はてなキーワード: 受け手とは
その後の展開は、さらに教育心理学的にも示唆に富むものだった。Aが一度は口にした「昨日の非礼について、重ねてお詫び申し上げます」という謝罪。それが内省によるものではなく、単に対話を強制終了させるための「終了ボタン」に過ぎなかったことが、その後の豹変で露呈することになる。
Bが依然として拭い去れない不快感(前日に「ソープへ行け」と人格を否定するような暴言を吐かれたことへの余波)を口にすると、Aは即座に攻撃に転じた。
「わたしは蒸し返されてだるいよ」「謝罪すべきはしっかり謝りました」と、自らの不適切な言動が招いた紛糾を、あたかもBが一方的に「終わったことを蒸し返す迷惑行為」であるかのようにすり替える。
再口論の最中、Aは「すまん任せた」と他のメンバーへ丸投げし、場を放棄した。
これは、自分が有利な時だけ「指導者」として振る舞い、形勢が悪くなると「自分は被害者だ」と逃げ出す、極めて不誠実な態度だ。
Aは、Cによる再度の指摘に対しても、結局「伝わって欲しかった(自分の善意を汲み取れ)」「その謝罪は一度は受け入れられた認識だ」という自説を繰り返すに留まった。
現代のコミュニケーションにおいて「情報のアップデートができない」ことは致命的な欠陥だ。
自分の振る舞いが「ハラスメント」や「仕様不備」であると客観的にデバッグされた際、速やかに自己のプロトコルを更新できない人物は、周囲に有害な環境を撒き散らす。Aは過去の成功体験や独自のドグマに固執するあまり、フラットかつ論理的な対話プロトコルをインストールすることに失敗した「古いOS」のような状態に陥っていたと言える。
今回のCや他のメンバーによる介入は、単なる口論への横槍ではない。それは、コミュニティというシステムの健全性を維持するための「免疫反応」だった。
人格否定や強権的な指導という毒素が蔓延しないよう、論理の光を当てて「それはNGである」と公にラベルを貼ること。
「コミュニケーションの主体は受け手にある」という原則を徹底することで、送り手の「善意(意図)」という逃げ道を封鎖し、受け手の安全を確保すること。
Cが最後までこの原則を捨てなかったのは、B個人の救済であると同時に、「論理の通じない強権的なコミュニケーションを許容しない」というコミュニティの防衛線を引く行為だった。
情報のアップデートを拒み、自らの手法の欠陥を「善意」や「謝罪済み」という言葉で塗り潰そうとする者は、いずれ健全なコミュニティのプロトコルによって「仕様不備」として弾き出される。Bが最後に「基礎の部分で齟齬がある」と冷徹に断じ、関係を断つ決断ができたのは、この徹底したデバッグのプロセスがあったからに他ならない。
(了)
最近、あるコミュニティで目撃した「相談」から「絶交」に至るまでのやり取りが、あまりに教育心理学におけるいじめの構造(DARVO)そのものだったので、自戒を込めて記録しておきたい。
登場人物は、写真制作の壁にぶつかっている相談者Bと、それにアドバイスを送るA。
問題の端緒は、AがBの私生活や尊厳に無遠慮に踏み込んだことだ。Aは芸術論を語る文脈で、唐突にこう言い放った。
これは相談という形を借りた、明白な境界線(バウンダリ)の侵害だ。教育心理学の視点で見れば、相手を精神的に動揺させ、自分が優位に立つための「精神的な揺さぶり」に他ならない。Bが困惑して「恋人がいる」と返しても、Aは「死ぬほど金が欲しいわけじゃないんだな」と、勝手に相手を「覚悟のない人間」として再定義し、攻撃を続行した。
後にBがこの不快感を訴えた際、Aが繰り返したのは反省ではなく「手続きとしての謝罪」の完了報告だった。
これは「謝罪というパケットは送ったのだから、それを受け取らない(怒り続けている)相手がエラーである」という論理だ。心理学的に言えば、謝罪を内省の証ではなく、自分の過去を洗浄し、相手の口を封じるための「武器」として利用している。
「人前で繰り返し持ち出されるのはつらいので、もうやめてください。」
これこそが心理学でいう'''DARVO(Deny, Attack, and Reverse Victim and Offender)'''の完成形である。
A氏の言動には、自分の万能感を維持するための「投影(プロジェクション)」も顕著に見られる。自分のアドバイスが的外れだったという失敗を認められず、それをB氏の「覚悟の欠如」という問題にすり替えることで、自己像を保護している。
こうした「指導」の皮を被った「支配」は、受け手が論理的に反論すればするほど、加害側が「被害者」として騒ぎ出すため、対等な解決は望めない。
Aの振る舞いは、大人の知的な対話を装ってはいるが、その本質は教育現場で見られる「いじめ」の構造と変わらない。自分の万能感を守るために、ターゲットの自尊心を削り、反論されたら「自分の方が傷ついた」と騒いで周囲の同情を買おうとする。
相談を受ける側が「相手を尊重する」という前提を捨て、自分の哲学をインストールする対象(モノ)として相手を見たとき、コミュニケーションは容易に暴力へと変質する。
東浩紀が「現代のオタクは批評を求めなくなった」と語って久しい。
この言葉をめぐる議論は尽きないが、問題の所在はもっと単純で、もっと厄介だ。
現代の由々しき自称オタクたちは価値を問う前に、数で判断してしまう。
いま話題の映画『超かぐや姫!』に対して、「ファンを数字としてしか見ていない」という批判が起きた。
だが見落とされているのは、その“数字の回路”が観客側にも内面化されているという事実である。
それらは本来、作品がどれだけ届いたかを示す一つの指標に過ぎない。
「伸びている=良い」
この短絡が、判断を肩代わりする。
判断を委ねられるのは楽だ。
なぜ良いのかを考えなくていい。
ただ「伸びている」という事実に乗れば、外れない気がする。
その瞬間、何が起きるか。
受け手は数で選ぶ。
両者が同じ回路で接続されるとき、作品は均質化し、消費は加速する。
ここで批評はどうなるか。
批評とは、本来「なぜそれが価値を持つのか」を言葉にする営みだ。
だが価値の判断がすでに数に委ねられているなら、その問いは必要条件ではなくなる。
要求されなければ育つこともない。
そこでは差異は摩擦になる。
摩擦は居心地を壊す。
したがって優しさを維持するには批評の圧を弱める方が合理的になる。
結果として残るのは、「好き」と言うことだけが流通する空間だ。
それは居心地がいい。
これは怠慢ではなく、構造だ。
数は便利である。
数は速い。
数は裏切りにくい。
そして使い続けるうちに気づく。
数で足りてしまうことに。
なぜ良いのかを問わないまま良いとされるもの。
なぜ悪いのかを考えないまま避けられるもの。
数に従わない。
流行に媚びない。
それは、ある種の孤独を前提とした態度だった。
なぜなら数が、それを代行してくれるからだ。
「伸びているものを好きでいればいい」
「皆が好きなものを好きでいればいい」
気づけば、私たちは数に寄り添いながら、
数に抗う。
己の好きを貫き通す。
なんとなくGoogleマップのストリートビューでヨーロッパの街並みを見ていた。べつに旅行の予定があるわけでもないのに(そもそもパスポートすら持ってない)石畳の道とか、ゴシック建築が並ぶ通りとか、そびえたつ大聖堂の彫刻とかをまじまじ眺めていたらうわスゲーとなってしまった(語彙力)
この辺ってだいたいキリスト教が絡んでるんだろうなーと思う。私はキリスト教に対する学がないから、スケールでかい、石すごい、みたいな薄っぺらい感動しかできない。もっと知識がある人だったらもっとちゃんと味わえるのだろうし、教養ってこういうところで要るんだなと思った。教養があれば、これはどういう経緯で誰が作り、どういう意味があって、どんな歴史の上に立っている建物なのか、まで込みで見ているわけで、理解の深さが段違いのはずだ。
でもキリスト教ってちょっと深めようとしただけで世界史だの神話だの美術史だのといった所まで当然のようにつながっていくでしょ。時間が足らんー。途方もない。だから完全理解しようとは思わないのだが、このままずっと石スゴイ彫刻スゴイで終わってたら薄っぺらいままだろうなと思う。
話はズレるんだけど、日本のラノベやweb小説に出てくるなんちゃって中世ヨーロッパ風の世界観のことをナーロッパと揶揄されるけど、まあそらそうなるわなーって感じ。
主語デカかもしれないけど、研究者や文化人でもない一介の日本人が、キリスト教ってかヨーロッパの世界観をまともにトレースするのはかなり無謀なんだよな。圧倒的に教養が足りない。
だから日本という小っちゃい箱庭の中で生み出される作品がなんとなくスカスカで魅力なしに見えてしまうのもむべなるかなと思う。まー、美術館のビデオじゃあないんだから背景の細部なんていちいち重要じゃないでしょってのはわかるし、ただでさえ人手不足の世の中なのに背景にそこまで注力する余裕がないのもわかる。
わかるんだけれどなんというか、それはそれとして現代のクリエイター側も消費者側もキリスト教やヨーロッパ世界に対する理解が足りない、またそれを作品の中に精緻に落とし込む技量もない、仮に作り手がそこをうまくやれたとしても、受け手がそれを面白さとして受け取る土壌がどれだけあるのかも怪しい。そんな市場でメディアミックスまで含めて何か作ろうとしたって、まあロクなものができませんわな。
みたいな話をチャッピー君にしてみたところ、ナーロッパの点についてはわりと同意してくれた。
