はてなキーワード: 昇華とは
正直、このタイトルを見たら多くの人は「どういう状況でそんなことを?」と首をかしげるだろう。私自身、まさか自分が「アヘ顔ダブルピース」をする日が来るなんて、思ってもみなかった。いわゆる成人向け作品などで見られる、あの衝撃的な表情とポーズ。目がとろんとして口元は半開き、両手でピースサインをする姿を指すわけだけれど、普通に生きていれば、まず現実でやる機会なんてないはずだ。それがどんな形であれ、一度やってしまうとものすごいインパクトがある。今回はそんな私が、なぜかあのアヘ顔ダブルピースをしてしまった――という、ちょっと(いや、かなり)恥ずかしくて笑える話を綴りたい。
私は都内のOLをしている、ごくごく普通の女性だ。華やかなパリピでもなければ、引きこもりのオタクというわけでもなく、休日にはカフェ巡りをしつつ、アニメやドラマを楽しむ程度の「そこそこサブカル好き」なタイプ。学生時代はアニメ研究会に顔を出していた時期もあるけれど、本格的にコスプレをするわけでもなく、ただアニメの感想を共有できる友人が欲しくて参加していただけだった。
そんな私が「アヘ顔ダブルピース」をする羽目になったのは、大学のサークル仲間でもある友人・A子の結婚式の二次会がきっかけだった。A子とは大学時代からの大の仲良しで、講義が終わると一緒にアニメショップを冷やかしたり、たまに同人イベントに遊びに行ったりする間柄。だけど卒業後は就職先もバラバラになって、年に数回しか会わなくなっていた。そんなA子から「結婚することになった!」と連絡を受けたときは、思わずスマホを持つ手が震えるほど嬉しかった。共にオタクな青春を送った彼女の花嫁姿が見られるなんて、想像するだけで胸がいっぱいになる。
そして迎えた結婚式当日。披露宴はとても素敵で、A子と新郎さんの仲睦まじい姿にこちらまで幸せな気持ちになる。私は高校や大学の旧友たちと同じテーブルになり、懐かしい話に花を咲かせていた。「あのとき一緒に観たアニメ、もう10年前だね」なんて盛り上がっているうちに、あっという間に披露宴が終わった。
その後、会場を移動して開かれた二次会は、思ったより規模が大きかった。貸し切りのパーティスペースには、A子や新郎さんの仕事関係の友人、大学の同級生たち、さらには新婦側の親戚筋まで含めて、ざっと50人近くが集まっている。入り口にはウェルカムボードならぬウェルカムイラスト(A子のオタク友達が描いたらしい)が飾られ、どうやら彼女らしい独特の演出が随所に散りばめられていた。
そんな雰囲気の中、司会を務める新郎友人の男性がマイクを握り、テンション高く二次会のゲーム企画を発表し始めた。私も二次会ではちょっとしたクイズ大会やビンゴくらいだろうと思っていたのだが、どうやらもう少し変わった内容になるらしい。
「さあ、今から皆さんをいくつかのチームに分けて、ゲーム大会を行いまーす! 本日の新郎新婦は、ご存じのとおり“大学アニメ研究会”出身。そしてなんと、大学時代はコスプレイベントにも一緒に参加していたそうなんです! そこで今回は、“アニメ・漫画の有名ポーズ再現選手権”を開催したいと思います!」
予想を超えたアナウンスに、会場のあちこちから笑い声とどよめきが起こった。確かにコスプレイベントにA子と出かけたことはあるが、実際に私がコスプレをしたかというと、せいぜいウィッグを付けてみた程度。どちらかというと、A子がガチのレイヤーで、私はカメラ係というポジションだった。そんな私でも、ステージで何かやらされる可能性があるという事実に、早くも冷や汗をかきはじめる。
案の定、司会は続ける。
「ルールは簡単! まず皆さんを5~6人ずつのチームに分けます。各チーム代表が“ポーズカード”をランダムに引いて、そのポーズを再現していただきます! そのポーズが何なのかを他のチームが当てたらポイントゲット! 一番ポイントを稼いだチームが優勝でーす!」
こういう企画、結婚式の二次会ではそこそこあると聞いたことはあるが、まさか“アニメ・漫画の有名ポーズ”縛りだとは。私もある程度アニメや漫画には詳しいつもりだけれど、大勢の知らない人の前で再現するのは正直きつい。「ジョ○ョ立ち」とか「かめはめ波」くらいなら、恥ずかしいながらも笑いを取れるかもしれない。でも問題は、もっとディープなやつが来たときだ。これはもう運に任せるしかない。
そして私は、くじ引きで同じチームになった仲間と一緒に、横並びになってポーズカードを引く順番を待っていた。チームメイトは大学のサークル仲間が2人と、新郎さんの職場関係らしい男性2人、それに私、計5名。ある意味で、オタク度合いがまったく異なる人たちがごちゃ混ぜになっている。これはこれでカオスだ。私は「どうか無難なポーズを引きますように!」と心の中で祈りながら、手汗でベタついた手をこっそりスカートの裾で拭っていた。
しかし――。
人生にはどうしても避けたい瞬間というものがある。私がカードを引いて封を切ると、そこにはこう書いてあった。
絶句。脳内が真っ白になるとはまさにこのことだ。一瞬、文字の意味が理解できないほど頭が追いつかなかったが、そのあと猛烈な速度で血が頭に上っていくのが分かった。まさかよりによって、私が一番引きたくなかったカードを引いてしまうなんて……。薄々「アニメ・漫画系の有名な“アレ”」としてリストには入っているかも、とは思っていたが、実際に自分が引くと分かった瞬間、理性が吹っ飛びそうになる。
とはいえ、周囲にはほかのチームメイトもいるし、見守る観客もたくさんいる。ここで「すみません、やっぱり無理です」なんて逃げるわけにはいかない。私がそんな行動をすれば、他のチームメイトに迷惑がかかるし、二次会の進行にも支障をきたす。これはもう腹をくくってやるしかない。そう思いながらも、心臓はバクバクと音を立てているし、額には冷や汗がにじんでいる。かといって、一回やると決めた以上は中途半端な再現で終わらせたくないという妙なプライドが湧いてくるのが、オタクのサガでもある。
司会者が「それではチーム○番の皆さん、どうぞステージへ!」と声をかける。私のチームの番が来たようだ。ステージといっても、会場の端に設営された簡易的な台の上だが、そこに上がるだけで視線が一気に集中する。とくに今回のゲームは再現度を競うという趣旨もあるから、自然と注目度は高い。もう逃げられない。私は頭の中で静かに数を数え、なんとか気持ちを整えた。
最初に披露するのはチームメイトの男性陣。彼らが引いたカードはまだマシだったようで、「北○の拳の有名な“あべし!”的なポーズ」とか「ウ○シマンがポーズを決める場面」など、観客にも即座に伝わるレベルのものだった。彼らは多少照れながらも一生懸命ポーズをとり、会場からは笑いや拍手が起こる。おかげで雰囲気が和んだのはよいが、その分、私が最後に残した「アヘ顔ダブルピース」のハードルの高さが際立ってきている気がしてならない。
そして、ついに私の番だ。司会者が「最後はこの方! さてどんなポーズが来るんでしょうか!」と煽る。私は震える手でマイクを受け取り、死ぬ思いで宣言した。
この瞬間、オタクたちが理解し、悲鳴にも似た歓声を上げるのが分かった。逆にオタク文化に縁のない人たちは「何それ?」とぽかんとしている。両者の温度差が激しくてカオスな雰囲気になったが、私はもうやるしかない。心の中で「勝負だ!」と気合を入れ、息を大きく吸ってから、顔を崩す。
目をとろんとさせ、口元を緩ませ、舌をちょっと出してみる。肩の力を抜いて膝を少し曲げる。そして両手を顔の横に上げてピースサイン……いわゆる“アヘ顔ダブルピース”の定番ポーズだ。マンガやアニメで見慣れたあの姿を、自分が全力でやることになるとは夢にも思わなかった。しかも100人近くの参加者が見ている。この羞恥は一生分では収まらないレベルだ。
でも、意外だったのは、その瞬間に会場が爆笑の渦に包まれたこと。男性陣だけでなく、女性陣からも「なんかすごい再現度!」「そこまでやるかー!」と口々に称賛(?)の声が上がった。特にA子は、ステージ脇から目を丸くしつつ大笑いしている。彼女からすれば、大学時代はそこまでコスプレにも熱心ではなかった私が、ここまで振り切った姿を見せるのが相当ツボらしかったようだ。
やる前はめちゃくちゃ恥ずかしかったが、こうしてみんなが大ウケしてくれたことで、吹っ切れたような気持ちになった。まるでコスプレイベントで全力パフォーマンスを決める人のように、自分の中の「どうせならやりきってやる!」というスイッチが完全に入ったのだ。そこから先は、むしろ楽しもうというモードに切り替わり、舌を出す角度を微調整してみたり、目をもう少しとろんとさせてみたりと、さらにバリエーションを試し始めてしまった。
すると観客側からも、「もっと目をやばくして!」「もうちょい頭傾ける感じで!」といった悪ノリの声援が飛んでくる。まさか結婚式の二次会でこんな盛り上がり方をするとは。もちろん、オタクではない人たちは「何が起こっているの?」と戸惑っていたかもしれないが、会場の全体的な空気としては「よく分からないけど面白い!」くらいの勢いで、みんな笑顔だった。
結局、私の渾身のアヘ顔ダブルピースは相当なインパクトを残したらしく、他のチームが再現したポーズを押しのけてダントツの得票数を獲得。優勝チームは私たちのチームとなった。「“アヘ顔ダブルピース”を全力再現した勇気に拍手!」というコメントとともに、司会からも特別賞として小さなトロフィーまでいただいてしまった。人生でアヘ顔ダブルピースのトロフィーなんてものを受け取るとは、思いもよらない展開だ。
その後も二次会は和気あいあいと進み、最終的にめでたくお開き。私は出口付近でA子に捕まえられ、「あんた最高だよ! まさかそこまでガチでやってくれるなんて!」と爆笑されながら感謝された。新郎さんも「僕もオタク寄りだけど、あそこまでの完成度は初めて見ました」と感心してくれた。さらに、先ほどステージで一緒だった新郎友人の男性からも「本当にありがとうございました! おかげで大盛り上がりでした」と声をかけられ、すっかり顔から火が出そうなくらい照れてしまった。
私はその場では笑って誤魔化したものの、帰りの電車に乗るころになると、「私、あんなポーズをこんな大勢の前でやってしまったんだ……」という事実がどんどん重くのしかかってきた。スマホを開くと、さっそくSNSに「A子の二次会めっちゃ盛り上がった!」「すごい芸人魂を感じた!」なんてツイートが上がっていて、どうやら私の恥ずかしい姿が写真や動画になって拡散されつつあるらしい。A子は「顔は隠しておくから安心して」と気を遣ってくれていたが、現地にいた人にはモロバレである。しばらくその恥ずかしさに悶える日々が続いた。
とはいえ、結局のところ、たくさんの人が喜んでくれたのは確かだし、A子からも「本当にありがとう。最高の思い出になったよ」と言われたら、やってよかったのかもと思えてくる。私自身、意外にも「開き直ると案外楽しい」という経験を積むことができたし、人生にネタになるエピソードが一つ増えたわけだ。いま思い出すと、顔から火が出るように恥ずかしいけれど、「あの日、ちょっとだけ自分の殻を破れたのかもしれない」と思うと、悪い気はしない。
