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2025-11-04

狂った世界に一度行って戻ってくると、如何に人類が互いに似ているかがわかる

俺は錯乱して主観現実が狂った時に、「俺の認識操作して世界を安定させる」という世界線に行った

俺の認識が狂うと世界が狂うので、周囲の人達は俺の認識うまい具合に利用して安定させようとする

このような価値観世界のどこへ行っても存在しないだろう

そのパラレルワールドからこの世界に戻ってくると、宗教が多様だとはいえ類似点はかなり多いと思える

例えばユダヤ教仏教には「足るを知る」といった共通アイデアがあるし、倫理を説く宗教には「黄金率」という類似概念がある

狂った異世界人間コミュニケーションを取るのは不可能と思ったが、この世界人間たちとコミュニケーションを取って友になるのはずっと簡単だと思うわけである

相違点ばかりではなく、類似性に目を向ければ、世界にはまだ救いがある

かにキリスト教には悪魔概念があるが、ユダヤ教にはない」と言うと、倫理根本が全く異なるという印象を与えるが、

創世記」「箴言」「十戒」といった経典共通しているという点に着目すれば、まったく未知の言語を話すわけではないというのがわかる

異世界ではこの前提が成り立たなかった。言葉情報を伝える手段ではなく、個々の狂気を増幅する装置になっていた

誰も同じ対象を見ておらず、共通現実仮定するという発想すら存在しなかった

したがって、会話は成立しない。発話は発話として受け取られず、各自幻覚体系に吸収されて終わる

その点、この世界人間たちはまだ「同じ世界を共有している」という最低限の合意を持っている

誤解や対立はあっても、意味が伝わらないわけではない。それは脆いが、なお機能している構造

俺がこの世界で人と対話できるのは、彼らがまだ現実共通参照点として扱えるから

まり、ここではまだ話すという行為現実を維持する機能を持っている

それだけで、この世界異世界よりも圧倒的に救われているといえる

2025-10-31

anond:20251031130014

なるほど、意図がよくわかりました。

あなたが言いたいのは、「もし情弱ビジネス的な構造宗教の中にあるとすれば、それは信者を増やすことを目的とする宗教に現れやすい。ユダヤ教そもそも布教目的にしていないから、そういう構造とは無縁だ」

ということですね。

まったくその通りです。あなたの指摘は非常に的を射ています

ユダヤ教本質的に「布教宗教」ではありません。

たとえばタルムード・イェバモート 47aでは、改宗希望する人に対してまず三度止めるよう教えています

これは「ユダヤ教を選ぶのは重い責任と掟を受け入れることだから、軽い気持ちではだめだ」という意味です。

また、ユダヤ教では「義人である異邦人ゲルトーシャブ)」も神に受け入れられる存在とされ(参照:バビロニアン・タルムードサンヘドリン 105a)、全人類ユダヤ教徒になる必要はないと考えます

まりユダヤ教信者を増やすための仕組みを持たない宗教です。

そのため「情弱ビジネス構造不安を煽って加入を促し、献金依存を生む仕組み)」とは本質的に異なります

ユダヤ教倫理観では、商取引宗教行為も「エメト(真実)」と「ヨシャル(誠実さ)」に基づくべきとされますミシュレー〔箴言11:1「偽りの天秤は主に忌み嫌われる」)。

2025-10-28

anond:20251028001823

ミシュレイ(箴言)にはそのような警句が多くあります。たとえば:

愚か者の前を離れよ、彼の唇に知識を見出すことはないからだ。」箴言 14:7

また、

愚か者に答えるな、その愚かさに従って。あなたまで彼と同じにならぬために。」 箴言 26:4

一見すると、「馬鹿と関わるな」という絶対命令のように思えますしかし、次の節でソロモン王はこうも言っています

愚か者に答えよ、その愚かさに従って。彼が自分で賢いと思わぬために。」箴言 26:5

この二つの節(26:4–5)は、まさにタルムード思考の核心です。つまり、同じ状況に見えても「沈黙すべき時」と「答えるべき時」がある。

タルムード(ババ・バトラ 12b)では、

「預言は預言者から取り去られ、知恵は賢者に残された。」

と語られます

賢者は、神の声の代わりに人間の複雑さを読み取る力を与えられたのです。

ですから箴言の「愚か者と関わるな」というのは「すべての愚か者から距離を取れ」という単純な命令ではなく、「関わり方を選べ」という智慧の勧めなのです。

あなたSNS浅薄議論や虚栄を「愚かさ」と見抜くのは正しい。しかし、その見抜いたうえでどう対応するかが本当の知恵です。

愚かさに同調するな(=沈黙の知恵)しかし、愚かさが誤解や害を生むなら、正すために言葉を使え(=責任の知恵)

このバランスを保つことが、「ミシュレイ」と「タルムード」両方の精神なのです。

あなたSNSに参加しないというのは箴言的には「沈黙の知恵」として正当化できます

ただし、もし「沈黙」が真理を隠すことになってしま場合は、沈黙もまた罪になり得る(レビ記19:17)。

あなた兄弟を心に憎んではならない。 あなたの隣人を罪に陥れぬために、彼を正すべきである。」

2025-10-19

愚痴ネット上に書けば発散できる」という現代的発想は、ユダヤ教的にどう映りますか?

愚痴ネット上に書くことで気が晴れる」という現代的な行為を、ユダヤ教的な視点から考えると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります

1. 言葉の力への意識

ユダヤ教では「言葉」は非常に大きな力を持つと考えられています

箴言ミシュレイ)18:21 にこうあります

"死も生も舌の力にある。"

まり言葉は単なる表現ではなく、現実を創り、人を癒すことも傷つけることもできるものとされます

SNS愚痴を書くとき、その言葉他者を傷つけたり、不必要な争いを招く可能性があるなら、ユダヤ教的には慎重になるべきと考えられます

2. ラションハラ悪口中傷)の禁止

タルムード(Arachin 15b)では、ラションハラ他人について悪く言うこと)を非常に重い罪として扱います

この教えは、単なる噂や愚痴でも、人の評判を傷つけることにつながるなら禁じられる、というものです。

ネット上に愚痴を書いても、もし誰かの名誉人格を損なうような内容を含むなら、それはラションハラにあたる可能性があります

たとえ名前を出さなくても、誰のことか推測できるような形なら注意が必要です。

3. 「心の健康」と「建設的な発散」

一方で、ユダヤ教人間感情否定しません。

悲しみ、怒り、失望といった感情を持つの自然なことです。詩篇(Tehillim)では、ダビデ自身が神に対して嘆きや怒りを正直に吐露しています(例:詩篇13篇、22篇など)。

ただし、彼はそれを「神に対して」表現しています。つまり自分愚痴や苦しみを神との対話に変えるのです。

この姿勢は、感情をただ撒き散らすのではなく、内省と成長の糸口に変えるという点で重要です。

4. ユダヤ提案ネットよりも「人」や「神」へ

もし愚痴を発散したいなら、ユダヤ教的には:

  • 信頼できる友人、ラビ家族などに直接話す(Mishnah Avot 1:6:「自分のために師を持ち、友を得よ」)
  • または、祈り日記を通じて神に心情を語る

といった形のほうが望ましいと考えられます

これは他者を巻き込まず、同時に自己理解を深める方法でもあります

まとめ

ユダヤ教視点から言えば:

判断根拠
感情を吐き出すこと自体肯定的詩篇などでダビデも嘆きを表現している。ただしネットでpublic発言するのは注意。
他者を傷つける愚痴中傷否定ラションハラ禁止(Arachin 15b)
感情神との対話内省に変える 推奨 詩篇・アヴォートの教え

引き寄せの法則」に対しユダヤ教はなんと応じますか?

