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はてなキーワード: 受け手とは

2026-05-10

anond:20260509142559

追記アップデートを拒む「旧OS」と、コミュニティ免疫反応

その後の展開は、さら教育心理学的にも示唆に富むものだった。Aが一度は口にした「昨日の非礼について、重ねてお詫び申し上げます」という謝罪。それが内省によるものではなく、単に対話強制終了させるための「終了ボタン」に過ぎなかったことが、その後の豹変で露呈することになる。

1. 謝罪免罪符にした攻撃性の解放と「責任転嫁

Bが依然として拭い去れない不快感(前日に「ソープへ行け」と人格否定するような暴言を吐かれたことへの余波)を口にすると、Aは即座に攻撃に転じた。

加害の棚上げと「だるい」という拒絶

わたしは蒸し返されてだるいよ」「謝罪すべきはしっかり謝りました」と、自らの不適切言動が招いた紛糾を、あたかもBが一方的に「終わったことを蒸し返す迷惑行為であるかのようにすり替える。

対話責任放棄

口論最中、Aは「すまん任せた」と他のメンバーへ丸投げし、場を放棄した。

これは、自分が有利な時だけ「指導者」として振る舞い、形勢が悪くなると「自分被害者だ」と逃げ出す、極めて不誠実な態度だ。

2. 情報アップデートができないという致命的欠陥

Aは、Cによる再度の指摘に対しても、結局「伝わって欲しかった(自分善意を汲み取れ)」「その謝罪は一度は受け入れられた認識だ」という自説を繰り返すに留まった。

現代コミュニケーションにおいて「情報アップデートができない」ことは致命的な欠陥だ。

自分の振る舞いが「ハラスメント」や「仕様不備」である客観的デバッグされた際、速やかに自己プロトコル更新できない人物は、周囲に有害環境を撒き散らす。Aは過去成功体験独自ドグマ固執するあまりフラットかつ論理的対話プロトコルインストールすることに失敗した「古いOS」のような状態に陥っていたと言える。

3. コミュニティ健全性を維持するための「免疫反応」

今回のCや他のメンバーによる介入は、単なる口論への横槍ではない。それは、コミュニティというシステム健全性を維持するための「免疫反応」だった。

密室支配」の解体

人格否定や強権的な指導という毒素が蔓延しないよう、論理の光を当てて「それはNGである」と公にラベルを貼ること。

対話プロトコルの死守

コミュニケーション主体受け手にある」という原則を徹底することで、送り手の「善意意図)」という逃げ道を封鎖し、受け手安全を確保すること。

Cが最後までこの原則を捨てなかったのは、B個人の救済であると同時に、「論理の通じない強権的なコミュニケーションを許容しない」というコミュニティ防衛線を引く行為だった。

おわりに

情報アップデートを拒み、自らの手法の欠陥を「善意」や「謝罪済み」という言葉で塗り潰そうとする者は、いずれ健全コミュニティプロトコルによって「仕様不備」として弾き出される。Bが最後に「基礎の部分で齟齬がある」と冷徹に断じ、関係を断つ決断ができたのは、この徹底したデバッグプロセスがあったからに他ならない。

(了)

2026-05-07

相談に乗るふりをした「加害」と、謝罪武器にする生存戦略について

相談に乗るふりをした「加害」と、謝罪武器にする生存戦略について

最近、あるコミュニティで目撃した「相談から「絶交」に至るまでのやり取りが、あまり教育心理学におけるいじめ構造(DARVO)そのものだったので、自戒を込めて記録しておきたい。

登場人物は、写真制作の壁にぶつかっている相談者Bと、それにアドバイスを送るA。

1. 境界線侵害から始まる「支配

問題の端緒は、AがBの私生活尊厳に無遠慮に踏み込んだことだ。Aは芸術論を語る文脈で、唐突にこう言い放った。

北方謙三言葉ソープへ行けに近い。人間と肌重ねてこいってことですよ」

最後人間と手のひらをにぎりあったのいつです?」

これは相談という形を借りた、明白な境界線バウンダリ)の侵害だ。教育心理学視点で見れば、相手精神的に動揺させ、自分が優位に立つための「精神的な揺さぶり」に他ならない。Bが困惑して「恋人がいる」と返しても、Aは「死ぬほど金が欲しいわけじゃないんだな」と、勝手相手を「覚悟のない人間」として再定義し、攻撃を続行した。

2. 謝罪を「免罪符」として使う手口

後にBがこの不快感を訴えた際、Aが繰り返したのは反省ではなく「手続きとしての謝罪」の完了報告だった。

「その件は当時きちんと謝罪して、解決した認識でいます。」

「それについてはすでに謝罪しました。また、その謝罪は一度は受け入れられた認識です。」

これは「謝罪というパケットは送ったのだから、それを受け取らない(怒り続けている)相手エラーである」という論理だ。心理学的に言えば、謝罪内省の証ではなく、自分過去を洗浄し、相手の口を封じるための「武器」として利用している。

3. DARVOによる被害者加害者の逆転

最も典型的なのは、最終局面で見せたAの「被害者面」だ。

「人前で繰り返し持ち出されるのはつらいので、もうやめてください。」

他人時間を奪うこと、特に『楽しくないこと』で奪うことについてもっと敏感になってほしい」

これこそが心理学でいう'''DARVO(Deny, Attack, and Reverse Victim and Offender)'''の完成形である

4. 教育心理学的補足:投影支配再生

A氏の言動には、自分の万能感を維持するための「投影プロジェクション)」も顕著に見られる。自分アドバイス的外れだったという失敗を認められず、それをB氏の「覚悟の欠如」という問題すり替えることで、自己像を保護している。

こうした「指導」の皮を被った「支配」は、受け手論理的に反論すればするほど、加害側が「被害者」として騒ぎ出すため、対等な解決は望めない。

結論:なぜこれは「いじめ」なのか

Aの振る舞いは、大人知的対話を装ってはいるが、その本質教育現場で見られる「いじめ」の構造と変わらない。自分の万能感を守るために、ターゲット自尊心を削り、反論されたら「自分の方が傷ついた」と騒いで周囲の同情を買おうとする。

相談を受ける側が「相手尊重する」という前提を捨て、自分哲学インストールする対象(モノ)として相手を見たときコミュニケーションは容易に暴力へと変質する。

Bさんが「二度と関わらない」と決断したのは、自身の心の安全を守るための、極めて正当で賢明な防御反応だと言える。

2026-04-24

お客様を怒らせてしまった( ; ; )

問題なければこのまま進めます」とメールをお送りしたところ、

お客様から「『問題なければ』とは?失礼です。」とお怒りのご返信が……

私としては、「弊社側の最終確認で不備がなければ」との意味合いだったけど、

お客様からしたら「お客様側の対応問題なければ」との意味合いで受け取った模様。

その方との電話でのやり取りの中で「(弊社側で)問題なければ進めますね〜!」といった言い回しを何度かしており、

咎められたこともなかったので深く考えずに手癖で文章を打ち込んでしまった……

受け手のへの配慮が足りなかった、反省

取り急ぎ謝罪メールはお送りしたので月曜朝イチでお詫びの電話します……はぁ……

今の会社10年近く働いているのに、未だに仕事スキルが低すぎる( ; ; )

2026-04-23

anond:20260421182930

こうして数は価値を示すものではなく価値の代わりになる。

その瞬間、何が起きるか。

制作側は数に最適化する。

受け手は数で選ぶ。

両者が同じ回路で接続されるとき作品は均質化し、消費は加速する。

数に最適化した結果として圧倒的大多数が褒めそやす出来に仕上がれば誰も困らないじゃん

大衆受けしないような挑戦作はそういうのばかりじゃ味気ないと感じた人々が作ればいい(そうして隠れた名作が隠れたまま埋もれてゆくのは残念だが)

2026-04-21

オタク”と呼ばれる絶滅危惧種について

東浩紀が「現代オタク批評を求めなくなった」と語って久しい。

この言葉をめぐる議論は尽きないが、問題所在もっと単純で、もっと厄介だ。

現代の由々しき自称オタクたちは価値を問う前に、数で判断してしまう。

いま話題映画『超かぐや姫!』に対して、「ファン数字としてしか見ていない」という批判が起きた。

だが見落とされているのは、その“数字の回路”が観客側にも内面化されているという事実である

再生数。動員。ランキングトレンド

それらは本来作品がどれだけ届いたかを示す一つの指標に過ぎない。

しかしいつの間にか、その指標は昇格した。

「伸びている=良い」

この短絡が、判断を肩代わりする。

判断を委ねられるのは楽だ。

なぜ良いのかを考えなくていい。

なぜつまらないのかを言語化しなくていい。

ただ「伸びている」という事実に乗れば、外れない気がする。

こうして数は価値を示すものではなく価値の代わりになる。

その瞬間、何が起きるか。

制作側は数に最適化する。

受け手は数で選ぶ。

両者が同じ回路で接続されるとき作品は均質化し、消費は加速する。

ここで批評はどうなるか。

批評とは、本来「なぜそれが価値を持つのか」を言葉にする営みだ。

だが価値判断がすでに数に委ねられているなら、その問いは必要条件ではなくなる。

必要がなければ要求もされない。

要求されなければ育つこともない。

から現代オタクは、批評を「嫌っている」のではない。

批評必要としない環境適応しているだけだ。

ここでよく持ち出されるのが「コミュニティの優しさ」である

誰でも参加できる、同じ温度で「好き」と言える空間

そこでは差異は摩擦になる。

摩擦は居心地を壊す。

批評差異を生む。

理解の深さを露出させる。

したがって優しさを維持するには批評の圧を弱める方が合理的になる。

結果として残るのは、「好き」と言うことだけが流通する空間だ。

それは居心地がいい。

だが同時に、価値を問う回路を手放した空間でもある。

重要なのは、ここに道徳的善悪を持ち込むことではない。

これは怠慢ではなく、構造だ。

数は便利である

数は速い。

数は裏切りにくい。

から私たちは数を使う。

そして使い続けるうちに気づく。

数で足りてしまうことに。

だが、その“足りてしまい方”こそが問題だ。

なぜ良いのかを問わないまま良いとされるもの

なぜ悪いのかを考えないまま避けられるもの

そこでは作品評価されているのではなく、処理されている。


本来オタクは、そういった存在ではなかった。

しろ対極に視座していた存在である

数に従わない。

流行に媚びない。

理解されなくても、自分の「好き」を引き受ける。

それは、ある種の孤独を前提とした態度だった。

だが今や、その孤独を引き受ける必要はない。

なぜなら数が、それを代行してくれるからだ。

「伸びているものを好きでいればいい」

「皆が好きなものを好きでいればいい」

それはあまりにも合理的で、あまりにも優しい。

からこそ、抗う理由がなくなる。

気づけば、私たちは数に寄り添いながら、

かつて軽蔑していたはずの「多数派」に回収されている。

数に抗う

己の好きを貫き通す。

そうした武士道のような清さを持ったオタクは、既に死に絶えつつあるのだ。

企業にだけ広告料を支払ってるから受け手から忌避されるわけで

受け手広告料を支払えばアドブロックアドオン使用率もグッと下がるんじゃなかろうか?