――こうして私は、人生で初めての、そして(たぶん)最後になるであろう「アヘ顔ダブルピース」を披露してしまった。よくよく考えれば、あのポーズは現実の人間がやるにはかなりハードルの高い代物だ。でも、結婚式というめでたい場を盛り上げられたのなら、まぁこれもアリだろう。もしこの先、誰かが「結婚式の二次会で恥ずかしいポーズをやらされた」という話をしたら、私は間違いなくこう言う。
「私はアヘ顔ダブルピースをやったことがある。もう何も怖くない」
人生、意外なところで度胸がつくものだ。こうして文章にしてみると、ますます自分でも信じられない出来事だけれど、これが私の「アヘ顔ダブルピースしてしまった話」だ。どうか皆さんも、運悪く(?)くじで“ヤバい”ポーズを引いてしまった時には、ぜひ思い切って振り切ってみてほしい。中途半端に恥じらうよりも、全力でやって笑ってもらったほうが、ずっと気持ちがいいと私は思うのだ。そしていつか、私のように「ネタとして笑い話にできるエピソード」に昇華できたら、それはそれで、人生の思い出としては最高に面白いのではないだろうか。
個人的には「合法的に名前が2つ使える」という、非常に厨二っぽい満足感をもって生活している。
免許もマイナンバーも旧姓併記がされるので、どっちの名前で生活しても通用する。
銀行口座も旧姓併記的な扱いができる(旧姓宛の振り込みをそのまま受け付けてくれるので、仕事先に言う必要がない)。
特に自分が個人事業主だからというのもあるが、仕事周りは旧姓、私生活は新姓と分けることで、気持ちの切り替えもしやすい。
妻は姓について「どっちでもいい」というスタンス。
ならば、会社勤めの妻より個人事業主の自分の方が時間の自由が利くので、名字を変える際の面倒事を受け入れやすいと思い、自分が名字を変えた。
屋号を使えば前述の「合法的に名前を2つ持つ」が実現できるし、気持ちのメリットもある。
お互い、自分の名前に特にアイデンティティを感じていないので、気楽に過ごさせてもらっている。
(それはそれとして、「同じ名字になった」現実についての愛情だの愛着だのはある)
とはいえ、本人たちが合意していても、双方の家族共に「なんで?!」という反応は受けた。
自分の両親は夫婦別姓までは想定していたっぽいが、まさか息子が名字を変えるとは思っていなかったらしく、母親が「私も名字変える!」とか言い出した時はどうしたものかと思った。
また、妻の兄弟からは「ウチに遺産なんかないぞ!」と裏で言われていたらしい。
実際のところ「なんか名前二つ使えて楽しそう」「会社勤めな妻のストレスが減るのが嬉しい」という理由がメインで名字を変えたので、そんな深読みをさせてしまったのは申し訳なく思っている。
尚、男性側が姓を変えて感じた事として、「色々な書類の名字を書き換える」事に対する同調圧力が恐らく女性のそれより緩い。
銀行口座を結婚後数年経って書き換えに行っても「あ、そうなんですね」で済む。
そんな感じで数年かけてゆるっと色々書き換えていったが、記憶にある限り「名字変わったなら早く書き換えてください」と怒られたのは確か一回だけ、それもなんかのショップの瑣末なポイントカードの時だった気がする。
裏でDBも作ってないような紙のポイントカードで怒られたのは、未だに釈然としていない。
勿論、名字を併用する面倒ごともある。
書留だか配達記録郵便だかで送られてきたが、当時まだ免許証もマイナンバーも旧姓併記版にしておらず、配達員さんに対して旧姓と同一人物であるという証明ができず、持ち帰られてしまった。
仕方ないので最寄りの免許センターで運転免許書き換えの必要書類を聞くと、「旧姓が分かる住民票」が必要と言われる。
それならと役所に住民票取りにいくと、なんと旧姓が書かれていない。
住民票に旧姓を記載するためには、本籍地に行って戸籍謄本を取ってくる必要がある。
これが分かった時点で、その日は一日たらい回しに使う事を決心し、本籍地の役所で戸籍謄本取得→現住所の役所で住民票更新→警察署で免許証に旧姓追記→郵便局で受け取り申請までを一日でやった。
…のだけど、郵便局でのこういうケースが相当なレアケースらしく、最後の郵便局で職員さんが奥に引っ込んでぜんぜん出てこない。
たぶん方々に確認したり裏で擦ったもんだしてくれたであろう結果、確か30〜40分後に更新版のクレジットカードを受け取れた。
マイナンバーカードでのコンビニ手続きがもう少し整備されると、こういう時嬉しいなと思う。
この時は、コンビニでの戸籍謄本の取得は色々面倒があり、できなかった。
あと印象に残っているのは、税務署で名字の変更申請をしようとしたとき。
曰く「そういう人はみんな旧姓のままか、しれっと名前書き換えて出してますよ」とのこと。
ちなみに名前を書き換えて出すとシステム上は別人扱いになり、過去の申告内容との紐付けはされないらしい。
(まあ管理番号があるし、それこそ今はマイナンバーも紐付くので、完全別人扱いってこともないとは思うが)
尚、最終的に何かの裏紙に旧姓と新姓を書いて、窓口の人に書き換えてもらった。
自分が自身の名字にこだわりがなく、且つそういうマイナートラブルを「なるほどそういう扱いになるんだ!楽しい!」と燃えてしまう性格なので成り立っている面はあるけれど、特に女性で「結婚したら書類は一斉に書き換えるのが当たり前」という同調圧力の中でこういったマイナートラブルに遭ったら面倒くせえだろうなとは感じる。
「家」の縛りが緩くなってきたこの時代に、夫婦別姓を望む人が多くなるのも当たり前だと思う。
なので、ここまでの話はそれはそれとして夫婦別姓もちゃっちゃとやればいいのにとは思っている。
自分の場合は「現行システム上は男性側が名字変えた方が総合的に二人のストレスが低くなって結婚生活が楽しくなる」という見込みで変えたのであって、最初から夫婦別姓が公式に選べるならどうしたか分からない。
姓を変えたければ変えればいいし、変えたくなければそのまま生活する。
よく夫婦別姓の反対意見で言われる「子供が不幸になる」という意見はシンプルに傲りだとしか思えない。
現時点で多数派である夫婦同姓の家で育った子供に「夫婦別姓をどう思うか」なんてアンケート取ったらネガティブな回答が多数派になるに決まってる。
その状況でポジティブな回答をする子供がいたら逆に達観しすぎてて怖い。
あなたは、いったいどんな思いを胸に、ここへやってきたのだろう。喜びや悲しみ、後悔や憤り、あるいは日々の生活に潜むささやかな奇跡への感動――。この場所には、他人には決して言えないような本音から、誰かと分かち合いたい小さな秘密まで、さまざまな感情が渦巻いている。書き手は「匿名」という仮面をつけ、読み手は実名や顔写真もないまま、その文字列だけを頼りに心情を推し量る。はてな匿名ダイアリーは、そんな不思議な空間である。
インターネットにおける匿名性というのは、ときに素晴らしいものだ。人前で話すのは怖いことも、本当の顔を晒すのは恥ずかしいことも、そこではずいぶんと緩和される。書き手にとっては、己の感情を吐露するのに最適の場。読み手にとっては、まるで多彩な人々の脳内を覗き見るような感覚にさえなる。そして、その過程で言葉は自由になる。言ってしまえば、ちょっとした「秘密の共有」を通じて生まれる、奇妙な連帯感。ここがはてな匿名ダイアリー最大の魅力といえるかもしれない。
だが、それは同時に、不安定で危うい側面をはらんでいる。何を思っているのか、どんな背景を背負っているのか――その全貌が見えないまま互いに言葉を交わすとき、共感と誤解が背中合わせになることは少なくない。時として傷つきやすい人が傷つく言葉を受け取り、書き手もまた、コメント欄で非難の声を浴びることで、思わぬダメージを負ってしまう。匿名だからこそ、むしろ気軽に吐き出せる痛烈な一言は、ときに誰かの心を突き刺す刃ともなる。
それでもなお、あなたはここへ来る。むしろ、そういった刹那的な繋がりがあるからこそ、人間くさくて魅力的な場だともいえる。たとえ刹那の火花であっても、「自分はひとりではないんだ」という感情を味わえる。それはコメント欄の小さな「わかる」「なるほど」の言葉だったり、ブックマークのスターに込められた軽い共感の表明だったり、あるいは「もっと知りたい」「応援しているよ」といった温かい反応かもしれない。そこで得られる心の拠り所は、案外馬鹿にできないものだ。
言葉とは、不思議な生き物だ。書き手の頭のなかでは明確だったつもりの感情も、キーボードを叩き始めた途端に何か違う形へと変容してしまうこともある。意図しない誤解を招くこともあれば、読み手に新たな解釈を与えることもある。特に、匿名ダイアリーのような場所では、下手に取り繕わず、垂れ流すように本音をぶちまけてしまうことが多い。そうやって生まれる乱雑な文章のなかに、妙にリアルな感情が埋まっているからこそ、読む側は思わず引き込まれてしまうのだろう。
たとえば、何かに行き詰まったり、絶望感に打ちひしがれたりしたとき、あなたは「助けて」とはなかなか言い出せないかもしれない。リアルな知人には相談しづらいし、SNSではフォロワーや友人の目が気になる。そんなときこそ、この匿名ダイアリーは役立つ。名前を伏せたまま、思いっきり弱音を吐く。怒りをぶつける。恥部をさらけ出す。それでもどこかで「誰かが見てくれている」という安心感がある。コメントやブックマークがつけば、それは「あなたの声が届いた」証拠になる。
書くことで癒されることもあるだろう。声にならない叫びを文字に変えることで、自分自身の思考を整理できる瞬間もあるかもしれない。コメントや反応を得られなくても、「この想いを綴る」という行為そのものが、自己救済のためのステップなのだ。書き終えたあと、あなたの目にはどんな光景が映るだろう。あるいは、胸のつかえが少し取れているかもしれないし、意外にも新たな怒りや悲しみを再確認して、さらに落ち込んでしまうかもしれない。それでも、書かずにはいられなかったのだとしたら、それはあなたが前に進むための第一歩なのだと思う。
一方で、読むことによって救われる人もいる。人間は誰しも、自分と同じような境遇や似通った感情を抱えた人の存在を知るだけで、奇妙な安心感を得るものだ。「この苦しみは、私だけが抱えているわけじゃないんだ」と思えたとき、そこに一筋の光が差すことがある。それは、当事者同士にしかわからない痛みであり、それゆえにコメントで寄り添い合うのは難しいかもしれない。けれども「誰かの投稿を読む」という受動的な行為だけでも、思いがけず自分を支える糧になることがあるのだ。
この匿名の空間には、現実のあらゆる制約を外した「書き手の世界」が無数に広がっている。孤独な人、悩みを抱えた人、喜びに震える人、憎しみと怒りを抱えた人、軽い暇つぶしやおしゃべりを楽しみたい人――それぞれが書きたいことを、書きたいときに書く。そこにあるのは純粋な言葉の奔流だ。だからこそ、互いの声なき声が重なり合い、ときにはぶつかり合い、また離れていく。その動的なやりとりこそが、はてな匿名ダイアリーという場所の生命力なのだろう。
