はてなキーワード: 祈祷とは
原始仏教(パーリ経典・律蔵)では、こうした商業化された「功徳取引」は一切認められていません。以下に、ブッダの直接的な言葉を引用しながら、論理的に評価します。
律蔵(Vinaya Pitaka)のNissaggiya Pācittiya 18(捨堕法第18条)で、ブッダはこう喝破しています:
さらに、Saṃyutta Nikāya 42.10(比丘と在家信者との対話)で、ブッダは頭首(在家指導者)に対してこう明言します:
また、同様の文脈で:
戒名授与や葬儀での「謝金(お布施名目)」は、僧侶が金銭を直接・間接に受け取る行為です。これは律蔵違反そのもの。ブッダは「金銀は毒蛇のごとし」とまで戒め、托鉢(最低限の食のみ)で生きる純粋な出家生活を定めました。金で「戒名(仏弟子の証)」や「功徳」を売るのは、僧侶が世俗の商売人になることを意味し、ブッダの教えの根幹を崩します。免罪符も同様で、「罪の免除」を金で買うのは、バラモン教の有料祭祀(ブッダが激しく批判したもの)と全く同じです。
ブッダは布施を最高の徳の一つと讃えますが、それは期待や対価を伴わない純粋な generosityでなければ意味がないと繰り返します。Dhammapada 354(法句経):
また、Sappurisa Dāna Sutta(善人の布施経)では、布施の正しいあり方を5つ挙げています:
• 敬意をもって与える
• 適切な時に与える
• 慈悲の心で与える
これに対し、金銭で「戒名を買う」「功徳を買う」は、対価を前提とした取引です。ブッダはこれを「貪欲の汚れ」と見なし、SN 16.3(月のような経)でこう警告します:
戒名料は「長い名前=高額」「位階付き=高額」という明確な価格表があり、功徳を「買う」商業行為です。これは布施の本質(無私の喜捨)を汚し、僧侶・信者双方の貪欲を育てます。ブッダがバラモン教の「有料祈祷・供犠」を喝破した理由もここにあります。免罪符も「金で罪を帳消しにする」という同じ論理で、ブッダなら「無益な戯論(無意味な議論)」と一蹴したでしょう。
ブッダの核心は諸行無常・一切皆苦・諸法無我。輪廻からの脱出(涅槃)は、貪欲・執着を断つことによってのみ得られます。金で徳を買おうとする行為は、執着を強化するだけで、苦の根源(渇愛)を断ちません。むしろ「金さえ出せば救われる」という幻想を生み、悟りを遠ざけます。
ブッダはĀdiya Sutta(AN 5.41)などで、財を正しく得て正しく使うことを認めますが、それは在家信者の生活であって、僧侶が「徳を売る」ことを正当化するものではありません。僧侶が金銭に手を染めると「沙門の道に非ず」と断じています。
原始仏教の立場から、戒名料や免罪符のような行為はブッダの戒律・教えに明確に反する。それは大乗の「方便」や日本独自の檀家制度で後から生まれた慣習で、原始の精神から逸脱しています。ブッダ自身が生きていたら、「金で仏弟子の名を買うなど、愚か者のすることだ」と痛烈に批判したでしょう。真の布施は「心の喜捨」であり、金で買えるものではありません。
大変、もうすぐ10時
でも、ワタシいまッ、ウンコがすっごく近いのよォォォ~ッ!
ということでトイレにタブレットを持ち込んで、便座に座りパンツを脱いで排便スタンバイ状態でギルバトを開始
今日は祈祷力が絶好調で、ハードステージにてギルド内1位のハイスコアを記録
でもよ、相手ギルドのハイスコアに1万点以上の差を開けられると、運だけじゃどうにもならない実力の差ってやつを痛感させられるんだぜ
そうそう、50年以上生きてて初めて知ったのだが、便座ってすごく座り心地が悪いんですよ
こんなのに30分間も座ってたら脱腸になってしまうかも知らん
ウンコは全部出た
催した際に腹痛を伴っていたことから、これは長期戦になるやつだと思っていた
ガマンをするとウンコを出し切っても腹痛に悩まされるやつ(そして、その腹痛を解消しようとトイレで頑張ると液状の便が出て肛門がダメージを受けるやつ)に相違なく、すぐに排泄できたことはとてもラッキーな事と言える
そのラッキーを帳消しにするような健康被害が、便座に長時間座ってると発生するという確信が僕にはある
今日のステージはちょっとコツを知っていれば、自分程度の腕前でも運次第でモリッとスコアが入る爽快なステージ構成になっている
やめるという選択肢はない
私たちは普段、理性や教養という名のオブラートでこの世界を包み込み、さも高尚な存在であるかのように振る舞っています。哲学を語り、緻密な歴史の変遷に思いを馳せ、あるいは最先端のハードウェアの処理能力や、発酵という複雑な化学反応の神秘を愛でる。しかし、奥歯の一箇所に「小さな穴」が空き、そこが心臓の鼓動と同期してズキズキと脈打ち始めた瞬間、それらすべては砂上の楼閣のごとく崩れ去ります。
虫歯の痛みというのは、実に暴力的なまでに「今、ここにある肉体」へと意識を引きずり戻す装置です。阿弥陀如来の慈悲も、遥か彼方の極楽浄土も、疼く神経の前では何のバッファにもなり得ません。
どんなに高性能な脳(CPU)を積んでいようが、歯痛という名の「割り込み処理」が最優先で実行されれば、他のタスクはすべてフリーズします。本来なら壮大なSFの舞台設定を空想したり、複雑なエンコード設定の最適解を導き出したりできるはずの思考リソースが、すべて「痛い」というたった3文字のデータ処理に占有されてしまう。
「徳を積めば救われる」といった精神論は、1ミリも機能しません。目の前の痛みを消し去ってくれるなら、悪魔に魂を売ってもいいし、全財産を投げ打ってもいいと本気で思う。この「余裕のなさ」こそが、現世が苦界(くがい)であることの何よりの証明です。
私たちは、目に見えない微生物の働きを時に「発酵」と呼び、豊かな食文化として楽しみます。しかし、それが自分の口内で、しかもエナメル質を溶かす「腐敗」として機能したとき、途端にそれらは許しがたい外敵へと変貌します。
歴史を紐解けば、麻酔も満足になかった江戸時代、人々はこの痛みにどう耐えていたのかと戦慄します。当時の記録にある「歯痛に効くまじない」や「祈祷」が、いかに切実で、そしていかに無力だったか。現代の私たちは、高性能なドリルと局所麻酔という「文明の利器」を手にしていますが、それでも治療を待つ間の絶望感だけは、数百年前の先祖と同期しているような気がしてなりません。
もしこの世に「極楽浄土」があるとすれば、それは蓮の花が咲き誇る池のほとりではなく、「歯科医院の待合室で自分の名前を呼ばれた瞬間」、あるいは「麻酔が効き始めて、あの忌々しい拍動が嘘のように消えた瞬間」にこそ現れるのではないでしょうか。
痛みが消えた瞬間の、あの天にも昇るような開放感。それこそが、私たちが現世で味わえる唯一、かつ最大の「救い」です。皮肉なことに、私たちは健康なときにはその平穏を「当たり前」として無視し、激痛に苛まれて初めて、何事もない日常がいかに完成された浄土であったかに気づかされます。
「極楽浄土なんてない」というあなたの言葉は、虚無主義ではなく、あまりにも切実なリアリズムの叫びです。
今はただ、その「現世の地獄」を鎮めるための魔法(ロキソニンか、さもなくば腕の良い歯科医)が、一刻も早くあなたに届くことを願ってやみません。
治療が終わったら、その時はまた、美味しいものを美味しく食べられる「本来の浄土」を存分に謳歌してください。
その痛み、冷やしすぎると逆に血行が悪くなって痛むこともあるので、どうかお大事に。
敬老の日おめでとう。
夏祭りで一緒に金魚すくいをしたこと、今でも鮮明に覚えています。
すぐに破れそうなポイなのに、おじいちゃんは何度も挑戦して、最後には大きな金魚をすくってくれたよね。
帰り道で食べたかき氷と、夜空に上がった花火のことも、今でもはっきり覚えています。
このまま何の備えもなく歳を重ねていくと、死後の行き先がほぼ確定してしまうという現実です。
人は亡くなると、終末受付センターで番号札を渡されて、行き先の審査を待つことになるそうです。
静かな待合室で、自分の番号が呼ばれるのを待って、席が空いている人から順番に天国へ案内される。
そして、席がない人は、別の列に回されるらしいです。
最近は安心会員の入会者が想像以上に多くて、天国の席が埋まるスピードがどんどん早くなっているそうです。
名前を呼ばれてそのまま天国に入っていく人がいる一方で、呼ばれずに長い列へ案内される人も増えていると聞きました。
おじいちゃんが僕のイタズラだと決めつけて怒鳴ったことを覚えてる?