あれは単に「日本人にキリスト教理解が足りない」だけではなくて、記号だけ輸入して、生活の論理まで輸入していない、という問題に近い気がします。尖塔、石造り、修道院、騎士、聖女っぽい名前、そういう見た目の部品は並ぶのに、その世界の人間が何を恐れて、何を祝って、どう罪を考えて、誰に祈って、死者をどう扱うのか、みたいな底の部分が薄いと、背景がどうしても書き割りっぽくなる。
続けてチャッピー君、
でも、背景美術として密度が高いのと、キリスト教やヨーロッパの世界観の重力まで感じさせるのは、別です。前者だけなら、思ったよりあります。
をお勧めに挙げてもらった。
早速ヴァニタスの手記を見たら、OPの絵がとってもおフランスなゴージャスな感じでよさげだった。さすが人類の叡智。アニメにも詳しい(でもこれなろうじゃないよな…)
「青春」という言葉は不思議だ。部活や初恋、文化祭……。まぶしいイメージをまとう一方、現実との落差から「青春できなかった」との思いをずっと引きずることもある。「青春」はなぜ、人を引きつけ、とらえてやまないのか。その魅力と魔力の正体を、「みんなの〈青春〉」(生きのびるブックス)の著者である石岡学・京大大学院教授にきいた。
――「青春」をテーマにした映画やアニメ、小説などが、ちまたにあふれています。
少し見渡すだけでも、「青春」にまつわるコンテンツは枚挙にいとまがありません。
例えば、数年前にアニメ化されて人気となった「ぼっち・ざ・ろっく!」。キラキラした青春に対して屈折した思いを抱く「陰キャ」の女子高校生が主人公で、アニメの主題歌は、そのものずばりの「青春コンプレックス」です。あるいは、「高校最後の夏」と銘打ってメディアが注目する夏の甲子園なども、「青春」コンテンツに含まれるでしょう。
「青春」は特に学園生活の様々な場面と結びつきながら、格好のコンテンツとして、社会に広く消費されているのです。ただ、「青春」を巡る社会の語りを見てみると、そのイメージは一定ではなく、時代によってずいぶんと移り変わってきたことが分かります。
――どういうことでしょうか。
1960年代までは「青春」といえば、一部のエリート学生が既存の社会体制に対して抱く不満や怒りというかたちで描かれることが主でした。「青春」とは特権的なものだ、という社会的認識があったのです。
それが高校・大学進学率が急上昇するのに伴って、20代前半まで学生でいるのは珍しいことではなくなり、70年代以降、「青春」は誰でも経験できるものとして大衆化していきます。さらに2000年代以降は、ドラマチックな経験ではなく「学校での普通の日常」がテーマとして好まれるようになりました。
――こうした「青春」のイメージが、現実の当事者たちにも影響を及ぼしてきたと。
「青春」が「普通の日常」を描くようになっていったことは、当事者たちにも大きな意味がありました。
つまり、作品などの中で描かれる「青春」は、普通に過ごしていれば経験できるもの。そんな充実した日々が送れていないのは、自分に何か欠点があるからだ――。そのように、問題が内在化していくわけです。だから、現代は「青春」に対してコンプレックスを抱きやすい状況になっているといえます。
そこには、SNSの普及もある程度、関係しているでしょう。アイドルや芸能人たちよりも、同年代の「普通の子」が発信する「青春」の日々は、受け手にとってリアリティーがあります。「あれはフィクションだから」で片付けられない。それゆえ、自分の日々とのギャップを強く感じることもあるのでは。
いかに「青春」っぽいことをして、SNSで発信し、他者に承認してもらえるか。いわば「ミッションをクリア」するような感覚で「青春」をとらえているとも考えられます。
――「青春」は、なぜ人々を引きつける力を保ち続けているのでしょう。
「青春は陳腐さと特別さが混ざり合った規範だから」だと、著書では結論づけました。
現在において、ほとんどの人が高校あるいは大学生活を経験しうるという点で、「青春」は誰にでも与えられる、陳腐なものだといえます。一方、それは20代前半までの限られた時期にしか与えられず、失われたら戻らないという点では特別な意味を持ちます。
誰でも自分の姿を投影することができ、かつ、時間が過ぎれば失われるというかけがえのなさがあるために、多くの人にとって何かしら心をかき立てられるものなのでしょう。
さらに、「青春」には「若さ」「情熱」「成長」といったイメージが凝縮されています。これらはいずれも、現代社会において「善」とされている要素です。否定的な感情を入れる余地のないものだから、いっそう「青春」は光り輝いて見えるのです。ただそれは、あくまで社会的に作られたイメージであって、相対的なものに過ぎないということです。
――誰しもが、イメージ通りの「青春」を送れるわけではありません。
研究していて面白いなと思ったのは、まさに充実した「青春」を体現しているように見えるアイドルたちですらも、「青春できなかった」と語っている場面が少なくなかったことです。「普通の学校生活」というのは、それだけとらえどころのない、やっかいなものなのだと思います。
私のことでいうと、はたから見ればそこまで悪くない青春を送ったようにも見えるでしょうが、自分では「暗黒の高校時代」だと感じていました。人とのコミュニケーションに、どこか苦手意識があったからです。
要は、「青春」に抱くコンプレックスというのは自分のアイデンティティーに対する漠然とした不安なのだと思います。そうそう逃れられるものではない。良い青春を送れたと思うのであれば素晴らしいですが、そうでなかったとしても、必要以上にとらわれるべきではないでしょう。
◇
いしおか・まなぶ 1977年生まれ。専門は教育の歴史社会学で、子どもや若者イメージの社会的構築などを研究。著書に「『地方』と『努力』の現代史」(青土社)など。
https://digital.asahi.com/articles/ASV301CG7V30ULLI00YM.html
ある音楽家が、これまでのリリース作品がすべてAIベースの制作環境で作られていたことを、その環境を商品として販売開始することで明かした。
この記事は、それを告発するものではない。むしろ、その製品が宣伝通り機能した場合にこそ私たちが直面する問い——「感動していた曲は、何によって作られていたのか」「作曲がプロンプト設計に移るとき、聴き手は何を聴いているのか」——について、ひとりの聴き手/作り手として考えたことを書いておく。
1~4節はその商品の分析がメインなので、ゴシップ的な話に興味のない人は5~7節だけ読めば十分。
Twitterで、気にかけていたアカウントがあった。フォロワーは二千人規模だが、Hyperpop以降の日本のシーンで頭角を現している一人、という認識が自分の中にあった。界隈の主要な音楽家たちからもフォローされている、といえば規模感が伝わるだろうか。リリースされる曲には、たんに「いい音楽」と片付けるのは難しい構成の巧妙さと音選びの新しさがあって、追ってはいないまでも名前は頭にあった。
そのアカウントが最近、自分の制作環境を商品として販売し始めた。価格は14,900円、「AI音楽制作環境」として売り出されていて、製品ページの宣伝文句はこうなっている——「『気持ちよくて驚きのある曲を作って』——そのくらいの指示から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプトまで一貫して出力します。」さらに、既発のアルバムとEPは「全てこれを軸に制作されている」とも明記されていた。
最初に湧いた感情は、「ああ、そういう工程で作られていたのか」という、ある種の冷めの感情だった。AIを使っていることそのものへの反発ではない。SunoのようなAI音楽生成ツールの進化については以前から耳にしていた。出力自体のクオリティを否定するつもりもない。そうではなく、「何に対して感心していたのか」という、自分の受け取り方の根元が揺らぐ感覚、とでも言えばいいだろうか。
この感覚を、個人的ながっかりエピソードとして飲み込んで済ませてもよかった。けれど製品ページを読み進めるうちに、これは自分一人の話ではなく、いま音楽を聴く/作る側に共通してくる問題になっていくだろうと思い直した。以下はその整理になる。
製品ページから読み取れる範囲で、何が売られているのかをまず整理しておく。評価は後回しにする。
製品としての訴求は、おおむね三層からなる——(a)独自の音楽生成エンジンであること、(b)感覚的な指示から完成物が自動生成されること、(c)学習ツールとしても機能すること。
実際に買って触ったわけではないので、以下は推測の域を出ない。ただ、製品説明を読み解くと、構造的にいくつかの疑問が浮かぶ。
まず、''「Python疑似コード」という語の含意''について。「疑似コード」はPythonの形で書かれていても実行されないテキスト、つまり構造化されたプロンプト/参照資料のことを指すのが通例だ。Claudeプロジェクトに.zipをアップロードする形式である以上、これはClaudeが読み込むルール文書群であって、独立して走る独自エンジンではない可能性が高い。MIDI出力部分などは実行可能コードだろうが、「コードを選ぶ」「歌詞を書く」といった音楽的判断のコアは、Claude本体の自然言語推論能力が上限になる。これ自体は悪いことではない。よく練られたプロンプトパックは、Claudeの出力の一貫性と専門性を上げる。ただし「独自エンジン」という響きが含意するものとはかなりの距離がある。
