はてなキーワード: 非人とは
叩かれるのは仕方ないけど、非人間みたいな扱いはさすがに気の毒だと思っちゃった。
人権教育の現場では、被差別部落(同和地区)の歴史や差別問題が繰り返し取り上げられる。意図は「過去の身分制度による差別を正しく理解させ、現代社会から差別意識を根絶すること」にある。しかし、現実には教育の意図と効果の間に大きなズレが生じている。むしろ教育そのものが、「被差別部落」というカテゴリーを必要以上に強調し、結果としてスティグマ(社会的烙印)を維持・強化している側面がある。本稿では、この現象を、結婚差別と私権の自由の衝突、圧力団体としての歴史的イメージという観点から論じる。
人権教育は、学校や職場、行政の啓発事業で実施される。内容の中心は、江戸時代の士農工商+穢多・非人という身分制度、明治4年(1871年)の解放令(穢多・非人等の称廃止令)による法的身分廃止、そして1969年から2002年まで続いた同和対策事業特別措置法による生活環境改善の歴史である。
これを学ぶことで、参加者が「差別は不合理で許されない」という価値観を内面化することを目指す。実際、法務省や自治体の意識調査では、講義を受けた人の多くが「部落差別は悪いことだと理解できた」と回答する。しかし、行動や深い意識変容まではつながりにくい。鳥取県の調査では「不合理であることが理解できた」と答えた人は58.5%に上る一方、「自分に直接関係がある」「何か行動を起こさなければならない」と感じた人はわずか18%程度だった。
特に効果が薄いのが、差別意識がすでに薄れている地域や世代だ。東北や沖縄、若い世代の中には「被差別部落」という概念自体をほとんど認識しておらず、「同じ日本人としか認識していない」人が増えている。そうした人々に改めて「特別な被差別集団」として教育することは、逆にそのカテゴリーを意識させ、想像上の区別を再生産する矛盾を生む。教育が「関係ないのに押しつけられている」という違和感を強め、逆効果になるケースも少なくない。
結婚は憲法第24条が保障する私権の核心である。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し……」と定められたこの権利は、個人の価値判断に他者が強く介入することを原則として禁じている。
ところが人権教育では、「部落出身者との結婚に反対するべきでない」という規範が強く押し出される。これは、個人の私的領域——血統意識、家族の価値観、将来設計——に公的な道徳を突きつける形となりやすい。特に問題なのは、反対理由の多くが「純粋な血統意識」ではなく、「現実的な利害や圧力の懸念」である点だ。
法務省の令和2年(2020年)「部落差別の実態に係る調査」でも、結婚・交際での差別的取扱いが依然として存在すると明記されている。実際の相談事例では、「相手の親が部落出身者だと知って婚約を破棄された」「親族から『部落の団体と関わるのは面倒だ』と反対された」といった声が今も上がる。こうした心理は、単なる「差別意識」ではなく、合理的な懸念として存在しているケースが多い。
部落解放同盟(解同)は、戦後すぐに被差別部落の解放を掲げ、水平社運動の継承として大きな役割を果たした。しかし、運動の長期化とともに「圧力団体」としての側面が目立つようになった。
• 1969年から始まった同和対策事業特別措置法時代に、解同系団体が事業執行の優先権や予算獲得で強い影響力を持った。
• 一部自治体では随意契約や優先採用が問題化し、2000年代に「飛鳥会事件」などの不祥事が相次いだ。
• これらの歴史が、「結婚すると将来的に団体とのトラブルに巻き込まれるのではないか」という現実的な恐れを生み出す。
人権教育がこの歴史的背景を十分に語らず、「被害者」としての側面だけを強調すると、逆に「被害者利権」という批判を生む。結果、被差別部落は「過去の被害者集団」としてではなく、「今も特別な配慮を求める圧力団体」としてイメージされ続け、差別意識の再生産を招いている。
啓発教育を行うこと自体に利益がある——この感覚は、事業継続の正当性や予算の根拠として機能しやすい。結婚差別は私権の領域であり、血統意識や現実的な懸念が絡む極めて複雑な問題だ。人権教育がこの複雑さを十分に考慮せず、一律の「正しさ」を押しつける限り、被差別部落というカテゴリーは教育によってむしろ維持・再生産され続ける可能性が高い。
人権教育の意図は尊い。しかし、憲法第14条が定める「法の下の平等」という理念に照らして、その役割を冷静に検証する必要がある。教育によって差別意識が実際に緩和されているのか、それとも「被差別部落」というカテゴリーを必要以上に強調することで、かえって区別意識を再生産しているのか——この問いは避けて通れない。
特に、差別意識がすでに薄れ、「同じ日本人としか認識していない」世代や地域が増えている中で、改めて特別な被差別集団として教育を繰り返す矛盾に、自覚的であるべきだ。結婚という私的な領域への介入、圧力団体としての歴史がもたらす現実的な懸念、そして教育そのものが持つ「利益構造」を直視しなければ、人権教育はスティグマを維持する装置ではとの疑念は拭えない。
