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はてなキーワード: 戯曲とは

2026-04-23

お伽草紙

太宰治


「あ、鳴つた。」

 と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾かぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。

「近いやうだね。」

「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」

「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」

「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」

「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます

 母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。

 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである物語創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ

 ムカシ ムカシノオ話ヨ

 などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである

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瘤取り

ムカシ ムカシノオ話ヨ

ミギノ ホホニ ジヤマツケナ

コブヲ モツテル オヂイサン

 このお爺さんは、四国阿波剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽歌舞伎芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、

ムカシ ムカシノオ話ヨ

 と壕の片隅に於いて絵本を読みながら、その絵本物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)

 このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独ものである孤独から酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである若いから無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。

「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、

「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しまから。」と言ふ。

 お爺さんは浮かぬ顔になる。

 また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。

 けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのであるしかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。

「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」

 言はなくたつていい事である

 お婆さんも息子も、黙つてゐる。

「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。

「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。

「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。

 うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである

アルヒ アサカラ ヨイテンキ

ヤマヘ ユキマス シバカリ

 このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、

「よい眺めぢやなう。」

 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、

「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、

「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、

いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分可愛い孫のやうに思ひ、自分孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのであるけふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、

「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである

ハカニ クラク ナリマシタ

カゼガ ゴウゴウ フイテキテ

メモ ザアザア フリマシタ

 春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、

「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」

 と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、

「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である

はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」

 とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、

「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである

ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ

ツカレガ デタカ オヂイサン

イツカ グツスリ ネムリマ

オヤマハ ハレテ クモモナ

アカルイ ツキヨニ ナリマシタ

 この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、

「これは、いけない。」

 と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。

「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、

オヤ ナンデセウ サワグコヱ

ミレバ フシギダ ユメデシヨカ

 といふ事になるのである

 見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いかである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇鬼才何某先生の傑作、などといふ文句新聞新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万醜悪綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである

 見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである

 お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、

「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物もつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐ種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかい言葉は、まるで無意味ものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、

「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく

ヲドリノ スキナ オヂイサン

スグニ トビダシ ヲドツタラ

コブガ フラフラ ユレルノデ

トテモ ヲカシイ オモシロ

 お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、

むすめ島田年寄りやかつらぢや

赤い襷に迷ふも無理やない

嫁も笠きて行かぬか来い来い

 とかい阿波俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、

大谷通れば石ばかり

笹山通れば笹ばかり

 とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。

オニドモ タイソウ ヨロコン

ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ

ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ

ソノ ヤクソクノ オシルシ

ダイジナ モノヲ アヅカラウ

 と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。

 お爺さんは驚き、

「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。

アサデス ツユノ ヒカルミチ

コブヲ トラレタ オヂイサン

ツマラナサウニ ホホヲ ナデ

オヤマヲ オリテ ユキマシタ

 瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。

「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。

「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失てゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである

 家に帰るとお婆さんは、

「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。

「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。

「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。

「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。

「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。

「うむ。」

「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」

「さうだらう。」

 結局、このお爺さんの一家於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24

2026-04-22

映画創作物から、「影響」を受けちゃいかんのか?

ファイトクラブ』のタイラー

ジョーカー』のジョーカー

ウォッチメン』のオジマンディアス

ガンダムジオン軍とかスターウォーズ帝国軍みたいな組織でもいいかも知れん

あるいは『ランボー』『ダーティハリー』とか「あれは悪役じゃない」けどまあ暴力を使うキャラとかも含まれるかも知れん

こういう「悪」を指して「映画創作物)の悪役から影響を受けるのは間違ってる!その創作物自体が悪を否定している!」みたいに先回りして批判する道徳家みたいな人を最近よく見かける

でも俺は何が具体的に悪いのかよく分からないんだよな

まあそれぞれの映画テーマも違うし、またこういう映画の中で行われる行為フィクションの規模が途方もないのでそもそも具体的に真似できんやろとか「それを言っちゃあおしめえよ」というのは省くんだけど

たとえば「ジョーカー共感するな!」といっても、そもそもあれは現実に「ジョーカー的な人々」が先にいることが前提になってるんだよな

俺はジョーカー見た時、はっきりとジョーカー共感したよ

そんでもって別に映画から現実に戻った今も別にテロとか企ててないけど

アルジェの戦い』『戒厳令』みたいな映画を見て影響を受けて左翼になる奴もいていいだろうし

三島由紀夫福田恒存小説戯曲読んで右翼になる奴もいていいと思ってるよ

そんで「じゃあAVポルノ映画見てレイプ起こす奴いてもいいのか!」って言うやつもいるんだろうけど、社会問題に対する反応と全然別じゃんというのは置いといて、まあいいんじゃないのそれは