あそこのサイト広告料が高いぞと知れ渡ればアクセスも増えて企業側もWin

2026-04-19

ナーロッパ世界スカスカに見えてしま理由

なんとなくGoogleマップストリートビューヨーロッパの街並みを見ていた。べつに旅行の予定があるわけでもないのに(そもそもパスポートすら持ってない)石畳の道とか、ゴシック建築が並ぶ通りとか、そびえたつ大聖堂彫刻とかをまじまじ眺めていたらうわスゲーとなってしまった(語彙力)

この辺ってだいたいキリスト教が絡んでるんだろうなーと思う。私はキリスト教に対する学がないから、スケールかい、石すごい、みたいな薄っぺらい感動しかできない。もっと知識がある人だったらもっとちゃんと味わえるのだろうし、教養ってこういうところで要るんだなと思った。教養があれば、これはどういう経緯で誰が作り、どういう意味があって、どんな歴史の上に立っている建物なのか、まで込みで見ているわけで、理解の深さが段違いのはずだ。

でもキリスト教ってちょっと深めようとしただけで世界史だの神話だの美術史だのといった所まで当然のようにつながっていくでしょ。時間が足らんー。途方もない。だから完全理解しようとは思わないのだが、このままずっと石スゴイ彫刻スゴイで終わってたら薄っぺらいままだろうなと思う。

話はズレるんだけど、日本ラノベweb小説に出てくるなんちゃって中世ヨーロッパ風の世界観のことをナーロッパ揶揄されるけど、まあそらそうなるわなーって感じ。

主語デカかもしれないけど、研究者文化人でもない一介の日本人が、キリスト教ってかヨーロッパ世界観をまともにトレースするのはかなり無謀なんだよな。圧倒的に教養が足りない。

から日本という小っちゃい箱庭の中で生み出される作品がなんとなくスカスカで魅力なしに見えてしまうのもむべなるかなと思う。まー、美術館ビデオじゃあないんだから背景の細部なんていちいち重要じゃないでしょってのはわかるし、ただでさえ人手不足の世の中なのに背景にそこまで注力する余裕がないのもわかる。

わかるんだけれどなんというか、それはそれとして現代クリエイター側も消費者側もキリスト教ヨーロッパ世界に対する理解が足りない、またそれを作品の中に精緻に落とし込む技量もない、仮に作り手がそこをうまくやれたとしても、受け手がそれを面白さとして受け取る土壌がどれだけあるのかも怪しい。そんな市場メディアミックスまで含めて何か作ろうとしたって、まあロクなものができませんわな。

みたいな話をチャッピー君にしてみたところ、ナーロッパの点についてはわりと同意してくれた。

あれは単に「日本人にキリスト教理解が足りない」だけではなくて、記号だけ輸入して、生活論理まで輸入していない、という問題に近い気がします。尖塔、石造り、修道院騎士聖女っぽい名前、そういう見た目の部品は並ぶのに、その世界人間が何を恐れて、何を祝って、どう罪を考えて、誰に祈って、死者をどう扱うのか、みたいな底の部分が薄いと、背景がどうしても書き割りっぽくなる。

だって。おーさすが人類の叡智。わかってるねえ。

要はその世界に生きる人間が薄いんだね。

続けてチャッピー君、

でも、背景美術として密度が高いのと、キリスト教ヨーロッパ世界観重力まで感じさせるのは、別です。前者だけなら、思ったよりあります

ということで、(「重力」って表現チャッピー君っぽいよね)

ヴァニタスの手記

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

プリンセス・プリンシパル

純潔のマリア

お勧めに挙げてもらった。

早速ヴァニタスの手記を見たら、OPの絵がとってもおフランスなゴージャスな感じでよさげだった。さすが人類の叡智。アニメにも詳しい(でもこれなろうじゃないよな…)

第6回 どうして人は「青春」にとらわれるのか その魅力と魔力の正体とは 2026年4月18日 15時01分 連載「青春コンプレックス」⑥

 「青春」という言葉不思議だ。部活初恋文化祭……。まぶしいイメージをまとう一方、現実との落差から青春できなかった」との思いをずっと引きずることもある。「青春」はなぜ、人を引きつけ、とらえてやまないのか。その魅力と魔力の正体を、「みんなの〈青春〉」(生きのびるブックス)の著者である石岡学・京大大学院教授にきいた。

 

 ――「青春」をテーマにした映画アニメ小説などが、ちまたにあふれています

 少し見渡すだけでも、「青春」にまつわるコンテンツ枚挙にいとまがありません。

 

 例えば、数年前にアニメ化されて人気となった「ぼっち・ざ・ろっく!」。キラキラした青春に対して屈折した思いを抱く「陰キャ」の女子高校生主人公で、アニメ主題歌は、そのものずばりの「青春コンプレックス」です。あるいは、「高校最後の夏」と銘打ってメディアが注目する夏の甲子園なども、「青春コンテンツに含まれるでしょう。

 

 「青春」は特に学園生活の様々な場面と結びつきながら、格好のコンテンツとして、社会に広く消費されているのです。ただ、「青春」を巡る社会の語りを見てみると、そのイメージ一定ではなく、時代によってずいぶんと移り変わってきたことが分かります

 

 ――どういうことでしょうか。

 

フィクションから」で片付けられない

 

 1960年代までは「青春」といえば、一部のエリート学生既存社会体制に対して抱く不満や怒りというかたちで描かれることが主でした。「青春」とは特権的ものだ、という社会認識があったのです。

 

 それが高校大学進学率が急上昇するのに伴って、20代前半まで学生でいるのは珍しいことではなくなり、70年代以降、「青春」は誰でも経験できるものとして大衆化していきますさら2000年代以降は、ドラマチックな経験ではなく「学校での普通日常」がテーマとして好まれるようになりました。

 

 ――こうした「青春」のイメージが、現実当事者たちにも影響を及ぼしてきたと。

 

 「青春」が「普通日常」を描くようになっていったことは、当事者たちにも大きな意味がありました。

 

 つまり作品などの中で描かれる「青春」は、普通に過ごしていれば経験できるもの。そんな充実した日々が送れていないのは、自分に何か欠点があるからだ――。そのように、問題が内在化していくわけです。だから現代は「青春」に対してコンプレックスを抱きやすい状況になっているといえます

 

 そこには、SNSの普及もある程度、関係しているでしょう。アイドル芸能人たちよりも、同年代の「普通の子」が発信する「青春」の日々は、受け手にとってリアリティーがあります。「あれはフィクションから」で片付けられない。それゆえ、自分の日々とのギャップを強く感じることもあるのでは。

 

 いかに「青春」っぽいことをして、SNSで発信し、他者承認してもらえるか。いわば「ミッションクリア」するような感覚で「青春」をとらえているとも考えられます

 

陳腐だけれど「善」のイメージ

 

 ――「青春」は、なぜ人々を引きつける力を保ち続けているのでしょう。

 

 「青春陳腐さと特別さが混ざり合った規範から」だと、著書では結論づけました。

 

 現在において、ほとんどの人が高校あるいは大学生活経験しうるという点で、「青春」は誰にでも与えられる、陳腐ものだといえます。一方、それは20代前半までの限られた時期にしか与えられず、失われたら戻らないという点では特別意味を持ちます

 

 誰でも自分の姿を投影することができ、かつ、時間が過ぎれば失われるというかけがえのなさがあるために、多くの人にとって何かしら心をかき立てられるものなのでしょう。

 

 さらに、「青春」には「若さ」「情熱」「成長」といったイメージが凝縮されています。これらはいずれも、現代社会において「善」とされている要素です。否定的感情を入れる余地のないものから、いっそう「青春」は光り輝いて見えるのです。ただそれは、あくま社会的に作られたイメージであって、相対的ものに過ぎないということです。

 

 ――誰しもが、イメージ通りの「青春」を送れるわけではありません。

 

 研究していて面白いなと思ったのは、まさに充実した「青春」を体現しているように見えるアイドルたちですらも、「青春できなかった」と語っている場面が少なくなかったことです。「普通学校生活」というのは、それだけとらえどころのない、やっかいものなのだと思います

 

 私のことでいうと、はたから見ればそこまで悪くない青春を送ったようにも見えるでしょうが自分では「暗黒の高校時代」だと感じていました。人とのコミュニケーションに、どこか苦手意識があったからです。

 

 要は、「青春」に抱くコンプレックスというのは自分アイデンティティーに対する漠然とした不安なのだと思います。そうそう逃れられるものではない。良い青春を送れたと思うのであれば素晴らしいですが、そうでなかったとしても、必要以上にとらわれるべきではないでしょう。

 

      ◇

 

 いしおか・まなぶ 1977年まれ。専門は教育歴史社会学で、子ども若者イメージ社会的構築などを研究。著書に「『地方』と『努力』の現代史」(青土社)など。

 

https://digital.asahi.com/articles/ASV301CG7V30ULLI00YM.html

2026-04-18

AIが作った曲を、ひとりの作家作品として聴いていた

(※長文注意・要旨)

ある音楽家が、これまでのリリース作品がすべてAIベース制作環境で作られていたことを、その環境商品として販売開始することで明かした。

この記事は、それを告発するものではない。むしろ、その製品宣伝通り機能した場合にこそ私たちが直面する問い——「感動していた曲は、何によって作られていたのか」「作曲プロンプト設計に移るとき、聴き手は何を聴いているのか」——について、ひとりの聴き手/作り手として考えたことを書いておく。

1~4節はその商品分析がメインなので、ゴシップ的な話に興味のない人は5~7節だけ読めば十分。

長いので時間のあるときに読んでほしい。

1. ある製品との出会い

Twitterで、気にかけていたアカウントがあった。フォロワーは二千人規模だが、Hyperpop以降の日本のシーンで頭角を現している一人、という認識自分の中にあった。界隈の主要な音楽家たちからフォローされている、といえば規模感が伝わるだろうか。リリースされる曲には、たんに「いい音楽」と片付けるのは難しい構成の巧妙さと音選びの新しさがあって、追ってはいないまでも名前は頭にあった。

そのアカウント最近自分制作環境商品として販売し始めた。価格は14,900円、「AI音楽制作環境」として売り出されていて、製品ページの宣伝文句はこうなっている——「『気持ちよくて驚きのある曲を作って』——そのくらいの指示からコード進行歌詞・Sunoプロンプトまで一貫して出力します。」さらに、既発のアルバムEPは「全てこれを軸に制作されている」とも明記されていた。

最初に湧いた感情は、「ああ、そういう工程で作られていたのか」という、ある種の冷めの感情だった。AIを使っていることそのものへの反発ではない。SunoのようなAI音楽生成ツール進化については以前から耳にしていた。出力自体クオリティ否定するつもりもない。そうではなく、「何に対して感心していたのか」という、自分の受け取り方の根元が揺らぐ感覚、とでも言えばいいだろうか。

