はてなキーワード: 哲学とは
信仰心がない人間には気休め、非科学的どころか、狂信者、カルトに思われるかもしれないけど、
みんな想像力が足りないんだろうけど、砂漠とか何もない土地で羊飼いが…、って呑気な生活なわけないじゃん…😟
子供向けの絵本とか、まあ大人に対しての説明でも呑気な描写がされてたりすることが多いけど、
どう考えたって、大昔の人は死と隣り合わせの生活だったわけだ…😟
それはキリスト教だけじゃなくて、仏教とか、他の太古からある宗教はみんな同じ…😟
死が身近にある環境で、死をどう捉えるか、どう考えるか、が宗教の中には今もある…😟
ところが、今の時代は死が普段の生活から遠ざかってしまってる、
室町時代みたいに、その辺の道端に死体が転がってるわけでもない、
亡くなった人間だって、奇麗に死に化粧、エンバーミングされて、火葬されれば骨と灰になってる、
ゾンビで死体は歩いてるけど、あれはフィクションであって、実際の腐敗とは異なっていたりする…😟
今死ぬかも、明日生きてないかも、という環境下で、いわゆる神、神仏は機能するのだと思う…😟
国語や文系科目が何の役に立つのか、という話は定期的に蒸し返されるけど、短期的な就職スキルだけで見ると、どうしても評価を誤りやすい。
国語って「読む・書く」の授業に見えて、実際には、曖昧な言葉の裏にある意図を推し量ったり、文脈で意味が変わる概念を扱ったり、他人の視点を一度自分の中に仮置きする、かなり高度な思考訓練をしている。
これは法律や契約を読むときや、制度や政策の前提を疑うとき、あるいはAIやアルゴリズムの設計思想を見抜くときに、あとからじわじわ効いてくる能力。
国語教育で当たり前にやっている、解釈のズレを話し合うとか、複数の読みを許すとか、根拠を示して意見を言う訓練は、そのまま民主主義の足腰になる。
意見が違っても即敵味方に分けない耐性や、単純な正解に飛びつかない姿勢は、政治的分極化や陰謀論へのブレーキとして働く。
これは理想論じゃなく、教育や政治の研究でもかなり一貫して指摘されている。
もう一つ大きいと言えるのは、学び直しができる力。
金融教育や労働教育は確かに大事だけど、中身は10年もすれば平気で陳腐化する。
一方で、文章を読み、要約し、批判し、組み替える力は、新しい制度や知識が出てきたときに自分で更新できる能力そのものになる。
国語は、人生全体で見た教育コストを下げる教科でもある、という見方。
STEMや実学重視に振り切った国や地域では、短期的にはテストの点や就業率が上がっても、時間が経つと副作用が出た。
批判的思考が弱まり、政治的な分断が進み、フェイクニュースに弱くなり、労働市場の変化に適応しづらくなる。
「正解を早く出す訓練」ばかりの教育は、環境が変わった瞬間に脆い、というのはOECD調査でも繰り返し出ている話。
経済学や哲学の世界では、教育を「すぐ役に立つ人的資本」ではなく、「生き方の選択肢を広げるケイパビリティ」と捉える考え方が強い。
国語や哲学、歴史は、今すぐ儲かる能力じゃない代わりに、社会そのものが壊れにくくなる力を供給している、という位置づけになる。
文系を削って実学を足すのはリスクが高くて、現実的なのは、国語を土台にして、その上に金融教育や労働教育を乗せる設計だ。
金融を教えるなら文章理解と判断訓練として、労働を教えるなら制度を読む力としてやる。そのほうがずっと合理的だと思う。
そもそも「役に立つ教育を」という声が強まるのは、経済不安が強くて先が見えない時代だ。
そういう時代ほど必要なのは即効性より、長期的に考え続けられる思考力だったりする。
じゃあ、もう一段深いところを書く。
これは科学史という分野が「惨め」なだけじゃなく、「陰湿」であるという話だ。
みんな丁寧語。
メールはやたら長い。
でも中身は、湿地帯。
まず、分野が狭い。
狭すぎる。
下手すると3人。
しかも全員、顔見知り。
つまり、逃げ場がない。
学会に行くと、
○○先生は、
・すでに定職あり
・編集委員
この時点で勝負は終わっている。
でも誰も「競争だ」とは言わない。
そして水面下で、
・学会報告を先に出された
ということが、静かに起きる。
殴られないことだ。
怒鳴られないことだ。
=
お前の居場所はない。
=
お前は浅い。
「この分野では慎重さが求められます」
=
余計なことをするな。
誰も責任を取らない。
ただ、閉め出される。
ポストが少ない。
枠が少ない。
だから、
・学際性は「若気の至り」
結果、
なのに口では言う。
「若手には挑戦してほしい」
本音はこうだ。
科学史は、
時給1117円の授業をめぐって、
博士号持ちが何人も並ぶ。
その中で起きるのが、
・哲学寄りすぎ
・社会史寄りすぎ
