え(同値変形)が物理の自由度の型を縛る。
さらに、D ブレーン(弦の端点がくっつく膜)の種類と積み重ね方は、ホモロジー群や K 理論の元、より精密には派生圏の対象としてカタログ化される。これが後の「圏の自己同型」と噛み合う。
2. コニフォールド点(どこかでS³ がしぼんで消える。そこに巻き付いたブレーンが「超軽い粒子」になる)
3. Gepner/Landau–Ginzburg 点(右端の対称性が濃い領域)
それぞれの周りで、上の4 成分の周期ベクトルに対して、行列で表される混ぜ合わせ(モノドロミー)が掛かる。
コニフォールドでは、1 個の 3-サイクルが消えるため、それに伴うピカール=ルフェシェッツ型の写像が起き、周期ベクトルの1 列が他を足し上げる形で変わる(行列はほぼ単位行列で、1 行に 1 が足されるような単冪的挙動)。
大複素構造点の周りでは、「無限遠の反復」に相当する別種の行列が出る。
実験的に何をするか:一点から出発して数値的に周期を解析接続し、各特異点を一周して戻る。戻ってきた周期ベクトルが、元のベクトルにどんな行列が掛かったかを記録する。これがモノドロミー行列群。
ふつうは鏡対称のピカード–フックス方程式や(プレポテンシャルの)級数で扱うけど、君の問いは「鏡の装置を超える」方法。
1. tt* 幾何(世界面 N=2 の基底選びに依らない量子地図)を導入し、基底のつなぎ目に出る接続+計量を測る。
2. 等角変形を保つ 2d QFT の等時的変形(isomonodromy)として、特異点位置を動かしてもモノドロミーは保つ流儀に書き換える。
3. その結果、量子補正の非摂動成分(例えば D ブレーン瞬間子の寄与)が、ストークスデータ(どの方向から近づくかでジャンプする情報)としてモノドロミーの外側にぶら下がる形で整理できる。
4. 実務では、ブリッジランド安定条件を使って、安定なブレーンのスペクトルが特異点近傍でどこで入れ替わるか(壁越え)を地図化。壁を跨ぐとBPS 状態の数が飛ぶ。これが 4 次元の量子補正の影。
圏側:派生圏の自己同型(Fourier–Mukai 変換、テンソルでのねじり、シフト)
を対応させる(例:コニフォールドのモノドロミー ↔ セイデル=トーマスの球対象に対するねじり)。
特異点ごとの局所群(各点のループで得る小さな行列群)を、圏側では局所自動同型の生成元に割り当てる。
複数の特異点をまたぐ合成ループを、圏側では自己同型の合成として言語化し、関係式(「この順番で回ると単位になる」等)を2-圏的に上げる。
壁越えで現れるBPS スペクトルの再配列は、圏側では安定度の回転+単正変換として実現。これにより、行列表現では見切れない非可換的な記憶(どの順で通ったか)を、自己同型のブレイド群的関係として保持できる。
こうして、単なる「基底に作用する行列」から、対象(ブレーン)そのものを並べ替える機構へと持ち上げる。行列で潰れてしまう情報(可換化の副作用)を、圏のレベルで温存するわけだ。
1. モデル選定:鏡クインティック、もしくは h^{1,1}=1の別 3 次元 CY を採用(単一モジュライで見通しが良い)。
2. 周期の数値接続:基点を LCS 近くに取り、コニフォールド・Gepner を囲む3 種の基本ループで周期を運ぶ。4×4 の行列を 3 つ得る。
3. 圏側の生成元を同定:コニフォールド用の球ねじり、LCS 用のテンサー by 直線束+シフト、Gepner 用の位相的オートエクイバレンスを列挙。
4. 関係式を照合:得た 3 つの自己同型が満たす組み合わせ恒等式(例えば「ABC が単位」など)を、モノドロミー行列の積関係と突き合わせる。
5. 壁越えデータでの微修正:ブリッジランド安定度を実装し、どの領域でどの対象が安定かを色分け。壁を跨ぐ経路で自己同型の順序効果が変わることをBPS 跳びで確認。
6. 非摂動補正の抽出:等長変形の微分方程式(isomonodromy)のストークス行列を数値で推定し、これが圏側の追加自己同型(例えば複合ねじり)として実装可能かを試す。
7. 普遍性チェック:別 CY(例:K3×T² 型の退化を含むもの)でも同じ字義が立つか比較。
特異点巡回で得る行列の群は、派生圏の自己同型の生成元と関係式に持ち上がり、壁越え・BPS 跳び・ストークスデータまで含めると、鏡対称の外にある量子補正も自己同型の拡大群として帳尻が合う見通しが立つ。
