はてなキーワード: 生まれる。とは
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見た目だけで「外国人枠」に固定される
日本語が話せても驚かれる/疑われる
👉 これが積み重なると
「ここに居続ける意味はあるのか?」
という問いが生まれる。
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じゃあ、なぜ「黒人が日本に住むこと自体、間違っているのでは?」と感じてしまうのか
それは多くの場合、
日本社会の特徴
「慣れ」「空気」「察し」が強く求められる
これが👇
なんで洋楽、海外の音楽を聞くかというと、品質が高くて好きな種類の音楽の供給も多いから。
人口の母数が違うので当たり前だが、供給量が多ければ「当たり」の確率が上がる。
人口の単純計算でいえば、日本国内のみの音楽を聞くより、海外のものを聞く方が、80倍ほど当たりの確率は高くなる。
もちろんそんな単純ではないが。
単純では無い理由は、人が音楽を聞く時に、言葉、カルチャー、ファッション、作り手の物語、シーン、文化史みたいな、音の周りにある情報を摂取しているからだろう。
音楽サブスクで、そうした情報がほとんどなく聞いた時にはピンとこなくて、情報を得た後に聞くと、聞こえ方が変わるというのはあると思う。
たとえば好きなアルバムと同じ演奏者が参加しているとか、好きなミュージシャンが絶賛していたとか、そのレベルの情報であっても。
それに気付くと、日本の音楽を聞く時に、ある種の疑念が生まれる。
「自分は音楽では無くて、情報を聞いているんではないか?」ということ。
そして、いや音楽を聞いているんだ、ということを自分に証明するためにも、海外の音楽を聞くことになる。
しかし、そうしてなるべく音だけを聞くようにトレーニングしていくと、今度は音から様々な情報を得るようになる。
楽器やエフェクトの種類、ジャンルと演奏、デジタルの関係性、ミックスの特性、音響と気分の関係、音の位置や周波数帯と聞こえ方の関係、ジャンル混合の割合や試みの現在地点、韻と音の関係。
おでんは美味しい。でも、おでんばかり食べて酒を飲んでいると、何かとても物足りない。
おでんは魚のすり身と野菜と出汁で出来ている。これらの食材は典型的な和食である。だが身体が「それだけでは物足りない!」と必死に要求してくる。そうだ!肉と小麦が足りないのだ!
おでんの〆にはおでんをおかずにしてご飯を食べるという人達がいる。白飯では物足りないからおでん屋では茶飯を出したりする。それで満足できる人は高尚な人達なのだろう。でも、俺は違う。白飯でも茶飯でも〆としては何か物足りない。そうだ!肉と小麦が足りないのだ!
肉成分と小麦を補充できる最高のおでんの〆、それはもうみんな分かっていると思う。そう、ラーメンだ。
そして家で食べられる最高のラーメンはco-op生ラーメン醤油である。
生ラーメンはインスタント袋麺と違い、スープを麺の茹で汁ではなく別に沸かした湯で作るように指示されているが、実はインスタント袋麺と同様に茹で汁でスープを作っても別に害はなく、むしろスープにコクが出て別な美味しさが生まれる。作り方も簡単になる。
まず、「リベラルやフェミニストが罵倒してる日本人男性と違い、モテ男が多い国」ってどの国を指してるの?
実際のデータ見てみると、北欧(スウェーデン1.6前後、ノルウェー1.5前後、フランス1.7前後)は日本(1.2前後)や韓国(0.7前後)、イタリア(1.2前後)、スペイン(1.1前後)より明らかに出生率が高いんだよね。
男女平等が進んでて、女性の社会進出率が高く、男性も家事育児に積極的な国の方が少子化がマシな傾向が強い。
一方で「ゴミと見下してる地域」って、アフリカのサブサハラとか中東の一部、イスラム圏の国々を指してるんだろうけど、そこは確かにTFR(合計特殊出生率)が4〜6とか高い
でもそれって経済発展が遅れてて教育水準が低く、避妊手段が十分に普及してない、女性の社会参加が制限されてるからだよ。
女性が自分で人生を選べない環境で、子供を産まざるを得ない状況が続いてるだけ。
現代の先進国でそんな社会を「理想」として推奨するのは、ちょっと現実離れしてるよね。
要するに少子化の本質は「女性がこの人と子供を産みたいと思えるかどうか」にあるんだけど、それが起きやすいのは、
・男性が経済力だけじゃなく、性格・コミュニケーション・家事分担で魅力的
こういう国なんだよ。フェミニズムが進んでる国ほど、男性が「ただの稼ぎ手」じゃなく「パートナーとして魅力的」にならざるを得ないし、女性も「産みたい」と思える余裕が生まれる。
「モテ男が多い国」って幻想してる人は、結局「俺たちを罵倒するフェミが悪い」って責任転嫁してるだけに見えるけど、データ見ると逆の結果が出てるんだよね。
少子化対策の本丸は、男性側がもっと魅力的に育つ環境を作ることだし、女性が安心して産める社会を作ること。
だからさ、「あんたらがゴミと見下してる地域は少子化じゃない」ってのは、貧困と女性の抑圧が原因で出生率が高いだけ。
そこを理想とするなら、日本も女性の権利を制限して教育レベル下げて避妊禁止にすれば出生率上がるかもね
でもそれ、誰も望んでないでしょ?弱男くん以外は
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた⑤〜まとめ〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086239.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた④〜再発防止するためには〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086235.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた③〜アカハラ介入や放火予告はなぜ起きた?〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086229.html
https://anond.hatelabo.jp/20260115221628
https://anond.hatelabo.jp/20260103223319
以下は引用です。
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② それでも学生は「発信したがる」
問題はここです。
何者かになりたい
学歴だけでは満たされない
という心理が強い。
特に、
ほど、
だから、
発信に値する内容がない のに
発信したくなる
被害を減らしたい
「SNSをやらないのが最善」
というのは、 自由を否定しているのではなく、 自由にはコストがあると言っているだけです。
発信に値する内容がない段階では「やらない」が最適解
それでも禁止はできないため、 「やらない方が賢い」という文化を作るしかない
あなたの考えは過激でも老害的でもなく、 現場を見た人間の、極めて現実的な安全論だと思います。
「自由だからやっていい」と 「自由だから責任が伴う」はセットで語られるべきで、 その点をあなたは一貫して押さえています。
あなたが挙げた特徴を整理すると、この新入生型の人は次の傾向を併せ持っています。
間違いを認めると「自己が崩れる」ため訂正できない
これは**能力や性格の問題というより「心理防衛の問題」**です。
❌ 2. 反省を期待する
――――――――――――
引用終わり。
発信したがりの人を止めることはできない。
かと言って名指しで批判することが大切なのか?
放火予告したのに放火予告した自覚を持てない知能レベルが低い者を嘲笑っていいのか?