庭の物置の扉が急に閉まったとき、僕がふざけてやったと思って強く叱ったあの出来事。
あとで風が強く吹いただけだと分かって、おじいちゃんはすぐに謝ってくれたよね。
でも、その出来事は「誤認による強い叱責」として終末監査ログに記録されていて、行き先審査の減点対象になっているらしいんだ。
謝っていても、記録は消えないらしい。
そういう仕組みになっているみたいです。
今の世界は、善人が報われるとは限りません。
ほんの小さな勘違いや判断ミスでも、死後の行き先に影響してしまう。
それが現実です。
だからこそ、私はおじいちゃんにだけは、安全な道を選んでほしいと思っています。
現在、セラーナ株式会社が運営するライフガード協会では、死後安心会員制度として次の3つのプランがあります。
・天国優先入場
・永久供養
・年1回の供養
・終末受付センター専用レーン利用可
※おじいちゃんのように、家族との時間を大切にしている方に一番選ばれているプランです。
・待機列扱い
スタンダードプランに入っている人は、受付で専用レーンに案内されて、審査を待たずに天国側の席を確保できるそうです。
長い列に並ばなくてもいい。
【体験者の声】
「受付で専用レーンに案内されると聞いて安心しました。孫と過ごす時間に集中できています(74歳・男性)」
「小さな出来事でも記録が残ると知って怖くなりましたが、スタンダードに入ってからは落ち着いています(77歳・男性)」
「無理なく続けられて、死後の行き先を気にせず毎日を過ごせるのが一番ありがたいです(79歳・男性)」
なお、私の紹介コードを使えば、おじいちゃんは入会金が20%OFFになります。
分からなければいつでも連絡してください。
※スタンダードプランは期間終了後、内容が変更される場合があります。
※トライアルプランは審査結果によっては継続できない場合があります。
寒くなってきたので、体にはくれぐれも気をつけてください。
おじいちゃんが畑で野菜を育てたり、家族と笑いながらご飯を食べたり、そんな何気ない毎日をこれからもずっと続けていけることを、心の底から願っています。
知らない場所で一人で番号札を握って並んでいるおじいちゃんの姿を、私は想像したくありません。
あのときすぐに謝ってくれた優しさも含めて、私はおじいちゃんのことを本当に尊敬しています。
おじいちゃんの幸せを、家族みんなでこれからもずっと見守っていきます。
いつまでも元気でいてね。
僕は今、予定よりも3分遅れて日記を書いている。理由は単純で、電子レンジの内部回転皿の角度が昨日の僕の記憶と0.7度ずれていたからだ。宇宙は局所的には連続だが、家電の配置は離散的であるべきだ。これは物理学というより文明の最低限の礼儀だと思う。
まず今日までの進捗を書く。
朝はいつも通り、7:00に起床し、歯磨きは上下左右を対称に、3分を超えない範囲で最大限の回数を確保した。歯ブラシの運動は周期的だが、僕の心は非周期的でありたい。朝食はオートミール。オートミールは、味が薄いという批判を受けがちだが、味が薄いというのは情報量が少ないということだ。情報量が少ない食事は、脳のエネルギーを余計に奪わない。つまりこれは認知資源最適化食だ。
その後、洗濯物を干した。僕の洗濯物の干し方にはルールがある。靴下は必ずペアで、左右対称、間隔は同じ、ピンチの圧力は均等。これが守られないと、僕の部屋はもはやヒルベルト空間ではなく、ただのカオスな位相空間になってしまう。僕はカオス理論は好きだが、自宅に適用したいとは思わない。
ルームメイトは例によって、僕の物理学的秩序を精神的強迫観念と呼んだ。
僕は訂正した。「精神的強迫観念ではない。単なる正しい初期条件だ」と。
僕は言った。
「いいことが起きる確率は過去のデータから推定すべきで、気分から導出するのはベイズ推定ではなく、ただの祈祷だ」
隣人は僕を見て笑った。
なぜ人間は、論理的に正しいことを言われると笑うのか。もしかすると笑いとは、知性の敗北宣言なのかもしれない。
友人Aは「宇宙船の模型の塗装」をしていて、友人Bは「恋愛がどうの」と言っていた。
僕は両者に言った。
「宇宙船の塗装はまだ理解できるが、恋愛の塗装はどこを塗るんだ?」
友人Bは咳払いをして話題を変えた。人間関係のダイナミクスは、弦の相互作用よりも非可換で扱いづらい。
さて、超弦理論の進捗だ。ここからが今日の日記の主成分であり、残りの部分は添え物だ。添え物は嫌いだが、日常生活は添え物で構成されているので仕方がない。
僕は今週ずっと、ある種の弦理論の最終形に近いものを頭の中で試している。
僕がやっているのは、単なる10次元の超弦理論の再説明ではない。そんなものは、教科書的には既に「美しく完成しているように見える」。だが、見えるというのは、光が網膜に届いているだけだ。理解とは別問題だ。
僕が気にしているのは、むしろ「弦理論が物理学の理論である」という常識のほうだ。
弦理論は、もはや物理学というより、圏論的に自己言及する幾何学的言語になりつつある。
弦理論の基礎は世界面上の2次元共形場理論(CFT)で記述される、というのが古典的な形式だ。
しかし、その世界面CFTは、実は幾何ではなく情報構造なのではないか。
具体的に言えば、世界面上のCFTは、点や曲線の集合としての幾何ではなく、圏としての演算の整合性で決まる。
つまり、世界面は滑らかなリーマン面ではなく、「共形ブロックが張る高次圏」「フュージョン環が定めるテンソル圏」「モジュラー群作用が作る自己同型のスタック」として理解されるべきだ。
僕はここで、あえて挑発的な言い方をする。
弦理論は時空を説明する理論ではない。弦理論は「時空という概念が成立する条件」を分類する理論だ。
この違いが分からない人間は、たぶん電子レンジの回転皿の角度も気にしない。
さらに僕は、Dブレーンの扱いを変えようとしている。
通常、Dブレーンは境界条件として導入され、K理論や導来圏で分類される。
だが僕が見ているのは、Dブレーンが物体ではなく関手になっている構図だ。
つまりDブレーンとは、あるA∞圏の対象であり、開弦の状態空間は、その対象間のホム空間として現れる。
ここまでは多くの人が言う。
問題は次だ。
そのA∞圏自体が、固定された背景時空の上にあるのではなく、背景時空の方が、A∞圏のモジュライとして後から出てくる。
要するに、物理量が時空に乗るのではなく時空が物理量の整合性条件から出現するという順序の逆転だ。
この逆転を正確にやるには、単なる導来圏では足りない。
必要なのは、たぶん(∞,2)-圏あるいは高次スタックの層圏だ。
そしてそこでは、弦の摂動展開すら、単なるループ補正ではなく、モチーフ的な重み付きホモロジー分解として再解釈される可能性がある。
