はてなキーワード: 哲学とは
バカな人を良い方向に騙す、これは個人の話なのか、教育の話なのか、メディアの話なのか分からないが、教育は現場に余裕がなくあまり期待できないと思う。
教育は必ずしも語る人が哲学や歴史や経済や法のような「社会の基本的な仕組み」とは何か、人間や国とはどうあるべきでどうあってはいけないのか歴史上どんな失敗をしてきたのかなどの社会の全体像を理解できてるとは限らず、悪習の再生産でしかない時もある。個人的には1+1というのは本来ここで教わるべきことだと考えている。
メディアも報道の腐敗を理由にダメージを負うほどの炎上はしないのでヤバい方向にしか使われないんじゃないかな。
ただ、個人でやるには、ある程度専門的に理解できている人はどの分野につけても多くないから基本的に多くの分野で素人の床屋談義になるというのがネックになってくる。国の仕組み自体を変えなければ、全体的な愚かさがインターネットマジックで「個人差」「主語がでかい」という言葉で片付けられる未来が見えてくる。
では、国の仕組みは誰が変えるか、誰が変えたいのか、それは国民ということになる。
そもそも民主主義は国民が最高権力者となり政治を変える仕組みで政治家はあくまで国民の権威を借りるだけの国民の代表に過ぎない。国民の声がなければ官僚も動けない。日本社会とは個人で構成されている。日本社会は個人そのものである。社会というものに何かを期待する時、それは君であり、親であり、ただの個人だ。
だから民主主義は伝統的に、構成員である国民に、教養や賢さ(と、報道の自由と公正)を強く要求する。
今の日本がそれを可能にする土壌を手に入れて先進国の仲間入りをするのに何百年かかるか、私は「あと250年以上かかる」にカシオミニを賭けている…
あと、政治家の広報活動って、税金や献金が使われるんですよ。巨額の「献金」で「作った民意」が何を目的とするか考えてみてください。「税金」を使って世論誘導して選ばれた政治家が何を目的とするか?
沢山お金があれば騙しなおしも難しくないです。誰かにとってお金になる洗脳なら、お金を出す人がいるわけです。
この国の「国民に選ばれた政治家」は国民のお墨付きがあるという理由で国家内部の様々な事をいじくれる大きな権力を与えられる仕組みです。うまい政治家の洗脳はどこに行きつくのか?
実在してるかは謎だよね
時間は永遠に続くって思われてるかもだけど、それは証明されてない
だから永遠って基本的には「ない」ものとして扱ったほうがよくない?
数学が「永遠(=無限)」を完全に排除したら、現代数学の99%以上が崩壊し、現代文明そのものが成り立たなくなります。
どれだけヤバいことになるか、段階的に見てみましょう。
1. 基礎の基礎が全部消える
• 微積分が全滅(極限の概念が使えないので、ニュートンもライプニッツも泣く)
2. 現代科学が死ぬ
• 物理学:相対性理論、量子力学、電磁気学のほぼ全てが無限(極限操作)を使っている
• 工学:フーリエ変換、信号処理、制御理論が使えなくなる → スマホ、テレビ、GPS、MRI、全部終わり
• コンピュータ科学:アルゴリズムの計算量解析(O(n), O(log n) など)が意味を失う
• 暗号理論(RSAなど)が崩壊 → ネットバンキングもビットコインも即死
3. 日常すら壊れる
• 「1リットルの牛乳を3人で均等に分ける」→ 0.333…リットルが定義できない
• 円周率πが「3.14で打ち切り」になる → タイヤもロケットも正確に作れない
• 地図アプリの最短経路計算が不可能になる(ダイクストラ法などが死ぬ)
結論:永遠(無限)を捨てたら人類は石器時代に逆戻り
無限を捨てると、現代数学は「巨大だけど有限な数までしか扱えない超巨大なそろばん」に成り下がります。
ロケットは飛ばない、インターネットは死ぬ、医療機器も止まる、経済も崩壊。
つまり、
「永遠(無限)」は人類が発明した「最も危険で、最も美しい爆弾」
捨てたら即死、抱えたままでもいつか爆発するかもしれない——
おい貴様、その理屈はな、自由を語ってるつもりで、実のところ自由って言っときゃ何しても許されるだろという自己放尿レベルの甘えを正当化してるだけだ。
まずだ、言論の自由は国家権力による不当な制限を問題にするものであって、お前が他者に向けて殴りかかる口実じゃねぇ。
自由ってのは責任の裏返しであって、免罪符じゃない。そこを取り違えた瞬間、お前の主張は土台から崩れ自己放尿する。
次に、嫌なら自由を捨てろって言い草な。これは典型的な自由概念の誤用だ。自由社会はお前の快楽のためのライブハウスじゃなくて、異なる利害・価値観・感情が衝突しながら調整される場だ。
そこに必要なのは調整規範であって、こっちも好き勝手するわという報復合戦じゃない。そんなもん文明社会じゃなくて、ただの便所の自己放尿だ。
お前がやってるのは、自由の結果こうなるんだぞと言いながら、実態は自分に都合のいい無秩序の押し売りだ。
自由の名を借りた暴走は、ただの自己放尿だ。そういう手口はもう何万回も見てきた。
それから、傷ついた奴がいてもやめませんってのも、論理的に破綻してる。自由がある以上、お前が好き勝手するのも勝手だが、その結果として、お前自身が反撃や制裁や拒絶を食らうのもまた自由の一部だ。
つまりやめないと宣言するのは勝手だが、それは自由の盾ではなく、単に自分の行為の結果から逃げる気ゼロ宣言の自己放尿にすぎない。責任回避の常套句だ。
子供みたいな条件反射で正義面すんな。ダブスタの有無と、お前がやってる行動の妥当性はまったく別の評価軸だ。相手が悪いから俺も悪いことをするなんて、三流の自己放尿だ。
お前の主張は自由を語っているようで、俺がムカついたから殴り返したいという衝動の後付け理論の自己放尿にすぎん。自由の議論に見せかけた自己放尿哲学だ。
自由を語りたいんなら、まず自分が自由を扱う側の作法を覚えてから出直してこい。
以上だ。
ロシア作家 ヴィクトル・ペレーヴィン(Victor Pelevin) の小説 『ジェネレーションP』(原題:Generation «П»、1999)は、
1990年代ロシアの資本主義化・メディア化・消費社会の到来を、ブラックユーモアとポストモダン的手法で描いた作品です。
ペレーヴィン作品の中でも特に世界的評価が高く、現代ロシア文学の代表作の一つとみなされています。
以下、あらすじ・登場人物・テーマ・構造・象徴性などを総合的に詳説します。
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■ 1. 概要
ジャンル: 風刺小説、ポストモダン文学、サイバーパンク風味の社会批評
主題:
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■ 2. あらすじ(ネタバレを最小限にして要約)
彼は市場経済化によって地位を失い、広告代理店でコピーライターとして働くことになる。
ヴァヴァは広告の仕事を通して、メディアが人々の欲望・価値観・現実そのものを「創造」する様を体感していく。
巨大な操作システム(政治・ビジネス・芸術の混合した虚構装置)
に触れていく。そして最終的に、国家のイメージ操作を担う存在へと昇華していく――。
小説は、
