はてなキーワード: 作風とは
まだ読んでないけど話題が気になる人は下記を一読してね。
HERO'S Web公式アカウントによる春泥先生からのご伝言
・ヒットし海外にも届く
(※原作の方がアニメより性が濃かったり、春泥先生個人垢のセルフFAでは先生×生徒のもうちょっと大胆めな描写があったりしたらしい)
です。
女性を題材とした性的表現を含む他の表現を売って自分だけ助かろうとする言い分であり、未成年者を題材とした表現の自由を狭めるバカな言い分でもある。
しかし、春泥先生をあくまで庇いたい腐女子たちはこう言います。
「(男共は)自分向けじゃない作品でまで女性の性的描写を求めるな」
「春泥先生は自分の作風に合った描写をスタッフさんにお願いしただけですよ! 何が悪いの?」
「別に他の表現なんか売ってない! 自分の方針を言っただけ!」
可哀想なので解説文を置いておきます。可哀想なので。あなたたちはとてもとてもとてもとても可哀想で文章が読めなくて幼稚で愚かでおそらく今後の進歩も望めないみじめな生き物なので。
『乙切と広瀬の距離を近づけすぎず、あくまで教師と生徒の関係であることを意識して描写してほしいこと、
普通は話の流れを把握してここを読んだだけで「女性を題材とした性表現を売ったな」とわかるんですが、わからないようなので教えましょう。
先にノイズを取り除くと、この部分に関しては『軽々しく引き合いに出してはいけない言葉を引き合いに出した』ことでも怒られています。
それを除いた上でも、「他人を売ったことにはならない」と言い張る腐女子も多いですね。
いいえ、売っています。
春泥先生がやったことはこうです。『怒られてもないことを釈明しだした。それも、悪事ではないことを悪事のように』。つまり、キャラの年齢のことで炎上したのに何で女のこと言い出した? ということ。
職場に例えましょう。
昼休憩の取り方について理不尽な怒られをしている同僚が急に言い出したんです。
「それに私、女の子に残業頼むなんて酷いことしたこともなくて……」
別に女子に残業頼んじゃいけないような職場環境でも業務内容でもありませんし、全然残業ばっちこいな女子もいます。
そしてあなたは普段からなるべく公平に――つまり男女どうこう関わりなく女子にも残業を振って仕事を回している社員です。
「あんた昼休憩の話で詰められてなかった⁉︎ ってか急に売られたな私⁉︎」
ってなりません? あ、ならないですか?
なになに、『私の大好きな春泥先生はそんなひどい意図で言ってないと思う』? ……バカか?
作者は過去に、BLというジャンルにおいて、年齢差の開いたカップリングや教員と生徒といった大人と未成年のカップリング作品をいくつか作ってきましたが、
……引用していて、現実と結びつけるなミソッカスが。で終わらせたくなってきました。
創作上の話であれば、年頃の娘が靴を履くために母親に爪先や踵を切り落とされてもいいし、小中学生がセックスしたっていいんだ本来は。
それをバッシングに屈して『昨今の犯罪の多さを鑑み』なんてそれっぽい理由で全面降伏したらどうなるでしょうか。
だって春泥先生は『私は今後、あなたたちに許される範囲じゃないと創作しません』と白旗を振ったも同じなので。
それはつまり、理不尽なバッシングにお墨付きを与えてしまったということですから。
折角なので引き続き職場に例えましょう。
昼休憩の取り方について理不尽な怒られをしている同僚が最後にこう締めました。
「私、今後は当然の業務遂行態度として昼休憩が終わる20分前には席について電話番し始めます」
なんか私が職場に例えちゃったせいで「そいつと上司が間違っているし労基に相談しろ」で終わりだし「同僚なんだから助けてやれよ」になるんですけど、
現実の作家先生の話に戻してみますと最悪ですよ。一定以上の発言力を持つアニメ化作品を持つ商業作家が「私が悪かったんですぅ〜」してしまったの。
まあこうやって『なんて書いてあるか』を解説したところで、春泥先生を慕うことを第一に考えている雛鳥ピヨピヨ腐女子どもは『先生のお考え』として一番穏当でしっくりきて自分達の心が安らかであり続けられる受け取り方を探してそれを信仰するんでしょうけどね。
ジャンルというものは... 流通とマーケティングのための分類に近い。そして、その意味するところは時代によって大きく変化する。
一賽社による『ZERO-SUM』が創刊される。こちらは少女漫画雑誌に分類されることとなり、『黒執事』のような、これまた女性読者に強く支持される人気作の系譜へとつながっていく。
とはいえ、例えば有名作品として、「最遊記」の男性ファンなども、割合としては女性ファンより少ないが、決して少なくはない。ここでいう「少女漫画」というのは、やはり便宜上の区分ということになる。
総じて、これらの変遷は、しばしば作風やジェンダーステレオタイプとして解釈されがちだが、実際にはかなりの部分が「どの棚に作品を置くか」というマーケティング上の事情による変化であった
[B! 漫画] 「荒川弘は性差別を恐れて男性名義にした」という海外ファンの誤解についての覚書|ヤヤネヒロコ
流動的で便宜的であいまいな、マーケティングの事情の「少年」誌・・・それって本当に必要かな。
『マーケティングの事情』を決める人たちの心の中に、ジェンダーステレオタイプがある可能性はない?