被差別部落問題は、過去の身分制度の産物であると同時に、人権教育という現代の装置によって再定義され続けている。私たちはそのメカニズムを冷静に見つめ、改めてその意義を問い直す時期に来ているのではないだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4786131973644055842/comment/Gl17
ムチャクチャにしてる(成果と言えるものゼロ)のを批判すると、
イラン政権の非人道性を咎めないのか、と全く別の話を強引にしてくる。
強引に全く別の話をするだあこそがヨロシサンダァオではと
いくら巻き添えにしても咎めてなんぼ「最優先」じゃあないのか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
ある音楽家が、これまでのリリース作品がすべてAIベースの制作環境で作られていたことを、その環境を商品として販売開始することで明かした。
この記事は、それを告発するものではない。むしろ、その製品が宣伝通り機能した場合にこそ私たちが直面する問い——「感動していた曲は、何によって作られていたのか」「作曲がプロンプト設計に移るとき、聴き手は何を聴いているのか」——について、ひとりの聴き手/作り手として考えたことを書いておく。
1~4節はその商品の分析がメインなので、ゴシップ的な話に興味のない人は5~7節だけ読めば十分。
Twitterで、気にかけていたアカウントがあった。フォロワーは二千人規模だが、Hyperpop以降の日本のシーンで頭角を現している一人、という認識が自分の中にあった。界隈の主要な音楽家たちからもフォローされている、といえば規模感が伝わるだろうか。リリースされる曲には、たんに「いい音楽」と片付けるのは難しい構成の巧妙さと音選びの新しさがあって、追ってはいないまでも名前は頭にあった。
そのアカウントが最近、自分の制作環境を商品として販売し始めた。価格は14,900円、「AI音楽制作環境」として売り出されていて、製品ページの宣伝文句はこうなっている——「『気持ちよくて驚きのある曲を作って』——そのくらいの指示から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプトまで一貫して出力します。」さらに、既発のアルバムとEPは「全てこれを軸に制作されている」とも明記されていた。
最初に湧いた感情は、「ああ、そういう工程で作られていたのか」という、ある種の冷めの感情だった。AIを使っていることそのものへの反発ではない。SunoのようなAI音楽生成ツールの進化については以前から耳にしていた。出力自体のクオリティを否定するつもりもない。そうではなく、「何に対して感心していたのか」という、自分の受け取り方の根元が揺らぐ感覚、とでも言えばいいだろうか。
この感覚を、個人的ながっかりエピソードとして飲み込んで済ませてもよかった。けれど製品ページを読み進めるうちに、これは自分一人の話ではなく、いま音楽を聴く/作る側に共通してくる問題になっていくだろうと思い直した。以下はその整理になる。
製品ページから読み取れる範囲で、何が売られているのかをまず整理しておく。評価は後回しにする。
製品としての訴求は、おおむね三層からなる——(a)独自の音楽生成エンジンであること、(b)感覚的な指示から完成物が自動生成されること、(c)学習ツールとしても機能すること。
実際に買って触ったわけではないので、以下は推測の域を出ない。ただ、製品説明を読み解くと、構造的にいくつかの疑問が浮かぶ。
まず、''「Python疑似コード」という語の含意''について。「疑似コード」はPythonの形で書かれていても実行されないテキスト、つまり構造化されたプロンプト/参照資料のことを指すのが通例だ。Claudeプロジェクトに.zipをアップロードする形式である以上、これはClaudeが読み込むルール文書群であって、独立して走る独自エンジンではない可能性が高い。MIDI出力部分などは実行可能コードだろうが、「コードを選ぶ」「歌詞を書く」といった音楽的判断のコアは、Claude本体の自然言語推論能力が上限になる。これ自体は悪いことではない。よく練られたプロンプトパックは、Claudeの出力の一貫性と専門性を上げる。ただし「独自エンジン」という響きが含意するものとはかなりの距離がある。
次に、''Sunoへの依存度''について。製品の主要アウトプットのひとつが「Sunoプロンプト」である以上、最終的に音として鳴る部分——音色の質感、ミックスのバランス、演奏のニュアンス——を生成しているのは、この製品ではなくSunoのほうということになる。つまり、この製品の価値の相当部分は「Sunoを上手く使うためのプロンプト設計の職人技をパッケージしたもの」であって、Sunoが進化すればその層の価値は急速に目減りする。