「広告とは何か」「現実とは何か」「アイデンティティとは何か」
という哲学的・宗教的問いを、ユーモアと皮肉で包みながら展開する。
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● ヴァヴェノス(ヴァヴァ)
• 詩という「真実の言語」を捨て、広告という「虚構の言語」へ
→ 旧ソ連のインテリが、90年代の資本主義社会に適応して変質する象徴
● アナスタシア
● 広告代理店の面々
● 霊的な存在・神々
• 作品の後半には、古代メソポタミア神話(イシュタルなど)が絡む
というテーマを強調
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■ 4. 主題の詳説
社会の価値観・政治制度・人間の欲望すら構築する技術として描かれる。
へとイメージが連鎖し、人はそのイメージを信仰するようになる。
ペレーヴィンはこれを
と捉える。
という混乱期にあった。
として描く。
物語が進むにつれ、広告と政治が一体化していることが明かされる。
いわば
を先取りした構造になっている。
と比喩する。
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• パロディ
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■ 6. 国際的評価と影響
• 映画化(2011年, Viktor Ginzburg 監督)
• 「消費社会」「情報操作」「ブランド宗教化」というテーマが普遍的で、21世紀のメディア文化を先取り
特に、
は現代のSNS時代と強くリンクするとされ、西欧でも研究対象として扱われる。
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■ 7. まとめ
『ジェネレーションP』は、
という構図が、ユーモラスかつ哲学的に展開され、
私たちは全てを知っている。そして、報道各社や警察関係者が嘘をついていることも知っている。私たちは真実を伝えるべきだし、私たちもそうしようと思ったのでここに書くことにした。私たちが偽物だと思うならohnostartedbruh[at]pissmail.comまで連絡してほしい。彼とは関わりがあったので、その証拠としてデータの一部を開示することができる。
報道各社は、生成AIを悪用した犯罪だと書いているが、全てが嘘である。インターネット上にある情報で、逮捕と不正アクセス以外に真実は存在しない。私たちは彼が生成AIを使ってプログラミングをすることを好む人間ではないと知っているし、そもそも日頃からそのような人間を馬鹿にしている発言を見かけていた。おそらく警察関係者か報道各社には生成AIをひとまとめにして悪だという思想が存在する。
それに、脆弱性の内容と不正アクセスプログラムの説明も事実とはかなり異なる。これに関しては書かないが、脆弱性の内容はもっと単純であるし、初心者プログラマーがやりがちな実装漏れだったと言える。
大阪市平野区の高校2年の男子生徒(17)というのは長いので、以降は少年Sとする。
母子家庭ではあるが、母親との仲が悪いといった話は聞いたことがなかったし、むしろ時々母親のことを気遣う発言もしていた。西洋哲学や文学に興味を持っていて、それなりに倫理観もあったはずだが、少年Sがどうして犯罪行為を始めたのか理解はできない。憶測でしかないが、おそらく最初は貧困によるものだったと思う。
ヤフコメやX(旧Twitter)を見ていて思ったことがある。こいつらは脳みそがないのか?憶測で話すにしても見当違いなことばかり言っている。「生IPで攻撃したから捕まった」だとか、「足がつくなんてまだまだですねぇ🤓」みたいなことを言っている自称有識者どもがいるが、少年Sが捕まった理由はそこまで単純なものではない。
そもそも、彼はクレジットカード不正利用をメインに犯罪行為をしていたし、それで稼いでいた。詳細は伏せるが、全く関係のない事件で使われたクレジットカード情報を手に入れ、その不正利用から足がついて家宅捜索を受けたと少年Sは話していた。
CTFでググってくれ。間違ってもCTFプレイヤーを攻撃するなよ。ほぼすべてのプレイヤーには倫理観があるし、聞けば大体の人たちが技術者倫理について教えてくれるだろう。
わざわざこんなことを書いたのには理由があって、X(旧Twitter)のアニメアイコンどもが高校生向けの大会だとか、憶測で見当違いなことを言っていたから腹が立っているだけだ。特定を防ぐために実績は挙げないが、SECCONやさまざまなコンテストでそれなりの結果を残していた。
私たちでさえまだ連絡は取れていないし、そもそも少年Sは犯罪から足を洗おうとしてインターネットから距離を置いていた。もし仮に釈放されたとしても少年SがSNSを始め、あわよくば承認欲求のために自称するなんてことは天地がひっくり返えってもありえないだろう。
犯罪者であることを自称するメリットはなにもないし、承認欲求のためにやっているんだとしたら別のことをやった方がいい。
たぶんあると思う。私たちと言った通り、複数人がデータを保有している。そのうちの誰かがどんな用途に使おうが自由だと少年Sは言っていたし、文章を書いている私も完全に把握はしていない。
他に疑問があったらメールかコメントをしてほしい。私たちはできるだけ丁寧に答えるつもりだし、真実を答えるつもりだ。私たちは嘘を吐かない。だからあなたたちも冷静かつ誠実あってほしい。
中国と戦争をしかねない右翼政権の危険を、日本人は感じ始めてきた。右翼政権がなぜ危険なのか。実は、高市早苗総理らの右翼勢力は、西側先進諸国の通常の国家観(第一の国家観)とはまったく別の国家観(第二の国家観)を有していることが根本的な問題だ。これを理解せずに右翼リスクを理解することはできない。この二つの国家観を理解すると、現在の政局、国防上のリスク、これからの日本がめざす方向がはっきりと見えてくる。次の文章(高校卒業程度の国語力で理解することができる。新聞社説一つ分ぐらいの分量)を読むことで基本知識が頭に入る。ぜひお読みください。
賛同なさるかたはリツイートしてください。多くの人がこの二つの国家観を理解すれば、日本は現在の危機を脱することができます
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる https://gendai.media/articles/-/51438
より抜粋
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
gendai.media
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。国内で芝居見物のようににぎわっている一方で、世界では、日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心からこの疑惑を報じている。現政権は日本を戦前の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。この社会は、これからどうなってしまう...