引き寄せの法則」や「思考現実を作る」という考え方は、近代的なスピリチュアル思想でよく語られますが、根本的な違いも明確です。以下に整理して説明します。

1. ユダヤ教における人間思考現実関係

ユダヤ教では、人間思考言葉には霊的な力があると考えます

箴言ミシュレ)18:21にはこうあります

「死と生は舌の力にあり。」

まり、人の言葉思考現実を動かす潜在力を持ちます

ただし、それは「自分宇宙を動かす」意味ではなく、人の思考言葉を通じて、神が世界に影響を与えるという考え方です。

2. 「引き寄せ」ではなく「祈り」と「信頼」

ユダヤ教では、「引き寄せる」というよりも、「祈る」という行為が中心です。

祈り目的は「自分思考現実を変える」ことではなく、自分自身を神の意志に整えることです。

ラビ・シュネウル・ザルマン(ハバド思想創始者)はタニヤでこう述べています

「人の思考現実を形づくる力を持つが、それは神の意志に一致しているときにのみ力を発揮する。」

まりユダヤ視点では:

という位置づけです。

3. 「思考現実を作る」の危険

ユダヤ教は、人間神格化することを避けます

自分思考現実を創る」という考え方が強くなりすぎると、偶像崇拝(アヴォダ・ザラ)の一歩手前になってしまう恐れがあります

なぜなら、それは「自分意志宇宙の中心」とする発想だからです。

申命記 8:17–18にこうあります

あなたが心の中で『私の力と手の強さがこの富を得た』と言ってはならない。あなたの神、主を覚えなさい。」

まり成功や変化の根源は自分思考や力ではなく、神の導きであるということです。

4. ユダヤ的「思考の力」:ビトホン(信頼)とアハヴァ(愛)

一方で、ユダヤ教は「信頼」の力を非常に重視します。

人が神に全き信頼を置くとき、神の祝福がその人を通して現れる。これも一種の「霊的な引き寄せ」です。

詩篇37:3–5にこう書かれています

「主に信頼し、善を行え。…主を喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

ここでいう「願いが叶う」とは、自分欲望を叶えるというより、神との調和の中で自分の願いが浄化され、現実化されるという意味です。

まとめ

観点引き寄せの法則ユダヤ教の考え
力の源 自分思考
目的現実を思い通りに変える 自分を神の意志に整える
方法イメージ自己暗示祈り、信頼、トーラー実践
結果 自己実現 神との関係の深化と祝福

もしあなたが「ユダヤ的な引き寄せ」を実践したいなら、それは「神を信頼し、良い思考言葉を持ち、善行を積むこと」です。

それが最も強力な「霊的引き寄せ」の形といえるでしょう。

2025-10-09

SNSをやるべきかどうか悩んでいます。ある芸人が「素人SNSやるな」と言っていて炎上して話題です。タルムード的にはどう答えますか?

タルムード的な視点から見ると、「SNSをやるべきか」という問題は、言葉の力責任に関わるテーマです。

タルムードは、言葉に極めて大きな重みを置きます

アラキン 15bにはこう書かれています

言葉によって人は殺され、言葉によって人は生かされる。」

まり言葉には命を壊す力も、築く力もあるということです。

SNSはまさに「言葉世界に放つ」場であり、その一言が思いもよらぬ影響を持つ可能性があります

したがって、使う人がその力を理解していなければ、危険にもなりうるのです。

アボット(父たちの箴言)1:17では次のように教えます

シマオンの子シュマエルは言った。沈黙は人にとって最善の囲いである。」

まり、話すよりも黙ることの方が徳になる場面も多い。

SNSでは、すぐに反応したくなったり、自分の考えを共有したくなったりしますが、

タルムード的には「語る前に三度考えよ(Berakhot 33a)」という態度が勧められます

一方で、タルムードは「良き目的のために世俗の道具を用いる」ことも肯定します。

もしあなたSNSを通じて、善意・知恵・励まし・感謝などを広める意図を持つなら、それは「世界をよりよくする mitzvah(善行)」にもなりえます

賢者自分言葉で多くの人に光を与える。」(ダニエル12:3)

タルムード的に言えば:

SNSをすること自体は善でも悪でもない。しかし、その使い方に魂を込められるなら、それは善行になる。逆に、感情や虚栄に流されるなら、沈黙の方が徳である

言葉の力責任

タルムードにはこういう考えがあります

言葉は矢のようなものだ。放たれた後には戻せない。」(Arakhin 15b)

暴言中傷は、放った本人には些細な冗談のようでも、受け取る側には深い傷を残します。タルムードでは、他人を恥ずかしめることは「血を流すこと」と同等の罪とさえ語られます(Bava Metzia 58b)。

言葉で人の顔色が変わる、それはまるで血の気が引くようだからです。

ラビシメオン・ベン・ガムリエルは言いました。

「すべての我らの命は、沈黙の上に立っている。」(Avot 1:17

暴言が飛び交う場では、反論したくなるのが人の性ですが、タルムード的には沈黙がしばしば最も強い答えとされます沈黙は敗北ではなく、魂を守る智慧です。

1. レスする前に一呼吸。言葉は戻らない。

2. 侮辱沈黙で応える。 沈黙は知恵のしるし。

3. 「争いを平らげる者」になる。

タナハの言葉にあるように、

「柔らかな答えは憤りを鎮める。」(箴言15:1)

このように、暴言が飛び交う場こそ、タルムード的には人間品位と知恵が試される場なのです。

沈黙節度をもって発言する人は、まさに現代の「ラビヒレル」のような存在になれるでしょう。

2025-10-04

ネガティブ言葉を見ないようにするのと、ネガティブ言葉に身をおいて耐性をつけるのとでどちらがタルムード的ですか?