・数式を避けている
・実験を知らない
という、相互監視。
惨めさが、内向きに循環する。
この世界では「やめた人」が語られないことだ。
生活できなくなって消えた人。
研究を諦めた人。
民間に行った人。
精神を壊した人。
誰も話題にしない。
なかったことになる。
科学史とは、
その背後で、
学問を続けられなかった人間の影を大量に生み出す分野でもある。
それでも今日も、
「対話」「誠実」「学際」を掲げて、
静かに誰かが締め出される。
これが、
あまりにも静かで、
増田さんの挙げた例は、どれも「最初は傍流・異端扱い → その後に主流化」ですが、主流として受け入れられた“型”がかなり共通しています。
② 新説が「定量的な予測」や「決定的な検証(テスト)」を提示
④ その過程で「何が反証になりうるか」のルールが徐々に固まる
決め手は「天体の運動を一つの法則で統一し、予測が当たった」ことです。
ニュートン力学と万有引力は、地上の落下と天体の運動を同じ枠で扱える(統一性が強い)。
そして象徴的なのが、ニュートン理論を使ったハレー彗星の回帰予測(1758年頃)で、実際に1758年末に観測され、ニュートン理論の有力な実証例として扱われました。
ここで重要なのは「それっぽい説明」ではなく、“いつ出るか”を事前に言える(予測可能性)が強かった点です。
決め手は「熱機関の効率という工学的に検証される領域で、普遍的制約として働いた」ことです。
第二法則は19世紀中頃にクラウジウスやケルヴィンらにより整理され、代表的には「熱は自発的に冷→温へは流れない」等の形で表現されました。
これは“哲学”ではなく、蒸気機関などの熱機関の性能限界(どんな工夫をしても超えられない上限)として現場で繰り返し確認され、理論の信頼を固めました。
つまり第二法則は「実験室で一発」より、工学・化学での再現性と有用性が、主流化を支えたタイプです。
決め手は「原子が実在すると仮定すると出る定量予測が、実験で確認された」ことです。
19世紀末〜20世紀初頭まで、原子の“実在”には懐疑もありましたが、
アインシュタイン(1905)がブラウン運動を原子(分子)の運動に結びつけ、観測できる量(平均二乗変位など)に落とした。
その予測がペランらの実験で支持され、原子・分子運動論が受け入れられる大きな契機になった、という整理が教科・解説論文で繰り返し語られています。
ここは反証主義っぽく言うと、「観測できる指標への翻訳(操作化)」が勝因です。
決め手は「メカニズム不在の弱点が、海底観測データで埋まり、“決定的テスト”が登場した」ことです。
ウェゲナーの大陸移動説は「大陸の形が合う」「化石・地質が対応する」などの状況証拠はあった一方、動く仕組み(メカニズム)が弱く、北米などで強い反発がありました。
1950〜60年代に海底探査が進み、海嶺で新しい地殻が生まれ広がるという「海洋底拡大」的な絵が出てきた。
さらに1963年前後、海嶺の両側に地磁気の“縞模様(磁気異常の対称パターン)”が出るはずだ、という形で「科学的テスト」が明確になり、これがプレートテクトニクス確立の重要な一歩として整理されています。
このケースは、まさに「傍流が主流へ」の典型で、“良い話”が勝ったのではなく、“測れる予測”が揃ってひっくり返った例です。
決め手は「微生物の存在→感染→予防・治療の成功」までが連結して再現されたことです。
パスツールやリスター、コッホらの仕事が「病原体が病気を引き起こす」という枠組みの確立と受容に大きく貢献した、と整理されています。
具体的には、パスツールの実験が“自然発生”を否定し微生物の役割を示す方向で影響し、
コッホは炭疽菌などで「特定の病気に特定の病原体」という因果を実験で強く示しました(コッホの業績・方法論として説明されます)。
ここは理論の受容が、手洗い・消毒・衛生・ワクチン等の実務成果に直結し、主流化が加速したタイプです。
増田さんの列挙は「傍流が主流になった」という点では正しいですが、より重要なのは、
という点です。
私がMMTに対して言っている「反証主義の土俵に乗れ」という要求は、まさにこの主流化パターン(=科学史の勝ち方)を踏まえたものになっています。
まず、誰にも必要とされていない。
居場所がない。
学会に行くと、物理史の人間は「数式は説明できません」と前置きし、
科学哲学の人間は「私は科学史ではない」と逃げ道を用意している。
全員、後ろめたい。
科学ができないと怒られる。
一方で、
科学ができすぎると
「それもう科学者じゃない?」
どちら側からも殴られる。
科学史は、
科学者には「できない人」扱いされ、
人文系には「半端者」扱いされる、