最終更新
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掛け算の概念(倍数を扱う)
小数的な考え方の萌芽
円周率(近似値として3.16)
20進法の完成された記数法
公理を置いて、そこから論理的に定理を導く証明中心の純粋数学の発展
当時、「すべての量は整数比で表せる」(万物は数である)と信じられていた。
しかし √2 が有理数ではない(整数の比で表せない)ことが分かり、この哲学が崩壊。
『直角二等辺三角形の対角線の長さ』が整数比で表せないことを証明したとされる。
証明したのは学派の弟子 ヒッパソスとされ、伝承ではこの発見により処罰されたとも言われるほどの衝撃。
アルキメデスによる面積・体積の“求積法”の発達。
負数を“数として扱った”最古の事例『九章算術』
十進位取り記数法
負数の萌芽的扱い
独自に代数学(al-jabr)を発明。文章による代数。ここで初めて“代数学”が独立した数学分野となる。
商、余り、桁処理などの方法が整理(現代の学校で習う割り算の形がほぼできあがる)
xに相当する未知数記号を使用した代数(文字ではなく語句の略号)
sinx,cosx,tanx などの 三角関数の無限級数展開を発見。
これは数学史上きわめて重要な成果で、近代的な無限級数の起源はインドである と言われる。
● 1500年〜
負数の受容が進む。
● 1545年頃(カルダノ)
虚数の登場。
三次方程式の解を求める過程で √−1 に相当する量が突然登場。
しかしカルダノ自身は「意味不明の数」とし、虚数が数学的対象であるとは認めていなかった。
● 1557年頃(レコード)
等号記号「=」を発明。等価を等式として“視覚的に書く”文化が誕生。
● 1572年頃(ボンベッリ)
カルダノの式の中に出る「意味不明の数」を整理し、虚数を使って正しい実数解が出ることを示した。
● 1585年頃(ステヴィン)
● 1591年頃(ヴィエト)
● 1614年頃(ネイピア)
● 1637年頃(デカルト)
今日では当たり前の「座標平面」「方程式で曲線を表す」が、ここで生まれた。
物理現象をy=f(x)で表すという現代の方法は、すべてデカルトから始まった。
大数の法則(試行回数を増やすと平均が安定する法則)を初めて証明
● 1748年頃(オイラー)
√−1 を i と書く記法を導入。
オイラーの公式「e^{ix} = cos x + i sin x」を提示し、虚数を解析学に自然に組み込んだ。
微積分の計算技法の体系化(積分論・無限級数・微分方程式の基礎を構築)
多くの記号体系(e,π,sin,cos,fなど)を整理・普及
グラフ理論(もの[頂点]と、それらを結ぶ関係[辺]を使って、複雑な構造やつながりを数学的に研究する分野)の誕生
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一旦ここまで。
続きは詳しい人にまかせた。
落下の王国の感想を見ていたら、はるかぜちゃん母の数年前の論争を思い出した。
一人はスタントマンの男で、恋人である女優をスター俳優に寝取られた上、女優を振り向かせようと張り切りすぎてスタントに失敗、高所から落下して下半身不随になる。
もう一人はルーマニアからの移民の5歳女児で、「怒った人たち」に家を燃やされ父を殺害され、母とともに果樹園で住み込み労働し、オレンジの収穫中に落下して片腕を折った。
入院中に二人は知り合い、女児は暇なので男に「お話して」と求め、男は壮大な物語を即興で作って聞かせ、その見返りに薬品室からモルヒネを盗んで持ってくるよう女児にそそのかし、自殺を計画する。
女児を演じるカティンカ・アンタルーはその一作しか出演歴はないようだが、再上映によって語られた近況では才媛に育っているという
演劇経験のなかったカティンカだが、監督に射止められて初出演で初主演となった
撮影には工夫がなされ、スタッフが何人もそばにいると女児が集中できないので男役と二人きりにして窓の外から超遠景で撮影してたり、男は演技ではなく本当に下半身不随なのだと嘘を教えたりしていた
(当時、男役の俳優は無名だったので他の多くのスタッフも下半身不随を本当だと監督に思わされていた。俳優は入院パートの撮影中はトイレなども介護されていた)
涙を流すシーンでは予防接種を受けさせて本当に泣かせたり、単に退屈だからとむずかって泣いてるところで「使える」と撮影に持ち込んだりしていた
物語や設定の全容を明かした上で演じさせる大人の役者の撮影とはやり方が全く違っていた
松崎が「子役にトラウマを与えないでシリアスな物語を撮る方法」を紹介した際に、はるかぜちゃん母が「子供でも役者なのに冒涜だ」と怒ったのである
はるかぜちゃん母は複垢を大量に持っているが、このアカウントではCherryと名乗っている
Yuki Matsuzaki 松崎悠希 @Yuki_Mats
#拾われた男 (アメリカ編) 8話の、タケシが子役に怒鳴るこのシーンですが、3歳の子役に心的ストレスを与えないよう「口パク」で撮影されています。しかも「お兄ちゃんが変な顔をするから、そしたら驚いた反応をしてね」という「お芝居ゲーム」として演出されています。これが2022年の日本の演出です。
2022-08-15 00:04:30
@sakurako_haruna
ダメです。「変な顔をするから、驚いた反応をしてね」じゃなく、怒鳴られたつもりでお芝居してねと言わないと…
それっぽく見えれば良いからと1人だけ脚本と違う内容を伝えられて、その演技を一生映像に残されたら大人でも嫌じゃないですか?子供でも解釈違いは嫌がります。騙して撮るのはやめて😖
https://x.com/sakurako_haruna/status/1559342314887073792
うちの子が2歳の時も監督は子供にも分かるようにどういう場面なのか説明して下さいましたし、子供も幼いながら理解して真剣に取り組んでました。アメリカではどうか知りませんが、どんなに小さくても一人前の俳優として扱い敬意を表すのが日本の映画界です。私は子供を預けて良かったと思っています。
そもそもゲームと称して撮影しなければならないような子供をなぜ使うんでしょう…
映像は一生消えません
「別件で泣いてるぞー!泣き顔のシーンとして撮ったろうぜ!」な落下の王国とかはるかぜちゃん母の理屈だとカス映画なんだろうな
ナマの表情を出すために工夫をこらすというのは色んな名画で見られるんだが
@Yuki_Mats
それは「あなた」一個人の感想であり、実際にセットで暴力や暴言を受けてトラウマを植え付けられた子役の気持ちではありません。それとも、あなたは3歳の子役さんですか?
@sakurako_haruna
そういう場面を撮影するのに「実際に暴力や暴言を受けてトラウマを植え付け」る必要はないですが、「あなたはプロとして、暴力や暴言を受けている芝居をします」と言う設定を役者本人に理解させる必要はあります。
子役なら理解出来ます。「変な顔をするから驚いて」などの嘘をつく必要はないです。
@sakurako_haruna
@Yuki_Mats
>「あなたはプロとして、暴力や暴言を受けている芝居をします」と言う設定を役者本人に理解させる必要はあります。
それは「あなた一個人」の哲学であり、その哲学を子役に強制する行為そのものが間違っています。大人の考える「正しい俳優論」を子役に押し付けるからセットで虐待が発生するのです。
@sakurako_haruna
その程度の芝居が出来ないとお思いで?