女側は復讐映画見て男を去勢すればいいんだし

前述の「影響を受けるな」論の根源って、まとめてしまうと、「何かある派閥映画創作物によって盛り上がって、自分生活破壊しに来る」という想像から発せられてると思うんだけど

そんなん映画が無くても破壊されるんだし、そもそも社会問題を加速させたり放置させたり対処してなかったりするのは現実の(ジョーカー批判する)「お前」な訳なんだし

それと最近視聴者消費者というかオタク側が「創作影響論」を頑なに避けてるのは良くないと思うんだよな

創作には影響され(ることもあり)ます

社会に影響を与えるから素晴らしいんです

昔のいろんな映画監督の創作論読んだけど、端的に言って「影響を与えられない」方が悪いって表現ばかりだよ

ヤクザ映画見てヤクザになる奴もいるし、エロ漫画見てエロ事件起こす奴もいるかもしれませんね、それで?

「それで何が悪い?」といえない現状のオタク世界観の狭さ、ビビリが良くないんだよ

早く「何が悪い」といえる世界観を作れ、まだ間に合うから

2026-04-01

[]アイズ・オブ・マーチ(The Ides of March

アイズ・オブ・マーチ(The Ides of March)は、古代ローマ暦の3月15日を指し、紀元前44年にユリウス・シーザー暗殺された日として歴史的に有名です。シェイクスピア戯曲ジュリアス・シーザー』の「3月15日を警戒せよ」というセリフで知られ、転じて「不吉な日」「危険が迫る日」の代名詞ともなっています

 

 

歴史的背景: ローマ暦では「Idus(イードゥス)」が月の真ん中(13日、または3・5・7・10月は15日)を指し、3月は15日でした。

シーザー暗殺: 紀元前44年3月15日ローマ独裁官ジュリアス・シーザーが議場でブルータスらに暗殺されました。

文学的引用: ウィリアム・シェイクスピア戯曲ジュリアス・シーザー』において、占い師シーザー暗殺危険を予告する言葉として有名です。

音楽映画: アメリカバンド名(1970年ヒット曲「Vehicle」で知られる)や、ジョージ・クルーニー監督・主演の映画スーパー・チューズデー正義を売った日〜』(原題: The Ides of March)のタイトルとしても使われています

2026-02-18

anond:20260218121427

ロボットrobot)」の語源は、1920年チェコ作家カレル・チャペックが発表した戯曲『R.U.R.(ロッサム万能ロボット会社)』において、

チェコ語で「強制労働」や「苦役」を意味する「robota(ロボッタ)」に由来する造語です。

カレル・チャペックの兄、ヨゼフ・チャペックが提案した言葉採用されたとされています

2025-12-30

果てしなきスカーレットを2回見て来い

果てしなきスカーレットがよくわからないという人がいるんだけど、そりゃあれもともと戯曲ベースなので見たら全てがわかる今までのアニメみたいな作りを得ていないんですよ。なので2回見てくるといいと思います。大体言いたいことはわかりました。

2025-11-23

anond:20251123041412

戯曲なんだから読むんじゃなくて観ろ!(そういうことではない)

2025-10-06

anond:20251006165123

あなた論理は「完成した物語構造こそが創作価値」という前提に立っていますが、その枠組み自体一面的すぎます

まず、あなた議論を最も強固な形で再構成しましょう:

芸術作品価値構造的完成度にある。最初から終わりまで設計された作品は、各要素が有機的に結びつき、テーマが一貫する。対して場当たり的に作られた作品は、商業延命のために継ぎ接ぎされた断片でしかなく、統一的なビジョンを欠く。ゆえに後者には芸術的価値がない」

この立場には一理ありますしかし、あなたは重大な反例群を見落としています

即興ジャズは事前の楽譜なしに演奏されますが、マイルス・デイビスの『Kind of Blue』は音楽史上最も評価される作品の一つです。終わりを決めずに始めたセッションが、決定された構造では生まれ得ない創造性を生みました。