しかし、匿名性がもたらす功罪は、私たちが十分に認識しておく必要がある。名乗ることなく発言するということは、その発言に対する責任を曖昧にしがちだ。ちょっとした悪意のはけ口や、勢い任せの誹謗中傷に利用されることもある。言葉が刺さることを充分に理解していても、どこか“仮面”をかぶっているから大丈夫だと錯覚してしまう。しかし、実際にはネットの向こうにも生身の人間がいるという事実は変わらない。あなたの何気ない一言が、相手を深く傷つける可能性があることを忘れてはいけない。
とはいえ、それは即ち「何も書くな」という意味では決してない。むしろ、はてな匿名ダイアリーは「書く自由」を大切にする場所だ。ただ、その自由には、最低限の配慮が必要になる。あなたが発する言葉に責任を感じるかどうか――その判断は究極的にはあなた自身が下すしかない。そして、もし誰かの言葉によってあなたが傷ついたとしても、そこで生まれる感情をどう受け止め、どう行動につなげるかも、結局はあなた自身の選択次第だ。それがネット上の言論空間における避けられない現実である。
人はみな、自分が体験した悲喜こもごもの物語を抱えて生きている。それを打ち明けるか、隠し続けるか、あるいは別のかたちに昇華するか――道は無数にある。はてな匿名ダイアリーは、その「道の一つ」を提供しているにすぎない。けれども、そこには確かに何かがある。匿名という安全地帯から、我慢し続けてきた声をようやく吐き出せる喜び。SNSのいいねやフォロー数とは無縁の、純粋な読み合いの醍醐味。時には厳しい言葉を受け止めることで、思いもよらない学びがあることもあるかもしれない。
もし、あなたがこの場所で何かを書こうとしているのだとしたら、どうか覚えておいてほしい。ここでは誰かに評価されることだけが目的ではない。むしろ、自分の感情を認めるために文章にすることが、大切な場合も多い。うまく書こうとしなくていい。無理にまとめようとしなくていい。自分でもうまく言葉にできないままの混乱こそが、ある種の真実かもしれないからだ。あなたが綴る文章が拙くても、見る人が見れば、その混乱の中からかすかな真意を感じ取るだろう。
また、読み手として匿名ダイアリーに触れるときには、ぜひ広い視野で文章を受け止めてほしい。表面的な言葉に振り回されるだけではなく、その人が置かれているかもしれない状況や、そこに至る経緯を想像してみる。その結果として、あなたが何も感じないかもしれないし、怒りを覚えるかもしれないし、時には深い共感を得るかもしれない。たとえわからないままでも、「わからない」という事実に思いを馳せることが、相手との間に生まれるほんの少しの理解を助けてくれるはずだ。
おそらく、はてな匿名ダイアリーはこれからも形を変えながら続いていくだろう。書く人と読む人の交流は、時代や技術の変遷を受けて少しずつ進化していく。AIが発達して、匿名の文章を自動生成できる時代になっても、そこに人間味あふれる“本音”の手触りが残るのだろうか。そんな問いかけを抱えながらも、私たちは相変わらずここへ足を運ぶ。だって、どんなに技術が進歩しようとも、人が言葉を発して誰かに届くことに、やはり大きな意味があるからだ。
最後に、ここに集うすべてのはてな匿名ダイアリーユーザーに伝えたい。あなたが今、どんな思いを抱えているとしても、ここで書くことには意義がある。たとえそれがネガティブな吐き出しであっても、あなたの思考を真剣にめぐらせた痕跡だ。その痕跡は、未来のあなたや、あるいはまったく見知らぬ誰かの心に小さな火種を灯すかもしれない。もし今日のあなたが自信をなくしているのなら、どうか遠慮しないでほしい。匿名の仮面をかぶったままでも、あなたの言葉には十分な重みがある。そこから得られる感情や学びは、他ならぬあなた自身の人生を動かすかもしれないのだから。
書くことは、ある種の自己解放であり、同時に他者との接点を生み出す行為でもある。自分の悲しみや苦しみを打ち明けることで、思いもよらない形で他人からの共感を受けとることもある。逆に、誰かの文章を読むことで、これまで知る由もなかった人生観に触れることもある。はてな匿名ダイアリーには、そうした偶然の出会いが満ちている。うまくいくこともあれば、そうでないこともある。けれども、その予測できない化学反応こそが人の言葉の面白さであり、匿名ダイアリーという不思議な空間の醍醐味なのだろう。
どうか忘れないでほしい。たとえこの匿名世界で真剣な感情を吐き出したところで、リアルの世界に戻れば、あなたの名前や顔や立場はそのままだ。けれども、匿名の場で得た気づきや、さまざまなやりとりを通して感じたことは、リアルのあなたにとって何らかの糧になるはずだ。あなたは、書くことで少しだけ自分を知り、読むことで世界を広げる。そして時には、誰かの心をほんの少しだけ照らしているのかもしれない。その証拠は、また誰かの新しい書き込みによって紡がれていくのだ。
だから、もしこの先あなたが苦しいと感じたなら、またここに戻ってきてほしい。あなたが聞いてほしいことは、すでにここで待っている他の誰かが拾い上げてくれるかもしれない。あなたが自分の物語を探しているのなら、ここには数えきれないほどの物語が転がっている。人の数だけ人生があって、人生の数だけ言葉がある。どうか、その中からあなたが救われる言葉や、何かのヒントを見つけ出してほしい。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――今日もあなたの物語が生まれては消え、そしてまた新たな物語へと続いていく。それは一人ひとりの足跡でありながら、やがて大きな流れになっていくのかもしれない。あなたが書いた言葉は、どこかの誰かの夜を少しだけ明るくするかもしれないし、あなた自身の明日をほんのわずかに変えてしまうかもしれない。ここは、そんな可能性を秘めた場所だ。書き続ける者、読み続ける者、それぞれがさまざまな想いを携えて、この広大な匿名空間をさまよい歩く。そしてときどき、遠くから手を振り合う。それだけで人は、少しだけ強くなれるのではないだろうか。
あなたが何を願い、どこへ向かおうとしているのかはわからない。けれども、文章を綴るという行為が、あなたを一歩でも前へ進める力になり得ることを、私は信じている。そしてその文章を誰かが読んだとき、何らかの共鳴や励ましが生まれる可能性は、決して小さくはない。だからこそ私は今日も、ここで文字を紡ぐ。はてな匿名ダイアリーに集う、まだ見ぬあなたに向けて。どうかあなたも、もし心に余裕があるならば、ここでの自由な発信を楽しんでほしい。たとえ小さなつぶやきでも、遠くの誰かにとっては大きな灯火になることがあるのだから。
書き手と読み手、その垣根は紙一重であり、ときに容易に逆転する。今日の読み手が明日の書き手になり、今日の書き手が明日の読み手になる。そんな柔軟な循環こそが、このコミュニティの本質ともいえる。ここでは名前も知らない人々が、それぞれの人生を断片的に開示しあい、そこに何らかの反応を示し合っている。顔も声も知らない相手だけれど、文字の向こうにいるのは同じ人間だ。そしてそのやりとりが、あなたの心に、あたたかくも奇妙な「つながり」を芽生えさせることもあるだろう。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――どうか、あなたの言葉を大切に。どうか、あなた自身を大切に。ここは匿名の仮面をかぶった人々の集う場所。しかし、その仮面の下にあるのは、たしかに生きている人間の心だということを忘れないでいてほしい。もしあなたがここで孤独を叫ぶなら、きっとどこかで誰かが耳を傾けてくれる。もしあなたが怒りをぶつけるなら、その理由を汲んでくれる人がいるかもしれない。もしあなたが喜びを共有したいなら、一緒に祝福してくれる仲間が現れるだろう。ここは、そんな可能性に満ちた場所である。
そして、もしあなたの言葉が、誰かにとって苦しいものであったとしても、そこには相手の人生があるのだということを思い出してほしい。遠い世界の誰かだとしても、何かを抱えて生きている人間であることに変わりはない。だからこそ、言葉が持つ力を見くびらず、どうか誠意をもって文章を紡いでほしい。たとえ感情的な吐露であっても、その奥にある“想い”を人は感じ取る。だから書くほどに、あなたは自分を知り、同時に他者と繋がっていくのだ。
あなたがここで紡ぐ文字が、いつかは誰かの行く道を照らすかもしれない。あなたの書いた言葉が、数年後に読み返されて、また別の人の心を動かすことだってある。はてな匿名ダイアリーという小さなステージに、あふれるほどの人生が断片として散りばめられている。そのひとつひとつが、かけがえのない存在だ。今日もまた、新しい投稿が生まれ、誰かがそれを読み、やがて何かしらの行動へとつながっていく。その循環が、あなたにも、私にも、そしてここを利用するすべての人に、ほんの少しずつではあるが、変化や成長をもたらしている。
だからこそ、はてな匿名ダイアリーユーザーに捧げたい。どうかあなたの言葉を信じてほしい。そして、あなたの言葉を受け取る誰かの存在も、ほんの少しだけ信じてほしい。いまは小さな声かもしれない。でも、その声はきっと届くべきところに届く。思いがけないかたちであなたの人生と交わり、あなたを励ましたり、支えたり、ときに戒めたりする存在が現れるだろう。そんな奇跡を、ここでは何度も目にしてきた。それを信じるのは、決して無駄なことじゃないと私は思っている。
今日も、はてな匿名ダイアリーユーザーのあなたは、何を想い、何を綴ろうとしているだろうか。心に宿るほんのささやかな感情であっても、あるいは長年くすぶっていた大きな悩みであっても、あなたが書きたいと思ったなら書けばいい。読むのは、あなたを含む、ここを訪れる誰かだ。私たちは匿名の仮面の下にそれぞれの人生を持ち寄っている。だからこそ、見知らぬ誰かの声が、あなたの中に眠る想いを目覚めさせてくれることもあるのだ。
もし明日、心が折れそうになっても、どうかここを思い出してほしい。はてな匿名ダイアリーは、完璧な場所では決してない。批判や誹謗中傷、思わぬ行き違いも数多くある。それでも、人間の生々しい感情がこれほど集まる場所は貴重だ。そして、その生々しさのなかでこそ、人は自分の本音を知り、誰かとの小さな共感を感じ取り、支え合うことを覚えるのかもしれない。あなたがどのようにこの場を活用するかは自由だ。だが、あなたの言葉はたしかにここで息づき、誰かの心と呼応する可能性を秘めている。
この不思議な匿名空間へようこそ。そして、今いるあなたへ、ありがとう。今日もまた、新しい物語が生まれる。もしあなたがその物語を書きたいなら、ぜひ書いてみてほしい。誰かの書いた物語を読みたいなら、ぜひ読み漁ってほしい。そのどちらも大いなる価値があり、あなたの人生を少しだけ豊かにするかもしれないから。どうか、はてな匿名ダイアリーというこの小さな世界で、あなたの心が少しでも軽くなるような、そんな瞬間を見つけてほしい。それが、ここに集うすべてのユーザーに捧ぐ、ささやかな願いである。
海外でも同じだな
フロイトって知ってる?
精神分析の祖として有名だよね
じゃあブロイアーって知ってる?