三つ目に、''「all built by hand」の含意''について。86,000行という規模が、本当に人間が手で書いたものなのかは、製品説明からは判別できない。ジャンル研究ノートやStyle語彙データベースといった文書は、AIに「このジャンルについて詳細なルール文書を書いて」と指示すれば相当量が出てくる種類のものである。骨格は人間が作っていたとしても、肉付けをAIに任せている可能性は十分ある(そしてその場合、「手作業で書いた」という説明の重みはかなり変わってくる)。
繰り返すが、これらは推測にすぎない。実際に買って開ければ印象が変わる可能性は十分ある。ただ製品ページの記述だけを根拠に判断する限り、「独自の音楽生成エンジン」「作編曲の学習ツール」という訴求は、実態を控えめに言っても過剰包装しているように見える。
この製品に対する考えられる反応は、「宣伝通りに動くのか?」という疑問だろう。
しかし、立ち止まって考えると、本当に問うべきは逆側であることがわかる。
仮にこの製品が宣伝通りに機能するなら——「気持ちよくて驚きのある曲を作って」という指示一行から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプト・MIDI・MP3まで一貫して出力されるなら——自分が感心していた曲は、その程度の指示から出てきたものだった、ということになる。下準備としての疑似コード整備や、出力に対する微調整は当然あるにしても、一曲一曲の制作工程の中心がそこにあったのなら、感心の源は作り手の耳ではなく、ツールの出力分布の中にあったことになる。たしかに創作物は優れていたかもしれないが、「それが優れていたのは上手くSunoを使いこなしていたから」という、エンジニアリングの問題だったということになる。
機能しないなら誇大広告の問題で済む。機能するならば、「聴き手は何を聴いていたのか」という、より根本的な問いが立ち上がる。皮肉なことに、製品としての完成度が高いほど、この問いは重くなる。
ここで思い出しておきたい話がある。2023年のゲンロンのイベントで、音楽家のtofubeatsが、Spotifyのサジェストで流れてきた曲に心を動かされ、作曲者を調べたらAI生成曲だと知って深いショックを受けた、という経験を語っていた。彼自身がオートチューンで声を加工し、歌声から人間性を排して作曲するタイプの作家でありながら、である。「非人間的な曲が、本当に人間によって作られていないこと」が判明したときの空虚さを、彼は正直に語っていた。
この空虚さが何から来るものなのかは、6節でもう少し踏み込んで考えてみたい。ただ先に言っておくと、それは「AIは音楽を作ってはいけない」という種類の話ではない。むしろ、「聴くとき、自分は何と対面していたつもりだったのか」という自己認識の問題になる。そしてそれは、作り手が工程を開示しないまま商品を売り始めた瞬間、聴き手の側で解決することが不可能になる種類の問いでもある。
誤解されたくないので、はっきり書いておく。この文章は、AIで音楽を作ることへの全面的な否定ではない。
作曲の歴史は、すべてを人間が設計し人間が作る歴史だけではなかった。偶然性、システム、自動化、外部の力を取り込む試みは、ジョン・ケージから、ブライアン・イーノ、アルゴリズミック・コンポジションまで、20世紀以降の音楽史の重要な部分を形作ってきた。AIの導入はその系譜の延長にあって、それ自体を否定するのは筋が悪い。
近年の例で言えば、菊地成孔は自身が主宰するギルド「新音楽制作工房」でAIを活用していることを早くから公言している。NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の劇伴ではMaxを用いたAI生成による弦楽四重奏が使われており、菊地本人が「作曲者のクレジットもないし、著作権のありかがわからない」という問題をNHK出版経由でJASRACと協議し、「新音楽制作工房」名義のクレジットで処理することで決着させた、という経緯まで公にしている。つまり、どう使い、どう扱い、誰の名のもとに出すかを、彼は工程ごと開示している。
ここでの違いは、「AIを使うか使わないか」ではなく、「どう使い、どう開示し、何を自分の名のもとに出すか」にある。「AIの使用は隠していない」という表明と、「どの工程をAIに委ねたかを開示する」こととの間には、大きな距離がある。
そしてもうひとつ、避けて通れない論点がある。Sunoを含む音楽生成AIが、何を学習データにしているかという問題だ。2024年6月、RIAA(全米レコード協会)はSony Music・Universal・Warner Musicを代表してSunoとUdioを著作権侵害で提訴した。Suno側は、レコード会社の著作権で保護された録音物を使用したことを概ね認めた上で、フェアユースを主張している。2025年末にはWarner MusicとSunoがライセンス提携で和解したが、訴訟全体はまだ決着していない。
つまり、いまSunoで曲を作って発表することは、その学習データが何で、どのような経緯で集められたかが法的に争われている状態のモデルを使うことを意味する。これは「使ってはいけない」と言いたいのではなく、「自分の作品がどういう供給ラインの上に立っているか」を無自覚なままにはできない、ということだ。そして、そのモデルを使って生成した曲で「作曲者」を名乗り、その制作環境を商品化して収益化する、という連鎖の倫理性は、まだ業界全体として合意が取れていない。