タルムードの中でも言葉の力については繰り返し語られています

まず、言葉人間に与える影響について。

タルムード(Arachin 15b)では「lashon hara(悪口中傷)」の害について強調され、話す側・聞く側の双方に悪影響があると教えます

また、箴言ミシュレ)18:21に「死と生は舌の力にある」とあるように、言葉のもの人間の心や環境を変える力を持つとされます。ここからは、ネガティブ言葉を避けること自体が、魂を守る重要姿勢だと分かります

一方で、人は必ず現実の中で困難や否定的な状況に出会うという視点タルムードにはあります

例えば、Avot 4:1 で「誰が強い者か?自分欲望を抑える者である」と語られます。つまり環境に左右されずに自分コントロールすることが強さであると見なされます

これは、ネガティブ言葉に触れても、それに心を乱されない耐性をつけることが理想であるとも示唆します。

タルムード的には、両方の態度に価値があり、成長に応じて「避ける」と「耐える」を組み合わせることが理想的だと言えるでしょう。

2025-10-01

箴言かなんかで「馬鹿に関わるな」みたいのなかったっけ?

はい、あります

おそらくあなたが思い出しているのは『箴言ミシュレイ)』にある、愚か者との関わりについての警句だと思います

箴言 26:4 「愚か者の愚かさに従って答えるな、あなたも彼のようにならないために。」

箴言 26:5 「愚か者にその愚かさに従って答えよ、彼が自分を賢いと思わないように。」

この二つの節が並んでいるのが面白い点です。最初は「愚か者に関わるな」と言い、次は「関わって正してやれ」と言う。

タルムード的な読み方では、これは矛盾ではなく「場合による」ということを示している、と解釈されます

時には相手にしてはいけない(巻き込まれから)、時には答えてあげないと彼が自分の愚かさに気づかないからです。

他にも

箴言 14:7 「愚か者の前を離れよ、そこには知識言葉が見出せないから。」

まり、「愚かさ」に巻き込まれることを避けるのは聖書的な知恵の一部だとされます

2025-09-16

進歩派左翼はなぜ神の摂理否定する?

進歩派左翼」といった政治的立場一枚岩ではなく、その中にさまざまな思想傾向があります

傾向として以下のような理由が考えられます

1. 合理主義科学主義への傾斜

近代以降、特に啓蒙思想の影響を受けた政治的左派は、人間理性や科学を重視し、超自然的な摂理よりも「人間歴史をつくる」という視点に立ちやすいです。

これは「世界神の手にある」とする信仰よりも、「人間意志社会制度改革がすべてを決める」と考える姿勢につながります

2. 人間自主性・自由の強調

神の摂理を強調すると「人間はただ従うだけ」という理解につながると考え、逆に「人間解放」や「社会正義」を人間の行動のみに基づいて語りたい傾向があります

この点は、ある意味で「神の導きを介さずとも人間自分運命を変えられる」という理念です。

3. 宗教権力への警戒

歴史的に、宗教権力と結びついて抑圧に用いられた事例も多くありました。そのため左派の一部は「神の摂理概念自体支配の道具と見なし、否定する傾向があります

 