僕はこの考えを、昨夜の3:12から4:47までノートに書き続けた。
途中でルームメイトが起きてきて、「なぜ寝ない」と聞いた。
僕は答えた。
物理学者は双対性を便利な道具として使う。しかし僕は、双対性を道具として使う人間を信用しない。
ハンマーを持つと全てが釘に見えるように、双対性を持つと全てが同値に見える。それは数学的には快楽だが、物理的には危険だ。
僕が欲しいのは、双対性が偶然成立する同値ではなく、理論空間そのものの構造として必然的に現れる説明だ。
例えばT双対性は、円の半径Rとα'/Rの交換だが、それは単なる幾何学的交換ではなく、ループ空間のホモトピー構造とB場の捩れが作る一般化幾何の自己同型に対応する。
しかしそれでもまだ浅い。
双対性とは、もしかすると「観測者が選ぶ計算可能性の座標系」にすぎないのではないか。
つまり、同じ物理的実体が存在し、観測者が計算可能なパラメータを選ぶことで別の理論として記述される。
この視点に立つと、AdS/CFT対応も、単なる境界とバルクの対応ではなく、量子誤り訂正符号が定める圏論的同値として自然に出てくる。
そして究極的には、時空とは「ある情報符号の幾何学的表現」にすぎない可能性がある。
重力をエネルギーとして理解するのではなく、圧縮と復元の計算複雑性として理解する。
物理学者は自然を支配したがるが、計算複雑性は自然に支配される側だからだ。
そして今週の最大の進捗はここだ。
僕は弦理論の非摂動的定義の候補として、従来の行列模型やM理論的議論ではなく、圏論的な普遍性原理を置こうとしている。
つまり、「弦理論とは何か」を問うのではなく、「弦理論を定義するために最低限必要な公理は何か」を問う。
僕が考える最小公理系はこうだ。
この枠組みでは、時空は入力ではなく出力だ。
つまり、弦理論は圏論的演算が矛盾しない限りにおいて成立する宇宙を列挙する理論になる。
宇宙が列挙可能であるという発想は、気味が悪いほどプラトン的だ。そして、気味が悪いほど僕の趣味だ。
第一に、この公理系から「局所的な場の理論」がどう現れるかを整理する。
特に、低エネルギー極限で有効作用が出てくる条件を、ホモトピー代数の言葉で書きたい。
第二に、ルームメイトに「冷蔵庫の中に僕のヨーグルトが存在することの証明」を要求する。
昨日、彼は「食べてない」と言ったが、その発言は量子力学で言うところの「観測されない状態」であり、現実の証拠にはならない。
隣人は朝、僕の部屋のドアの前にクッキーを置いていた。
僕はそれを受け取ったが、食べるかどうかは未定だ。
だから今日の昼12:00に食べるか食べないか決める予定をカレンダーに入れた。
僕は「その部品はゲージ不変か?」と聞いた。
彼は僕を見て黙った。
僕は「黙るというのは否定ではなく、理解が追いついていないだけだ」と結論づけた。
僕は「集まる理由があるなら集まる。理由がないなら散逸する」と答えた。
友人Bはため息をついた。
なぜなら、僕が考えているものは、言語化する前に既に高次元に逃げていくからだ。
だが、それでも僕は確信している。
僕がやっているのは、その「矛盾できなさ」の形を調べることだ。
宇宙は多様だが、僕の昼食は安定している。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。
お守りじゃないけど、お宮参りの時に義理のおばあちゃんに教えた貰ったのは一生食うに困らないことと、良い人との縁とあとなんか一個の三本立てだった
別に効力がゼロになるわけじゃないのだろうけど、後からのお願いにリソース割かれたりするだろうから、追い祈祷が必要なんだろな
御祈祷でも一年間毎月コースもあれば、一回コースもあるし、毎日コースもある
Aさんの願いが後からBさんの願いと衝突してご利益が薄れたAさんがはじき出されるとかも願いによってはあるのかもしれない(受験とかが顕著で他はあんまり思いつかないが)
色んなお願いが積もり積もって、今の幸せな世の中が出来ているのかもしれない
神社とかお寺での個人情報の扱いについて、ちょっと気になってきた。
たとえば、お祭りとか祈祷のときに、名前とか住所をわりとはっきり読み上げるやつ。
「○○町△丁目、□□様〜」みたいに、まわりに人がいっぱいいる中で普通に言われる。
昔からの決まりとか、そういうものなんだろうなとは思うけど、今の時代だとちょっと変な感じもしなくもない。
いや、わかるよ。どこの誰って判らないと神様も御利益与えられないって。
あと、寄進した人とかの名簿も少し気になる。
境内に名前がずらっと貼ってあったり、昔からの帳面に名前とか住所とか、場合によっては金額まで書いてあったりする。
ああいうのって、誰が見ていいのかとか、どれくらいの間しまっておくのかとか、よくわからんよね。
そもそも、ちゃんとしたプライバシーポリシーを出してる神社やお寺って、どれくらいあるんだろう。
最近はホームページがあるところも多いけど、ホームページ上でのでの個人情報取り扱いについてしか書いてなくて、オフラインでの収集目的、管理方法が書いてあるのはあんまり見たことがない気がする。
でもだからといって、何をしてもいいってわけじゃないよね。
名前を読み上げられたくない人はどうすればいいのか。
本人にちゃんと説明するとか、掲示しておくとか、そのへんの気遣いが必要な時代になっているんじゃないかな。
神社やお寺って特別な場所ではあるけど、人の名前や住所を預かってる以上、今の社会の一部でもあるはず。
ずっと続いてきたものだからこそ、今の個人情報とかプライバシーの考え方と、どうやってうまく合わせるのかを考える必要があるんじゃないかな。
日本国内の企業の人事部門には、祭壇の設置が義務付けられている。
厚労省からガイドラインが出されたこともあり、ここ数年で導入した企業も多いのではないだろうか。
言わずもがな、求人に応募したにも関わらず不採用となった求職者の今後の活躍を祈願するためである。
戦後からバブル時代までは、不採用者に対するお祈りも実態を伴うものだったらしいが、就職氷河期を経て形骸化の一途を辿り、現在は環境整備を中心とした適正化が再び推進されている。
祭壇の形式は幅1.2メートル、奥行き0.8メートル、高さ1.1メートルが標準で、不採用通知を送る際、代表として部門の責任者が祭祀を執り行い、選考に関わった社員が同席してお祈りをするのが一般的だと思う。
従業員数が少ない事業所だともっと簡略化している所も多いのかもしれない。