現に、ディズニーやマーベルやDCには男性向け・女性向けという区分はない。
編集部の迷い「女性作家が多くて女性読者も多い漫画雑誌は本当に少年漫画誌と呼べるのか」に対する答えとして、作家陣・女性読者そのままで、看板から「少年」を落とすという選択肢でも良かったと思う。
●大体性差別とされるのが少年誌や青年誌の女性作者に対する「BL臭い」「バトルが下手」「いかにも女が書きそうな男キャラ」みたいな批判ですが、はっきり言って女性作者が描きがちな描写に対する違和感や不快感みたいなものちょくちょくあるのは事実です。
しかし本来の対象読者が男性なのだから女性受けを狙った描写に批判があるのも当たり前のことです。それを性差別と捉えるなら、本来の対象読者ですらない女性読者から「ヒロインが童貞の考えた妄想」「女性キャラの服がダサすぎ」「女性キャラの心情にリアリティがない」みたいな事を言われるのが日常茶飯事な男性作者はもっと差別されてることになります。むしろ男性にとって都合のいい描写をフェミニストから女性差別としてカウントされがちです。男性は少女漫画の男性キャラ等に対して軽くバカにすることはあっても、女性を対象としたジャンルなのだから女性受けの描写は当たり前だという認識は持っています。
●こういう批判はどんな状況であっても「女作者と判った途端手の平を返す」と謎に付け加えられます。つまり男性受けの悪い描写だから批判されたのではなく、女性作者だから差別をされたということにされがちです。
元々女性名を名乗っている作者や女性であることを公言している作者にすら使われます。なおブルーロックのように男性作者も腐臭いという批判はちょくちょく受けます。
●性差別のソースが5chだったりしますがまず匿名である限りどっちの性別が言ったかはそれこそ分からないはずです。
●少女漫画で平成以降活躍できている男性作者はごくわずかです。90年代くらいまでは少女漫画志望の男性もそれなりにいましたが今はほとんどいません。理系女子的な考え方でいけばむしろそれが男性差別です。和田慎二先生のようにサービスシーン💛とヌードを描くのが許されていたのは昭和だからこそで、赤いきつねですら炎上する現在において少女漫画で男性作者が1mmでも男性受け描写っぽく見えるシーンを書いたら秒で追い出されるのは火を見るより明らかです。
逆に性差別を受けているはずの女性作者がこぞって少年青年誌で連載したがっているのが現状です。ついでに言えば漫画界全体でも男性作者の割合は23%です。
●ゼロ年代以降男性受けする少女漫画もめっきり減ります。作者の性別疑惑が少女漫画で起こりにくいのは、そもそも男性作者も男性受け描写もほとんどないからです。今時の漫画に男女関係ない!みたいな事を言ってる人は少女・女性漫画を批判してください。
逆に少年漫画のグッズプストアもコラボカフェも舞台化もほとんど女性客で、むしろ少年が差別されがちとすら言えます。
●一条ゆかり先生が少年誌の編集から水をぶっかけられたエピソードが女性差別とされてますが、そもそも何十年も前の話で、当時の漫画界の力関係は編集上位かつコンプラもなく、むちゃくちゃな事をやられた漫画家は男女問わずたくさんいます。なお一条ゆかり先生は逆に「男性に少女漫画は描けない」といった旨の発言を過去にしています。
●ジェンダーレスなペンネームは男女作者やジャンルを問わず一般的ですが、少年青年誌の女性作者だけ差別のためにそういうペンネームを使ったことにされます。
●男性名を勧められたと公言してるのはジャンプの浅美裕子先生のみ(それも30年以上前)ですが、結局勧められただけで普通に女性名を使用しているので強制ではないのがわかります。
なお本人は友人からも作風がホモ臭い(当時で言うところのやおい臭い)と言われているのを公言していて、むしろ少年読者が寛大とすら言えます。
「余暇階級」とは「高齢者・若者・既婚女性」なんだそうで、高齢者が入っている時点でノアスミスの主張は嘘だと分かる。
高齢者・若者・既婚女性の「余暇」が、現役労働者(男性の方が多いが未婚女性も相当多い)によって支えられていたというのはそうだろう。