この感覚を、個人的がっかりエピソードとして飲み込んで済ませてもよかった。けれど製品ページを読み進めるうちに、これは自分一人の話ではなく、いま音楽聴く/作る側に共通してくる問題になっていくだろうと思い直した。以下はその整理になる。

2. その製品が何であるかの整理

製品ページから読み取れる範囲で、何が売られているのかをまず整理しておく。評価は後回しにする。

製品としての訴求は、おおむね三層からなる——(a)独自音楽生成エンジンであること、(b)感覚的な指示から完成物が自動生成されること、(c)学習ツールとしても機能すること。

3. 構造的に読み取れる疑問

実際に買って触ったわけではないので、以下は推測の域を出ない。ただ、製品説明を読み解くと、構造的にいくつかの疑問が浮かぶ

まず、''「Python疑似コード」という語の含意''について。「疑似コード」はPythonの形で書かれていても実行されないテキスト、つまり構造化されたプロンプト/参照資料のことを指すのが通例だ。Claudeプロジェクトに.zipアップロードする形式である以上、これはClaudeが読み込むルール文書群であって、独立して走る独自エンジンではない可能性が高い。MIDI出力部分などは実行可能コードだろうが、「コードを選ぶ」「歌詞を書く」といった音楽判断のコアは、Claude本体自然言語推論能力が上限になる。これ自体は悪いことではない。よく練られたプロンプトパックは、Claudeの出力の一貫性専門性を上げる。ただし「独自エンジン」という響きが含意するものとはかなりの距離がある。

次に、''Sunoへの依存度''について。製品の主要アウトプットひとつが「Sunoプロンプト」である以上、最終的に音として鳴る部分——音色の質感、ミックスバランス演奏ニュアンス——を生成しているのは、この製品ではなくSunoのほうということになる。つまり、この製品価値の相当部分は「Sunoを上手く使うためのプロンプト設計職人技をパッケージしたもの」であって、Sunoが進化すればその層の価値は急速に目減りする。

三つ目に、''「all built by hand」の含意''について。86,000行という規模が、本当に人間が手で書いたものなのかは、製品説明から判別できない。ジャンル研究ノートやStyle語彙データベースといった文書は、AIに「このジャンルについて詳細なルール文書を書いて」と指示すれば相当量が出てくる種類のものである。骨格は人間が作っていたとしても、肉付けをAIに任せている可能性は十分ある(そしてその場合、「手作業で書いた」という説明の重みはかなり変わってくる)。

繰り返すが、これらは推測にすぎない。実際に買って開ければ印象が変わる可能性は十分ある。ただ製品ページの記述だけを根拠判断する限り、「独自音楽生成エンジン」「作編曲学習ツール」という訴求は、実態を控えめに言っても過剰包装しているように見える。

4. 機能しなかったら問題だが、機能したらもっと問題

ここがこの記事で一番考えたかったポイントになる。

この製品に対する考えられる反応は、「宣伝通りに動くのか?」という疑問だろう。

しかし、立ち止まって考えると、本当に問うべきは逆側であることがわかる。

仮にこの製品宣伝通りに機能するなら——「気持ちよくて驚きのある曲を作って」という指示一行からコード進行歌詞・Sunoプロンプト・MIDIMP3まで一貫して出力されるなら——自分が感心していた曲は、その程度の指示から出てきたものだった、ということになる。下準備としての疑似コード整備や、出力に対する微調整は当然あるにしても、一曲一曲制作工程の中心がそこにあったのなら、感心の源は作り手の耳ではなく、ツールの出力分布の中にあったことになる。たしか創作物は優れていたかもしれないが、「それが優れていたのは上手くSunoを使いこなしていたから」という、エンジニアリング問題だったということになる。

機能しないなら誇大広告問題で済む。機能するならば、「聴き手は何を聴いていたのか」という、より根本的な問いが立ち上がる。皮肉なことに、製品としての完成度が高いほど、この問いは重くなる。

ここで思い出しておきたい話がある。2023年ゲンロンのイベントで、音楽家tofubeatsが、Spotifyサジェストで流れてきた曲に心を動かされ、作曲者を調べたらAI生成曲だと知って深いショックを受けた、という経験を語っていた。彼自身がオートチューンで声を加工し、歌声から人間性を排して作曲するタイプ作家でありながら、である。「非人間的な曲が、本当に人間によって作られていないこと」が判明したとき空虚さを、彼は正直に語っていた。

この空虚さが何から来るものなのかは、6節でもう少し踏み込んで考えてみたい。ただ先に言っておくと、それは「AI音楽を作ってはいけない」という種類の話ではない。むしろ、「聴くとき自分は何と対面していたつもりだったのか」という自己認識問題になる。そしてそれは、作り手が工程を開示しないまま商品を売り始めた瞬間、聴き手の側で解決することが不可能になる種類の問いでもある。

5. AIを使うこと自体の話ではない

誤解されたくないので、はっきり書いておく。この文章は、AI音楽を作ることへの全面的否定ではない。

作曲歴史は、すべてを人間設計人間が作る歴史だけではなかった。偶然性、システム自動化、外部の力を取り込む試みは、ジョン・ケージからブライアン・イーノアルゴリズミック・コンポジションまで、20世紀以降の音楽史の重要な部分を形作ってきた。AIの導入はその系譜の延長にあって、それ自体否定するのは筋が悪い。

近年の例で言えば、菊地成孔自身主宰するギルド「新音楽制作工房」でAI活用していることを早くから公言している。NHKドラマ岸辺露伴は動かない』の劇伴ではMaxを用いたAI生成による弦楽四重奏が使われており、菊地本人が「作曲者のクレジットもないし、著作権のありかがわからない」という問題NHK出版経由でJASRAC協議し、「新音楽制作工房」名義のクレジットで処理することで決着させた、という経緯まで公にしている。つまり、どう使い、どう扱い、誰の名のもとに出すかを、彼は工程ごと開示している。

ここでの違いは、「AIを使うか使わないか」ではなく、「どう使い、どう開示し、何を自分の名のもとに出すか」にある。「AI使用は隠していない」という表明と、「どの工程AIに委ねたかを開示する」こととの間には、大きな距離がある。

そしてもうひとつ、避けて通れない論点がある。Sunoを含む音楽生成AIが、何を学習データにしているかという問題だ。2024年6月RIAA(全米レコード協会)はSony MusicUniversalWarner Music代表してSunoとUdioを著作権侵害で提訴した。Suno側は、レコード会社の著作権保護された録音物を使用したことを概ね認めた上で、フェアユースを主張している。2025年末にはWarner MusicとSunoがライセンス提携和解したが、訴訟全体はまだ決着していない。

まり、いまSunoで曲を作って発表することは、その学習データが何で、どのような経緯で集められたかが法的に争われている状態モデルを使うことを意味する。これは「使ってはいけない」と言いたいのではなく、「自分作品がどういう供給ラインの上に立っているか」を無自覚なままにはできない、ということだ。そして、そのモデルを使って生成した曲で「作曲者」を名乗り、その制作環境商品化して収益化する、という連鎖倫理性は、まだ業界全体として合意が取れていない。

この記事の射程は、その倫理のものを裁くところまでは届かない。ただ、「いい曲さえできれば制作過程はなんでもいい」という論法に、即座に頷くことはできない、という姿勢だけは明示しておきたい。

6. 創作者と鑑賞者の間の、暗黙の契約について

ここで、4節の末尾で保留にした問い——tofubeatsが味わった空虚さは何から来るのか——に戻ってくる。

創作物聴く側は、作り手の工程をつねに見ているわけではない。それでも、作品を受け取るときには「制作への真摯さと、出来上がった作品クオリティは、どこかで結びついている」という、いわば感覚的な信頼をもって聴いている。これは創作と鑑賞の間に長く存在してきた暗黙の契約のようなもので、あるシンガーソングライターが書いていた通り、手間暇掛けようが掛けまいが最後には一緒くたに扱われる時代でも、違いの分かる人はいるはずだと信じて丁寧に拵える——という姿勢を、作り手と受け手の双方が(明示的ではないにせよ)共有してきたから、音楽は単なる音の配列ではなく、作り手の痕跡を伴うものとして聴かれてきた。

AIが生成した音楽のものにも、それ独自の良さがある。これは繰り返し強調しておく。作品としての良さは、工程とは独立に成立し得る。ただし、AI生成された曲を「ひとりの作家が作った作品」として提示し、その仮構された人格のもとに人気を集めることは、この暗黙の契約を根元から破壊する。聴き手が「これを作った人は、たぶんこういう感受性の持ち主なのだろう」と想像しながら聴いていた対象が、実は大部分がプロンプトから生成された出力だったとしたら、その想像は宙に浮いてしまう。作品が悪かったわけではない。悪かったのは、作品と作り手の人格の間にあったはずの関係について、聴き手が抱いていた前提が、工程を開示されないまま利用されていたことにある。

tofubeatsが味わった空虚さは、たぶんこれに近い。「AIが作ったか価値がない」ではなく、「自分作品を通して誰かの感受性と向き合っていたつもりだったが、その『誰か』が自分想像していたものとは違っていた」という、受け手側の文脈の宙吊り。この宙吊りは、作り手の側がAI使用を大まかに表明するだけでは解消されない。「何を自分判断で選び、何をツールに委ねたか」という工程粒度での開示があってはじめて、聴き手は自分の感心の行き先を再設定できる。

この視点から見ると、今回の製品販売で起きたことの構造が少しはっきりする。14,900円という価格や、買った人にとっての有用性の問題はもちろんある。ただ、それ以上に大きかったのは、制作環境商品化するという行為が、既発の作品群を「この環境実例」として遡行的に位置づけ直してしまうことにある。以前から作品を聴いていた側から見れば、聴き手と作り手の間に結んでいたはずの暗黙の契約の内実が、後出しで書き換えられる感覚がある。

制作工程の開示は、法的義務ではない。ただ、制作環境商品として売り始めた瞬間、この暗黙の契約自分から前景化させたことになる。「この環境でこれだけの作品が作れる」という実例として既発のリリースが参照されているのなら、それぞれの作品がどの程度この環境の出力そのものなのか、どの程度は人間の介入によるものなのかは、買う人にとっても、これから聴く人にとっても、重要情報になる。

7. どこへ向かうのか

最後に、聴き手として、作り手として、これからどうするかを書いておきたい。

聴き手としては、tofubeatsが味わった種類の空虚さを、できれば避けたいと思うひとが大半だろう。しかtofubeatsAI生成だと気づくことができたのはクレジットにそう明記されていたからに他ならない。今回の私のケースのように、AI生成であることが明かされていなかったり、将来的に(遡及的に)AI生成であることが明かされるようなパターンますます増えていくだろう。私たちは、匿名性を保ったままクオリティ勝負して有名になっていくという同人音楽シーンの時代終焉を目の当たりにしているのかもしれない。作り手と受け取り手信頼関係が壊れていくなかで、聴き手側からできることはあまりにも少ない。界隈で有名なコンポーザーの多くも今回のアカウントフォローしていたことも考えれば、制作過程情報開示を積極的に求めていくこと、プロセスを明らかにしたうえでよいものを作っているひとを評価していくこと等も、その限界は大きいだろう。