この記事の射程は、その倫理そのものを裁くところまでは届かない。ただ、「いい曲さえできれば制作過程はなんでもいい」という論法に、即座に頷くことはできない、という姿勢だけは明示しておきたい。
ここで、4節の末尾で保留にした問い——tofubeatsが味わった空虚さは何から来るのか——に戻ってくる。
創作物を聴く側は、作り手の工程をつねに見ているわけではない。それでも、作品を受け取るときには「制作への真摯さと、出来上がった作品のクオリティは、どこかで結びついている」という、いわば感覚的な信頼をもって聴いている。これは創作と鑑賞の間に長く存在してきた暗黙の契約のようなもので、あるシンガーソングライターが書いていた通り、手間暇掛けようが掛けまいが最後には一緒くたに扱われる時代でも、違いの分かる人はいるはずだと信じて丁寧に拵える——という姿勢を、作り手と受け手の双方が(明示的ではないにせよ)共有してきたから、音楽は単なる音の配列ではなく、作り手の痕跡を伴うものとして聴かれてきた。
AIが生成した音楽そのものにも、それ独自の良さがある。これは繰り返し強調しておく。作品としての良さは、工程とは独立に成立し得る。ただし、AI生成された曲を「ひとりの作家が作った作品」として提示し、その仮構された人格のもとに人気を集めることは、この暗黙の契約を根元から破壊する。聴き手が「これを作った人は、たぶんこういう感受性の持ち主なのだろう」と想像しながら聴いていた対象が、実は大部分がプロンプトから生成された出力だったとしたら、その想像は宙に浮いてしまう。作品が悪かったわけではない。悪かったのは、作品と作り手の人格の間にあったはずの関係について、聴き手が抱いていた前提が、工程を開示されないまま利用されていたことにある。
tofubeatsが味わった空虚さは、たぶんこれに近い。「AIが作ったから価値がない」ではなく、「自分は作品を通して誰かの感受性と向き合っていたつもりだったが、その『誰か』が自分が想像していたものとは違っていた」という、受け手側の文脈の宙吊り。この宙吊りは、作り手の側がAIの使用を大まかに表明するだけでは解消されない。「何を自分の判断で選び、何をツールに委ねたか」という工程の粒度での開示があってはじめて、聴き手は自分の感心の行き先を再設定できる。
この視点から見ると、今回の製品販売で起きたことの構造が少しはっきりする。14,900円という価格や、買った人にとっての有用性の問題はもちろんある。ただ、それ以上に大きかったのは、制作環境を商品化するという行為が、既発の作品群を「この環境の実例」として遡行的に位置づけ直してしまうことにある。以前から作品を聴いていた側から見れば、聴き手と作り手の間に結んでいたはずの暗黙の契約の内実が、後出しで書き換えられる感覚がある。
制作工程の開示は、法的義務ではない。ただ、制作環境を商品として売り始めた瞬間、この暗黙の契約を自分から前景化させたことになる。「この環境でこれだけの作品が作れる」という実例として既発のリリースが参照されているのなら、それぞれの作品がどの程度この環境の出力そのものなのか、どの程度は人間の介入によるものなのかは、買う人にとっても、これから聴く人にとっても、重要な情報になる。
最後に、聴き手として、作り手として、これからどうするかを書いておきたい。
聴き手としては、tofubeatsが味わった種類の空虚さを、できれば避けたいと思うひとが大半だろう。しかしtofubeatsがAI生成だと気づくことができたのはクレジットにそう明記されていたからに他ならない。今回の私のケースのように、AI生成であることが明かされていなかったり、将来的に(遡及的に)AI生成であることが明かされるようなパターンはますます増えていくだろう。私たちは、匿名性を保ったままクオリティで勝負して有名になっていくという同人音楽シーンの時代の終焉を目の当たりにしているのかもしれない。作り手と受け取り手の信頼関係が壊れていくなかで、聴き手側からできることはあまりにも少ない。界隈で有名なコンポーザーの多くも今回のアカウントをフォローしていたことも考えれば、制作過程の情報開示を積極的に求めていくこと、プロセスを明らかにしたうえでよいものを作っているひとを評価していくこと等も、その限界は大きいだろう。
作り手としては、自分がやりたいのは、プロンプト一行から出てくるものを受け取る側ではなく、一音ずつ選ぶ側である、とあらためて確認した。それはAIを使わないという意味ではなく、AIを使うにしても、どこで自分の判断を通すかを意識的に設計したい、ということになる。菊地成孔のやり方に近いと言えば近い。作編曲に限らず、これまであらゆるアートと呼ばれる領域について、過程を見せないことは作家の神秘性を増すための重要な要素だった。しかし上にも書いたように、その限界はもうすでに見えてきているように思う。過程を明らかにしたうえで、自身の武器がすべて明らかであるのにそれでも真似できない創造性を見せること。もちろん、あらゆる出力結果は機械学習の餌食になりうるという状況においてこれは綺麗事かもしれないが、成果物がいわゆるAIに食われうるのは変わらないのだとしたら、いかに自身の制作においては透明性を保ったうえでクオリティで受け手を納得させるか、こそが大事になってくるだろう。こうしたムードを作り手の側からも作っていくことが、今後の大きな課題になるのではないかと思う。