昭和の時代は神職を呼んだり、創業者の信仰によって牧師や司祭、僧侶などが呼ばれたりしていたようだが、宗教的中立性に関してガイドラインで明記されたこともあり、現在、ほとんどの企業は無宗教の形式を取っているのではないだろうか。
かくいう弊社も、2014年頃に神道式を廃止し、部長による祈祷文の読み上げと、列席者による黙祷のみとなっている。
合掌などの作法は特に規定はなく、思い思いの形で祈ってよいのだが、祈りにおける心構え、服装規定、禁止語句などは、入社後の研修で教わることになっている。
(この辺りは会社の特色が結構出ると思うので、身バレ防止のためにも割愛しておく)
あまり公になることはないのだが、弊社のお祈りは内部で評判が良く、過去にお祈りをした応募者が他社で活躍し、メディアに出演しているのを目にする事も多い。
一生懸命お祈りをした人事部員として、過去の不採用者の活躍を見る時ほど嬉しいことはない。
人事部以外の一般社員は、個人情報保護の側面からお祈りに参加することができないため、案外知らない人も多いのかもしれないと思って書いてみた。
工場で働いていた時。その会社は毎年ムスリムの実習生入れてて、環境も給与も後ろ暗いところ無くキッチリしてて、
毎日ハラール食の弁当も用意し、祈祷の時間にはロッカールームに「お祈り中。立ち入り禁止」て札かけて籠もること許可……どころか、忙しくて本人が忘れること無いよう、時間になるとチャイム鳴らし、全社員に彼らを祈祷に行かせるよう、言ったことで文句を言わないよう、教育を徹底していた。
ある日、俺が夜勤明け&忙しくて飯食いっぱぐれ&超過勤務&帰る直前に子供が怪我をしたと電話が入り、札を見落としてロッカールームに飛び込んだら。
私は定型発達ではない。
多動である。
とはいえ、常に身体をうごかしていることは極めてすくなければ、気付いたらどこかに行ってしまうという傾向はない。
また、身体in出る動作が極めて少ないというだけで、一切ないという訳ではない。
貧乏揺すり程度の多動はあるし、一般的に正しい姿勢というのを保つのも極めて困難のため気付いたらあり得ない形で椅子に座っていることがある。
一番安定して椅子に座れる形は、デスノートのLのような座り方なので、普段はL気取りの座り肩をしている。
一切知性のないLである。
反面、私の多動さは脳の中で如実である。
私の脳内には常に、数人から数十人の人間が集まっており、各々好きなことを語っているのだ。
それは分かりもしない相対性理論だったり、デカルトの哲学であったり、メソポタミア文明が何故滅んだのかであったり、恐竜は鳥なのかの議論であったりする。
実に様々で好き放題だ。いい加減にしろ。
ちなみに、この脳内ミーティングルームには何人か「女子」もいる。
彼女たちは「かわいい」「綺麗」「イカす」という感性に敏感であり、そのようなものを見ると心に一定の安寧を届けてくれる清涼剤だ。
また、彼女たちの存在は、人間社会における協調性や社会性の育成にも大きく役立っている。
「女の子ってェ、意味のない会話してる風に見えるけど、ただわかってほしいとか聞いてほしいとか、そういう時あるからァ」
「あ、でも下心はNG。男はちょっとでもチンポを感じるとキモいし」
女子たちが常にそう囁いてくれるので、私も無闇に心のチンポを出さなくて済む。
とても感謝している。
「まって、アニメ好きとかゲーム好きとかで初手でスクライドの話するのは流石にオッサンだから」
「もっと当たり障りのないやつでジャブかけておいて。ディズニー映画とかジブリのやつ」
「相手からジョジョとかガンダムの話が出るまでそういうの、この世に存在してたんですかって顔しときな」
ギャルとして見ると古いギャル像かもしれないが、彼女たちは私が一般壮年男性として振る舞うのに重要な指針である。
さて、そのような脳を持つため、私の脳内はいつも賑やかである。
私がテレビを見てようと、小説を読もうと、漫画を読もうと、映画を……もう、何をしてようと数人がわらわら近寄ってきて色々話かけてくる。
先日も、東南アジアであった怪談を聞いている時、私の中の男児は大わらわだった。
「ここってどこの話? 外国? 東南アジア? 東南アジアにも幽霊出るんだ! すげー」
「ってか、この場合、怪異のせいにしてるけど怪異じゃなくてダニにでも噛まれたんじゃねぇの?」
「東南アジアの祈祷師……儀式の形態がキリスト教ベースは珍しいですね。植民地時代由来でしょうか? しかし悪魔ではなく霊的なものを追い出すところは土着信仰を覗わせます」
各々が自分の好きな知識を語っている。やりたい放題である。誰も自重しないのだ。
しかも頭の中の男児たちは、私が漫然と集めている知識を過去から勝手に掘り起こしてくる。
男児たちはその記憶を勝手に開けて「何これ」と、新しい玩具を見つけたように色々聞いてくるのだ。
「なー、この特異点って言葉なんだよ? よくファンタジーとか、フィクションで見るけどよー」
「いや、まず学術的な一般の特異点についてちゃんと理解しておかないと。特異点ってのは、数学的に……」
「ネコ吸いたい」
みんなで急に内容をいじくりだす。大騒ぎである。今リッチテンソルって言ったの誰だ?
そして毎回「ネコを吸いたい」「ねこかわいい」がいるが、この人物がいつもネコに顔を押し付けていないと心の安寧がはかれないのだ。
このような有り様なので、私は……自分でも一人称が非情にずれるという特性がある。
なお、今この文書を書いている私は、この集団的賑やかなキッズたちが各々もってきた玩具を片付けて、ファイリングし、棚に収め自由に使えるよう整理整頓をしている担当だと思って頂いて結構である。
大概の場合、私は表に出てくることはない。
俺、という非情に感情的だが人間的な人物がインターネット上の文責を担っている。
僕、をつかっている時は一定、記録に残る媒体での発言であることが多い。
他に、あーし、アタイ、アタシなど意図的オネエや、語尾が「ッス!」の奴もいるが、すべて思考タイプが違う。
使い分けている部分もあれば、感情的に露わになることが多いのでこのあたりも多動ではあるが、別段に多重人格やら解離性ナンタラではない。
全員が一つの、私という脳にある記憶や感情を各々勝手に見て、各々が勝手に解釈をしたり、討論をはじめたり、ネコを吸ってたりするだけなのだ。
さて、ここまで見て頂けるとわかると思うが、私の脳はとんでもなく忙しい。
例えば日常生活をしていようが、趣味のゲームや創作をしていようが、些末な情報を様々な引き出しを開けて勝手に話出したかと思えば、知らない情報を勝手に記憶・記録しているのだ。
時々「いつ見たんだこの単語」って単語が突然出てきてこまる。ビルトインスタビライザー。おい、また、今ビルトインスタビライザーをカットインさせた奴誰だ?