けれど、文中で挙げられた「日本の若者文化」つまり「アニメも,流行の装いも,流行りの安価な飲食店も」を支えていたのは、高齢者や既婚女性ではない。
2chや、ゼロ年代のブラック企業ものブームは、主に若めの労働者の産物だ。ブラック企業で心を病んだ若者が創作し消費した文化だ。だからこそエロゲーのようなポルノが文化の中心に立っていたのだ。
原宿系の奇抜な服装は、親からもらうお小遣いで買ってたとでも言うのだろうか?
ノアスミスによれば「若者文化はかつてほど存在感がなくなっている」のだという。
「ただ,統計は嘘をつかないんだよね.」電子書籍を含めたコミック市場やアニメ市場は拡大しており、彼が若者文化と呼んだものの後継者はむしろ伸びている。
彼がそうした現代の作品を「奇抜な」と持て囃さないのは、近年の貴族主義・血統主義的な作品群が(いい歳した)彼の趣味に合わないだけのことだ。ノアスミスが愛する新作が出ていないとしたらそれはブラック企業が減ったことによる作風の変化によるものであり、彼がブラック企業で心を病んだ物語が好きだからに過ぎない。
タイトルのとおり、昨今の企業を取り巻く生成AI関連の炎上について、思うことを取り留めなく書いていく。
はてブで記事を書くのは初めてなので、色々と拙い点があることはご容赦いただきたい。
筆者は本業でSEをやりながら、しがない同人字書きをかれこれ十年以上続けている。
生成AIの利活用は業務では既に欠かせないものとなっている一方で、作家個人の創作性が重要視される同人活動においては、まだまだ全体として忌避感が強い印象だ。
少し前の話だが、同人誌印刷所ツクヨミが宣伝用の画像の一部について、加工の過程で画像生成AIを利用したことが指摘されて炎上、謝罪する事態となった。
この謝罪ポストを見かけた時に、「これってそんなに激詰めされるほどのことなのか?」と感じたことが、今回の記事を書くきっかけとなった。
https://x.com/i/status/2022628318609326210
生成AI、特に画像生成AIの是非については、活発であると同時にやや過激な議論が日夜交わされているが、筆者としては「知的財産権への配慮のない生成AI利用が許されないのは当然として、生成AIの利用全てに目くじらを立てるのも如何なものか」というスタンスだ。
モラルのないAI利用者がいることも、「自分の作品を盗まれる!生成AIの利用は絶対禁止するべき!」と過敏になる作家がいることも、彼らの間での主張が平行線なことも、きっと今はどうしようもない。
生成AIと知的財産権の侵害に関する判例が蓄積されるに伴い、より建設的な議論の中である程度の「ライン」が社会に浸透していくことを願うのみだ。
AI推進派や反AI派、どちらかに与してレスバをしたいわけではないので、この気持ちをこの記事の中に残しておく。
本業で所謂システム開発をしている筆者は、業務において頻繁に生成AIを利用している。
主な利用用途は以下だ。
筆者が属する企業で契約している生成AIは、オプトアウト設定により社内情報を学習しないようになっているが、念のため筆者はプロンプトに社内情報は入力せず、一般的な知識を問う内容にするように心がけている。
生成AIはあくまで業務の補助としてのみ利用しており、設計やレビューなどは全て引き続き筆者のタスクだ。
ちなみに、弊社は規定によりAIが生成した文章や画像の外部公開は認められていない。
社内で公開する際もAIによる生成であることを明記すること、第三者の知的財産権を侵害するようなプロンプトは入力しないことを定められている。
特に厳しい規定だとは思わず、企業のコンプライアンス遵守のために当然の制限だと感じている。
同時に「プライベートでもこれくらいの意識で生成AIを利用する分には問題ないのでは?」と思うのだ。
同人誌印刷所のツクヨミの件は、①生成AI利用した画像をそのまま公開したこと、②その過程においてガバナンスが効いていなかったことについては批判されて然るべしだが、そこから飛躍して「今後生成AIを一切利用しないことを誓約しろ」とまで求めるのは行き過ぎていると感じる。
生成AIの利用を一切禁止した場合、例えば、印刷所のホームページをよりユーザーフレンドリーにしたいので生成AIを活用してソースコードを見直すことも許されないのだろうか。
