2025-12-01

日常会話や世間話なら一人当たり一文。ほとんど一文ごとに話し手聞き手は入れ替わる。

このやり方である限りにおいては先生弟子があるテーマに沿って対話して一緒に学びを深めていくようなことにも当てはまることだが、話す順番は特に意識する必要はない。相手が聞いてきたこから答えればいい。

それは問いも答えも文章的には一文によってやり取りされることに関わっている。

これが二文以上を費やしてもっとまとまりのある情報を一度に伝えようということになる段階で文章の組み立てというもの意識される。

長い文章ほど推敲もしないで思いつくままに話したり書かれたりされても受け手はどんどん置いてきぼりになっていく。

全体として流れが自然であるような文章が望まれる。

やみくもに話したり書いたりしたとしても偶然話の組み立てとして最適解な順番になっていて推敲した時と同じ効果受け手に及ぼすこともあるかもしれない。

しろそれが偶然よりも高い確率で起こるようにするためにこそ推敲をするのだと考えるべきだろう。

ここまでのことを踏まえれば、結局逆に言えば挨拶英会話のような単純な質問と応答のような世間話のような類をラインネット上の掲示板チャット感覚で行なうことにおいては、その文章本質的には形式に囚われて文章と分類していても仕方がないのではないかということだ。

まずこれらの文章には解釈学の常識通用しない。

文章他人の目に触れた瞬間それは解釈的に作者の手から離れるというが、まさかチャット書き手が誤解されて誤解であることを釈明した後でも「お前の先の文章ではそう解釈できるんだからお前がどういう意図で書いたか関係ない」とか言ったらただのキチガイだろう。

政治家発言撤回したならば撤回したという事実自体は受け入れられ、批判されるのだとしても「撤回するなら最初から言うな」といったような類であるのが健全であり、まるで撤回したことなど知らないかのように「なんであんなことを言うの」と言い続けるのが異常とみなされることに対応する。

また一般的文章では同じ言葉は極力使うべきではないという考え方があるようだがチャット的な単なる意思疎通のための文章では別にそのようなこだわりは求められていないと思う。

これも音声での対話でも同様に同じ言葉を何度使おうが全く気にしないのと対応している。

そもそももし我々が声帯も手も失ってしまったら何が望まれるだろうか。

から口を動かしたりキーボードを叩くとき命令が検出されたらそれに対応した人工音声の再生なり、ネット対象としているなら端末への文字入力なりが望まれるのではないか

ネット対象をしてなくて対面でもあえて胸元にiPadみたいな液晶をぶら下げておいてそこに言葉を発しようとする時の脳の命令対応する文字が出てくる仕組みを望む人もいるかもしれない。

いずれにせよこうやって考えてみると、音声のとき文字の時とで文章かどうかの扱いが変わってしまうという考え方には本質を欠いた印象を受ける人も出てきているのではなかろうか。

しかし現行の考え方では人工音声か胸元に文字が表示されるいわゆる筆談形式をとっているかというだけで文章という呼称適用すべきかの判定をしていることになる。

増田というある種の仮想空間においても我々は喉を潰され筆談強制されているようなものだ。

筆談する障がい者表現は全て「文章」力という尺度によって評価されるべきなのだろうか?現に「口下手」だった後天的啞が筆談コミュニケーションを取っている場面でその巧拙考察される場合、おそらくそれは会話という捉え方で分析されるように思えるし、このような場での表現巧拙をやみくもに全て文章力と呼んで処理する傾向は腑に落ちない。

dorawiiより

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