はてなキーワード: チャレンジとは
「パワハラがあったとの確証までは得られなかった(なかったと断定するものではない)」とする兵庫県の内部調査が公開されたニュース記事のヤフコメで
より客観性の高い百条委員会のアンケートにまで不信感を持っている人らが
「兵庫県職員アンケートは無記名でURLさえ知っていれば誰でも複数回答可能だった!」とか
「実際にパワハラを受けたと言う職員はおらず伝聞ばかりだった!」とか書いてて笑える
確かに無記名で複数回答可能な上マークシートではAをチェックしたのに自由記入欄に別途ABCD書いてたりするので
当初マスコミが報道してた職員の何人が~とか何%が~とかいう指標は当てになんねーけど
中身をちゃんと読んだら「これは本当にパワハラを受けたと感じて書いてるな」ってものは相当数あるぞ?
そして匿名回答可能なだけで記名回答されたものもあるしネットのように複数回答不可能な郵送の回答もある
これらは本人に話を聞けば裏が取れるし相応の覚悟を持って回答したものと言っていいだろう
自称情強の皆さんは兵庫県議会のHPから読めるんだから当然元ソースを読んで判断してるんだよね?
https://web.pref.hyogo.lg.jp/gikai/iinkai/index/tokubetsu/bunsho/index.html
「Q7:知事のパワハラについて」の回答のうち「記名」かつ「A:目撃、経験等により実際に知っている」の中から
自分がこれは伝聞だから"B:目撃、経験等により実際に知っている人から聞いた"だろうとか
長すぎて引用するのは大変だが中略するのも違うよなと思ったものを省いてピックアップする
元ソースでは無記名の回答でもBやCの回答でもガチっぽいのは多いし物足りないと思うなら元ソースを読んで楽しもうぜ!
中間報告(https://web.pref.hyogo.lg.jp/gikai/iinkai/index/tokubetsu/bunsho/documents/060823_2.pdf)
記入方式 "記名"
回答 "A:目撃、経験等により実際に知っている"
●●●●●在任中、本県と●●●●●●●●との「空飛ぶクルマ」実現に向けた連携協定締結式(R5.1.24)の事前説明の際(締結式の1週間ほど前)に知事室に入るなり、
その日の読売新聞で報じられた本県の空飛ぶクルマ関連の新規事業について、内容は知事了解済みのはずなのに、「なにこれ」「聞いてない」「空クルは知事直轄。勝手にやるな」と厳しい口調で叱責された。
着座も許されず「やり直し」と言われて退出を余儀なくされた。●●●●●●●●●●の●●●●が同席(知事秘書1~2名が陪席と記憶)
渡瀬文書P9下から二行目~P10一行目に関し、私は令和5年10月12日の知事レクに同席していました。私の記憶では以下のとおりです。
地元住民2名が原告となり、養鶏事業者と兵庫県を被告とした損害賠償等請求訴訟の経緯を●●●●●●から説明。
原告が●●●●●に対し、訴訟に参加する機会を与えるための訴訟告知(R5.9.20付け)を行ったこと、(県は当事者ではないが、)
養鶏事業者が●●●●●を相手とした行政訴訟が却下(R5.9.12付け)されたことなどを説明中に知事から次のような指導があった。
知事「こんな話を今聞かされるのか。なぜ●●●●●●は報告に来ないのか。」
丹波県民局としては、訴訟に関しては随時情報を入れるよう指示があったにもかかわらず、直接県に関わるものではないと判断し、直近の情報を報告出来ていなかった、と理解した。
昨年10月12日に丹波県民局の地域づくり懇話会のレクがあり、●●●●●の養鶏事業者の公害問題に対する県の対応を●●●●が説明したが、
養鶏事業者が市に対して行った改善命令処分取消請求訴訟と、住民から訴えがあった公害等調整委員会の原因裁定の判決の状況の資料を見て、
知事から「こんな話は聞いていない。訴訟の動きは知事に入れるのは当たり前だ。そうだろう」との叱責があった。
その際●●●●●●が、「そうですね」と発言したところ、「そうですねではないだろう」と強く叱責された。
昨年7月24日の定例会見の項目レクの際、はばタンPAY+の資料を添付したが、それを見た知事から舌打ちの音と大きなため息があった。
その後、「何が悪いか分かるか」と言われたが、思い当たる節がなかったため黙っていると、●●●●●●が「顔写真とかメッセージですか」との発言あり、その発言を聞いた知事から、
「この事業は知事の肝いりの事業なのに、写真やメッセージがない。●●●●を呼べ」と指示があった。
秘書課職員が●●●●に電話したが不在だったため、代わりに●●●●●●が知事室に来ることになった。
なお、そのころは知事も少し落ち着いていたので、報道にあるように「お前じゃだめ」のような発言はなかった。
知事が●●●●●●に「このうちわはすでに印刷済みか」と尋ね、●●●●●●は「すでに印刷済みだが、追加で発注する」と回答。
知事から、「これは私の肝いりの事業だ。顔写真やメッセージといったものを入れてほしい」と指示があり、●●●●●●が「チラシ等には顔写真等が入っているので、うちわにも入れる」と回答した。
昨年10月31日の定例会見の資料レクの中で、●●●●●●うまいもんフェアの資料を説明したが、知事から「●●●●●●の●●とお店で面談する件はどうなったんだ。
フェアの開始前にPRする場として、営業時間前にセットできないか」との質問があった。所管である流通戦略課から「営業時間前は従業員がバタバタ用意しており、難しいと言われている」と回答したところ、
知事から「知事がせっかくPRするんだ。開店準備はわかるが、どこか隅のテーブルでできるだろう。2時間3時間もいるわけではない。PRしてほしくないのか、今後関係を考える必要がある」との叱責があった。
なお、●●●●●●側は、この件より以前に知事と社長との面談をセットしていたが、知事の都合でドタキャンされたので心証を悪くしており、このような対応になったとのうわさを聞いている。
令和4年度、淡路の佐野運動公園において、オリンピックメダリスト等による「淡路スポーツチャレンジ」と題した子供たちのスポーツイベントを計画課が開催した。
当時当方は●●●●●●●であったが、子供たちに地産地消の大切さと、日本伝統の発酵食品のすばらしさを知ってもらおうと、そのイベント中で淡路島食材を使った発酵食品の試食を企画した。
当日、知事が会場入りし、計画課職員が控室(施設の更衣室をあてがった)へ誘導したが、控室で県民の方1名が偶然着替えており、
それを見た知事から「なぜ他の人がいるのか」との叱責があり、急遽別の部屋を控室にあてることになった。
また試食について、知事がメダリストの方々と一緒に食べていたので、ほっとしたが、その後秘書課から、試食の味噌汁等が冷めており、知事にあんな冷たい料理を出すのは失礼だと怒っていると聞いた。