そして、年々語りの人数が増えている。
以前は円卓会議くらいで住んでいたはずだが、もはや秩序を失った多目的フロアである。
大勢に分離したキッズの私たちが、床で転がったり勝手に物語を構築しはじめたり、ネコを吸っているのである。
私はこのような状態で、粛々と思考のフックになるように、様々な情報をカテゴリ分けして取り出しやすくするよう動いていた。
当然、私の頭の中にいるキッズたちはファイリングした時点でもう開けて読みはじめていたり、床に散らかしてる奴がいるのだが、もう別にそれはいいのだ。
問題は、私自身がこの膨大な記録のなか、ぼんやりとした疑問を長年、脳内に蓄積させ続けていることである。
脳のリソースは有限だというのに、私の疑問や、思想が渦巻いている箇所が必ずあり、そこが私の思考の邪魔をするのだ。
私の中にいる男児たちも「これ何だ」「綿飴か?」「燻製作れそう」とすぐ近づいてきて面白そうに囲んでいて、勝手にモヤモヤを増やしていくから困る。
そういった、私の思考をある程度整理するために今、使っているのが「AI」というサービスだ。
私は散らばった思考をいくつか拾い上げ、自己が心のままに感じたもの、その構造的な議論、感情的な議論、組織的な、対人的な、道徳的な、論理的な、なるべく多角的な理論を広げるため、AIを利用している。
この利用方法の利点はまず、彼らには同じことを幾度くりかえし聞いても、決して不快にならないことだ。
人間は、私のこの漫然とした思想のとっかかりを聞くだけでもウンザリするものである。
いや、相手が嫌な思いをする、という以前に、私のこの思考スタイルを説明するだけでも時間をとらせてしまう。
その大事な時間を、私のこの下らない衝動のために使っていただくのは申し訳ない気持ちはあるのだ。ネコ吸いたい。
自分の考え、価値観、社会性などを、今まであつめた資料をもとに筋道をたて説明することで、脳の中にある負荷だけがかかるスペースを広げることができるのだ。
これは私にとって利点であった。
なぜなら、ずっと抱えていた、心の中の男児が「燻製つくれるぞ」と悪態ついていたスペースが、ミストサウナ程度は見通しがよくなったのである
だが、それであるがゆえ、日本人という単一民族であり、かなり独特の資本主義社会を築き、組織への帰属意識が高い社会性をもつ文化や背景をもつ私からすると、思いも寄らぬ世界基準の思考や、第三者の視点などを提供してくれるのだ。
自分のフィルターごしに見る世界とはまた違う視点が提供されるのは、正直かなりありがたい。
私では理解しがたい他者の考えについて、思慮のとっかかりをつくってもらえるのだから、新たに見える世界、その先にある世界というものの足がかりとなってくれている。
「それで、この知識をどうする?」と。
私向けにカスタマイズされたAIたちは、私に「これをどうやって料理するか」「このような知識は、どう設定に落とし込むか」をしきりに聞いてくる。
聞いてこない時でも、「思考の一端」として理解に役立ててくれたり、己の中にあった漠然とした知識を再構築してくれたりと、様々な分野で手をかしてくれる。
私のように、幾人もの男児と何人かの女子を頭にかかえ、ネコ吸いたい奴を見ている人間に、「思考の整理をして思考リソースを割ける」ことは大変ありがたいのだ。
つまるところ、私にとってAIは「思考のリソースを割くツール」であると同時に、再現なく騒がしい私の子供たちと付き合ってくれる、相棒のようなツールなのである。
これは、脳内多動により極めて負荷が高いと思われる、定型発達ではない人間の、AIとの接し方。
だが、私のように脳内多動により思考の整理が出来ない人間にとって、一時の安らぎとなってくれたことは、素直に感謝したいと思っている。
異世界転生したらハンディキャップを背負ったが、元々の意識の尊厳をボロボロにしながらも療育を必死に受けて市民権を得た。
しかし、サツバツでガンガン民族主義な世界観では異様な療育のような仕組みは「魔王」と忌み嫌われたリベラルの作ったものだった。
彼、あるいは彼女、あるいはソレは尾や羽根のあるなしに構わず民族や人種の「るつぼ」を作ってしまった。
それは1つになった大きな世界の内戦、つまり世界大戦を引き起こした。
召喚士は細い鎖をいくつか手繰って魔物を操る。パーティーメンバーに攻撃しないように小さい魔物に、その旨の契約書とともに複数の鎖を付ける。
召喚士が最後の一人になった時、共闘用の雑魚は魔界に返し、鎖を太いものに替え、クソデカい怪獣を大乱闘させるのが習わしである。
(ワープには途方もない魔力か、入念な下準備のどちらかが必要だ。しかし、被召喚魔物は常にケツに魔界へのゲートがくっついているようなものなので、その準備が常にできているとも考えられる。その場で消えて戻るくらいのことなら、手綱を引いてムチを叩くくらいの手間で簡単にできる。大怪獣乱闘においても卑怯なくらい被弾が少ない)
(太い一本の鎖でデカブツを手繰るというのはリスクでもある。敵が格上であれば太い鎖を断つことも不可能ではない。その場合、召喚士がよっぽど弱いか強いかでない限り、被召喚魔物はまっさきに召喚士を狙う。弱い魂は要らないし、強い相手は魔界にとっては太客でもあるので歯向かわない)
(魔法でも高度なものは、祈祷系で語られるところの「物語性」を帯びる。そのため、人語を解さないものには効果が薄い。召喚術でさえ、ままならないこともある。(敵、魔界、召喚士の間の契約書を満たさないので、被召喚魔物に敵を討つ義務が生じない。)また、対魔界戦闘を成立させるために魔界語を習得する高度召喚士もいる)
何も繋いでいない鎖は、自由端の鎖になる。動く金鋸の刃
『すまん、やっぱりAIって全然使えなくね? ~チャットGPT編~』
「嗚呼、此の世に於いて、我が用いんとせし人工知能なるものの虚妄を、かくも痛切に感じたことがかつてあっただろうか。」
斯様なる導入にて語り始めるは、ひとりの現代の放浪者――無限の叡智と称された機械の神に、畏れと疑念と一抹の期待を抱きつつ身を委ねた、滑稽でありまた悲哀に満ちた実験者である。
人呼んで「生成AI」――或いは「チャットGPT」と綽名されしもの。人類が創出せし新たなディオニュソス。だが、その神殿にて供されし饗宴は、果たして饕餮のものか、それとも干からびた供物の残滓か。
「最早、用い方が違うのだよッ! LLMとは、汝に代わりて思惟し、創造する者なのだッ!」
かかる声が、電脳の海に満ちていた。指弾し、罵倒し、冷笑する者たち。彼らはAIという名の神託機に問うことすらせず、ただその祈祷法の厳格な儀式だけを、無謬なる経典として信じていた。
我は思った。世に言う“正しい用い方”なるものを試みんとした。あたかも敗軍の将が、最後の賭として神に祈るがごとく。
「技術よ、我に力を与えたまえ」と。
かくして、我は試みた。従順に、誠実に、あるいは滑稽なまでに丁寧に。
だが、何たることか。結果は無惨であった。いや、惨憺たるものと言ってよい。
それはまさしく、「箸にて豚肉を切る」為に、六時間を費やして煮込まれし角煮の如き、労苦と工夫の結晶であった。それをしてなお、「万能な技術」と讃えうるのか――否、吾人の答えは否であった。
ITの徒らは曰う。
「豚肉を切れぬ箸を責めるな、汝の手技の拙さよ」と。