次に、''Sunoへの依存度''について。製品の主要アウトプットのひとつが「Sunoプロンプト」である以上、最終的に音として鳴る部分——音色の質感、ミックスのバランス、演奏のニュアンス——を生成しているのは、この製品ではなくSunoのほうということになる。つまり、この製品の価値の相当部分は「Sunoを上手く使うためのプロンプト設計の職人技をパッケージしたもの」であって、Sunoが進化すればその層の価値は急速に目減りする。
三つ目に、''「all built by hand」の含意''について。86,000行という規模が、本当に人間が手で書いたものなのかは、製品説明からは判別できない。ジャンル研究ノートやStyle語彙データベースといった文書は、AIに「このジャンルについて詳細なルール文書を書いて」と指示すれば相当量が出てくる種類のものである。骨格は人間が作っていたとしても、肉付けをAIに任せている可能性は十分ある(そしてその場合、「手作業で書いた」という説明の重みはかなり変わってくる)。
繰り返すが、これらは推測にすぎない。実際に買って開ければ印象が変わる可能性は十分ある。ただ製品ページの記述だけを根拠に判断する限り、「独自の音楽生成エンジン」「作編曲の学習ツール」という訴求は、実態を控えめに言っても過剰包装しているように見える。
この製品に対する考えられる反応は、「宣伝通りに動くのか?」という疑問だろう。
しかし、立ち止まって考えると、本当に問うべきは逆側であることがわかる。
仮にこの製品が宣伝通りに機能するなら——「気持ちよくて驚きのある曲を作って」という指示一行から、コード進行・歌詞・Sunoプロンプト・MIDI・MP3まで一貫して出力されるなら——自分が感心していた曲は、その程度の指示から出てきたものだった、ということになる。下準備としての疑似コード整備や、出力に対する微調整は当然あるにしても、一曲一曲の制作工程の中心がそこにあったのなら、感心の源は作り手の耳ではなく、ツールの出力分布の中にあったことになる。たしかに創作物は優れていたかもしれないが、「それが優れていたのは上手くSunoを使いこなしていたから」という、エンジニアリングの問題だったということになる。
機能しないなら誇大広告の問題で済む。機能するならば、「聴き手は何を聴いていたのか」という、より根本的な問いが立ち上がる。皮肉なことに、製品としての完成度が高いほど、この問いは重くなる。
ここで思い出しておきたい話がある。2023年のゲンロンのイベントで、音楽家のtofubeatsが、Spotifyのサジェストで流れてきた曲に心を動かされ、作曲者を調べたらAI生成曲だと知って深いショックを受けた、という経験を語っていた。彼自身がオートチューンで声を加工し、歌声から人間性を排して作曲するタイプの作家でありながら、である。「非人間的な曲が、本当に人間によって作られていないこと」が判明したときの空虚さを、彼は正直に語っていた。
この空虚さが何から来るものなのかは、6節でもう少し踏み込んで考えてみたい。ただ先に言っておくと、それは「AIは音楽を作ってはいけない」という種類の話ではない。むしろ、「聴くとき、自分は何と対面していたつもりだったのか」という自己認識の問題になる。そしてそれは、作り手が工程を開示しないまま商品を売り始めた瞬間、聴き手の側で解決することが不可能になる種類の問いでもある。
誤解されたくないので、はっきり書いておく。この文章は、AIで音楽を作ることへの全面的な否定ではない。
作曲の歴史は、すべてを人間が設計し人間が作る歴史だけではなかった。偶然性、システム、自動化、外部の力を取り込む試みは、ジョン・ケージから、ブライアン・イーノ、アルゴリズミック・コンポジションまで、20世紀以降の音楽史の重要な部分を形作ってきた。AIの導入はその系譜の延長にあって、それ自体を否定するのは筋が悪い。
近年の例で言えば、菊地成孔は自身が主宰するギルド「新音楽制作工房」でAIを活用していることを早くから公言している。NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の劇伴ではMaxを用いたAI生成による弦楽四重奏が使われており、菊地本人が「作曲者のクレジットもないし、著作権のありかがわからない」という問題をNHK出版経由でJASRACと協議し、「新音楽制作工房」名義のクレジットで処理することで決着させた、という経緯まで公にしている。つまり、どう使い、どう扱い、誰の名のもとに出すかを、彼は工程ごと開示している。
ここでの違いは、「AIを使うか使わないか」ではなく、「どう使い、どう開示し、何を自分の名のもとに出すか」にある。「AIの使用は隠していない」という表明と、「どの工程をAIに委ねたかを開示する」こととの間には、大きな距離がある。
そしてもうひとつ、避けて通れない論点がある。Sunoを含む音楽生成AIが、何を学習データにしているかという問題だ。2024年6月、RIAA(全米レコード協会)はSony Music・Universal・Warner Musicを代表してSunoとUdioを著作権侵害で提訴した。Suno側は、レコード会社の著作権で保護された録音物を使用したことを概ね認めた上で、フェアユースを主張している。2025年末にはWarner MusicとSunoがライセンス提携で和解したが、訴訟全体はまだ決着していない。
つまり、いまSunoで曲を作って発表することは、その学習データが何で、どのような経緯で集められたかが法的に争われている状態のモデルを使うことを意味する。これは「使ってはいけない」と言いたいのではなく、「自分の作品がどういう供給ラインの上に立っているか」を無自覚なままにはできない、ということだ。そして、そのモデルを使って生成した曲で「作曲者」を名乗り、その制作環境を商品化して収益化する、という連鎖の倫理性は、まだ業界全体として合意が取れていない。
この記事の射程は、その倫理そのものを裁くところまでは届かない。ただ、「いい曲さえできれば制作過程はなんでもいい」という論法に、即座に頷くことはできない、という姿勢だけは明示しておきたい。
ここで、4節の末尾で保留にした問い——tofubeatsが味わった空虚さは何から来るのか——に戻ってくる。
創作物を聴く側は、作り手の工程をつねに見ているわけではない。それでも、作品を受け取るときには「制作への真摯さと、出来上がった作品のクオリティは、どこかで結びついている」という、いわば感覚的な信頼をもって聴いている。これは創作と鑑賞の間に長く存在してきた暗黙の契約のようなもので、あるシンガーソングライターが書いていた通り、手間暇掛けようが掛けまいが最後には一緒くたに扱われる時代でも、違いの分かる人はいるはずだと信じて丁寧に拵える——という姿勢を、作り手と受け手の双方が(明示的ではないにせよ)共有してきたから、音楽は単なる音の配列ではなく、作り手の痕跡を伴うものとして聴かれてきた。
AIが生成した音楽そのものにも、それ独自の良さがある。これは繰り返し強調しておく。作品としての良さは、工程とは独立に成立し得る。ただし、AI生成された曲を「ひとりの作家が作った作品」として提示し、その仮構された人格のもとに人気を集めることは、この暗黙の契約を根元から破壊する。聴き手が「これを作った人は、たぶんこういう感受性の持ち主なのだろう」と想像しながら聴いていた対象が、実は大部分がプロンプトから生成された出力だったとしたら、その想像は宙に浮いてしまう。作品が悪かったわけではない。悪かったのは、作品と作り手の人格の間にあったはずの関係について、聴き手が抱いていた前提が、工程を開示されないまま利用されていたことにある。
tofubeatsが味わった空虚さは、たぶんこれに近い。「AIが作ったから価値がない」ではなく、「自分は作品を通して誰かの感受性と向き合っていたつもりだったが、その『誰か』が自分が想像していたものとは違っていた」という、受け手側の文脈の宙吊り。この宙吊りは、作り手の側がAIの使用を大まかに表明するだけでは解消されない。「何を自分の判断で選び、何をツールに委ねたか」という工程の粒度での開示があってはじめて、聴き手は自分の感心の行き先を再設定できる。
この視点から見ると、今回の製品販売で起きたことの構造が少しはっきりする。14,900円という価格や、買った人にとっての有用性の問題はもちろんある。ただ、それ以上に大きかったのは、制作環境を商品化するという行為が、既発の作品群を「この環境の実例」として遡行的に位置づけ直してしまうことにある。以前から作品を聴いていた側から見れば、聴き手と作り手の間に結んでいたはずの暗黙の契約の内実が、後出しで書き換えられる感覚がある。
制作工程の開示は、法的義務ではない。ただ、制作環境を商品として売り始めた瞬間、この暗黙の契約を自分から前景化させたことになる。「この環境でこれだけの作品が作れる」という実例として既発のリリースが参照されているのなら、それぞれの作品がどの程度この環境の出力そのものなのか、どの程度は人間の介入によるものなのかは、買う人にとっても、これから聴く人にとっても、重要な情報になる。
