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2024-10-13

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その4

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く

おしん物語根底を流れているのが、「恩」であり「仁義であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語ハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。

今回は、物語類型としての「おしん」をみてみたい。

流浪するおしん股旅物としての評価

おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしん1901年昭和天皇と同年に生まれた設定である

そしておしんが生きた少女時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治回想シーン時代を一気に2世代くらい遡るときタイムトリップ感が半端ない

1983年おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的大手スーパーへの並木土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店隠居の大旦那並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである

それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。

おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである

おしんと人の縁

おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどいしかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語類型ひとつで、一宿一飯の義理人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人やくざなどが主人公である股旅物の元祖長谷川伸は、その後の日本小説戯曲、そして映画テレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である明治が遠く過ぎさり、大衆大正デモクラシー自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である

おしん回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことな股旅であるしかし、おしん物語面白いところは、浪花節陳腐化し、古臭いものになってしまった現代1980年代)と交差している点である

キーワード加賀屋への恩】

並木浩太とおしん最初出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋加賀屋奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売イロハから茶道裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしん人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命うんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動活動家・浩太と出会った。酒田訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初出会いであるおしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシー時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動先進的だと中身もわからず憧れていたのである農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動ロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしん小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋奉公へ行く決心をしたのであるいかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである

ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心最初からおしんが好きだったのである

おしんは加代の家出理由加賀屋に伝えることが忍びなく、おしん加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしん女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さら実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。

一方、加代は、浩太の心がおしんしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。

キーワード日本髪結いのおたかへの恩】

こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしん東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結い師匠たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。

しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである

大衆身分から解放され、より自由髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかおしん独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚挨拶たかを訪れたとき言葉である。その時、5人いたたか弟子はついにたった一人だけになっていた。

田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代おしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である

一方、田倉商店開店休業状態に陥るほど経営悪化していたが、おしん髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たか相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店再生が進んで、おしん洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災おしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである工場火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀ゆっくり休みたかおしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄佐賀編がスタートすることになった。

さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしん佐賀地獄から脱出を心ひそかに誓い、東京師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのであるたかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしん絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。

こうしておしん流転の人生が始まる。屋台出店からまり故郷山形酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである

キーワード:浩太の恩】

浩太の実家貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢実家網元のひさの家であった。浩太は、流浪人生を送るおしんを見かねて、伊勢網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄酒田の飯屋をやってきたおしんめし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。

伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしん魚屋をやる決意をしてくれ、おしん人生好転し始めていた。

一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代苗字も変えなかった。

一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。

田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望兄弟のように母おしん魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。

屈折10年、陶芸師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。

股旅物を取り込んだ現代劇~義理人情は古臭い観念かという現代人への問いか

さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ1983年の場面)に戻りたい。

仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。

ここには、自ら築き上げてきたスーパー廃業も辞さなおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。

ドラマ構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしん戦後現代にいたる高度経済成長おしん自身義理人情を忘れてしまたことに気が付く、というメタで重層的な構成であるおしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパー事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしん問題17号店開店当日、失踪する。この世話物時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である

2024-08-11

誘われて飲みに行ったら友達Aが仕事したくなくて悩んでる友達友達Bに俺の事を「フリーレン」って紹介してた

俺とAは学生時代からの付き合いで、俺とBは初めて会った。

どうやら、Bは転職しても職場に居続ける事が出来ず、業種も職場転々として30を迎えたらしい。6回目の転職先で心が折れかけてるそうだ。

そんなBにAは俺と合わせたがっていた。

AはBに向かっていう、「お前さぁ、転職6回ぐらいで何弱気になってんだよ、お前の目の前にいるのは、30回以上職場をバックレたサラリーマンだぞ。転職フリーレン」

Aが言う話は本当で、俺はバックラーだ、バイト含めれば30回以上バックれてる。メンタルがと頭が弱すぎて「辞めます」と言えないからだ。過去正式手続きを踏んで辞めた時はMPを使い果たして半年寝込んだぐらいだ。

コンビニ年賀状配達焼き肉屋、車工場製菓工場倉庫作業レタス農家、清掃業、医療事務ビルメン酪農、受付事務オフィスビル警備、製紙工場etc

全部短期で辞めてきてる。

新卒時にあまりにも無能すぎて、悩みぬいて精神科の門を叩き、抗不安薬依存になった挙句仕事を辞めて再復帰に1年以上かかった経験から精神にしんどくなったら逃げるをスタンスにしている。