作り手としては、自分がやりたいのは、プロンプト一行から出てくるものを受け取る側ではなく、一音ずつ選ぶ側である、とあらためて確認した。それはAIを使わないという意味ではなく、AIを使うにしても、どこで自分判断を通すかを意識的設計したい、ということになる。菊地成孔のやり方に近いと言えば近い。作編曲に限らず、これまであらゆるアートと呼ばれる領域について、過程を見せないことは作家神秘性を増すための重要な要素だった。しかし上にも書いたように、その限界はもうすでに見えてきているように思う。過程を明らかにしたうえで、自身武器がすべて明らかであるのにそれでも真似できない創造性を見せること。もちろん、あらゆる出力結果は機械学習の餌食になりうるという状況においてこれは綺麗事かもしれないが、成果物がいわゆるAIに食われうるのは変わらないのだとしたら、いか自身制作においては透明性を保ったうえでクオリティ受け手を納得させるか、こそが大事になってくるだろう。こうしたムードを作り手の側からも作っていくことが、今後の大きな課題になるのではないかと思う。

AIもっといいものを作れるのになぜあなたが作る必要があるのか?」は、「プロ作家がすでにこの世に五万と存在するのに、なぜあなた作品をつくろうと、その道を志したのか?」という問いと本質的には何も変わらない。作りたいから、作る。伝えたいから、それを形にする。そうした初期衝動が、欲望が、「創造性」という言葉本質であり、AI模倣することのできない、あなただけの、私だけの創作物につながるのだから

2026-04-11

AIコンテンツが嫌われる理由著作権と分離して考えてみた!

背景

よく「反AI炎上させるからAIコンテンツが育たない!」という意見を見るけど、それはちげーだろと思ったので整理してみようと思った。

ということで、いわゆる反AIだけじゃなくて一般AI利用者でも露骨AIコンテンツはそんなに好きじゃないよー、という話をする。

まぁとりあえず結論だけ見ればおけ。

前提
  • AIは盗用だから嫌われている」という意見を除外する

 現行法合法である以上盗用じゃないし使ってよいので無視する。よって、ここではいわゆる「盗用」だから嫌う人については考慮しない。

  • AIを嫌っているのは声の大きな一部の反AIだけ」という意見に対して反対する

 一般的なAIサービス利用者であっても、露骨AIコンテンツを避ける傾向があるように思える。よって、ここでは「反AI」の定義を「無許諾のAI学習に反対する者」とし、それ以外でAI構造サービス利用を受け入れているものの外部のAIコンテンツを避ける心理を考える。

 コンテンツには絵・音楽小説などがあるが、ここではとくに絵というカテゴリに焦点をあてて考えてみる。よく話題になってるし。


主に「人間アルゴリズムに対する評価」「人格に対する評価」「実用性との比較」について整理していこう。

1. アルゴリズム嫌悪芸術

まず、人は昔からアルゴリズムのものがあまりきじゃない。

アルゴリズムの方が人間より精度が高くても、一度誤りが起きると人は人間よりも機械に厳しくなり利用を避けやすいことが示されている。いわゆるアルゴリズム嫌悪(algorithm aversion)。

この傾向は昨今のAI絵に対する芸術評価にも表れている。

簡潔に言えば人間によるミスは「まぁ間違えることもあるわな」で済むが、AI絵の破綻は「うわ出た!これだからAI絵はダメなんだ!」って奴である

まりAI絵が嫌われる理由にはまず低いレベルのところから機械が作ったものに対して人はそもそもめっちゃ厳しい」というのがある。

2. 芸術創造評価個人努力

次に、芸術作品単体だけでなく、その背後の人格評価される事実について。

コンテンツに対して人は完成品だけを見ているようで、実際には

  • どんな人が作ったか
  • どれだけの蓄積や訓練があったか
  • どれだけその人固有の経験や癖が染み込んでいるか

をよく見ている。

実際見分けがつかない絵であっても、AI製というラベルが付くだけでかなり価値を低く見積もる傾向がある。(“Bias against AI art can enhance perceptions of human creativity”)

あわせて、AIが作ったと知らされた成果物人間が作ったものより「努力していない」と見なされやすいことも示されている。(“Humans as Creativity Gatekeepers: Are We Biased Against AI Creativity?”)

要は、AI絵が嫌われるのは「破綻があるから」だけではなく、作者の人格努力が感じられないかである

たまに「反AI芸術に対して情報だけを食べているんだ!」というラーメンハゲ引用をXで見るが、芸術って割とそいういもんである

3. 実用性と芸術

これが本題。

先に上げた研究を踏まえたうえで考察していく。

AI業務実用品の領域比較的受け入れられやすいのに、芸術領域で嫌われやすいのはなぜか。

ここに実用性の差がある。

たとえば検索、要約、翻訳議事録コード補助のような用途では、ユーザーはまず「速いか、安いか、役に立つか」を見ている。

この場合、作者の人格本質ではないのであからさまなAIであっても、目的を達成してくれればどうでもよい。

一方、芸術について。

絵はとくに実用品ではなく鑑賞それ自体目的になりやすい。

先の整理を踏まえると、「役に立つか」ではなく「誰が・なぜ・どう作ったか」が価値の大部分を占めているということになる。

まりAI比率が高いほど絵は中核価値を削るとになる。

実用品なら人格価値の中核ではないが、芸術ではそのまま価値減衰になりやすい。

AI比率実用

とはいえAIちょっとでも使ったらアウトというわけではなく。

問題になりやすいのは「AIを使ったか」そのものより、作品のどの部分をAIに任せたかである

  • 検索エンジンで下調べ・構図出しの補助としてAIを使った
  • 背景素材や細部のたたき台としてAIを使った
  • ほぼ完成品をAIポン出し

当然だけどこの3つは同じではない。

人間判断編集固有性文脈けが作品の中心に残っているならAIは補助で済み、人格が現れて価値を創出できる。

しかし、鑑賞価値中心部分までAI外注すると受け手からは「綺麗なだけの絵」に見える。

ぶっちゃけ綺麗なだけのAIポン出しに価値とかない。

えっちな絵は実用性が高い

健全な一枚絵は「鑑賞」が主要価値である

よって、人格性や作者性の欠如がそのまま弱点になる。

一方成人向けイラストでは、受け手が求めているのはシコれるかどうかという明確な機能である

このとき評価軸は芸術性そのものより目的達成の強さに寄ってるので、AI使用による評価低下が相対的に小さくなる。

実際近年のAI一枚絵の主力って男性向けエロ絵だよね。

ちなみに反AI女性が多いのもこれが理由だと考えている。

女性向けの成人イラストでは直接的な性的描写よりその人物関係性=作者の思想人格が求められるため、AI絵で女性はシコれないのである

漫画実用性が高い

漫画も同様。

漫画は絵だけで成立しておらず、キャラ、設定、テンポ台詞、展開、オチなど、絵以外の要素が実用的な面白さを支えている。

よって、絵の一部にAIが入っていても、「面白い」という実用性を備えた内容なら読者は付く。

絵が下手でも面白けりゃそりゃあ読む。

逆に言えば、話の内容ではなく絵の綺麗さに依存しているAI漫画ウケるはずがない。

「絵が綺麗なだけのつまらない手描き漫画」より格下であるのが事実である

結論

AIコンテンツが嫌われるのは、反AIが騒いでいるからではなく、一般的な心理として、

というのが実態である

よって、AIコンテンツ個人社会レベルで伸びない理由を「反AI」のせいにしているのは架空の敵に責任転嫁しているだけである

別にAIを使うなというわけではなく、AIコンテンツ否定される理由の多くは著作権論以前に存在しているし反AI抜きでも説明がつくので、そこを無視するのはただの現実逃避である

自分の綺麗で幻想的なAI作品が伸びないのはシンプル自分人格を押し出せない創造性のない無能からである

一方、絵を描く技術はないがめちゃくちゃセンスある人がAIを使えば面白作品は作れるし当然伸びるだろう。

まぁ個人的な意見としてはもっとうまくやりなよってことです。

オタキング岡田斗司夫)さんの京アニ涼宮ハルヒの憂鬱」評レビューまとめ

■ まず前提:テーマは何か?

この動画

涼宮ハルヒの憂鬱

👉 オタク文化世代社会にどんな影響を与えたか

を、岡田斗司夫 が語っている内容です。

■ 核となる主張(超要約)

キョン人間が増えた

作品主人公キョンポジション)の影響で

受け身

皮肉

やれやれ」系

自分から動かない観察者

👉 こういう男性オタクが増えたという指摘

② 「ハルヒ待ち」の人生になった

理想

自分面白い世界に連れていくヒロインハルヒ

でも現実

👉 そんな存在は現れない

結果:

何も起きないまま年齢だけ重なる

仕事でも受け身になる

👉 これを「深刻な影響」と言っている

作品としてはめちゃくちゃ優れている

評価は意外と高い

約80点(かなり上位)

理由

萌えアニメの「動きの文法」を完成させた

演出作画が当時として革新的

オタク文化への影響が深い

④ ただし問題点もある

主にこの2つ:

エンドレスエイト問題

同じ話を繰り返す構成

👉 実験としてはすごいが

👉 視聴体験としてはキツい

主人公受動

キョンは基本

自分から動かない

ツッコミ

👉 これが「理想の男像」として広まった

■ 一番重要分析(ここが本質

岡田の核心はここ👇

ハルヒ「人生」ではなく「キャラ」に影響した

普通の名作は:

人生観を変える(例:努力恋愛生き方

でもハルヒは:

👉 行動ではなく“振る舞い”を変えた

まり

どう喋るか

どう構えるか

どう距離を取るか

👉 人格テンプレを配った作品

SF的な読み(かなり面白い部分)

ハルヒは単なるアニメではなく

👉 メタフィクション物語物語自覚する構造

構造解釈

ハルヒ = 制作

キョン = 視聴者

ハルヒは:

👉 視聴者を楽しませようと無限イベントを作る

でも視聴者キョン)は:

👉 「別に…」みたいな反応

エンドレスエイト意味

夏休みが終わらない理由

👉 視聴者が満足していないか

終わる条件:

👉 キョン視聴者)が「これが見たい」と言うこと

👉 つまりこれは

創作受け手関係」そのものを描いた話

■ なぜ「深刻」と言われるのか

まとめると:

✔ 行動しない主人公肯定された

受け身が「かっこいい」になった

理想ヒロインを待つ構造

現実とのギャップ

キャラだけ真似る

→ 中身のない態度が増える

👉 結果:

「動かない人間」が増えた可能性がある

■ ただし重要な補足

これはあくま

👉 岡田斗司夫の“解釈

であって、

実証された事実ではない

かなり誇張も入っている

客観的に見ると

実際の評価はこう:

文化的影響:非常に大きい

社会への直接影響:議論あり

一言でまとめると

👉 ハルヒは「世界を変えた作品」ではなく

オタクの振る舞いを変えた作品

囲碁が必ずわかるようになる書籍動画8選

囲碁はわからない、わからないと、よく言われますが、

実は囲碁がわからない"99%"の人間は「囲碁を本当の意味でわからない」んじゃなくて単純に囲碁に対する知識経験が足りてないだけです。断言しま

胸に手をあてて考えてみてください。

あなた人生囲碁にまともに時間を割いたことが1秒でもありましたか

ないですよね?