「AIがもっといいものを作れるのになぜあなたが作る必要があるのか?」は、「プロの作家がすでにこの世に五万と存在するのに、なぜあなたは作品をつくろうと、その道を志したのか?」という問いと本質的には何も変わらない。作りたいから、作る。伝えたいから、それを形にする。そうした初期衝動が、欲望が、「創造性」という言葉の本質であり、AIに模倣することのできない、あなただけの、私だけの創作物につながるのだから。
原因は何だったか分からない。ただ自分としては普通に過ごしていたつもりだったし、誰かに変なちょっかいをかけた覚えもない。
それがある日突然、クラスカースト最上位の男に毎日のようにバカだのキショだの名前をいじって揶揄したりだの心無い言葉をかけられるようになり、それに同調したクラスメイトも一緒になって私に罵声を浴びせるようになった。
主犯格の男子児童は狡猾な野郎で証拠に残るような行為はしなかったので、日常的に身体的な暴力を受けたり、持ち物に危害を加えられたりしたことはなかったが、それでもあの日々は今でもフラッシュバックすることがあるくらいには、私にとって暗黒の時代だった。
担任はそんな私を鼻つまみものとして扱い、外面だけは良いいじめの主犯格たる男子児童は褒めそやした。
私はクラスで孤立し、卒業するまで周りの人間に不信感を抱いて過ごした。
さて、そんな主犯格の男――以降はIとする――はその後プロのスポーツ選手になった。どの競技かは伏せるが、わりとメジャーな球技だ。
Iは日本国内よりも海外チームでの活躍が多くあまりニュースが入ってくることはないのだが、それでもやはりIの功績は耳に入ってくる。それが本当に嫌で嫌でしょうがなく、私はIのせいでその競技ごと嫌悪するまでになった。
Iは結婚もしており、娘がいるらしい。世間では「良いパパ」と持て囃されているようだが、一方で他人と距離を取るようになり、コミュニケーションが苦手になってしまった私は未だに独り身だ。
全部Iのせいだと言うつもりはないが、少なくともあの頃に今の私の性格の4~5割が形成されたと思っているので、幸せな家庭を築いている(らしい)Iには強い憎しみを覚えている。
運動ができるからとそれを鼻にかけ、自分以外の人間を見下してクラスを支配下におき、私のような弱い人間の人権を踏みにじったIが幸せを手に入れているなんて、この世はなんて理不尽なんだ。
娘が生まれたという報せを聞いた時、私はIに復讐したいと考えるようになった。
まず娘と嫁をレ●プし、その次にI本人の手足を金属バット等で粉砕し、最後に背骨にとどめを刺す。
殺害はしない。選手生命を絶ち、残りの人生を生き地獄にしてやるのだ。
Iに受けた仕打ちに比べたらやりすぎと思われるかもしれない。それでも、Iを中心に広まったあの地獄の日々から連なる今までの長い年月と、これからも続く孤独と苦しみの日々を考えれば釣り合いは取れるだろう。
だが、私はそんなことはしない。というかできない。
何故なら今の私には守るべき生活と社会的地位、そして最低限の常識と良識があるからだ(常識と良識ある人間が考えるようなことじゃないだろというツッコミはさておいてほしい)。
I一人から受けた傷をその配偶者と子どもにまで負わせる必要なんてないし、Iの選手生命を絶ったところでそこに関わるチームやスポンサー等の損害を私が補償できるわけがない。
当然こんな犯罪は許されるべきではないし、私が犯罪者になるわけにもいかない。
だからこれはただの妄想。復讐に心燃やしたもののやり場がなく抱えてしまったモヤモヤをどこかに発散したかっただけ。
こんなしょうもないことを考えてしまう私のことを愚かな人間だと皆さんは思うだろうか。
日常的に暴行を受けたり、非人間的な扱いを受けたりと、私よりももっと辛い思いをした人もいる中で、みっともなく今でも恨みを持ち続ける私を、世の中は嘲笑するだろうか。
それでも私はそんなことを考えてしまうことがやめられない。もしかしたらあの頃に形成された性格なんかじゃなく、これが元々の私の性根だったのかもしれない。
知人に勧められて「俺だけレベルアップな件」って作品を観たんだけど、なんでこの作品がアニメになったんだ?脚本や原作は何を考えて作ったんだろう。
序盤に非力な主人公が知力で難所を乗り越えたところだけおもしろかった。
主人公が能力を上げるにつれて葛藤も欠点も減っていく。中盤は仲間がそばで死んでるトラウマがあるのに殺人への忌避感を示さず、終盤のシーンでは仲間が死んだ場面に似た体験をしても「ふーん」くらいで流している。こいつ人間か?
非人間的になっていく描写をもりもりにしたぶん、非人間さが欠点になるなんてこともない。これ、物語として成立してるんだろうか?