よく「精神科行って相談しろ」という奴がいるが、あれを言える奴は絶対に行ったことない奴だ。精神科なんて予約3か月待ちとかだ。すぐにでも救いが欲しい奴にとって、精神科への初診予約のやり取りつけだけでも心をへし折られる。藁にもすがる思いでとった予約で受診し、「みんなそんなもんですよ」みたいな糞バイスを受けて5000円ぶんどられた日には、心の底から世界がどうでもよくなる。「精神科行って相談しろ」っていうのは、そういう経験がない奴の戯言だ。「闘争逃走反応」という言葉がある、戦うか逃げるか。結局自分を守れるのは自分だけなのだ

俺はBに「精神を病む前に仕事を辞められた事は正しい選択だった」 「周りは怠けてるように思ってるかもしれないけど、俺はBが死ぬ思いでやってきたのが痛いほどわかる。本当に怠けたい奴は転職なんてしないし、どうにかしようとしてるから転職を繰り返してるんだよな」と肯定した。

Bの自身なさげな表情と、疲れきったような泣き顔を観て、俺と同じく社会コミットできなかった人間だと察した。

俺には、そういう人間問題解決できる銀の弾丸はない。俺たちみたいな社会コミットできない無能は、周りからゴミ扱いされて死んでいく運命なのだ宿命なのだ。周りが簡単にこなせることが、社会生活のすべてが、俺たちには辛すぎるのだ。めまいで目がチカチカするほど、いっぱいいっぱいなのだ

転職先で頑張るのも自由だし、無理そうだったらさっさと辞めるのも自由だよ。ちなみに俺は30過ぎても転職繰り返してて、まともにキャリア気づけなかったから今派遣社員だよ。俺のようになれとは言わないけど、人間生きるだけならなんとかなるよ。」

そんなことを話してるとBは「話聞いてくれてマジでありがとう転職エージェントみたいな人に会わされるのかと身構えてたから、話聞いてもらえて本当に良かった。もう少し頑張ってみるわ。増田さんもなんかい仕事見つかるといいね。てか、フリーレンってよりフリーターだよね」と言った。

俺も「似たような悩み持ってる人いるとちょっと安心するよな、俺も話聞けて安心したわ、いい仕事あったら紹介してね」と返した。

結局俺みたいな人間はどこいけば救われるんだろうか。SES

2024-01-20

anond:20240120120641

新聞社製紙工場プレス機を買い替えるにも金がかかる

で重大事件や売れるスクープが発生する

紙がたくさん売れないと倒産

修正新自由主義必要だな

2023-01-13

大昭和! anond:20230113010553

っつったら、オレにとっては静岡県JR吉原駅付近にある製紙工場やんw

今では対策されて(?)あんまりヒドくなくなってるっぽいが、その付近電車クルマで通ると、製紙工場に高々と積み上げられた原料の木材チップが放つ強烈なクサい匂い脳裏に染み付いて離れないw