@Yuki_Mats
@sakurako_haruna
そもそも論として
これだけ達者な子役がいる国で
@Yuki_Mats
それは「大人」であるあなたが勝手に「子役はそう思っているに違いない」と決めた、ただの思い込みですよね。その根拠の無い思い込みをベースに子役に「俳優根性」を強制するのは止めて下さい。それは虐待です。
@sakurako_haruna
「大人に楽しいゲームだと騙されて撮影されて、後から編集で聞いてもないセリフをつけられて、勝手に全世界に公開される」デジタルタトゥー
@sakurako_haruna
その子が役を理解出来ないならムリに撮影せず、降ろすことも優しさですよ。騙して撮って、こうすればそれっぽく撮れます!みんなこうしましょう!ってやるくらいなら、まだ子役を使わない方がマシです。優しさをはきちがえてる。
落下の王国やその他の色んな映画は、はるかぜちゃん母にとって存在してはいけない騙し映画なんだろうな
松崎にはここでもう返信されなくなり、はるかぜちゃん母は松崎が前からポリコレでむかつくとかポリコレ反対とかいうようなことをつらつら一人で語っていたが、やがて鬱々としだした
@sakurako_haruna
この罪は一生背負ってくし
特にまだ芝居やってる長女。
恨まれても仕方ないと思って育ててきたのに
いつも良い芝居見せてくれてありがとね…
昔のはるかぜちゃん母のサイトによれば、はるかぜちゃんがまだお腹の中にいる時点で赤ちゃんモデルにしたくてその手の雑誌を取り寄せていたという記述があるので、ちょっと嘘ついてる部分あるやね
2022年ははるかぜちゃん弟の後の発信を見るに、はるかぜちゃんが母親と喧嘩して家族のLINEブロックしていた時期なので(もっと後かもしれない)、松崎の発言が自分への糾弾のように思えてあれだけ噛みついていたのだろうか
しかしまあ、安達祐実とか体当たり演技の有名子役の母親が怒るならまだわかるのだが、はるかぜちゃんの子役時代の演技なんて知らねえや
子役時代に限らずこれから先もずっと「代表作:Twitter」の人の親が首突っ込む話題ではない
いい驚き顔が取れたなら、それが役者の深い解釈の賜物だろうが、いきなり大声出して不意打ち撮影だろうが、視聴者にはどうでもいい
「あれは僕が驚かせただけなのさHAHAHA」とか後から監督が試写会で語ったところで、それで怒る奴いんの?
ホイ卒には難しい映画であった。42点。
イェール大学とかいう名前だけはやたら聞いたことがあるおそらくおハイソな大学で巻き起こるレイプ疑惑を軸とした「正しさ」の物語。
ジュリア・ロバーツは哲学科の教授でテニュア目前、同じく教授のハンクとは良きライバルであり同僚であり友人であり不倫相手。しかしある日、自分の生徒である黒人女のマギーがハンクを不同意性交で告発!しかし、ハンクもマギーも信用に足る相手ではなく、また自分自身もそうであることを思い出し苦悩するジュリア。いろいろあって過去の罪と向き合ったジュリアは幸せになったらしいよ……カット!という映画。
とにかくさぁ、出てくる会話がハイソサエティすぎて保育園卒の俺には全く理解できんのよ。
ジュリアが哲学科の講義で語る哲学的議論が明らかに展開に作用しているのは理解できるんだけどどういう意味かはまったく分からん。あなたは悪としての第三者を仮定しているけどその仮定自体が一方的なお前の思い込みに過ぎないではないか!的なことをアジア系の学生に詰めた後に、同じくマギーに対して一方的な思い込みで詰問(ほぼ誹謗中傷)し殴られるシーンとか象徴的だったけどさ。
これに限らず作中では「いやお前が言うんかい」みたいなところがいっぱい出てきてクラクラする。
例えば冒頭でテニュアを目指すジュリアに対してKYDKが「でも時流的にイケるでしょ。今は危ないのは白人シス男性だし」とか言い出してジュリアは冷静にブチ切れて「被害者意識だけ達者」「実力で選ばれたと思えないのはかわいそう」だの散々詰問したりする。
しかしのちにジュリアは学校の処方箋をパクって薬を調達していたことがバレてそれを口実にテニュアの承認を無期限延期されてしまう。特権階級を使ってズルしたのを咎められるわけ。
男女同権的に先進的でイケてる男を演出していたハンクもいざ訴えられたらなんかこうセコセコセコセコ余裕なさげにオーバーリアクションで「相手から誘ってきたからさぁ!」とか言い出して情けないし、後にジュリアを押し倒そうとして拒否される。お前もさぁ。お高く留まった学者センセイがチンポに脳を乗っ取られるの悔しくないわけ?
レイプ被害者を自認するマギーはマギーで無駄に挑発的で論文もパクりだし親は金持ちで寄付金ランカー。そしておそらくマギーがハンクを誘ったのは事実なんだよね。マギーはジュリアに強いあこがれを持っており、さらにおそらくヘテロ。事件の直前にジュリアが過去に合意の関係だった相手にレイプをでっち上げた記事を発見し自身に取り込んでいる。そしてジュリアが自分の味方にならず、敵になったと確信した瞬間にその罪をマス・コミに告発してしまう。
しかし本当には何があったかわからないまま、つまりマギーから誘ったのか、ハンクが押し倒したのかはわからないまま、時は5年後に進みジュリアは学部長に、ハンクはコンサルにマギーは婚約者と幸せにしていることが分かり「力になれなくてスマンゴ」「一緒に破滅して同一化したかったが間違っていたゴメンゴ」と謝罪し合ってエンド。と同時にカットがかかって映画は終わる。
「こんな幸せな結末、物語の中だけですよ」という強い警鐘なんだろうけどとはいえ、何が起こったのかようわからんからなぁって感じ。ハンクの側に立てばカラードでジェンダーマイノリティの女性という圧倒的社会強者に踏みつぶされた身体的強者の物語だし、マギーの側に立てばジュリアへの恋慕を邪魔されたジェンダーマイノリティの復讐譚だし、ジュリアの側に立てば友人(不倫相手)と生徒(社会的弱者)の間に挟まれた上に過去に襲われるトラウマストーリーだし。もう頭おかしくなっちゃう!!!