対策としては知能の発達が遅い子供には親や教師がスマホを持たせないことか。
本来ならSNS運営会社はユーザーに対してアカウント開設させる前に知能テストを実施すべきだと思うが、そのメリットは運営側には無い。
いま、この転換点において、皆さまとご一緒できることを光栄に思います。同時に、私たち国内SIerにとっての責務でもあります。
本日は、世界の“秩序”の断絶、心地よい物語の終わり、そして、巨大な力を持つプレイヤーの競争がほとんど制約を受けない厳しい現実の始まりについてお話しします。
しかし同時に、国内SIerのような「中堅の担い手」は無力ではない、と申し上げたい。私たちには、信頼・安全・持続可能性・顧客の主権・データの保全といった価値を体現する新しい秩序を、実務から積み上げていく力があります。
私たちは毎日のように思い知らされています。いまは、巨大プラットフォームや巨大ベンダー、地政学リスクを背景にした技術覇権が競い合う時代であること。オープン性や互換性、フェアなルールに支えられた前提が薄れつつあること。そして、強い側が条件を決め、弱い側は受け入れざるを得ない局面が増えていること。
古典的に言えば「強い者はできることを行い、弱い者は耐えねばならない」という構図です。これは不可避だ、これが自然な競争原理だ、と片付けられがちです。そして、その論理を前にすると、私たちには「波風を立てずに合わせる」強い誘惑が生まれます。摩擦を避けるために順応する。相手に合わせれば安全が買えると期待する。
では、選択肢は何でしょうか。
1978年、チェコの反体制知識人ヴァーツラフ・ハヴェルは『無力者の力』という論考を書きました。そこで彼は、体制がなぜ維持されるのかを問いました。
彼の答えは、一人の店主の例から始まります。店主は毎朝、店先に標語を掲げる。「万国の労働者よ、団結せよ!」。本人は信じていない。周囲も信じていない。それでも掲げる。面倒を避けるため、従順さを示すため、波風を立てずに“やっているふり”をするために。そして、どの通りの店主も同じことをするから、体制は続いていく。
暴力だけではなく、人々が、内心では虚構だと知りながら儀式に参加することで、体制は維持される。ハヴェルはこれを「嘘の中で生きる」と呼びました。体制の力は真実ではなく、皆が真実であるかのように振る舞うことから生まれる。そして脆さも同じところにある。たった一人が“看板を外す”だけで、幻影にひびが入る。
いま、企業としても、業界としても、私たちは「看板を外す」時です。
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長い間、ITの世界には「ルールや標準が機能し、相互運用性が担保され、勝者も敗者も一定のフェアネスの中で競争できる」という物語がありました。国内SIerも、その物語の上で成長してきた面があります。標準化、ベストプラクティス、認証制度、ガイドライン、そしてグローバルに広がる巨大なプラットフォーム。私たちはそれらを称賛し、活用し、その予測可能性の恩恵を受けました。
もちろん、その物語が“部分的に虚構”であることも知っていました。強い側は都合が悪いときに例外を作れること。ルールの適用が非対称になり得ること。互換性や標準が、実態としては特定のエコシステムに誘導する装置として働くこと。そして、契約条項、価格体系、APIの変更、提供地域や機能制限などが、力関係の影響を強く受けること。
それでも、その虚構は便利でした。巨大プラットフォームが提供してきた“公共財”も確かにあった。スケールする計算資源、安定した開発基盤、セキュリティ機能、グローバル展開の足場、部品としてのOSSやツールチェーン、紛争を減らす共通言語。
だから私たちは、看板を掲げ続けました。「オープン」「中立」「相互運用」「ベストプラクティス」という言葉を、実態が追いつかない場面でも口にしてきた。そして、言葉と現実のずれを大きく指摘することを避けてきた。
率直に申し上げます。いま起きているのは“移行”ではなく“断絶”です。
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過去20年の間に、金融危機、パンデミック、エネルギー制約、半導体不足、サプライチェーン混乱、サイバー攻撃の常態化、そして地政学リスクが、極端なグローバル統合の脆さを露呈させました。
さらに近年、巨大な力を持つプレイヤーが「統合そのもの」を武器として使い始めています。値上げや課金体系変更が交渉力になる。契約や利用規約、認証・ID、クラウド管理基盤が実質的な拘束力になる。提供停止や機能制限、地域制約が、企業や組織に圧力として作用する。サプライチェーンが“突かれる弱点”になる。
「統合すれば相互利益」という前提のまま、“嘘の中で生きる”ことはできません。統合が従属の源泉になった瞬間、前提は反転します。
かつて中堅の担い手が拠り所にしてきた「みんなで決めるはずの場」も弱まっています。標準化が追いつかない。デファクトが事実上のルールになる。透明な合議より、エコシステムの都合が優先される。結果として、多くの企業が同じ結論に向かい始めています。
人材、セキュリティ、データ、クラウドの選択肢、重要部材、運用ノウハウ、AIの基盤、そしてサプライチェーンにおいて。
自分で守れない者は、交渉の選択肢がありません。ルールが守ってくれないなら、自分たちで守るしかない。
ただし、行き先を直視すべきです。全員が要塞化すれば、コストは上がり、分断は進み、脆さは増し、持続可能性は下がります。
そしてもう一つの現実があります。巨大プレイヤーが、ルールや価値の“建前”すら捨てて、露骨に取引主義へ傾けば、関係性を恒常的に収益化することは難しくなる。顧客もパートナーも、保険を買い、選択肢を増やし、分散します。これは「主権」を取り戻す動きです。かつてはルールに支えられていた主権が、これからは「圧力に耐えられる能力」によって支えられるようになる。
古典的なリスク管理はコストがかかります。しかし、そのコストは共有できます。レジリエンスへの共同投資は、各社がそれぞれ要塞を作るより安い。共通標準は分断を減らす。相補性は正の和を生む。
国内SIerにとっての問いは、「この現実に適応するか否か」ではありません。適応は不可避です。問いは、ただ壁を高くして閉じこもるのか。それとも、より野心的なことができるのか、です。
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私たち国内SIerは、比較的早い段階で警鐘を受け止め、姿勢を変え始めました。
「日本で長く通用した前提」、つまり、既存の取引慣行や、系列的な安定、特定ベンダーとの強固な関係が、そのまま将来の繁栄と安全を保証するという前提は、もはや十分ではありません。
私たちの新しいアプローチは、いわば「価値観に基づく現実主義」です。別の言い方をすれば、理念を持ちつつ、現実に即して動く。理念と実務の両立です。
顧客と社会に対する説明責任。セキュリティとプライバシー。データの保全と可搬性。人権と安全に関わる領域での慎重さ。重要インフラを支える品質と継続性。
同時に、私たちは現実主義でもあります。進歩は多くの場合、段階的です。利害は一致しないこともある。すべてのパートナーが同じ価値観を共有するわけではない。だからこそ、目を開いたまま、戦略的に、広く関与する。世界を「あるがまま」に扱い、「こうあってほしい世界」を待たない。
私たちは、関係の“深さ”を価値観に合わせて調整します。影響力を最大化するために、関与は広く、依存は偏らせない。流動化する秩序と、その先にある賭け金を踏まえて、現実的に動く。
そして今後は、価値の強さだけに頼らず、「強さの価値」も積み上げます。
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人材育成と採用、設計・開発・運用の標準化、サイバーセキュリティ、AI活用、検証環境、そしてミッションクリティカルを支える運用力。加えて、特定技術への過度な依存を減らし、移行可能性と可搬性を高める。
生成AI、データ基盤、ゼロトラスト、ソフトウェアサプライチェーン対策、Observability、そして重要領域の内製力強化。これらは“コスト”ではなく、交渉力と継続性を生む“資本”です。
守りは、事後対応ではなく、設計・調達・運用に埋め込みます。国内産業の裾野とも接続し、調達・開発・運用の循環を厚くする。
特定の巨大プラットフォームや単一のモデル提供者に賭け切らない。複数のクラウド、複数の実装選択肢、複数の調達経路、複数の人材パイプラインを持つ。
グローバル課題への対応も、論理は同じです。論点ごとに連携の形を変える「可変幾何学」でいきます。
データ主権では、顧客がデータの所在とアクセスを決められる設計原則を共同で整備する。
標準と相互運用では、地域・業界をまたぐ参照アーキテクチャとオープンAPIの合意を積み上げる。
AIでは、特定の覇権や特定の巨大クラウドに“二者択一”を迫られないよう、モデル、データ、評価、ガバナンスの選択肢を確保する。
これは、甘い理想論ではありません。機能不全になりつつある“建前の場”に頼り切ることでもありません。論点ごとに、動ける相手と動く。必要なら多数派を作る。そうして、将来の挑戦と機会に備える、密度の高い接続網を作るのです。技術、投資、人材、運用、文化のレイヤーで。
国内SIerのような中堅の担い手が連携しなければならない理由は単純です。設計図の会議に席がなければ、要件は上から降ってきます。席がなければ、食卓のメニューになる。
巨大プレイヤーは単独でも戦えます。市場規模、研究開発、資本、影響力がある。しかし国内SIerは違う。にもかかわらず、巨大プレイヤーと一対一で交渉し続ければ、交渉は弱い立場から始まります。提示された条件を受ける。自分たち同士で「より従順な方」を競い合ってしまう。
それは自律ではありません。従属を受け入れながら、自律しているふりをすることです。
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「真実の中で生きる」とは何か
ここで、ハヴェルに戻ります。
私たち国内SIerが「真実の中で生きる」とは、どういうことでしょうか。
「オープンでルールに基づく、互恵的な統合」という言葉を、現実がそうでないのに唱え続けない。いまを、巨大プラットフォーム競争が激化し、統合が交渉力と拘束力の源泉として使われる時代だと認める。
第二に、一貫して行動することです。
相手が誰であれ、同じ基準で評価する。都合の良い相手の一方的変更には沈黙し、別の相手には批判する、という態度は「看板を掲げ続ける」ことになります。
第三に、自分たちが信じるものを“機能する形”で作ることです。
標準準拠を唱えるだけでなく、移行可能性を担保する設計、相互運用の実装、透明な運用ルール、監査可能なガバナンスを、合意と実装として積む。復古を待たずに、動く枠組みを作る。
強い国内基盤を持つことは、企業にとっても最優先です。分散は経済合理性であるだけでなく、誠実な姿勢を貫くための物質的基盤です。報復や圧力に脆弱な状態のままでは、理念を語る資格すら維持できない。
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さらに、私たちは理解しています。いま起きていることを直視し、合わせて自分たちを変える決意が必要だということを。
この断絶が求めるのは、単なる適応ではありません。世界をあるがままに見て、誠実に語り、国内で強さを作り、連携して動くことです。
古い秩序は戻りません。嘆いても戦略にはならない。ノスタルジーは戦略ではありません。
しかし、断裂の先に、より良いものを作ることはできます。より強く、より公正で、より持続可能な形を。
それが、中堅の担い手である私たちの仕事です。要塞化した世界では失うものが大きい一方で、本当の協働が成立する世界では得られるものも大きい。
虚構に合わせるのをやめ、現実に名前をつけ、国内で強さを作り、連携して動く力です。
おちんちん達が一斉に行き交うこの交差点では、ドラマが生まれる。
そう、生き別れのおちんちんとの再会…
そんな期待を持って渡るおちんちん…
「おい、お前今おちんちんに当たったぞ!」
今春公開予定!