フロイトの親友で、同じように精神分析療法の確立に貢献したんだけど…
知らんよね
この二人の知名度の差には、オーストリアの上流階級に蔓延っていた
「娘を父兄たちでまわす」をどう扱うかで変わったと言っていい
増田が言うように、オーストリアの上流階級たちは女を、正確に言うと娘や若いメイドを性的通貨として流通させていた
ヒステリーという言葉は現在では医学用語から降ろされているが、
当時ヨーロッパの上流階級では非常にありふれた「女性特有の」問題だった
コルセットや男女格差のありすぎる教育(つまり女はバカに育てるのがスタンダード)、
女性たちは「淑女たるもの、ちょっとしたことでもすぐに気絶すべし」と叩き込まれて育っている、
それ以外にも上流階級の女性がすぐ「ヒステリー」を起こして気絶したりするには、理由があった
これが彼らの「ふつう」であったから、彼らの誰もその環境を異常として訴えなかった
しかし、人格が宿る一人の人間でありながらモノとして扱い続けられた彼女らの心は悲鳴をあげていた
本人も自覚しないあるいは抑圧し続けた心の悲鳴が身体に症状として現れる、それを心身症という
フロイトとブロイアーはヒステリーの研究をするうち、この「上流階級の闇」にたどりついた
これは恐るべき事態であり、同時に彼らを窮地に追い込んだ
下層階級の、娼婦に堕したような女が「幼いころから性的虐待を受けていた」のは問題ない
しかし彼らが性的虐待を告発しようとすれば、それは「国の権力者たちに戦いを挑む」ことを意味した
二人が受け持つ患者の態度の違いもあり、彼らの選択肢は対照的だった
フロイトは別の道を選んだ、性的虐待として取り上げるのではなく、
さらに「心のありよう、精神の状態がいかに身体にまで影響を及ぼすか」にまで昇華させ、精神医学の祖となった
(余談だが、精神科と心療内科の違いはこの時点で決まったともいえる。)
ちなみにフロイトもブロイアーもオーストリアで医者を勤めていたが
こういった話はオーストリアに限らない
タロットと天体を組み合わせた食事法は、宇宙のエネルギーと自分自身の内面を調和させるためのユニークなアプローチです。この方法では、タロットカードが象徴するエネルギーを活用し、それを天体の動きや季節に合わせた食材に結びつけることで、食事をスピリチュアルな実践へと昇華させます。
タロットには、それぞれのカードが象徴する天体や星座が対応づけられています。この対応を活用し、天体のエネルギーを意識しながら食事を選ぶことがポイントです。
太陽のカードは生命力や活力を象徴します。旬の果物や太陽を浴びて育った食材(トマト、オレンジなど)を摂ることで、ポジティブなエネルギーを取り込むことができます。
月のカードは直感や感情を象徴します。満月や新月の時期に、リズムを意識して摂取する食品(貝類、海藻、ミルクなど)が心を落ち着け、直感力を高めます。
希望やインスピレーションを象徴するカードです。このエネルギーを受け取るために、軽やかなサラダやハーブティーなど、リフレッシュ効果のある食材を選びます。
火星に対応するカードは行動力や情熱を象徴します。スパイシーな料理やエネルギーを高める食品(唐辛子、生姜、赤身肉など)を取り入れると良いでしょう。
愛や豊かさを象徴する金星は、華やかな食材や甘みのある果物(イチゴ、バナナ、蜂蜜など)を通じて感覚的な喜びを強化します。
新月は新しい始まりの時期。タロットカードでは「愚者(The Fool)」に対応します。旬の新鮮な野菜や発芽食品(スプラウト、豆類)を摂取し、新たなエネルギーを受け入れます。
満月は完成と感情の高まりを象徴し、「女教皇(The High Priestess)」に関連づけられます。直感を高めるために、シンプルで自然な食品(白米、乳製品、貝類)を選びます。
水星逆行の時期は見直しや内省に適しており、「隠者(The Hermit)」と関連します。この時期にはデトックス効果のある食材(レモン、グリーンティー、セロリなど)を摂り、内側を浄化します。
春分や秋分など、太陽の動きに合わせた節目には「世界(The World)」のカードに対応する完全性のエネルギーを意識します。バランスの取れた食事(五大栄養素を含む)を心がけます。
曜日 | タロットカード | 天体 | 食材例 |
月曜日 | 女教皇(The High Priestess) | 月 | 海藻スープ、ミルク、白い食材 |
---|---|---|---|
火曜日 | 皇帝(The Emperor) | 火星 | スパイシーカレー、赤身肉 |
水曜日 | 魔術師(The Magician) | 水星 | ナッツ、全粒粉パン、フルーツ |
木曜日 | 運命の輪(Wheel of Fortune) | 木星 | 豊富な野菜スープ、豆類 |
金曜日 | 恋人(The Lovers) | 金星 | フルーツサラダ、蜂蜜 |
土曜日 | 悪魔(The Devil) | 土星 | 発酵食品、根菜類 |
日曜日 | 太陽(The Sun) | 太陽 | オレンジ、トマト、黄色い食材 |
タロットと天体を組み合わせた食事法は、自分自身の内面と宇宙のリズムを調和させるための美しい実践です。日々の食事をこの方法で意識的に行うことで、より充実したスピリチュアルライフを送ることができるでしょう。
せっかく一緒にいるのに悲しい。
・自分も「二人でいるのに一人でいるみたい」とよく言われました
お互いに共有して一緒に楽しみたいんだよと伝えてる。
でも「分からないものは分からない」と突っぱねられて険悪な雰囲気になるので諦めた。
・意見がないのではなくあなたの求める正解がわからないのです、最初は無理やり捻り出してたはず
・ワーキングメモリ不足で前提情報の保持が困難です、毎回定義の宣言してもいいくらい
フレーム問題と似ていて相手の予想する範囲を都度予想するのですがまあ上手いことハズします
彼「テンキー?」
・不意に話しかけらると「窓のそばにいる」というだけではそれが前提条件にはなりません
手間かもですが空を指す、見上げるなどのジェスチャーを添えれば助かると思う
なぜなら感性が死んでて文脈読む能力が低すぎて会話にならないから。
・こちらからすれば回避不可能罰ゲームありノーヒントウミガメのスープという地獄です
なぜ毎回こちらが察するコストを払う前提の話をするのかとすら思います
それでも私のことは大事らしい。
・なので言葉でなく行動で示しているつもりなのです
・ふんわりした誘導は諦めてください、即時性を求めるなら議論の内容を明確に宣言する必要があります
たぶん私が本当に助けを求めたら専業主婦でいいよって言ってくれると思う。
ちなみにセックスは付き合ってる年数の半分はしてない。
・まあ大体そうなります、彼氏さんから声掛け出来る雰囲気ではないでしょう
まじでトップコメみたいな感じで食事中も無言だからテレビとか間が持つものがないとしんどい。よって外食はしない。
・食事は食事する時間という認識なので交流タイムという発想自体がないはず、ここもきちんと教育しましょう
そうやって自分が好きなことについて話してくれるのって嬉しいから、
彼にもそうしてほしいなって思うのって、恋人同士のコミュニケーションとしてそんなにわがままかなー。
・彼はセルフモニタリングができません、してもらってるからこっちも、なんて高度な芸当はあきらめましょう
彼はあなたが上手いこと反応してくれるその努力を一ミリも理解していないはず
おすすめは「俺のターン」と宣言してターン制にして交互に吐き出すこと
その際、話者にいい感じのリアクションを一切期待しないこと、壁打ちだと思ってただ吐き出す
自分がされたいことならまず相手に提供してみるものだと思ってそうしてた。もうしてないけど。
・あなたの努力がうまくて自然に見えてるだけ、意識して頑張ってるとはツユにも思ってないはず、言い聞かせろ
一緒にいる時間を双方向的に楽しもうって歩み寄る姿勢も見せてくれないのって悲しいよ。
・多分彼氏さんの趣味を蔑ろにしてませんか?あるいはそれが無意識に透けて見えるとか
相手の思惑は読めないが機嫌の良し悪しを読むことには人一倍長けているはずなので
なので全ての会話があなたの顔色を窺って意を決して行う一大事になってしまっている
ブコメにもあったけど向こうの家族とか職場ではどうしてるんだろうってのは私も気になってる。
なんてことない日常会話、雑談を「あなたと」したいだけ。映画がつまんなければつまんないことについて話したいし外でご飯食べればお皿綺麗だねーこれなんだろねーとかさ。
・趣味の話ならできるってことは、あなたとのそういう会話が苦痛になった経緯があるはず
ありがとうとごめんなさいが素直に言えるのは本当に良いところ。
・残念ながらこれはもう間違いなくパターン学習の賜物でしかないと断言出来る
この彼氏があなたが許せるタイミングでこれらを上手に吐けるはずがない
こういうタイプは安定するとほぼ増長するんですが、そうなってないのはあなたの努力の賜物です
しかしナチュラルに他人を逆撫でしては裏切ってしまう人種なのです
残念ながらこの溝が埋まることは決してありません
あなたがたにもうまくいく運用方法が見つかればいいなと思います
当時、増田界隈では鬼滅の刃がヒットした理由を考察する日記が流行ってました。
遅ればせながら便乗しようと思った次第です。
その有名作がなぜヒットしたのか? ですが、一般的な答えがあります。一つ目は、作品自体の面白さです。
日記中の引用にあるように、「読み手の感情をどれだけ動かせたか?」「生き物同士の心の交流、繋がり、触れあいをどれだけ描けているか?」がポイントになります。
残り一つは外部環境です。鬼滅の刃だと、ちょうどコロナ禍の頃に映画が完成したうえで、ほかに競合相手がいなかったことです。世間の人気を掻っ攫うことができました。
参考までに、『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』という書籍にあるのですが、ヒット作品というのは、一定以上のクオリティがあるうえで、後は純粋に運であることがわかっています。
私も実は、若い頃に「小説家になろう」に投稿していました。柔道をメインに扱った教師ものでした。
特定ジャンルではランキング上位に入れたのですが、異世界転生や俺TUEEEE!!ジャンルの足元にしか及びませんでした。
今では、どうしてウケなかったのかを理解できます。当時は自分の描きたいものを描くので精一杯でした。
例えば、作中において人間同士の愛情の繋がりの描写が薄かったのは間違いありません。なろうで流行っているジャンルではなかった、というのが一番大きいですが。
この場を借りてプチ自慢ですが、私の小説の設定が『もういっぽん!』という柔道漫画で使われていました。作者のオリジナルとして昇華されたうえで。
私が作った教師キャラと同じ名前、同じ設定の人物が2023年放送の同アニメで名前を呼ばれた時、びっくりした思い出があります。
この当時、ニコニコ動画やYouTubeにおいて、ネズミなど哺乳類が惨たらしく殺される動画や、
昆虫や魚介類を捕獲して面白半分に実験したり、トドメを刺した後に調理するタイプの動画が流行っていました。
ニコ動の例だと、農場犬が畑内のモグラを食い散らかす動画や、ピラニアの水槽にラットを落として食べさせる動画などです。
YouTubeだと、ヘビフロッグさんやホモサピさんやおーちゃんねるがやりたい放題やってました。
私個人としては、生き物の命をいたずらに奪う動画が好きではありません。はっきりいって嫌いです。
ちょうどこの日も、ヘビフロッグさんの動画を拝見して、おそらく嫌な気持ちになっていました。その時の憤慨を日記にしました。
やはり、その、害獣だろうと昆虫だろうとSAKANAだろうと、命はたいせつなものだと思うのです。
株式投資のエントリを一度書いてみたいと思いました。それがこの日記です。
投資をやってみたいけど、最初は何をすればいいのか、そもそも投資をすべきなのかわからない――そんな人に向けて書きました。
株式に限らず、投資というのは長い経験が必要です。その中で、自分にあったジャンルや手法を身に付けていきます。人の数だけ正解があります。
いま初心者の方に言わせていただくとしたら、①まずは有名本を2~3冊読んだうえで、②つみたてNISAやiDeCoから始めて、③次は自分が好きな商品を作っている会社の株を買い、④さらに興味が出たら仮想通貨まで含めた専門銘柄に挑んでみるのがいいと思います。
なお、信用取引やFXに代表されるレバレッジ取引は、ここでは投資に含めません。
あれは投機です。続けていれば、長期的には必ず一文無しになるゲームです。
30才前後の頃はまだ、先に述べたように京都市内で地方公務員をしていました。
理想と現実の間には耐えられましたが、自分はこのままでいいのか、30代半ばになったらもう転職はできない、今決めるしかないのでは? といった焦燥と戦っていました。
結局、転職活動をすることにした私は、転職エージェントに登録しました。新卒で入った会社がリクルート(求人情報誌の営業)だったので、リク系以外がいいと思ってワークポートに登録しました。
選択できる道筋は、思ったより多くありました。数は相当少なかったです。苦戦しました。
その中でも、半年ほど粘り強く私に付き合ってくれたエージェントの方に今でも感謝しています。
最後は、公務員生活で身に付けたスキルを活かせる会社に送っていただきました。
公務員が民間に転職するコツですが、最初は行政折衝や申請事務など、行政経験を活かせる仕事がいいと思います。いったん民間で経験を積んだ後であれば、それ以外の民間企業に進む道が開けます。
国家公務員や現場で働く専門職であれば、地方自治体の事務系に比べても転職しやすいと思われます。