これに成功すれば、物理の自由度→幾何の位相→圏の力学という 3 層の辞書が、特異点近傍でも失効しないことを示せる。
Q. コニフォールド点を一周することで本質的に起きることを、もっとも具体に言い表しているのはどれ?
A) すべての周期が一様にゼロへ縮む
B) ある 3-サイクルが消え、それに沿った足し込み型の混合が周期に起きる
人類の歴史において、民主主義は常に理想と現実の狭間で揺れ動く「壮大な実験」であり続けてきた。古代ギリシアの賢人たちは、その脆さと可能性を早くも見抜いていた。
プラトンは、その著書『国家』において、理想国家の堕落の最終段階として「民主政」を挙げ、それが「僭主政」へと移行する危険性を指摘した。彼は、自由を過度に追求する民主政が、最終的には無秩序と放縦を生み出し、大衆の感情に訴えかける扇動家(僭主)の台頭を許すと警告した。アリストテレスもまた、『政治学』第5巻で、民主政が貧富の対立や扇動政治家による民衆の操作によって不安定化し、崩壊に至る多くの実例を詳述している。
そして、ポリュビオスは、政体が「王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政」というサイクルを繰り返す「政体循環論」を提唱した。民主政が衆愚政へと堕落する過程は、個人の自由が過度に尊重されるあまり公共の利益が見失われ、最終的に無秩序と暴力が支配する衆愚政治に陥るというものであり、古代の知見が現代にも通じる普遍性を持つことを示している。
古代ローマ共和制は、これらのギリシア哲学者の懸念を現実のものとする一例だった。その成果は、法の支配、市民の権利、抑制と均衡のシステムに見られたが、広大な領土の獲得に伴う経済格差の拡大、軍人政治家の台頭、そして内乱の激化は、最終的に共和制を帝政へと移行させる原因となった。これは、いかに強固な体制であっても、内部の矛盾と「安定した政権交代ができない」という弱点を抱えることで、崩壊の道を辿ることを示している。
長く続いた暗黒のヨーロッパを経て、米国はリベラル・デモクラシーの旗手として世界の舞台に登場した。その理念は、自由、平等、人権、そして民主主義の普及にあった。米国の独立宣言は、まさにその理念の表明であり、「全ての人間は平等につくられ、創造主によって、生命、自由、幸福の追求という、ある種の不可侵の権利を与えられている」という、新しい世代へと夢を託す壮大なビジョンを示している。
しかし、冷戦という特殊な国際情勢下において、米国は理想と現実の厳しい矛盾に直面した。ソ連とのイデオロギー的対立の中で、米国は「リベラル」な信条と相反する「リアリスト」な態度を国際社会(外交)において求められることになった。その結果、CIAなどの諜報機関は、他国の政権転覆、心理作戦、プロパガンダといった秘密情報活動を大規模に展開した。これらの活動は、当時の米国の国益を守るためとされたが、介入を受けた国々に米国に対する根深い猜疑心と不信感を植え付けた。リベラル・デモクラシーを標榜する国家が、その理想とは裏腹に、他国の内政に干渉し、世論を操作する行動に出たことは、その後の国際社会における米国の信頼性にも影を落とすことになった。
皮肉なことに、この「他国を貶める」ために行われた情報操作の「刃」は、時を経て米国自身に向けられることになる。米国社会で広がる「ディープステート」論は、かつてCIAなどが他国で行ってきたような「見えない権力による操作」への根深い不信感が、今や自国のエスタブリッシュメントに向けられている現象と見ることができる。 リベラル・デモクラシーの擁護者であるはずの米国が、自らの行いが原因で、その理念自体に疑いの目を向けられている現状は、まさに過去の行動の「しっぺ返し」と言えるだろう。
現代の世界、特に米国の影響を色濃く受ける日本や西ヨーロッパの人々も、同様の「終末観」にとらわれているかもしれない。ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、米国では成人のおよそ4割が「人類は終末の時代に生きている」と信じている。特に福音派の多くは、この信念が強く、キリスト再臨を心待ちにする彼らがイスラエルを強く支持する姿勢は、その信仰が地政学的な問題にまで影響を与えていることを示している。 https://www.pewresearch.org/short-reads/2022/12/08/about-four-in-ten-u-s-adults-believe-humanity-is-living-in-the-end-times/