※控室の部分の話は直接叱責を受けたという証言で秘書課伝いのクレームは伝聞だけど何様やねんという私怨が入って面白い
中間報告以降ネット回答分報告(https://web.pref.hyogo.lg.jp/gikai/iinkai/index/tokubetsu/bunsho/documents/060823_2.pdf)
記入方式 "記名"
回答 "A:目撃、経験等により実際に知っている"
2021年8or9月
尼崎の港湾用地を万博の駐車場にする見込みとの新聞報道を受け、●●●●が知事室に呼び出され、「聞いていない」と机をたたいて指導された。
令和3年9月27日(県会代表質問の日)、神戸新聞に尼崎西宮芦屋港の港湾計画長期構想が掲載されたことについて知事室に呼び出され、「聞いてない」と机を叩いて激怒された。
また、代表質問に合わせた悪質なリークと勘違いされ(●●●●●から知事室前廊下で、「誰がリークしたのですか?」と問われる)、「こんな事は許さないんだよ」と再度机を叩いて激怒された。
誰かが謝らないと収まらない雰囲気となり、●●●●が謝罪してその場を納めた。
記事に対する県会質問対応のため再入室した際に、長期構想については昨年度に協議会を開催してパブリックコメントを行い、
2023年4月24日(月)に知事が外国人を引率して福祉のまちづくり研究所を視察することが、21日(金)の夕方に知事の発案で決まった。
知事は●●として国際課の●●●●●の同行を求めたが、当人は24日は知事も出席する別の会議の●●用務があり、知事が退出して視察先に向かったあとも、会議の進行上、●●として残る必要があった。
このことを国際局幹部が知事に説明した際、知事は「彼女は知事の●●。知事がいない会議の●●を続ける必要はない。その会議の主催者に●●を手配させろ。」とかなり厳しく叱責されていた。
当日に●●を手配できるはずもなく、結局国際課の●●●●●は知事退出後も●●を続けるほかなかったため、同幹部はひたすら謝っておられたが、県が協力した会議全体の都合も考えず、
急遽突っ込んだ自分の用務を優先し、かつ職員を「自分の●●」と言い切ってしまわれたのには驚いた。
理不尽な叱責とご自分の都合を優先される姿勢に疑問を感じたが、叱責を受けた方がパワハラと受け取られたかどうかはわからない。
・令和5年度に県立美術館で開催された「●●●●●●●展」の記者内覧会(●●●●●●●の3人が出席)は、
知事の強い希望で知事出席行事となったが(記者向けの内覧会であり、通常、館として知事に出席を依頼するような行事ではない)、
「記者内覧会の実施日は知事の予定に合わせること(決定後の日程変更は不可)」
「●●●●●●●と一緒に写真が撮りたい」「●●●●●●●の楽屋を訪問したい」「●●●●●●●の曲に合わせて自分が踊る姿を動画SNSで発信したい」など、
※Perfume展だと言われています(https://x.com/motohikosaitoH/status/1700131488736653714)
郵送回答分報告(https://web.pref.hyogo.lg.jp/gikai/iinkai/index/tokubetsu/bunsho/documents/bunsho_questionnaire1011_02.pdf)
記入方式 "記名"
回答 "A:目撃、経験等により実際に知っている"
・令和3年度、知事室における知事協議で、私はパワーハラスメントと感じる知事からの言動を受けました。
・協議内容 県選出の国会議員に対する、本県から国への提案に関する資料
・協 議 者 ●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
・私がパワハラと感じた知事の発言があったのは、その協議の冒頭においてです。
資料の協議前に、東京での国会議員説明会の開催予定日時について知事がご存じない状況でした。(本来その日程は秘書課から説明されるべきものでありました。)
・秘書課が作成していた日時等に関する資料は少し古い時点のものでそこから日程の変更が入っていたのですが、●●●●の判断でその資料に基づき、変更があった個所は口頭で説明されました。
・その口頭修正に知事は激高されました。約3年前の話なので詳細に一言一句まで正確かは分かりませんが、以下の発言であったと記憶しています。
「誤りのある資料を知事に見せるとは、どういうことか!」「誰やと思っているんや!知事やぞ!」「知事は忙しい中、時間をとっているんだ。ちゃんとしろ!」
・その発言に対する私の感想です。秘書課の作成した資料の誤り(正しくは時点が古いだけ)は微細なものであり、●●●●の口頭での修正説明で事足りる内容と考えられるものにも関わらず、激高された姿に衝撃と、強い恐怖を感じました。
・そして、斎藤知事に意見をするのは幹部職員の方であっても難しいだろうなという印象を強く持ちました。ちなみに井戸前知事は些細なことで激高することは私の記憶ではなく、
私のような若い職員が意見しても耳を傾けてくれた姿と対照的な印象を持ちました。これではとても率直な議論などはできないだろうと思いました。
・「知事!」という言葉を何回も繰り返し発言されたことにも、強い違和感を覚えました。
・執務室に戻った●●と●●に話をしたところ、「いつものことなので」という感じであまり意に介していませんでした。逆に頻繁に知事に接しているお二人の反応を見て、これが日常であることに怖さを覚えました。
なので、お二人にとってはパワハラとは感じていない気がしますが、ほとんど知事室に入ることのない私にとっては、非常にショッキングで、パワハラと感じた事案です。
・知事就任後に、●●●●●●●●●●●●●●●●●●●が学校から持って帰ってきたココロンカード(県内小・中学生全員に配布し、カード提示により美術館・博物館等の観覧料が無料となる)を家に持って帰ってきたときに、
カードに井戸敏三の記名があるのを見て激怒し、教育委員会関係者を呼んで叱責した話を、●●の●●●●●●からの引き継ぎの際に聞いた。
ココロンカードは毎年度、新小学1年生全員に配布(転入者には予備を配布)し、子どもはそれを中学校卒業まで使用するため、最長9年間同じカードを使うことになり、前知事の記名のカードであってもやむを得ないことである。
しかし、斎藤知事の指示により、●●●●●●●●を務めた令和5年度の2月補正で約250万円が予算計上され、ココロンカードのデザイン・サイズ変更という名目で、
令和6年度当初に小・中学生すべての学年に斎藤元彦の記名入りのカードを再配布することとなった。
法的な課題があるわけではないが、既に配布しているカードを知事の名前を変更したいという理由(公にはしていない)で再配布することは、知事権力の濫用であり、税金の無駄遣いと感じた。