もちろん専門家に発注すれば求めるものは出来上がるだろうが、生成AIの活用により安価に同等の成果物が得られ、結果的に消費者に提供するサービスの価格にその分が還元されると企業が言ったら、消費者はそれを受け入れるのだろうか。
一個人が自分好みのイラストのために生成AIを利用することと、企業が業務効率化のために生成AIを利用することを、一緒くたにして批判するのはそろそろ止めたほうが良いのではないか。
生成AI利用の何もかもを吊るし上げる行為は、今後消費者が受け取ることが出来たはずのベネフィットを失わせるだけではないだろうか。
正直に言えば、この記事を書いている時点から既に「こいつは字書きだからこんな呑気なことが言えるんだ」だの「絵描きの危機感が理解できるわけがない」というツッコミが聞こえてくる。
絵描きの気持ちを正確に理解することは、確かに絵を描かない筆者には不可能だ。
だが、一介の創作活動をする者として、自身の著作物への権利侵害となりうる生成AIの利用方法に脅威を感じることについては、共感できるものだと思っている。
筆者の所感だが、作家の生成AIに対する忌避感は、「インターネット上に公開した自作を勝手に学習され、その創作性を搾取されることに対する無尽蔵の恐れ」から来るものだと認識している。
実際、特定の作風を模倣する形で生成AIを利用するユーザーはいる。
モラルのないユーザーのモラルのない行為は好きなだけ糾弾すれば良いが、生成AIがインターネット上のコンテンツを学習すること自体を否定するのは、個人的には違和感がある。
生成AIがコンテンツを学習をしただけでは、まだ誰の何の権利も侵されておらず、悪意をもったユーザーが生成AIが学習したコンテンツを悪用した時に、初めて権利侵害が成り立つものだと考えているからだ。
インターネットとは膨大な知の蓄積であり、これまでその活用によって恩恵を受けてきた人間が、どうしてプログラムが機械的にそれらを学習することを否定しようとするのだろうか。
人力で苦労していたものを省力化できることのメリットの方が絶対的に大きいと思うのだが。
法整備が追いついてない点や利用者にリテラシーが浸透していない点などの課題は確かにあるが、だからこそ、現在の企業は業務における生成AI利用に細心の注意を払って取り組んでいるのだ。
少なくとも弊社はそうだ。
そして、そういった企業は今後も増えていく。
それでも、上述した課題が解消されない限り、ヒステリックに生成AIの排除を企業に対しても叫び続けるのだろうか。
発信した情報が誤っていても、それを有識者が訂正することで、インターネット上に蓄積される情報は少しずつ洗練されていく。
そうすることにより、「誰かが困った時にはインターネット上の誰かの残した情報が助けてくれる」という認識をエンジニアは共有しているものだと、この仕事をしていて筆者は感じている。
同人活動においても、同様のことがあるはずだ。
初めて同人誌を作る時、印刷所の選び方や原稿の作り方、イベントの申し込み方、それら全てを筆者はインターネットを通じて学んだ。
先人たちが残してくれた記録に、大いに助けられたのだ。
AIは、そんなインターネット上の知恵に、より手軽にアクセスできるようにしてくれる手段である。
道具に善悪はない。罰する対象となるのは、あくまで道具の利用者の悪質な行為であるべきだ。
道具そのものや道具を使うこと自体に対して非難することはおかしい。
感情的になるあまり、その点を混同することがないようにしたい。
繰り返すが、確かにAIはあなたの作品を学習するかもしれない。
それはインターネット上に作品を公開した時点で避けられないことだ。
けれど、学習されただけでは、まだ誰もあなたの作品を盗むことも、その作家性を脅かすこともしていないのだ。
同人誌印刷所のツクヨミは、文字加工の仕上げに生成AIを利用したと報告していた。
加工対象となったのは一般的な文字列で、企業のロゴですらなく、加工の内容にも特別なデザイン性があるようには見えなかった。