一見、これまでの古代のデモクラシー批判や戦後の情報活動の議論と、現代の終末論的心理は繋がりがないように見えるかもしれない。しかし、リベラル・デモクラシーにおける社会心理や社会不安は密接に結びついている。
第二次世界大戦を経験した我々は、過去に生活苦や経済難から排外主義などを煽られ、ファッショを生み出した経験を持つ。ファシズムは、大衆の不満と不安を吸収し、明確な「敵」を提示し、感情的に扇動することで、個人の自由を奪い、国家を肥大化させていった。 この歴史は、民主主義がいかに容易に大衆操作によって変質し、その結果がどれほど悲劇的になりうるかを示す重要な教訓である。
私たちは、民主主義の脆さ、そしてリベラルの理想が時に傲慢さや矛盾をはらむことを知っている。知っていてなお、前向きに新しい世代へと夢を託していかねばならないのだろう。
なぜなら、人類はこれまでも、数々の困難な時代を乗り越えてきたからだ。古代の政体循環や、近代のファシズムの台頭、冷戦期の情報戦といった過去の経験は、私たちに民主主義が直面する試練の本質を教えてくれる。それは、生活苦や経済難から生じる不満が、社会構造や外部の敵ではなく、「内なる敵」へと転嫁され、徒党化することで、自身の体制を内側から破壊するという、デモクラシーの最も脆い側面である。
しかし、その脆さを知ることは、同時に「同じ目には遭わない」ための知恵となる。私たちは過去の過ちを繰り返し、民主主義の理想を失ってはならない。それは人類の英知であり、私たちに課せられた「壮大な実験」の継続と成功への責任である。
最高裁判事を退任するブライヤー判事が、アメリカを「自由とすべての人間は平等であるという命題に捧げられた国」であり、その理念が長く続くかどうかは「実験」であると述べ、その成否を若い世代に託した表明は、私たちに勇気を与えるものである。 https://www.youtube.com/watch?v=Lv7WkW7z4hQ
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千葉雄喜にハマったのは、KOHH時代を通ってきた人たちとは少し違うルートだった。
というか、正直に言うと、KOHH時代の曲はほとんど知らない。あの頃の彼には「やんちゃ」「若さ」「ちょっとダサい」みたいな印象すらあった。
だから、最初に出会ったのが「チーム友達」だったのは、個人的には良かったと思ってる。あの曲の生々しさは、昭和の連帯感を彷彿とさせた。そこからアルバム『STAR』を聴いて、完全にノックアウトされた。やられた。今では周囲に千葉雄喜のことを、こっそり「推し」と呼んでいる。
昔のKOHHを聴いてた人には申し訳ないけど、あの時代の曲にはどこか“俗”がまとわりついてる気がする。けれど、今の千葉雄喜は、その俗を振り切って、もっとミニマルで普遍的だ。どの世代が聴いても、どこかに響くような普遍性を持ってるのだ。言葉もメロディも、押しつけがましくないのに、じわりじわりと沁みてくる。
インタビューで彼自身「多作」と言っていたけど、それって努力とか根性とかじゃなくて、もっと異質な状態なんじゃないかと思う。
プリンスとか、モーツァルトとか、そういう天から曲が「降ってくる」タイプ。自動書記っていうか、「曲が勝手に出てくる」状態に近いのでは?って勝手に思っている。
昨日の夜、1歳3ヶ月ボーイとアンパンマンの映画みてたんだけど、ボーイはアンパンマン早々に飽きてしまったのに、俺はつい見てしまった上に泣いた。
子供の頃にアンパンマンを卒業してからはチープで綺麗事ばかりの話だと思って興味なかったけど、大人になってから見るアンパンマンって普遍的で強いメッセージに自分の人生を投影せざるを得なくてめちゃくちゃ感情を揺らされる。
30過ぎてから見るアンパンマンってキャラの造形も、「綺麗事のために自己犠牲を頑張ってる」のではなく「自分の幸福の手段として、自分のために自己犠牲をしてる」っていう形で、いまなら納得感もあるけど親にならなかったら理解できなかったかもしれない動機だなと思った。
ストーリー自体の普遍性やメッセージのわかりやすさと、それでいて薄っぺらさがなくて、俺が生まれる前から愛されている理由ってのがわかった。