いまでは合併経営統合されて日本製紙富士工場になってるそうな。

2022-03-17

樺太の恵須取にいる

ウグレゴスクって言った方が今の日本人には通りがいいだろうか。恵須取では今、闇原油と闇小麦取引が盛んだ。

俺は稚内業者に頼まれた。その上は札幌名古屋拠点のある企業で、その上には商社。多分。

船を回す。原油価格が落ち着いたからこんなことはしなくなるかもしれないが、闇小麦はしばらく続くだろうと現地のロシア人が言っている。

小麦の方が断然やりやすい。闇原油は取り扱える場所業者が限られる。

小麦は、名前が変で長ったらしくて文章になっているパン屋パンに使われるのではないかロシア人アレクセイが言っていた。

中国人の孔は闇液化天然ガスまで商おうとして、ロシア人日本人ふくめたいつものメンバーの談笑の種になっている。

俺の祖母先の大戦時ここで暮らしていた。恵須取からからがら綿を抜いた布団の外側と、鍋一つだけ持って小樽に逃げてきた。2個前の船は撃沈されたそうだ。

祖母の息子である俺の父親は引き揚げ後、北海道の営林署の簡素な舎宅で生まれた。

祖母製紙工場で働いた。まだ雪の残る恵須取の荒漠とした草原地を見る。事前に工場場所地図で調べてきたが、1度や2度の訪問ではさっぱりわからない。

戦争のせいでこの場所2023年に来ることになったのだが、そもそも祖母戦争のせいで1945年にこの地から離れることになった。

もとは恵須取という名の通り、アイヌ語地名に由緒がある。もともとはは樺太アイヌの住んでいた土地なんだろう。

仕事上の書類にはウグレゴスクと書かれているこの土地だが、何となくだが、俺はここを恵須取と言ってしまう。

2022-03-06

anond:20220304161941

日本経済制裁海上封鎖原油輸入ができない状態

どうして真珠湾のあと4年間も戦争継続できたのかね

ソ連日本原油供給していた可能性を考えないと辻褄が合わない

 

南樺太北樺太と陸続きで日本の大きな製紙工場があった

日露戦争のあと南樺太日本領土にしたのも

イギリス黄金バッタのたくらみだったかもしれない

2022-02-08

anond:20220208151930

お前は、「製紙工場で働いてる精子工場」ってとこだな

同人サイトでシコって寝るだけの人間

夜勤三交代従事者のパチンカス率は異常

24時間製紙工場で三交代の派遣してるけどメンバー13人、俺を除いて全員パチンカス

マジでパチと競馬風俗の話しかしない

俺みたいに家帰ってVtuber配信見ながら同人サイトでシコって寝るだけの人間が誰一人としていない

めちゃくちゃ孤独を感じている

2021-06-15

なんで雲南市

増田島根県民なんだけどよお
県内2日ぶりに雲南市コロナ感染確認されたらしい
他県からすりゃ平和ニュースだね
ただ、この雲南市コロナ感染者が増えるのなんでなの?
県境でもないし、人口スカスカ特別観光地もない、せいぜいボチボチの温泉があるくらい
県内じゃ唯一雲南市だけ役所クラスター出て閉鎖した
雲南市なにどうなってんの???



益田市広島山口の両県境に近く、市の9割が製紙工場でできてるみたいな土地なので割と納得してる



あれ製紙工場益田じゃねえわ江津

益田どうなってんの??

人口密度コロナ感染者数
自治体密度(人/km2)感染者数(人)
雲南市6434
島根県99551
松江市354252
出雲市27784
浜田市7826
大田市7415
益田市6055
津和野町2210

2021-04-25

いわゆる「お金持ち」の家の子息が普段何をしているか

我が家明治期に興隆した商家で、現在も大枠を考えればモノやコトを売ることで生計をなしている。
いわゆる華族であったが、興隆の経過で江戸期以前の地主武家などと婚姻を経て結びついており、家系図を遡れば皇室とも血筋上の繋がりがあると解釈ができる。

さて、そんな家に生まれた筆者だが正直に言えば高校生くらいまで我が家がそんな家だとは気付いておらず、多少なりとも大きな家に住めている理由として両親や祖父母も「ご先祖様が努力の人だったから」と言っていたので、現在我が家はそこまでお金持ちではなくご先祖様が増やした資産恩恵を受けているのだ程度にしか思っていなかった。ご先祖様すげぇなと。
実際、筆者自身の子供の頃の夢はプロアーチャーであったので全く家業意識していなかった。

我が家はなんか他の家と違うぞ?と気付き始めたのは高校生になった時期で、父や祖父に連れられて社会科見学のような小旅行を頻繁にやるようになってからだった。
自動車工場や造船所、食品工場アパレル工場精密機器工場製紙工場など工業系を中心になぜか見学に連れられ、その工場担当者らしき壮年男性から説明を聞くということを頻繁にさせられた。
今思い出せば、父や祖父はそのくらいの時期から「AはBから生産されていて流通として……」のような話をよくしてくれるようになっていた。
社会科見学のような小旅行面白かったが、なぜ急にそんなことをやるようになったのかという疑問は晴れなかった。まさかそれが後継者教育の一環だったとは。