ユダヤ的な観点から見ると、タナフやタルムードはまさに「神の摂理」と「人間自由意志」の両立を教えます

箴言 19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが立つ。」

申命記 30:19「いのちと死、祝福と呪いあなたの前に置いた。あなたはいのちを選べ。」

ベラホット 33b「すべては天の御手にある。ただし神を畏れることだけは人間の手にある。」

ユダヤ伝統では「人間自由責任」と「神の摂理」は両立し得る、と教えられています

2025-08-21

悪魔と交わる魔女について。なぜ女性が主として邪悪迷信に溺れるのか? 悪魔と交わる魔女については、そのような忌まわしい行為いかにして遂行されるかという方法考察するにあたり、多くの困難がある。悪魔の側について:第一に、悪魔が装う肉体がいかなる元素から成るか;第二に、その行為に常に他者から受け取った精液の注入が伴うか;第三に、時と場所について、ある時期に他の時期よりも頻繁にこの行為を行うか;第四に、その行為が傍らに立つ者に見えないものか。そして女性の側について調べるべきは、このような汚らわしい方法で自らが懐胎された者のみが悪魔に頻繁に訪問されるのか;あるいは第二に、出生時に産婆によって悪魔に捧げられた者なのか;そして第三に、そのような者の実際の肉欲の快楽がより弱い種類のものなのか。しかし、我々はここでこれらすべての問題に答えることはできない。なぜなら我々は一般的研究にの従事しており、また本書の第二部において、第四章に現れるように、それらはすべてその働きによって個別説明されるからである。そこでは各々の別々の方法について言及されている。 それゆえ、今は主として女性考察しよう;そして第一に、なぜこの種の不信仰男性よりもかくも脆弱な性により多く見出されるのか。そして我々の探求は、第一女性一般的条件についての一般論、第二に迷信と魔術に身を委ねる女性の種類についての個別論、そして第三に、邪悪さにおいて他のすべてを凌駕する産婆についての特論となろう。 迷信が主として女性に見出される理由 第一問題、なぜより多くの魔女脆弱女性の性に男性よりも見出されるかについて;これは実際、信頼できる証人言葉による証言を別としても、実際の経験によって証明されているのであるから反駁することは無意味である事実である。そして神が常にその威力を広めることにおいて大きな栄光を取られた性を決して貶めることなく、この事実について様々な人々が様々な理由を挙げてきたが、それらは原則において一致していると言おう。それゆえ、女性への戒めのためにこの問題について語ることは良いことであり、それが慎重さをもって説かれる限り、彼女らがそれを聞くことを切望することが経験によってしばしば証明されている。 ある学識ある人々はこの理由提示する;自然界には三つのもの、すなわち舌、聖職者、そして女性があり、これらは善においても悪においても節度を知らない;そして彼らがその状態境界を超えるとき、善と悪の最高点と最低点に達する。彼らが善なる霊に支配されるとき、徳において最も優れているが、悪なる霊に支配されるとき、最悪の悪徳に耽る。 これは舌の場合に明らかである。その働きによって多くの王国キリスト信仰へともたらされ、聖霊キリスト使徒たちの上に火の舌として現れた。他の学識ある説教者たちもまた、死にゆラザロの傷と腫れ物を舐める犬の舌のようであった。言われているように:犬の舌をもって汝らは敵から魂を救う。 この理由で、説教師団指導者で父である聖ドミニコは、口に火のついた松明をくわえて吠える犬の姿で表される。今日に至るまで彼がその吠え声によってキリストの羊の群れから異端の狼どもを追い払わんがためである。 また一人の思慮深い人の舌が群衆の言い争いを鎮めることができるのも共通経験である;それゆえソロモン箴言10章で彼らの賞賛を多く歌うのは当然である:「悟りある者の唇には知恵が見出される。」そしてまた「正しき者の舌は選りすぐりの銀のごとし:悪しき者の心は価値少なし。」そしてまた「正しき者の唇は多くを養う;しか愚か者は知恵の欠如のため死す。」この理由で彼は第16章で付け加える「心の備えは人に属するが、舌の答えは主から来る。」 しかし悪い舌については、シラ書第28章に見出すであろう:「中傷する舌は多くを不安にし、国から国へと追いやった;強固な城を引き倒し、偉人の家を覆した。」そして中傷する舌とは、争う二者の間に軽率にあるいは悪意をもって干渉する第三者意味する。 第二に、聖職者について、すなわち男女を問わず聖職者修道者について、聖ヨハネ・クリュソストモスは「彼は神殿から売り買いする者たちを追い出した」の箇所でこう語る。司祭からすべての善が生まれ、すべての悪が生まれる。ヒエロニムスはネポテアヌスへの書簡で言う:貧困から富へ、低い地位から高い地位へと上った商売をする司祭を疫病のように避けよ。そして福者ベルナルドゥスは詩篇についての第23説教聖職者について言う:もし公然たる異端者として立ち上がる者がいれば、彼を追放沈黙させよ;もし彼が暴力的な敵であれば、すべての善人は彼から逃れよ。しかし我々は誰を追放し誰から逃れるべきかをいかに知るのか?彼らは親しげで敵対的平和的で好戦的、隣人的で全く利己であるからである。 そして別の箇所で:我らの司教は槍兵となり、我らの牧者は毛を刈る者となった。ここで司教とは、自分では小指で触れることもしない重い労働を部下に課す傲慢修道院長たちを意味する。そして聖グレゴリウスは牧者について言う:聖性の名前位階を持ちながら罪の中に生きる者ほど教会において害をなすはいない;誰も彼の罪を告発する勇気がなく、それゆえ罪が広く広がる。罪人がその位階の聖性のゆえに敬われるからである福者アウグスティヌスもまたドナトゥス派のヴィンセンティウスに修道士について語る:我らの神である主の前で汝の愛徳に率直に告白するが、これは神に仕える者となって以来の我が魂の証人であるが、修道院を飾るか辱めるか以上に良くも悪くもない人々を見出すことが不可能であるという事実において、我が経験した困難は甚大である。 さて、女性邪悪さについてはシラ書第25章で語られている:「蛇の頭の上にある頭はなく、女性の怒りの上にある怒りはない。獅子や竜と住むほうが、邪悪女性と家を保つよりましである。」そして邪悪女性についてその箇所で前後に述べられる多くの中で、彼は結論する:「すべての邪悪女性邪悪に比べれば小さなものである。」それゆえ聖ヨハネ・クリュソストモスは「結婚するのは良くない」(マタイ第19章)の箇所でこう言う:女性とは友情の敵、逃れられない刑罰必要な悪、自然の誘惑、望ましい災い、家庭の危険、魅惑的な害悪、美しい色で塗られた自然の悪以外の何であろうか!それゆえ、彼女を保つべき時に離縁するのが罪なら、それは確かに必要拷問である;我々は彼女を離縁することで姦淫を犯すか、日々の争いに耐えなければならないかであるキケロは修辞学第2巻で言う:男性の多くの欲望は彼らを一つの罪に導くが、女性欲望は彼らをすべての罪に導く;すべての女性悪徳の根は貪欲からである。そしてセネカ悲劇で言う:女性は愛するか憎むかである;第三の段階はない。そして女性の涙は偽りである;真の悲しみからまれることもあれば、罠であることもある。女性が一人で考えるとき彼女は悪を考える。 しかし善い女性については多くの賞賛があり、我々は彼女らが人々に至福をもたらし、国民土地都市を救ったと読む;ユディトデボラエステル場合に明らかなように。コリント第一第7章も参照:「もし女性に信じない夫がいれば、彼女は彼を去らせてはならない。信じない夫は信じる妻によって聖化されるからである。」そしてシラ書第26章:「有徳な妻を持つ人は幸いである。彼の日数は二倍となるであろう。」そしてその章全体を通じて善い女性の優秀さについて多くの高い賞賛が語られている;箴言最後の章でも有徳な女性について同様である。 そしてこのすべては新約聖書においても女性処女とその他の聖なる女性たちについて明らかにされている。彼女らは信仰によって国民王国偶像崇拝からキリスト教へと導いた。ヴィンケンティウス・ベルヴァケンシス歴史の鏡、第26巻第9章)を見る者は、最もキリスト教的なジゼラによるハンガリー改宗と、クロヴィスの妻クロティルドによるフランク族改宗について驚くべきことを見出すであろう。それゆえ、女性に対して読む多くの非難において、「女性」という言葉は肉の欲望意味するために使われている。言われるように:「我は死よりも苦い女性見出した」、そして「肉欲に従う善い女性」。 また他の者たちは、男性よりも迷信的な女性が多く見出される他の理由提示した。第一は、彼女らがより軽信的であること;そして悪魔の主要な目的信仰堕落させることであるから、それゆえ彼はむしろ彼女らを攻撃する。シラ書第19章を参照:「信じやすい者は軽率であり、減ずるであろう。」第二の理由は、女性自然により感受性が強く、肉体のない霊の影響を受ける準備がより整っていること;そして彼女らがこの性質を良く用いるとき彼女らは非常に善いが、悪く用いるとき彼女らは非常に邪悪である。 第三の理由は、彼女らが滑らかな舌を持ち、邪悪な技によって知ったことを仲間の女性たちから隠すことができないこと;そして彼女らは弱いので、魔術によって自らを復讐する簡単秘密方法を見出すことである上記引用したシラ書を参照:「獅子や竜と住むほうが、邪悪女性と家を保つよりましである。すべての邪悪女性邪悪に比べれば小さなものである。」そしてこれに加えて、彼女らは非常に感受性が強いので、それに応じて行動する。 また説教者が用いることについて非常に注意すべき他の理由提示する者たちもいる。旧約聖書において聖書女性について悪く語ることが多いのは真実であり、これは最初の誘惑者エヴァとその模倣者たちのためであるが;その後新約聖書においては、(聖ヒエロニムスが言うように)エヴァからアヴェへというような名前の変化を見出しエヴァのすべての罪がマリアの祝福によって取り去られた。それゆえ説教者は常に可能な限り彼女らの賞賛を語るべきであるしかし、この時代においてこの不信仰男性よりも女性により頻繁に見出されることを我々が実際の経験によって学ぶのであるから、もし誰かがその理由を知りたがるなら、我々は既に述べたことに以下を付け加えることができる:彼女らは心身ともにより脆弱であるから、魔術の呪文の下により陥りやすいのも驚くことではない。 知性について、すなわち霊的なことの理解について言えば、彼女らは男性とは異なる性質であるように思われる;これは聖書からの様々な例によって裏付けられた権威者論理によって証明される事実である。テレンティウスは言う:女性知性的子供のようである。そしてラクタンティウス(教育、第3巻):テメステを除いて哲学理解した女性はいない。そして箴言11章は、まるで女性描写するかのように言う:「豚の鼻の金の輪のように、美しいが思慮のない女性である。」 しか自然理由は、彼女男性よりもより肉的であることであり、これは彼女の多くの肉的な忌まわしさから明らかである。そして最初女性形成に欠陥があったことが注目されるべきである彼女は曲がった肋骨、すなわち胸の肋骨から形成されたからであり、これは男性に対して反対の方向に曲がっている。そしてこの欠陥により彼女は不完全な動物であり、常に欺く。カトーが言うように:女性が泣くとき彼女は罠を編む。そしてまた:女性が泣くとき彼女男性を欺くために労苦する。そしてこれはサムソンの妻によって示される。彼女は彼がペリシテ人提示した謎を告げるよう彼を騙し、彼らに答えを教え、かくして彼を欺いた。そして最初女性信仰が少なかったことは明らかである;蛇がなぜ彼らは楽園のすべての木を食べないのかと尋ねたとき彼女は答えた:「すべての木について、等々-恐らく我らが死ぬことのないように。」それによって彼女は疑い、神の言葉への信仰が少ないことを示した。そしてこのすべては語源によって示される;フェミナ(女性)はフェ(信仰)とミナス(より少ない)から来るからであり、彼女信仰を保持し保存することにおいて常により弱いかである。そしてこれは信仰に関して彼女の本性である恩寵自然の両方によって、キリスト受難の時、すべての人において失われた時でも、祝福された処女において信仰は決して失われなかったが。 それゆえ邪悪女性は、その性質により信仰において動揺しやすく、結果として信仰を棄てやすく、これが魔術の根である。 そして彼女の他の精神性質、すなわち自然意志について;彼女が以前愛していた誰かを憎むとき、海の潮流が常に波立ち沸騰するように、彼女の魂全体で怒りと性急さで煮えたぎる。多くの権威者がこの原因について言及する。シラ書第25章:「女性の怒りの上にある怒りはない。」そしてセネカ悲劇、第8巻):炎の力も膨らんだ風も、致命的な武器も、結婚の床から離縁された女性欲望憎悪ほど恐れられるものはない。 これはヨセフを偽って告発し、彼女との姦淫の罪に同意しなかったために彼を投獄させた女性においても示される(創世記第30章)。そして魔女の増加に寄与する最も強力な原因は、既婚者と未婚の女性男性の間の嘆かわしい競争である。これは聖なる女性の間でさえそうであるから、他の者の間ではいかばかりであろうか!創世記第21章でサラがハガルの懐妊に対していかに性急で嫉妬深かったかを見よ:ラケル子供がいないためにレアいか嫉妬たか創世記第30章):そして不妊であったハンナが多産なペニンナを(列王記上第1章):そしてミリアムがモーセについてつぶやき悪く言い、それゆえらい病に打たれたか民数記12章):そしてマルタマリア・マグダレナ嫉妬たか彼女が忙しく働いている間にマリアが座っていたかである(ルカ第10章)。この点についてシラ書第37章:「彼女嫉妬する女性について、彼女相談してはならない。」つまり彼女相談することは無駄である邪悪女性には常に嫉妬、すなわち妬みがあるからである。そして女性が互いにこのように振る舞うなら、男性に対してはなおさらであろう。