ドストエフスキー連載小説も同様です。『カラマーゾフの兄弟』は連載中に結末が変更され、未完のまま終わりました。それでも文学史に残る傑作とされています

シェイクスピア劇団も、台本を上演しながら観客の反応で変更していました。「完成形」など存在しなかった。

これらが示すのは、創作価値は完成された構造だけに宿るのではないということです。

あなたが見落としている別の価値軸があります

1. 時間と共に進化する関係性の深度 - 20年続く『相棒』だからこそ描ける杉下右京という人物の多面性は、2時間映画では不可能です

2. 視聴者との共時的経験 - 週ごとに更新される物語は、完結した作品を一気見するのとは質的に異なる文化的経験を生みます

3. 予測不可能性という美学 - 結末が決まっていないからこそ生まれる緊張感と驚き

あなた論理では、ライブ即興演奏より録音されたスタジオ盤の方が常に優れていることになりますが、それは明らかに偽です。両者は異なる価値を持ちます

最も致命的な問題は、あなたが「相棒」という一つの事例から、「終わりを決めていない全ての作品」への一般化を行っている点です。仮に『相棒』に構造的弱点があったとしても、それは段階的創作という手法のものの欠陥を証明しません。

では問いましょう:あなたは「完成」をどう定義しますか?シェイクスピア戯曲には決定版テクスト存在せず、上演ごとに変化しました。これらは「未完成」ゆえに価値がないのですか?

2025-07-29

戯曲クラシック元ネタ知られてない率ってヤバないか

エロゲソング原作プレイされてない率とどっちがヤバいんだ???

2025-07-08

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

2025-07-03

選択夫婦別姓制度をめぐるメモ

選択夫婦別姓制度をめぐる議論が盛んである

ChatGPTと哲学的議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。

選択夫婦別姓議論は、単なる法律修正にとどまらず、私たち「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人自由拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤排除が生まれうるという、自由のものの逆説的性格に由来する問題である日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後民法は大きく改正されたが、戸籍構造根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態女性社会進出国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択夫婦別姓」への要望が強まっている。

一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍なかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である

選択夫婦別姓制度における「自由」と「コスト

ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である改革に伴い、精神史的あるいは文化的意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつコスト問題といえるだろう。

選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャー説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。

W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスク自己責任管理選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。

選択夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属根拠を失う不安」といった新たな社会リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由責任の過剰な個人化による孤立不安——をも視野に入れる必要がある。

自明性の喪失」がもたらすアイデンティティ不安

この現象は、韓国2008年に導入された「個人単位戸籍制度家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層から批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。

しろ制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたこである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。

ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分意思か?」「配偶者強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線生まれる。これは日常選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。

たとえば、韓国の若年層においては、恋愛結婚出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉流行し、さら結婚出産恋愛に加え、家族男性との関係異性愛自体拒否する「4B運動非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動担い手たちは、単に従来のジェンダー規範拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのもの解体する動きを見せている。たとえば、4B参加者たちは、「家族説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己尊厳を保つという新たな主体性表現がある。ベックのいう「選択強制」への拒絶反応韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。

沈黙する自由」のジレンマ

こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦ブルース》(1969年)は、まさに「沈黙自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである選択自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれ存在叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。

一方で、この作品は、主婦という存在社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から沈黙共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代70年代左派運動ベトナム反戦学生運動階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙共犯」とはサルトル実存主義倫理象徴する言葉だ。

「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である政治主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティである。この「疲労言葉」は、政治正義言葉ではすくい取れない主体感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従無知ではない。むしろ言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己尊厳日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。

しかし、「語らないことを自分意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙自由ジレンマがある。

このような表現は、フェミニズム文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体論理可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司詩作にも見られる。たとえば阿部定事件主題にした作品群では、語られすぎた欲望暴力物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会暴力性を照らし出す存在として描かれる。

沈黙のうちに自己選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦ブルース》と寺山修司詩作は、「語らなければ存在しない」という制度圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。

この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいか尊重するかが問われることになる。

他者との関係において自我がどのように成立しうるか

このような非対称性問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいか制度の中で位置づけるかという課題が生じる。

ここで参照されるべきは、社会学者チャールズティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念であるティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定カテゴリーに分類し、その分類を通じて資源権利へのアクセス構造的な差異をもたらす。選択夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人選択無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティ指標となり、当人意思とは無関係社会評価区分根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的排除不利益への慎重な配慮が求められる。

こうした哲学的社会構造的な視点を踏まえたとき制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理制度交差点において、いかにして沈黙や非選択尊重うるかという、より深い次元議論となる。

まず、レヴィナスは『全体性無限』において、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者沈黙に対しても、応答を要請される私たち姿勢倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者沈黙承認する制度設計必要性と深く響き合う。