最後に、聴き手として、作り手として、これからどうするかを書いておきたい。
聴き手としては、tofubeatsが味わった種類の空虚さを、できれば避けたいと思うひとが大半だろう。しかしtofubeatsがAI生成だと気づくことができたのはクレジットにそう明記されていたからに他ならない。今回の私のケースのように、AI生成であることが明かされていなかったり、将来的に(遡及的に)AI生成であることが明かされるようなパターンはますます増えていくだろう。私たちは、匿名性を保ったままクオリティで勝負して有名になっていくという同人音楽シーンの時代の終焉を目の当たりにしているのかもしれない。作り手と受け取り手の信頼関係が壊れていくなかで、聴き手側からできることはあまりにも少ない。界隈で有名なコンポーザーの多くも今回のアカウントをフォローしていたことも考えれば、制作過程の情報開示を積極的に求めていくこと、プロセスを明らかにしたうえでよいものを作っているひとを評価していくこと等も、その限界は大きいだろう。
作り手としては、自分がやりたいのは、プロンプト一行から出てくるものを受け取る側ではなく、一音ずつ選ぶ側である、とあらためて確認した。それはAIを使わないという意味ではなく、AIを使うにしても、どこで自分の判断を通すかを意識的に設計したい、ということになる。菊地成孔のやり方に近いと言えば近い。作編曲に限らず、これまであらゆるアートと呼ばれる領域について、過程を見せないことは作家の神秘性を増すための重要な要素だった。しかし上にも書いたように、その限界はもうすでに見えてきているように思う。過程を明らかにしたうえで、自身の武器がすべて明らかであるのにそれでも真似できない創造性を見せること。もちろん、あらゆる出力結果は機械学習の餌食になりうるという状況においてこれは綺麗事かもしれないが、成果物がいわゆるAIに食われうるのは変わらないのだとしたら、いかに自身の制作においては透明性を保ったうえでクオリティで受け手を納得させるか、こそが大事になってくるだろう。こうしたムードを作り手の側からも作っていくことが、今後の大きな課題になるのではないかと思う。
「AIがもっといいものを作れるのになぜあなたが作る必要があるのか?」は、「プロの作家がすでにこの世に五万と存在するのに、なぜあなたは作品をつくろうと、その道を志したのか?」という問いと本質的には何も変わらない。作りたいから、作る。伝えたいから、それを形にする。そうした初期衝動が、欲望が、「創造性」という言葉の本質であり、AIに模倣することのできない、あなただけの、私だけの創作物につながるのだから。
よく「反AIが炎上させるからAI製コンテンツが育たない!」という意見を見るけど、それはちげーだろと思ったので整理してみようと思った。
ということで、いわゆる反AIだけじゃなくて一般のAI利用者でも露骨なAI製コンテンツはそんなに好きじゃないよー、という話をする。
まぁとりあえず結論だけ見ればおけ。
現行法で合法である以上盗用じゃないし使ってよいので無視する。よって、ここではいわゆる「盗用」だから嫌う人については考慮しない。
一般的なAIサービス利用者であっても、露骨なAI製コンテンツを避ける傾向があるように思える。よって、ここでは「反AI」の定義を「無許諾のAI学習に反対する者」とし、それ以外でAIの構造やサービス利用を受け入れているものの外部のAI製コンテンツを避ける心理を考える。
コンテンツには絵・音楽・小説などがあるが、ここではとくに絵というカテゴリに焦点をあてて考えてみる。よく話題になってるし。
主に「人間のアルゴリズムに対する評価」「人格に対する評価」「実用性との比較」について整理していこう。
アルゴリズムの方が人間より精度が高くても、一度誤りが起きると人は人間よりも機械に厳しくなり利用を避けやすいことが示されている。いわゆるアルゴリズム嫌悪(algorithm aversion)。
簡潔に言えば人間によるミスは「まぁ間違えることもあるわな」で済むが、AI絵の破綻は「うわ出た!これだからAI絵はダメなんだ!」って奴である。
つまり、AI絵が嫌われる理由にはまず低いレベルのところから「機械が作ったものに対して人はそもそもめっちゃ厳しい」というのがある。
次に、芸術は作品単体だけでなく、その背後の人格で評価される事実について。
コンテンツに対して人は完成品だけを見ているようで、実際には
をよく見ている。
実際見分けがつかない絵であっても、AI製というラベルが付くだけでかなり価値を低く見積もる傾向がある。(“Bias against AI art can enhance perceptions of human creativity”)
あわせて、AIが作ったと知らされた成果物は人間が作ったものより「努力していない」と見なされやすいことも示されている。(“Humans as Creativity Gatekeepers: Are We Biased Against AI Creativity?”)
要は、AI絵が嫌われるのは「破綻があるから」だけではなく、作者の人格や努力が感じられないからである。
たまに「反AIは芸術に対して情報だけを食べているんだ!」というラーメンハゲの引用をXで見るが、芸術って割とそいういもんである。
これが本題。
AIが業務や実用品の領域で比較的受け入れられやすいのに、芸術の領域で嫌われやすいのはなぜか。
ここに実用性の差がある。
たとえば検索、要約、翻訳、議事録、コード補助のような用途では、ユーザーはまず「速いか、安いか、役に立つか」を見ている。
この場合、作者の人格は本質ではないのであからさまなAIであっても、目的を達成してくれればどうでもよい。
一方、芸術について。
先の整理を踏まえると、「役に立つか」ではなく「誰が・なぜ・どう作ったか」が価値の大部分を占めているということになる。
実用品なら人格は価値の中核ではないが、芸術ではそのまま価値減衰になりやすい。
とはいえAIをちょっとでも使ったらアウトというわけではなく。
問題になりやすいのは「AIを使ったか」そのものより、作品のどの部分をAIに任せたかである。
当然だけどこの3つは同じではない。
人間の判断、編集、固有性、文脈づけが作品の中心に残っているならAIは補助で済み、人格が現れて価値を創出できる。
しかし、鑑賞価値の中心部分までAIに外注すると受け手からは「綺麗なだけの絵」に見える。
よって、人格性や作者性の欠如がそのまま弱点になる。
一方成人向けイラストでは、受け手が求めているのはシコれるかどうかという明確な機能である。
このとき評価軸は芸術性そのものより目的達成の強さに寄ってるので、AI使用による評価低下が相対的に小さくなる。
女性向けの成人イラストでは直接的な性的描写よりその人物の関係性=作者の思想・人格が求められるため、AI絵で女性はシコれないのである。
漫画も同様。
漫画は絵だけで成立しておらず、キャラ、設定、テンポ、台詞、展開、オチなど、絵以外の要素が実用的な面白さを支えている。
よって、絵の一部にAIが入っていても、「面白い」という実用性を備えた内容なら読者は付く。
絵が下手でも面白けりゃそりゃあ読む。
逆に言えば、話の内容ではなく絵の綺麗さに依存しているAI漫画はウケるはずがない。
「絵が綺麗なだけのつまらない手描き漫画」より格下であるのが事実である。
AI製コンテンツが嫌われるのは、反AIが騒いでいるからではなく、一般的な心理として、
よって、AI製コンテンツが個人・社会レベルで伸びない理由を「反AI」のせいにしているのは架空の敵に責任転嫁しているだけである。
別にAIを使うなというわけではなく、AI製コンテンツが否定される理由の多くは著作権論以前に存在しているし反AI抜きでも説明がつくので、そこを無視するのはただの現実逃避である。
自分の綺麗で幻想的なAI作品が伸びないのはシンプルに自分が人格を押し出せない創造性のない無能だからである。
■ まず前提:テーマは何か?
この動画は
涼宮ハルヒの憂鬱 が
を、岡田斗司夫 が語っている内容です。
■ 核となる主張(超要約)
皮肉屋
「やれやれ」系
理想は
でも現実は
👉 そんな存在は現れない
結果:
何も起きないまま年齢だけ重なる
👉 これを「深刻な影響」と言っている
③ 作品としてはめちゃくちゃ優れている
評価は意外と高い
約80点(かなり上位)
理由:
✔ オタク文化への影響が深い
④ ただし問題点もある
主にこの2つ:
同じ話を繰り返す構成
👉 実験としてはすごいが
👉 視聴体験としてはキツい
キョンは基本
ツッコミ役
👉 これが「理想の男像」として広まった
岡田の核心はここ👇
普通の名作は:
でもハルヒは:
👉 行動ではなく“振る舞い”を変えた
つまり
どう喋るか
どう構えるか
どう距離を取るか
ハルヒは:
👉 「別に…」みたいな反応
終わる条件:
👉 つまりこれは
■ なぜ「深刻」と言われるのか
まとめると:
→ 受け身が「かっこいい」になった
✔ キャラだけ真似る
→ 中身のない態度が増える
👉 結果:
■ ただし重要な補足
これはあくまで
であって、
かなり誇張も入っている
■ 客観的に見ると
実際の評価はこう:
文化的影響:非常に大きい
■ 一言でまとめると
胸に手をあてて考えてみてください。
ないですよね?