「利用したAIの学習元に自身の作品があるかもしれないから許せない」というのは、カスタマーハラスメントではないか。
「生成AIを利用したのだから、いつか顧客の作品をAIに食わせるに違いない」というのは、あまりにも下衆の勘繰りであるし、企業というものを馬鹿にしているとすら感じる。
消費者の生成AIに対する過敏さを理解している企業は、できるだけその感情を刺激しないように日々試行錯誤しながら、社内規定を整え、従業員のコンプライアンス教育に努めているのだ。
あなたは、まだ何も盗まれていないにも関わらず、生成AIを適切に利用しただけの企業を、まるで盗人かのように無条件に糾弾してはいないだろうか。
今一度、立ち止まって考えてみて欲しい。
エロゲ黄金時代にそこそこエロゲーをやり込んだ人間なら「あーあったねそういえばそういう作品」と思い出す様なあるメーカーの作品群がある。
そのメーカー自体は2000年代後半には解散したのだが、代表作を書いていたライターは確認できる限り2010年代頭までライターとして活動していて、そこから忽然と姿を消していた。
もう2000年代の流行オタク業界の話なので、こういうことはよくあることなのだが、往時にはそこそこ活躍していたオタク界隈の中である種名声があった名物クリエイターで、今では足を洗ったのか、消息知れずの人たちは結構いる。
当時流行っていた学園物で、どこか2000年代のネット/アキバ界隈特有の、あのゆるい開放感のある自由な雰囲気でのコメディが得意で、とにかく優しくて面白くて「楽しい」、ノーテンキな世界観が心地よかった。
そのメーカーは音楽に特に定評があり、ライター謹製の作詞と、2000年代のオタク系音楽特有のフュージョン、ニュージャックスイング、コンテンポラリーR&B系の透明感ある音楽と相まって、いい感じに肩の力抜いたふざけた歌詞とあっていて、未だに思い出の音楽としてXなどでも結構話題に上がるくらいだ。
そんなわけで、今でもXやyoutubeを探せば、そこそこ音楽や作品を評価して名前が結構上がるくらいには、まだファンも多いライターだった。
数週間前、ゲームwikiを見ていてふとその懐かしいタイトルの記事があるので目を通していた。内容は、ハッキリ言って1から10まで覚えているのだから見る必要もないかなと思っていたのだが。
そこで、あるURLが目に付いた。
15年近く消息不明だった、そのライターの消息が分かった瞬間だった。
クリックして読んだ先の作品は、25年も前に完結したライターの代表作シリーズの続編兼ある種の最終回の様な短編だった。
あの時代の空気も雰囲気もそのままに、主人公やヒロインや悪友キャラ達が再開し、再び「面白い物を探して」、青い空の向こうへと歩き始める物語
あの頃と何もかも変わらない、古い友人というか、昔よく言った店がまだやっているような安心感とノスタルジーを覚えた。再びあのキャラや時代に出会う事が出来て、嬉しかった。
だが、それもリンクから15年の間何をやっていたのだろうと、探してみると、失望へと変わっていった。
惨めな氷河期世代のオッサンやニートだとか、他責思想丸出しのテンプレのようななろう主人公や療育放棄された頭の病気の様な悪役令嬢、そんな判で押した様なテンプレなろう系ばかりの作風ばかりになっていた。
どこかの素性不明の本でとってつけたような兵站論や物流論、軍事理論の講釈を垂れて粋がるバカ主人公
スラップスティックとただの奇行の区別もつかない悪役令嬢が、〇狂いじみたことを喚きながらトー横のメンヘラの様に暴れまわる頭の病人の様な主人公
貰い物のチートだとか、現代知識で無双をして、ヒロイン以外同性の友人すら出てこないあまりにも惨めな主人公
そんなものばかりだった。人気はそこそこあったのかもしれない、だが、そこにはなぜこんなメンタルでまだシャバにいられるのか、という様な煮詰まった読者欄に生息するなろう系の負け組オタクばかりがテンプレを評価する蟲毒だった。
子供のころ、石の裏をひっくり返して蠢く虫や蛞蝓を見たような気分を思い出した。
唯一救いがあるとすれば、書いていたライター当人も何か思うところがあったのか、2020年に入る前には活動を停止していることだった。今となっては作品はどこかのブログや魚拓でサルベージされた場所でしか見ることはできない。