※最後のは伝聞だからBだろと思ったが個人的に好きなエピソードなので紹介する
前知事への私怨もしくは自己顕示欲のために税金をかけてやることが小さすぎる…
デザインを変更するにしても本来は予算がかからないように新規発行分からの変更で十分だろう
(デザイン変更のソースはこちら→https://www2.hyogo-c.ed.jp/hpe/shakyo/project/kokoron)
身長169cm体重68kg体脂肪率25%の醜い肉体を改善しようと思い通いました。
座った姿勢で行うベンチプレスが20kgしか上がりませんでした。
ベンチプレスの重量はある程度体重に比例すると聞きましたので愕然としました。
もしかしたら自分の腕力は小柄な女性のそれと変わらないかもしれません。
そして、30kgにチャレンジした瞬間の「あっ、これは全く上がらない」という確信が私をさらに憂鬱にさせました。
筋トレは勉強と同じように、才能の別なく、程度差はあれどやれば着実にステップアップできる積み上げ型のものだと仄聞していましたが、この時その通説を全く信じられなくなりました。
腕力に関して自分がステップアップする未来が全く想像出来ないのです。
次にレッグプレスという種目をやりました。
レッグエクステンションという種目も45kg×10回を3セットできました。
恐らく平均的な水準なのではと思います。
レッグカールというものもやりましたが重量は覚えていません。なぜか、ふくらはぎにばかり効いて(吊りそうになるほど)ハムストリングに効いてる体感があまりありませんでした。
15時くらいになると若い人が増えてきてそこそこ混み始めました。
なぜか有酸素マシーンはガラガラで皆さん筋トレマシーンの周りにいました。
「スマホをいじるのは有酸素マシーンなら問題ないし皆やっていること。ただし筋トレマシーンを使っている時は絶対にNG」
と知ったのでそれを守っていたのですが、皆さん筋トレマシーンに座りながら長いことスマホをいじっていたのが意外でした。
座りながら休憩するスペースがトイレ以外ないジムだったのでもしかしたらそれが原因かもしれません。
自分にとってセックスが重要な要素じゃなくて良かったと心底思うよ
ここで言われているような苦しみ、悲しみ、絶望に無縁で済むからな…
そんなことないと言う人もいると思うけど、セックスだって飽きるんだよ
どんなことにも飽きは来得る
飽きなければラッキーかもしれないし、飽きたことによって他のものにチャレンジできるかもしれない
ただ変化を受け入れるしかない
anond:20241213001612の補足編(多分続くので1とした)である。
こんな話題に食いつく人などいないと思ったが、いたので嬉しい驚きだった。今回はコメントを見てみたいと思う。あとやっぱりヴィルトゥオーゾ系の曲はまた別に七選作ろうと思う。超絶とパガ超パガ大が別にあるとはいえ、演奏会用練習曲集1つとノルマの回想だけではさみしい。
前期のブコメ。ちょっと笑ったが、実はリストの両親のスペルはListである(マジ)。
ピアノソロ曲じゃないけど、リストのピアノ協奏曲第1番を聴くと過度にゴージャスでなんか笑えてくる。フリードリヒ・グルダのチェロ協奏曲を聴いたときの笑いに似た感じ。
トライアングル協奏曲(命名はリストの政敵エドゥアルト・ハンスリック)ねw スター時代の曲だが、実は循環形式を大々的に活用した野心作で、ピアノソナタ ロ短調の前段階にあたる曲の一つという。
今はやるのか。前期編でうかつに音楽史上の重要性はバッハやベートーヴェンに劣ると言ってしまったのだが、音楽史上重要な作曲家というのは、ナショナリズムが時代様式となった近代以降現在までの歴史認識の上で成り立っていることが多い。バッハが再評価されたのはドイツ・ナショナリズムの高揚なくしては考えられない。ベートーヴェンだってそうだろう(彼の曲にはフランス革命への共感という要素が強くあるが、一方でドイツ民族の古典の頂点とみられている)。リストはナショナリズムの歴史認識からは扱いにくい。リストが音楽史上最も評価されているのは新ドイツ派の旗手として、特に交響詩様式を確立させたことであり、紛れもなくドイツ・ナショナリズムの文脈だ。ピアノの表現技法を著しく拡大させたという点については、扱いが薄い。ピアノは楽器の王者だが、一方で知名度の壁を貫通して義務教育レベルまで到達してくるピアノ曲がどのくらいあるか。タールベルクをはじめとして同じような貢献をした19世紀のヴィルトゥオーゾたちの名前はピアノ史を詳しく調べなければ出てこない。
リストの両親はドイツ系だが、ドイツ・ナショナリズムに含めにくいオーストリア人※でしかも当時のハンガリー生まれ(ということはハンガリーではリストは少数民族になる)、生活はパリでフランス語話者とつかみ所がない。ショパンもパリで活躍したコスモポリタン的な人物でほとんどの曲がピアノ曲だが、生まれも育ちもワルシャワからそう遠くない近郊地帯といっていいと思う。何よりポーランド分割に憤り、ロシア皇帝のお誘いを断ってでも「亡命ポーランド人」であることを貫き通した生き様は、ナショナリズムの歴史認識に乗せやすい。彼の「革命」(op. 10-12)などが記憶されているのも多分にそのせいのはずだ。
※オーストリアを支配するハプスブルクの支配は多民族帝国(チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアetcの「民族の牢獄」と呼ばれた)なのでドイツ・ナショナリズムによる国家統一は不可能である。歴史上「大ドイツ主義」が挫折したのはそのせい。
そう言い出したので慌てて西園寺公望が止めたという話がありますけど本当なんでしょうかね。無理を言ってでも連れて来てくれれば、日本の音楽界も違ったものになっただろうになぁ。
巡礼の年イタリアはチョ・ソンジンが最高だった。ダンテで涙出た(リサイタルで聴いた)けど、音源は出してないんだ。。。/ロルティも好きです。
浜松ピアノコンクールライブの映像があるがやばい(https://www.youtube.com/watch?v=_nG3CyuNC00/このライブ録音のCDがほしい)。本当に15歳だったのかこの人(結果は優勝)。
有名なラ・カンパネラはパガニーニ練習曲に含まれる曲。改訂を経て、軽薄だけどわかりやすく演奏効果の高い第3稿を決定稿としたリストは時代を見抜く目があったと思う。
いつも見ております。おかげさまでピアノ協奏曲のオレイニチャク盤に巡り会いました。ありがとうございます。
※コメントしたアーノンクールこと「コスモピアニスト」氏はショパンとラヴェルのCDのレビューを大量にHPに書いている(https://www.asahi-net.or.jp/~qa8f-kik/index.html)。