自分自身の興味と祖父の勧めもあり、大学ではアーチェリーを続けつつもロジスティクスを中心に学ばせてもらい、継続されていた社会科見学が非常に研究へ役立つようになっていた。
そして我が家歴史を完全に知ったのは大学3年生の正月に「就職はどうするのか?」と言われた際に「参考になるかはわからないが我が家家業説明しようか」のように教えられてからだった。
遡れば初代が江戸期に商家として暖簾分けを受け、現在まで続く家業の基盤を明治期に作ることができたとのこと。そこから登場する人名歴史の授業で習うような人々であり、まるで実感のなかった筆者は驚愕するしかなかった。

そんな家の子である筆者が普段何をしているのか?と言えば、某物流企業から商社を経て、現在は父から「そろそろ戻ってこい」と言われ、法人化している我が家の持ち企業へ務めさせていただいている。
筆者の専攻がロジスティクスなので新社会人の頃から数理的に物流計算するのが主な仕事で、笑ってしまうかも知れないが何処へ行くにもCASIO関数電卓ポケットへ入れている。現在関数電卓ソーラーパネル電池駆動するのでスマホなんかよりもよっぽど信頼度が高い。
弊社が集めたデータ取引からロジスティクスに関するデータを貰い、それを数理的に損益分岐点とのその確率をはじき出すというものだが、概算ではなく精密に計算する際はコンピューターに詳しい増田の皆様にも馴染み深いであろうAWSさくらを利用している。
ちなみに筆者のスマホAndroidiPhoneにはまともなターミナルがないので、ふと出先で大きな計算リソース必要になったときAWSSSHしにくい。まぁノートPC使えよって話だが。

もちろん計算するだけでなく、創作物イメージされやすいであろう会食などで人脈交流をしたりもするが、実際のところ筆者の世代ともなるとLINEZoomSlackなどで友人たちと交流している頻度のほうが多い。
正直LINEZoomは昨今の流れもあり使いたくないのだが友人たちは経営学部卒などの文系が多いので、どうもセキュアなコミュニケーションツール活用が上手く行かない。
可能ならば弊社で利用しているオフィススイートMicrosoft office 365やGoogle Workspaceへ移行したいのだが、一部の従業員の皆様の反発から上手く行ってない。後継者といっても実務へ強権を奮えるほど実力はないのだ。筆者の管轄研究グループは即座にSlackを導入できたり出来たのに。う〜む……。
流れのまま愚痴を言えば、例えば総務などはミドルハイエンド性能なChromebookで十分じゃないか?社内ツールもいつまでJavaベースのを使っているのか。HTML5ベースに移行してしまえば互換性の問題Windows使い続ける理由もないんだが。いまだ動いてる骨董品メインフレームをそろそろ引退させてあげようよ。
父は「実務に口を出すべきでない」と言うが、多少筆者の趣味も入ってはいもの環境を整えるのも我々の役目ではないだろうか。
強権を奮って一気にモダンコンピューティング環境にしたい。営業にも今のガラケーから最新のGoogle Pixel 5あたりのスマホを配ってあげるのに。

というようなことを青臭く思っているのだが、実際の後継者なんてこんなもんである。実権を握れるまでおとなしくしているしか無い。
従業員の皆様には申し訳ないが、おそらく筆者にはご先祖様ほどの商才は無いんだろう。苦労させてごめんね。

2020-06-27

リニア新幹線Aterm

静岡県掛川市民。

リニア新幹線静岡区間静岡県大井川の水減るって反対してて、県知事JR東海ガチ対決してる件、多分、県外の人は水が減るぐらい我慢しろよ、お茶なんて京都から買えばいい、静岡は2流って思ってるんだろうけどさ。

この辺り、工場たくさんあるんだよね。お茶だけじゃないんよ。

例えば、今、ネットNECAtermっていうルータで繋いでる奴、それは全部掛川市役所の隣のNEC工場で作られたものだ。大井川の水量減ったらモロに影響受けるよ。

あとは、ここ、首都圏名古屋圏の子育て世代も見てると思うけど…テレビCMで知ってる人も多いと思うけど、おむつムーニーマンも、大部分、掛川ユニ・チャーム工場で作ってるはず。大井川の水減ったらモロに影響受けるよ。

別に実家は茶業や農業じゃないんで、この辺の農家が困っても俺は困らんのだが、大井川の水減って移転せざるを得なくなる工場が出てくると、結構、このへんで作ってる東京向け出荷の工業製品も打撃受けると思うんだけどなぁ…工場移転ってめっちゃ金かかるし。