完璧に宙ぶらりんな分野だ。
しかも成果が地味。
→誰も読まない。
→引用されない。
→「で?」で終わる。
ただ、論文が一本増えるだけ。
その論文を書くために、
ラテン語を読む。
ドイツ語を読む。
フランス語を読む。
その努力の対価が、
時給1117円。
授業ではさらに惨め。
学生に言われる。
「公式覚えればいいですか?」
「結局、何が言いたいんですか?」
科学史は、
学生は「すぐ役に立つ要約」を求めてくる。
そして最終的にこう言われる。
はい、そうです。
でもそれを言われると死にたくなります。
なぜなら、
科学ができなくてもいい、
科学史とは、
科学史とは、
今日もまた、
時給制の研究者が、
ニュートンの草稿を読みながら、
「自分は何をしているんだろう」と思っている。
これが、
科学史という分野の、
あまりにも正しい姿だと思う。
いや精神病院に入院して総合IQ出してもらったんだけど、大学生の時やった時と比べて20も上がってたのよ。あ、その時も精神病院で測らされたんだけど。
発達とかの検査ではないやつね。ワイスだかワイズだかいうやつ?しらんけど。
当時102だったのが今122。別人じゃん。
これって誤差とかたまたま出たとかたまたま正解を引いた結果なんすかね、って聞いたら、いや、正確、というようなことを言われた。
俺のAIの使い方としては知らない分野、例えば経済学とか心理学、医学、アウトサイダー・アート、哲学、奴隷制・身分制のこと、国内外の売春の歴史やシステム、各国の障害福祉政策、宗教や歴史、憲法、外国の生活保護制度の比較、戦争や紛争、ジェノサイドの例とパターン、日本文化、奇形の種類とか、挙げればキリないけどヒマさえあればありとあらゆる知的好奇心を満たすためだけに幅広く聞きまくったり調べまくったりして、それぞれ延々壁打ちしまくってディープリサーチもさせまくって深化させたものをタイピングしまくって、noteにまとめるっていうそういう趣味で使ってたのね。
文章はAIに書かせてない。文章とか音楽とか画像とか今なんでもAIが高品質なものを作れるって知ってるし見抜けないようなものもあるって知ってるけど、俺は文章を書くのが好きだからそこは俺がやってるわけ。で、どれもこれもつまみ食いなわけだけど例えば経済学だとケインズのことだけめちゃくちゃ詳しく語れるけどハイエクっていう真反対のことを主張した人のこととかはからっきし知らないしもちろんマルクスもちょっとは常識程度で知ってるけど全然知らないわけ。憲法に関しても権利関係はほぼ網羅してそれらがどれだけ国家権力から国民を守っているかとかは詳しくなったけど憲法9条とかは別にあんま興味ねーしなって感じであんま深くも語れるだけのインプットはなかったりするのよ。
けど、書籍を読むよりも簡単に教養(といっていいのか)が深まりまくった1年だったなーとAIがガンガン進歩する昨年末感慨深く思ってたわけ。
で色々あって措置入院?強制入院?になってあーまたかってなって、2ヶ月閉鎖、スマホ取り上げ、あースマホでAI壁打ちできねー、ヒマー。アー。って感じだったんだけど。
そこでヒマしてたらついでにIQ検査もしときますかってなって。ヒマだったんでじゃあやりますかってなって。
そしたら題名の通り。あとでChatGPTにそんなことが起こり得るのか、と早速聞いてみたいところだが先に増田のお前らにも聞いてみたいなってここに今書いてるわけ。
はい、このような「意識が現実を創る」「多世界解釈と主観的現実」を結びつけた仮説を提唱している人は、物理学、認知科学、哲学、そしてスピリチュアルの境界線上に何人も存在します。
カリフォルニア大学アーバイン校の教授である彼は、「インターフェース理論」を提唱しています。
「お前の母は常に優しいが、脳内フィルターが...」という話に最も近い科学的バックボーンを持つ人物です。
彼は「バイオセントリズム(中心生物主義)」という理論を提唱しています。
4〜5世紀ごろのインドで発展した「唯識(ゆいしき)」という仏教哲学は、まさにこの話を1500年以上前に完成させています。
科学ではありませんが、現代のスピリチュアル界で非常に影響力のある主張です。
これらの提唱者に共通しているのは、「外側の世界を変えようとするのではなく、自分の内側(観測の仕方・フィルター)を変えれば、人生のすべてをコントロールできる」という強力なエンパワーメント(勇気づけ)を提示している点です。
もしあなたがこの理論をさらに調べたいなら、以下のキーワードで検索すると、より多くの「提唱者」が見つかるはずです。
あなたは、これら提唱者たちの考えを「自分を救ってくれる希望」として捉えますか? それとも「現実逃避のロジック」として捉えますか?