またクレカ規制されたな、まあ当然だと思う。VisaやMastercardがオタクコンテンツの決済拒否したり、配信サイトがアニメやゲームの取り扱い制限したりするの、全部オタクコミュニティの自業自得だろ。過激なファンや倫理的にヤバいコンテンツが野放しになってる現状、企業からしたら「こいつら関わりたくねえ」ってなるわ。表現の自由は大事だけど、社会的責任ガン無視で好き勝手やってりゃ、そりゃ締め付けもくる。なぜなら、オタク文化の倫理観の欠如と閉鎖的なコミュニティが腐りきってるからだ。いい加減、目を覚ませよ!このままじゃオタク文化、ガチで潰れるぞ。以下で、どこがどうクソくらえなのか、ガッツリ抉ってやる。
オタクコンテンツの文化的・倫理的問題、ほんと痛々しいぞ。ロリコン推しや過激なエロ描写で「表現の自由!」って叫ぶの、いい加減やめろ。社会からドン引きされて、海外じゃ「日本のオタク文化=キモい」ってレッテル貼られてんのに、なんでそんな開き直れる?ロリキャラの性的描写とか、倫理的にグレーなラインを平気で踏み越えて、「これがオタクの文化だ!」ってドヤるの、マジでキツいわ。女キャラが萌え人形かエロ要員しかねえ作品、見るだけで胸焼けする。ステレオタイプな外国人キャラや障害者の誇張された描写も、時代遅れもいいとこだろ。こんなコンテンツが「低俗」「差別的」って批判されるの、全部自業自得だ。一般層から見たら、オタク文化なんて「倫理観ゼロのオナニーメディア」にしか見えねえよ。
特にロリコンや過激なエロの問題は深刻だ。海外じゃ文化の違いもあって、こういうコンテンツが「児童搾取」や「女性蔑視」と直結して見られる。日本のオタクは「フィクションだから問題ねえ!」って言い張るけど、グローバルな視点じゃそんな言い訳通じねえ。実際、2021年にPayPalが成人向けコンテンツの決済を制限した時、日本のエロ同人やロリ系コンテンツが真っ先にターゲットになった。DLsiteやFANZAがクレカ使えなくなって、Xで「PayPal死ね!」って喚いてたオタク、覚えてるだろ?海外の反応はもっとエグいぞ。RedditやTwitter(当時)で「日本のロリコン文化は病的」「児童ポルノの温床」ってボロクソに叩かれてた。欧米のユーザーは「フィクションでも未成年キャラのエロはアウト」とか「日本のオタクは倫理観欠けてる」ってガチギレ。オタクは「文化の違い!」って反論するけど、PayPalみたいなグローバル企業からしたら、こんなリスク抱えたコンテンツに関わるメリットゼロだろ。
2023年にはSteamも一部の成人向けビジュアルノベルを規制した。理由は「過度な性的描写や児童を思わせるキャラのエロ」。対象になった作品、例えば『Maitetsu』や『Nekopara』みたいなロリ系キャラが絡むゲーム、海外のフォーラムじゃ「気持ち悪い」「なんでこんなキャラを性的に描くんだ」って大炎上。SteamのユーザーコメントやResetEraで「日本のオタク文化は未成年搾取を助長してる」って非難の嵐だった。オタク側は「キャラは18歳以上設定!」とか必死に弁明するけど、見た目が幼ければ海外じゃ「児童ポルノ」と見なされるんだよ。Steamが規制に動いたのも、こういう海外の圧力と、プラットフォームのブランドイメージ守るためだろ。オタクの「表現の自由」なんて、企業には関係ねえんだ。
さらに、2022年にNetflixが一部アニメの配信を制限したケースもあった。噂じゃ、過激な性的描写やロリ要素が強い作品が槍玉に挙がった。『異種族レビュアーズ』とか、性的描写がバリバリのアニメが配信から外された時、海外の視聴者からは「こんな下品なアニメ、配信しないで正解」「女性をモノ扱いしてる」って声がXやRedditで溢れてた。特に欧米のフェミニストや視聴者は「日本のアニメは女性蔑視がデフォルト」とか「オタク文化は性差別を助長してる」ってバッサリ。オタクは「ただのコメディだろ!」って反発したけど、グローバル配信の時代に、そんな言い訳は通じねえよ。Netflixみたいな企業が、倫理的な批判を避けるために配信絞るのは当然だろ。
ステレオタイプな描写も問題だ。2020年頃、某アニメが黒人キャラを誇張したデザインで描いて、海外で大炎上した。Redditのr/animeやTwitterで「人種差別だ」「ステレオタイプな黒人描写やめろ」って猛批判。海外のファンや活動家が「日本のアニメは多様性を無視してる」「白人以外のキャラをバカにしてる」と糾弾して、制作会社が謝罪に追い込まれたケースもあった。障害者キャラが「感動ポルノ」の道具にされる作品も、海外じゃ「安っぽいステレオタイプ」と叩かれる。例えば、障害者を「健気な努力家」か「哀れな被害者」としてしか描かない作品、Xの海外ユーザーから「現実の障害者を無視した描写」って非難されてるぞ。オタクは「アニメにマジになるな」って笑うけど、グローバル市場でそんな態度はただの自滅だ。