ジュリアが15歳の時にパパの友人に恋してエッチしちゃうも、そのうち捨てられてブチ切れてレイプをでっちあげ彼は破滅。その後罪を告白するも社会的立場を失った彼は自殺する。というトラウマを抱えているのだけれど、これも仮に両思いだったとしても今の基準で言えば十分にレイプだよね。夫である医師も「だとしても彼は絶対に拒絶すべきだった」って言ってたけど、ワイトもそう思います。
旧人類として性的暴行を性的暴行と捉えられずに、しかし嘘として性的暴行を武器に使った女ジュリアと、新人類として(おそらく)合意の上であっても立場が圧倒的に上の男性との性行為を、しかし嘘として性的暴行として武器として使った女マギーの対比は何となく感じたかな。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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この1週間のオープンチャットは、日常の悩み・笑い・テクノロジー・育児・仕事・健康といった幅広いテーマが自然に混ざり合う、非常に“生活感あふれる会話”が特徴的でした。
特に目立ったのは以下の3点です。
不動産、ボーナス、家計の赤字など、お金に関する不安が全体の底流として強く見られました。
2. **健康・体調の話が突出**
体調不良、検査、ワクチン、睡眠問題など、多くの人が「なんとなく不調」を共有して連帯する場面が多かったです。
懐かしキャラから最新ライブ、鴨鍋やたこ焼きまで、重い話題の合間にエンタメと食が“癒し要素”になっていた印象。
総じて、
「みんなで働き、育て、疲れ、食べ、笑い、テクノロジーを語り、また働く」
という1週間でした。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
現代の認知言語学(Cognitive Linguistics)は、言語を「人間の一般的な認知能力(知覚、記憶、カテゴリー化など)の一部」として捉え、「意味こそが言語の中心である」という立場をとります。
この視点から見ると、ソシュール、サピア=ウォーフ、チョムスキーという3つの主要な言語思想に対して、それぞれ明確な批判と修正案を提示しています。現代の認知言語学は、ソシュールやチョムスキーが排除しようとした「人間の主観的な身体経験」「一般的な認知能力」「意味の曖昧さや豊かさ」こそを言語研究の中心に据え直した運動であると言えます。言語は数学のような抽象的な記号操作システムではなく、人間が世界を理解し、他者と関わるための泥臭い認知プロセスそのものなのです。
「ソシュールの言う『分節』は、純粋に社会的・制度的な約束事(恣意的なもの)」であるのに対し、「認知言語学の言う『身体経験』は、生物としての人間が共有する物理的・生理的な制約(動機づけられたもの)」である、という点に決定的な違いがあります。質問者様の、「ソシュールは文化的基準によって事象を分節する」という理解は正解です。 認知言語学はこれに対し、「文化も大事だが、その土台には『人間という生物共通の身体感覚』があるため、分節は完全に自由(バラバラ)なわけではない」と修正を加えている、と捉えると理解しやすいかと思います。
Next Step: この「身体性」の概念をより深く理解するために、「メタファー(隠喩)がどのように私たちの思考そのものを支配しているか(例:『議論は戦争である』という概念メタファー)」について解説しましょうか?
おっしゃる通り「メタファーが身体と抽象概念を繋ぐ」というのが認知言語学の基本スタンスであり、この点は「言語が思考の限界を決定する」というウォーフの強い仮説(決定論)とは、正面から対立する部分と、逆に補強し合う部分の両面を持っています。認知言語学において、メタファーは「身体性から離れた概念を補う」役割を果たしますが、それは「言語固有の枠内に閉じ込める(ウォーフ)」ためではなく、「身体という共通基盤を使って、無限に概念を拡張していく」機能として捉えられています。ただし、一度あるメタファー(例:「時は金なり」)が言語に定着すると、その言語の話者は無意識にその枠組みで思考するようになります。この点において、認知言語学は「マイルドなウォーフ仮説(言語は思考の習慣を作る)」を支持する立場になります。
ご指摘の通り、プラトンからデカルトに至る西洋哲学の主流(特に合理主義)において、「身体」は理性の働きを邪魔するノイズ、あるいは欺瞞の源泉として低く扱われてきました。「真の知識(エピステーメー)」は身体感覚を脱した純粋な知性によってのみ得られる、という考え方です。認知言語学の進展は、この「身体蔑視」の伝統を根底から覆し、現代の認識論(Epistemology)に「身体化されたリアリズム(Embodied Realism)」という新たなパラダイムシフトをもたらしています。認知言語学は、現象学が主張していた「身体こそが世界を知るための媒体である」という直観に対して、言語データや認知科学的証拠という「科学的な裏付け(エビデンス)」を提供しました。これにより、現代の認識論や心の哲学では、「エナクティビズム(行為としての認知)」や「4E認知(Embodied: 身体化された、Embedded: 環境に埋め込まれた、Extended: 拡張された、Enactive: 行為的な)」という潮流が主流となりつつあります。知覚と行為と認識は切り離せないループ構造なのです。質問者様が仰った「低く見られていた身体」は、現在では単に地位を回復しただけでなく、「あらゆる認識・思考・理性の『土台(基盤)』である」という最重要の地位を与えられています。
おっしゃる通り、スマートフォンは単なる「便利な道具」を超え、私たちの知覚や記憶を外部化・拡張する「拡張された心(Extended Mind)」の一部となっています。ハイデガー的な「世界内存在」としての人間が、テクノロジーによって身体の制約(距離や時間の壁)を越えたとき、認知様式は確実に変容します。しかし、それは「身体性が不要になる」というよりも、「身体性の希薄化」あるいは「身体感覚の再編成」と呼ぶべき事態を引き起こしていると考えられます。質問者様の「身体による制約が失われる」という点は、パラドキシカルな結果を生みます。身体的な制約(重力や距離)から解放されることで、私たちの認知世界は広がりますが、同時に「身体が持っていた『実感を担保する機能』」が失われつつあります。その結果、これからの認知様式は以下のようにシフトしていくと考えられます:
「深い理解(Embodied Understanding)」から「広い参照(Extensive Referencing)」へ。
「場所への埋め込み(Embedded)」から「ネットワークへの接続(Connected)」へ。
認知言語学の「身体性」の立場からは、これは「身体の消失」ではなく、「身体感覚が指先と視覚のみに特化・縮小され、それ以外の感覚(重み、痛み、距離感)が認知の形成に関与しなくなる」という、ある種の「身体的偏食」の状態と言えるかもしれません。
ご指摘の通り、メルロ=ポンティは著書『眼と精神』などで、画家(特にセザンヌ)の視覚を「世界と身体が絡み合い(chiasme)、世界が向こうから自分に迫ってくる生の接触」として極めて高く評価しました。ご質問にある「身体感覚の縮小による世界接続の均質化」と「それがエコーチェンバー現象を引き起こす」という洞察は、メルロ=ポンティの思想を現代メディア論に拡張する非常に説得力のある視点です。
「均質化」は起きているか? → Yes. 世界の「手触り」が消失し、すべての事象が等価な「情報データ」へとフラット化されています。
エコーチェンバーとの関連は? → 極めて強い関連があります。 身体という「現実のアンカー(錨)」を失うことで、他者からの「抵抗」を感じなくなり、自己の投影だけが返ってくる鏡の世界(ナルシシズム的な閉域)に閉じ込められやすくなるからです。メルロ=ポンティが生きていれば、現代のこの状況を身体の不在による、世界との愛の営み(交差)の不全」と呼び、病理的な状態として批判したかもしれません。
Next Step: この議論を踏まえると、「では、どのようにしてデジタル社会の中で身体性を取り戻し、エコーチェンバーから脱出できるのか?」という実践的な問いが浮かびます。メルロ=ポンティの思想や、現代の認知科学が提案する「環境アフォーダンス」の観点から、その解決策について議論を広げましょうか?