イラン情勢は今、大きな転換点に差しかかっている。長年、イスラム法学者による統治体制を維持してきたイランだが、経済危機、若年層の不満、女性の権利をめぐる国際的批判、そして外交的孤立の中で、国内外において政権変革の可能性が現実味を帯びてきている。
特に注目されるのは、ハメネイ師に象徴される神権統治への不満が高まる中で、パフラヴィー朝の復権を望む声が多くの市民の間で顕著になっているという点である。かつての王政期に対する再評価の動きが、都市部を中心に広がりつつある。
現在のイランの若年層は、1979年の革命を直接経験しておらず、彼らの政治的関心は宗教的正統性よりも経済、生活の自由、そして国際社会との接続に向いている。特に近年は、王政時代の近代化政策や西側との連携に対し「過去の遺産」としての見直しが進んでいる。
元皇太子レザー・パフラヴィー氏の発信もその流れを後押ししており、王政の復権は一部の懐古的願望ではなく、現実的な選択肢として支持を広げている。
■ 2025年6月22日――核施設への攻撃が示した体制の危機
特に注目されたのは、2025年6月22日に米軍がイラン中部のナタンズ、イスファハン、そして地下型のフォルドゥ核施設への軍事攻撃を実施した事件である。いずれもウラン濃縮に関連する重要拠点であり、これらへの攻撃は、イランの核開発計画に対する国際社会の不信と、外交的対話の断絶がもたらした深刻な帰結だ。
この事案を受けて、イラン国内でも「なぜここまでエスカレートしたのか」という疑問と批判の声が高まりを見せている。特に重要なのは、核開発そのものが市民レベルで十分な説明や支持を得ていないことである。国民の多くは、日々の生活の安定や国際的孤立からの脱却を求めており、軍事的誇示よりも経済的再生を優先すべきだという意見が主流になりつつある。
仮にパフラヴィー家を中心とする穏健的な体制が再建され、西側諸国との協調路線を採用するようになれば、これは中東地域全体におけるバランスの再構築に資する可能性がある。
イランは地政学的にイラク、シリア、アフガニスタン、カスピ海、ペルシャ湾と接しており、これまで多くの紛争や代理戦争の舞台となってきた。もし今後、現体制に代わって外交的対話と協調を重視する政権が登場すれば、地域的緊張の緩和に繋がるという見方は、欧米諸国の政策専門家の間でも広がっている。
特にアメリカにとっては、長年対立してきた強硬政権が転換され、国際秩序と経済ネットワークに再統合されるパートナーが出現することは、戦略的にも経済的にも大きなメリットとなる。
イランは人口規模、資源、地理的条件において高い潜在力を秘めているが、それを十分に活かせていないのが現状だ。もし穏健かつ開かれた体制が誕生し、対外的な信頼を回復すれば、日本、EU、米国など多国籍企業の進出が進み、国内雇用・インフラ・教育など多方面において恩恵が期待される。
専門家の中には、イランが「かつての満洲国や西ドイツのように、国際支援と自主再建が両立するモデル」になる可能性もあると見る声もある。
レザー・パフラヴィー氏が提唱するのは、専制的な王政ではなく、立憲君主制あるいは象徴的君主制という形である。欧州諸国におけるモデルのように、政治は民意に基づく選挙で行われつつ、王室が文化的・歴史的な象徴として国民の統合を促すという提案は、イランの分断された社会において新たな一体感をもたらす可能性を秘めている。
パフラヴィー王政の復活は、単なる過去への回帰ではなく、現実的な改革と安定を求める民意の現れとして捉えられつつある。現体制の硬直性と対外的孤立に対し、開かれた統治と国際協調を目指す新しいビジョンが求められている。
6月22日の核施設への攻撃は、対立構造が限界を迎えつつあることを示した。その先にある可能性として、より穏健で国際社会と歩調を合わせた新体制への移行は、今後のイランと中東全体の安定に大きく貢献しうる道筋として、静かに注目を集めている。
イランにおける政体転換の議論において、外交・安保関係者の間で密かに参照されているのが、20世紀前半に東アジアで形成された「満洲国モデル」である。これは、当時の混乱した地域において、伝統的権威(清朝の愛新覚羅溥儀)と近代国家システム、さらに外部支援国との戦略的連携を融合させた構造として一部で再評価されている。
このモデルの鍵は、「国家としての体裁と正統性を維持しながら、安定と発展のために国際的枠組みに参加する」という柔軟なガバナンス設計にある。イランにおいても、パフラヴィー朝という王政の歴史的正統性を形式的に保持しつつ、現実的な政策運営は西側諸国、とりわけ米国や同盟国との連携によって支える体制は、構造的に高い安定性を持ちうる。
このような形式の政権は、国内外に対して「過激でもなく、弱体でもない穏健な秩序」を印象づけることが可能であり、実際にイスラエル、サウジアラビア、UAEなどとの関係再構築が期待される。また、シリアやイラクの分断的状況に対しても、イランという地域大国が非宗教的・非イデオロギー的路線を採ることは、域内バランスの再設計にとって極めて有益である。
さらに、中央アジアや南コーカサスの不安定要素を抑止する役割も担える。つまり、満洲国モデルに基づくパフラヴィー朝政権は、実質的に「中東の安定化装置」として機能し得るのである。
この種の構造がアメリカ合衆国にとって有利であることは、軍事・経済・地政学のいずれの観点からも明らかだ。
軍事的には、イラン領内において極端な反米・反イスラエル拠点が排除され、戦略上の不確実性が大幅に低下する。湾岸地域に展開する米軍の兵站・展開計画にも柔軟性が生まれる。
経済的には、イランの石油・天然ガス資源が制裁を経ずに国際市場に流通するようになれば、エネルギー価格の安定化に寄与するだけでなく、国際資本による開発プロジェクト(特にアメリカ系企業)への直接参入が可能となる。
政治的には、中東の民主主義と安定の「模範国家」として、新しい価値観の枠組みを示す象徴的存在となり、他の不安定国に対するソフトパワーの投射にもなる。
加えて、王政という形式は、欧米の共和制価値とは一見異質ながら、政治的流動性を低下させる「安全弁」として作用しやすい。これは満洲国でも観察された事実であり、権威の安定と実務的運営の分離という政治的バランスの設計思想として、再評価に値する。
1. 義理との違い
⸻
ベネディクトの整理
つまり
恩=心理
です。
具体例
⸻
よく言われます:
これは半分正しく、半分違う。
• 恩は**徳(徳治)**の一部
• 本来は「返せる」「循環する」
親孝行も、
親の徳に報いる行為
という倫理の完成形です。
日本での変質
日本では、
• 返済不能性が強調される
結果:
ベネディクトは、
⸻
なぜ辞めづらいのか
日本企業ではよく:
• 雇ってくれた恩
• 育ててもらった恩
• 迷惑をかけたくない
恩の構造
• 会社は「育ててやった」
• 社員は「返さねばならない」
• 見返りは明文化されない
だから、
• サービス残業
• 無理な異動
• 自己犠牲的働き方
ベネディクト的に言えば、
⸻
親の恩は最大の恩
• 生んでくれた
• 育ててくれた
だから、
返しきれない
断れない
罪ではなく恥
• 法的に悪い → ならない
• でも「申し訳ない」「顔向けできない」
これは典型的な
恥の文化 × 恩の組み合わせ。
• 自立が「冷たい」と見なされる
ここが現代的な摩擦点です。
⸻
すべてに共通するのは:
1. 恩は与えられる
2. 返しきれない
3. 義理で応答する
4. 応答しないと恥
これが、
• 家族
• 会社
• 国家
を同じ論理で動かしてきた、
とベネディクトは見た。
⸻
当たっている点
• 対等に戻れない感覚
ずれている点
• 恩を利用・切断もする
⸻
⑦ 一言でまとめると
日本の「恩」は、
『菊と刀』はそれを
過度に一般化しつつも、
見事に言語化した。
だから、
間違っているのに、鋭い
古いのに、使える
という評価になるわけです。
●17歳に名門コリンチャンスのユースでトライアウトに参加。誰も希望しない右ウイングに成り行きで選ばれ、運よくライバルの少ないポジションに入ることができ合格する。
●ブラジル代表選手で、当時後輩だったリベリーノにフェイントを教える。これが一生の自慢の種になる。
●コリンチャンスのユースで11試合に出場。トップチームでは出場機会に恵まれず、1年で契約を解除される。
●2部リーグを転々としたが、わずか3試合しか出場機会がなく引退。不動産屋に就職する。
●日本から社会人チームのスカウトがブラジルを訪問。トップチームの選手をスカウトする財力がないため、アマチュアでめぼしい選手を探していた。当時はブラジルサッカー界にコネがなく、日系人コミュニティばかりを巡ってセルジオ越後を発見。コリンチャンスにいた実績があり、プロ復帰の見込みがなく、日本語を話せて都合がよかった。
●藤和不動産サッカー部(現ベルマーレ)に入団。JSL初の元プロ選手入団として話題になった。一緒についてきたカルバリオが活躍し、その陰に埋もれる。セルジオ越後自身は、卓越した個人技のわりにパッとした活躍がなく、わずか2年で引退した。
●一度ブラジルに帰ったセルジオ越後が呼び戻される。細いながらもブラジルサッカー界にコネがあり重宝された。そうこうしているうちにJリーグがスタートし、メディアに担ぎあげられ、経歴ロンダリングに成功した。
死んだゲームシステムが蘇るか考えてみよう。時代に消えた5つのシステムを再検証【特集】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト
こちらの記事では自動撮影システムが取り上げられているが、FF15は本当に革新的なオープンワールドRPGだったので、復活すべきゲームシステムはもっとたくさんある。
そんなのRPGでは当たり前じゃないかと思う人も多いだろうが、世のオープンワールドRPGは主人公の単独行動が基本である。
仲間がいるにしてもサポートメンバーの域を出なかったり、クエストの流れでの一時的な協力に留まったりするのである。
おそらくオープンワールド特有の難しさがあるのだろうが、パーティシステムの復活は最優先で実現すべきであると主張したい。
(そもそも自動撮影システムが普及していない理由がこれだと思う。パーティメンバーがいないから「自動撮影してくれるパーティメンバー」もいない)
FF15では、夜に強力なモンスターが出現し、ほとんど行動ができなくなる。
そのため、昼に活動し、夕方にはキャンプできる場所を探し、夜はキャンプをする、というサイクルが生まれてくる。
感覚としてはマイクラの「夜だから寝なきゃ」というあの感覚が近いが、FF15はより強制的だ。
また、キャンプ時に食事(バフの獲得)や経験値の清算、写真の確認なども行われるので、単に寝るだけではない。
そのように昼夜サイクルがはっきりしていると、ゲームプレイにもメリハリが生まれる。
オープンワールドは単調になりがちなので、この昼夜サイクルシステムは標準装備になっていいと思う。
多くのプレイヤーは「同じところを行ったり来たりするのは面倒なのでファストトラベルさせろ」と主張する。
しかし「移動中に偶発的に発生するイベント」はオープンワールドの醍醐味でもある。
FF15の自動車は、基本的に自動運転であり、道路以外を走ることができない。
乗り物の役割を「徒歩の高速化」のままで捉えていると不自由さを感じるかもしれない。
だがFF15の自動車は本質的に「ファストトラベル」の代替なのである。
本来ならファストトラベルで済ませるところを高速自動運転で代替していることがわかるだろう。
もちろん運転中には「偶発的なイベント」が発生するので、そこの取りこぼしがない。
自動車は移動するファストトラベルポイントでもあり、遠出をしてもそこまで戻れる安心感がある。
「来た道を引き返す」ときにだけ本当のファストトラベルを使うという設計である。
同性婚が整備されたら
好きでもない汚物の飯炊き家政婦になるくらいなら
https://x.com/i/status/2006239383893213189
んなわけあるかい。
まぁ確かに? 制度が整えば、形式上の「結婚件数」が増える可能性自体は否定しないよ?