追記水道水を使えばよい、オカルトだ、というブコメがあったが、それはさすがに何も理解していないのでは…その掛川市水道水大井川から取水してるんですよ。大井川だけではないけどね。

JR湧水は戻すといってる」という意見があるが、そもそも、導水路を作ったところでJR試算でも6%も大井川の水減るんですよね。静岡県試算だと7.5%。さらに、この数字工事が終わってからの話で、トンネル工事間中は導水路は動かせないから、工事間中は最大18%ぐらい減るらしい。

平均で、だからね。渇水などがあった年に水の流れが変わって数十%減ってもおかしくない。現に、新東名トンネルの下にある地域では、茶畑に撒く水や温泉街の水が枯れた。新東名大井川については橋にして大井川の地下はいじらないことで解決したが、新幹線リニア地理的に地下を通すしかない。「一滴も減らすな」はさすがに難癖だと思うし、経済的解決する方法もあると思うが、水は足りなくなったところで他市・他県から買えるものではないし、そもそも導水管を作ったところで、減少分6%なり7.5%のなりの補償をどうするかの話にもなっていない。今は、リニア新幹線については「工事させろ、水減るかもだけどちょっとだけだからいいだろ、遅れたらお前の責任な」としか言われてなくて、経済補償の話も何もせずに、静岡県悪者にして政治的に追い詰めてとにかくトンネル掘らせろ、としか言われてないんですよねぇ…そんなの認めると思う方がおかしいでしょ。

追記2:静岡は水が豊富製紙工場がある…というのは、富士山の麓、富士川の方、富士市とか富士宮市とか?東部の話ね。

いま問題になってるのは浜松の数十キロ北東のあたりの地域

昔は遠州駿河で国が分かれていたぐらいなので、東部はまた全然違うんだろう。すまんが、正直よく知らん。

2020-02-28

製紙工場勤めの弟が

トイレットペーパーが無くなる?中国材料輸入?そんなわけあるかあたまおかしいのか」

って言ってる。



だよねえ。

買い占めてる人達バカなんだなあ

2020-02-09

マスクの次になくなるのはティッシュ

マスクの次というのは不正確だけど東海地震が起きるとティッシュ類の供給が止まるらしいよ

ティッシュ類の生産ほとんどが静岡県で行われていて、静岡製紙工場が止まると日本中ティッシュが不足する

トイレットペーパーは深刻になると予想されていて一ヶ月分は買い置き用意しとけと言っている

買い占めもあるだろうから一ヶ月分じゃ足りないかもしれない

https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/paper_consumergoods/sozai28.pdf

アナキズムはてなー無視しそうだけど

2019-06-04

50代引きこもりとタピオカ

https://anond.hatelabo.jp/20190604124232

タピオカというデンプンがある。

デンプンとして最下級もいいとこで、トウモロコシデンプンの数分の1の値段、現代では家畜ですら不味くてろくに食べない。

元は南米原住民が食べるイモだったが、小麦や米が導入されるとあっという間に珍味扱い。

生産効率問題ではない。

抜群に取れる。

問題は味だ。

しかも毒があってラリる。

精製してデンプンにすれば重宝されるが、それでも最下級の扱いだ。

まず食べない。

もっぱら製紙工場で紙に混ぜ込まれたり、糊の原料になったりする、デンプン界の日陰者だ。

そんなタピオカブームだという。

ここから得られる教訓は世の中に、無価値ものなんてない。

みなに嫌われたって、どこかで好かれることもある、ということだ。

誰でもいつか、日の当たる場所活躍できるのだ。

50代引きこもりだって、なにかのきっかけで人気者にもなれるかもしれない。

勇気を出して外の世界へ踏み出してほしい。

2018-10-23

スメハラ悪臭の違いがわからない

公害には大気汚染水質汚濁振動騒音悪臭などがある

悪臭不快感だけでなく、健康被害をもたらす

しかし、苦情を言えば営業妨害だと言われる


火葬場はきな臭い

きな臭さというのは爪や髪の毛を燃やしたときのあの臭いをいうが、

最近は生臭いという意味で使われることが多い



それはともかく、製紙工場のあるところは広域にわたって悪臭を放ち、新幹線の車内にすら漂ってくる


悪臭スメルハラスメントの違いがわからないのでお教えください

2018-10-19

釧路市の発展の要因をさぐる

本稿では、下記ブログで軽妙に紹介される釧路市の停滞について歴史的経緯から振り返ってみようと思う。

https://www.kansou-blog.jp/entry/2018/10/18/173838

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.kansou-blog.jp/entry/2018/10/18/173838