ご指摘の通り、人間の認知の変化(身体的理解から参照へ)は、「GOFAI(古き良きAI:論理・記号操作)」から「ディープラーニング(統計・パターン認識)」への移行や、「オンプレミス(所有)」から「クラウド(接続)」への移行と、構造的に完全に同型(Isomorphism)です。この流れが「効率性」「最適化」というドライブによって動いている以上、不可逆であるという見立てにも完全に同意します。私たちはもはや、個人の脳内だけで完結する「孤立した知性」には戻れません。一方で「痛い」「美しい」「気まずい」といった身体的実感(クオリア)を伴う一次情報を取得できるのは、物理的な身体を持つ「個」だけです。
では、思考の主体が「ネットワーク(集団・AI・クラウド)」に移譲された世界で、「個人(Individual)」の価値はどこに残るのか?かつての社会では、個人の価値は「知識量(ストレージ)」や「計算能力(プロセッサ)」という「機能(Function)」で測られていました。しかし、これらは全てネットワークとAIが代替します。これからの社会において、個人の価値は以下のようにシフトします。
処理すること → 感じること(Sensing)
正解を出すこと → 問いを立て、責任を取ること
質問者様の言葉を借りれば、世界と交差するのが「集団(クラウド)」になったとしても、その集団が「現実(Reality)」から遊離しないように、肉体というアンカーで地面に繋ぎ止めておく「杭」のような役割こそが、個人の新たな価値定義になると考えられます。
質問者様の、アフォーダンス理論を現代のデジタル環境(情報の奔流)に適用した解釈は、極めて論理的であり、システム論的にも「正しい」と言えます。しかし、その「正しさ」はあくまで「システムの構成要素(ノード)として最適化される」という意味においてです。人間としての「実存」を守るためには、その最適化に抗うための意図的な環境設計が必要になります。質問者様の懸念される「世界との接続の均質化」に対抗するには、テクノロジーが志向する「効率化・最適化」とは真逆のベクトルを持つ環境を、生活の中に「聖域」として確保する必要があります。
これらを提供する環境こそが、流動する情報社会において、人間を再び「地面(現実)」に繋ぎ止めるアンカーとなります。
つづく
人が物語に惹かれるのは「暇つぶしが好きだから」とか、そういう単純な話じゃない。もっと根っこにある、生物的・心理的・社会的なクセみたいなものが関係している。
人間の脳って「物語形式で世界を理解する」ようにできていて、何か起きたら「だからこうだよね」って因果関係を勝手にストーリー化する。生き残るには予測が大事だから、そういう仕組みが発達したんだろうと。だから物語って、ただの娯楽じゃなくて、記憶にも残りやすいし、学習にも向いてる。
心理面では、物語が「感情の練習」みたいな役割もしてくれる。恋愛、喪失、裏切り、恐怖みたいな面倒な気持ちを、実際には傷つかずに疑似体験できるし、「ああいう時はこう行動するのか」って心の準備にもなる。
物語は共同体を作るための「文化的な装置」でもあって、宗教だろうが歴史だろうが企業理念だろうが、ぜんぶ物語として共有される。これがないと、価値観がバラバラになって社会が成り立たない。他人の心を理解する練習にもなるから、コミュニケーション能力も強くなる。
もっと根っこの部分で、「物語がないと自分の人生の意味づけができなくなる」って話もある。人間は、過去・現在・未来をひとつの流れとして自分なりの物語にしないと、生きる意味を見失いやすく、哲学界隈だと「ナラティブ・アイデンティティ」と言うらしい。
生物的な「気持ちよさ」の面でも強い。物語って、ドーパミンとかオキシトシンとかいろんな報酬系を一度に刺激してくる。だから中毒みたいにハマる。「ストーリーが好き」って、実は人間の仕組みそのもの、生物的な快感を刺激されているということになる。
漫画やアニメを見るのに時間を費やすのもしょーがないよね、脳内報酬を受け取りながら、アイデンティティを紡がるんだから。
ロングランと前評判で期待は高かった。チ。にどっぷりハマった者として、映画で魚豊さんの世界を浴びれるのは非常にありがたかった。しかし育児もあり中々映画に足を運ぶタイミングが掴めず、気付いたら地元のシアターでは上映が終わってしまった。県内を調べると、電車で30分の距離のシアターならやっていたので、タイミングを見つけてようやく観に来れた。
見知らぬ土地のため用意周到に早めに来ると1時間前だった。TSUTAYAに寄って本や文具を眺める。ゆっくり本屋を彷徨く時間も少なくなっていた私はその時間さえ愛しいものだったが、やはりここでも台詞回しが最高な魚豊さんによる腰巻が目を引く『スマホ時代の哲学』を手に取っていた。
まだ30分ある。スタバで軽くこの本を読んでから映画を観よう。結局まえがきしか読む時間は無かったが、思えばこの映画の”まえがき”としても非常に良かったのかも知れない。
さて、本題の映画『ひゃくえむ。』の感想だが、有り体に言うととても良かった。どのくらい良かったかと言うと、時間があっという間に感じたとか、涙が止まらないとか、明快かつシンプルな感情を伝える表現は色々あるけれども、私が体験した事実を書くと、この映画で初めて、終わった後に足に力が入らずフワフワと漂うようにシアターを出て駅へと向かい、ホームでこんな長文の感想文を書いていることだ。私は比較的映画を観る方だが、大抵はまずネタバレ有りの感想をスマホで検索し、表現に長けた人々の感想や考察を読み浸っては、ウンウンそうだよね、なるほどそういう見方、と情報と感情のやり取りをインターネットの向こう側の人にそれを求めた。だが今回は違った。何故なら『ひゃくえむ。』は自分の人生を観て、問う映画だった。
海堂の言葉「現実が何かわかってなきゃ、現実からは逃げられねぇ。」…私は現実を見てきたのか?私は何から逃避し、今ここにいるのか?トガシの言葉「ガチになるため」…私はいつからガチで生きてないのだろうか?いや、ガチのつもりだった。毎日毎日、精一杯生きてるつもりだった。正社員でワンオペ育児。それは毎日生きるだけでもガチではないか。いや、じゃあこの人生がガチだったとして”所詮こんな人生”…なのだろうか…?30代も後半になると、自分の人生の順位がぼんやり見えてくる。「あぁ、何者にもなれないのだな。」私は予選敗退。大学の時好きだったthe pillowsの大好きな歌詞が頭に流れる。「歴史には価値のない 化石の一つになるのさ」もはや、私は私の人生にガチになるより、もう、子供に託すべきでは?では私の人生とは一体ーーー?