あの時代の市場規模の中で活動していたのだから、ネットで言われるなろう系市場が実態と以上乖離して「儲からない、将来性がない」というのを体感的に察知して筆をおいたのか、それとも何か別の理由でもあるのか、あまりにも現実と乖離したなろう系オタク達に心が侵食される様な苦痛を感じて逃げ出したのか、それは今となってはわからない。
それは、世界というものがひどく狭く、しかし同時に、どこまでも広がっているかのようにネットで、秋葉原で、オタク界隈で、個々の若者たちの人生で感じられた2000年代という時代の産物である。
日常は終わることなく続き、青春は一瞬でありながら、画面の向こうの主人公やその親友やヒロインたちも、そして画面を見る側の当人たちには永遠に似た手触りを持っていた。
いわば、ぬるま湯の様な富裕な日本の穏やかな時代の産物だった。
何より哀しかったのは、なろう系を書いている以外で、かつて自身が手掛けた作品群の続編や外伝の様な短編を書いているときだけは、その感性や才能が色鮮やかに蘇っているところだった。
それは、失われていたはずの完成が色鮮やかに息を吹き返す、セピア色の黄ばんだ写真が綺麗にあの頃の青春の空気と、匂いと、青空と、温度が戻ってくる様な感触に思えた。
そこには、成り上がりや美少女や承認欲求を求めて銃や刃物を手に他人を殺傷する極悪人の様ななろう主人公はいない、他人が落ちていくのを「ざまあ」と笑うあまりに惨めななろう主人公も悪役令嬢もいない。
書類の数字で講釈を垂れながら、見ることもない兵隊や一般人を「致し方ない犠牲」と平気で切る血も涙もない人非人の様な、なろう系主人公もいない
まるで場末のキャバ嬢か、脳に何らかの寄生虫でも入ってるかの如く主人公をマンセーマンセーと褒め称えて股を開くヒロインもいない。
そこにあるのは、ただ、あの頃と変わらぬ「人間」たちであった。
あの頃と何も変わらない、他者や世界を逆恨みすることなく、加齢で余裕がなくなって承認欲求と劣等感で精神がおかしくなって認知が歪んでいるわけでもなく、
心が歪むことなく、いつまでも続く「終わらない文化祭」のような毎日と、静かに流れる「なんとなくぬるま湯の様な優しい世界」で、また面白い事を探して次は何をしようか、と仲間やヒロインと探して軽口を言い合って青空の下を歩いていく、
「さあ、また旅に出よう、あの青い空しか見えない、青い階段を上がれば出口だよ」
「結局俺達は、まだ何も見てないんだな」
「だってそうだもの、"見る"キミがいてこその世界だからね。だからもう一度世界を見て回ってきてほしい。」
「そうかもね、それだけ君を信用しているということさ。おっと、僕は遅れてから行くよ、そろそろ時間だ。また会おう。」
「ああ、また、どこかで」
このやりとりの中に、彼等と俺達と、そしてあの時代の世界のすべてがある。
ああ、彼等や彼女らだけが、永遠に続く様な錯覚でなく、本当に永遠の中にいるのだ。
青い階段を昇りつめた後に広がった青空と夏の街を一望できる白いビルの屋上の景色が広がり、
主人公は持っていた腕時計だけを青空に向かって放り投げる、そしてこう言った
ああ、それは時間というしがらみからさえ自由になるために離脱するという意味する行為なのだと、俺は感じ取った。
現実と時間という世界から、本当に旅立ってしまったのだ、「永遠」の方へと。
その当時の古参ファンが感想に古い友人を訪ねる様に感想欄に現れていた、それはまるで、亡き友の家や墓を訪れるように…なろう系オタクは誰一人といない、その落差があまりに悲しいと俺は感じた。
なろうやカクヨムに続きが書かれた時点で、本当に彼等は「死んでしまった」のだろう。とすると、続編は全て主人公が死んだ先に見た夢の中を、俺達が追体験しているだけなのかもしれない。
別のタブで開いているyoutubeで再生している、あの頃の作品の主題歌は、きっとあの時代と彼等への鎮魂歌なのだろう。
気の抜けた明るい歌詞が流れている、だがそれは、本当に永遠の世界へと旅立っていってしまった彼らと彼女たちの、あまりに悲しい鎮魂歌だった。