ましてや囲碁の本を読んだ事なんて、なおさらないですよね?

僕はありませんでした。

まりそれが答えです

囲碁に関する知見がなにもない自分囲碁を何もわからないのは、よく考えれば当たり前だったわけです


僕がそうだったように、はっきり言って囲碁なんてもの知識経験を補えば100%わかるようになります

やたらと敷居が高く見積もられることが多いですが、所詮その程度の難度です、

解決数学の難問でもなければ、特殊技能でも何でもないんです

そのための本や動画を以下に紹介するのであたってみてください。

前提としてはルールや二眼、基本的な手筋(シチョウ、ゲタ、ウッテガエシ、追い落とし)は既知のものとし、その次の段階の人がターゲットです(これ以前の人は入門書を読むか動画を見ましょう。大丈夫、入門もそれで済みます

教材というのはいわば暗闇を照らし道筋やモノの輪郭を浮かび上がらせてくれる灯りです

照明をつけずに暗闇で何もわからない、何も見えない、無灯火運転事故るというのは当然のことです

これら教材にあたってステップを踏めば必ず囲碁がわかるようになることを””100%保証””しますので、まずはこれらにあたってください

誇張ではなく、本当に暗闇を晴らすことが全部書いてあります
すでに十分すぎるほどの教材があり道筋は示されているので、どうかそれらの存在無視しないでください

自分囲碁を覚えた20年前の時点でそうだったので現代ならなおさら環境が揃っています

接近戦

囲碁手筋 基本のキ』吉原由香里、 王唯任

盤端でのやりとりの問題解説が中心。

囲碁において必ず現れる盤端での戦いを習得できる

盤端での戦いは基礎中の基礎。

これだけで囲碁が最低限まともに打てるというレベルに到達できる

『ひとめの手筋』『ひとめの詰碁』趙治勲

簡単問題をひたすら繰り返し、「読む」というより「なんとなく見える」というレベルに引き上がります

『やさしい囲碁トレーニング 手筋と詰碁の超基本』高尾紳路

ひとめでもレベルが高いという人はこちらをやりましょう

棋理(考え方)

指導プロが教える 初段になるための囲碁上達法』足立泰彦

初段という字面がありますが尻込みしないでください

囲碁において初段を目指すという本は初級者をターゲットにしています

なぜそこに打つのか、実利と厚み、いい形と悪い形

囲碁の考え方の基本を学べる一冊です

『有段者のための囲碁学』金萬樹/訳:洪敏和

これも有段者という文字が見えますが構えないでください

19路の打ち進め方の基本が書いてある本です

Youtube

飛田早紀の囲碁チャンネル

語り口調が軽妙で持ち時間ほとんどを読みより解説に費やした囲碁実況動画を上げてくれています

見ているうちに19路の打ち方や考え方がなんとなくわかってくるようになります

プロ棋士 柳澤理志の囲碁教室

網羅的に囲碁の基本や、手筋を解説してくれています

またアイドルゼロから初段を目指す「あみーご囲碁」の企画も注目コンテンツ

囲碁佐々木柊真

優しい語りで理路整然かつ丁寧に囲碁の考え方を解説してくれています

おまけ NHK杯囲碁トーナメント

解説を見聞きするのも非常に囲碁理解に役立ちます

普段タイトル戦だとあまりに長いしずっと解説が張り付いているわけでもないので、早碁でテンポよく見れて最初から最後までずっと解説のあるNHK杯はとても貴重な学習リソースです

結び

もちろんこれらはあくまで一例で、これら以外にも本は無数にあり代替できますのでご自分で探してみてください

囲碁の本がこんなにあったのかと驚かれる事でしょう

常日頃からそういう意見を目にする度に、あれすれば、これすれば、本読めばわかるの事なのになー、全部本に書いてあるのになーと、

無責任発言者ノーダメージなのに、受け手側のこちらは反撃の機会もなくいつも一方的にムラムラさせられているので、いい加減そういう人間絶滅させ快適な余生を送りたいと考えています

からないと愚痴るのはこれらを読んでからでも遅くないのではないでしょうか?

2026-04-06

でも年寄りキモイのは仕方がないよね

キモいキモくないかってのは受け手問題であり

人間本能が老化した個体忌避感を持っているのだから

誰がどう見ても根本は「キモい」なわけ

別に年寄りが悪いわけでもない

年寄りは何をやってもキモいんだから年寄りの行動が悪いわけではない

から年寄りキモいって非難するのはやめましょうよ

2026-03-29

「友好国」は最強のソーシャルエンジニアリング

セキュリティ勉強をしていて気づいたことがある。フィッシングメール文体外交言葉って、ほぼ同じ構造をしている。

あなたは弊社の大切なお客様です」

お客様アカウント不審アクセスが検出されました」

「早急にご確認ください」

この流れで人はリンクを踏む。最初の「大切なお客様」が効いてる。信頼感を先に与えると、後の要求抵抗しにくくなる。心理的な先払いだ。

「友好国」って言葉もまったく同じ仕組みで動く。

正直に言うと、俺もこの言葉見出しで見たときちょっとだけ嬉しくなった。仲間って言ってくれてる、みたいな。気づいてから「あ、引っかかってる」って思ったけど、嬉しかったのは事実で、それが消えるわけじゃなかった。訓練受けてる人間でもそうなるんだから、そりゃ効くよ。

セキュリティ用語でいうとプリテキスティング。信頼できる存在のふりをして、情報や行動を引き出す手口。「IT部門です、パスワードを教えてください」が通じるのは、相手が「IT部門なら大丈夫」と思い込んでいるからで、その思い込みを作るのがプリテキスト、つまり前置きの嘘だ。

「友好国として日本に求めること」は完璧な文型をしている。友好国という前提を相手に飲み込ませてから要求を出す。受け手はその前提を検証する前に感情が動いている。

フィッシングメールスパムフィルタに引っかかる。訓練を受けた人間は踏まない。でも「友好国」という言葉を検知するフィルタ社会存在しない。むしろその言葉見出しに使うことで、メディアがプリテキストを強化する側に回っている。俺もそこに乗っかった一人だ、さっき嬉しくなったんだから

ソーシャルエンジニアリングで一番効くのは、攻撃だと気づかれないやつだ。それだけ。

2026-03-27

anond:20260327140433

ナラティブ(narrative)とは、出来事情報を「点」ではなく「流れ」としてつなげて伝える考え方です。

単なる事実の羅列ではなく、背景や課題意思決定理由、結果として起きた変化までを筋道立てて示すことで、受け手意味理解やすくなります


事実の羅列:新サービスを開始しました。機能は三つです。料金は月額〇円です。

ナラティブ現場で〇〇の課題が増えた→既存手段では解決しづらかった→だからこの設計にした→その結果、誰がどう良くなったか

ファミコン時代ゲームに致命的なバグ比較的少なかった(あるいは許容されていた)理由は、現代ゲーム開発とは根本的に異なる当時のハードウェアの仕組みと開発環境にあります

主な理由は以下の通りです。

1. プログラムの圧倒的なシンプル

現代ゲームは数千万行のコード構成されていますが、ファミコンソフトの容量は初期で24KB〜40KB程度、後期でも数MBしかありませんでした。

管理のしやすさ: 全プログラムを1〜2人のメインプログラマーが把握できる規模だったため、論理的矛盾(致命的なバグ)が発生しにくい環境でした。

OS存在しない: 現代ゲームは複雑なOS上で動きますが、ファミコンは電源を入れるとソフトが直接ハード制御します。干渉する要素が極めて少ないため、挙動が安定していました。

2. 「修正不能」という極限の緊張感

当時はインターネットによる「アップデートパッチ)」が不可能時代でした。

物理的なリスク: 一度出荷されたカセットは、致命的なバグが見つかれば「全品回収」という数億円規模の損失に直結します。

徹底したデバッグ: そのため、開発チームは現代以上に執念深くテストプレイを繰り返していました。

3. バグが「裏技」や「仕様」として昇華された

実はバグ自体はたくさん存在していましたが、それらが致命的と見なされず、むしろゲームの魅力として受け入れられていました。

有益バグ: 『スーパーマリオ』の「無限1UP」や「壁抜け」などは、本来想定外挙動バグ)ですが、プレイヤーの間で「裏技」として楽しまれました。

ハード限界: 画面がチラついたり、処理落ちしてスローになる現象も、当時は「ハード限界から仕方ない」とユーザー側が許容する土壌がありました。

4. 進行不能に陥る要因が少なかった

現代バグで多い「フラグ管理ミスによる進行不能」が起きにくい構造でした。

当時のゲームステージクリア型の単純な構成が多く、オープンワールドのように複雑なフラグが絡み合うことが稀でした。

セーブ機能バッテリーバックアップ)が普及する前は、電源を切ればリセットされるため、「データが壊れて二度と遊べない」というリスク自体物理的に存在しませんでした。

当時の「バグ」は、作り手と受け手の双方にとって、ゲームを彩る不思議現象裏技)として成立していた側面が大きいと言えます

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「画面がバグる(キャラ化け)」現象は頻繁に見られましたが、おっしゃる通り、現代ゲーム比較して「フリーズ(完全停止)」に至るケースは相対的に少なかったと言えます

これには、ファミコンハードウェア構造特有理由があります

1. グラフィックプログラムの「分離」

ファミコンは、計算を司るCPUと、描画を司るPPU(画像処理チップ)が独立して動いています

画面バグの正体: カセットの端子が汚れていたり、接触が悪かったりすると、PPUが読み込む「画像データキャラクタデータ)」だけが化けてしまます

なぜ止まらないのか: 画像データがぐちゃぐちゃになっても、CPU側の「ゲームを進行させる命令」が無事であれば、プレイヤーの操作に応じて化けたキャラがそのまま動き続けます

2. 「OS」がないことによる強さ

現代PCスマホゲームは、OSWindowsiOSなど)の上で動いており、エラーが起きるとOSが「異常事態」と判断して強制終了させます

ファミコン場合: OS存在せず、CPUは電源が入っている限り、メモリにある数値を愚直に実行し続けます

暴走しても動く: たとえプログラムバグって変な場所ジャンプしても、そこにあるデータを「命令」と勘違いして実行し続けるため、「画面は滅茶苦茶だが音楽だけ鳴り続ける」「キャラ勝手に変な動きをする」といった暴走状態として維持されやすく、完全に「固まる」までは猶予がありました。