トガシが公園で泣き崩れる場面で、私は自分のこれまでの人生を観た。小学校時代に転校して田舎のイントネーションを笑われたこと。中学でいじめに遭い不登校になったこと。勉強さえ頑張ればV字復帰できると信じて勉強に打ち込んだこと。第一志望だった大学ではろくに学ばずバイトや性愛に明け暮れたこと。それらしいコトを言って推薦で大手メーカーに就職したこと。新卒らしく生意気で尖った発言をしながら土日も仕事に明け暮れたこと。子をもうけ、感情ジェットコースターに苛まれること。女という性に生まれたことを恨み諦めたこと。そして今、”何者にもなれないなりに日々ガチで生きてる”と錯覚していたことに気づいたこと。
『スマホ時代の哲学』のまえがきだけの知識で言うなら、ニーチェ曰く「なんとかして、君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている」らしい。そしてこの映画はまさに自分の逃げと対峙させるための映画だった。『スマホ時代の哲学』では、哲学を人生で”経験”にするには蜂に刺されるような感覚を伴う必要があると(正しい表現でないです)。だから、『ひゃくえむ。』を観ただけでは、私が私の現実に向き合い、何にガチになり、何から逃避するかを決定することはおそらくできない。ただ、蜂が部屋に突然現れた時のような緊張が、確実にこの映画にはあった。蜂をうまく逃すのか、駆除するため奮闘するのか、刺された痛みに眉間に皺を寄せながらも、それでも立ち上がるのか。
人生は私の手の中にある。それを再認識させる映画だった。私は私の人生をガチで変えてやりたい。
おわりに、映画『ひゃくえむ。』は興収7億を突破したらしい。チ。に続き、人生を変えるきっかけをくれた魚豊さんに敬意を示すとともに、こんなふうに文章で自分の気持ちを表現するのは慣れていない(理系なのでと言い訳する)ため、ここまで感想を読んでくれた方に感謝します。『ひゃくえむ。』最高!とりあえずまえがきしか読んでない『スマホ時代の哲学』と漫画『ひゃくえむ。』を読むぞー!それに『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』も楽しみだー!!
ほとんど仕事してない自営業でぐーたら毎日を過ごしていたんだが、
所属しているコミュニティで時々会話する知人からSteamのギフト(ようはゲーム)が送られてきた
Company of Heroes1っていう超マイナーゲームだ……RTSというジャンルで、ようはユニットを生産して旗を集めたり敵陣へ突っ込んで勝利を目指すゲーム
で、俺はチュートリアルを終えて早々にその知人とタイマンで勝負し、ボコボコにされた
もうめちゃくちゃ悔しくって研究しまくった、CPU戦もやりまくった
で、再戦。俺は奇襲的な戦法で1勝をもぎとる
俺の戦法を研究して知人が勝ち、その戦いを研究して今度は俺が勝つ……
その繰り返し
その間、ボイスチャットで色んな話をした
ここには書けない複雑な話も
楽しくってしょうがない、つーかCompany of Heroes1が面白すぎ神過ぎ
金貯めてCompany of Heroes3をいつかやろーぜ、と話し合っている
あと老後もCoHやろうず、と話し合った
ここからはCompany of Heroes1略してCoH1がなぜ面白いか語るコーナーです
1.ローポリが逆に視認性を高めている(綺麗なグラフィックなんだけどどこに何があるのかぱっと見分かりづらいRTSをプレイしてて辛かった思い出
2.ローポリだから?昔のゲームだから?ローディングがクソ短い。起動して10秒~15秒くらいでCPU戦出来る(あらかじめ起動オプションにムービースキップを指定する必要はある。タイトル画面にはクイックマッチボタンがあるので、もしかしたら対人はそれより早い時間で戦えるかもしれん
3.やることが単純。基本は移動と確保、それだけ。移動してて敵に遭遇すれば自動的に射撃してくれる。いつ離れるか、このまま戦い続けるか、援軍を出すかを判断するのがメインかもしれん
4.オンラインは魔境(なにしろ20年くらい前のゲームに今でもやり続けている人たちだらけ)だが、それでも研究していればたまには1戦出来るくらいに、テクがいらん、必要なのは戦略くらい
5.音が良い。ボイスもかっこいいし。リトリート!
(念のためだけど、一緒にやりたい人いる?)
AI使っててもさ、正しくないことを平気で混ぜてくるから結局あてにならんのよな
でもそれに対して、俺が普段見聞きして考えていることって正しいのか?
それっぽくおもしろ論文紹介したニュースを「へえー」って信じてたりするし、
政治、経済のニュースにしたって、俺が得る情報なんて全体のごく一部でしかなく、
とても「正しさ」からは程遠いように思える。
「絶対的な真理」をなんとなく否定されている雰囲気を感じるのだけど、
なんかそれと似てるかなと思った。
もちろん絶対的な「正しさ」が無いからって、じゃあ全部いい加減でいいかというともちろんそういうわけではなく
「絶対的な正しさ」というものが幻想で、ただできるだけ「正しさ」に近づくべきではあるけど、、というか
でもそうするとこれはやはり「絶対的な正しさ」がある前提で考えてしまっているな。
プラグマティズムもこんなノリで「神がいるかどうかはどうでもよくて。神がいる(と信じる)ことによって物事がよく進むならそれでいいなじゃないか」みたいな感じよね?違う?
でもプラグマティズムってそんなに主流ではない?