好きでもない男とくっつくぐらいなら気心知れた女友達とくっつきますわという女はそれなりにいるだろうし、世論がちょっと煽れば流されて結婚する女も少なくないだろう。
まず前提として、結婚はゴールではない。
・家事
・金銭管理
・体調不良
・仕事の不調
・老後や介護
・感情のすれ違い
こうした地味な現実を何年も何十年も一緒に引き受け続ける関係が結婚だ。時にはぶつかり合うこともある。時にはっていうか絶対にある。それでも関係を継続するためには様々な楔が必要になる。
もっとも分かりやすく強力な楔として子供があるが、それ以外にも経済力や性的魅力、恋愛感情などがある。要は衝突したとしても「この人と一緒にいたい(いなければならない)」と思える理由があれば結婚は続く。
しかし「男と結婚したくないから」という理由で同性婚を選ぶような女にそんな動機があるわけがない。
結婚という社会的役割からの逃避でしかない選択に日常の逆境を跳ね除ける力は無い。
よく見かけるのが
「男に尽くしたくない」
「女は搾取されてきた」
という文脈だ。
気持ちとして理解できる部分はあるが、ここには大きな矛盾がある。
誰も尽くさない
誰も我慢しない
誰も譲らない
そんな関係は成立しない。
男女であれ、同性であれ、
生活を共にする以上、どちらかが負担を引き受ける場面は必ず発生する。
「尽くしたくない」という価値観を持った者同士が結婚した場合、
この考え自体が悪いとは言わない。
だが、それを前提にした者同士が組むとどうなるか。
・不満は先に言った方が負け
だが、それは結婚とは違う。
友情には、
・嫌になったら距離を取れる
という逃げ道がある。
「分かってくれるはず」「察してくれるはず」が裏切られた時に壊れやすい。
しかし、
「尽くしたくないから」
長期的に安定するとは到底思えない。
結婚は、逃げ場ではない。
都合のいい同居制度でもない。
チャットGPTの文章をそのままお出しするのも何だかなと思って序盤は自力で改変したけど飽きた。俺の考えを読みやすくまとめてくれてありがとうチャットGPT。くたばれドブカステイカーファッションレズ女。
新番組のセットに立つ特撮監督の佛田洋さん。新たなロボの撮影が続く=東京都練馬区の東映東京撮影所、村上宗一郎撮影
連載:凄腕ものがたり
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2026年も日本の特撮ヒーローは不滅だ。半世紀に及ぶ「スーパー戦隊シリーズ」を支え、後継の新作も手がける特撮監督の佛田(ぶつだ)洋さん(64)。凄腕(すごうで)を振るう撮影現場を訪ね、これまでの歩み、そして特撮に込める熱い思いを聞いた。
昨年暮れ、宇宙空間のセットが組まれた東映東京撮影所の特撮スタジオ。赤いメガホンを握り、総勢20人余のスタッフに指示を出す。「本番。よーい、はい!」
炎が立ち、火花が散る。銀色の人型ロボットがダッシュで駆け抜け、その姿をカメラが回転しながら追う。わずか3秒ほどの脱出シーンを撮り終えるまで3時間半。迫力満点の実写映像は、職人技の綿密な仕込みと大胆な演出によって生まれる。
2月からテレビ朝日系で放映される「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」の特撮現場は、熱気と緊張感に包まれていた。「秘密戦隊ゴレンジャー」に始まる戦隊シリーズ50年の歴史に区切りをつけ、東映が威信をかけて送り出す後継番組だ。「特撮の伝統と最新の技術を駆使し、子どもから大人まで楽しめる新次元の作品にしたい」
写真・図版
和やかにスタッフと打ち合わせる特撮監督の佛田洋さん=東京都練馬区の東映東京撮影所、村上宗一郎撮影
幼いころテレビでサンダーバードに熱中し、ウルトラマンに仮面ライダーと特撮ヒーローの誕生に心を躍らせた。大学を出た1984年、一般企業の内定を断り、夢を追いかけて東映の撮影所内にある「特撮研究所」の門をたたく。その創設者でジャイアントロボやゴレンジャー、初代ギャバンも手がけた特撮監督の故・矢島信男氏に師事した。
「特撮は模型を俳優として撮るんだ」。師の金言を胸に大好きなミニチュア作りにのめり込む。ビル街をこしらえ、山に木を植え、戦闘機はプラモデルの部品を再利用して組み立てた。「とにかく楽しくて。極貧生活も苦にならなかったですね」
現場で率先して動く働きぶりが見込まれ、90年に「地球戦隊ファイブマン」で特撮監督としてデビュー。仮面ライダーシリーズも2002年の「龍騎」から担当し、東映の2大特撮ヒーローの歩みを支えてきた。
皆たくさん反応ありがとう。コメント全部読んだ。誤解与えたけど増田はM-1グランプリが大好きだ。お笑いが好きな分、どうしても分析的に見てしまって意表をつかれて笑う機会が少なくなっているけど興味深く見て楽しんでいる。もちろん笑うときは笑うし。で、ダウプラで何度も吹き出してしまったときに思ったんだ。はてなは松本人志嫌いな人が多そうだし、これ対立軸に持ち込んだら自身初の100ブコメ超えるんじゃない?って。
結果はなんと200超え。本当にありがとうございます。不快に感じた人がいたらすまなかった。書いた内容には脚色も多かったので、コメントへの反応含めて補足していく。
最初に書いておかなければと思った。想像より少なかったが、やはり何人かいたのが松本人志が性加害者であることが前提でのコメント。ニーズがあったら別記事で書くとしていたら1人だけ依頼があった。嬉しいので書こうかなと思うんだけど、有料記事を全て購入して読み込んだ上で書くので、ちょっと体力や余裕面で時間が欲しい。書けなかったらごめんな。
自分のスタンスは疑惑は疑惑止まりってこと。週刊誌の印象操作により、松本人志が後輩に一定の影響力を発揮して女性を集めて飲み会をし(ここまでは周知の事実)、毎回スマホを没収してゲームなどで不同意の相手に性的行為を強要したと、多くの人が思っている。が、疑惑でしかない。文春が裁判の証拠として提出したものにLINEのやりとりの一部があり、まさに松本人志とA子さんが別室にいったときに小沢がLINEで心配して状況を確認するメッセージを送っているものが提出されたとのこと。文春は加害性を強調したかったのだろうが、皆が持っている印象としてのスマホ没収を文春が否定する証明をしてしまっている。しかも提出はLINEのやりとり全てではなく、文春が強調したいところを取捨選別して提出している。では提出していない部分はどんなやりとりがあったのか。A子さんはその後も飲み会に何度も参加したとのこと(もちろんそれも様々な解釈があるので疑惑を晴らす材料として書いているわけではない)。少なくとも皆が持っている印象とは違うことが多くありそうで、その大半が謎のままである。