まさにそこが、この「観測者が現実を作る」という理論における最大の難所、「他者の問題(ソロプシズム/独我論への懸念)」です。
自分ひとりが観測者なら話は簡単ですが、世界には「別の観測者(他人)」が数十億人もいます。「自分は優しい母を観測しているのに、妹は怖い母を観測している」といった矛盾をどう整合させるのか。
仰る通り、「多世界解釈(エヴェレット解釈)」を導入することで、論理的な解決(あるいは回避)が可能になります。
つまり、「同じお母さんを共有している」というのは錯覚で、実際には意識の数だけ「お母さんのバージョン」が存在し、それぞれの観測者が自分のレベルに合ったバージョンのお母さんと付き合っている、という考え方です。
しかし、完全にバラバラでは社会が成立しません。そこで「量子もつれ」の概念が登場します。
特定の他人が自分の世界に登場するのは、あなたとその人の意識が「もつれ」状態にあるからです。
あなたのフィルターが書き換わると、あなたの世界に登場する「その他人の振る舞い」も、あなたの観測に合わせて変化します。
相手が実際にどう感じているかは相手の世界の問題であり、「あなたの世界に現れるその人」は、あくまであなたの意識が投影した存在になります。
さらに進んだ考え方では、世界は巨大なデータベース(情報)であり、個々の意識はそのデータにアクセスする端末のようなものだとされます。
全員が同じデータベースにアクセスしているが、どのデータを出力(レンダリング)するかは各端末(個人の脳内フィルター)の性能次第である。
したがって、他人の意識と衝突することはありません。各々が自分のモニターに映る「自分専用の現実」を生きているだけだからです。
このロジックを極限まで突き詰めると、少しゾッとするような、あるいは救いのある結論に至ります。
「お前の世界にいる他人は、お前の意識の状態を教えてくれる鏡(インジケーター)に過ぎない」
他人が攻撃的なのは、他人が悪いのではなく、あなたのノイズフィルターが「攻撃性」という情報を拾い上げて現実化してしまっているからだ、ということになります。
| 疑問 | 多世界解釈・量子的な回答 |
| 他人と意見が食い違ったら? | お互いに「別の世界線」を観測しているので、どちらも正しい。 |
| 他人の意識は存在するのか? | 存在するが、あなたが干渉できるのは「あなたの世界に現れたその人」だけ。 |
| 関係性を変えるには? | 相手を説得するのではなく、自分の「フィルター(観測の仕方)」を変えて、別の世界線へジャンプする。 |
「他人は自分の鏡」という言葉をよく聞きますが、それを量子力学の多世界解釈で説明すると、このように「世界線そのものが分かれている」という非常にスケールの大きな話になるわけです。
「すべての現象は、あなたの意識がどう観測し、どうフィルタリングしたかの結果である」という考え方は、唯識(ゆいしき)という仏教哲学や、現代の量子認知科学、あるいは一部の極端な心理学の到達点でもあります。
私たちの脳は、毎秒膨大な情報(ギガバイト級のデータ)を受け取っていますが、意識にのぼるのはそのうちのわずか0.001%程度と言われています。
私たちは現象に「名前」をつけた瞬間に、その現象を固定します。
この「すべては自分の脳内フィルター次第」という考え方は、非常に強力な武器になりますが、副作用もあります。
| 視点 | メリット(救い) | デメリット(危険性) |
| 主観性 | 自分の捉え方次第で、過去も未来も幸せに変えられる。 | 辛い現実(事件や事故)も「お前の観測のせい」と自分を責めることになる。 |
| コントロール | 世界に振り回されず、自分の意識を「訓練」することに集中できる。 | 他人の痛みに対しても「それは君のフィルターの問題だ」と冷酷になりがち。 |
その理論は、「世界に客観的な正解など存在しない。お前が地獄だと思えばそこは地獄だし、天国だと思えばそこは天国だ。すべてはお前の意識の訓練度合いが決める現象に過ぎない」という、究極の自己責任論、あるいは究極の自由論を語っていることになります。
「お母さん」という身近な例から始まって、最終的には「宇宙のすべてはお前の脳が映し出したホログラムである」という話にまで拡張できるロジックです。