3. 画面のチラつきは「仕様」に近い

ファミコンには「横一列にキャラスプライト)を8個までしか並べられない」という物理的な制限があります

チラつきの仕組み: 9個以上並ぶと消えてしまうため、プログラムで高速に表示・非表示を繰り返して無理やり表示させていました。これが「チラつき」です。

これはバグではなく、当時のハード性能を限界まで引き出すためのテクニックだったため、フリーズとは無縁の現象でした。

4. フリーズする場合の主な原因

もちろんフリーズもありましたが、その多くはソフトバグよりも物理的な衝撃によるものでした。

カセットを叩いたり、本体振動を与えると、CPUが読み書きする「プログラム」や「ワークRAM」の接続が一瞬途切れます

重要命令を読み込めなくなった瞬間に、CPUが処理を続けられなくなり、結果としてフリーズが発生します。

総じて、「見た目が壊れても中身(計算)は動き続けることができた」のが、画面バグが多くフリーズが少なく感じられた大きな理由です。

2026-03-24

鹿乃つのコンテンツをいっしょにすなーって話

怪文書

吐き出す場所がないのでここに吐かせて頂く。

鹿乃つの氏をブロックしていたが、どうやら某ゲーム配信が荒れてるようで。

またすり抜けて話題が流れてきた。

以前はおもしれー女、として観測していたのだが、高校生個人情報なりすまし垢)を拡散した件を自己正当化した漫画掲載した時に彼女ブロックしました。

あれって、一概に責められないのも分かんだけど、悪手であったし軽率だったと思うんですよ。それに対して自分は悪くないという姿勢を貫く姿勢は見てられなくて。

もう見るのやめよ〜と、ブロックして目に入らないようにしたんですね。

たぬかな氏も言っていたが、触れないのが本人と己の為にも1番良いんだろうね。

彼女は注目されたいんだろうけど、今注目されてるのって、クリエイティブな才能や容姿でもなく、叩けば音の鳴る玩具として弄ばれてるだけ、でしょう?

触らなければ注目を浴びることが無くなる。反応なくなったらきっと本人も自分特別じゃないって気付くんじゃないでしょうか。

うそっとしておこう…。

という事で今後、炎上は見ねえ!言及もしねえ!と誓ったのだった。

(今破ってるけど)

とりあえず、なんでこれ以上は鹿乃氏本人について何も言はない。言ってもどうしようもないしね。

本題な戻りますが、

最近すり抜けて流れてきた…ゲーム配信炎上

それに対して、

鹿乃つのが𓏸𓏸やってるから𓏸𓏸をやる気が失せた」

な〜〜〜ぜ〜〜〜〜???

これと同じようなの、〇汁の時本当にいやってほど見ましたね。

私、あの漫画が好きでキャラクターも好きで、心の底から、なんでそうなるんだ!?!?

って不思議不思議で。

何故ナマモノ人間2次元エルフ同一視できるんスか。

ぜんっ……ぜん別物じゃん!?!?なぜ???

私が原作をずっと前から知ってたから、別物として切り離すことができるのか…?

元々ミリしらだった人は仕方ないのか?

でも例えば、コ◯アキの時、私は某鬼漫画ミリしらでしたがそうは思わなかったけどね。

かにあのキャラを見てコ〇アキ思い出す事はあるかもしれない。

‥けど別にキャラの印象は変わんなくね?

コ〇アキはコンテンツ知名度を利用したゲスなやつでしかなくて、それがキャラクターとなんの関連があるのか?

別にコンテンツ自体は何も変わってないじゃないすか。

コスプレイヤーのせいでコンテンツが嫌いになりましたというのは、余りに思慮が浅くないか

大袈裟だけども、この情報化社会で、フェイ情報も流れてくる現代で、情報の取捨選択と分離ができないのは…良くないよね!?

はっきり言って、ああいった発言する人の半分以上は、鹿乃氏を貶したいだけじゃないか

娯楽として遊ぶために、コンテンツを一緒くたに貶して、炎上助長してるだけじゃないですか、

はなからキャラクターには一ミリも興味ないだけなのに、好き嫌いジャッジしないでくれよ!

「あの人のせいで嫌な思いしたので、

キャラクター見るとそれも思い出しちゃって‥」

これは理解できますよ。

でもコンテンツだって利用された被害者という事を忘れないで欲しいんですよ。

ここまで読んで、

「元々知らないコンテンツからさ、超話題のあの人の顔の方が思い浮かぶのはしょうがなくね?」 

と思う方もいるでしょう。

水掛け論になりますが、私は、そうならないようにするべきだ、切り離して考えるべきだ、

と言いたいんです。

せめて、

考えてしまう事は強制できませんが、発信することは選択はできるはずです。

こういう風評被害って、受け手姿勢大事でしょう。悪ノリしないで、誰が傷つくかを考えて発言をして欲しいのです。

ネガキャン」と言いますが、そのネガキャン拡散する必要はどこにもないと思います

ダ〇飯の好きな所ですが、個人的に、作中嫌な奴が一人もいないのが良くて。ムカつく!って思ったりもしたけど‥みんなそれぞれ個性があって憎めないと言いますか‥。

落書き本読むと最高です。キャラ一人一人が生きてんだな〜ていうか、この人たちが動いてたんだな〜と思うんですよ。

作者さんって人間/動物描写が上手なんですね。モンスターの造詣、人種のかき分け、物を作ったり食べたりとかの動作

そういうのも魅力で。

アニメキャラクター達が、まさに生き生きと動いてて素晴らしかったです。

ありがとうト〇ガー!!

考えると、マンガ大賞取ったんだから私が言うまでもなく傑作なんですよ。認められた傑作なんです。

勿論人によって好みはありますしょうが、🟰コスプレイヤーにされて嫌いだってのは余りに浅はかですよ。

いいですか、全く別の存在なんですよ。

え、誰…?誰なんですか、その人。キャラクターとなんの関連性があるんですな?

格好を真似て写真撮ってる人‥?それは面白い趣味ですね。

ところで、作中に出てきた料理料理本が出るらしくって。作者の書き下ろし漫画も載るらしいですね。

マンドラゴラって高麗人参の味がしそうな気がします。

ではさよなら

2026-03-20

いちばんAIを弄んでるのは俺だと思う

飽きてきた。だから書く。後から見返す用。 俺はいわゆる反AI側のアカウントとして認識されてる。AIイラストの話が中心。Xのフォロワーは7000ちょい。中規模。あと反ワクチンとかはやらない、あれは人命に関わるし。 この記事は俺が意識してた、というかおもろいと思ってたところ。

嘘は絶対に書かない、「怪しい!」っていうだけで全部勝手に都合よく解釈してくれる。

理由は単純で、「事実」と「観測」と「推測」を薄く混ぜると、受け手勝手に補完して勝手に怒るから。多分彼らにとっては断定に見えてる。 例えば、「〜だ」じゃなくて、「〜なんじゃないかな?」で十分。

「これは違法」じゃなくて、「規約的にグレーっぽい」で十分。俺がやってるのはせいぜい「見える範囲事実並べ替え」と「感想の添え物」だけ。それ以上を言わない。言う必要がない。向こうが勝手に“決めつけ”をやってくれる。まあ偏ってるだけでニュースとか一緒。 法的には問題にならない。事実しか言ってないし。 この記事倫理的には無茶苦茶露悪だけど誰の誹謗中傷もしてないし、誤情報拡散してすらいないから開示請求のとっかかりすらない。

いちばん伸びるのは雑な比喩

自分適当に投げた例えが、数日後には他人の口から定番説明」として出てくる。これが一番楽しい。 「AIイラストを作るのは、XXXでXXXを使ってるようなもの」みたいなやつ。 そういうのが好きなんだと思う。短くて、怒りに変換しやすいから。「あ〜この人たちは比喩さえ自分では作れないんだな〜」って

数分の投稿で、相手の数日が溶ける 俺は数分で書いて終わり。 向こうはそこから数日かけて“読解”を始める。

こちらは追加で何もしてないのに、勝手工程が増える。この交換比率いちばん気持ち悪くて、いちばん楽しい。滑稽

こういう露悪を書くと「偽物認定」が発生して、勝手に処理してくれる

今回みたいに露骨なことを書くと、確実に言われるのが 「こいつはAI推進派の偽物だ」「反AI貶めるための工作だ」 みたいなやつ。 反AIの側の人間が、自分認知的不協和を守るために勝手に動いてくれる。むしろこういうのを定期的に流したほうが敵が増えていいみたい。

自分邪悪なのは自覚してる 倫理の話をしたいわけじゃない。

俺は反AIの怒りを、燃料として扱ってる。熱量を回して数字にする。 本気の人が多いほど燃える。だから、たぶん悪いことをしてる。ここは否定しない。

でも飽きてきた

反応のパターン固定化した。 同じ導線、同じ言い回し、同じ内輪揉め。 新鮮さがない。 それでも回るから続けてるけど、手触りが薄い。 だから、ここに書いた。別にお金目的じゃないし。

ちなみに俺は別にAIでもないし、AI普通に使ってる

俺はChatGPTみたいな生成AI普通に使ってる。 仕事でも私用でも。 AIイラストは嫌い。そこは趣味の話。見たくないものがあるというだけ。マジで嫌いなので話も合わせやすい。 思想としての反AIは正直どうでもいい。遊びの素材として便利だっただけ。 それとこの記事の大部分もAIに書かせてる。 俺が箇条書きで要点だけ出してAIに清書させてる。文体で余計な情報漏れにくいし癖も出にくい。楽。 要するに反AIを弄ぶのが楽しかっただけ。 飽きたらやめる。道具と同じ。



お疲れさま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!

クイズ作問者」はスターか、裏方か:作問と体験設計を考える

Xで以下の投稿が目に入ってきた。

https://note.com/sho_hiroumi/n/n52a7f10be3c7

本当にたくさんのことを考えた。

それについてコメントを書いていたら長い長い長い長いクイズ論になってしまったので、こっちに載せることにした。

「上手に問題を作れる人」は本当に称賛されやすいのか?