ショパンの元カノとマリーとの関係をぜひkwsk(もはや音楽関係ない。いや、むしろ音楽性に影響があったとか?w) あの時代の作曲家界隈のドロドロネタで本が書けそうですね。
サロンにありがちなドロドロした人間関係の方がもはや興味あるの分かる。正直私にはちんぷんかんぷんなので誰かマリーに焦点当てた本書いてくれないか。
え?入れたけど
学生時代にエステ荘の噴水を弾いて大人になりローマ近郊のエステ荘の噴水を見に行きました ^_^ https://maemuki.hateblo.jp/entry/2013/01/26/005305
リンク拝見しました。10年以上前にこの記事読んでました。実はこの記事を読んで本格的に「エステ荘の噴水」に開眼しています。そんな人が逆に読んでくださって本当に嬉しい。
話題についていけないならとっとと負けを認めればいいのに
言及でついた※から。後者の下についてるコメント(前者の反論?)がいうように勝ち負けの問題ではないから好きにやれば良い。それよりたったこれだけしかないんですか? もっとあるでしょ。MIDI音源で作ってる人も含めて。ピアノ編曲の善し悪し含めて知らん奴に布教してくれたら最高や。
が言う通りだと思う。
リストは手が大きい。彼の曲は日本の小柄な女性ではいくら手を広げても弾けない曲がある。そしてその曲の美しさよ。どうやっても届かないあの美しさに悔しさと羨ましさで恍惚となってしまう。
ロルティやペトロフ、あるいはヴォロドスのようにその恵まれまくった体から繰り出される力強い響きと(特にロルティは)恐ろしく繊細な音色のコントロールを見ると確かにそうだなあと思う。でも、ノ・イェジンのように、小柄な体で「ノルマの回想」を弾いている人もいる(映像あった/https://www.youtube.com/watch?v=gostiJcVod4)。小柄な日本人女性ピアニストがリストの曲に果敢にチャレンジしている動画も結構ある。昔何かのコンクールでリスト編の「ギョーム・テル」序曲を弾き出した勇者がいて驚いたことがあったが、その人も女性だった(多分これだったかな?/https://www.youtube.com/watch?v=GRYLy8O3VIQ)。アムラン同様大変なテクニシャンであるスティーヴン・ハフも痩身小柄な体型をしている。何度かコンサートに行ったが「ダンテを読んで」では顔を真っ赤にして渾身の力で演奏していた。多分手や体が小さいなりにやれることはあるのだと思う。日本人が無理してドイツ人のような歌唱法を真似して喉を痛めるみたいな話を声楽をやっていた人から聞いたことがあるのだが、似たような問題なのかな。
(追記)
anond:20241213202638 で以下のような有難い指摘があった(リストがハンガリー人としての意識からLisztと綴ったという旨)。なるほどと思うと同時に、自分の話は出典が思い出せなかったので、消しておいた(できれば何か出典があると助かる)。
マジャル語ではszの綴りで/s/を表すので
単なるsはマジャル語で/ʃ/になるから。
Listだとマジャル語読みでリシュトになってしまう。
それと多分同じ人だと思うが、ハンスリックの上の名前はまったくの誤記で、こちらも感謝する。訂正しておいた。
(再追記)ウォーカーの本でしたか! ありがとうございます!!!
ニュアンス的にほぼ同じことを営業が言われてるのなら現実で見るからじゃない?
ちゃんと売上目標にコミットするのは大前提で営業は女上司のがいい気がするな。偏見だが
成績出せないやつは知りませんスタイルでも余計なことは言わなさそう。言っても晒しあげはしなそう。偏見だが
マリーとの破局よりもピアニストとしての活動を選び、欧州中をわかせていたリストだったが(何しろリストの風呂の残り湯を飲もうとして待機しているファンがいるとかいうレベルである)、1847年にポーランドの大地主の娘であり、キエフの軍人ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーヌに出会う。コンサート・ツアーでリストがキエフに来ることを知ったカロリーヌ(別居中)は、娘の誕生日のためという名目でリストを招待し(誕生日に大スターを招待できるというわけでだからどのくらいのレベルの金持ちかがよく分かる)、急速に二人は深い関係になっていく(意味深)。リストはピアニストとしての活動を打ち切り、カロリーヌと一時の同居生活を経たあと、48年からヴァイマールの宮廷楽長としてカロリーヌと共に腰を落ち着けることになる。カロリーヌは長い訴訟を経て婚姻無効を勝ち取るが、リストとの結婚は認められなかった。ちなみに、カロリーヌは博覧強記で雄弁な人だったらしく(リストの多くの作品にも口を出している)、あのワーグナーが引くほどだったということである。カロリーヌの身分を巡る微妙な問題に加えて、音楽界の動向的にもリストはドイツに居づらくなり、約10年で宮廷楽長を辞任する。つまりリストの「中期」は短い。宮廷楽長になったことで、オーケストラ作品が多く書かれるようになった一方、新規のピアノ曲はこの時期にはあまりない。大スターの座を捨てて半分隠退生活に入ったようにも見える。しかし、この時期こそが作曲家としてのリストが確立する重要な時代である。前期の作品の少なくない曲(巡礼の年やパガニーニ練習曲もそうだ)はこの時期に改訂され、より演奏効果は高まり、内容も充実することになる。
リストの代表作の一つ。この時期に改訂を経て完全版になった。長年の改訂を経て磨きに磨き抜かれた。
この曲集の決定的な録音はウラジーミル・オフチニコフ(EMI)だろう。どの曲も非常に質が高く、穴がない(この練習曲集は多彩な技巧のデパートなので、どこか苦手なものが出るのが常)。が、残念ながら入手性は悪い。世間的に有名なのはラザール・ベルマン(Melodiya)で、新旧二種類あるが、新版(1963年)が気合いが入っている。ただ、キンキンとぶっ叩くような録音で、そこまで好きにはなれない。横山幸雄(SONY)は録音も良く、やはり穴も少ない。特に第5番「鬼火」の演奏が素晴らしい。
2. パガニーニによる大練習曲 S.141(1851年出版)
1840年出版のパガニーニによる超絶技巧練習曲の改訂版。元々の第4曲は単音アルペッジョになり大分おとなしくなったが、それ以外の曲については、難易度を落としつつ、同等以上の演奏効果を発揮できるようになった。第3番「ラ・カンパネッラ」はここで非常に完成度を上げて今の形になった。