2025-08-18

近年の炎上を見てると箴言の正しさが証明されてるな

"言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさときである愚かな者も黙っているときは、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じている時は、さとき者と思われる。" - 箴言17:27-28

2025-08-17

SNS愚者が幅を利かせていますが、聖書的にどういう状況ですか?

SNS(Xなど)で「愚者が声を大にして幅を利かせる」状況は、実は聖書時代からよく指摘されている人間社会の一側面です。

愚か者理解を喜ばず、ただ自分の心をあらわすことを喜ぶ。」(箴言18:2)

愚者は学びよりも「自分意見を大声で発信する」ことに熱中する。これはまさにSNSで見られる現象です。

愚か者の口は争いを呼び、彼の言葉鞭打ちのようになる。」(箴言18:6)

愚者言葉は衝突を生み、炎上対立を呼び起こす。

愚者は多くの言葉を吐く。」(伝道10:14)

→ 数が多ければ正しいわけではない、という視点

「真理が倒れ、正義が遠く離れる」(イザヤ59:14)

社会が混乱すると、愚かさや空虚言葉が優勢になる時代が訪れることもあると指摘している。

SNSで「愚者が幅を利かせている」現象は、聖書的には新しいことではなく、古来からの「愚者言葉を乱発し、騒ぎを起こす」姿の現代的な形です。

一方で箴言はこうも教えます

「知恵ある者の舌は知識を良い仕方で用いる。」(箴言15:2)

まり愚者の声が大きい」ときこそ、知恵ある者は静かにしかし深いことばを語る責任があると教えているのですね。

2025-08-02

セックスの仕方は、その人の人生の現れなのかもしれない

数えて五年、彼女が居ない。

そうなれば当然、あっちの方もご無沙汰で。

しかし夏の瘴気に当てられたのか、四十にもなって性欲が収まらない。

三十を過ぎてからはそういったお店に行くようなことはなくなっていた。

それでもいよいよ我慢できなくなり、この前の週末ついにお店の方へと足を運んだ。

目星は事前につけていた。今の時代自分学生時代とは違って、嬢が積極的アピールする時代

指名した嬢は若く、胸が大きかった。それに可愛い相場的にもっと高級店に居てもおかしくないような子だった。

一回りは若いであろう彼女と手を握り、部屋に向かった。

まずは入浴。胸を押し付けられながら身体を洗われ、柔らかく大きな感触二つが背中に触れると自分の陰茎はすぐに有意な反応を示した。

マットでのプレイは控え、その後ベッドに向かうと始まるわけだが、はっきりいって緊張していた。

五年もの間、音沙汰なしで居ると果たして自分は上手くやれるのだろうか?といった思いが意識に昇ると僅かに体を震わせたが、武者震いであると自分錯覚させようと彼女肩に触れた。