それは、明るさを装いながら、すでに失われた時代とその中に生きた人々と、あの日の世界にとらわれ続けた俺をひそやかに弔っている。それは同時に、青青の時代とそこに生きた彼らへの静かな挽歌でもあった。
彼等はすでに旅立っている…きっとそれも、帰ることのない永遠の方へ。
彼等は帰らぬ旅へ出た。
彼等はすでに去った。
次の「面白い事」…青い鳥を探して、帰ることのない旅路へと赴き、時間の流れから離脱した。
――去ったのだ。
青い鳥を探しに、
二度と帰らぬ道へ。
そして今、彼らはもはや、
https://b.hatena.ne.jp/entry/4785574440925169154/comment/Gl17
◎クリエイタの個人資質もあろうけど、原作からこういう作風で、
かなりオタ向けド真ん中ジャンルながら普通にこういう開明性を含み、
当時社会がまだ良識を自然に尊重するものと内面化していた時代が出ている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
そのうちロンクハラライスがどうのこうのと書くようになるのだろう。
2020年初頭、小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の出版前、発売日すら未定だった時期から、本作の映画化は進められていた。その第一歩となったのは、原作者のアンディ・ウィアーが俳優ライアン・ゴズリングに出版前の原稿を送ったことだ。その意図は謙虚だが、明確だった。映画の主演としてだけでなく、プロデューサーとしての参加も検討してほしい、というメッセージである。
ウィアーは、近未来を舞台に緻密な科学描写と感情を巧みに結びつける作風で評価を築いていた。2011年のベストセラー「火星の人」では、複雑な難問が立ちはだかっても、それを解く人物が魅力的であれば、観客が付いてくることを証明し、2015年に『オデッセイ』として映画化された際には、より大きなスケールでその方程式を確かなものにした。
しかし「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は、「火星の人」とは異なり、地球から遠く離れた宇宙で孤立する男から始まり、しかも記憶喪失、やがてはるかに大きな物語へと広がっていくというものだった。原稿を受け取った、ゴズリングは一気に読み切った。
「本当に壮大な旅なんです」とゴズリングは語る。「それに、ライランド・グレースは少しもストイックじゃない。伝統的な意味で勇敢でもないし、自分がヒーローだなんて幻想も抱いていない。でも彼は、挑み続けるんです」
ウィアーが原稿を送ったタイミングは偶然ではなかった。世界がコロナ禍に突入し、映画の撮影が各地で停止、映画館がクローズしていった時期と重なる。映画興行ビジネスは崩壊し、大規模な映画製作の未来には暗雲が立ち込めていた。
「人生でいちばん壮大な映画体験を作るチャンスが来たと思ったら、映画館が閉まっていた」とゴズリングは言う。だが、そんな試練の最中に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」と彼が出会ったことは、どこか不思議な巡り合わせを感じさせるものがあった。「この作品は太陽が死にかけている話ですが、同時に深く希望に満ちている。私たちには“不可能な問題”を解決する力がある、諦めなければ奇跡は起こりうると、思わせてくれるものなんです」
「私の売り文句はこうです。“宇宙を揺るがすバディ・ムービー”」
このアイデアだけでも『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が従来のサバイバル物語と異なる点が示唆されている。最終的に物語を動かすのは協力しあうことであり、「ひとりでは達成できない」という真理なのだ。
ゴズリングは、このアイデアを映画化したいと即座に反応した、そして作品のテーマと同じく、それには“チーム”が必要だとわかっていた。
「最初に思ったのは、優れたプロデューサーに入ってもらわないと、ということでした。これは不可能じゃないかと思っていた」とゴズリングは言う。「最高の人材が必要だったんだ」