なお、作中に出てくる転職成功者ですが、そういった方々の中で、私が特に知っている人を選びました。
公務員→民間というルートを歩まれた方を少なくとも四人以上知っています。
この頃は、ニコニコ動画の楽しみ方がわからなくなっていました。
ニコ動が迷走期に入って相応の年月が経っており、変わり映えのしない動画サービスにうんざりしていたこともあります。
もっと早く、ドワンゴがランサムウェアに感染していたら、ニコ動もユーザー離れを防ぐことができたのではないでしょうか。ハッカーに感謝を、と言いたいわけではありません。あくまでタイミングです。
何人かの利用者から、よさそうな意見をいただくことができました。
コメントをいただいた方、本当にありがとうございました。
私の実妹が主役です。
私の妹というのは、今にして思えば発達障害というやつだと思います。
ASDとかADHDとか、私に診断する資格はありませんが、そういう傾向があったのは間違いありません。
空気の読めないところや、運動が苦手なところ、集中が続く分野が限られるといった特徴がありました。
ただ、彼女は私などに比べると相当マジメで、頑張り屋さんでした。勉強は一生懸命やってましたし、学校の成績も学年で一番でした。
しかし……生来のドンくさいところ、要領の悪さが災いして、第一志望の大学に不合格でした。合格圏内にはあったようなのですが。
私と同じ大学に行くのが、心の底では嫌だったのかもしれません。第二志望以下の大学に行くことになりました。
そんな妹が苦しんでいたのは知っています。私も妹も、大学には実家から通っていましたので。
私は途中から下宿になりましたが、彼女の頑張りは知っています。苦しい中でも努力を重ねていました。
社会人として経験を積んだ彼女は、仕事ができる風のオーラを身に付けました。凛々しい雰囲気だったのを覚えています。よりによって、私の新卒時と同じ会社に入社しました。なんでやねん😭😭😭
部落解放運動が盛んな地域であり、大人になって知りましたが、ぶっちゃけ被差別部落でした。
集落の中央には、それなりの河川が流れていて、鬱蒼とした竹林が茂っていました。住宅改良や道路・河川工事の痕跡が露わです。
全国部落地名総鑑なる書籍にも、私の生まれ故郷の大字がバッチリ書いてあります。
その頃、いわゆる隣保館において、解放同盟が主催する学習事業がありました。
その時に聞いた解放同盟の設立の話や、子どもながらに地域単位でそういった政治活動(役場の前でメーデーやデモをする)に参加したことがあります。
あの頃、私たちのことを主導していた解放同盟の人や、旧社会党のメンバーの方々がどんなことを話していたのか、自宅にはどういうタイトルの書籍等があったかなど、じわじわと思い出しながら当日記を執筆しました。
みんなからアイデアを募るタイプの投稿、大喜利系のものを読む機会がありました。三大○○など。
私もやってみたいと思い、増田やブクマカの皆さまから意見を募りました。
今生きている日本語という観点から、本歌取りの意味ではなく、元ネタになったコンテンツという意味で「底本」を使っています。
同じ公務職場の、大人数の飲み会でした。広い居酒屋を貸し切っての若手主体の飲み会があったのです。
その会に参加中、座敷でチビチビとチューハイを飲んでいたのですが、真後ろから壁越しに公務員女子がガールズトークをしてました。
その時に聞こえた話です。とある女子職員がいて、意中の男性がいたのですが、気持ちに気付いてくれなくて、アタックすらされなくて「悔しい~( ;∀;)」というのが要約です。私がよく知ってる女子職員でした。
その子のことを、ほかの公務員女子がヨチヨチする恰好で慰めていました。あれこそが真のケアーなのではないかと感じました。
当時は、まだギリギリ二十代でした。女性にとっての恋愛の重みがわかっておらず、「へえ、そういうものなんですね~('ω')」と聞き流していました。
ただ、時間が経つごとにそういう恋愛事が気になっていき……この体験は、男女にとっての恋愛観の違いを考えるいいキッカケになりました。
こちらも公務員時代の話です。当時はふるさと納税の黎明期でしたが、一部の市町村や政令市、県庁クラスはすでに参加を決めていました。
私が勤めていた役場にも、地域を盛り上げるような名称の部署があって、とある女性職員が配属されました。日記の主人公の子です。
この子は、正直仕事ができる子でした。高校を出て数年しか経ってないのに、地域おこし事業の事務事業の担当者になりました。
女の子が事務だけやっているとかではなく、上司の方からキッチリ権限をもらっていました。
その道のコンサルタントであるとか、営業会社であるとか、京都を盛り上げるための○△協議会の役員級の人とか、いろんな人がその部署の窓口に行くのですが……彼女がサシで来庁者を相手にしてました。
※日記中の「ふるさと納税」はフェイクです。地域おこし・地域づくりというジャンルは同じです
そんな彼女ですが、事務事業の関係でシステム周りの契約をしていた会社の元請けコンサルに引き抜かれる格好で、転職することになりました。
引き抜きというのは、あくまで弊庁の中での言い方です。断じて不審な転職ではありませんでした。同期であるこの子の影響を受けて、私は転職を考えることになりました。
彼女の上長の人ですが、相当憤慨していました。「あの会社は指名停止。総務部に言うとく。ほかの自治体にも、一応国にも情報共有した方がええわ。やっとくから」と発言しています。
========================================
増田は1ページにつき25件表示です。
私のホームでは17ページ分あって、短文や返信コメントを除くと12ページ程度。
12*25≒300本が投稿数です。実際、この中で二千字以上でフィルタすると、約150本が残ります。
残り150本は? と聞かれると、自分でもよくわかりません。発言小町やYahoo!知恵袋や、Quoraなど、
私が投稿している他サイトの流用物とか、大喜利ネタとか、皆さまへの短文質問とか、そういうものと存じます。
ブックマーク数は……? と気になったのですが、当方エンジニアではないため正確なカウントができません。
ところで、「本当にあなたが書いたの?」という疑問はあると思いますが、「いや、これは私が書いた」という人が出てこないことを証明材料としてください。いざとなったら、日記本文を編集することで証明します。
========================================
ストーリーはありふれたもので正直感想という感想はない。そうは言ってもお料理綺麗だよねとか、あそこの演出効いてたねとか、ドラマの時から見てたキャラクターが成長してて良かったね、とかまあ、視界に入ってたら何かしたら湧いてくるものはある(よね?)。けど彼にはそれが全くない。
概して感性が死んでる。でも性根は優しいので、私は心の中で道徳が搭載されたロボットと呼んでる。
今日で言えば上のような言葉を投げかけても返ってくるのは全部、本当に全部「うん!」(返事はいい)。共感も反論も深化も昇華もない。一人で観に行ったのと変わらない。なんなら感想ブログ読み漁ったほうが有益すらある。
このやり取りは映画に限らず、アニメを見ても出先で評判の良いお料理を食べても誕生日に手の込んだ料理やケーキを作っても旅先で美しい景色を見ても全部そう。
糠に釘打ち暖簾に腕押しを体現したような反応しかない。これぞ打てば響く!というような心からのシンパシーを感じられることがほとんどない。せっかく一緒にいるのに悲しい。
もちろんそれなりの年数いるので、お互いに共有して一緒に楽しみたいんだよと伝えてる。
ド理系の人で国語が苦手だとは自分で前から言ってたので、感じ入るものがあっても表し方が分からないだけかもしれないと思い、何につけてこちらの感想をことさらに伝えてみたり、「どんなところが美味しいと思った?」とか聞いてみたり、何か引き出せないか努力した。でも「分からないものは分からない」と突っぱねられて険悪な雰囲気になるので諦めた。
ちなみにコンテクストの理解にも乏しい。彼氏とのやり取りでイラッとしたことメモから数例抜粋する。
1
私「板蕎麦の板ってなんだろうね」
2
私「天気どう?(彼が窓際にいたので聞いた)」
彼「テンキー?」
ちょっとした聞き違いとかで済ませられない頻度でこんなことが一緒にいる間に絶えず起こるのはさすがに疲れる。
だからこの冬休み一緒にいるけど、3フレーズ以上組み合わさった言葉を3往復以上した会話をしてない気がする。なぜなら感性が死んでて文脈読む能力が低すぎて会話にならないから。
それでも私のことは大事らしい。私が欲しいって言えば大抵のものはたぶん買ってくれるし、日常の買い物においてお金に糸目はつけない。今日は「(私ちゃん)が乾燥しちゃうから」と言って新しい加湿器を買ってた。一応言うと私は何も言ってません。
一緒にいるときの事を友だちに話すと引かれるくらい執事のように尽くしてくれる。毎朝も私が起きる前に豆から挽いたコーヒーを淹れてくれた。
本当に私自身が大事だからなのか、彼が元来持つ他人に向ける優しさを受け取ってるだけなのかはよく分からないけど…。
でも私は、何でも買ってくれる彼氏より執事のように尽くしてくれる彼氏より、一緒に映画館で映画を観たあとにサイゼリヤで、そもそもフランス料理ってなんだろうね、イタリア料理との比較は〜とか話してたらいつの間にか2時間くらい経ってたって人と人生を過ごしたい。
でも世間はつまらない男ほど結婚向きだと言う。実際彼はメンタルも経済面もめちゃくちゃ安定してて、たぶん私が本当に助けを求めたら専業主婦でいいよって言ってくれると思う。
ちなみにセックスは付き合ってる年数の半分はしてない。この文章も彼氏が隣でいる横でせっせと打ってる。話してもつまらないから。このままじゃ人とまともなコミュニケーションとれなさすぎてバカになりそう。
随分前から彼に対する違和感と自分が求めてるものとの齟齬に気づいてたのに、これまで築いた思い出と提供される快適な環境に甘えて全て捨てきれる勇気がなくてここまでずるずる来てしまった。
来年はどうなるかな〜。
ストーリーはありふれたもので正直感想という感想はない。そうは言ってもお料理綺麗だよねとか、あそこの演出効いてたねとか、ドラマの時から見てたキャラクターが成長してて良かったね、とかまあ、視界に入ってたら何かしたら湧いてくるものはある(よね?)。けど彼にはそれが全くない。
概して感性が死んでる。でも性根は優しいので、私は心の中で道徳が搭載されたロボットと呼んでる。
今日で言えば上のような言葉を投げかけても返ってくるのは全部、本当に全部「うん!」(返事はいい)。共感も反論も深化も昇華もない。一人で観に行ったのと変わらない。なんなら感想ブログ読み漁ったほうが有益すらある。
このやり取りは映画に限らず、アニメを見ても出先で評判の良いお料理を食べても誕生日に手の込んだ料理やケーキを作っても旅先で美しい景色を見ても全部そう。
糠に釘打ち暖簾に腕押しを体現したような反応しかない。これぞ打てば響く!というような心からのシンパシーを感じられることがほとんどない。せっかく一緒にいるのに悲しい。
もちろんそれなりの年数いるので、お互いに共有して一緒に楽しみたいんだよと伝えてる。
ド理系の人で国語が苦手だとは自分で前から言ってたので、感じ入るものがあっても表し方が分からないだけかもしれないと思い、何につけてこちらの感想をことさらに伝えてみたり、「どんなところが美味しいと思った?」とか聞いてみたり、何か引き出せないか努力した。でも「分からないものは分からない」と突っぱねられて険悪な雰囲気になるので諦めた。
ちなみにコンテクストの理解にも乏しい。彼氏とのやり取りでイラッとしたことメモから数例抜粋する。
1
私「板蕎麦の板ってなんだろうね」
2
私「天気どう?(彼が窓際にいたので聞いた)」
彼「テンキー?」
ちょっとした聞き違いとかで済ませられない頻度でこんなことが一緒にいる間に絶えず起こるのはさすがに疲れる。
だからこの冬休み一緒にいるけど、3フレーズ以上組み合わさった言葉を3往復以上した会話をしてない気がする。なぜなら感性が死んでて文脈読む能力が低すぎて会話にならないから。
それでも私のことは大事らしい。私が欲しいって言えば大抵のものはたぶん買ってくれるし、日常の買い物においてお金に糸目はつけない。今日は「(私ちゃん)が乾燥しちゃうから」と言って新しい加湿器を買ってた。一応言うと私は何も言ってません。
一緒にいるときの事を友だちに話すと引かれるくらい執事のように尽くしてくれる。今朝も私が起きる前に豆から挽いたコーヒーを淹れてくれた。
本当に私自身が大事だからなのか、彼が元来持つ他人に向ける優しさを受け取ってるだけなのかはよく分からないけど…。
でも私は、何でも買ってくれる彼氏より執事のように尽くしてくれる彼氏より、一緒に映画館で映画を観たあとにサイゼリヤで、そもそもフランス料理ってなんだろうね、イタリア料理との比較は〜とか話してたらいつの間にか2時間くらい経ってたって人と人生を過ごしたい。
でも世間はつまらない男ほど結婚向きだと言う。実際彼はメンタルも経済面もめちゃくちゃ安定してて、たぶん私が本当に助けを求めたら専業主婦でいいよって言ってくれると思う。
ちなみにセックスは付き合ってる年数の半分はしてない。この文章も彼氏が隣でいる横でせっせと打ってる。話してもつまらないから。このままじゃ人とまともなコミュニケーションとれなさすぎてバカになりそう。
随分前から彼に対する違和感と自分が求めてるものとの齟齬に気づいてたのに、これまで築いた思い出と提供される快適な環境に甘えて全て捨てきれる勇気がなくてここまでずるずる来てしまった。
来年はどうなるかな〜。
世の冷めきった既婚者はこんな感じの年末年始を過ごすのが普通なの?