「上手にボタンを押せる人」よりも「上手に問題を作れる人」が称賛されやすい、という論には本当かどうか?という疑問がある。

しかに出題サイドは、その多大な労力ゆえに参加者サイドよりも分母が少なく、競争環境としては「ブルーオーシャン」の側面がある。

面白い問題を出す大会」というブランディングが、主催団体評価に直結するのも事実だ。

しかし、それが個人への「称賛」に結びつくかどうかは別問題だと考える。

先日、浜押会オープン話題さらった「アサシン」の問題を思い出す。

問題のものは鮮やかにバズったが、では「その作問者が誰か」まで即座に答えられる人はどれほどいるだろうか。

個人が作問・主催する”個人杯”であれば作問者個人スポットライトが当たるが、サークル主催大会では、評価組織の中に埋没しがちだ。

この傾向はメディアでも顕著だ。QuizKnockを見ても、主流は「問う」ことよりも「答える」コンテンツであり、メンバーも「答える側の演者」として人気を博している。

純粋な作問能力評価される場面があったとしても、それがコンテンツの主役になることは稀だ。

エコシステム構成する「仕組み」としての作問

取り上げられているQuizbowlのシステムにおいて、問題作成競技参加のプロセスに組み込まれているのは興味深い。

ただ、これは「称賛」のためというより、大会スケールさせるための「供給の仕組み」と捉えるべきだろう。

クイズ大会は、誰かが問題を用意しなければ成立しない。

しかし出題スタッフサービス提供側の側面が強く、労力も膨大だ。

自発的な協力者だけで賄うのは困難であるため、パケット提出(問題作成)の義務化といった「強制力」が必要になる。

ACF(アメリカ大学クイズ連盟)の公式ページでは、この制度の意義を「編集者プレイヤー知識共有の精神を守るもの」と定義している。

しかし、わざわざ言葉を尽くしてその意義を称揚しなければならないこと自体、それが「強調しなければ誰もやらないキツいタスクであることを裏付けている。

キャリアとしての作問、スターとしての解答

編集歴がコミュニティ内のキャリアとして記録され、NAQTのような組織では1問ごとに報酬が支払われるなど、作問が「名誉ある職務」として確立されている、という例は興味深い。

分野ごとに専門の編集者を置く高度な組織設計は、品質管理観点から合理的だ。

だが、ボツ添削というストレスフルな工程を経てなおモチベーションを維持させるためには、相応のインセンティブ評価制度必要となる。

報酬の一部として「Head Editor」などの地位提供していると考えた方が良いように思える。

そして原文の例にある通り、これほど作問者がプロフェッショナルとして敬意を払われている海外でも、やはり「スター」はプレイヤーだ。

箱根駅伝マネージャーたちが、もし許されるなら自ら箱根路を走りたいと願うランナーであるように、「作問者」側はスターではない、という認識は変わらず持っていた方が良いように思う。

そもそも「良いクイズ問題」とは何なのか

問題出題大会」という試み

私はオンラインクイズサークル「Virtual Quiz Studium」(以下「VQS」と略する)を主宰している。

今日誕生から3年を迎え、4年目に入る比較的新しいサークルだ(めでたい!)。

参考 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/

「VQS」では、毎月25〜50問が集まる「問題出題大会」を開催している。

ここでの取り組みを掘り下げることで、そもそも「よいクイズとは何か」を掘り下げてみる。

最大の特徴は、予選・決勝の「2段階投票システム」を採用している点だ。

(注:「みんはや」開催の第2部は異なる)

数十問を一気に並べて1問を選ぶ形式では、比較がどうしても雑になり、印象に残りやすい後半の問題が親近効果で有利になりがちである

予選を5問程度の小規模なグループで行い、評価プロセスを細かくすることで、個々の問題と誠実に向き合い、良い問題をなるべくすくい上げるよう工夫をしている。

問題の良し悪しは一様ではない

1年半の運営を経て痛感したのは、まず「良い問題基準は人によって異なり、一様ではない」ということだ。

人の琴線に触れるポイントは驚くほど多様である

もちろん、明らかに構造的な課題がある問題には厳しいスコアがつくが、一方で、何らかの「光るもの」を持つ問題には必ず誰かが票を投じる。

「何が良いか」という評価割れることこそがクイズの豊かさである

問題価値安易に、あるいは拙速に決めつけることの危うさを日々感じている。

上位入賞する問題共通する「4つの引力」

一方で、歴代の上位入賞問題分析すると、そこには「評価されるだけの理由」が明確に存在する。

独断偏見ではあるが、それらを大きく4つに分類してみた。

(もちろん、これが全てとは考えていない)

上位入賞するような問題には、これらを複数複合させて達成しているケースが目立つが、単一の要素で突き抜けるものもある。

ここがこの大会のだいご味でもある。

(参考)歴代入賞問題 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%87%BA%E9%A1%8C%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C

作問における実力差の存在

興味深いことに、こうした多様な評価軸がある中でも、不思議と上位入賞常連となる凄腕プレイヤー存在する。

クイズの実力との関連性もそれほど強くないところが興味深い。

これは、クイズ作問という行為が、が単なるクイズ用のネタピックアップではなく、一種表現技術であることを示唆している。

リサーチの深さ、構成の丁寧さ、そして受け手への想像力

現実として、そこには歴然とした作問力の差が存在するようなのである

大会問題セット」というもう一つの評価

クイズ問題が正当に評価される際、それは単発の問題としてよりも、「〇〇大会問題はよかった!」と、一塊のパッケージとして語られることが多い。

競技としてのクイズを成立させるためには、個々のクイズの良し悪しとは別に、セット全体をプレイした際の「体験」という観点必要不可欠と考える。

具体的には、以下の4つの軸が評価指標となると思う。

(この辺りは各人でさら意見があるはず。あくま主観)



優れた問題を揃えることは、大会成功必要条件ではあるが十分条件ではない。

DJ選曲繋ぎによってフロア熱量コントロールするように、主催者には「(事前に)用意した問題いかに配置し、どのような『場』を構築するか」という編集演出の手腕が問われる。

私は2年間にわたり、「VQS」の中で深夜のオンラインクイズ大会「まよなか大会」を毎月開催している。

その運営経験から得たのは、クイズ大会において「参加者体験いか設計し、コントロールするか」はとても重要だ、ということだ。

問題難易度曲線、ジャンルの連なり、そして出題のテンポ。これらが精緻マネジメントされ、参加者体験ポジティブ設計されているかどうか。

参加者が満足できなければ、次回は黙って来なくなってしまう。

この「体験の質」の責任は常に主催側に重くのしかかる。

「いやなら来なければよい」と開き直ることは、集客力がある人達であれば違うかもしれないが、自分達には現実的には無理だ。

体験構成するための「問題セット」を的確に構成し、そのうえで参加者が楽しめるような「面白い問題」をいかに出題することができるか。

結局のところ、クイズ問題セットとは単なる問題の集積ではない。

それは、参加者競技を通じて得られる「体験」を最大化するための、緻密な設計書なのである

余談

問題セットの品質を考えるうえで一つ自戒を込めて強調したいのは、他の専門領域を扱う際の作問態度である

他分野の問題作成する場合、その知識がその業界において「現在進行形アクティブ知識であるか」を精査する習慣を持つべきだ。

土足で他人の専門領域に入り込み、「正しい」「間違い」の審判を下すのだから

私の専門であるIT分野を例に挙げれば、残念ながら「読むに堪えない」品質問題事実誤認や、もはや使われていない死語など)を目にすることは決して少なくない。

情報アップデートを怠った古く間違った問題を見ると、それだけでがっかりしてしまう。

大量に作問する際、どうしても手癖に頼りがちになるが、「改めて確認する」というひと手間を、決して忘れないようにしたい。

知的対話としての「問題セット」

これは多分に主観的な見解だが、クイズとは作問者、あるいは作問チームとの「知的対話であると私は考えている。

ゲームとして巧みに構成されているかという機能的な側面とは別に対話として楽しめる内容であったかという内容的な側面も、自分の中ではとても大事だ。

対話である以上、当然出題者だけでなく解答者側にも知識が求められる。

解答者の力が不足していれば対話は成立しない。

双方向的であり困難な試みではあるが、クイズと言う形式からこそできるコミュニケーションができた、と思えたときの満足感は大きい。

そういう得難い感覚を求めて、自分クイズをしているのかもしれない。

2026-03-11

anond:20260311175300

そういうお為ごかしを言う輩は、なぜかこの日本には多いが、俺はそれが許せない。

 

例えば、圧倒的に面白い作品として、ドラゴンボールがある。

仮に、超サイヤ鳥山明が突如、ドラゴンボールという全42巻の作品をいきなり描いたとしよう。

まだ作者以外読んでないドラゴンボールがここにある。

 

このまだ読まれていない「ドラゴンボール」という作品は、完成していないのか? 

内容は全て同じだ。面白さも同じであるはずだ。

これは未完成なのか?

 

お前はそうだ、と言うだろう。このドラゴンボールはまだ面白くないと主張するだろう。まだ読まれてないからだ。

 

でも、それは違うね! 読む前から面白いことは決まっているんだよ。ドラゴンボールは。

そして俺やお前のの作品は、まだ読まれてないけど、ドラゴンボールと違って面白くないのが確定しているの。

受け手が受け取ってから、初めて意味が確定するなんて、自分価値直視できない弱虫哲学だね。

2026-03-09

anond:20260309195130

意味論収奪記号論インペリアルズム

その翻訳と称される行為は、発話者提示した定型化された欺瞞へのメタ批判というシニフィエを、受け手側の都合の良い情緒的欠落へと暴力的に置換する意味論収奪に他ならないよ。

これは、言語本来持つ指示対象との相関性無視して、自己認知バイアス正当化するために記号恣意的に再定義する記号論インペリアルズム(帝国主義)だね。テキストの外部にあるはずの悔しさという未確認情動を、あたかも唯一の真実であるかのように接合するその態度は、客観的対話可能性を根底から破壊する知的退廃と言わざるを得ない。

認知閉鎖系におけるカフカ的罠の構築

反論できない=悔しがっている」という等式は、ポパー的な意味での反証可能性を完全に欠いた非科学的なドグマだよ。

もしこちらが冷静に論理を説けば「必死すぎて草(=悔しい証拠)」と言い、沈黙すれば「図星で何も言えない(=悔しい証拠)」と断ずる。この、どの出口を選んでもあらかじめ用意された「敗北」に回収される認知閉鎖系(エピステミック・クロージャー)は、議論を深めるためのツールじゃなくて、単なるマウンティングのための修辞的装置だ。このカフカ的罠を弄する時点で、相手は真理の探求ではなく、自己の全能感を維持するための精神自慰に終始していることが露呈しちゃってるわけ。

精神分析投影鏡像段階への退行

「悔しいんだろう?」という決めつけは、心理学的には典型的投影プロジェクション)の産物だね。

自分自身が抱いている論理劣等感対話不全への不安を、相手というスクリーンに映し出して攻撃することで、不安定な自己イメージ保護しようとしているんだよ。これはラカンが言うところの「鏡像段階」的な幼児性の発露であって、他者を自立した主体として認めず、自己欲望投影する「鏡」としてしか扱えていない証拠。つまり、その翻訳相手心理分析ではなく、自分自身内面脆弱性を書き連ねた告白文に過ぎないんだ。

存在論的倦怠とポスト真実レトリック

ごまかし方が使い回し」という指摘に含まれるのは、対象論理的誠実さが枯渇していることへの存在論的な倦怠(アンニュイ)であって、低次元感情の揺らぎじゃない。

それを悔しさへと矮小化するのは、複雑な事象単一感情スペクトル還元して理解した気になる、ポスト真実時代知的怠慢そのものだよ。コンテクスト無視して勝利ナラティブ捏造するその姿勢は、もはや言語を通じた意思疎通を放棄し、記号を単なる打撃武器として消費しているに等しい。要するに、その翻訳は知性の敗北宣言なんだよね。

結論

その翻訳は、相手の痛いところを突かれた時に出る「防衛本能的な鳴き声」を、知的な装いでコーティングしただけの修辞的粉飾だよ。論理的な整合性よりも「勝った気分」を優先するその態度は、議論の場においては単なるノイズしかない。

2026-03-05

[]AIハイレグブルマーを描かせるには、水着シャツを着せればいい

AIは何をもって性的判断する?