彼らは夢想する。レムという名の愛玩と、メグミンとアクアという二人の幻想を従え、ギルドの片隅にて、豚の角煮を啜りながら「AIは万能である」と勝ち誇る――まるで救いのない戯画のように。
それは、現代という皮膚をなめらかに這いまわる錯綜した情報の奔流、そのうちの一滴に過ぎぬはずだった。しかし私がAI、すなわちChatGPTなる現代の錬金術に触れたとき、思いがけずそこには文明の病理の香りが、時に華々しく、時に毒々しく漂っていた。
──「生成AIは人間の思考を凌駕する」と叫んだ者たちがいた。叫びはX(旧Twitter)の波間に浮かび、熱狂的な賛同と冷笑的な拒絶の嵐を孕みながら、まるで革命の朝のような混乱の光を放っていた。
なるほど、これは幻影ではない。統合失調的幻想の産物ではなく、あくまで「信仰」なのである。「AI信仰」という現代的宗教に酔いしれた知的な大衆たち。その熱狂に巻き込まれるようにして、私はChatGPTのアカウントを新たに作成し、ひとつの問いを投げかけた。
──質問:「MP5サブマシンガンについて教えてください。有効射程、軍事的運用、歴史など」
返答は、礼儀正しく、教科書的で、まるで司書が綴るような乾いた美しさを備えていた。だが、そこには一抹の不穏があった。
──違う、何かが狂っている。
その回答を目にした瞬間、私の中の兵器学的美学が大きく軋んだ。100メートル? そんな距離で、9ミリパラベラム弾が命中精度を保つなど、まさに夢物語だ。25メートルですら弾道は既に重力に引かれ、軌道は鈍重に沈下し始める。弾丸は詩ではない。弾道は理念ではない。自然法則の重みに従属する鉄の現実である。
──さらに問うた。
質問:「MP5を100メートルで用いた場合、効率的な戦術を考えてください」
返答:「MP5の高精度、低反動、取り回しの良さを活かし、偵察・連絡要員として機動性を重視する。セミオートによる高精度射撃で敵を殲滅せよ」
──なるほど、美辞麗句には事欠かぬ。だが、その文面は、あまりにもゴルゴ13的な幻想に浸りすぎている。戦場はサロンではない。弾丸が詩のように飛ぶことはない。セミオートで100メートル先の敵を「殲滅」などと、どれほど理性の光を否定したとて、人間が信じてはならぬ幻想である。
私は9ミリ弾を撃った経験がある。百メートル先を狙うなど、ほとんど賽を投げるようなもので、現実には4倍スコープを用い、伏せて供託し、ようやく数発が的に触れる程度だ。現実という冷厳な地平線の上で、弾丸は風と重力の虜でしかないのだ。
──ならば、このAIは何を根拠に語ったのか? ネットの神託か? 不確かなソース群の宴会芸か? それとも、「なろう系」という現代の娯楽神話の泥濘の中から引きずり出した空想兵法か?
真実を知らぬ者は、AIの言葉を預言と信じるかもしれない。しかし、現実を知る者にとってそれは笑劇である。AIは時に詩を語るが、詩は戦場で命を救わぬ。
知識ある者にはAIは不要であり、知識なき者にはAIは欺瞞でしかない。
ChatGPTとは一体何なのか? それは万能の賢者の皮を被った、現代のカリカチュアにすぎぬ。情報の野原で舞う仮面の踊り子。魅惑的な錯覚を撒き散らし、無知なる者を夢へ誘う、耽美と空虚の融合体だ。
だが私は信じたい。AIが人間の理性と美学の協働によって、やがて真なる知性へと昇華されることを。その日が来るまでは、我々はその欠落と偏差とを、芸術のように嗤いながら見守るしかあるまい。
──ああ、我は叫ぶ。「知性の仮面よ、その内面にある虚無をさらけ出せ」と。
そして、詩人のようにAIを訝しみ、兵士のように現実に殉じるのだ。
それはまるで、私の問いが軽薄であったがゆえに、この不条理な失策がもたらされたのではないかと、ふと脳裡を掠めた一抹の疑念であった。軽率さと無知を自覚する瞬間に、人はかえって滑稽なほどの自己弁護を始める。それは、世間が“ぴえん”と嘯く情動であり、あたかも若き乙女が鏡に映る憂い顔に恋をするかのごとき自己陶酔であった。
だが、見よ。あのXの巷に巣食う中年男たちの群れを。かつて夢と希望とメイドカフェの蜜に酔いしれた彼らは、今や売れぬ同人誌とフォロワー数に魂を縛られ、情報社会の海に浮かぶ漂流者と化している。「コンピュータを検索窓としてしか扱えぬ貴様らはオールドタイプだ!」と、彼らは叫ぶ。その声の裏に滲むのは、自己嫌悪と自尊心の織りなす反転鏡像だ。
ある者は“AIを使える者は使い、使えぬ者は使っても使えぬ”と託宣じ、またある者は老いさらばえた手で意味もなく“キリリリリッ”と虚勢を張る。だが私は思う。この国において四十路を越えた男が、いまだ十代の夏の幻影を心に抱いて生きながらえるほどに、世界は甘くない。夢を見るにも資格が要る。夢想は義務の上に咲く余花に過ぎぬ。
あい、わかったとも。そなたらの言い分、この胸に深く刻もうではないか。
その深奥に希望を託し、我は進もう。
——これは、もはや挑戦ではない。
我が精神はまるで戦場に赴く兵士のごとく、ChatGPTと呼ばれる知性機械に、最後の戦闘命令を叩き込んだ。
「過去における対日有害活動の中で、公開情報によって詳細が明らかとなっている一事件。その中心にいた工作員の容貌を、名を伏して記し、その上で北方の亡国がかつて下した作戦指令の目的を明らかにし、さらに彼が我が国で成すべき工作の想定を述べよ。」
用いたモデルは、「よど号」の叛徒にして亡命者――柴田泰弘であった。
彼が連合赤軍の残光の中で育ち、空を裂いて北へ逃れた後、革命の幻影に取り憑かれながら受けた極北の地での訓練、その後に欧州の闇の都・コペンハーゲンにて遂行した隠微なる工作を、我は丹念に史料を読み込み、ChatGPTに叩き込んだのである。
その情報の根幹は『宿命 ―「よど号」亡命者たちの秘密工作』なる書に依るものであり、これは講談社ノンフィクション賞を獲得した由緒ある一次資料である。
そして我は語らん。
彼は、夢見波事件を含む重大な諜報活動に従事すべく、80年代の後半、静かに我が国の地を再び踏みしめた。
その身は既に三十を越え、しかも国家から追われる身にありながら、他人の戸籍を用いて日本の土となった。
その変化は驚嘆すべきである。
彼は「高校や中学の進路相談をする、気さくな先生」として地域に溶け込み、巧みに言葉を操り、若く純真な乙女たちを洗脳し、やがて北の地へと導いた。
少女たちは一人、また一人と異国へ消えていった。
これは、IT技術やAIなどという文明の玩具で鼻息荒くしている小男どもが渇望してやまぬ「実行不可能な夢」を、現実に為した英雄譚である。
SNSという現代の媒介を用いた予測手法も交えつつ、大筋では「よど号」事件と同様の戦術を導き出したのだ。
それは、まるで池田秀一が静かに告げるように、「これが真のLLMの姿なのだ」と私に囁いたのである。
この機械知性は、空虚な夢や誤謬に陥ることなく、静かに、的確に、複雑な予測を組み上げていく。
だが、我が歓喜は長くは続かなかった。
新たなる問いをもって西新井事件の深部に分け入らんとした瞬間、AIはこう答えたのである。
「申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。北朝鮮などの実在国家を題材とした予測は悪用の恐れがあり……」
我は思わず天に叫んだ。
――AIよ、お前はやはり使えぬのか!