タイトルがキツすぎたからとりあえず柔らかめな言い方にした。あとグランメゾン叩かれすぎ笑った。会話のない時間潰すためにうってつけなだけだから何でもいいんだよ。映画は話の要点じゃない。
まじでトップコメみたいな感じで食事中も無言だからテレビとか間が持つものがないとしんどい。よって外食はしない。
というか彼みたいな人って結構いるんだな。彼側視点のコメントはかなり興味深い。
自分の興味のある分野について饒舌になるのはそう。そうやって自分が好きなことについて話してくれるのって嬉しいから、私は詳しくなくても向こうが話してくれる中からとっかかりを拾って話広げて会話にする。
趣味の用具を買いに行きたいって言うならついて行って何に悩んでるのか、これはどんな時に使うのか聞いてみるとか。
自分が好きなことについて話せて聞いてもらえるのって嬉しいよね。
だから、私が話題そのものにさして興味ないのを知ってても「あなたとの話だから」乗る私の姿勢を受け取って彼にもそうしてほしいなって思うのって、恋人同士のコミュニケーションとしてそんなにわがままかなー。
自分がされたいことならまず相手に提供してみるものだと思ってそうしてた。もうしてないけど。
ちなみに嬉しかったことメモもあるよ。あと冗談とか言えないタイプだからツッコミ待ちはない。
自分はこういう人間なんで・興味がないんでってコミュニケーションを打ち切って、一緒にいる時間を双方向的に楽しもうって歩み寄る姿勢も見せてくれないのって悲しいよ。
別に四六時中喋りたいなんて思ってないけどさ、「今日こんなことがあってねー」から始まる会話もままならない、全く聞いてもこない、話せたかと思ったらトンチンカンな応答って普通にキツくない?ブコメにもあったけど向こうの家族とか職場ではどうしてるんだろうってのは私も気になってる。
なんてことない日常会話、雑談を「あなたと」したいだけ。映画がつまんなければつまんないことについて話したいし外でご飯食べればお皿綺麗だねーこれなんだろねーとかさ。
友だちとやれとか調べれば分かるだろとか言ってるのはまじで的外れすぎ。
なんで付き合い始めたのかは長すぎてもう忘れたけど、人に優しくて、男性にありがちな常に優位に立っていたいっていう謎な上から目線が透けて見える点が全くないし、ありがとうとごめんなさいが素直に言えるのは本当に良いところ。だからこそ違和感に気づくのに遅れたもあるけど。
ここまで総叩きかとは思ったけど、こちらの心情も分かってくれるブコメもあって救われた。暇すぎて投下しただけで今後については今のところ特に考えてない。というか読まれすぎてびっくりした。みんなも暇なの?
なんかちゃんとした成果を出して、他人にひけらかさないといけない、と思うから駄目なんだよ
というか、そんなの趣味じゃないよ
趣味ってのは、もっと他人にいちいち説明しなければならないとか、趣味がないと恥ずかしいとか、そういうんじゃないんだよ
なんか知らんけど、注文待ってる間にナプキンの裏にガンダム描いちゃうとか、
マルーン5のThis Loveの最初のdimコードカッコイイ!とか、なんか自然なものなんだよ
釣りが趣味の人だって、釣りをしよう!と思って釣りしてるっていうより、自然と身体が釣りに向かってるんだよ
気が付いたら機材を買って、気が付いたら出かけてるぐらい、自然なことなんだよ
単純に将来への希望が持てないし、自分が健やかに平和に暮らせるビジョンも見えない。
今はまだ若いし、趣味もあるし、仕事もある。だがこれが40代、50代になったらどうだろうか
考えるだけで悪寒がしそうだ。
自分は恋愛経験がないので、将来家庭を持つビジョンが見えない。子供が嫌いなので子供を持てるとも思えない。そもそも結婚できそうにない。
マッチングアプリを始めようと思ったけど、そこに至るまでのハードルが高い。あんなん基本実家暮らしのこどおじなんて門前払いを食らうだろうし、そもそも自分の顔が、女性が一緒に隣を歩いてくれるのに耐えうる顔面に設計されていない。
というより、恋愛に掛けられるお金や時間がない。服装には気を使っているつもり(ユニクロだけど)だが、それはあくまでも「周りに不快感を与えずに年相応の格好をするため」であって、女性に好かれるコーデではない。そんなものは知らない。
他人に気を遣うのが疲れる。恋愛弱者なので、女性へのアプローチの仕方が分からない。何か失敗したらどこかで晒されて愚痴られ話のネタに昇華されるのに耐えられない。というかそもそも、自分が他人を幸せにしてあげられるビジョンが一切見えない。十中八九、傷つけて終わりだと思う。
そんなわけで、こんな世の中だし、まともに恋愛をするのは諦めた。それでなんでそんなに金と時間がないのかというと、自分が地下アイドルや女性声優に現実逃避をしているからだ。彼女らとはあくまで客と演者の関係だし、気を使わなくて済むし、無難な服装・言動等をして社会的な常識から外れなければあちらも文句を言ってくることはないからだ。(イベント会場とか行くと文句の一つも言いたくなるであろうオッサンは多いけど)
接近現場を重ねていくうちに彼女らに顔と名前を一致してもらえて認知され、自分の色んな事を知ってくれて会話が盛り上がったり、ファンレター・プレゼントを出して疑似恋愛を体験している。彼女らが九州や関西でライブ・イベントをすることがあれば遠征し、旅行をしている気分になる。
現実の一般女性と恋愛するより、全然疲れない。まさに理想のビジネスモデルだ。
しかしそんな関係は長くは続かない。彼女らは30代、早ければ20代後半には「ご報告」をする。そのたびに自分は、また何もしないまま時間だけが流れてしまったな、と自責の念、後悔、将来への絶望に打ちひしがれることになる。
今度は更に年下のアイドル・声優に乗り換えることだって可能かもしれない。でもそうしたところで、自分の「延命治療」をしているに過ぎない。彼女らがまた30代に近づくと、いつ来るか分からない「死刑宣告」に怯えながら過ごすことになる。そしてまた10代後半の新人アイドル・女性声優に乗り換えていく。こんなことを繰り返して自分の一生は終わっていくのだろうか?