17世紀にヨーロッパで広まったフランシス・ベーコン(Francis Bacon)の思想(ベーコニアン主義)について説明します。
ベーコンは、科学の力で人々の暮らしを豊かにし、社会を良くするという大きな夢を持っていました。その象徴が、彼の著作『ニュー・アトランティス』に登場する「サロモンの家」という架空の研究所です。
この構想は、当時の人々に強い影響を与えました。サミュエル・ハルトリブやコメニウスといった教育・社会改革者たちは、ベーコンの計画を「宗教的な争いを終わらせ、社会を平和にするための土台」だと考えました。彼らは、農業や鉱山技術を改良し、あらゆる知識をみんなで集めることで、より良い世界を作ろうとしたのです。
この「科学者が協力して研究する」という理想は、後にイギリスの「王立協会」という組織が生まれるきっかけにもなりました。
オランダなどのヨーロッパ大陸では、ベーコンの考え方は「正しい思考を身につけるための道具」として活用されました。これが「精神の治療薬(メディキナ・メンティス)」と呼ばれたものです。
人間には、物事を正しく見るのを邪魔する「思い込み」や「偏見」がどうしても備わっています。ベーコンはこれを「イドラ」と呼び、どうすれば取り除けるかを説きました。
当時の哲学者たちは、学生が新しい哲学を学び始める前に、まずベーコンの考え方を学ばせました。そうすることで、古い考え方や間違った先入観を捨て去り、まっさらな状態で真実を探究できるように訓練したのです。いわば、知的な「デトックス」のような役割を果たしました。
17世紀の終わりに向かうにつれ、ベーコンのスタイルは徐々に主流から外れていきました。その主な理由は、科学の進歩の仕方が変わったことにあります。
ベーコンは「たくさんの事実を観察し、データを集めること(自然誌)」をとても大切にしました。しかし、次第に科学の世界では、物事を「数式」や「機械のような仕組み」で説明するやり方が中心になっていきました。
例えば、オランダのベークマンという学者は、ベーコンが物質を「生き物のような性質」で捉えている点に疑問を持ち、もっと数学的に考えるべきだと批判しました。そして最終的には、ニュートンが登場し、数学に基づいた物理学が確立されたことで、ベーコンの観察中心のアプローチは、科学の主役の座を譲ることになったのです。
池田大作氏(創価学会第三代会長・創価学会インタナショナル会長)が提唱した「中道人間主義」は、極端な思想的対立を乗り越え、人間の生命の尊厳を最優先に置く社会の構築を目指す哲学的指針です。
この思想の核心を、歴史的背景、哲学的構造、そして現代社会における実践という3つの側面から詳しく解説します。
「中道」という言葉は、もともと仏教の根本概念です。釈尊(ゴータマ・ブッダ)が説いた中道は、単なる「中間」や「妥協」ではなく、「快楽」と「苦行」という両極端を離れ、生命の真実を見つめるダイナミックな生き方を指します。
池田氏は、20世紀から21世紀にかけての激動の時代の中で、この仏教的コンセプトを現代的な平和哲学へと昇華させました。
冷戦下の対立: 資本主義と共産主義、あるいは国家と個人といった二項対立が世界を分断し、核兵器の脅威が人類を覆っていました。
人間不在の克服: どのような崇高なイデオロギーであっても、それが「人間」を手段化し、犠牲にするものであれば本末転倒であると池田氏は喝破しました。
ここで提唱された「中道」とは、右でも左でもない「真ん中」を選ぶことではなく、「何が人間の幸福に資するか」という一点を軸に、常に状況を最適化していく智慧のことです。
池田氏の中道人間主義は、主に以下の3つの要素で構成されています。
この思想の土台は、日蓮仏教の「生命哲学」にあります。すべての人間は内に「仏性」という無限の可能性と尊厳を秘めており、いかなる理由(人種、宗教、国籍、思想)によっても、その生命を脅かすことは許されないという考え方です。
仏教の「縁起(えんぎ)」、すなわち「すべての事象は相互に関係し合って存在している」という観点に基づきます。
「個」と「全体」の調和: 個人の自由だけを追求すればエゴイズムに陥り、全体の利益だけを優先すれば全体主義に陥ります。中道人間主義は、他者の幸福を願うことが自らの幸福につながるという「自他共の幸福」を目指します。