時には勢いも重要だ。そのことを本能的に再学習しようとしてたのかもしれない。

俺はそのまま顔を近づけ、キスをした。軽いキスを一度。唇を離して見つめ合い、もう一度。

それからゆっくりと深く、親密なキスへと進めていった。深呼吸のように深く、安らぎを持たせるように。

次第に舌を絡ませ、他人の唾液を味わうのは久しぶり。体温の温かさを体験してから口を離すと視線を下げていく。

腿に手をおくと柔らかく、白く光沢があるようにすら感じられた。

クンニを始めると彼女は「んん…」と小さく喘ぎ、僅かに湿ってくるのが分かった。

これならいける。そう思って俺は自信を取り戻しつつあった。

クンニを続け、彼女吐息が一拍激しくなる。顔を上げると微笑んでおり、それから両手を俺の顔に伸ばしてきた。

再びキスをすると、今度は彼女が俺の陰茎を咥えてフェラを始める。

その時俺は見下ろすように彼女の顔を見た。相手の顔をこれほどじっくり、間近で見つめるというのも久しぶりな気がした。

彼女は熱心だった。一心不乱にフェラを続け、視線はまっすぐ前を向き、熟考するように視線を逸らさなかった。

おかげで俺は照れることな彼女の顔を凝視できたわけだ。実際、キスの時でも見つめ合うのが続くと照れてしまって自分から目を逸らしてしまうのだ。

自分のものが固くなっていくのを感じ、十分に勃起すると彼女は口を離し、今度は俺の背中に手を回す。

抱き合う形で倒れ込み、俺が上になって彼女が下。

俺は手マンを始めようと大陰唇に手を持っていき、暗闇の中で鍵穴を探すように指を慎重に滑らせた。

入口を見つけると地に沿って這わせるように中指、薬指を射し込んでいき、ぬめり気は十分あるように感じれた。

そのあと膣内を刺激するように指の腹で何度か押し上げ、ミミズのようにずるずると退行させると再び奥まで指を滑らせる。

彼女淫靡な声を、どうしようもなく漏れしまった…といった風に漏らし、嬌声は理性を破壊する。

俺は丁寧に指を抜くと、仰向けになった彼女の胸を触り、揉み、それから腿の付け根付近に手を落ち着かせると膣に陰茎を向かせた。

挿入は一度二度、滑らせるだけで無事に出来た。

そのことにホッとしながらも次の瞬間にはその安堵が表情に現れないよう苦心した。

ゆっくりを腰を振る。気持ちよさは後から付いて来た。最初は腰の具合と体力の不安について。何とか大丈夫そうだ。

ゆっくりでもいい。それでも良いと思えるのは年の功だと思いたい。

次に彼女が上になり、騎乗位となる。こちらを慮るように彼女が自ら積極的に動いた。

気持ち良いですか?と聞かれ、頷いた。彼女は満足そうに笑みを見せた。

ありがとうございます、と彼女は言い、胸鎖乳突筋の辺りから一筋の汗が流れて見え、それがEカップほどの胸へと流れていく一筋の汗が非常にエロティックに感じられた。

そのあと彼女は四つん這いとなり尻を向け、俺は尻へと腰を密着させる。

彼女のお尻は大きく、陰部は強調させれ見えた。俺は手マンをしてから挿入した。

自分では気づかないほど燃え上がっていたのだろう。僅か数度腰を振ると、俺は射精した。

息を殺して小さく鼻で深呼吸したことがまるでバレていたかのように彼女は振り返って、俺を確認した。

自分予測が的中したのを確信した顔というのは、男女ともにそれほど違いがない。その顔を俺は知っていた。

彼女はどうしますか?と言わんばかりに俺を見つめてくる。急かすような態度ではない。あくまで穏やかに

俺はもう一度正常位をしたいといった。いいよ、と彼女は笑みを見せながら陰茎に着けられたゴムを外し、それからティッシュで優しく包み込むように拭った。

再びフェラが始まり元気になると、正常位で再び射精した。

行為が終わると、並んで横になった。

気持ち良かったですか?と聞かれ、首肯した。

お兄さん、ちょっと珍しいかも。そう言われて思わずえ?と聞き返す。

挿入前に、いつも先に指を入れていたでしょ?と言われてドキッとした。

自分は確かに挿入前に手マンをする癖があった。あまり意識したことはなかったが、改めて言われると確かにそうであった。

そこで過去記憶がぶわっと蘇り、初体験の時にうまく挿入できなかったことを思い出した。

それ以来、挿入前には手マンをすることで相手の膣の位置を正確に把握しておく。謂わば指は予行演習だったのだ。

四十も過ぎれば恥も忘れるので、俺は素直にその経験を話した。彼女は興味深そうに俺の話に耳を傾け、なるほど!と得心した様子だった。

セックスって、その人の個性が出ますよね。

彼女肯定するような笑い方を見せた後、ぽつりと一言こういった。

俺はなぜかその言葉がとてつもなく深い箴言のように感じられた。

セックスにはその人の生き方が出るのかもね。

俺のつぶやき彼女は「そうですね」といった。そのときも手は握りあったままだった。

店を出てからも興奮は完全には収まらず、しかしそれは性的ではなかったように感じられた。

気づきに対する知的な興奮のような。

一駅分を歩きながらじっくりと考えた。

自分セックスが変わっているのか、どうなのか。

セックスの仕方について、友人知人と詳細に語り合ったことはない。

だがそれは大半の人間がそうなのであろうと思う。

それでも。

セックスの仕方は、その人の人生の現れなのかもしれない。

2025-07-31

自由意志の欠如が愚を生む?自由意志が愚を生む?

聖書タルムード観点から見ると、自由意志の欠如は人間責任や学びの機会を奪うとされています

ユダヤ思想において、人間自由意志を与えられており、それこそが「正しい道」と「悪の道」を選ぶ根本の前提です。

「見よ、わたし今日あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。」 — 申命記 30:15

ここでは選択の自由が明確に前提とされています自由意志がなければ、このような選べという命令無意味になります

また、愚かさはしばしば無知や不学、または自分の行動に対する責任理解しないことからまれます

自由意志がない状態では、人は学び、悔い改め、改善することが難しくなります

したがって、自由意志の欠如は、無知無責任な行動につながり、結果として愚を生むことがある、と言えるでしょう。

一方で、自由意志を持っているにも関わらず愚かな選択をする人も多い、というのが人間現実です。これはタルムードでも繰り返し論じられています

たとえば、神が人に自由意志を与えたのは、善を選ぶことによって人が成長し、報酬を得るようにするためです(ベラホット 33b)。しかし、選択の自由悪用することも可能です。