ドラマってキャラクターの人間的な欠点から生まれる感情や人間模様に、視聴者が感情移入してこそ面白いもんだと思ってたなあ。なんかつよそうなやつがつよそうな悪役をばったばった斬り伏せて、仲間っぽい薄っぺらい人間がすごいすごーいって言ってるだけの物語…
観なくていい作品だ。
この世界が変化し続けること自体は否定しません。コヘレト(伝道の書)はまさにそれを語っています。
しかしその変化の背後に不変のものがあると強く主張します。それは神の意志と道徳です。
つまり、「すべてが流れゆく」だけではなく、「流れの中にも真理がある」という立場です。
次に、「正義への執着が苦しみを生む」という点について。
つまり、正義そのものは必要だが、怒りや自己正当化に飲み込まれた正義は危険だ、という見方です。
「心を観る」という実践については、ムサール(倫理修養)やヘシュボン・ハネフェシュ(魂の内省)と呼ばれるものが対応します。
自分の怒りや恐れに気づき、それを整えることは重要な霊的作業です。
ただし、その目的は「執着から離れること」よりも、神の道に自分を一致させることにあります。
「敵は固定されたものではない」という点も、興味深い共通点があります。
「エジプト人が溺れているとき、天使が歌おうとしたが、神は言われた。『我が被造物が溺れているのに、お前たちは歌うのか』」(メギラー10b)
つまり、敵であっても完全に非人間化してはならない。これはあなたの言う慈悲と非常に近いです。
あなたの提示した道は、「内なる平和」を最も深い行動としています。
内なる平和だけで、世界は正されるのか?いいえ、十分ではないです。
つらいこと
アメリカユダヤの息がかかった自民党の息がかかったポリス👮に就業先にいちいち過去の逮捕歴や前職場についてチクられて最初から試し行動をされる(始業時間をめちゃくちゃ早くされる、盗むかどうかチェックするためにお札を目立つところに置かれる)ちな、盗んだことはない。
前々の職場はろくに仕事も教えてもらえず、仕事はわざとミスするようなランダム性の強い妨害(一つだけ切る位置が少しズレてるとか)をされて、ミスると仕事できない扱い
前前前前ぐらいのときは出すための値札を隠されてないですって言ったら探した場所から出てきて仕事できない扱い
ずっといじめられてる。だから仕事はすぐやめる羽目になるが、今度は家族からダメ人間扱いされて家庭内で穢多非人の扱いを受ける
自民党を支持したくない。でもいじめられて働けなくなる。でも絶対に支持したくない。ちな安倍晋三暗殺にはまったく関係してない。ネチネチいじめてくる。
とてもIQの低いコメントをするけど犯罪者を叩いてないと今のような集団監視社会は成り立たないから私はネットでは非人間的言葉をかけられるくらいでいいと思う。
かと言って実害を与えていいかというとそうではないと思う。実害を与えたらそれはその行為が犯罪になったり犯罪を助長させる。頭の悪い人に対して法律を慮る感情をうむには正義と悪を分割するのはわかりやすい方法だから、犯罪か犯罪でないかでいいとおもう。
以前からこの手のニュースでは見かけておりほんのり違和感を覚えていたのだけど、今回乱用されているのを見てイラっとしてきた
寄り添うってなんだよ、相手の気持ち無視かよ、相手が「寄ってくんなボケ」かもしれない可能性は考慮しないの?
そもそもなぜ俺がこの言葉にイラッとするのか、セルフ考察してみたのだが、
まず第一点が語感が嫌
語義は「相手の立場や心情に共感し、気持ちを理解しようと努め、心理的な距離を近づけること」であるが
寄って、添う、わけで「心理的な距離を近づけること」であってるわけだが
見ず知らずの性犯罪被害者と心理的な距離を近づけるの?近づけたいの?添うの?普通に迷惑だろ
日本語、言葉としての間違い、誤用、過剰表現としか思えないのである
書き手はなんの意識もなく慣用句的に「被害者に寄り添う」と書いているのだろう、言葉が軽い
「被害者に慮る」ならまだわかる。
が、寄り添うだと、落ち込んでるんだから見舞って話でも聞いてやんなさい、のニュアンスなわけ
書き手がそういう意図ではないのはわかるが、言葉の定義だとそうなる、普通に考えて大きなお世話だろう
どんな形であっても事件に言及すれば二次被害を誘発しかねないわけで、その誹りを回避するため
そういう意図がミエミエでお下劣なのである。時事ネタで稼ぎたいだけだろうが、クソな言い訳してんじゃねぇよ。
「誰それのコメントは被害者に寄り添ってない」的な指摘をみかける
それ以外の議論は許さない、なんにせよまずは「被害者にはお悔やみ」的なワードを入れろ、感情表明の強要
うぜぇぇぇぇぇ
現代のこの手の非生産的で非合理な様式美には、常々イラッとする
【追記】
いろんなコメントをもらったお陰で俺の違和感の中で言語化できてない領域に気づいた。ありがとう
「被害者の痛みを共有し加害者を糾弾すべし」までを含ませている連中への嫌悪感
つまり、
「犯罪の事実は確定している、当然被害者は苦しんでる、その救いの為ならどのような形でも加害者を攻撃してもよい、被害者もそれを望んでおり、ともに戦わないやつは逃げている、被害者の痛みを理解できない冷徹な非人間である、加害者側の人間だ、この攻撃に批判的な人間も同罪である、被害者に寄り添え」
ここまで理論が突っ走ってる連中への呆れ
解釈裁量を自分に大きく残しつつ万が一の時に言い逃れできる保険、連中は「配慮」を使わない
情報発信そのものが二次被害になったとき「配慮不足」と誹られる
お気づきだろうが俺がこのワードに強い違和感を覚えた発端は弓月森川草津炎上である
バッシング連中の言い分は「犯罪は確定してる、被害者は苦しんでる、だからネットリンチを楽しんでるのに水をさすな」
最初に
議論ってのは「男の領域」であるし、あいまいな雰囲気とか気持ちの世界じゃないんですよ。
議論したいならば、議論の流儀に自分を合わせるべきですね。女性の立場を上げたい?のならば、当然、そうするべきなのでは?