2021年には、国連の女性差別撤廃委員会が、日本のメディアにおける女性の性的描写に懸念を示した報告書を出した。海外メディアや人権団体が「日本のアニメやゲームは女性を性的対象としてしか描かない」と批判を強め、Xでも「日本のオタク文化は女性蔑視の象徴」ってトレンドになった。オタクは「外野が騒いでるだけ」ってスルーするけど、こういう国際的な批判が積み重なって、クレカ会社やプラットフォームの規制に繋がってる。クリエイターも、ファンサービス重視で過度な性的描写ぶち込んで、ストーリーやテーマの深みを犠牲にしてる。こんな作品ばっか量産してたら、オタク文化の芸術性や普遍性が死ぬだろ。自分たちの趣味が社会的にどう見られてるか、少しは考えろよ。
コミュニティの排他性も、ほんとクソくらえだ。オタクってなんでこんなに新規やカジュアル層を寄せ付けねえんだ?Xで「にわか死ね」とか「原作読んでから語れ」とか、初心者叩きが日常茶飯事。アニメの感想呟いただけで絡まれる空気、誰がそんなコミュニティに入りたいと思う?イベントでも、内輪ネタや暗黙のルールでドヤる奴らが幅きかせて、新規が萎縮してる。この排他性の根っこは、作品や推しにアイデンティティを重ねすぎるオタクの弱さだ。批判を自分の否定と受け取って、過激に攻撃する。声優やクリエイターへの誹謗中傷も、この「俺たちの文化を汚すな」って意識から来てる。推しのスキャンダルや作品の展開が気に入らないと、Xで個人攻撃撒き散らす奴、頭どうなってんだ?こんな過激なファンが、コミュニティを閉鎖的にして、コンテンツの多様性を殺してる。一般人から見たら、オタクって「攻撃的」「近寄りがたい」って印象しかねえよ。
改めて言うけど、クレカ会社やプラットフォームの規制は、オタクの倫理観の欠如と閉鎖的なコミュニティが招いた結果だ。過激なファン、過度なエロやステレオタイプなコンテンツ、これらが合わさって、オタク文化が「リスクの塊」って見られてる。企業からしたら、こんな問題だらけのコンテンツに関わるの、ただの火遊びだろ。規制反対を叫ぶ前に、コミュニティの毒素と倫理問題をどうにかしろ。ロリコンや差別的描写を野放しにしてきたツケが、今の「表現規制」なんだよ。
解決策?まず、倫理的な問題を直視しろ。クリエイターは過剰なエロやステレオタイプ描写を減らし、作品の深みを優先しろ。コミュニティは「にわか歓迎」の空気を作れ。新規が気軽に入れるイベントやガイドライン増やして、過激な攻撃やめろ。オタク文化が生き残るには、多様なファンを取り込むしかねえ。閉鎖的な村社会や倫理無視のコンテンツを捨てて、開かれた文化目指せ。さもなきゃ、オタク文化は縮こまって消えるぞ。反省しろ!
世間を騒がすジークアクス鶴巻監督の乃木坂愛、そして年配男性の若年アイドルへの熱狂。これらを「キモい」の一言で片付けるのは簡単だが、それでは思考停止というものだろう。ここは一つ、論理というメスでこの現象を解体してみようじゃないか。
まず、鶴巻監督の件。作品への私的趣味の混入は、クリエイターとして許される範囲を超えているという批判がある。作品は監督個人のものではなく、多くのスタッフやファンの期待を背負う共同作業の産物だ。その中に、特定の内輪ネタを過剰に盛り込む行為は、作品の世界観や物語の整合性を破壊し、作品の普遍性を損なう可能性がある。これは、公私混同であり、プロフェッショナリズムの欠如と言わざるを得ない。作品の質を担保すべき立場でありながら、個人的な感情を優先し、結果として作品の評価を貶める可能性があるならば、それは論理的に批判されて然るべきだろう。
次に、年配男性が若いアイドルに熱中する現象について。これを単純な「キモい」で断罪するのは、少々乱暴かもしれない。しかし、いくつかの論点は提示できる。
これらの行為を「キモい」という感情的な言葉で処理するのは簡単だが、その背後にある構造的な問題や倫理的な問題を冷静に分析することで、より建設的な議論が可能になるのではないだろうか。感情論に終始せず、論理的に問題点を指摘し、より健全なファン文化や創作活動のあり方を模索していくことこそ、我々が目指すべき道であろう。