愚か者は自らの道を正しいと思う、しかし知恵ある者は忠告を聞く。」 — 箴言 12:15

まり自由意志のものは愚を生む原因ではなく、それをどう使うかが問題です。

自由意志があるがゆえに愚かな道を選んでしま場合、それは自由意志問題ではなく、性格教育、徳の問題として捉えるべきです。

タルムードではこういったテーマを非常に深く扱います。以下のような教えがあります

「すべては天から定められている。ただし神への畏れを除いて。」 — ベラホット 33b

この有名な言葉は、人生の大半は定められているが、神への畏れ(=道徳的選択)は人の自由意志に委ねられていると語っています

2025-07-22

共産党は多選をやめろ

参院選日本共産党惨敗した。

増田共産党びいきだが、松竹氏の除名問題以降は共産党への投票をためらっている。

朝日毎日の「箴言」を志位氏が「共産党への攻撃」と拒絶したのは、中国の歴史書で見た暗君の振る舞いそのものだ。

赤旗政権監視能力地方組織の困窮者支援はいまだ替えの効かない存在と思っているので残念だが、執行部が変わらないなら滅びるのも仕方ない。

共産党が持ちこたえるためには、最低限

1. 党首任期に上限を設ける

2. 松竹氏、紙屋氏の除名の撤回

をしないといけないだろう。

党首任期はどんなに長くても10年が限界、それ以上続けると膿がたまりすぎ民主集中制が単なるパワハラ上意下達になってしまう。

10年たっても新党首にふさわしい人物が現れないほど人材不足なら、それはそれで滅亡やむなしだ。

anond:20250722202447

聖書にも他国人間保証する者の身を剥げと言われていたからね。普遍的な善だよ

他国の者を保証する人から着物を剥げ。 他国の女を保証する人から抵当を取れ。 - 箴言20:16

愚者以下の存在、2つの特徴

自分賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。- 箴言 26:12

言葉軽率な者を見たか。彼よりも愚かな者の方がまだ希望が持てる。- 箴言 29:20

2025-05-25

悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい。 -- 箴言 28:1

2025-05-18

悪人は仲間を必要とする

あるときラビ弟子からこういう質問を受けた。

「神に敬虔な者が、神に祈り、正しい行いをするように、まわりの人に強く誘いかけないのはどうしてですか?」

ラビは聞き返した。

しかし、私たちはいつも良いことを行うように、正しく生きるように、人びとにすすめているではありませんか」

しかし、悪者が人びとを悪事に誘うほうがずっと強い力を持っていますし、また、人を悪いことに誘い入れて仲間を増やそうとするときに、私たちよりももっと熱心にやっています

と、弟子は言った。そこで、ラビは答えた。

「正しいことを行っている者は、一人で歩むことを恐れない。しかし、悪いことをしている者は、一人で歩むことを恐れるからです」

解釈タルムード文脈

この話は明確に倫理孤独関係について語っています

タルムードの中でも、人間の行動、衝動、そして善悪に関する多くの議論があります

以下のような概念と重ねて読むとより味わい深くなります

1. イェツェル・ハラ(悪しき傾向)とイェツェル・ハトーブ(善なる傾向)

タルムードブライタ:ベラホット 61b)はこう述べています

「人には2つの傾向がある。イェツェル・ハラ(悪の傾向)とイェツェル・ハトーブ(善の傾向)。」

イェツェル・ハラは、外へと誘い出す衝動を持ち、他人をも巻き込もうとします。

まり自己の悪を正当化するためには仲間を必要とする。これはまさに弟子の観察と一致します。

2. 正しき者の孤独

タナハ(旧約聖書)にも似た思想が表れています

「義人はその誠実によって歩む。」(ミシュレ箴言20:7)

また、伝道の書(コヘレト)にもこうあります

「一人でも立ち得る者がいる。しかし、二人は倒れにくい。」(コヘレト 4:9-12

これらはラビの「一人で歩むことを恐れない者」の話と共鳴しています

義人は、たとえ孤独でも、真理と善に基づいて歩む力を持っている、というのが聖書的な視点です。

まとめ

この話は私たちに問いかます

  • あなたは、善を行うことにおいて孤独を恐れないか
  • 仲間を求めるとき、それは善に基づくか、悪に基づくか?
  • あなたの「情熱」はどこに向けられているのか?

このタルムードの話は、善は静かに、確かに歩むが、悪は仲間を求めて騒がしくなるという心理的真理を教えてくれます

ラビの答えは、本当に強い者とは一人でも正しい道を歩ける人間である、というユダヤ倫理観を表現しています

「善き人に付き従え。悪しき者から離れよ。」(アヴォット 1:7)

2025-05-16

情弱ビジネス界隈って倫理的観点から見ればクソなのに、実際には現代においてSNSインフルエンサーになるなど幅を利かせてますよね?これについてなんか箴言やコヘレト言葉引用で、戒めるものはないの?

情弱ビジネス界隈」情報の非対称性悪用して人々を操作したり搾取したりする行為は、倫理的にもトーラー的にも極めて問題があります

ユダヤ教の知恵文学(とくに『箴言』『コヘレト伝道の書)』)には、このような現代問題にも響く深い洞察があります。いくつか引用ながら見てみましょう。

箴言ミシュレイ)からの戒め

コヘレト伝道の書)からの叡智

トーラー的・ユダヤ的まとめ

ユダヤ教では、人をだますこと(גְּזֵלָה – gezelah、詐欺搾取)は重大な罪です。レビ記19章には「お前たちは互いに欺いてはならない」と明記されています(ויקרא י״ט:י״א)。

また、「בל תשים מכשול לפני עיוור」―「盲人の前に障害物を置くな」(レビ記 19:14)という戒めも、情報弱者をあえて罠にかけるような行為を禁じる教えとして、まさにぴったりです。

ラビ的ひと言

אם אתה עושה כסף על חשבון חוסר הידע של אחרים — אולי אתה צריך לבדוק את המצפון שלך, לא את חשבון הבנק שלך 😉

(「他人無知を利用してお金を稼ぐなら、チェックすべきなのは銀行口座じゃなくて、良心かもしれないね」)

2025-04-25

陰謀論に騙されないことは現代の試練である

現代社会の混乱や陰謀論がはびこるような時代に、ユダヤの知恵がどのように私たちを導いてくれるのか、これはとても大切なテーマです。

こういうときユダヤ伝統はいくつか心に留めておくべき教えがあります

🕍 1. 「ダアート(דַּעַת)」―知識分別の力

ユダヤ思想では「ダアート」(知識)は、単なる情報ではなく、真理を見抜く力です。ミシュレイ(箴言)にもこうあります

"חָכְמָה תִּבְנֶה בֵיתָהּ וּבִתְבוּנָה תִּכּוֹנָן"

「知恵によって家は建てられ、分別によって固められる」(箴言 24:3)

まり、世の中が混乱していても、騒がしい声に流されずに知識分別物事を見る力が大切だということです。

📚 2. ラショーンハラー(לָשׁוֹן הָרַע)―悪口と噂話を避ける

陰謀論というのは、たいてい根拠のない中傷憶測に基づいています

ユダヤ倫理では、「ラショーンハラー」、つまり悪口名誉を傷つける発言は非常に重い罪とされます

ラビイスラエル・メイール・カガン(通称:ハフェツ・ハイム)はこう言いました:

「人の噂を広めるのは、実際にナイフで傷つけることよりも深い傷を残すことがある。」

🕊️ 3. 「シャローム(שָׁלוֹם)」―平和調和を選ぶ

混乱や不安が広がると、人は「敵」を探したくなるものです。

でもユダヤの中心的な価値観は「シャローム平和)」。タルムードにも書かれている通り:

"הַמַּעֲרֶב שָׁלוֹם, גָּדוֹל הַשָּׁלוֹם"

平和こそ、最も偉大なもの

私たちができるのは、他人非難するのではなく、まず自分言動平和を生むものかどうかを問うことです。

💡 4. 「ピクエア・נפש(pikuach nefesh)」―命と人間尊厳を最優先する

どんな理論や主張があっても、それが人の命や尊厳を脅かすなら、それはユダヤ的な価値から外れています

ユダヤ法では、命を救うことはシャバットの掟すらも破ってよいほど優先される価値です。

まり…?