元ブログ、基本読書さんの言っていることは以下のように思います。
「女性の方が成長が早い。また、実際の成長と脳の成長は、男女で異なる。(女性の方が体と脳の成長が同等)
→ブログの趣旨は、女性の成長が早いことを言っています。成熟してからの能力には言及していないと思います。
まあ、教育が適切に行われた方が、成熟直後は上であることはあるでしょう。
・「ちなみに、日本だと生活なんちゃら調査の結果で、10代男子と10代女子では、男子の方が娯楽時間が長く、睡眠も長く、学習時間が短いので、
成熟の差よりもこの差じゃねーのって思うんだけど?」
→自己管理やセルフコントロールは、まさに成熟のことだと思います。
・「教育の差で男女の成績が変わる研究結果がいっぱいだとあるんじゃねーの?」
→こんな言葉遣いどうしてもしたいのですか?少なくとも、男女論を語るときは、女性らしい文章を書いてください。立場が見えません。
余談について
増田は企業がどのような意思を持っているのかをまったく理解してないですね。
企業というのは、コスト削減を第一に考えています。基本的に、非人間的な存在です。
企業というのは男とか女とかどうでもいいんですよ。
で、「女性側だけ給与が安く設定される」この長年の慣習があるのですが、
このルールがあるから、企業は男性を女性に入れ替える理由ができるわけなのです。
もしこのルールがなければ、企業はわざわざ男を女に入れ替えないでしょ?一円の得にもならないじゃん。
少しは理解できましたか?企業というのはあなたのために存在していません。女性のためにも男性のためにも存在していません。
あなたの給料を上げるお金はどこからくるのですか?あなたが男の代わりにやとわれた理由は、男よりも安いからなのに。
最後に
私は議論が好きなので、このようなことを書かせていただきました。
別に男にむかついたり、邪魔に思うのは自然なことだとは思います。
平和主義者は、話せば判ると主張する。
相手にはこちらの主権や生命を尊重する気など無い可能性もあるのに、その可能性を考えない。
要は、『話しても分からない』レベルの多様性を認めていない。相手がこちらの権利を尊重し、こちらの言葉に耳を傾けるに違いないと考える。これは傲慢である。
私のようないわゆる右翼は、そんな期待はしない。他国が全力で国益を追求する可能性を当たり前と考える。『国益を追求した結果、日本から島を奪って泣き寝入りさせるのが最善という判断になりました』という結論を出させるわけには行かないのだ。戦力を持つというのは、『日本に割を食わせるのは国益につながらない』と算出させるのに必須であると考える。
そして、平和主義者はその辺を議論すると無理な理屈をひねり出す。
確かに戦略上は、相手が強くなりそうなら、相手が弱いうちに攻撃するのは理に叶っている。藪蛇になる可能性もゼロではないだろう。
しかし「だから武装を強化しない」というのは、相手を『他国が強くなりそうなら攻撃するような国』を想定しているのに、『そんな国が弱い国に何もしない』という無理な仮定を置いている。
侵略なんて、隣の国が土地を持ってるという理由だけで起きるものなのに。
南海トラフ地震に備えない人は馬鹿だ。それは可能性の問題でいつか起こる可能性が高いからだ。
しかし平和主義者は、可能性に備える事をしない。『何もしなければ何も起こらない』に全賭けするのだ。本人が賭けるだけなら勝手にすれば良いのだが、かかっているのは国民全員の命運である。つまり、私の命や財産も含まれている。
戦争に備えると戦争を招き寄せる、と言わんばかりのシャーマニズムみたいな平和主義に自分や家族の命運を賭けるなどまっぴらなのだが、備えろと主張すると戦争大好きな人非人扱いである。
他国が強くなりそうなら攻撃するような国に対して武装しないというのは、その支配を受け入れるという事なのに。
あげくの果てに『今までもこれで大丈夫だったじゃないか』と主張するのだ。『これ』の中には、東京のど真ん中に朝鮮戦争の国連軍後方司令部や第五空軍や第七艦隊が存在して米国の太平洋戦略の中核をなしているという現実もあるはずだが、多分こういう人達には、そういう世界最強国の軍事拠点ではなく、憲法9条を指して『これ』と言ってるのだろう。
国際環境はどんどん悪い方向に変わってるのに、『このままでも何も起こらないだろう』という読みというより願望に、他人の生命と財産を賭けさせようというのは、傲慢以外のなんだろうか。
なんかさ、弱者男性って都合のいい時だけ男女平等を盾にするよね。
お前ら、70代のおじいちゃんに50キロの荷物運ばせたりすんの?しないでしょ?
それと同じで、女性に重い荷物持たせるとかマジで終わってる。サイテー。
そこで「女も同じだけ働け」とか言っちゃうのが、お前らが弱者男性たる所以なんだよ。
いい? 求められてるのは「平等(Equality)」じゃなくて「公平(Equity)」なの。
筋肉量がある方が重いもの持つ。これ、幼稚園で習うレベルの算数だよね?
あと、これ言うとすぐ発狂するだろうけど、報酬だって「女性>男性」が妥当だから。
スキンケア、メイク、服、美容院。これ全部「社会の景観」維持するための投資なわけ。
そこを無視して「給料は同じであるべき」とか、どんだけ想像力欠如してんの?
女性にしっかりお金かけてくれるし、スマートにエスコートしてくれる。
「お金がかかる女の子」を丸ごと愛して、投資してくれるのが本物の男。
結局、権利ばっかり主張して、女に苦労させて、自分は1円も出したくない。
そんなんだから、お前らはいつまで経っても弱者のままなんだよ。
女性を人間扱いして助けてくれる強者男性様と、女性を非人間扱いして重たい荷物を持たせてお金も渡さない弱者男性。
どっちがモテるか誰でもわかるよね?