40年のパガ超と違い録音は多い。有名なのはアンドレ・ワッツ(EMI)だと思う。昔図書館で借りて聴いたことがあるがどれも安定の演奏。その他だとフィンランドのピアニスト、マッティ・レカリオ(Ondine)の激烈な演奏があるが、残念ながら廃盤で入手困難(Naxos Music Libraryにはあったかな?)。フィリペツのパガ超のCD(NAXOS)にも入っており、これまた大変安定した演奏で、パガ超と合わせてフィリペツを聴くのがいいだろう。あと、「ため息」で紹介した福間洸太朗(アコースティカ)のCDにも入っている。これも大変安定していると思う。
(追記)レカリオはNMLにもiTunesにあった(Raekallio Lisztででてくる)。YouTubeにもあった。https://www.youtube.com/watch?v=SkuWa2HDk58&list=OLAK5uy_kN6U4dNkOzK4Cv1DZfZDWoidTcP7yPxr8
ピアノソナタが量産されていたのはベートーヴェン(32曲)までの時代であり、19世紀半ばにはピアノソナタは落ち目のジャンルであった。一方、気合いの入った大曲を書く時にピアノソナタという古典的様式を敢えて選ぶことはその後もあり、ショパンやリストのソナタはその例だろう。リストのソナタは、単一楽章という異例の様式だが、単一楽章の中で多楽章形式の要素とソナタ形式(提示部・展開部・再現部)の要素を融合させ、しかも一つの動機(冒頭のタッタラ~タ~ララ~タラララ~というつかみ所のないアレ)によって全体が統一されているという極めて斬新で前衛的な曲だった。そのため当時はよく言って賛否両論といったところで、現在ではリストの最高傑作の一つとして評価されている。
リストの最高傑作であるからして録音も非常に多く、推薦音源を挙げるのは難しい。取り敢えずクリスティアン・ツィメルマン(Deutsche Grammophone)の演奏が端正であり、技術的にもハイレベルで良いと思う(難所でタッチが浅くならず、深く充実した響きが聞こえるのが良い!)。ぶっ飛び系なので好みは分かれると思うが、カティア・ブニアティシヴィリ(SONY)の演奏をよく聴いている。
なお、この曲と関連する重要作品としてスケルツォとマーチ S.177がある。面白い曲だが泣く泣く割愛した。デミジェンコ(Hyperion/Helios)が良い演奏している(ソナタや「伝説」とカップリング)ので聴いてほしい。
4. バラード第2番 ロ短調 S.171 (1854年出版)
ショパンは1832年にパリデビューし、特にサロンでの繊細な演奏で女性たちの心をわしづかみにした。リストもショパンの演奏に狂った一人である(またかよ)。リストはショパンのことを友人と思っていたが、ショパンの方は割と適当にあしらっていたという話もあり、リストの片思いだったのかもしれない。ただし、ショパンは練習曲作品10をリストに、作品25をマリーに献呈している。つまりリスト夫妻にショパンの練習曲は捧げられたわけで、結構親しい関係にあったことが分かる。リストはショパン死後にショパンの本を書くくらいにショパンには思い入れがあり(最近新訳が出た)、弟子にもショパンを弾けと言っていたようであるが、作曲面でもポロネーズやバラードなど明らかにショパンの影響と思われる様式の曲を書いている。中でもバラード第2番は大変な傑作で、冒頭の重苦しい主題が終盤にロ長調になって戻ってくるところは本当に感動的である。
これまたあまり推薦音源が思いつかないが、アンスネス(EMI)のCDがかなり良かった覚えがある。前期で出したノンネンヴェルトの僧房も入っている。
(追記)スティーヴン・ハフ(Hyperion)がポロネーズやバラードを全部録音しているのを思い出した。ピアノソナタとカップリング。あとショパン弾きで有名なネルソン・ゲルナー(レーベル覚えてない)の演奏がもの凄く良かったと思うのだが、どこで聴いたか・・・(この曲はショパン弾きにこそ弾いてほしい!)。YouTubeに動画をあげまくってCDデビューしたヴァレンティーナ・リシッツァがベーゼンドルファーを使って弾いている動画がある(収録風景?https://www.youtube.com/watch?v=1Qdr3Uvs09o;コンサート https://www.youtube.com/watch?v=uBs4jtWMBj8)。97鍵もあって低音がアホみたいに響くから重たいが、この曲には合っている。ただCD(持ってない)でそこまで迫力があるかな?
(再追記)ゲルナーあった!(https://www.youtube.com/watch?v=m90vsN3SjvM)配信もあるのかな。
トムとジェリーで有名なハンガリー狂詩曲もこの時期に改訂が終わって現在の形になっている。リストが採録しているのはハンガリー(マジャール)ではなく、ロマの音楽なのだが、リストは、ロマの民謡を素材に使ってハンガリーの民族叙事詩を作り上げようとしていた(それがバルトークのようなマジャール人からはドイツ人が勝手なことやりやがって・・・という風に見えていたわけだが)。どの曲も重々しいラッサンと華やかなフリシュカという二つの舞曲的なパートから成り立っていて、構造的に単純で、しかもピアニスト時代のようにド派手で豪快な曲が多く、リスト入門に良いと思われる。
ミッシャ・ディヒター(Phillipes)が全曲では有名だと思う。ハンガリーでリストの再来とされていたかのシフラ・ジェルジの録音もあったはず。第2番はホロヴィッツ編曲版を弾いているスルタノフの爆演が好き(https://www.youtube.com/watch?v=_BFalOtwUy8)だが、スルタノフを聴くと大概の演奏が物足りなくなるおそれがある。残念ながらスルタノフは若くして亡くなってしまった。ホロヴィッツ編曲版ではない場合、第2番はカデンツァを挿入する部分があるので、独自のカデンツァが見物になる。その点で一番に言及しなければならないのは我らがスーパーヴィルトゥオーゾのアムラン(Hyperion)で、アルカンの大練習曲 op.76の引用が入り3分以上続く頭のおかしいぶっ飛んだカデンツァだ。日本公演の映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=pIMzL2-4bjg/8:30あたりから)。あとは自作のジャズ・カデンツァを用いて全体にやる気がみなぎるデニス・マツーエフ(BMG)、ラフマニノフのカデンツァを使用し爆演系のレオニード・クズミン(Russian Disc)がお勧め。ただしクズミンのCDは廃盤・倒産で入手困難であり、今後他社からの再発が望まれる。
第15番「ラコッツィ行進曲」は何よりもホロヴィッツ本人のいかれた演奏を聴くべきだろう(古い音源なので検索すればすぐ出てくる)。音質は悪いが、聴く価値がある。昔ホロヴィッツ編曲版にチャレンジしている勇者を見つけていたく感動したことを思い出した(https://www.nicovideo.jp/watch/sm10176725)。