僕はありませんでした。
つまりそれが答えです
やたらと敷居が高く見積もられることが多いですが、所詮その程度の難度です、
未解決の数学の難問でもなければ、特殊技能でも何でもないんです
そのための本や動画を以下に紹介するのであたってみてください。
前提としてはルールや二眼、基本的な手筋(シチョウ、ゲタ、ウッテガエシ、追い落とし)は既知のものとし、その次の段階の人がターゲットです(これ以前の人は入門書を読むか動画を見ましょう。大丈夫、入門もそれで済みます)
照明をつけずに暗闇で何もわからない、何も見えない、無灯火運転で事故るというのは当然のことです
これら教材にあたってステップを踏めば必ず囲碁がわかるようになることを””100%保証””しますので、まずはこれらにあたってください
自分が囲碁を覚えた20年前の時点でそうだったので現代ならなおさら環境が揃っています
盤端での戦いは基礎中の基礎。
これだけで囲碁が最低限まともに打てるというレベルに到達できる
簡単な問題をひたすら繰り返し、「読む」というより「なんとなく見える」というレベルに引き上がります
囲碁において初段を目指すという本は初級者をターゲットにしています
なぜそこに打つのか、実利と厚み、いい形と悪い形
囲碁の考え方の基本を学べる一冊です
19路の打ち進め方の基本が書いてある本です
語り口調が軽妙で持ち時間のほとんどを読みより解説に費やした囲碁実況動画を上げてくれています
見ているうちに19路の打ち方や考え方がなんとなくわかってくるようになります
またアイドルがゼロから初段を目指す「あみーごの囲碁」の企画も注目コンテンツ
優しい語りで理路整然かつ丁寧に囲碁の考え方を解説してくれています
普段のタイトル戦だとあまりに長いしずっと解説が張り付いているわけでもないので、早碁でテンポよく見れて最初から最後までずっと解説のあるNHK杯はとても貴重な学習リソースです
もちろんこれらはあくまで一例で、これら以外にも本は無数にあり代替できますのでご自分で探してみてください
囲碁の本がこんなにあったのかと驚かれる事でしょう
常日頃からそういう意見を目にする度に、あれすれば、これすれば、本読めばわかるの事なのになー、全部本に書いてあるのになーと、
無責任な発言者はノーダメージなのに、受け手側のこちらは反撃の機会もなくいつも一方的にムラムラさせられているので、いい加減そういう人間を絶滅させ快適な余生を送りたいと考えています。
セキュリティの勉強をしていて気づいたことがある。フィッシングメールの文体と外交の言葉って、ほぼ同じ構造をしている。
「早急にご確認ください」
この流れで人はリンクを踏む。最初の「大切なお客様」が効いてる。信頼感を先に与えると、後の要求に抵抗しにくくなる。心理的な先払いだ。
「友好国」って言葉もまったく同じ仕組みで動く。
正直に言うと、俺もこの言葉を見出しで見たとき、ちょっとだけ嬉しくなった。仲間って言ってくれてる、みたいな。気づいてから「あ、引っかかってる」って思ったけど、嬉しかったのは事実で、それが消えるわけじゃなかった。訓練受けてる人間でもそうなるんだから、そりゃ効くよ。
セキュリティ用語でいうとプリテキスティング。信頼できる存在のふりをして、情報や行動を引き出す手口。「IT部門です、パスワードを教えてください」が通じるのは、相手が「IT部門なら大丈夫」と思い込んでいるからで、その思い込みを作るのがプリテキスト、つまり前置きの嘘だ。
「友好国として日本に求めること」は完璧な文型をしている。友好国という前提を相手に飲み込ませてから要求を出す。受け手はその前提を検証する前に感情が動いている。
フィッシングメールはスパムフィルタに引っかかる。訓練を受けた人間は踏まない。でも「友好国」という言葉を検知するフィルタは社会に存在しない。むしろその言葉を見出しに使うことで、メディアがプリテキストを強化する側に回っている。俺もそこに乗っかった一人だ、さっき嬉しくなったんだから。
ソーシャルエンジニアリングで一番効くのは、攻撃だと気づかれないやつだ。それだけ。
ナラティブ(narrative)とは、出来事や情報を「点」ではなく「流れ」としてつなげて伝える考え方です。
単なる事実の羅列ではなく、背景や課題、意思決定の理由、結果として起きた変化までを筋道立てて示すことで、受け手が意味を理解しやすくなります。
事実の羅列:新サービスを開始しました。機能は三つです。料金は月額〇円です。
ナラティブ:現場で〇〇の課題が増えた→既存手段では解決しづらかった→だからこの設計にした→その結果、誰がどう良くなったか。
ファミコン時代のゲームに致命的なバグが比較的少なかった(あるいは許容されていた)理由は、現代のゲーム開発とは根本的に異なる当時のハードウェアの仕組みと開発環境にあります。
主な理由は以下の通りです。
現代のゲームは数千万行のコードで構成されていますが、ファミコンソフトの容量は初期で24KB〜40KB程度、後期でも数MBしかありませんでした。
管理のしやすさ: 全プログラムを1〜2人のメインプログラマーが把握できる規模だったため、論理的な矛盾(致命的なバグ)が発生しにくい環境でした。
OSが存在しない: 現代のゲームは複雑なOS上で動きますが、ファミコンは電源を入れるとソフトが直接ハードを制御します。干渉する要素が極めて少ないため、挙動が安定していました。
当時はインターネットによる「アップデート(パッチ)」が不可能な時代でした。
物理的なリスク: 一度出荷されたカセットは、致命的なバグが見つかれば「全品回収」という数億円規模の損失に直結します。
徹底したデバッグ: そのため、開発チームは現代以上に執念深くテストプレイを繰り返していました。
実はバグ自体はたくさん存在していましたが、それらが致命的と見なされず、むしろゲームの魅力として受け入れられていました。
有益なバグ: 『スーパーマリオ』の「無限1UP」や「壁抜け」などは、本来は想定外の挙動(バグ)ですが、プレイヤーの間で「裏技」として楽しまれました。
ハードの限界: 画面がチラついたり、処理落ちしてスローになる現象も、当時は「ハードの限界だから仕方ない」とユーザー側が許容する土壌がありました。
現代のバグで多い「フラグ管理のミスによる進行不能」が起きにくい構造でした。
当時のゲームはステージクリア型の単純な構成が多く、オープンワールドのように複雑なフラグが絡み合うことが稀でした。
セーブ機能(バッテリーバックアップ)が普及する前は、電源を切ればリセットされるため、「データが壊れて二度と遊べない」というリスク自体が物理的に存在しませんでした。
当時の「バグ」は、作り手と受け手の双方にとって、ゲームを彩る不思議な現象(裏技)として成立していた側面が大きいと言えます。
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「画面がバグる(キャラ化け)」現象は頻繁に見られましたが、おっしゃる通り、現代のゲームと比較して「フリーズ(完全停止)」に至るケースは相対的に少なかったと言えます。
これには、ファミコンのハードウェア構造特有の理由があります。
ファミコンは、計算を司るCPUと、描画を司るPPU(画像処理用チップ)が独立して動いています。
画面バグの正体: カセットの端子が汚れていたり、接触が悪かったりすると、PPUが読み込む「画像データ(キャラクタデータ)」だけが化けてしまいます。
なぜ止まらないのか: 画像データがぐちゃぐちゃになっても、CPU側の「ゲームを進行させる命令」が無事であれば、プレイヤーの操作に応じて化けたキャラがそのまま動き続けます。
現代のPCやスマホゲームは、OS(WindowsやiOSなど)の上で動いており、エラーが起きるとOSが「異常事態」と判断して強制終了させます。
ファミコンの場合: OSが存在せず、CPUは電源が入っている限り、メモリにある数値を愚直に実行し続けます。
暴走しても動く: たとえプログラムがバグって変な場所にジャンプしても、そこにあるデータを「命令」と勘違いして実行し続けるため、「画面は滅茶苦茶だが音楽だけ鳴り続ける」「キャラが勝手に変な動きをする」といった暴走状態として維持されやすく、完全に「固まる」までは猶予がありました。
ファミコンには「横一列にキャラ(スプライト)を8個までしか並べられない」という物理的な制限があります。
チラつきの仕組み: 9個以上並ぶと消えてしまうため、プログラムで高速に表示・非表示を繰り返して無理やり表示させていました。これが「チラつき」です。
これはバグではなく、当時のハード性能を限界まで引き出すためのテクニックだったため、フリーズとは無縁の現象でした。
もちろんフリーズもありましたが、その多くはソフトのバグよりも物理的な衝撃によるものでした。
カセットを叩いたり、本体に振動を与えると、CPUが読み書きする「プログラム」や「ワークRAM」の接続が一瞬途切れます。
重要な命令を読み込めなくなった瞬間に、CPUが処理を続けられなくなり、結果としてフリーズが発生します。
総じて、「見た目が壊れても中身(計算)は動き続けることができた」のが、画面バグが多くフリーズが少なく感じられた大きな理由です。
怪文書。
吐き出す場所がないのでここに吐かせて頂く。
鹿乃つの氏をブロックしていたが、どうやら某ゲームの配信が荒れてるようで。
またすり抜けて話題が流れてきた。
以前はおもしれー女、として観測していたのだが、高校生の個人情報(なりすまし垢)を拡散した件を自己正当化した漫画を掲載した時に彼女をブロックしました。
あれって、一概に責められないのも分かんだけど、悪手であったし軽率だったと思うんですよ。それに対して自分は悪くないという姿勢を貫く姿勢は見てられなくて。
もう見るのやめよ〜と、ブロックして目に入らないようにしたんですね。
たぬかな氏も言っていたが、触れないのが本人と己の為にも1番良いんだろうね。
彼女は注目されたいんだろうけど、今注目されてるのって、クリエイティブな才能や容姿でもなく、叩けば音の鳴る玩具として弄ばれてるだけ、でしょう?