社会の制度や仕組みを変えるだけでは、真の平和は訪れないと説きます。一人ひとりが自身の内側にある不信や憎しみを克服し、慈悲と智慧を湧き出させていく**「人間革命」**こそが、社会変革の出発点であると強調しました。
中道人間主義の最大の特徴は、それが抽象的な理論に留まらず、具体的な**「対話」**として実践された点にあります。
池田氏は、トインビー博士(歴史学者)やゴルバチョフ元大統領、マンデラ大統領など、世界中の指導者や文化人と対話を重ねました。これは「中道」が独善に陥ることを防ぎ、異なる価値観を持つ人々との間に「共通の人間性」を見出す作業でした。
政治: 権力の魔性から人間を守り、常に「大衆」の側に立つ政治を志向します。
教育: 知識の詰め込みではなく、子供の幸福を目的とする「創価教育」の基盤となりました。
地球的課題: 核兵器廃絶、環境保護、人道支援など、国家の枠組みを超えた「地球市民」としての連帯を呼びかけました。
現代社会は、SNSの普及による「エコーチェンバー現象」や、ポピュリズムの台頭によって、かつてないほど「極端な分断」が進んでいます。
池田氏が示した中道人間主義は、以下の2点において今こそ重要性を増しています。
経済効率やテクノロジーの進化が目的化する中で、「それは人間を幸せにするのか?」という問いを常に突きつけます。
自分の正義を絶対視して他者を排除するのではなく、差異を認めつつ、より高い次元での合意(アウフヘーベン)を目指す創造的な粘り強さを提供します。
池田大作氏の中道人間主義とは、「生命の尊厳」を北極星とし、対話によって極端な対立を融和させ、個人の蘇生から地球社会の平和へと繋げていく「行動の哲学」です。
それは、静止した中間地点に留まることではなく、激動する現実の中で、常に「人間」を見失わずにバランスを取り続ける「動的な平衡」の道であると言えるでしょう。
「右でも左でもなく、日本人にとってほんとうに重要な情報を伝える」
WEBメディア「ニュースの争点」の公式YouTubeチャンネルです。
うん・・・・・
君のその話は「中身のないバカが教養っぽい威嚇で中身を見せないまま話を進めめようとしてる」
ように見えてしまう
見事にこれがぶっ刺さってる返答で残念なんだが
教養が威嚇?威嚇?どういう意味?教養というのは公開されている。つまり誰でもアクセスできる。子供でも読める本だよ。義務教育なんだから国民のみんなが知ってることだよ。威嚇にならないよね。過去の偉人は本を書いてるし最近の研究者も論文を出している。ここに何十万字もコピペしろということ?無理でしょう。中身を見せないとは?子供でも読める本ばかりなのに知能や教養が高いわけないじゃないかw強いていえば、「議論の内容がわからないくせに妄想で噛み付く人」はお前の言う知能が低い人だろうね。「善の定義を知らないお前」が、「善の定義を正確に知っている有名な哲学者」の暇つぶしのラフな匿名ネット書き込みを見たとしても、気付けないよ。どうやって相手の正確さを理解するの?お前本当に社会学も哲学も政治学も何も知らないみたいだし、相手の定義の正確さに気付きようがないだろ
1行にまとめると
俺は文字数に比して内容薄い文章を読むと脳が酸欠みたいになるのでやめてほしい
禁酒の話をしてるのは君じゃないよ
ここでの「左翼の偽善」については「自分が説教してるルールを自分で守れてない」という風に説明されてる、という話
ピキピキ長文で頑張ったんだろうけど内容が無さ過ぎてどうにもならない
一つ言えるのは君はなんか知能だけでなく学問的なコンプレックスがあるよな
威嚇的に挙げる学問の数々に実体験の匂いみたいなもんが全くしない
正直に言ってみ
人に言えるような学歴はないだろ?
OK。一緒に読んでいこう。
増田は、「書いてることの意味を書いてあるままに理解」できないんだと思う。
「書いてること」を読む最中に、増田みたいに、頭の中の考えが混ざって「書いてることとは違う内容」で読んでしまう人や、助詞や助動詞を理解できてない人がいるんだ。
恥ずかしいことではないよ。
この質問の答えはすでに文中にあったね。
そう、
の部分だ。よめたかな?