なお、15番以降19番までハンガリー狂詩曲はあるが、晩年様式なのでこれ以上は紹介しない。
リストはドイツの宮廷音楽家として、新ドイツ派(当時のドイツにおける管弦楽の停滞(と彼らは考えていた)を問題視し、ロマン主義音楽の再生を志す人々)の頭目的な存在だった。そのため、同じような立場にある人々、特に売れっ子とは言い難かったワーグナーの作品を積極的に上演・紹介したのだが、40年代以降ピアノ編曲もいくつも作っている。リストの最も有名なワーグナー編曲は「トリスタントとイゾルデ」の終曲(愛の死 S.447)だが、自分はタンホイザー序曲が単独では最上の作品だと思う。何よりも前期のオペラ編曲もの同様、豪壮無比な超絶技巧を聴かせてくれるのが良い。
ちなみにリストの次女コジマは夫のハンス・フォン・ビューロー(ワーグナーにとっては恩人)を裏切ってワーグナーと不倫し、リストは激怒する(後に和解)のだが、自分もマリーやカロリーヌにやらせていたことだ。
タンホイザー序曲の録音は意外とない。ユーリ・ファヴォリンの気合いが入った演奏(https://www.youtube.com/watch?v=xJYkouNnuwo)が一番良いのだが、CDは手に入りにくい(一応、ヴァン・クライバーンコンクールでの演奏があるらしいのだが・・・)。スタジオ録音が望まれる。前期作品の時に名前を挙げたロルティ(CHANDOS)も美しいが、技巧的には前者が圧倒的。実は、ワーグナー本人もピアノ編曲を作っているが(https://www.youtube.com/watch?v=KdXPFBcP1bQ/カツァリスのCD「ワグネリアーナ」に入っている)、リストの編曲と比べると一目(耳?)瞭然、どちらが音楽的に充実しているかは明らかである。
30~40年代から書かれている曲だが、やはり最終版になったのはこの時期。もっとも早く書かれた「死者の追憶」(第3稿第4曲)を聴くと、非常に調性が曖昧な曲で、30年代から既に晩年の様式が準備されていたことが分かる。第3曲「孤独の中の神の祝福」はリストの敬虔さが音楽に昇華された隠れた傑作。アムランが好んでおり、2回も録音している(ノルマが入っているMusic & Arts盤とソナタや「補遺」がセットになっているHyperion)。
この曲の中で最も有名なのは、第7曲の「葬送――1849年10月」だろう。非常に暗い曲だが、タイトルが指す通り、ハンガリー革命で奮闘し、鎮圧され死んだ人たちのための追悼音楽。
全曲では先のユーリ・ファヴォリンが録音しているが、筆者は未入手。配信で聴けたかと思う。どうでもいいことだが、デミジェンコのライブ録音(Hyperion/7番のみ)を聴くと、明らかに鼻歌で歌っていて面白い(グバイドゥーリナのシャコンヌでも結構はっきり聞こえる)。
宮廷楽長としての生活の中でリストの前期作品の多くが音楽的に充実されたが、音楽界での軋轢や劇場でのトラブル、カロリーヌの身分を巡る問題で長くは続かなかった。そろそろ次の時代に進もう。
追記:
前期のところに、ベートーヴェンの交響曲のピアノ編曲についてのコメントがあった(anond:20241212215414)。
リストはベートーヴェンの交響曲を全曲編曲しているが、初版出版は1865年で、時期的には後期にあたる。ただし、3、5-7番の編曲は1837年には出来ており、個別に出版されていたようだ。リストはピアニスト時代からベートーヴェン作品の布教に熱心に取り組んでおり、その一環として作られた。ボンのベートーヴェン記念碑の建設のために多額の資金を提供したりもしている(ちなみに同様に寄付を呼びかけるためにシューマンが作曲したのが「幻想曲 ハ長調」だ)。
不倫っていいことなのかという話なんだが、まず民法なんかでは不貞行為と言って違法なことになっている。
というか、結婚した以上配偶者以外と肉体関係を持ってはならないという「義務」がある。
だからルール違反の悪いことですよ、というのは一つの説明になるだろうが、「不倫が悪いこと」というのは「私にとって納得感のある不倫の良し悪しについての説明があるか」という問いであり、そこには法とか倫理とかそういうものではなく、「私が一番気持ちよくなれる回答チャレンジを開始します!」というものでしかないのでくだらねーなという質問でしかない。
そもそも様々な相手と肉体関係を持つことはいいことである、という文化の世界では不倫なんて言うものは成立しない(そんな文化があるかはしらないが)。
中世くらいまで遡れば、偉い人、強い人、尊敬を集める人というのは多くの相手を手に入れることができたのだから、こういう世界では不倫などという概念はなく、たくさんの相手を手に入れる強者と一生相手に出会うことはない弱者という存在しかいないことになる。
ではそんな彼らは「悪い人」だったのだろうか?「果たすべき義務を果たす人」でしかなかったはずだ。だから善悪という概念ではそもそも見ていなかっただろう。
女性が不特定多数の男性と肉体関係を持つ、男性が不特定多数の女性と肉体関係を持つ、ということに対して「善悪」であるとか「倫理」と言った尺度が持ち込まれたのは日本では明治時代だ。
このときに欧米のプラトニックラブという概念が持ち込まれ、そのときに「特定の相手以外と肉体関係を持つべきではない」という浅はかなルールのみが導入された。
明治以前はそうでもなかったのなら、不倫を開くと断じるもっと根源的で客観的な理屈はあるのかとなる。
そう考えるならば、「ない」が答えになる。
というかこういう質問をする人は「悪と(または善と)断じる理由がなくなるまで聞き続けるタイプ」でもある。
もうちょっと言うならば私はルールに従いたくないのでそれを正当化したいですが質問の意図でもあるが本人は絶対に認めないだろう。
「私はただ納得がしたいだけなの!」とさも探求しているふりをしているが正体は「私に一番都合のいい答えが来るまでひたすらのらくら交わし続けるからね!」でしかない。
おわり
最近は冷凍炒飯を覚えまして、在宅勤務の昼に食ってます。 他の冷凍食品は未チャレンジ。
カップ麺、レトルトご飯とレトルトカレーは非常食として置いてありますが、妙にサバイバル感溢れてしまい、生きる気力ゲージが減っていってしまうので、よっぽどの時のみ。
で、その食生活の一角というか8割を成すスーパーが1/1~3休みとの事で、どう食いつなごうか思慮しています。
どうしたらいいのでしょう?
ここ2,3年は、東京から2時間位のホテルに泊まって、星景写真を撮ったり、段ボール1箱の本を送って過ごしていましたが、今年は仕事に追われ今更探しても一泊3万からとか。交通費込みで10万かぁと、飯の為にそこまで掛けるのはと尻込み。
実家は両親はたぶん生きてますが、ケベック州という所で日本語教師のバイトと民泊の真似事をしてるとかで14年見てません。
どうしよう、、、みんなどうやって生きてるのでしょう??