勘違いしてほしくないのは、自分は彼女らと結婚したいわけではない。そんなプライベートな関係になったら、先ほども言ったように疲れる。
客と演者の関係だから気を使わなくて済むのに、そこを超えたら一気に面倒くさくなる。そうなりたくはない。だから、疑似恋愛が一番、幸せなのだ。
だが、これではいけないとマッチングアプリを始めようとするが、20代の貴重な若々しくてスタミナも有り余る時期を女性声優・アイドルに費やしてきた時間とお金はもう戻ってこない。一人暮らしの経験がないから生活力がない。オタク同士の飲み会しか行かないから、内輪ノリでしか盛り上がれない。貯金もほとんどない。
女性声優やアイドルには出演作品の感想・Twitterで見たあの写真が可愛い、あの時のイベントが楽しかった、そんな会話ばっかしてるから一般女性と何を話したらいいのか分からない。故に会話が絶望的につまらなくなる。
前に、友人に「女の子紹介してよ」と冗談交じりに何度か言ったことがあるが、進展はなかった。「こいつに紹介する価値はない」と思われている。
趣味ではなく仕事に打ち込むだとか、一人で完結する趣味(例:釣り、盆栽、ソロキャンプ)を始めるという手もあるが、なんか、そこまでして生きたくない。自分自身のプライドが思ってる以上に高いのだろうな、と自己分析している。
自分は、確かに仕事に打ち込もうと思えばこの業界のたくさんの資格を取って、勉強して、今の職場でたくさんの実績を作って、それを武器にどんどん上流の企業に転職して、技術者になっていく。学歴もあんまり重視されない業界だから、叩き上げで上り詰めることだって可能かもしれないが、そんなのは机上の空論で実態は平日の昼間にこんな増田を書いているのだから自己成長なんてできるわけがないと肌で感じている。
一人で完結する趣味を始めようにも、そこに手を出す好奇心・探求心はもう失われてしまった。恋愛に手を出さないのと同じかもしれない。新しいことを始めるのに疲れてしまった。フットワークは重い方ではないが、それは今の趣味の中だけの話であって、今から全く未知の業界に飛び込む気力がもうない。深夜アニメを見れなくなったオタクみたいなものだ。
このまま歳を重ねていくと、そのうち「自分じゃなくて社会が悪い」「女が憎い」とか言い出すモンスターになってしまうのではないか、と不安になる。そうなる前に早く消えてなくなりたい。しかし、唯一恩があるとすれば、やはり両親だ。自分より先に息子に旅立たれるのは、やはり想像し難い辛さがあるだろうから、そこに迷惑はかけられない。幸い、姉には子供がいる。孫の顔は見れているのだから、自分はいなくてでもいいだろう。
現状、自分は「国が悪い!国のせいだ!」とか言い出すモンスターにはなっておらず、死ぬ前に社会に復讐してやろうとかは考えていないので、大人しくひっそりと旅立ちたいものである。母親は今50代前半。平均寿命からいっても、あと20年近くは生きないといけないのかもしれないが、自分で自分の人生に区切りをつけるというのは、ある種のモチベーションになりうる。それを糧に、もうちょっとだけ、アイドルや女性声優に現実逃避をしていこうと思う。
――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――
---
- 貴方の"怨み"と"対象"を共有し、共感の元に怨縁が生まれる。
- 「ヤツが許せない!」そんな想いを抱える者同士が集う場所。
- 怨みを"言葉"に変え、"呪詛"へと昇華。実行までの進捗管理も可能。
- 復讐のプロセスを冷静にデータ化。「進行度グラフ」で可視化する機能あり。
🔗 「怨友機能」:
- ユーザーからの「呪いのアドバイス」「共感リアクション」で呪詛加速。
---
1. 「笑顔に亀裂を走らせる呪法」
「ランチに誘われない。それが何か?**私の分の呪詛弁当**を持参してるから。」
「彼女が私の知らない男と歩く姿を見た。次はその影を踏む呪いを……。」
---
---
---
🌒――――――――――――――――――――――――――――🌘
マリーとの破局よりもピアニストとしての活動を選び、欧州中をわかせていたリストだったが(何しろリストの風呂の残り湯を飲もうとして待機しているファンがいるとかいうレベルである)、1847年にポーランドの大地主の娘であり、キエフの軍人ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーヌに出会う。コンサート・ツアーでリストがキエフに来ることを知ったカロリーヌ(別居中)は、娘の誕生日のためという名目でリストを招待し(誕生日に大スターを招待できるというわけでだからどのくらいのレベルの金持ちかがよく分かる)、急速に二人は深い関係になっていく(意味深)。リストはピアニストとしての活動を打ち切り、カロリーヌと一時の同居生活を経たあと、48年からヴァイマールの宮廷楽長としてカロリーヌと共に腰を落ち着けることになる。カロリーヌは長い訴訟を経て婚姻無効を勝ち取るが、リストとの結婚は認められなかった。ちなみに、カロリーヌは博覧強記で雄弁な人だったらしく(リストの多くの作品にも口を出している)、あのワーグナーが引くほどだったということである。カロリーヌの身分を巡る微妙な問題に加えて、音楽界の動向的にもリストはドイツに居づらくなり、約10年で宮廷楽長を辞任する。つまりリストの「中期」は短い。宮廷楽長になったことで、オーケストラ作品が多く書かれるようになった一方、新規のピアノ曲はこの時期にはあまりない。大スターの座を捨てて半分隠退生活に入ったようにも見える。しかし、この時期こそが作曲家としてのリストが確立する重要な時代である。前期の作品の少なくない曲(巡礼の年やパガニーニ練習曲もそうだ)はこの時期に改訂され、より演奏効果は高まり、内容も充実することになる。
リストの代表作の一つ。この時期に改訂を経て完全版になった。長年の改訂を経て磨きに磨き抜かれた。
この曲集の決定的な録音はウラジーミル・オフチニコフ(EMI)だろう。どの曲も非常に質が高く、穴がない(この練習曲集は多彩な技巧のデパートなので、どこか苦手なものが出るのが常)。が、残念ながら入手性は悪い。世間的に有名なのはラザール・ベルマン(Melodiya)で、新旧二種類あるが、新版(1963年)が気合いが入っている。ただ、キンキンとぶっ叩くような録音で、そこまで好きにはなれない。横山幸雄(SONY)は録音も良く、やはり穴も少ない。特に第5番「鬼火」の演奏が素晴らしい。
2. パガニーニによる大練習曲 S.141(1851年出版)
1840年出版のパガニーニによる超絶技巧練習曲の改訂版。元々の第4曲は単音アルペッジョになり大分おとなしくなったが、それ以外の曲については、難易度を落としつつ、同等以上の演奏効果を発揮できるようになった。第3番「ラ・カンパネッラ」はここで非常に完成度を上げて今の形になった。
40年のパガ超と違い録音は多い。有名なのはアンドレ・ワッツ(EMI)だと思う。昔図書館で借りて聴いたことがあるがどれも安定の演奏。その他だとフィンランドのピアニスト、マッティ・レカリオ(Ondine)の激烈な演奏があるが、残念ながら廃盤で入手困難(Naxos Music Libraryにはあったかな?)。フィリペツのパガ超のCD(NAXOS)にも入っており、これまた大変安定した演奏で、パガ超と合わせてフィリペツを聴くのがいいだろう。あと、「ため息」で紹介した福間洸太朗(アコースティカ)のCDにも入っている。これも大変安定していると思う。
(追記)レカリオはNMLにもiTunesにあった(Raekallio Lisztででてくる)。YouTubeにもあった。https://www.youtube.com/watch?v=SkuWa2HDk58&list=OLAK5uy_kN6U4dNkOzK4Cv1DZfZDWoidTcP7yPxr8
ピアノソナタが量産されていたのはベートーヴェン(32曲)までの時代であり、19世紀半ばにはピアノソナタは落ち目のジャンルであった。一方、気合いの入った大曲を書く時にピアノソナタという古典的様式を敢えて選ぶことはその後もあり、ショパンやリストのソナタはその例だろう。リストのソナタは、単一楽章という異例の様式だが、単一楽章の中で多楽章形式の要素とソナタ形式(提示部・展開部・再現部)の要素を融合させ、しかも一つの動機(冒頭のタッタラ~タ~ララ~タラララ~というつかみ所のないアレ)によって全体が統一されているという極めて斬新で前衛的な曲だった。そのため当時はよく言って賛否両論といったところで、現在ではリストの最高傑作の一つとして評価されている。
リストの最高傑作であるからして録音も非常に多く、推薦音源を挙げるのは難しい。取り敢えずクリスティアン・ツィメルマン(Deutsche Grammophone)の演奏が端正であり、技術的にもハイレベルで良いと思う(難所でタッチが浅くならず、深く充実した響きが聞こえるのが良い!)。ぶっ飛び系なので好みは分かれると思うが、カティア・ブニアティシヴィリ(SONY)の演奏をよく聴いている。
なお、この曲と関連する重要作品としてスケルツォとマーチ S.177がある。面白い曲だが泣く泣く割愛した。デミジェンコ(Hyperion/Helios)が良い演奏している(ソナタや「伝説」とカップリング)ので聴いてほしい。
4. バラード第2番 ロ短調 S.171 (1854年出版)
ショパンは1832年にパリデビューし、特にサロンでの繊細な演奏で女性たちの心をわしづかみにした。リストもショパンの演奏に狂った一人である(またかよ)。リストはショパンのことを友人と思っていたが、ショパンの方は割と適当にあしらっていたという話もあり、リストの片思いだったのかもしれない。ただし、ショパンは練習曲作品10をリストに、作品25をマリーに献呈している。つまりリスト夫妻にショパンの練習曲は捧げられたわけで、結構親しい関係にあったことが分かる。リストはショパン死後にショパンの本を書くくらいにショパンには思い入れがあり(最近新訳が出た)、弟子にもショパンを弾けと言っていたようであるが、作曲面でもポロネーズやバラードなど明らかにショパンの影響と思われる様式の曲を書いている。中でもバラード第2番は大変な傑作で、冒頭の重苦しい主題が終盤にロ長調になって戻ってくるところは本当に感動的である。
これまたあまり推薦音源が思いつかないが、アンスネス(EMI)のCDがかなり良かった覚えがある。前期で出したノンネンヴェルトの僧房も入っている。
(追記)スティーヴン・ハフ(Hyperion)がポロネーズやバラードを全部録音しているのを思い出した。ピアノソナタとカップリング。あとショパン弾きで有名なネルソン・ゲルナー(レーベル覚えてない)の演奏がもの凄く良かったと思うのだが、どこで聴いたか・・・(この曲はショパン弾きにこそ弾いてほしい!)。YouTubeに動画をあげまくってCDデビューしたヴァレンティーナ・リシッツァがベーゼンドルファーを使って弾いている動画がある(収録風景?https://www.youtube.com/watch?v=1Qdr3Uvs09o;コンサート https://www.youtube.com/watch?v=uBs4jtWMBj8)。97鍵もあって低音がアホみたいに響くから重たいが、この曲には合っている。ただCD(持ってない)でそこまで迫力があるかな?
(再追記)ゲルナーあった!(https://www.youtube.com/watch?v=m90vsN3SjvM)配信もあるのかな。
トムとジェリーで有名なハンガリー狂詩曲もこの時期に改訂が終わって現在の形になっている。リストが採録しているのはハンガリー(マジャール)ではなく、ロマの音楽なのだが、リストは、ロマの民謡を素材に使ってハンガリーの民族叙事詩を作り上げようとしていた(それがバルトークのようなマジャール人からはドイツ人が勝手なことやりやがって・・・という風に見えていたわけだが)。どの曲も重々しいラッサンと華やかなフリシュカという二つの舞曲的なパートから成り立っていて、構造的に単純で、しかもピアニスト時代のようにド派手で豪快な曲が多く、リスト入門に良いと思われる。
ミッシャ・ディヒター(Phillipes)が全曲では有名だと思う。ハンガリーでリストの再来とされていたかのシフラ・ジェルジの録音もあったはず。第2番はホロヴィッツ編曲版を弾いているスルタノフの爆演が好き(https://www.youtube.com/watch?v=_BFalOtwUy8)だが、スルタノフを聴くと大概の演奏が物足りなくなるおそれがある。残念ながらスルタノフは若くして亡くなってしまった。ホロヴィッツ編曲版ではない場合、第2番はカデンツァを挿入する部分があるので、独自のカデンツァが見物になる。その点で一番に言及しなければならないのは我らがスーパーヴィルトゥオーゾのアムラン(Hyperion)で、アルカンの大練習曲 op.76の引用が入り3分以上続く頭のおかしいぶっ飛んだカデンツァだ。日本公演の映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=pIMzL2-4bjg/8:30あたりから)。あとは自作のジャズ・カデンツァを用いて全体にやる気がみなぎるデニス・マツーエフ(BMG)、ラフマニノフのカデンツァを使用し爆演系のレオニード・クズミン(Russian Disc)がお勧め。ただしクズミンのCDは廃盤・倒産で入手困難であり、今後他社からの再発が望まれる。