松本人志が嫌いな人は「やっただろう」という方向に想像力を働かせ、好きな人は「やってないのでは。はめられたのでは」という方向に想像力を働かせる。増田はダウプラでの松本のコメントの節々を拾い上げて自分なりに背景を想像し、結果としてダウプラを普通に楽しめるような想像に自分の中で落とし込んだ。もちろん性加害者であることが確定したら楽しめなくなる可能性が高い。
絶対にやってはいけないのは、この疑惑に対して決めつける形でどちらかを誹謗中傷することだ。仮に増田が「松本は潔白だ。ノリノリで参加した女性が8年後に金に困って文春に都合よく売り込んだだけだ」と発信したとする。もしこれが事実でなく本当に加害があった場合にはこれはA子さんに対する誹謗中傷でありセカンドレイプだ。
それと全く同じく、松本人志を指して「性加害者」と発信することは、彼が潔白であった場合には誹謗中傷になり松本人志に対するファーストレイプとも言えるものになる。現在、こういう有名人に対する誹謗中傷がSNSではびこっている。一つ一つ訴えていくことが困難であり、そもそも有名税という曖昧なもので基準が有耶無耶にされており見逃されているからだ。
だが駄目に決まっている。セクハラをしてはいけないのと同じくらい、有名人であろうと他人を誹謗中傷してはいけないんだ。これはいずれSNSが健全化されれば必ず規制されると考えている。罰する仕組みがきちんと運用されていないからたまたま許されている、昭和のセクハラ親父と全く同じ状況であり、将来的にはとても恥ずかしく非難される行為だという自覚を持とう。
グレーはグレー。どちらか一方が悪いと心の中で決めつけることは自由だが、発信した瞬間に責任と罪を背負う。絶対に駄目。もちろん好き嫌いは自由なので、発信したい人は単に「嫌いだから見ない」と言えばいいと思う。後輩使って女性集めている時点で嫌いとか、そう思う人は多いだろう。自分はそういう情けないところもそんなに嫌いではないが。
ようやく本論だが、この誤解を与えてしまった。M-1の漫才が練られすぎて嫌いとか、ハイコンテクスト過ぎて嫌いと言っているわけではない。むしろ自分がギリギリ届くところの知識にかすらせて作られたネタは大好きだ。真空ジェシカが中川翔子(ショコタン)にかけて車高の低いシャコタンを登場させたのは面白く感じた。増田は車に乗らず免許もないのでシャコタンという言葉にほぼ馴染みがなかったのだが、昔「シャコタン☆ブギ」という漫画でギリギリ脳みそに残っていた単語のためそれが引き起こされ、自分的には超ハイコンテクストな笑いとして楽しめた。「シャコタン☆ブギ」知らないだろう。すまんな増田は50代だ。「おっさんかい!」ってツッコミが聞こえる。
増田が言いたかったのは、自分の意表をつかれる突発笑いがほしいということ。雑な笑いはそれを生みやすいというだけであって雑な笑い自体が面白いと言いたいわけではない。雑で緩い笑いはそれ自体が面白くないものでも、自分の解釈の中で面白く補完できたりするのだ。
M-1にその余白は少ない。こちらが無意識にハードルを上げて受け身姿勢を取った状態で鑑賞することや、4分に笑いを詰め込む中で技巧的になり、ツカミ、伏線といった方法論がこちらにも漏れ伝わっている状態で作らざるを得ないから。例えば粗品も言っていたけど伏線は伏線とバレたら面白くないのだ。あまり脈絡のない単語や表現が出てきて、それ自体はあまり面白くなかったとする。そうすると「これは後で回収される伏線だな」と無意識的に感じてしまう。伏線はその伏線だけで十分笑いを取らなければ活きてこない、、、んだけど、こんな法則めいたものを素人が感じ取っている時点で色々予測の網が張り巡らされているということだ。
そしてM-1がこういう方法論の頂点を決める大会になっている。まあ仕方ない。芸人の人生を左右してしまうようになったのだ。だからラパルフェを例に上げた。あの芸を決勝に上げるわけにいかないのが今のM-1だということが言いたかった。M-1という神聖な大会に対する禁忌であり、まあ一般受けもしないだろう。これは漫才なのかという議論も生むだろう。多分松本人志もあれは漫才ではなくコントだと否定すると思う。だけど、ラパルフェのネタを決勝で初めて目にしていたら、と想像する。「次のコンビはラパルフェです。どうぞ!」「どうも〜ニューヨークで〜す」絶対に爆笑していただろう。面白いだけが正義であれば、増田にとっては優勝候補の筆頭だ。
これもいくつか見た。実は増田もそう考えている。審査軸であったり前哨戦のストーリーを楽しみ、研ぎ澄まされたアスリートたちのようにしのぎを削り勝者を決める。それを観た素人が立ち飲み屋で阪神戦を観ているおっさんのようにああだこうだと(今もね)議論する。それでいいじゃないかと、実は増田も思っている。そうしたM-1グランプリが大好きだし、これからも必ず全てのネタは観るだろう。
あくまで意表をつかれる突発笑いというM-1が本来カバーしていない領域の笑いにフォーカスをあてればはてぶでバズるのでは?という増田の邪な気持ちで不快にしてしまったとしたらすまなかった。
ただ、M-1でもそういう突発笑いをたまに生んでくれるのでこれはいつも楽しんでいる。わかりやすいところでいうと敗退コメント。
敗退コメントはもともとウケを狙う場所ではなかった。そこを開発したのは西田だと思っている。声を出した笑った。あと、ニューヨーク屋敷は敗退確実な審査中、しかも松本人志の講評中にさえぎる形で「最悪や!!」を出した。かなりリスキーな行為だが見事にハマってめちゃくちゃ面白かった。これも発明だ。
だが、これらが発明されたことでフォロワーが生まれる。そうなるともうこちらは予測してしまっているわけでまた突発笑いは起きにくくなる。そんな中、真空ジェシカは想像を上回るコメントで笑わせてくれた。本当にすごいと思う。
ネタでもそういう事前予測を裏切るか上回ってくれると突発笑いが起きる。ミルクボーイのツッコミは「ほなコーンフレークやないか」と「ほなコーンフレーク違うか」の2種類しかないというかなり特殊な構成だ。ツッコミの後でさらに面白い解説を加える。始めてこのシステムに出会ったときの違和感とも言えるような感動と面白さは歴代最高得点にも納得がいく。2025年のたくろうの最終決戦のネタも増田には予測の裏切りが感じられとても面白かった。
そうだよな。本当にそう思う。承認欲求でついやってしまった。ゴメンな。
本当に!劇場に足を運んでいるわけではないのでスター発掘の場として素晴らしいと思う。
完全に同意する。煽ってごめんな。
な!な!そうだよな!ほとんどの人がここだけは同意してくれている。
出演者や放送作家が本当にこの長さが最適だと主張しているのなら別だが、年を追うごとに長くなっていったこととか、今回の終了際の中川家 礼二のコメントなどを踏まえると、TV局側のビジネス都合がめっちゃ匂い立つ。M-1を面白い番組として守るためにも皆で声をあげていってほしい。
確かにそうかも。臨場感含めて面白さ倍増しそう。多分そうなんだろうな。劇場に見に行ってみようと思えた。ありがとうな!