次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人国家装置制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である

その一方で、他者承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想であるヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者から承認必要とするが、その承認一方的では成立せず、双方が自己表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己確立を前提とする点で、自由平等理念哲学的に基礎づける重要モデルである

しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このときヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度想像力は、まさにそこから展開されねばならない。

これら四人の思想家が示唆するのは、制度主体関係性における多層的な緊張であるティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度いかにして人々の行動範囲構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体無意識に構築されてしまメカニズムを暴き、ヘーゲル承認関係対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度個人いかに分類し、語らせようとするか(ティリーアルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係倫理を見出す視点レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由モデルヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計可能性を構想することができる。

理屈はそうだ。しか果たして、語らない自由保障制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的まなざし有効な力になるだろう。

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2025-06-20

シェイクスピアまさか下北沢降臨!?悲劇喜劇が鰻のゼリー踊る~

時は令和、空前の個性的スイーツブームが到来!映えまくりスイーツも出尽くして、「次にくるスイーツは何!?」って、みんなが奇抜な組み合わせを求めてた20XX年。そんな中、下北沢劇場街に、マジで浮世離れしたイケメン紳士が現れたんだってフリルたっぷりブラウスに、なんかこう、憂いを帯びた瞳と詩的なオーラをまとったお方。「え?演劇の人?インディーズバンド?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。

「わたくしは…ウィリアム・シェイクスピアと申します。」

え?マジで?あの『ハムレット』とか『ロミオとジュリエット』とか書いた、世界一有名な劇作家シェイクスピア!?ヤバすぎ!って文学好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶インテリなお方、もといシェイクスピア様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…グローブ座ではない、か…?ずいぶんと奇妙で、しかし興味深い舞台になったものよのう。」って、マジで時代錯誤ハンパない!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その深い眼差しに、何か強い物語を感じてたらしい。

そんなシェイクスピア様に、恐る恐る話しかけたのは、下北沢古着屋巡りしてる、ちょっとサブカル系ギャルレイナ。「あの…もしかして、お困りですか?」「…うむ、少々。見慣れぬ舞台装置ばかりで、いささか戸惑っております。」って、マジで演劇っぽい言葉遣いレイナ、その独特の雰囲気ちょっとキュンとしつつ、「アタシ、レイナ下北ことなら、何でも聞いて!アンタ、マジで文学的で面白いから、アタシがプロデュースしてあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって

次の日、レイナに連れられて、シェイクスピア様は初めて現代日本体験ライブハウスとか、古本屋とか、マジで全てが新鮮!でもね、シェイクスピア様が一番興味を示したのは、テレビで偶然流れてた、ローカル番組の「ご当地グルメ対決」。「…この、ゼリーに閉じ込められた奇妙な生き物は、何というものでございますか?」って、マジ真剣眼差しレイナまさかのチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、うなぎゼリーですよ!静岡の一部地域名物なんだけど、ちょっと個性的な味で…」って、正直に教えてあげたんだって

シェイクスピア様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この矛盾に満ちた味わいは!?甘いゼリーの中に潜む、うなぎ蒲焼き…まるで、人生悲劇喜劇が織りなす不可思議舞台のようである!これこそ、余が求める、真の食材よ!」って、マジで詩人っぽい表現で感動してたらしいよ。

そこからシェイクスピア様の鰻ゼリー愛がマジで爆発!毎日色んなご当地食材を調べまくって、「これぞ舞台にふさわしい食材!」って、鰻ゼリーに心を奪われまくってたんだって。「鰻の調理法ゼリーの硬さ、甘さと塩味バランス研究しがいがありすぎる!」って、もはや鰻ゼリーパフェ研究レベル

でね、ある日、シェイクスピア様、マジで下取りの野望を語り出したの。「我は、この鰻ゼリーをもって、世の退屈な甘味を打ち破り、人々の心に深く刻まれる、真のパフェ創造してみせようぞ!これこそ、悲劇喜劇が融合した、『人生パフェ』よ!」って!

え?鰻ゼリーパフェ天下統一しか人生とか悲劇とか!マジで壮大すぎる!でも、シェイクスピア様の「人間模様を描く」魂があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってレイナも思ったらしいんだけど、シェイクスピア様の目はマジだったんだって戯曲創造主としての野望が、令和の鰻ゼリーパフェに新たな舞台見出したのかもね!