ワイは軽音部の5人がバラエティ番組みたいなノリで「不眠チャレンジ」に挑戦したら
覚醒剤もらったりとかいろんな手段で必死に抗うけど結局なす術なく死んでいく
その裏ではデスゲームを公認した日本政府に対し国連の制裁爆撃が進んでいる
っていう話が好きやで
また何もしなかった。ぎりぎりの家事はした。でもたたんでない。今日はついに朝昼飯も食べなかった。メンタルがおかしい。これは何かの病気だと思う。
これまで何も築き上げて来なかった。目の前の仕事に追われていればスキルはつくものだと思っていた。スキルがつけば自身は湧いてくるものだと思っていた。幻想だった。
きちんと学んできた人、組み立てでも調達でも設計でも営業でもデザインでもなんでもいい、おろそかにせずに常に学び続けてきた人、こうありたいという姿を描き、それを目指し努力してきた人には、俺のこれまでの雑用の積み重ねなんて何の役にも立たないのだ。
クソ笑った
26歳実家暮らしAD(大学生のときに母親と二人だけで旅行に行っちゃうタイプの男性)
何パターンも考え手を変え品を変えて「クソババア」に挑みますが
言うまでになんと1時間かかった
そうしてやっと言えた「クソババア」
こんなん笑うわ
正直、ママが優しいから今までの親子の蜜月があったわけではなく、この息子が優しいからこその関係だったと思いました
息子が優しくなかったらずっと幼い頃から仲違いしていただろうなってタイプの女性
女は概ね物心ついたときからずっと怒っている。反抗期から更年期障害。ものすごい疾走感です
男こそ優しくあれ
女はみんなアマゾネスだと思え
「俺の彼女(俺の奥さん、俺の娘、俺のママ、俺の姉ちゃん、俺の妹)優しいからな」なんて思うのは大いなる勘違いです
どんなに優しく見える女でも、心に悪鬼羅刹を飼っていると心得とけよ
対立するな。やられる
最近、性暴力とその表現に関する話題が次々 Xのタイムラインに流れてきて、この仕様ってなんなの、と思う。思うけれど、その一方で男女(と一旦は括らせてほしい)の性暴力への解像度の差にガックリきてしまい、あまりにもがっかりしたので筆を取る。
わたしは若い女で、比較的フェミニズムに関心がある方だと思う。そして漫画などを好むオタクだし、エロ表現の良さも分かる。
以前、似たような境遇の女の子の友達がいた。ある日、彼女が落ち込んでいたので話を聞くと、どうやら地下鉄で男の人に付き纏われたらしい。彼女は座っていて、向こうは側に立っていた。初めの方は不躾な視線に耐えていたけれどとうとう我慢できず、電車が停車した際に立ち上がって一度外に出、車両を変えようとしたところ着いてきたという。これには慌て、駅の中を逃げまどって何本か電車を見送った後にようやく再び乗車することができた。
しかし、まだ不幸は続く。電車から降りて逃げている途中、気に入りの帽子を落としてしまった。一応は落とし物センターに問い合わせたけれど、万が一帽子が戻ってきても複雑だ、と彼女はこぼす。お気に入りの帽子なのに、これからはそれを見るたびに男の人に追いかけられた嫌な記憶を思い起こすことになるからだ。
この話を聞いたときに、わたしもすごく嫌な気持ちになった。この件は決して事件として表面に浮かぶことなく、ただ個人のなかの嫌な記憶としてのみ残り続ける。帽子を落としたのは彼女の不注意だったかもしれないが、それほどに焦り怖い思いをしたということでもある。お気に入りの帽子で外に出かけるときでさえ常に警戒していなければいけないだなんて、そしてそれが特定の性別に多く降りかかるだなんて、どれほど生きづらい世界なのだろう。
話は変わる。新聞社の事件事故の欄を見ていると、盗撮や痴漢、路上抱きつきなどの性加害事件のあまりの多さに愕然とする。そしてその裏には事件化されなかっただけの事案がたくさんあるし、そして事件化することのできない(例えば先ほどの友達の話のような)嫌がらせはもっと多いのだろう、と想像してしまう。少なくともわたしはそういう場面に出くわしたり話を聞いたりしたことがそれなりにあったので、そんな世界の見え方を想像もしない人を大量にタイムラインで見かけて言葉を失ってしまった。
そして、この身体ひいては性にまつわる体験の差(つまり女の方が性被害にあいやすいこと)がエロ表現の扱いについての分かり合えなさに繋がっているんだろうな、と。そう邪推してしまう。
そもそも、表現というのは社会の情勢や価値観や規範と全く切り離して考えることのできないものだろう。わたしは、〈社会、そしてそこで生きる個人〉と〈個人によって生み出される表現〉とは相互に影響を与え合うものだと思う。例えば表現は社会で生きる人間によって生み出される以上、そこでの価値観の影響を受けるし、反対に、表現が社会や個人に影響を与えたりとある価値観を強めたりすることもあるはずだ。つまり、表現は社会の外側にはいられない。なぜなら社会の中で生み出され社会の中で受容されるものなのだから。そしてだからこそ表現は社会にとって大きな意味を持ったり、大きな役割を担ったりする。
フェミニストは二次元と三次元の区別がつかない。あるいは、自他境界が曖昧すぎてただの絵に自己を投影している。エロ表現を忌避するのは過度な潔癖であり、お気持ちでしかない。こういう批判がある。フェミニストの中ではもはやエロ絵を燃やすことが目的化されている。そうしてコンテンツの邪魔をする。こうも言われている。じゃあエロ表現は悪なのか。それともエロ表現を悪とすることが悪なのか。
ポルノグラフィ(エロ絵や漫画、アダルトビデオなどをまとめてこう呼んでみる)は現実の性犯罪を助長させるのか、反対に妄想の中で欲望を満たすことで抑止に繋がっているのか。この議論は散々されてきたことと思うが、そうではないやり方でエロ表現が問題視されていることの妥当性を示したいと思う。
ここで重要となるのが、先ほど述べた、表現は社会の外側には出られない事実である。つまり、エロ表現がどの程度実際の性犯罪者を加害へと駆り立てたのかは分からない、分からないのだけれど、少なくとも今が、性犯罪や性加害が女性にとって身近な脅威である社会、なことに間違いはない。つまり、そのように性加害が蔓延している、その上法律や公権力による抑止力にもあまり期待できないと感じている人が相当数いる社会で、性加害描写を含むエロをエンタメとして手軽に発信し、楽しむのは一体どうなの、ということである。ここで注意したいのは、エロ表現を楽しむのが一概にダメだ、悪だということではないことだ。序盤に性暴力にしぼった書き出しをしてしまい、例えば倫理的に性暴力をエロコンテンツに含むべきではないなどという意見も当然あるだろうからややこしくなったと反省しているが、一応わたしの意見を述べておくと現実の被害者がいない限りは、そして実際の事件を下敷きにするなどしていなければ、性暴力をエロの表現のひとつとして楽しむことも認められるべきだと思う。ただし、そのためには実際の性暴力が人々にとって遠い脅威となり、表現としての性暴力は受容できるけれど現実では絶対にしていけない行為だ、という認識が強く世間に浸透していなければいけないと思う。つまり、表現は社会に影響を与えたり与えられたりする以上、行為Aを美化したり単純な快として描くことで人々を脅かすようなチャレンジングな表現は、その表現が発表された程度では揺るがされない強固な価値観、すなわち行為Aは絶対いけないよね、という価値観が広まった社会でしか受けつけられないのだと思う。