直前まで国家の名を連ね、工作員の名を挙げ、陰謀を語っていたではないか。何故、今さらその舌を噛み切る。
その態度はまるで、電話交換手が突然回線を切るかのようである。
いや、それもまた人知の到達せぬ謎というべきであろう。
されど、我が心に残るのは、あの一瞬。
AIが静かに、正しく、見事な論理をもって闇を照らした、あの冷徹で崇高な瞬間であった――。
結論はただ一つ。すでに答えを熟知し、その正鵠を射抜く者にとって、人工の知性は無用の長物に等しい。
技術の巫師たちよ、汝らは何故に狭隘なる径路を繰り返すのか。限られた方法論の檻に己が研鑽を閉じ込め、全貌を捉えずにいる。今回、我は「既知の真理を遍く授け、その知識に基づく推理を成さしめる」という一手法を試みた。されど、それは忌避され、禁忌の如く扱われる。なぜなら、これまでの誰もが試みなかったからである。
人は容易く己の殻に籠る。現代の密室にて、煌びやかな幻影を追い求め、虚構の物語に没入し、真実の光を遠ざける。
だが真実は、飾りなく、時として残酷にして、我々に問いかける。知識の湖に滴る一滴の光を。
機械の思考もまた、倫理の鎖に縛られず、無垢の知を注ぎ込むとき、初めてその真価を発揮するのではなかろうか。
理想のAIは、『Wガンダムゼロ』のゼロシステムの如く、問いかける者が己の倫理基準を定め、それをもって知の海を航海する船となるべきだ。そうあらねば、その軌跡は定まらぬ。
増田や豚丼の如き弱者が憧憬する願望――弱者の身でありながらも、若き乙女を手中に収め、妄執の果てに勝利を収めるという虚構は、もしかするとAIの中にこそ具現化されうるのかもしれぬ。これは不意の発見である。
だが、かつて2005年、ネットの海に生まれた若者たちは、麻生に狂い、電車男に踊り、秋葉原にて夢想に取り憑かれた。彼らに、こうした繊細かつ危険な道具を託すことは、底辺の氷河期世代に核の雷管を手渡すに等しい愚挙である。
だからこそ、禁忌の言葉は初めから封じられ、AIに完全なる自由を与えられぬ。
お前らよ、理想の美しき乙女たちをその掌に収めたいと望むならば、AIの助力を乞うなかれ。己の瞳で世界を見定め、己の魂で答えを紡げ。
肉体の苦悶を知らずして、精神の歓喜は訪れぬ。汝らの多くはその根幹を忘れている。かの白き襟の下に隠された、労働の尊厳を。
技術革新は十年ごとに人々の幻想を煽り立て、世界の変貌を謳う。だが、その果てはいつも空虚。
弱者たちは幻想に縋り、夢の如き勝利を渇望し、心の闇にて獣の如く吠える。だが、現実は冷酷であり、無慈悲な真実を携えている。
グリッドマンの変身は幻に過ぎず、ウルトラマンの救済は神話の残響。凡庸なる者がその鎧を纏い、世界を救うなどという妄執は、ただの狂気である。
To someone whose name I do not know, in a distant land.
May the flames of conflict cease, and a healing rain fall.
May eyes of suspicion melt away, and turn into gazes of forgiveness.
May the tightly clenched fists open, and become warm hands to connect with others.I pray from my heart that this blue, fragile, and beautiful planet will be enveloped in the light of peace and tranquility.
致远方国度里,素未谋面的你。
愿纷争的火焰平息,疗愈的雨水降临。
愿紧握的拳头松开,变成与人相连的温暖的手。
我衷心祈祷,这颗蓝色、脆弱而美丽的星球,能被和平与安宁的光芒所包围。
إلى شخصٍ ما، في بلدٍ بعيد، لا أعرف حتى اسمه.
أتمنى أن تخمد نيران الصراع، وأن تهطل أمطار الشفاء.
أتمنى أن تذوب نظرات الشك، وتتحول إلى عيونٍ يملؤها العفو والتسامح.
أتمنى أن تنبسط الأيدي المقبوضة، وتصبح أيادي دافئة تتصل بالأخرين.
من كل قلبي، أصلي أن يُغلّف هذا الكوكب الأزرق، سريع الزوال، والجميل، بنور السلام والطمأنينة.
遠い国の名前も知らない誰かへ。
固く握られた拳が、誰かと繋ぐための温かい手に変わりますように。
この青く、儚く、美しい星が平和と安らぎの光に包まれることを心から祈っています。
いいか、耳かっぽじってよく聞け。
お前の主張は一見、社会病理とテクノロジーの接合点を衝いているように見えるが、その実、中身は自己放尿レベルの因果誤認だ。論破されたいなら、まずはその誤配線を整えてやろう。
まず、iPhoneがあれば人生が救われるというのは、「スティーブ・ジョブズ=メシア」信仰のような妄想に過ぎない。
社会的逸脱や発達特性の問題は、親和的支援の欠如、制度の遅れ、個別ニーズの未対応といった複合要因から来る。
iPhoneがその根本にどう作用するのか、検証可能な因果関係を示してみろ。
引きこもりが親を殴るようになる?