漁業築港

近世期には、釧路は「クスリ場所」という漁場が設定され、松前藩から委託された業者がそこから利益を独占していた。

そこでは鮭や昆布、鰊などの海産物のほか、内陸やその他獣の毛皮が収集されていた。

釧路には港がある。というか、大きな港を構築できた。これが大きかった。

函館から太平洋側に航路をとると、日高の小さな諸港を数えるばかりで、大きな築港ができない地形が続く。

例えば十勝国広尾港の小港を除けばずっと遠浅の地形が続く。内陸に続く十勝川河口も例外ではなく、ついに十勝では大規模な漁港を構築しえないまま現在に至っている。

苫小牧港は、実は昭和の初めから計画されたもので、陸地を魔改造した港。自然にできたものではない。

立地

釧路道東地域に程良く近い。厚岸にもいけるし、白糠にも近いし、内陸を通って今の北見国にも通ずる。

港を基点に色々なところに行ける。

採炭地と鉄道敷設

近世末~近代初期にかけて、釧路では石炭が取れることがわかってきた。

こうなると船舶だけでなく、鉄道敷設が期待されるようになる。

そもそも北海道鉄道濫觴は、採炭メインで三笠市小樽市とを接続したものファンが多い分野だからあえてここでは雑に触れる)。

っつーことで、明治34年釧路駅ができる。そこから十勝方面鉄路が伸びて、日高山脈と言うでかい山脈越えるのが明治40年

これで札幌小樽函館本州方面鉄路でモノを送れるようになる。

明治40年にここまで行けたのは結構重要結果的に、大正3年~の第一次世界大戦好景気に間に合う形になり、色々な階層を潤わせた。

林産と製紙工場

鉄道ができると、海産物石炭以外にも物資を運べるわけだ。

となりの十勝の連中は昔から今まで農畜産物本州輸送し続けてやがる。

釧路は何を集散したかというと、木材だ。

北海道森林資源豊富だが、でっかいどう過ぎて、山奥から運べないし、そもそも北海道から運べない。

鉄道ができたことで、山奥から何とか駅まで運べば何とかなることになった。

で、木材を運んだ先の釧路製紙工場ができる。

製紙業が発展するのが大正時代第一次世界大戦好景気後に「なんだ? 釧路工場作って船や鉄道で運べば産業になるじゃん」と本州資本が本腰入れ始めるわけだ。

王子製紙富士製紙なんかの巨大企業木材の切り出しか工場生産まで取り仕切るようになる。つまり、カネを投下してゴリゴリ生産し始める。まぁ切出しは下請けに任せるんだが。

また、水産加工業もまた、この時期にこうした大規模化がはかられる。ビートでんぷん工場も本格化する。

観光

昭和の初めになると、全国的観光ブームになる。すごいねJTB(の前身)。

そうなると、阿寒ですよ。成熟した鉄道路線の観光利用が始まる。

こうした中で、食品釧路ブランド化の萌芽が見られる。最近B級グルメブームまで尾を引いている。

まとめ 全て去ってゆく

さて、読んでいてわかる通り、釧路を支えてきた要因が全て転換期を迎えている。あるいは既に転換してしまっている。

魚は食が多様化してしまったし、石炭は使わねえし、紙はIT化で打撃を受けた。阿寒に行きたい? ちょっと一回くらい行きたいかなぁーーーくらいでしょう?

唯一の望みは工場敷設。釧路には、近隣の農水産物を加工する工場があるわけだが、そこも絶対的に振るっているかというとそうでもない。

輸送技術輸送ルート多様化して、釧路固有性が薄れてしまった。この辺りは正直詳しくない。

最近日本製紙釧路工場が規模縮小するというニュースがあった。また人口が減るねえ。

https://www.fukeiki.com/2018/05/nippon-paper-stop-production.html

ただし、釧路が栄えるにも衰えるにも、こうした地勢と歴史的要因にヒントがある。すべては地理とそこでの人の営みだ。

誰かがこうした地勢と歴史的経緯を持つ「クシロ」に、新たなビジネスの種を見出すことがあるかもしれない。

 
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