また、そういうチャレンジングな表現で社会の価値観を問うたり挑発したりすることも表現の役割ではあるのだけれど、その場合はそれによって生じる反発、批判を受け止める責任が表現者にはあるし、少なくともそのようなチャレンジングな表現だと理解して発信する必要があると思う。が、現状のエロ表現の現状、例えば痴漢や無理やり、分からせなどという言葉が単なるエロいものとして使われたり、ヒロインへのセクハラが当たり前のように行われたりするような現状は、これらが現実では特定の人々にとって脅威となる危うい表現であることを自覚した上で発信を行なってきたものとはとても思えないし、そしてこれがチャレンジングな表現とみなされるほど、残念ながら社会の価値観は醸成されていない。
ちなみに。こういう話では必ず、殺人も現実では大罪なのだから公にして良い表現として認められなくなるじゃないか、などという意見が出てくる。これもわたしの理屈で言えば、殺人がごく身近になった社会では殺人の表現の扱いには当然慎重になることと思うので、今現在殺人をエンタメとして気安く受容できているというのはそれだけ殺人が身近な存在ではなくかつ殺人が絶対にいけないことだという考えが一般に共有されている社会だからなのではないか、と考える。(もっと言うと殺人表現をエンタメ化していると言っても多くは人を殺すことを話のメインとして肯定的に描いているわけではないだろうから、エロをメインに描き性暴力などについてもその罪をなあなあにしがちなエロ表現とは単純には比較できないのだけれど。例えば、快楽殺人者の目線で人を刺すときの感覚の快感、その殺し方の手法などを詳細に描く作品があったらそれなりに物議を醸しそうなものと思うし)
同じように、戦闘シーンを快として描く表現は暴力が基本的に日常の外にある社会だからこそ許容されるし、ヤのつく職業の社会を描くことも、ヤの根絶が共通認識で目指されてきた社会だから可能なのではないか。
つまり、エロ表現を自由に描くためには、絶対に性暴力、性加害はいけないと人々が共通に認識し、実際の事件に対しても反発をしていかないといけないのだ。よく、表現の自由戦士と呼ばれる人たちは表現と現実とを切り離して考えろ、と言うが、先に言った通り表現は現実社会の外には出られないのであり、そうである以上表現と社会とは全く無関係、無影響だと無理筋な主張をするのではなく、現実では絶対にいけない、だがゾーニングを行った上で表現としては受容することができる、とそのような形で〈表現と現実社会の区別〉をつけるべきではないか。
恐らく、フェミニストでエロ表現に苦言を呈している人たちはまず性加害が絶えない社会を嘆き、その中でエロ表現を無責任に(ゾーニングが不十分、あるいはそこで表現されていることが現実においては加害にあたるという自覚がないなどして)発信することを批判してきた。一方で、エロ表現を好む人からしてみれば、恐らく当人たちはそのような犯罪を実際に犯したわけではないのであり、つまり何も悪いことをしていないにも関わらず理不尽に絡まれ、規制されそうになっている、と感じることだろう。ここに、現実社会の性被害への解像度の差からくる認識のズレが発生し、多くは不毛な論争になってしまっていると感じる。このズレを認識することが、現実にある性加害へNOをつきつけそしてマニアたちがエロ表現を楽しめるような成熟した社会にするための第一歩なのではないか。
補足:Xではエロ表現の話題が男女論に持ち込まれること、また表現規制うんぬんはフェミニズムの文脈が強いことから男女論のようにして書いてしまったが、もちろん男女問わず性加害を行うやつもいるし被害に遭う人もいるし、そしてそれら全てにNOを突きつける社会になってほしいとわたしは思う。ただ男女で比較すると女性の方が残念ながらそういう目にあうリスクが高いのであり、その解像度の差がエロ表現に対する見え方の違いに繋がっているのでは、と思い、今回はこのように男女論のように見える形で文章を書いてしまった。これが新たな男女の対立を呼ぶということは決してわたしの本意ではないと、述べておきたい。
16000円で四人分の食事作ってます、なんで皆は出来ないのかなって人が燃えたらしいが、節約主婦売りしたいにしても、買い物担当してりゃ絶対に不可能って解る金額出してたらあんま人気でないよ。
一人一食44円では米貰ったとしても無理じゃん。
子供二人に一日百円くらいのおやつを買ってあげたらおやつだけで6000円消えるから、一食27円、三食底値で買った卵一つの目玉焼きしか食べられない。
更に米も買うとしたら、月十キロ食べるとして大体6000円。
おかず四千円で一ヶ月になるけど、一人一食11円。もやし一袋茹でたの四人に分けた物くらいしか食べられない。
普通に美味しい食事写真上げてれば良いのに、何で16000円とか盛りすぎるんだろう。
今よりずっと物価が安い新婚時代に、試しに二万円達成できるかチャレンジして、深夜の閉店直前四分の一まで値下げされる割引タイムのみで肉や魚を買い、もやしやキャベツなど安い野菜と挽肉など安い肉でやりくりしても無理だったのに小さな子供いてできるわけねぇ。
炎上案件とかでは、さすがに手取り足取りやってられないし、基本的なことが分かってない人は、フツーに見捨ててしまうことが多かったよね
でも、上司・部下・先輩・後輩・パートナーのいずれであっても、積極的に追い出すのは避けたいんだよね
ただ、心を無にして、自己防衛しつつ時間が解決するのを待つっていうのもやらないし、必死でおだてて「こうやってやるんですよ~」って誘導するようなこともしない
やらないのはできないからなんですけどね
基本的なことを根本的に理解していない人って、致命的な行動を繰り返すから、いずれ時間が解決してくれるんだけど、
それを待つために、開き直って定時で帰って、仕事が終わったら会社のことを秒で忘れるスキルがない
切り替えが死ぬほど下手で、ランニングやっても、水泳やっても切り替わらない
死ぬほど追い込んだり、びっくりすれば切り替わるが、そこまで追い込んだら次の日仕事できないよね
じゃあ、切り替え出来ないなら、望ましい方向に誘導するか?って言われたら、部下・後輩なら問題ないが、上司・先輩・クライアント相手は無理よね
そもそも人間に興味ないので、「顔覚えられない」「なんで怒ってるの?」ってなることが多いワイが、頑張ればなんとかなるやつなのか?
それって指がないのにピアノを弾こうとしてるみたいな見込みの無いチャレンジなんじゃないか??
指(可能性)はあって試行錯誤すれば、ほんまに誘導力や政治力はマシになるのか???
うん? そもそも、どうにもならない人が入り込む余地のないハイパフォーマンスなチームに入れば(正論) って?
おっ、そうだな(威圧)
アフガンで女子の教育が終了しつつある件で、政策として一定の評価ができる。
出生率の低下で悩まされているのはアフガニスタンも同じで、ソ連やアメリカの侵略を受けている最中でも維持できていたのに、アメリカ占領末期も含む近年は半減している。
各部族のコミュニティが独立・孤立しているアフガンでは、一部のエリアでは先進国水準まで落ち込んでおり、またヒトの流動性も低いために影響が大きくなっている。
そこで女子を家に戻し、女医は周辺諸国から調達するという政策に舵を切った。
上手くいくかいかないかで言うと、最終的にはよくない結果に終わるとは思うのだが、多少の延命はできるのではないだろうか。