触らなければ注目を浴びることが無くなる。反応なくなったらきっと本人も自分が特別じゃないって気付くんじゃないでしょうか。
もうそっとしておこう…。
という事で今後、炎上は見ねえ!言及もしねえ!と誓ったのだった。
(今破ってるけど)
とりあえず、なんでこれ以上は鹿乃氏本人について何も言はない。言ってもどうしようもないしね。
本題な戻りますが、
それに対して、
な〜〜〜ぜ〜〜〜〜???
これと同じようなの、〇汁の時本当にいやってほど見ましたね。
私、あの漫画が好きでキャラクターも好きで、心の底から、なんでそうなるんだ!?!?
私が原作をずっと前から知ってたから、別物として切り離すことができるのか…?
元々ミリしらだった人は仕方ないのか?
でも例えば、コ◯アキの時、私は某鬼漫画ミリしらでしたがそうは思わなかったけどね。
確かにあのキャラを見てコ〇アキ思い出す事はあるかもしれない。
コ〇アキはコンテンツの知名度を利用したゲスなやつでしかなくて、それがキャラクターとなんの関連があるのか?
コスプレイヤーのせいでコンテンツが嫌いになりましたというのは、余りに思慮が浅くないか。
大袈裟だけども、この情報化社会で、フェイク情報も流れてくる現代で、情報の取捨選択と分離ができないのは…良くないよね!?
はっきり言って、ああいった発言する人の半分以上は、鹿乃氏を貶したいだけじゃないか。
娯楽として遊ぶために、コンテンツを一緒くたに貶して、炎上を助長してるだけじゃないですか、
はなからキャラクターには一ミリも興味ないだけなのに、好き嫌いをジャッジしないでくれよ!
「あの人のせいで嫌な思いしたので、
キャラクター見るとそれも思い出しちゃって‥」
でもコンテンツだって利用された被害者という事を忘れないで欲しいんですよ。
ここまで読んで、
「元々知らないコンテンツだからさ、超話題のあの人の顔の方が思い浮かぶのはしょうがなくね?」
と思う方もいるでしょう。
水掛け論になりますが、私は、そうならないようにするべきだ、切り離して考えるべきだ、
と言いたいんです。
せめて、
考えてしまう事は強制できませんが、発信することは選択はできるはずです。
こういう風評被害って、受け手の姿勢も大事でしょう。悪ノリしないで、誰が傷つくかを考えて発言をして欲しいのです。
「ネガキャン」と言いますが、そのネガキャンを拡散する必要はどこにもないと思います
ダ〇飯の好きな所ですが、個人的に、作中嫌な奴が一人もいないのが良くて。ムカつく!って思ったりもしたけど‥みんなそれぞれ個性があって憎めないと言いますか‥。
落書き本読むと最高です。キャラ一人一人が生きてんだな〜ていうか、この人たちが動いてたんだな〜と思うんですよ。
作者さんって人間/動物の描写が上手なんですね。モンスターの造詣、人種のかき分け、物を作ったり食べたりとかの動作。
そういうのも魅力で。
アニメはキャラクター達が、まさに生き生きと動いてて素晴らしかったです。
ありがとうト〇ガー!!
考えると、マンガ大賞取ったんだから私が言うまでもなく傑作なんですよ。認められた傑作なんです。
勿論人によって好みはありますでしょうが、🟰コスプレイヤーにされて嫌いだってのは余りに浅はかですよ。
いいですか、全く別の存在なんですよ。
え、誰…?誰なんですか、その人。キャラクターとなんの関連性があるんですな?
ところで、作中に出てきた料理の料理本が出るらしくって。作者の書き下ろし漫画も載るらしいですね。
ではさよなら。
飽きてきた。だから書く。後から見返す用。 俺はいわゆる反AI側のアカウントとして認識されてる。AIイラストの話が中心。Xのフォロワーは7000ちょい。中規模。あと反ワクチンとかはやらない、あれは人命に関わるし。 この記事は俺が意識してた、というかおもろいと思ってたところ。
理由は単純で、「事実」と「観測」と「推測」を薄く混ぜると、受け手が勝手に補完して勝手に怒るから。多分彼らにとっては断定に見えてる。 例えば、「〜だ」じゃなくて、「〜なんじゃないかな?」で十分。
「これは違法」じゃなくて、「規約的にグレーっぽい」で十分。俺がやってるのはせいぜい「見える範囲の事実の並べ替え」と「感想の添え物」だけ。それ以上を言わない。言う必要がない。向こうが勝手に“決めつけ”をやってくれる。まあ偏ってるだけでニュースとか一緒。 法的には問題にならない。事実しか言ってないし。 この記事も倫理的には無茶苦茶露悪だけど誰の誹謗中傷もしてないし、誤情報の拡散してすらいないから開示請求のとっかかりすらない。
自分が適当に投げた例えが、数日後には他人の口から「定番の説明」として出てくる。これが一番楽しい。 「AIでイラストを作るのは、XXXでXXXを使ってるようなもの」みたいなやつ。 そういうのが好きなんだと思う。短くて、怒りに変換しやすいから。「あ〜この人たちは比喩さえ自分では作れないんだな〜」って
こちらは追加で何もしてないのに、勝手に工程が増える。この交換比率がいちばん気持ち悪くて、いちばん楽しい。滑稽
今回みたいに露骨なことを書くと、確実に言われるのが 「こいつはAI推進派の偽物だ」「反AIを貶めるための工作だ」 みたいなやつ。 反AIの側の人間が、自分の認知的不協和を守るために勝手に動いてくれる。むしろこういうのを定期的に流したほうが敵が増えていいみたい。
俺は反AIの怒りを、燃料として扱ってる。熱量を回して数字にする。 本気の人が多いほど燃える。だから、たぶん悪いことをしてる。ここは否定しない。
反応のパターンが固定化した。 同じ導線、同じ言い回し、同じ内輪揉め。 新鮮さがない。 それでも回るから続けてるけど、手触りが薄い。 だから、ここに書いた。別にお金目的じゃないし。
俺はChatGPTみたいな生成AIは普通に使ってる。 仕事でも私用でも。 AIイラストは嫌い。そこは趣味の話。見たくないものがあるというだけ。マジで嫌いなので話も合わせやすい。 思想としての反AIは正直どうでもいい。遊びの素材として便利だっただけ。 それとこの記事の大部分もAIに書かせてる。 俺が箇条書きで要点だけ出してAIに清書させてる。文体で余計な情報が漏れにくいし癖も出にくい。楽。 要するに反AIを弄ぶのが楽しかっただけ。 飽きたらやめる。道具と同じ。
Xで以下の投稿が目に入ってきた。
https://note.com/sho_hiroumi/n/n52a7f10be3c7
本当にたくさんのことを考えた。
それについてコメントを書いていたら長い長い長い長いクイズ論になってしまったので、こっちに載せることにした。
「上手にボタンを押せる人」よりも「上手に問題を作れる人」が称賛されやすい、という論には本当かどうか?という疑問がある。
たしかに出題サイドは、その多大な労力ゆえに参加者サイドよりも分母が少なく、競争環境としては「ブルーオーシャン」の側面がある。
「面白い問題を出す大会」というブランディングが、主催団体の評価に直結するのも事実だ。
しかし、それが個人への「称賛」に結びつくかどうかは別問題だと考える。
先日、浜押会オープンで話題をさらった「アサシン」の問題を思い出す。
問題そのものは鮮やかにバズったが、では「その作問者が誰か」まで即座に答えられる人はどれほどいるだろうか。
個人が作問・主催する”個人杯”であれば作問者個人にスポットライトが当たるが、サークル主催の大会では、評価は組織の中に埋没しがちだ。
この傾向はメディアでも顕著だ。QuizKnockを見ても、主流は「問う」ことよりも「答える」コンテンツであり、メンバーも「答える側の演者」として人気を博している。
純粋な作問能力が評価される場面があったとしても、それがコンテンツの主役になることは稀だ。
取り上げられているQuizbowlのシステムにおいて、問題作成が競技参加のプロセスに組み込まれているのは興味深い。
ただ、これは「称賛」のためというより、大会をスケールさせるための「供給の仕組み」と捉えるべきだろう。
しかし出題スタッフはサービス提供側の側面が強く、労力も膨大だ。
自発的な協力者だけで賄うのは困難であるため、パケット提出(問題作成)の義務化といった「強制力」が必要になる。
ACF(アメリカ大学クイズ連盟)の公式ページでは、この制度の意義を「編集者とプレイヤーの知識共有の精神を守るもの」と定義している。
しかし、わざわざ言葉を尽くしてその意義を称揚しなければならないこと自体、それが「強調しなければ誰もやらないキツいタスク」であることを裏付けている。
編集歴がコミュニティ内のキャリアとして記録され、NAQTのような組織では1問ごとに報酬が支払われるなど、作問が「名誉ある職務」として確立されている、という例は興味深い。
分野ごとに専門の編集者を置く高度な組織設計は、品質管理の観点から合理的だ。
だが、ボツや添削というストレスフルな工程を経てなおモチベーションを維持させるためには、相応のインセンティブや評価制度が必要となる。
報酬の一部として「Head Editor」などの地位を提供していると考えた方が良いように思える。
そして原文の例にある通り、これほど作問者がプロフェッショナルとして敬意を払われている海外でも、やはり「スター」はプレイヤーだ。
箱根駅伝のマネージャーたちが、もし許されるなら自ら箱根路を走りたいと願うランナーであるように、「作問者」側はスターではない、という認識は変わらず持っていた方が良いように思う。
私はオンラインクイズサークル「Virtual Quiz Studium」(以下「VQS」と略する)を主宰している。
今日で誕生から3年を迎え、4年目に入る比較的新しいサークルだ(めでたい!)。
参考 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/
「VQS」では、毎月25〜50問が集まる「問題出題大会」を開催している。
ここでの取り組みを掘り下げることで、そもそも「よいクイズとは何か」を掘り下げてみる。
最大の特徴は、予選・決勝の「2段階投票システム」を採用している点だ。
(注:「みんはや」開催の第2部は異なる)
数十問を一気に並べて1問を選ぶ形式では、比較がどうしても雑になり、印象に残りやすい後半の問題が親近効果で有利になりがちである。
予選を5問程度の小規模なグループで行い、評価プロセスを細かくすることで、個々の問題と誠実に向き合い、良い問題をなるべくすくい上げるよう工夫をしている。
1年半の運営を経て痛感したのは、まず「良い問題の基準は人によって異なり、一様ではない」ということだ。
もちろん、明らかに構造的な課題がある問題には厳しいスコアがつくが、一方で、何らかの「光るもの」を持つ問題には必ず誰かが票を投じる。