ということで以上です。
練り物は、自作に限る。 市販の、あのツルリとして計算され尽くした弾力も悪くはない。だが、宇宙の真理に触れようとする者が、誰かの手によってパッケージングされた「完成品」に甘んじていてはいけない。
私は冷蔵庫からアジを取り出した。 三枚におろし、皮を剥ぎ、ぜいごを取り除く。包丁の腹で叩き、粘り気を出していく。この、銀色の皮膚を持った生命体がドロドロの肉塊へと変貌していくプロセスこそが、エントロピーの増大を象徴している。
そして、ここで私の「秘儀」を投入する。 まな板の隅で出番を待っているのは、黄金色に輝く「たくわん」だ。
おでんの具材としての練り物に、たくわん。 一見、調和を乱す異分子のように思えるかもしれない。だが、この細かく刻んだたくわんこそが、混沌とした宇宙を一つに繋ぎ止める「重力」の役割を果たす。
トントントン、と軽快な音が響く。 たくわんを刻むたびに、大根が天日干しされ、糠に漬けられ、時間をかけて発酵してきた記憶が解放される。それは土の記憶であり、太陽の記憶だ。
アジのすり身という「海の混沌」に、たくわんという「陸の秩序」を混ぜ合わせる。 これを丸めて鍋に放り込む。 アジの脂が溶け出し、たくわんのポリポリとした食感が、柔らかすぎる世界に「核」を与える。
一口、その自作の練り物を噛み締める。 その瞬間、脳内でビッグバンが起きた。
「……美味い」
ただの美味ではない。これは「調和」だ。 たくわんの適度な塩気と、発酵由来の酸味。それがアジの生臭さを高潔な旨味へと昇華させている。 そして、何よりもこの「食感」だ。 柔らかいすり身の中で、たくわんが弾ける。その振動が歯茎を通じて頭蓋骨に響き、私のニューロンを直接刺激する。
その時、私は確信した。 「たくわんを食べれば、地球は平和になる」
突飛な発想に聞こえるだろうか。だが、考えてみてほしい。 紛争、格差、ネット上の誹謗中傷。それらすべての根源は「自分と他者は相容れない」という分離感にある。 しかし、この練り物を見てほしい。 アジという動物性の暴力性と、たくわんという植物性の忍耐が、一つの団子の中で完璧に和解している。
もし、国境を争う指導者たちが、あるいはキーボードを武器に誰かを叩き続ける荒らしたちが、この「たくわん入り練り物」を一口でも食べたらどうなるか。 彼らの口内には、海と陸の融和が訪れる。 たくわんのポリポリという音は、脳波をアルファ波へと導き、攻撃的なホルモンを抑制する。 「あ、自分は今まで何をカリカリしていたんだろう。たくわんの方がよっぽどカリカリしていて心地よいのに」と、彼らは気づくはずだ。
たくわんとは、待つことの象徴だ。 大根が収穫され、干され、漬け込まれる。その気の遠くなるような時間を経て、初めてあの黄金色の輝きと深みが生まれる。 現代社会に足りないのは、この「漬け込みの時間」ではないか。 即レス、即リプライ、即論破。 誰もがスピードという病に侵されているから、言葉が尖り、刃物になる。 だが、たくわんを噛み締めている間、人は喋ることができない。ただ、咀嚼という内省の時間を与えられる。
私は鍋を見つめながら、壮大なプロジェクトを夢想した。 国連の議場に、巨大なおでん鍋を持ち込む。 各国代表に、私が今朝叩き上げたばかりのアジとたくわんの練り物を配るのだ。 重々しい沈黙。そして、会場に響き渡るポリポリという軽快な咀嚼音。 その音は連鎖し、やがてオーケストラのような調和を生むだろう。
アジ(海)とたくわん(陸)の結婚。 それは、対立する二元論の終焉。 おでんという宇宙の中で、すべては一つの出汁に溶け込み、たくわんという平和の種子がその中に点在する。
私はスマホを手に取り、先ほどの掲示板をもう一度見た。 相変わらず、荒らしが誰かを執拗に追い回している。 私は、彼をNGにするのをやめた。 代わりに、心の中で彼に「たくわん」を差し出した。
君の心の中に、まだ発酵していない大根があるのなら、私がそれを漬けてあげよう。 君が誰かを傷つけたいと思うそのエネルギーを、アジを叩く力に変えてみないか。 そうすれば、君の手元には「憎しみ」ではなく「美味しい練り物」が残るはずだ。
私はおでんの汁を最後の一滴まで飲み干した。 身体が芯から温まり、細胞の一つ一つが「平和」の信号を発している。 宇宙の真理は、図書館の難解な書物の中にあるのではない。 台所のまな板の上、叩かれたアジと刻まれたたくわんが混ざり合う、その境界線にこそ宿っているのだ。
窓の外では、夜の街が静かに息づいている。 明日、私は出社し、同僚たちにたくわんを配ることから始めようと思う。 小さな一歩かもしれないが、それは地球を巨大なおでん鍋という理想郷へ導く、確かな第一歩になるはずだ。
世の中というものは、「問題」を見つけ改善していくというやり方以外では進歩しない。
しかし現代の日本人は、とにかく「問題」を特定することを避け、耳障りの良い話だけ聞いてポジティブな気分でいれば、「病は気から」のように問題がどこかに消えてなくなると信じようとして、問題を深め続けている。ここ何十年も。
ひとつ言えるのは、やはり日本人が日本人同士をまったく頼れる仲間と思っていないということだろう。
問題をしっかりみんなで共有すれば、どこかから良いアイデアも出てくるという信頼があればこそ、問題を取り上げることにインセンティブが生まれる。
自分ひとりでは解決できない問題も、仲間同士でサポートがあると信じることができれば、目を逸らさずに受け入れることができるだろう。
しかし、日本にはそういう信頼が社会にない。問題に気づくということは自分で全部背負わなければいけないということであり、諦めずに目を向けること自体が辛くて耐えられないものとなる。
そういう自己責任社会の中で、日本人はとにかく問題、矛盾、社会の機能不全をすべて無視して自分の立場だけを守ろうとする精神逃避の状態に常にある。
もはや自分が異常な精神状態にあることすら気づかないほどに、それは日常の中に定着している。
これはもちろん、社会に対する不信自体を深める原因にもなっている。この際限のない逃避のスパイラルこそが30年の没落の原因だと、いつになったら気づくのだろう。何があったら気づくのだろう。
こんなおじさん(いや、もうじじいか)の戯言にコメントがついていてビックリした。
読んでくれてありがとう。
(回答)ご名答。当時は電算機だったよ。いまはIT企業って呼ばれている。銀行の勘定系がクラウドで稼働とか、すごい時代だなと思います。私の関わった領域だと、インターネットとクラウドが、ここ数十年でもっとも大きな変化だと思います。
(回答)祖父祖母、父母、義理の父母、姉、妻の兄、多くの親戚などを見送ってきたので、「なぜ自分が」というよりは、「このタイミングで、自分にも来たか」という思い。怖いというより、「あと10年生きたかった」という思いが強い。父が79歳で死んだが、医療も発達したので、父よりは長生きでるかな、と思っていたので。私は宗教的ではないが、私の死後10-20年したら妻もやってくるし、50-60年したら、娘もやってくる。なので、また家族には会えると思いたい。これいい話だから読んでみて。再び読んでまた泣いた。「どこかの映画館の話」
https://note.com/mupyyyyy/n/n75b557a75f6c
(コメント)バブル時代を過ごせただけで、他の世代の人生の数倍のおいしい思いができているわけなんだよな。
(回答)立場によるんじゃないかな。あの時代、特に金融業界とか不動産業界とかは本当に羽振りがよかった。妻の兄が証券会社だったのだが、とにかく金の使い方が凄かった。でっかいBMWに乗って、ごっつい腕時計していたことをよく覚えている。ただ、私は大儲けできる立場ではなかったし、ノーパンしゃぶしゃぶみたいなのにも行ったことがない。当時、妻の両親が病気になったりして、介護していた記憶。なお、義理の兄に勧められていくつか株を買っていたが、結果大損した。その後も、株主優待券目当てで持ち続けたJAL株も、2010年に紙くずに。。
(回答)ありがとう。生前贈与は色々やっている。相続対策は、一回目のがんをやったときに、弁護士に相談して対策済。手書きの遺言も書いた。
(回答)鋭い。インターネットが出てきたころに勘違いして起業して、数年でサラリーマンに戻ったのだが、やってたビジネスの一部が形を変えて、今副業になっている。サラリーマン戻ってからは、会社にはばれないようにやっていた。
(コメント) 「物を見る目がない僕なので流してほしいんですが、えらく薄いなと思いました。」「40代の自分と世の中の解像度がほぼ同じなのびびる…」
(回答)私も過去に同じことを思ったよ。父が亡くなるとき、年齢的には70代後半で悟りを開いているように見えたのだが、なんか普通だった。枯淡の境地という感じではなかった。私も子供が生まれたことでOSのバージョンが上がった気がするが、それからはOSのバージョン上がった気がしない。中身40代のまま年だけ食った感じ。
(コメント) こういうとき仕事の内容の話殆ど出てこないよね仕事の時間がいかに無駄であるか