そっからシェイクスピア様の鰻ゼリーパフェ天下統一計画スタート!まずは、SNSで「#シェイクスピアの鰻劇」ってハッシュタグ作って、毎日自作の鰻ゼリーパフェ画像をアップし始めたんだって。その奇抜すぎる見た目と、シェイクスピア様の詩的なコメントが、一部のサブカル好きギャルや、個性派の人たちの間でじわじわバズり始めた!

シェイクスピア様が作るパフェマジで芸術!」

劇作家が作るスイーツとか、絶対何か物語がありそう!」

「鰻ゼリーパフェって、意外とアリかも…?」

SNSシェイクスピア様の鰻ゼリー愛でじわじわ盛り上がり!しかも、シェイクスピア様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しい郷土食材を探し求めたり、意外な組み合わせを試したり、マジで実験的!「天下の鰻ゼリーパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって

で、ついに!シェイクスピア様は、下北沢のど真ん中に、自分プロデュースする鰻ゼリーパフェ専門店「THE GLOBE PARFAIT - 人生劇場 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、グローブ座イメージした、円形劇場のようなデザインで、シェイクスピア様の舞台への情熱表現店員さんも、ちょっと中世ヨーロッパ風のモダンユニフォーム着てて、マジでアーティスティック

オープン初日からゲテモノ好きギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして演劇文学に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNS話題の鰻ゼリーパフェマジで挑戦してみたい!」「シェイクスピア様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初ビビったけど、甘じょっぱくて、なんか複雑で美味しい!」「鰻の臭みが全くない!」「シェイクスピア様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広がりまくって、THE GLOBE PARFAIT - 人生劇場 - はあっという間に人気店になっちゃったの!

しかもね、シェイクスピア様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「テーマ」について熱弁したり、お客さんの人生テーマにした「即興パフェ」を創作したり、マジで独自スタイルエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって

テレビ雑誌取材殺到!「令和のシェイクスピア」「鰻ゼリーパフェ詩人」とか呼ばれて、マジで時の人!シェイクスピア様の強烈な個性と、鰻ゼリーパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!

でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!シェイクスピア様の鰻ゼリーパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだってお取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニスーパーでも「シェイクスピア印の人生パフェ」が発売されるほどに!まさに、鰻ゼリーパフェスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!

あの時、下北沢の街に静かに佇んでいた劇作家が、令和の時代に鰻ゼリーパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、悲劇喜劇が鰻のゼリーに踊り、新たな伝説を創り出した瞬間!

レイナも、「まさかシェイクスピア様が本当に鰻ゼリーパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで震えたけど感動した!」って、ちょっと引きながらも感動してたらしいよ。

シェイクスピア様は今も、さらなる鰻ゼリーパフェ可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが創作の道に、終わりはない!」って、マジでストイック

こうして、ウィリアム・シェイクスピアは、令和の日本で、鰻ゼリーパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語完全燃焼したわ!ゼリーパフェ、マジ卍!

2025-06-02

anond:20250602101456

戯曲なんかもむしろ高尚な側に属するんだし台本形式が悪い理由なんかないわな

2025-04-14

■一番  っぽいメカ

タバコっぽい

メビウスゼロ(実際はニコチン入ってないのでタバコではない)

次点:ユニウス・セブンメカではない)

戯曲っぽい

マクロス

下半身に着用する衣服っぽい

ボトムス゛(実際にはメカではない)

ザザ虫料理っぽい

ザムザザー

リアクションがなかったためにこれをまたこれを再投稿するのですが、罪悪感を減らすため、項目は増やしてますのでお見逃しください

2025-04-09

一番  っぽいメカ

タバコっぽい

メビウスゼロ(実際はニコチン入ってないのでタバコではない)

戯曲っぽい

マクロス

下半身に着用する衣服っぽい

ボトムス゛(実際にはメカではない)

これを再投稿してるのですが、罪悪感を減らすため、項目は増やしてますのでお見逃しください

2025-01-13

青汁は、世の中のすべての問題解決する

どうしてなんだ!?

いったい青汁のこのパワーの源はいったい何?

不思議だ。

青汁があるだけでそこに幸せがある。

多分チルチルミチルたちは間違っていた。

幸せ青い鳥じゃなくて青い汁のことだったんだ。

「ああ青汁、どうしてお前はそれほど万能なのだ!?