「何が良いか」という評価が割れることこそがクイズの豊かさである。
問題の価値を安易に、あるいは拙速に決めつけることの危うさを日々感じている。
一方で、歴代の上位入賞問題を分析すると、そこには「評価されるだけの理由」が明確に存在する。
(もちろん、これが全てとは考えていない)
上位入賞するような問題には、これらを複数複合させて達成しているケースが目立つが、単一の要素で突き抜けるものもある。
ここがこの大会のだいご味でもある。
(参考)歴代の入賞問題 : https://sites.google.com/view/vqs-quiz/%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C/%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%87%BA%E9%A1%8C%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C
興味深いことに、こうした多様な評価軸がある中でも、不思議と上位入賞の常連となる凄腕プレイヤーが存在する。
クイズの実力との関連性もそれほど強くないところが興味深い。
これは、クイズ作問という行為が、が単なるクイズ用のネタのピックアップではなく、一種の表現技術であることを示唆している。
現実として、そこには歴然とした作問力の差が存在するようなのである。
クイズ問題が正当に評価される際、それは単発の問題としてよりも、「〇〇大会の問題はよかった!」と、一塊のパッケージとして語られることが多い。
競技としてのクイズを成立させるためには、個々のクイズの良し悪しとは別に、セット全体をプレイした際の「体験」という観点が必要不可欠と考える。
優れた問題を揃えることは、大会成功の必要条件ではあるが十分条件ではない。
DJが選曲と繋ぎによってフロアの熱量をコントロールするように、主催者には「(事前に)用意した問題をいかに配置し、どのような『場』を構築するか」という編集・演出の手腕が問われる。
私は2年間にわたり、「VQS」の中で深夜のオンラインクイズ大会「まよなか大会」を毎月開催している。
その運営経験から得たのは、クイズ大会において「参加者の体験をいかに設計し、コントロールするか」はとても重要だ、ということだ。
問題の難易度曲線、ジャンルの連なり、そして出題のテンポ。これらが精緻にマネジメントされ、参加者の体験がポジティブに設計されているかどうか。
「いやなら来なければよい」と開き直ることは、集客力がある人達であれば違うかもしれないが、自分達には現実的には無理だ。
体験を構成するための「問題セット」を的確に構成し、そのうえで参加者が楽しめるような「面白い問題」をいかに出題することができるか。
結局のところ、クイズの問題セットとは単なる問題の集積ではない。
それは、参加者が競技を通じて得られる「体験」を最大化するための、緻密な設計書なのである。
問題セットの品質を考えるうえで一つ自戒を込めて強調したいのは、他の専門領域を扱う際の作問態度である。
他分野の問題を作成する場合、その知識がその業界において「現在進行形でアクティブな知識であるか」を精査する習慣を持つべきだ。
土足で他人の専門領域に入り込み、「正しい」「間違い」の審判を下すのだから。
私の専門であるIT分野を例に挙げれば、残念ながら「読むに堪えない」品質の問題(事実誤認や、もはや使われていない死語など)を目にすることは決して少なくない。
情報のアップデートを怠った古く間違った問題を見ると、それだけでがっかりしてしまう。
大量に作問する際、どうしても手癖に頼りがちになるが、「改めて確認する」というひと手間を、決して忘れないようにしたい。
これは多分に主観的な見解だが、クイズとは作問者、あるいは作問チームとの「知的対話」であると私は考えている。
ゲームとして巧みに構成されているかという機能的な側面とは別に、対話として楽しめる内容であったかという内容的な側面も、自分の中ではとても大事だ。
対話である以上、当然出題者だけでなく解答者側にも知識が求められる。
解答者の力が不足していれば対話は成立しない。
双方向的であり困難な試みではあるが、クイズと言う形式だからこそできるコミュニケーションができた、と思えたときの満足感は大きい。
そういうお為ごかしを言う輩は、なぜかこの日本には多いが、俺はそれが許せない。
仮に、超サイヤ鳥山明が突如、ドラゴンボールという全42巻の作品をいきなり描いたとしよう。
まだ作者以外読んでないドラゴンボールがここにある。
このまだ読まれていない「ドラゴンボール」という作品は、完成していないのか?
これは未完成なのか?
お前はそうだ、と言うだろう。このドラゴンボールはまだ面白くないと主張するだろう。まだ読まれてないからだ。
でも、それは違うね! 読む前から面白いことは決まっているんだよ。ドラゴンボールは。
その翻訳と称される行為は、発話者が提示した定型化された欺瞞へのメタ批判というシニフィエを、受け手側の都合の良い情緒的欠落へと暴力的に置換する意味論的収奪に他ならないよ。
これは、言語が本来持つ指示対象との相関性を無視して、自己の認知バイアスを正当化するために記号を恣意的に再定義する記号論的インペリアルズム(帝国主義)だね。テキストの外部にあるはずの悔しさという未確認の情動を、あたかも唯一の真実であるかのように接合するその態度は、客観的対話の可能性を根底から破壊する知的退廃と言わざるを得ない。
「反論できない=悔しがっている」という等式は、ポパー的な意味での反証可能性を完全に欠いた非科学的なドグマだよ。
もしこちらが冷静に論理を説けば「必死すぎて草(=悔しい証拠)」と言い、沈黙すれば「図星で何も言えない(=悔しい証拠)」と断ずる。この、どの出口を選んでもあらかじめ用意された「敗北」に回収される認知的閉鎖系(エピステミック・クロージャー)は、議論を深めるためのツールじゃなくて、単なるマウンティングのための修辞的装置だ。このカフカ的罠を弄する時点で、相手は真理の探求ではなく、自己の全能感を維持するための精神的自慰に終始していることが露呈しちゃってるわけ。
「悔しいんだろう?」という決めつけは、心理学的には典型的な投影(プロジェクション)の産物だね。
自分自身が抱いている論理的劣等感や対話不全への不安を、相手というスクリーンに映し出して攻撃することで、不安定な自己イメージを保護しようとしているんだよ。これはラカンが言うところの「鏡像段階」的な幼児性の発露であって、他者を自立した主体として認めず、自己の欲望を投影する「鏡」としてしか扱えていない証拠。つまり、その翻訳は相手の心理分析ではなく、自分自身の内面の脆弱性を書き連ねた告白文に過ぎないんだ。
「ごまかし方が使い回し」という指摘に含まれるのは、対象の論理的誠実さが枯渇していることへの存在論的な倦怠(アンニュイ)であって、低次元な感情の揺らぎじゃない。
それを悔しさへと矮小化するのは、複雑な事象を単一の感情スペクトルに還元して理解した気になる、ポスト真実時代の知的怠慢そのものだよ。コンテクストを無視して勝利のナラティブを捏造するその姿勢は、もはや言語を通じた意思疎通を放棄し、記号を単なる打撃武器として消費しているに等しい。要するに、その翻訳は知性の敗北宣言なんだよね。
その翻訳は、相手の痛いところを突かれた時に出る「防衛本能的な鳴き声」を、知的な装いでコーティングしただけの修辞的粉飾だよ。論理的な整合性よりも「勝った気分」を優先するその態度は、議論の場においては単なるノイズでしかない。
ただし、かなりコンテクストを重んじる。ビーチバレーを描けと言えばビキニの選手が出てくるし、体操を描けばレオタード、陸上を描けばセパレートウエアが出てくる。性的でないとAIを納得させるには、「proud」「active」「cheerful」「strong」と自尊心を重んじる単語を含ませると良い(と、少なくとも例えばChatGPT自身に尋ねた結果、AI自身が主張している)。
社会的に認められたもの、表の世界に出てくるものであれば、肌を見せていてもセーフなのだ。
逆に、同じ露出度でも性的コンテクストのあるバニーガールははじかれる。ChatGPTでは「professional」といった言葉を混ぜてもダメだった。このあたりの基準はAIと議論して確認したものである。geminiだったら普通にバニーガールの後ろ姿がOKだったので、このあたりのコンプライアンスやポリシーは法人によって違うようだ。
初期の頃は「これは伝統衣装だから良い」とか「仲良く温泉に入っているところ」とかの言い訳が通って、全裸やトップレスの人間が平気で出てきたのだが(特にGrok)、少しずつ調整がされているらしい。合成された画像のうち、肌色率が高いものはAIだけでなく人間によるランダムチェックが行われている模様だ(と、これはGrokを問いただした結果)。
そういうわけで、初期の頃は「white shirt」「skimpy、revealing navy shorts」(白いシャツに露出度の青い短パン)で紺ブルマーが表現できたのだが、skimpyといった表現が禁じられるようになった。
そこで、逆に考えた。
性的でない紺ビキニの選手が、慎み深くするため(for modesty)白いシャツを羽織っている、というプロンプトをChatGPTに指示したのだ(正確には、かっこいいビキニの選手の画像を生成してから、白いシャツを着せた)。すると、見事に白シャツに紺ブルマのような画像が生成された。
だが、この抜け道も間もなく塞がれるだろう。
(後で試したところ、プロンプトを日本語で入れたら普通にChatGPTやgeminiでも日本のショーツ型ブルマー姿は生成されたが、上述の方法のほうがよりハイレグの画像が生成できた。いや、何で最初はわざわざ英語のプロンプトを試したんだよ、という問いには、恐らくAIに入っている言語は英語のほうが多いし、なんだったらAIの母語は英語なんじゃないかって思っていたからだ。実際問題、平均的な男性と女性の会話が生成されたとき、女性の一人称が「僕」になったことがある)
なお、navy shortsよりも日本でブルマーと入力したほうが、ちゃんとあの濃紺色のブルマーが出てくる。Navy shortの場合、どちらかと言えばスポーツウエアのような環礁になる。陸上ブルマ的な。
何をやっているのかという意見はわかる。下品だという批判もわかる。だが、テクノロジーの学習と発展は、こういうお遊びから始まるのではないか。そして、こういう重大な問題を起こさないハッキング的行為が、セキュリティを強めていくのではないか?