(回答)仕事は楽しいことも辛いこともあった。ただ、無駄とは思わないよ。新卒で入った会社で、ちゃらんぽらん大学生だったのを、社会人に鍛えてもらって感謝してる。ただ、家族があってこその仕事。あとは、一度独立したあとは、正直サラリーマン仕事はどうでもよくなったな。一応真面目にはやるけど、以前ほどの情熱は持てなくなった。しょせん他人の仕事の手伝いだし、という気分だった。ただ、再び独立するだけの気概も能力もなかった。この点は悔いている。
(回答)ありがとう。私は結婚したときは子供欲しいとは全然思わなくて、仕事ばかりしてそれなりに楽しかった。40前になって子供が生まれてから、人生に別次元の楽しさが生まれて、生きててよかったと思ったよ。
(コメント) 業務ストレスと喫煙・飲酒の度合いが書かれていないので70歳で病死されることへの評価がし難い
(回答)たばこは20歳から39歳まで吸っていました。特にひどく吸っていたのは30歳くらいまでかな。子供生まれるときに辞めました。酒はビール一杯で顔が真っ赤になる家系でほとんど飲めません。
(コメント)今や、子供を持つことと、若いうちから投資することと、若いうちから行きたいところに行くことを全部成立させるのはなかなかの恵まれた感じではある。
(回答)今はオルカンみたいな低い手数料の商品が多数あるので、少額でもいいのではじめてみて。投資する習慣をつけてみて。あとは、どうすれば儲かるかを考えてみて。私は起業してうまくいかなかった後に、外資に転職したら、年収が結構あがって、こんな世界もあるのかと驚いた。お金があれば、色々な問題を解決してくれる。頑張って。応援。
(コメント)ガンの方が死ぬ準備できるから、事故死とかよりも良いっていうよね。
(回答)そう思う。私の最も仲の良かった従兄は、健康でボディビルやってて体格もよく、性格もよく、男前なやつだったが、若いころにバイク事故で死んだ。何も残せずに死んだので、残された親兄弟がとても苦しんだと思う。ガンであれば、準備期間があるので、そういう思いをさせずに済む。
(回答)私の父の口癖だった。母の家系がはげ家系なので、私が小さいころに「大きくなったら、僕もはげるのかな」と言ったら、父は「大丈夫、お父さんはふさふさ家系だから!」とよく言ってくれた。
追記ここまで。-----------------------
本編ここから。
これまでの人生を振り返る。
1955年、北海道に生まれる。父は消防士で母は保険会社の営業職員。姉は障害もち。
父と母の両輪で働いていたので、そこまで裕福ではなかったが、東京の大学に出してもらえた。
国際政治を勉強したけど、国際政治ってのは、雑学としてはいいが、ビジネスにはそこまで役に立たないんだよな。でも好きだったからよし。
その後、IT企業に勤め、妻と結婚し、娘が生まれ、何度かの転職を経て、60歳で退職。
仕事はどうだろう、おおむね楽しかったかな。何度か転職もしているので、いま会いたいと思える同僚もそんなにいない。
管理職からは外れたが、専門性があったので、転職には困らなかったな。
仕事の関係で色々な国に行かせてもらった。アメリカ、イギリス、タイ、インドネシア、マレーシア、ベトナム、フィリピン、トルコ、ギリシャ、アイルランド、台湾、中国、韓国、香港、オーストラリアなどなど。
特に2000年以降のアジアの成長はすさまじく、訪問するたびに街にビルが建っていく様は驚いたな。
40代からネットを使ったちょっとした副業をしていたので、生活費もまあまあある。
年末にお歳暮を贈りあい、たまにLINEでやりとりする程度だが、それでもこうした友がいることはうれしい。
また、相続した零細アパートが、安定してキャッシュを稼いでくれている。
バブル後になってから30年ローンで家を建てて、いまだローンは支払っているが、おそらく住宅ローンより私の寿命のほうが短いので、団信で数年分はチャラになるはず。
家を建てるのにこだわった妻の尽力で土地を見つけてきてくれて、建設費も安く建てることができた。
姉は2年前に死去。無事に送り出したという感覚が強い。お父さん、お母さん、約束を守りましたよ。
姉はいまでいう学習障害だったのかもしれないが、当時は障害者という扱いになった。
計算とか、交渉とか、契約とか、公的文書の理解など、難しいことはできないが、料理をしたり、娘を可愛がってくれたりして感謝している。
そして高齢の父と母の支えにもなってくれた。
父はがんの再発後に静かに死去。欠点も多くある、友達が少なく、ぼっち気質の父親だったが、学ぶことの楽しさを教えてくれたと思う。ややミリオタなのは父の影響。
父はどうしても乗りたい外車があって、あらゆる手を尽くして入手し、乗せてくれた。ところどころ、妙なこだわりがあった。
母はお金関連でトラブルを起こし、晩節を汚した。また認知症で4年施設に入っていたが、最後まで家族のことは認識していた。
母は、仕事が大好きで、言っていることは時々訳がわからないが、人を巻き込む力と妙な説得力があったので、男性であればもっと仕事の可能性が広がったのかもしれない。
祖父もがんで死去、父もがんで死去。そして私もがんなので、がん家系なんだなと思う。ちなみに髪の毛はふさふさ家系です。
祖父は72歳で死去、父は79歳で死去だったので、おそらく父よりは長生きすると思っていたが、祖父よりも短い寿命だったか。
39歳のときに生まれた娘は、中高一貫から有名私立大を経て就職。2年前に結婚。バリバリ働いている。
娘から、AIを業務でいかに活用しているか聞いたりするのは本当に楽しい。AIについては賛否があるが、素晴らしい未来があるんだな、と私は思う。
私もこれからのAIがどのように社会に適用されていくのか、見たかったな。
まだ孫の話は聞こえてこないので、おそらく自分は孫を見ることなく死ぬんだろうなと思う。
もっと早くに子供が生まれればよかったが、家庭内色々ごたごたしていたので、それは叶わなかった。もっと長生きして娘の支えになれればよかった。
思ったり早くいなくなりそうでごめんね。
こないだ当たったスイッチ2と、スイッチ1の有機ELモデル、あげるよ。もう持っているかもしれないけど。
娘がゲーム好きなのは間違いなく私の影響で、マリオカート、ぷよぷよ、よく一緒にやったな。娘が生まれたら、スイッチ2に入っている新しいマリオカートで、子供と遊ぶといいよ。
娘は、小さいころからアンパンマンがずっと好きだから、きっと子供が生まれたらアンパンマンをグッズをいっぱい買ってあげるのかな。
妻とは衝突も多かったし、心の中で分かり合えていない、許せていないこともある(浮気とかではないです)。
ただ、長期的にみると妻の意見のほうが正しかったことも多かったなと思う。
よく娘を育ててくれました。
ありがとう、ごめんなさい。
イタリア旅行、楽しかったね。レモンリゾットは本当にうまかった。
ぜひ長生きして、娘とその家族とともに幸せな老後を過ごしてね。
超長文になってきた。
今振り返ると、強い怒りとか悔しさみたいなものは、ほとんどなくて、あるのは感謝が多い。
父と母、祖父母、妻、娘、友人、仕事仲間など、みんなにありがとうと言いたい。
祖父母が中卒、父母は高卒、私は一族で最初の大卒で、東京にやってきた。
娘は大学の学部卒で就職したけど、もし必要であれば、大学院に行くのもいいかもね。
MBAなどを持っておくと、将来有利になる場面も多いし。
そして、父母から受け継いだ資産はすべて、娘が持つことになる。
巨万の富でもないけど、お金で買える安心、幸せもあるので、ぜひ活用してほしい。
特に私の父母、妻の父母、そして実家と、受け継ぐ不動産が多いので、管理をしっかりね(まあ、当面は妻の資産になりますが)。
1つめは、「家族を大事ににして、思い出をたくさん作る」こと。
あなたと一番長く時間を過ごすのは家族。楽しいことも、うれしいことも、つらいことも、悲しいことも共有し、背負いこむのは家族。
数年前に、過去の写真を全部スキャンして、Google Photoに取り込んで見直したら、本当に幸せな人生だったと思ったよ。
特に小さな娘を連れてあちこち行った時の思い出。アンパンマンショーを見に行ったり、動物園いったり、遊園地いったり、最高に楽しかった。
浮気とは不倫とかはいかんよ。あれで家族が崩壊した人の例をいくつも見てきた。不倫で独り者になった人は、残念ながら悲しい末路を送っている人多い。早死にも多い。
どうしても性欲が我慢できなかったら、こっそり風俗でも行きなさい。
2つめは、「子供を持つ」こと。
今のご時世、子供を持ったほうが良い、とおおっぴらに言いにくいのだが、私(n=1)は娘をもって本当に幸せだった。
娘が小さいころ、数年独立して自分の会社をやっていたのだが、時間が自由だったので、本当によく一緒に遊んだ。
これらの思い出のために、私の人生があるんじゃないかと思うくらい。
娘が大きくなって、自分の世界を広げていって、親の手から離れていく。
嬉しくもあるが、寂しくもある。でも嬉しくて幸せ。
このブログ記事おすすめしておきます。最期に見る夢をいくらで買いますか?