シェークスピア戯曲青汁」のこのセリフまりに有名。

2025-01-02

anond:20250102093202

この人は戯曲関係の人だってのはともかく、この文体はわざとだと思う

あえてポエムエッセイ体裁を取って、人間っぽくしているというか、AIとは違うんだぜ情緒喚起するというか

でもまあ読みづらいのは間違いないw

anond:20250102092810

自分文章を書きながら盛り上がっちゃうタイプの人の文章ってノイズがひどいんだよな、このまま歌い出しそうで戯曲みたい。

 

事実ありのまま伝えているよりは脚色がひどく実態曖昧ですごく読んでてだるい

2024-12-29

anond:20241229004208

夏目漱石の「月が綺麗ですね」論は漱石結婚生活垣間見ることができます

当時 Love という単語坪内逍遥が既に翻訳していました

坪内逍遥シェイクスピアイプセンなど戯曲研究家であり、弟子二葉亭四迷、妻は宝塚女優新劇の普及に努めました

ロミオとヂュリエットの「愛されないならいっそ死にたい」となど登場人物の激しいセリフも訳しています

一方、夏目漱石英語教師でしたが妻の父はドイツ語翻訳家の官僚中根重一で、獨逸学協会幹部です

当時ドイツ語と言えば医学薬学書など質実剛な実用書か法学哲学書の類で、文芸派とは真逆世界です

そのような義父がいればI love youなど女子供が見る芝居のセリフがサラっと言えるとは思えません

しろ気取った華族歌人的な表現と言えるでしょう

ドイツ語派には軍事的勢力もいましたので漱石が彼らに擁護されていたことも想像がつきます

2024-10-13

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その4

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く

おしん物語根底を流れているのが、「恩」であり「仁義であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語ハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。

今回は、物語類型としての「おしん」をみてみたい。

流浪するおしん股旅物としての評価

おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしん1901年昭和天皇と同年に生まれた設定である

そしておしんが生きた少女時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治回想シーン時代を一気に2世代くらい遡るときタイムトリップ感が半端ない

1983年おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的大手スーパーへの並木土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店隠居の大旦那並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである

それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。

おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである

おしんと人の縁

おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどいしかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語類型ひとつで、一宿一飯の義理人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人やくざなどが主人公である股旅物の元祖長谷川伸は、その後の日本小説戯曲、そして映画テレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である明治が遠く過ぎさり、大衆大正デモクラシー自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である

おしん回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことな股旅であるしかし、おしん物語面白いところは、浪花節陳腐化し、古臭いものになってしまった現代1980年代)と交差している点である

キーワード加賀屋への恩】

並木浩太とおしん最初出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋加賀屋奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売イロハから茶道裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしん人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命うんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動活動家・浩太と出会った。酒田訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初出会いであるおしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシー時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動先進的だと中身もわからず憧れていたのである農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動ロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしん小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋奉公へ行く決心をしたのであるいかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである

ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心最初からおしんが好きだったのである

おしんは加代の家出理由加賀屋に伝えることが忍びなく、おしん加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしん女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さら実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。

一方、加代は、浩太の心がおしんしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。

キーワード日本髪結いのおたかへの恩】

こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしん東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結い師匠たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。

しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである

大衆身分から解放され、より自由髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかおしん独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚挨拶たかを訪れたとき言葉である。その時、5人いたたか弟子はついにたった一人だけになっていた。

田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代おしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である

一方、田倉商店開店休業状態に陥るほど経営悪化していたが、おしん髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たか相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店再生が進んで、おしん洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災おしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである工場火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀ゆっくり休みたかおしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄佐賀編がスタートすることになった。

さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしん佐賀地獄から脱出を心ひそかに誓い、東京師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのであるたかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしん絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。

こうしておしん流転の人生が始まる。屋台出店からまり故郷山形酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである

キーワード:浩太の恩】

浩太の実家貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢実家網元のひさの家であった。浩太は、流浪人生を送るおしんを見かねて、伊勢網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄酒田の飯屋をやってきたおしんめし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。

伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしん魚屋をやる決意をしてくれ、おしん人生好転し始めていた。

一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代苗字も変えなかった。

一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。

田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望兄弟のように母おしん魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。

屈折10年、陶芸師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。

股旅物を取り込んだ現代劇~義理人情は古臭い観念かという現代人への問いか

さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ1983年の場面)に戻りたい。

仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。

ここには、自ら築き上げてきたスーパー廃業も辞さなおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。

ドラマ構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしん戦後現代にいたる高度経済成長おしん自身義理人情を忘れてしまたことに気が付く、というメタで重層的な構成であるおしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパー事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしん問題17号店開店当日、失踪する。この世話物時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である

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