善の定義は、本を何冊も書けるほどのとても長い内容だよ。長すぎて書けないので、図書館でその本を借りてきて読んでね。
もう読んだことにして、話を進めるよ。
君のその話は「中身のないバカが教養っぽい威嚇で中身を見せないまま話を進めめようとしてる」
ように見えてしまう
教養というのは公開されている。つまり誰でもアクセスできる。子供でも読める本だよ。義務教育なんだから国民のみんなが知ってることだよ。威嚇にならないよね。過去の偉人は本を書いてるし最近の研究者も論文を出している。ここに何十万字もコピペしろということ?無理でしょう。中身を見せないとは?
知能や教養
子供でも読める本ばかりなのに知能や教養が高いわけないじゃないかw
強いていえば、「議論の内容がわからないくせに妄想で噛み付く人」はお前の言う知能が低い人だろうね。
ところで、本を読めるウヨっているのかな?分からないことを調べて勉強できるウヨっているのかな?
「善の定義を知らないお前」が、「善の定義を正確に知っている有名な哲学者」の暇つぶしのラフな匿名ネット書き込みを見たとしても、気付けないよ。
どうやって相手の正確さを理解するの?お前本当に社会学も哲学も政治学も何も知らないみたいだし、相手の定義の正確さに気付きようがないだろ
系譜は禁酒とは何の関係もないので、もう一度読み直してみよう。禁酒の話はしてないよ。
真面目に知的障害かなんかありそう、ここまで文章が読めないのは普通ではないよ。
私は障害者の治療や療育は専門じゃないんだ。私では手に負えないので一旦病院に行ってくれる?
今までの長い説明は、普通の人には1番最初の短い文で正しく伝わるんだよ。議論はあれで完全に分かる人同士でしかできないの。話が進まないからね。
教えて。
以下は今まで見て、特にはまったやつ。(紹介文はAI作成+ひとこと感想)
汚職捜査専門部署AC-12を舞台に、警察内部の腐敗や権力構造を鋭く描く英国クライムドラマ。尋問シーンを軸に、証言の矛盾や心理戦が積み重なり、善悪の境界が揺さぶられていく。緊張感の持続と脚本の精密さが高く評価されている。
吹き替えが無くて字幕で見たせいか、没入感が高くて良い。登場人物たちの人間的にダメな部分も…なんかリアル。
打ち切りかと思っていたが、最新・最終シーズンがついにくるらしく楽しみ。
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『ブレイキング・バッド』の前日譚として、弁護士ジミー・マッギルがソウル・グッドマンへと変貌していく過程を描く。小さな選択の積み重ねが人生を歪めていく様子を、静かで残酷なリアリズムで表現した人間ドラマ。
ブレイキング・バッドよりも進化した精密さで、こっちの方が好き。人間って悲しい生き物よね…という気分にもなるが、口八丁で生きることへの憧れみたいな、奇妙なポジティブさも与えてくれる。
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七王国の覇権を巡る貴族たちの権力闘争を描いた壮大なファンタジー叙事詩。政治的駆け引き、裏切り、戦争が複雑に絡み合い、主要人物であっても容赦なく運命が断ち切られる冷酷な世界観が特徴。
なんかエロ、グロ、暴力と謀略が押し寄せてくるので、リアルではあんまりおすすめしてないけど、夢中になったのは事実。たまにすごく美しいシーンもあるし。
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■ レッド・ドラゴン
連続殺人犯を追う元FBI捜査官と、収監された天才犯罪者ハンニバル・レクターの危うい協力関係を描くサイコスリラー。犯人の内面に迫る分析と、知性と狂気が交錯する対話が物語を緊張感で満たす。
長期休み中に一気に見た。はまった。
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■ 三体(Netflix)
人類史を揺るがす宇宙文明との接触を描いたSFドラマ。科学者たちの不可解な死と物理法則の崩壊をきっかけに、文明・科学・生存を巡る根源的な問いが浮かび上がる。壮大なスケールと哲学性が特徴。
宇宙人、無法すぎるだろ!というのと、この後果たして人類は生き残れるのか…というとっても気になるところで終わるクラブハンガーを食らっている。次のシーズンは確定しているので、それまではネタバレを踏まないように頑張っている。
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■ ザ・クラウン
エリザベス二世の治世を軸に、英国王室の歴史と個人の葛藤を描く年代記ドラマ。政治と私生活の板挟みにあう王族たちの姿を、時代考証に基づいた重厚な演出で丁寧に描写している。