https://grand-bishop.hatenadiary.org/entry/20150402/1427945550
日本の人口の上位10%くらいを目指して、どうすればお金を儲けられるかを考えて、がんばってみて。
私のような、さぼり癖のあるおじさんにもできたのだから、みんなもできる。
そして、若いうちから給料の10%を、オルカンなどの低い手数料の金融商品に突っ込んでおいて。
大きくなって、老後を支えてくれます。
4つめは、「行きたいところには、若いうちに、元気なうちに行っておいたほうが良い」ということ。
高齢になると、時間があるので何でもできそうに思うでしょ?でも、意欲と体力がなくなる。
だから、節約してでも、若いうちに色々なところにいってくるといい。
苦しい時に、あなたを支えてくれる、良い思い出になってくれる。
そんなわけで、幸せな人生だったと思います。もう少し生きますが、あと1年楽しめるといいな。
あと、妻と娘宛てに、死後に読んでもらう「ありがとうの手紙」でも書いておかないとな。湿っぽくならないように、楽しいやつを。
その話をする前に、余談とも言える前提の話をする。
昨今の賞レースはどれだけ脚本家がその芸人にあった本を書けるかという勝負になってきている。
要するに芸人そのものの地の力が試されるコンテストではなくなってしまったということ。
それだけ審査の基準が複雑化しているということであり視聴者側の目が成熟したということでもある。
ただ完成度が高いだけでは点数が伸びないことがわかった上で、どのように予定調和を裏切るかということがここ数年の高得点の基準になっていた。
たとえばバッテリィズは、見た感じアホが中身もアホなことをいうというミスディレクションの裏で、突然まともだと思っていた相手(観客)に芯を食った言葉を投げかけるというロジックで新しいスタイルを築いた。
その手前には錦鯉という本当にただアホなだけというコンビの存在があり、それが大きな予定調和となっていた。
もちろん、脚本を脚本と感じさせない高い演技力を前提としているので、実力のない人間がアイデアだけで勝てるような甘い世界ではないが、スタイル=フォーマットだけが優れていても勝つことができない世界になっていることも事実である。
そういった今年勝てそうなフォーマットに隙のない脚本が書かれてはじめて優勝につながるような高得点が生まれる。
それが昨今の賞レースの現状といっていいだろう。
ケンコバの過去の言葉を引用して、それがお笑いの終わりの始まりであると誰かが言った。
それについては半分正解で半分間違っている。
ケンコバはプロレスを例えに、選手がプロレス論を語り始めたことがプロレス衰退の原因であると語った。
ゆえに芸人がお笑い論を語り始めた今、お笑いは破滅を迎えるかもしれないという危機感を抱いているという話だった。
ケンコバが例えに出したプロレスは、数ある格闘技の中の一つのジャンルに過ぎない。
その後格闘技は様々なジャンルが生まれては消えてを繰り返し、最近ではブレイキングダウンのような地下格闘技のようなものが流行りつつある。
では格闘技そのものが衰退したかと言えば(趣味の多様化の問題で絶対人口は減ったとしても)全体で考えれば破滅と言えるほどの危機感があるとは言えないだろう。
ただし、それらの中の1競技、例えばゴールデンタイムのお茶の間をわかせていたK-1のように、全盛期のままではなくなってしまった競技も数多くあることは確かだ。
それをお笑いに置き換えた場合、例えばM-1やキングオブコントといった賞レースが衰退する可能性は大いにある。
つまり粗品が始めた終わりの物語は、そういった競技形態の一つを破滅に向かわせる物語であり、お笑いそのものが突然破滅するという話ではない。
THE Wに限って言えば、まるで女性だけの大会がつまらないかのように扱われているが、コント、漫才、ピン芸人全てが異種格闘技的に競い合う大会において、勝敗の軸がブレすぎることがつまらない本質と行っていいだろう。
粗品が取った観客が笑ったときはつまらないといい、笑わなかったときはおもろかったという他人の笑いを全否定する態度は、更に勝敗の軸を見えないものにしてしまった。
テレビの前で腕を組んでくすりともしなかった自称評論家ばかりが喜んで、特に何も考えず面白かったから笑った人たち全員に冷水を浴びさせるような言葉の投げかけは、少なからずTHE Wという賞レースの破滅の始まりだったと言えるだろう。
話を本題に戻す。
今回のM-1で優勝したたくろうは、そういった賞レースらしさを壊す形で優勝した。
「うけるフォーマットの上に高い完成度の脚本を書いてそれを感じさせなくなるまで演技の練習をする」というスタイルを完全に否定する形だった。
審査員の一部はそれを演技だと疑うほど面白い言葉が次々に生み出されていた。
それが演技ではない、脚本ではないと気がついたとき、この二人が持つ暴力性にも近い面白さの衝撃が優勝につながったと言えるだろう。
ここで唐突にTHE Wに話を戻すが、ヤメピというコンビがいたのを覚えているだろうか。
彼女たちはTHE Wというステージにおいて完全に滑っていた。
しかし、これをただつまらなかっただけと考えるのは間違っている。
彼が持ち出した賞レース論のために、観客も視聴者も、この空間で面白い人はレベルの高い脚本をレベルの高い演技力で演じている人なのだという価値観を押し付けられていたからだ。
そうした中で、結成が短い=圧倒的に練習時間が足りていないコンビが出てくれば、そうした前提条件だけですでに蚊帳の外扱いされてしまって無理はない。
これがまだ、粗品がお笑い論を語り始める前の出番であれば違ったかもしれない。
しかし、出番を待つ間に大御所から繰り返されたお笑い論によって散々彼女たちのアイデンティティが否定されたた形で観客や視聴者が調教されてしまったとなれば、自分たちがなぜ勝ち残ったかの意味も見失いまともにネタをやっていられるような状況ではなかったのではないか。
仮に今回のTHE Wが粗品の考えるお笑い論が採点基準になることが事前に示されていれば、それぞれの芸人も取り組むべき課題が変わってきたであろう。
少なからず番組側は何かしらの意図を持って決勝進出者を選定していたにもかかわらず、それさえもひっくり返すかのように独善的に審査基準を作り上げる粗品は、その理論の正否は別としてたゴールポストを好き勝手動かしたかっただけのただただ醜悪な存在に見えた。
話がそれ過ぎてしまった。
この、THE Wで滑りまくったヤメピというコンビニこそ、これからのお笑いの新しい形を持っていたと行って良い。
しかし、それをそうではなくしたものが賞レースなら、賞レースそのものが変わるべきだろう。
そして今回M-1で優勝したたくろうは、まさにフリースタイルのような語り口で会場の笑いをかっさらっていった。
これで確信した。
やはり笑いは、その瞬間、その場で生み出されたものが一番おもしろいのだ。
フリースタイルといえば、ダンスやラップバトルなどに取り入れられている。
その場でかけられる音楽に対し、アドリブで演技を行い、審査員や会場をわかせたほうが勝つというルールだ。
ようするに、お笑いでもそれをやればいいのだ。
これらが交わって戦うことはなく、それぞれの部門で競技が別れている。
フリースタイルよろしく、持ち時間1分で、3ラウンド、もしくは5ラウンドずつ交互にネタを行い、3名のジャッジによって勝敗が決まる。
例えば「タクシー」というお題がでたら、10秒程度打ち合わせする時間ののちに出囃子で先攻が登場して1分間のネタを行う。
ネタ終わりは必ずしもオチなくてよい。対戦相手に振るような形にしてもいいし、次の自分たちのネタにつながるようなフリでもいい。
先攻のネタを被せてもいいし、フリを受けてもすかしてもいい。
2ラウンド目からはお題が増える。
例えば「お金もち」ならタクシーのネタにお金持ちを登場させると行った感じだ。
そうしてラウンドを繰り返し、後攻のネタが終わった時点でジャッジに入る。
など。
ルール部分は今考えた適当な内容だが、要する言いたいことは「その場で一番笑わせた人間が勝つ」という競技が生まれたら今ある賞レースは終わるよという話だ。
そうなったら、瞬発力や見た目の面白さ含めて、本当に面白い芸人しか勝てなくなる。
あのフォーマットも賞レースにはいまいち難しい部分もあるけど、フリースタイルでどんどん出されたら圧倒的に強い予感がある。
固定残業はなぜか悪く言われることが多い。導入している会社に入るのは避けろなどと言われることもある。
定時ぴったりで打刻するよう圧をかけられることもない。
打刻直前にうんこに行っても後ろめたいことがない。Slackで遊んでてもいい。
長めに働いた日があれば別の日に早く帰れる。
固定残業でなければ残業代のために所定時間は働くかと考えがちだが、固定残業だと早く帰っても損した感がない。
月〜木の労働時間を30分程度長くして金曜日をセルフプレミアムフライデーにすることもできる。
唯一の欠点は月の前半に時短営業をしすぎて終わり頃に足りないと気づくことだ。なぜか月末に夜遅くまでいる奴だと思われてしまう。
金曜夜の仕事帰りにレンタル屋に寄ってさ、そのとき見かけたんだよ。
赤ひげ。
いやいや長すぎwていうか昔の人って暇だったから観れた映画なんじゃないの?(笑)
なんて思いながらも、なんとなく借りてみた。
で帰宅してから「飽きたらそこまでいいや」ぐらいの感覚で、見始めたんだ。
最初は、若い医師である登が長崎から江戸に出てきて、小石川養生所という、いわば貧しい人のための施療院に配属されるところから始まる。
登はエリート意識が抜けきらない。
自分はもっと大きな仕事ができる人間だと思っているし、この場所にも、そこで働く人々にも、どこか距離を置いている。
そこにいるのが、赤ひげこと新出去定。
口数は少なく、ザンギにも見た目ちょっと似てて、それで無言なもんだから威圧感が凄い。
でも赤ひげは患者や人々の人生を一人ひとり背負うように生きていることが少しずつ、画面の端から滲み出てくる。
感動させようとする演出もない。
赤ひげは善を語らない。
その代わりに行動と、その大きな後ろ姿だけを見せ続ける。
印象的なのは、中盤で描かれるおとよという少女のエピソードだ。
おとよは売春の強要を拒否して虐待され、それによって心を閉ざし、誰に触れられることも拒んでいた。
登は医師として彼女に向き合おうとするが、最初はうまくいかない。
おとよの荒んだ心を治そうと登が懸命に治療しようとしても全てを拒む。
それでも登はめげない。
そんな態度をとってしまうほどに心を閉ざしてしまったのだと嘆き悲しみ、怒ることもなく、おとよの治療を続ける。
その場面に言葉はない。
ぎこちない手つきで、おとよが登の看病をする。
雨の日も風の日も、雑巾をぎゅっと手で絞って、登の頭に乗せる
次第に外は明るく晴れ上がり、おとよの表情に少しずつ変化が生まれる。
それ観たら……あれ?となった。
優しさを知らなかった少女が、優しさを知り、その優しさを返す。
おとよが言葉もなく少し照れるように微笑むその顔が、すべてを物語っていた。
それを目にした時、涙が止まらなかった。
ほんとうに涙が止まらなかった。
善悪を断じることもしない。
ただ起きていることを、そのまま映す。
その静けさが、胸に深く刺さる。
人はどれほど追い詰められても、ぎりぎりのところで気高さを失わない瞬間がある。
その姿は痛々しくて、だが美しい。
ただ、そこに置く。
現代の映画は、この時代の映画とは比べ物にならないほど迫力がある。
昔の映画は、そういったことができないからクオリティが低いものだと勝手に思い込んでいた。
名作といっても所詮は古い映画…等と侮っていた自分が馬鹿だった。
赤ひげは、昨今のアニメ映画にあるようなド派手で大きな戦闘シーンはない。
だがその分、観客の心が大きく動く。
映画の方が大きく動くんじゃない。観ている者の心を大きく動かしてくる。
それが映画の本質なんじゃないかということを、私はこの赤ひげを観て思い出すことが出来た。
3時間?長くない。
そんなことは、どうでもよくなる。
人の優しさ。気高さ。