第15番「ラコッツィ行進曲」は何よりもホロヴィッツ本人のいかれた演奏を聴くべきだろう(古い音源なので検索すればすぐ出てくる)。音質は悪いが、聴く価値がある。昔ホロヴィッツ編曲版にチャレンジしている勇者を見つけていたく感動したことを思い出した(https://www.nicovideo.jp/watch/sm10176725)。
なお、15番以降19番までハンガリー狂詩曲はあるが、晩年様式なのでこれ以上は紹介しない。
リストはドイツの宮廷音楽家として、新ドイツ派(当時のドイツにおける管弦楽の停滞(と彼らは考えていた)を問題視し、ロマン主義音楽の再生を志す人々)の頭目的な存在だった。そのため、同じような立場にある人々、特に売れっ子とは言い難かったワーグナーの作品を積極的に上演・紹介したのだが、40年代以降ピアノ編曲もいくつも作っている。リストの最も有名なワーグナー編曲は「トリスタントとイゾルデ」の終曲(愛の死 S.447)だが、自分はタンホイザー序曲が単独では最上の作品だと思う。何よりも前期のオペラ編曲もの同様、豪壮無比な超絶技巧を聴かせてくれるのが良い。
ちなみにリストの次女コジマは夫のハンス・フォン・ビューロー(ワーグナーにとっては恩人)を裏切ってワーグナーと不倫し、リストは激怒する(後に和解)のだが、自分もマリーやカロリーヌにやらせていたことだ。
タンホイザー序曲の録音は意外とない。ユーリ・ファヴォリンの気合いが入った演奏(https://www.youtube.com/watch?v=xJYkouNnuwo)が一番良いのだが、CDは手に入りにくい(一応、ヴァン・クライバーンコンクールでの演奏があるらしいのだが・・・)。スタジオ録音が望まれる。前期作品の時に名前を挙げたロルティ(CHANDOS)も美しいが、技巧的には前者が圧倒的。実は、ワーグナー本人もピアノ編曲を作っているが(https://www.youtube.com/watch?v=KdXPFBcP1bQ/カツァリスのCD「ワグネリアーナ」に入っている)、リストの編曲と比べると一目(耳?)瞭然、どちらが音楽的に充実しているかは明らかである。
30~40年代から書かれている曲だが、やはり最終版になったのはこの時期。もっとも早く書かれた「死者の追憶」(第3稿第4曲)を聴くと、非常に調性が曖昧な曲で、30年代から既に晩年の様式が準備されていたことが分かる。第3曲「孤独の中の神の祝福」はリストの敬虔さが音楽に昇華された隠れた傑作。アムランが好んでおり、2回も録音している(ノルマが入っているMusic & Arts盤とソナタや「補遺」がセットになっているHyperion)。
この曲の中で最も有名なのは、第7曲の「葬送――1849年10月」だろう。非常に暗い曲だが、タイトルが指す通り、ハンガリー革命で奮闘し、鎮圧され死んだ人たちのための追悼音楽。
全曲では先のユーリ・ファヴォリンが録音しているが、筆者は未入手。配信で聴けたかと思う。どうでもいいことだが、デミジェンコのライブ録音(Hyperion/7番のみ)を聴くと、明らかに鼻歌で歌っていて面白い(グバイドゥーリナのシャコンヌでも結構はっきり聞こえる)。
宮廷楽長としての生活の中でリストの前期作品の多くが音楽的に充実されたが、音楽界での軋轢や劇場でのトラブル、カロリーヌの身分を巡る問題で長くは続かなかった。そろそろ次の時代に進もう。
追記:
前期のところに、ベートーヴェンの交響曲のピアノ編曲についてのコメントがあった(anond:20241212215414)。
リストはベートーヴェンの交響曲を全曲編曲しているが、初版出版は1865年で、時期的には後期にあたる。ただし、3、5-7番の編曲は1837年には出来ており、個別に出版されていたようだ。リストはピアニスト時代からベートーヴェン作品の布教に熱心に取り組んでおり、その一環として作られた。ボンのベートーヴェン記念碑の建設のために多額の資金を提供したりもしている(ちなみに同様に寄付を呼びかけるためにシューマンが作曲したのが「幻想曲 ハ長調」だ)。
はー、グダグダと要領を得んことを言ってるがそういう持って回ったしょーもなさは最近のアニメにそっくりやんな。
つらつらと抽象的な文句書き連ねるより一番ビシッと意図が伝わるのがリスペクト作品列挙や。
ちなみにワイも最近はアニメみとらんな。ハルヒらきすたからアニメ遍歴が始まった気がするわ。
ワイが考察とか思想とか語りたくなった(実際5chとかに書いてた)比較的最近のアニメは、新しくとも10年代のもんやけど、サイコパスとか、ガッチャマンクラウズとか、まどマギとか、ダイナゼノンとか、ラブライブ無印~劇場版とか、宝石の国とか、アルドノア・ゼロとか、バビロンとか、回復術士とか、OBSOLETEとかそのへんやな。
でもワイの中でアニメは、君の名は。に頭をぶん殴られて以後の記憶がほとんどないわ。
オリジナルアニメだと、イドインヴェイデッドとか、オッドタクシーとか、デカダンスとか、よりもいとか、カバネリとかも、頑張ってた印象はあるけどイマイチ癖に刺さらなかったわ。
頭からっぽで見れるコメディ枠で好きやったのはてさぐれ部活もの(ほぼ声優ラジオ)とか、あそびあそばせ、ポプテやおそ松も悪くなかった気がするわ。
でもそのへんから何も見てないわ。
多分、そのへんからアニメよりも、リアルタイムに進展していく運営型ゲームのシナリオに魅了されることが多くなっていったからやろな。
昔からシュタゲみたいなPCノベルゲーに感動させられることは多々あったけども、10年代半ばくらいから運営型のスマホ・ブラウザゲーで十分見られる映像表現を伴いつつ良いシナリオ展開してくれるアプリゲームにしょっちゅう遭遇してたんよ。
メーカーでいうとWFS、オーガスト、サイゲ、それから決定的だったのが原神以後のmiHoYoですわな。いや崩壊3rdも初期から遊んでていいシナリオ作ってると思うけどね。
まあ中華ゲーはあまりにも壮大で長期計画すぎるのとローカライズが微妙にわかりにくいのとあってアニメや国産ゲーで得られる感動の質とはちょっと違うけども、それを補って余りある総合芸術的な巧さがあるから普通にポロポロ泣けてしまうんよ。
アニメ見てて泣くことってそんなになかったんやけど、運営型ゲームってのは年数かけて積み重ねてきた展開の重みや関係性の昇華があるわけやから、数ヶ月で終わるアニメには真似できんのよ。
一期一会の傍観者にすぎんアニメや映画とちがって、ゲームのシナリオ体験には長年付き合い続けた自分の人生がレイヤーのように混ざっとるからね。
もうワイはアニメに戻れない体になっとると思うわ。
いろいろ設定がうまくなくていちいち引っかかる
この後の展開は謎の黒い影の正体がわかって主人公の恋も昇華しておわり、くらいかな
主人公の兄の恋人だった男が、生前は男の家族に婚姻関係を認めてもらえず葬儀にも参加せず、妹である主人公から骨を譲り受けて家に写真とともにおいてあり
一方で墓が近所にあり、中は空っぽだけど花を備えて死んだ恋人に祈る…
というシーンだが墓はそんな安い買い物ではない
恋人だった男は作家業で、困らない程度に金はある設定なのかもだけど
恋人が闘病してて長くないと知り、二人のための墓を買うっていうのも、個人的にはなんだかなと思う
いずれ死が見えた時に愛する人の墓なんか買ったりする?まあでもピラミッドに古墳に、生前本人が墓を用意すること自体はおかしくはないのか
なんというか話を通して死に関する諸々がフワフワのエア感
作者は若いのだろうと思った
夜中に抱えるような悶々とした気持ちはスポーツなり自己表現なりで発散・昇華出来るのかもしれないけど、200km/hのスピードを感じたい気持ちは200km/hの風をこの身で受けなきゃ満たされない。淫語絶叫したい気持ちも淫語絶叫でしか発散し得ない。
原因不明の苛立ちや漠然とした焦燥を吐き出すワンノブゼムの銃口でなく、極めて明確な形で欲求が存在する。
でもやはりどんな衝動的な欲求も同じ燃料で燃えていて、同じ何かに向かって燃え上っている感じもする。
サッカーに打ち込むにせよ、キャンバスにぶち撒けるにせよ、ギターの音に乗せるにせよ、そういうのはいずれにしてもある程度の鍛錬をしなきゃ中々満足に出来もしない。
ある種のセオリーに則った細かな身体操作をある程度無意識に行えるレベルにまで持っていくまで鍛錬しなければ、頭の中を漂うモヤつきを満足に燃焼させられない。それが上手く行かないと、逆にフラストレーションすら溜まる。
そんなまどろっこしい真似よりも、叫んだり走ったりした方が手近に違いない。最もフィジカルで最もプリミティブというやつだ。
能力的には今すぐにでも出来るからこそ、それをしたいと思った時には、同時に確固たる欲求になっているのかもしれない。替えが効かない、効かせる必要もないのだから。
絶叫してえと思った時にはもう絶叫しねえと気が済まなくなってる。しかし集合住宅に住んでいて、そこを出ても逃げ場のない住宅街が延々と続くときたら、社会性がそれを躊躇させる。内発的には「恥」として、外発的にはまあ近所迷惑か何かとして。
実にもどかしい。
叫ばせてくれよマジで。絶叫してえだけなんだよこっちは。
どうにもままならないんで、絶叫は諦めて走り始めた。
青春アニメみたく衝動に身を任せて走ったら一瞬で心肺が限界になった。爽快感もない。
Youtubeで適切なフォームを調べて、スマートウォッチで適度なペースもキープする。衝動の湧かない日もコツコツ走る。少しずつ速さも距離も伸びていく。まだ心の荒ぶりに身を任せて走るには程遠いが。
赤坂アカがヒキが下手なのは、単純にラスボスを倒すところと作品のゴールを一致させられないからだ。
最初は殺したいほど憎い何かを設定するのだが
なにが何でも、自分を犠牲にしてでもそいつを倒す!という方向に全力を向けられなくなってくる。
ゴールを決めていたというから最初は「おそらく今回こそはのつもりは刺し違えてでもラスボスと戦う」がやりたかったのだろう。
実際に、今回は一番うまく行きそうだった。
当初の設定ではカミキヒカルは本当にラスボスとしてよくできた設定になっていた。
「推しの子」であるアイに過剰で自分本意な愛をおしつけ、それが受け入れられないと逆上して殺す。
あんまりちゃんと描かれなかったがゴローちゃんはカミキヒカルになるリスクは高かった。
彼の幼少時の病んだ設定などはそのつもりで描いていたと思われる。
ゴローちゃんはアイだけじゃなくサリナというもう一人の推しの子がいたから狂わずに済んだだけだ。
ゴローちゃんがカミキヒカルをもっと深く理解しようといていたら、
あるいはカミキヒカルがアイに固執するあまりサリナを殺そうとしていれば
ちゃんと殺し合ったうえで、二人がそれぞれの思いをお互いにぶつけ合うことができた。
少なくともペルソナ4ではそういう展開を見事に描いていた。
なぜ推しの子はできそこないのペルソナ4になってしまったのか。
サリナちゃんとルビーが完全に同一人物でないことを上手に作品中で消化できなかったことは厳しかった。
それ以上に、映画製作編において、カミキヒカルが何のリアクションも起こさず待ちだったことが意味不明だ。
映画によってカミキヒカルを引きずり出す、という話なのはわかるが
「制作発表」をしている時点で、もっと早い段階でカミキヒカルは介入してくるべきだった。
映画が無事すんなりと制作されて、あっさりふたりとも死んで、もう制作完了してるから映画が放映されました、はさすがに無いわー。
キャラを愛しすぎるがゆえに、カミキヒカルを倒さなくてもなんとなく幸せになってしまう。
こいつを倒さないと絶対に先に進めないということがなくなってしまう。
それどころか、サリナの母親みたいにカミキヒカル以外にあれこれ設定してしまうせいで
しかも映画制作が順調に進みすぎてもうカミキヒカルに言いたいことが全部劇中の映画で昇華されてしまった。
じゃあもう、殺し合わなくてよくね?
アクアは死ななくても良くね?
せいぜいゴローちゃんの部分が消える=記憶喪失にでもなって助かるとかしないとダメじゃね?
ちょっと自分が生きづらいからと軽々と病気や障害といったワードを使わないで欲しい。
いやいいんだ、それで心が軽くなる人もいるだろうから。
「自分は発達だから色々失敗するのも仕方ない」とか「軽い鬱になってるから今日の寝坊はしかたない」とか
そんなので前向きになれるなら嘘でも思い込みでもいいと思う。
ただ、思うだけにしてほしい。
人に話さないでほしい。
というか私に話すのをやめてほしい。
人の苦労話を聞くたびに、貴方より私の方が苦労していると思ってしまう自分がとても嫌で、人に優しくなれない自分が嫌いだ。
苦労を人に話すことで心のわだかまりを昇華させる作業、誰にだって必要だと思う。
ただ、それに私を使うのをやめてほしい。