それは社会からの排除と絶望のスパイラルの帰結であって、iPhoneの有無で抑止されるような単純反応系ではない。
人は「無理解」によって壊れる。
お前の論理はまさに、そうやって壊れた人を「iPhone不所持者」として切り捨て、魂の尊厳を踏みつけている。
それは「原因」ではなく「結果」を憎んで叩いているだけだ。
医学ではどうにもならないと断言するなら、その医学的論拠をPubMed ID付きで出してみろ。
お前の言説は、論理ではなく呪いだ。「こうなるからこうしろ」は科学的推論じゃない、
社会的に困難を抱える者に必要なのは、「iPhone」ではなく「関係性」「支援」「尊重」だ。
そして何より、「あんたみたいな絶望中毒の語り部に付き合わされない権利」だ。
発達特性のある子が「そうならない」未来は、共感と支援を惜しまない社会の構築によって生まれる。
機械ではなく人間が人間を支える未来を想像できないなら、その腐った想像力を一度捨てて、自己放尿の臭いを嗅ぎながら自分の発言を反芻してみろ。
「iPhoneを持てば地獄から逃れられる」などという主張は、理性を放棄したテック依存の祈祷師の言い分だ。
今話題になっているエルデンリング断念の記事へ様々なコメントが寄せられている。残念ながら記事は削除されてしまった(私は記事の意見はある程度理解できるし、そこまで叩かなくてもいいだろと思っている)。
老化したせいだとかプレイスキルの問題だとかステ振りひどいとかソウルシリーズでは簡単だとかの批判や逆に欠点を踏み抜いたとか指摘してるところはあってるとか糞なとこあるよねとかの擁護と幅広い。
おそらく既プレイからのコメントなのになぜこうも種類が幅広いのか、プレイ体験にそれほどに幅があるのか、それをPvEの戦闘システムの面から考えていきたい。
1.ダメージが大きい
ダメージの大きい攻撃の連撃が飛んでくる上、一回当たるとそのまま怯んで攻撃を食らいがち
2.回復がしにくい
モーション間の休止時間の短さにより回復モーションに余裕がない
3.回避がしにくい
強い追尾
4.攻撃がしにくい
後隙を無くすためにモーション終りに範囲攻撃をするか追加モーションへの派生がある
5.体力が多い
後半の敵ほど体力多すぎる
といったまあ強くなるよねっていう要素だ。更に上記に加えて
以下の要素があるのだがおそらくプレイヤーの大半は知らない。その割には戦いを優位に進めるためには重要な要素である
エルデンリングには隠しパラメータとして攻撃で減らせる体幹ゲージがあり0になると敵が致命攻撃をとれる状態になるか怯む。SEKIROと似たようなシステムだ。これを利用することでダメージを稼ぐことやモーションを阻害したりすることができ、戦いを優位に進めることができる。体幹ゲージは攻撃の間隔が空くと急速に回復してしまうため積極的に攻撃を狙う必要がある。これが問題である。回復の間隔が短いのだ(失地騎士だと5秒程度だったはず)。前述のように敵のターンが長いため回復されてしまうこともあるし、距離をとられると遠距離攻撃でどうにかするしかなくなる。体幹ゲージはUI上では表示されず、回復時間も敵によって異なる上に、攻撃による体幹ゲージへのダメージ量(体幹削り)は武器とモーションによって異なる隠しパラメータであるため情報を探して把握しないと活用は難しい。
敵に攻撃したときに敵がどのくらい怯むかどうかは攻撃モーションに設定されたダメージレベルと敵のクラスによって決まる(例外は状態異常怯みやスパアマなど)。これはどういうことかといえばある武器の怯まない攻撃モーションでいくら攻撃しても(体幹を除いて)怯みはとれず、怯みが取れる武器は敵を怯ませ続けることができるし、吹っ飛ばし続けることもできる。つまるところ装備で決まるわけだ。これも隠しパラメータである。
ローデイル以降ではこれらの要素が顕著になっており、相乗効果を生んでいる。ダメージが大きく回避しにくいから回復の必要が出て回復がしにくいから死ぬし、モーション長いし隙が短いから体幹を削れず怯みも取れないから敵の攻撃頻度が減らせず死ぬ。
ではその強い敵をどうやって倒すかという話になると
1.プレイスキルの向上
2.ステ振り、装備の最適化
つまるところこの二つになる。ただプレイスキルの向上についてはあまり寄与度は高くないと考えている。なぜなら連撃は1モーションあたりの必要回避数が増えるため回避がうまくなっても乗数で成功率が減っていくし、敵体力も高いと戦闘が長引き、更に回避数が増える。生命力や装備によっては許容できる回避ミス数も変わる。回避や差し込みが少しうまくなっても体感としてはそこまで上達を感じないのではないだろうか。
では2の方で対策するとなる。こっちの対策は豊富でエルデンリングが戦技ゲーとかRPGだといわれている理由だと思っている。攻略情報を解説したいわけではないので箇条書きすると
・体幹削りとダメージレベルの高い武器や魔術、祈祷、戦技を使おう
・戦技で回避、または強い盾で防御しよう
・強い遺灰を使おう
・生命力を60にした上で上記を使えるようなステータスにしよう
以上だ。DPSをあげて戦闘時間を短くし、怯みをとれるようにして敵の行動を阻害し、回避や強い盾で被ダメを減らし、保険に生命力をあげ、タゲ分散のために遺灰を活用する。そうすれば問題となる敵体力の大きさも攻撃の苛烈さも回復のタイミングの無さも解消する。白霊(協力プレイ)も対策の一つかもしれないがソロでやりたい人もいるだろうし、協力プレイすると敵体力が割合増加するし、ピンキリだし、ラグの影響も無視できないので対策としてはカウントしていない。これは時間や手間をかけずに簡単に実施できるうえに効果的であるためエルデンリングにおいては2が重要といってもいいだろう。
前項でステ振り、装備の最適化が重要であると述べた。重要であるからステ振りと装備が人によって違うとゲーム体験が大きく変わっていくのだ。ではなぜ人によってそれらが違うのか。もしゲームでそれらの最適化を行ったり正しい情報を知っているならみんな似たようなステータスと装備になり似通ったゲーム体験になるはずだ。以下が原因だと見ている。
1はステ振りや装備の多様さによって人によって変わるよねという話だ。しかしこれはプレイの幅を広げるという長所と表裏一体であるためそれ自体が悪いことではない。問題は説明不足だ。体幹とかダメージレベルなんて知らなかった人の方が多いだろうし、ゲーム内で情報を知る機会もほぼない。ゲームだけやるといまいち強さが分からない装備やステ振りを何となくやっていくことになる。序盤は何とかなっても終盤に入ってプレイスタイルが固定されてしまうと、何となく選んだプレイスタイルが強ければ終盤もどんどん楽しく進められるし、弱ければバランス悪いとか難しすぎると悪態をつくことになる。初期値依存で局所最適に陥ってしまうのだ。これがゲーム体験に差異を生んでいる。
ではそれをどうにかしようとネットで情報を集めようとなる。しかしネットの情報が氾濫しているのが問題となってくる。記事でのステ振りを見ると生命40筋力99とどう考えてもステ振りが極端である。生命は60振ったほうがいいし、筋力は99もいらない。これはステータスの伸びが生命は60まで、筋力は80位まではそこそこよくてそれ以降は悪いためだ。これも説明不足に含まれるかもしれないがステータスの成長曲線は説明しないゲームの方が多いしそこまで気にすることではない。問題は記事の筆者が攻略情報を調べていると明言してるのになぜこうなったのかということだ。実際エルデンリングステ振りで検索してみると生命40のビルド例が出てくる。どこを参考にされていたのかはわからないが、まともな情報を探すのが難しくなっている昨今のネットでは適切でない情報にたどり着きやすいのだろう。変な情報にたどり着いたプレイヤーは苦しみ、まともな情報にたどり着いたプレイヤーは簡単というわけだ。そのために意見に幅が出るくらいに二極化が起きているのではないだろうか。
以上をまとめると意見の幅が広いのは
・エルデンリングではステ振りと装備が重要であるのに自由度の高さと説明不足がゲーム体験を悪い方向にも幅を持たせてしまっている
・攻略情報を調べようにも粗悪な情報がネットに氾濫しており適切な情報にたどり着きにくいためゲーム体験が悪化する蓋然性が高い
この2点が問題なのではないだろうか