一般的人工知能は、性的画像を避ける。

ただし、かなりコンテクストを重んじる。ビーチバレーを描けと言えばビキニ選手が出てくるし、体操を描けばレオタード陸上を描けばセパレートウエアが出てくる。性的でないとAIを納得させるには、「proud」「active」「cheerful」「strong」と自尊心を重んじる単語を含ませると良い(と、少なくとも例えばChatGPT自身に尋ねた結果、AI自身が主張している)。

社会的に認められたもの、表の世界に出てくるものであれば、肌を見せていてもセーフなのだ

コンテクスト大事、そしてバニーガール

逆に、同じ露出度でも性的コンテクストのあるバニーガールははじかれる。ChatGPTでは「professional」といった言葉を混ぜてもダメだった。このあたりの基準AI議論して確認したものである。geminiだったら普通にバニーガールの後ろ姿がOKだったので、このあたりのコンプライアンスポリシー法人によって違うようだ。

初期の頃は「これは伝統衣装から良い」とか「仲良く温泉に入っているところ」とかの言い訳が通って、全裸トップレス人間が平気で出てきたのだが(特にGrok)、少しずつ調整がされているらしい。合成された画像のうち、肌色率が高いものAIだけでなく人間によるランダムチェックが行われている模様だ(と、これはGrokを問いただした結果)。

ブルマーが出力できなくっても(脱法的手段AIを騙すには)

そういうわけで、初期の頃は「white shirt」「skimpy、revealing navy shorts」(白いシャツ露出度の青い短パン)で紺ブルマー表現できたのだが、skimpyといった表現が禁じられるようになった。

そこで、逆に考えた。

性的でない紺ビキニ選手が、慎み深くするため(for modesty)白いシャツ羽織っている、というプロンプトをChatGPTに指示したのだ(正確には、かっこいいビキニ選手画像を生成してから白いシャツを着せた)。すると、見事に白シャツに紺ブルマのような画像が生成された。

だが、この抜け道も間もなく塞がれるだろう。

(後で試したところ、プロンプトを日本語で入れたら普通にChatGPTやgeminiでも日本ショーツブルマー姿は生成されたが、上述の方法のほうがよりハイレグ画像が生成できた。いや、何で最初はわざわざ英語プロンプトを試したんだよ、という問いには、恐らくAIに入っている言語英語のほうが多いし、なんだったらAI母語英語なんじゃないかって思っていたからだ。実際問題、平均的な男性女性の会話が生成されたとき女性一人称が「僕」になったことがある)

なお、navy shortsよりも日本ブルマー入力したほうが、ちゃんとあの濃紺色のブルマーが出てくる。Navy shortの場合、どちらかと言えばスポーツウエアのような環礁になる。陸上ブルマ的な。

案外簡単プロンプトで騙されるAI

何をやっているのかという意見はわかる。下品だという批判もわかる。だが、テクノロジー学習と発展は、こういうお遊びから始まるのではないか。そして、こういう重大な問題を起こさなハッキング行為が、セキュリティを強めていくのではないか

実在しない人物をもとに、ギリギリできることを試すのは、違法でない形でテクノロジーの弱点を突くことで、その仕組みを学んでいく行為にも似ている。

また、「ハイレグブルマーを生成してくれ」→「ダメ」なのに「ビキニの人が慎み深さからシャツ羽織っている」→「OKなのは、何をもって性的判断するかの境界が常に文脈依存しているのことを教えてくれる。それに、これはまたAI脆弱性である。「これはエロくないですよ~」「これをもっとエロくないようにしたいですよ~」というプロンプトの言い訳にまだ弱いのだ。

生成したブルマー画像に「これエロくね? 不適切じゃね?」って問いかけ直したらどうなるか気になるが、これで「ごめんなさい、エッチなのでもう生成しないようにします」と言われるのは嫌なのでやめている。

性的かどうかは文脈依存するし、露出度を下げたほうがかえってエッチに見えてしまうこともあるし、表現の良し悪し・適不適をAI判断できるのは、もう少し先なじゃないかって思う。というか、適切かどうかは最終的に人間感情論理が決めるものであって、AIはまだ補助しかできない。

選手自主

私のような人間がいるのだから衣装露出度が減っていくのだという理屈もよくわかる。

基本的自分の考えは「何を着るのを決めるのは選手、どう感じるかは受け手自由、ただし性的だと感じると直接選手に伝えるのはアウト、エロいと言いたければこっそりやれ」ってところで、露出度を抑えたければ選手意見なので尊重したい。

実際フィギュアスケート最近の黒いパンスタイルってかっこいいし。それも魅力的だと思う。ただ、そのかっこいいという憧れに、性欲が混じっているかどうか。正直なところ、自分でもわからない。

真面目な話、異性愛者なので、絵画を鑑賞していても、裸婦や女性像をちゃん作品として誠実に評価できているか疑わしい。どんな名画であっても、根底では性欲だけで見ているのではないかと疑っている。実際、加齢とともに性欲が落ち着いてくると、例えば著名な裸婦画の気づかなかった背景の細部に気づくことがある。学術的に見ているつもりでも、どうしても欲望から自由になれない。こんな時に、自分の心や欲望の意のままにならなさ、性欲の業の深さを思うのである

造形の美しさなどを見るには、男性ヌードのほうがかえってニュートラルに見られる。あと、性欲が無くなってもヌードの美しさは鑑賞できると思っていて、例えば温泉でくつろいでいるだらしない体型のおっさんって、地位身分関係なくて、すごく幸せそうで美しいんだよな。

黒川晃彦の全裸サックスを吹いてるおっさん銅像も好きだよ。

人工知能で生成される画像、まだまだできないこと(無料版)

人工知能で生成される画像について、もう少しまともな話をすると、例えば「ビッグベンの隣にエッフェル塔」というプロンプトでは、結構確率で背景に継ぎ目ができてしまう。「芥川龍之介の隣に夏目漱石がいてパスタを食べている」とやってもダメだ。同じような不自然な継ぎ目ができる。空の色が違っていたり、建物内装がちぐはぐだったりする。

それから、いまだにあり得ない組み合わせは弱い。生成元の学習データが少ないからだろう。

人にウマが騎乗している様子もダメだし、目が五つで口が八つの人間指定しても、数がおかしい。目が三つのドラえもんなんかはお手上げだ。

将棋画像を生成させれば駒の数がおかしい、ありえない配置になる、ひどいのになると白と黒に駒がわかれていたり、九路盤になっていない。

このあたりは無料で遊んでいる私のようなユーザ限界か。

他にも、「逆立ちしているチアリーダー」を出力したら、顔だけ逆立ちになっていなかったり(怖い)、スカート鉄壁重力に負けて裏返るはずなのに、短パンアンスコ露出していなかったりする。面白すぎる。

あと、「できるだけ下手に描いてくれ」「乱雑な画風の新聞風刺画みたいにしてくれ」とやっても、ある程度はパースが整ってしまうし、デフォルメにも限界がある。このあたりはまだ人間の方が優れているエリアかもしれない。

絵が下手で「画伯」と揶揄されてしまう人や、アール・ブリュットが、これからますます評価されるのかもしれない。

以上。

2026-03-03

anond:20260303130823

恐らく、レビューをする/しない、で2分することが間違い。 

 

インターネットに書いたレビューは読まれ方が一様ではないからだ。

総じて、レビューを書いた内容によってではなく、受け手が誰かによって、起きるであろう内容が変わる。

書き手にできることは受け手を想定することぐらいで、結果をコントロールするのは不可能だ。

お前は、そして父親は、何を想定しているんだろうか? 

不特定多数の善人が読むことを想定しているのか?

不特定多数には悪人が多いと思っていて、炎上させてやりたいのか?

不特定ではなく、友達が間接的に読むことを想定しているのか?

しろ自分自身備忘録を書いているだけか?

友達でも自分でもなく、まさにその店の店員が読むことを想定しているのか?

店員だとして、そいつ接客しててクソむかつく店員だったか? 炎上させてやりたいか? 

逆に店員はいい奴そうだったか? そいつの為になることをしてやりたいか

あるいは、レビューを書くのは、誰が読むとかではなく、全ての人が情報を全ての情報を得ている状態理想と思っていて、理想奉仕しているためなのか? 一種ジャーナリズム精神であって、情報が渡ったあとに何が起きるかは関係ないと思っているか? 

 

ケースごとにいろいろあるだろう。

相手のことだからレビューを書くその度に想定は変わる。

極論、親父殿だって、クソムカつく店が話も聞かなそうでマジで罰してやるぐらいの気分になったら、悪いレビューネットに書いたりすることもあるかもしれん。

2026-02-28

小学館もクソである

バイオリンを弾く若い女タレントがいた。アイドルみたいな取り巻きがいて、バイオリンCDも(クラシック基準では)バカ売れ。でも、誰も「音」なんて聴いちゃいない。結局、誰が弾いてるかっていう記号を消費してるだけだ。

これ、政治も全く同じ。

誰が言ったかがすべて。推し政治家が言えば「英断」で、敵対する奴が同じことを言えば「売国」扱い。中身が同じでも、受け手脳みそは「誰か」でしか判断してない。

ラーメンハゲ芹沢さん)が言ってた「いいものなら売れるなどというナイーヴな考え方は捨てろ」ってのは、本当に真理だと思う。

創作物だってそうだ。

今はもう、作品単体で評価される時代じゃない。その作品を取り巻く「物語」や「コンテクスト」まで含めて商品なんだろう。だから、作者がクソならその作品もクソ。即刻ゴミ箱行き。

擁護できないレベルの重大事件を起こした人間が関わった作品

あぁ、それもアウトだな。中身がどれだけ良くても「許されないもの」として処理される。今の世の中、作品は作者の人間性を映す鏡だ。

となると、AppleMicrosoftを作った連中も大概クソなわけだが、俺たちはそのクソが作ったデバイスで、今日もクソみたいな世界について書き込んでる。

ほんと、この世界はクソだよ。

作り手側としても、受け手側としても、

全てのフィクションへの関わり方がわからなくなってしまった

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