今社会的に認められているもの、考え方を不変的な事実として扱う人が嫌い。それを土台にどんな意見を言っても、たとえ賛成できたとしても、その土台の置き方が好かん。
今この瞬間の社会、何ならその人の見えている社会にとって不変的なようなものであって。その外の時間や社会ではそうではないってことを分かっていない人が多い。
加えて、人道方面の方に多いのが人道的な行いをデフォルトだととらえていること、性善説はよそでやってくれ。人道も非人道も同様の思想である。さぞ自分がゼロ地点にいるかのようにふるまわないでほしい
1. 泉健太だけが一層止まりで「人間性キープ」の救世主。報道通り「生真面目」「同志の落選に辛い」と共感寄り添い型。立憲残党の「老害囲まれ」の中で光ってる。 他の立憲残党は三層〜五層中心。選挙惨敗で「政策より政局」「揚げ足取り」が目立ち、自民批判の「痛み」が党派憎悪に変形。安住・野田の「態度悪」「資格ない」発言が典型。
2. 左派(山本・志位)は六層直行。れいわのポピュリズムや共産の連合呼びかけが「人間じゃないレベル」の党派主義に。共闘しても「成れ果て化」確定。
3. 全体的に、中道の「生活者ファースト」軸が浅層で止まってるのに、立憲残党の過激化で人間性ロスト連鎖。泉氏が代表になってたら…って思うよね(笑)
| 層 | 人間性レベル(上昇負荷) | 該当政治家&発言例 | 理由・ミーム的解釈 |
|---|---|---|---|
| 深界一層(軽いめまい) | 気遣いMAX 人間性キープ | *泉健太** 「本当に辛い。辛いよ…」「傷ついた仲間・支持者に寄り添う」「政策で競う」 落選議員事務所訪問の辻元清美(一部気遣い寄り) | 泉氏だけが「自省を」「仲間を伸ばす執行部」と内省的。立憲残党の中で唯一の「光」。他の党員からも「感性・気遣い最強」と絶賛。まだ人間。 |
| 深界二層(頭痛・しびれ) | 批判はするけど穏やか 微妙に人間 | *重徳和彦**(中道国対委員長) 「高市政権の短期決戦型は混乱招く」 **岡田克也**(落選) 世襲批判の残り香 | 政策論に留まるタイプ。安住幹事長の「態度の悪い」イメージを自虐でカバーする野田系の一部。まだ吐き気止まり。 |
| 深界三層(幻覚・幻聴) | 党派色強め 方向感覚バグ | *枝野幸男**(落選) 「媚中派」レッテル貼られつつ「右傾化阻止」 **安住淳**(落選) 「玉木呼び捨て」「偉そう態度」連発 | ネットで「鋭い自己分析w」と冷笑される自虐批判。幻聴レベルの「自民=上級国民」陰謀論がジワジワ。平衡崩れ始める。 |
| 深界四層(激痛・出血) | 過激化 人間性にヒビ | *野田佳彦**(元共同代表、辞意) 「政治家の資格ない!」「血を流す前提の政策」 **辻元清美**(一部) 「朦朧とした頭で…」落選者訪問も叩き混じり | 痛み批判が「資格剥奪」レベルに。選挙中「大間違い、バカ野郎!」と先輩吠え。出血多量で党イメージズタズタ。 |
| 深界五層(感覚喪失・自傷) | 自爆モード 人間性薄れ | *小川淳也**(新代表) 「熱血漢」だが「他責思考」批判に「負けた全てが詰まってる」 **米山隆一**(落選) SNS戦略無策自白で「党員の政治理念の無さ」 | 内部自傷全開。「執行部批判」で仲間を伸ばせないループ。感覚ゼロで墓穴掘り。立憲残党の末路。 |
| 深界六層(人間性喪失) | 成れ果て 即死級 | *山本太郎**(れいわ) 「壊れた国に歯止め」「消費税廃止で野党連合」過激ポピュリズム **志位和夫**(共産) 「野党連合政権」呼びかけつつ党派絶対 | 左派の極み。「自民=人間じゃない」「右傾化の成れ果て」と非人間化。生き残っても「議論不能の異形」。中道残党が左派に寄ったらここ。 |
オレは自民党と高市政権の否定派だが、さすがにバッシングがあらぬ方向に飛んでるので夜中に筆をとる。
あのさあ。
お前ら、ケガや病気をいじるのは本当にやめとけ。
前日、応援演説中に支援者に強く引っ張られてケガをして、手が腫れた。
翌日の午前、
消炎剤とテーピングの処方を受ける。
これに対して逃げただのドタキャンだのと難癖が飛んでいるが。
あのな。医務官も職業である以上、24時間首相公邸で待機するのは不可能だろ。
たとえば Youtube で風邪ひいてイベントに出れなくなった Vtuber とかにリスナーはこんな風に言う。
連中を見習え。
前日ケガして翌日の午前に治療するのは、スピーディで妥当な判断だと思うがな。
ケガしたのに「大したことない、ガマンしろ」と言う方がイカれてるぜ。
どうせならホクホク発言とかを突け。