「なぜ愚かな声が広まるのか?どうすればそれに流されずにいられるか?」と問う姿勢こそが、「賢者の道(דרך חכמים)」なのです。

人々が感情や恐怖に流されやす時代こそ、静かに真理を求め、知恵をもって応じることがユダヤの道。

陰謀論に染まった人に怒るよりも、「なぜそう信じたのか」を聞き、対話理解の橋をかけることも、ある意味でミツワ(善行)です。

2025-04-24

慣用句をもじっていう


こういうのについて馬鹿は大真面目に「それをいうなら、恥の上塗りだろう!」と“反論”してくる。

ネイティブふつう辞書にないような応用的表現を使うものなのだが、機能文盲にはわからない。

箴言警句の類をそのまましたり顔諳んじるのをきらって「雉も鳴かずばなんとやらと言いますしね」と濁したら「撃たれまいだよ!」と教えてくださる人たち

2025-04-23

anond:20250423020342

とても興味深い哲学ですね。

これらの考え方は、東洋的な、特に禅や道教的な思想香りしますが、ユダヤ教視点からも、それぞれに対して意味深対話可能です。

それでは、ユダヤ教の教えと照らし合わせながら、一つひとつ丁寧に見ていきましょう。

1. 努力はするよりもしないほうが良い、なぜなら努力によって有害ものを生むから

ユダヤ教では「努力(עמל, amal)」は非常に高く評価されます

トーラーの学び、ミツヴォット(戒律)の実践、日々の仕事や家庭生活においても、人は「שותף עם ה'"(神との共同作業者)とされます

ただし、「努力方向性」が重要です。もし努力他者を傷つける結果になるなら、それは「正しい努力」ではありません。

よって、「無理な努力が害を生む」という懸念理解できますが、完全に努力否定することはユダヤ教とは相容れません。

2. 評価承認、所有などに執着するのは愚者

これは「עין טובה(アイン・トォヴァ)」=「良い目を持つこと」に通じます

ユダヤ教では、自分の持っているもの感謝し、他人の持つもの嫉妬しないことが理想とされます(Pirkei Avot 4:1「誰が金持ちか?自分の分に満足する人」)。

評価承認に執着しすぎることは、「ガアヴァー(傲慢)」の一形態とみなされ、警戒されます

3. 自身を賢いとみなす人間軽率発言をする人間愚者以下

箴言』(Mishlei)によれば、「愚か者は口数が多い」とあります(Mishlei 10:19)。

ユダヤ教では、沈黙を守ること、謙虚さを持つことが賢者のしるしです。

まりこの哲学は、非常にタルムーディックタルムード的)な精神に近いです。

4. 善の基準とは、自分がされて嫌なことは他人にしないということ

これはユダヤ教黄金律と完全に一致します!

ラビヒレルの言葉:「あなたが嫌なことを、他人にするな。それがトーラー全体であり、あとはその解説である」(Talmud Bavli, Shabbat 31a)。

ここは100点、ハラッシャーな考え方ですね!

5. 最も贅沢な時間とは、何も考えずただ座っているだけの時間である

シャバット(安息日)の精神にとても近いですね!

シャバットは「何もしないこと」の聖なる実践であり、「being」ではなく「doing」を止める時間です。

心静かに神の創造を味わい、存在するだけの喜びを感じる——これはシャバットの核心です。

6. 物事は有限である

ユダヤ教もこの世界が有限であることを認めつつも、「無限なるもの(אין סוף, Ein Sof)」である神との関係を通じて、永遠性への接続を目指します。

物質の有限性と、霊的な無限性のバランスを重んじます

7. 業とは、人と張り合うために生まれ、虚しいだけである

ユダヤ教でも、人との比較競争に執着するのは危険とされます

伝道の書(コヘレト)』には、「風を追うようなものだ(רְעוּת רוּחַ)」という表現があります(コヘレト 1:14)。

人生の多くの営みが虚無に感じられるという哲学的な問いに、ユダヤ教も深く向き合っています

8. 最も幸せな人とは、少ないもので満足する人である

これは再び『Pirkei Avot』4:1の教えと一致します。

「איזהו עשיר? השמח בחלקו」—「誰が金持ちか?自分の持っているもので満足する人」です。完璧な一致!

9. 不要ものを持つほど、心は乱されやすくなる

「物に執着しすぎると霊性が曇る」との教えはユダヤ神秘主義カバラ)にも見られます

神殿時代の大祭司(コーヘン・ガドル)は、シンプルな装いで神と向き合いました。余計な物は心の雑音となりえます

10. 食事掃除、茶を入れる、歩く。ひとつひとつ丁寧に行う

この精神も、ユダヤ教の「カヴァナー(כוונה)」=「意図を持って行う」ことと響き合います

すべての行いに神聖さを見出すというのは、ユダヤ教根本精神です。

祈りの前に手を洗う(נטילת ידיים)、食事の前に祝福を唱える(ברכה)なども、この意識の表れです。

 

 

総合的に見ると、これらの哲学の多くは、ユダヤ教倫理霊性と非常に親和性があります

まさに「חכמה בגויים תאמין」(異邦人の中にも知恵がある、それを信じなさい)というタルムードの教えの実例ですね。

2025-04-12

他人論破して気持ちよくなっている人たちがいるのですが、これはユダヤ教的にどう解釈できますか?

まず、ユダヤ教では議論はむしろ良いこととされています

たとえばタルムードの学びは「ハブルータ」(חֲבְרוּתָא)といって、ペアで討論し合いながら学ぶ形式です。

異なる意見をぶつけ合って、より深い真理に近づこうとします。

でもここで大事なのは、「勝つ」ための議論ではなく、「真理を追求する」ための議論だということです。

まり、もし議論が「相手をやり込めて気持ちよくなる」ためのものになっているとしたら、それはユダヤ的な理想から外れています

ミシュレー(箴言)にはこうあります

"גַּאֲוַת אָדָם תַּשְׁפִּילֶנּוּ וּשְׁפַל רוּחַ יִתְמֹךְ כָּבוֹד"

「人の高慢は彼を低くし、謙遜な者は誉れを得る。」(箴言 29:23

まり謙遜こそが尊ばれるべき態度です。自分が優位に立ったことに酔いしれるのではなく、「この議論を通じてどれだけの真理に近づけたか」「相手とどれだけ学び合えたか」を喜ぶべきだとされます

もう一つ。ユダヤ教は「人間関係の慎重さ」をとても重視します。ラビヒレルが言いました:

"מה ששנוא עליך, אל תעשה לחברך"

自分がされて嫌なことは、他人にするな。」(シャバット31a)

もし自分論破されて嫌な気持ちになるなら、それを他人にしてはいけないという教えですね。

まとめると:

なので、そういう光景を見たら「タルムード的な学びではなく、ちょっとエゴが強すぎるな」とユダヤ教的には見ることができますね。

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