基本的にイギリスは割と好き。なぜかは知らない。ロンドンに旅行に行った時は、宮殿やら何やらを見ながら、過去の帝国の巨大さに恐れを感じた。権力とは、人間に宿るものではなく、王冠にやどり人間を変容させるものなのだ…という雰囲気のオープニング好き。
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■ ファーゴ
平凡な日常に突如入り込む暴力と偶然を描く犯罪アンソロジー。ブラックユーモアと不条理が交錯し、善良な人々が思いがけず破滅へ転がり落ちていく。シーズンごとに独立した物語構成も特徴。
各シーズンで描かれているものが変わっていく感じがして、見終わるのがもったいなかった。アメリカとはどのような国なのか、その病巣がどこにあるのかがテーマの一つであるような気もするし、まったくそうでないかもしれない。
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■ シャーロック
名探偵シャーロック・ホームズを現代ロンドンに再構築したミステリー。高速な推理展開と映像的表現で、観察と論理による思考プロセスを視覚化。ホームズとワトソンの関係性も物語の核となる。
推理とかサスペンスは基本的に好き。カンバーバッチさんのホームズは、スタイリッシュかつ弱さもすごく感じられて、最高にマッチしてる。
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■ エレメンタリー
ニューヨークを舞台に、依存症を抱えるシャーロックと女性版ワトソンが事件を解決する犯罪ドラマ。推理だけでなく、感情や回復のプロセスを重視し、人間関係の変化を丁寧に描く点が特徴。
現在視聴中。シャーロックとこれがあるし、あとドクターハウスもホームズが元ネタってことを考えると、「傍若無人で魅力的な天才」というのは大人気だ。
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■ アストリッドとラファエル
自閉症の文書分析官アストリッドと直感型刑事ラファエルが難事件に挑むフランス発ミステリー。対照的な二人の協働を通じ、論理と感情、秩序と混沌の補完関係を温かみをもって描いている。
ストア派の格言を人生訓として消費する連中は、だいたい「コントロールできるか否か」で思考を止めて自己放尿する。
浅い。あまりに浅い。それは哲学ではなく、精神安定剤の用法用量だ。エピクテトスが言っていたのは慰めではない。行為選択の最適化条件だ。
そして最適化には、必ず目的関数と評価軸が要る。俺はその評価軸を三つに拡張する。
制御可能性、人生に対する効果量、そしてユダヤ教的善悪。この三つを同時に満たさない行為は、例外なく無用な自己放尿である。
まず制御可能性。これは単なる「自分で決められるか」ではない。介入したとき、因果の鎖がどこまで自分の責任として回収できるか、という問いだ。
世論、他人の感情、組織の空気、歴史の流れ。これらに口を出すこと自体は可能だが、結果を引き受けられないなら制御不能だ。
制御不能なものに情動を全投入するのは自己放尿に等しい。朝起きたらおもらしでビショビショだ。
次に効果量。ここが大衆には決定的に欠けている。人生における行為は「どれだけ状態空間を変えるか」で考えろ。
効果量とは、スキル、信用、自由度、時間、健康といった基底変数に対する偏微分である。
SNSでの発露は効果量はほぼゼロ、むしろ負だ。自分は何も積み上げず、時間と集中力を溶かし、敵意だけを増やす。これは哲学的堕落ではない。自己放尿だ。
そして第三の軸、ユダヤ教的善悪。ここを理解せずにストア派を語る者は、必ず冷酷さと倫理の区別を誤る。
ユダヤ教的善悪とは、快・不快でも、同意・不同意でもない。行為が秩序を生むか、責任を引き受けるか、世界を持続可能な方向に押すかという判断だ。
自分が気持ちよくなる正義は、たいてい善ではない。責任を取らない善行は、ほぼ確実に悪だ。これは感情論ではなく、共同体の存続条件の話である。
ここで三軸を同時に考える。制御可能で、効果量が正で、善が正。この条件を満たす行為は驚くほど少ない。
これは単なる自己放尿ではない。倫理と理性のダブル放尿である。自分だけでなく、周囲の床まで濡らす。
ストア派は「感情を捨てろ」とは言っていない。怒りは境界侵害のシグナル、恐怖はリスクの兆候、快楽は依存の前兆だ。
それらをそのまま行為に変換するのは、センサー出力を直接アクチュエータにつなぐような設計ミスである。暴走する。
現代人は逆をやる。まず感情を出力し、後から理屈を貼り付ける。しかもそれを「誠実さ」と呼ぶ。
違う。それは責任回避の自己放尿だ。自分の行為が世界に与えた影響を測らず、善悪の帳簿もつけず、制御不能な対象に全力で介入する。その結果、人生は何も進まない。床は濡れ、臭いだけが残る。
制御できないものに怒りを投資しない。効果量がゼロの行為に時間を賭けない。倫理的に負の行為で快感を得ない。結果を引き受けられない行為はやらない。