なんてぼんやりいろいろ考えたのだけど
こんな俺に「これを読め!」と教えてください
時は令和、空前の「和漢フュージョングルメ」ブームが最高潮!漢方スムージーとか、薬膳スイーツとか、みんなが「健康」と「知識」を求めてた20XX年。そんな中、東京の神田、昔ながらの書店街に、マジで浮世離れした知的で渋いおじいちゃん…ではないんだけど、なんかこう、鋭い眼光と、深すぎる知性オーラをまとったお方。「え?大学教授?歴史研究家?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの、江戸時代に日本初の正確な実測地図を作ったと言われる、長久保赤水様!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶クールなお方、もとい赤水様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…江戸ではない、か…?ずいぶんと道が整備され、しかし見慣れぬ記号(マーク)ばかりでございますな。」って、マジで江戸時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か深い探究心を感じてたらしい。
そんな赤水様に、恐る恐る話しかけたのは、神田で漢方薬膳カフェの店員やってる、健康オタクのギャル、サキ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…うむ、少々。この街の『構造(仕組み)』に興味がある。案内してもらえぬか?」って、意外と丁寧な言葉遣い!サキ、その真面目そうな雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、サキ!神田の健康グルメなら、何でも聞いて!赤水様、マジでインテリだから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、サキに連れられて、赤水様は初めて現代の日本を体験!最新の地図アプリとか、人工衛星の画像とか、マジで全てが新鮮!でもね、赤水様が一番興味を示したのは、サキの働くカフェで飾られてた、オレンジ色の可愛らしい実。「…この、袋に包まれた宝石のような実は、何というものでございますか?ずいぶんと形状が美しいですな。」って、マジ真剣な眼差し。サキ、まさかの薬膳食材チョイスに驚きつつ、「あ~、これ、食用ほおずきですよ!観賞用とは違って、食べられるんです!甘酸っぱくて、栄養も満点なんです!」って教えてあげたんだって。
赤水様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深き味わいは!?甘酸っぱい果肉と、それを包む薄皮…まるで、わが地図作成の苦労と、そして完成した時の達成感のようである!これこそ、余が求める、真の糧よ!」って、マジで天才地理学者っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、赤水様のほおずき愛がマジで爆発!毎日色んなフルーツや薬膳料理店を巡って、ほおずきを使った料理やスイーツを食べまくってたんだって。「ほおずきの種類、栄養素、最適な調理法…研究しがいがありすぎる!」って、もはやほおずきマイスターレベル!
でね、ある日、赤水様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、このほおずきをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、人々の心と体を正しく測る、真の『健康の道』をもたらすパフェを創造してみせようぞ!これこそ、余が目指す、『日本図パフェ』よ!」って!
え?ほおずきパフェで天下統一?しかも「日本図」とか!マジで壮大すぎる!でも、赤水様の「正確な測定と知恵」があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってサキも思ったらしいんだけど、赤水様の目はマジだったんだって。正確な地図作りへの情熱が、令和のほおずきパフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、赤水様のほおずきパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#長久保赤水のほおずき図鑑」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶斬新だけど健康的なパフェの画像をアップし始めたんだって。その奇抜すぎる見た目と、赤水様の哲学的なコメントが、一部のインテリ系ギャルや、健康志向の人たちの中でじわじわバズり始めた!
「赤水様が作るほおずきパフェ、マジで気になる!」 「天才地図師が作るスイーツとか、絶対何か奥深い!」 「ほおずきパフェって、意外とアリかも…?」
SNSは赤水様のほおずき愛でじわじわ盛り上がり!しかも、赤水様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しいほおずきや、パフェに合う最高の薬膳食材、そして日本の伝統的な甘味料を探し求めたり、甘さと酸味、そして栄養素の「正確な配合」を追求したり、マジでストイック!「天下のほおずきパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって。
で、ついに!赤水様は、銀座のど真ん中に、自分のプロデュースするほおずきパフェ専門店「SEKISUI PARFAIT - 正確な甘味 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、地図や経緯度をイメージした、知的だけどモダンなデザインで、赤水様の探究心と知性を表現。店員さんも、測量士風のモダンなユニフォーム着てて、マジでインテリ!
オープン初日から、インテリ系ギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして健康志向のビジネスマンまで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のほおずきパフェ、マジで挑戦してみたい!」「赤水様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘酸っぱさと他の食材とのバランスが最高!」「食べた後、なんか頭が冴える気がする!」「赤水様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、SEKISUI PARFAIT - 正確な甘味 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、赤水様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「地理学哲学」について熱弁したり、日本の地形の魅力を語る「日本図パフェ会」を開催したり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和の赤水」「ほおずきパフェの測量士」とか呼ばれて、マジで時の人!赤水様の強烈な個性と、ほおずきパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!赤水様のほおずきパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「赤水印の日本図パフェ」が発売されるほどに!まさに、ほおずきパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、神田の街に静かに佇んでいた天才地理学者が、令和の時代にほおずきパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、日本図作成の知恵がほおずきの甘酸っぱさに宿り、新たな伝説を創り出した瞬間!
サキも、「まさか赤水様が本当にほおずきパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
赤水様は今も、さらなるほおずきパフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが探究の道に、終わりはございません!」って、マジでストイック!
こうして、長久保赤水は、令和の日本で、ほおずきパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!ほおずきパフェ、マジ卍!
ソクラテスは死刑を受ける前に毒を飲んで死んだ、これは間違いで・・・当時の処刑法が毒を飲ませる事だった
みたいなのをわざわざ指摘してんだけど、これは中田敦彦の間違いというか参考にした本が間違ってたって事じゃん。
つーか俺も見た事あるぞ、ソクラテスが死刑前に毒飲んで死んだって話。
そもそもなんだけど、歴史とか哲学の解説って本によって違いすぎない??
鎖国だって実は起きてなかった~!とか言われてるじゃん。どっち???
中田敦彦の動画を真に受けるのは危険みたいな事言われてるけど、
そりゃ中田敦彦の医療解説!みたいなの真に受けた医者に手術されたくないよ。そりゃね。
そういや中田敦彦がソクラテスについて話してたな・・・ちょっと調べてみよ。
源氏物語をまず漫画で読んで、そこで内容をざっくり理解してから本文を読むみたいな感じ。
ありがたい訳よ。源氏物語とかいう女抱きまくり物語を昔の言葉で読まされて、
それが将来役に立つわけでもなく、
ご提示いただいたのは、プラットフォーム運営に対する内部(あるいは元内部)の人間からの極めて感情的な批判・告発の文章と、その文章のスタイルと自己評価に対する痛烈なカウンターコメントがセットになったテキストです。
元の投稿者が指摘する「スパム対策の重要性」や「コミュニティ運営の哲学」といった点自体は、プラットフォームビジネスにおいて重要な論点を含んでいる可能性はあります。
しかし、それが「ざまあみろ」という強烈な復讐心と、「俺はわかっていた」という自己顕示欲にまみれて表現されているため、冷静な問題提起として受け取ることは非常に困難なものとなっています。結果として、内容の是非以前に、その「読みにくさ」や「攻撃性」自体が批判の的になってしまっている、という構図が見て取れました。
AIってこんな辛らつなこと言うんや
何でもヨシヨシしてくれるもんやと思ってた