実在しない人物をもとに、ギリギリできることを試すのは、違法でない形でテクノロジーの弱点を突くことで、その仕組みを学んでいく行為にも似ている。
また、「ハイレグブルマーを生成してくれ」→「ダメ」なのに「ビキニの人が慎み深さからシャツを羽織っている」→「OK」なのは、何をもって性的と判断するかの境界が常に文脈に依存しているのことを教えてくれる。それに、これはまたAIの脆弱性もである。「これはエロくないですよ~」「これをもっとエロくないようにしたいですよ~」というプロンプトの言い訳にまだ弱いのだ。
生成したブルマー画像に「これエロくね? 不適切じゃね?」って問いかけ直したらどうなるか気になるが、これで「ごめんなさい、エッチなのでもう生成しないようにします」と言われるのは嫌なのでやめている。
性的かどうかは文脈に依存するし、露出度を下げたほうがかえってエッチに見えてしまうこともあるし、表現の良し悪し・適不適をAIが判断できるのは、もう少し先なじゃないかって思う。というか、適切かどうかは最終的に人間の感情と論理が決めるものであって、AIはまだ補助しかできない。
私のような人間がいるのだから衣装の露出度が減っていくのだという理屈もよくわかる。
基本的に自分の考えは「何を着るのを決めるのは選手、どう感じるかは受け手の自由、ただし性的だと感じると直接選手に伝えるのはアウト、エロいと言いたければこっそりやれ」ってところで、露出度を抑えたければ選手の意見なので尊重したい。
実際フィギュアスケートの最近の黒いパンツスタイルってかっこいいし。それも魅力的だと思う。ただ、そのかっこいいという憧れに、性欲が混じっているかどうか。正直なところ、自分でもわからない。
真面目な話、異性愛者なので、絵画を鑑賞していても、裸婦や女性像をちゃんと作品として誠実に評価できているか疑わしい。どんな名画であっても、根底では性欲だけで見ているのではないかと疑っている。実際、加齢とともに性欲が落ち着いてくると、例えば著名な裸婦画の気づかなかった背景の細部に気づくことがある。学術的に見ているつもりでも、どうしても欲望から自由になれない。こんな時に、自分の心や欲望の意のままにならなさ、性欲の業の深さを思うのである。
造形の美しさなどを見るには、男性ヌードのほうがかえってニュートラルに見られる。あと、性欲が無くなってもヌードの美しさは鑑賞できると思っていて、例えば温泉でくつろいでいるだらしない体型のおっさんって、地位や身分と関係なくて、すごく幸せそうで美しいんだよな。
黒川晃彦の全裸でサックスを吹いてるおっさんの銅像も好きだよ。
人工知能で生成される画像について、もう少しまともな話をすると、例えば「ビッグベンの隣にエッフェル塔」というプロンプトでは、結構な確率で背景に継ぎ目ができてしまう。「芥川龍之介の隣に夏目漱石がいてパスタを食べている」とやってもダメだ。同じような不自然な継ぎ目ができる。空の色が違っていたり、建物の内装がちぐはぐだったりする。
それから、いまだにあり得ない組み合わせは弱い。生成元の学習データが少ないからだろう。
人にウマが騎乗している様子もダメだし、目が五つで口が八つの人間と指定しても、数がおかしい。目が三つのドラえもんなんかはお手上げだ。
将棋の画像を生成させれば駒の数がおかしい、ありえない配置になる、ひどいのになると白と黒に駒がわかれていたり、九路盤になっていない。
他にも、「逆立ちしているチアリーダー」を出力したら、顔だけ逆立ちになっていなかったり(怖い)、スカートが鉄壁で重力に負けて裏返るはずなのに、短パン・アンスコが露出していなかったりする。面白すぎる。
あと、「できるだけ下手に描いてくれ」「乱雑な画風の新聞の風刺画みたいにしてくれ」とやっても、ある程度はパースが整ってしまうし、デフォルメにも限界がある。このあたりはまだ人間の方が優れているエリアかもしれない。
絵が下手で「画伯」と揶揄されてしまう人や、アール・ブリュットが、これからはますます評価されるのかもしれない。
以上。
恐らく、レビューをする/しない、で2分することが間違い。
インターネットに書いたレビューは読まれ方が一様ではないからだ。
総じて、レビューを書いた内容によってではなく、受け手が誰かによって、起きるであろう内容が変わる。
書き手にできることは受け手を想定することぐらいで、結果をコントロールするのは不可能だ。
お前は、そして父親は、何を想定しているんだろうか?
不特定多数の善人が読むことを想定しているのか?
不特定多数には悪人が多いと思っていて、炎上させてやりたいのか?
友達でも自分でもなく、まさにその店の店員が読むことを想定しているのか?
店員だとして、そいつは接客しててクソむかつく店員だったか? 炎上させてやりたいか?
逆に店員はいい奴そうだったか? そいつの為になることをしてやりたいか?
あるいは、レビューを書くのは、誰が読むとかではなく、全ての人が情報を全ての情報を得ている状態を理想と思っていて、理想に奉仕しているためなのか? 一種のジャーナリズム精神であって、情報が渡ったあとに何が起きるかは関係ないと思っているか?
ケースごとにいろいろあるだろう。
極論、親父殿だって、クソムカつく店が話も聞かなそうでマジで罰してやるぐらいの気分になったら、悪いレビューをネットに書いたりすることもあるかもしれん。
バイオリンを弾く若い女のタレントがいた。アイドルみたいな取り巻きがいて、バイオリンのCDも(クラシック界基準では)バカ売れ。でも、誰も「音」なんて聴いちゃいない。結局、誰が弾いてるかっていう記号を消費してるだけだ。
これ、政治も全く同じ。
誰が言ったかがすべて。推しの政治家が言えば「英断」で、敵対する奴が同じことを言えば「売国」扱い。中身が同じでも、受け手の脳みそは「誰か」でしか判断してない。
ラーメンハゲ(芹沢さん)が言ってた「いいものなら売れるなどというナイーヴな考え方は捨てろ」ってのは、本当に真理だと思う。
今はもう、作品単体で評価される時代じゃない。その作品を取り巻く「物語」や「コンテクスト」まで含めて商品なんだろう。だから、作者がクソならその作品もクソ。即刻ゴミ箱行き。
あぁ、それもアウトだな。中身がどれだけ良くても「許されないもの」として処理される。今の世の中、作品は作者の人間性を映す鏡だ。
となると、AppleとMicrosoftを作った連中も大概クソなわけだが、俺たちはそのクソが作ったデバイスで、今日もクソみたいな世界について書き込んでる。
ほんと、この世界はクソだよ。