彼が最初に電話したのが、エイミー・パスカルだった。映画スタジオ ソニー・ピクチャーズのトップから転身し、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』、『スパイダーマン:スパイダーバース』など幅広い作品を手がけてきたアカデミー賞ノミネート経験のある映画プロデューサーだ。パスカルもまた、ウィアーの原稿をすでに読んでおり、ゴズリングと同じものを感じていた。
「グレースは、私たちと同じごく普通の人。スーパーヒーローでも宇宙飛行士でもなく、凡人です」とパスカルは言う。「でも時間をかけて、途方もない犠牲を払える人間になっていく。その感情の旅、変化こそが柱なのです」
パスカルにとって、SFであることは問題ではなかった。ウィアー作品らしく、ジャンルの外見は、もっと大きく普遍的なハートの部分を美しく際立たせるためのものだったのだ。
「確かにSFです」とパスカルは言う。「でも“信頼”の話でもある。人への信頼、協力しあうことへの信頼。今は皆がお互いを怖がっている時代です。誰もが他者を信じない。誰も人の話も聞こうとしない。各々が自分の部屋に閉じこもって、自分の信じたいものだけ信じ、違う新聞を読み、他者に心を開こうとしない。この映画は“聞くこと”を求める。誰か別の言語を学ばなければならない。相手がどこから来たのか理解しなければ、世界は救えない」
パスカルが正式にプロデューサーとして加わり、企画は形になり始めた。次に必要だったのは、ユーモアと危険、ぬくもりとスケール、その緻密なバランスを取りつつ、エモーショナルな魂を見失わない映画作家を見つけることだった。
「誰がこの映画を引き継ぐべきか、議論の余地はありませんでした」とパスカルは言う。「フィル・ロードとクリストファー・ミラーしかいなかった」
「私たちは、物事が“不可能”に見える時代を生きています。けれどこの映画は、想像力と善意を持って人が集まったときに何が可能になるのかを描くのです」とロードは言う。
プロデューサー、主演俳優、監督が正式に揃い、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は原稿から撮影へ向かうチームが発足した。作品で描かれるミッションと同様に、このチームもあらゆるレベルで協力し合うことで、困難を乗り越えていくことになる──。
最近、コミティアなどで「AI生成のイラストや文章は禁止」というルールが出てきてるらしい。でもこれ、冷静に考えてちょっと不思議じゃないですか?そもそも「それがAIで作られたかどうか」って、誰がどうやって見分けるんでしょう。
今のところ、AIかどうかを100%判定できる方法なんて存在してないと言われています。見た目の違和感?それって結局ただの主観ですよね。AI判定ツールもありますけど、普通に人が描いたものを「AIっぽい」と誤判定することもあるレベルです。そんな曖昧なもので線引きしようとしているわけです。
じゃあ運営が全部チェックするのかというと、それも現実的じゃない。大量の作品を一つ一つ正確に見分けるなんてほぼ不可能です。仮に「これはAIだ」と判断されたとして、それが間違いだった場合、誰が責任を取るんでしょうか。
結局のところ、「禁止」と言っているわりに、その根拠も判断方法もかなりフワッとしているように見えます。本当にそれで公平なルールとして成立するのか、もう少しちゃんと考えたほうがいいんじゃないでしょうか。
よく「指の数がおかしいからAIだ」といった話も聞きますが、それもかなり雑な判断に思えます。極端な話、そういう作風の人がいてもおかしくないですよね。実際、有名なアニメでも指の本数が現実と違うことは普通にあります。例えばザ・シンプソンズのキャラクターは、基本的に指が4本です。それを理由に「これは人間が描いていない」と言い切れるのでしょうか。
昨年秋くらいから映画を見る熱が戻ってきたので今年見たやつについて二、三文程度で雑感想
アニメ中心(2/3くらい)でみるのでとりあえずアニメだけ雑に五段階評価
多分今年一のトンチキアニメ
ジャンル的には若干ラブロマンスもあるモダン・ファンタジーな作風かと思いきや、明らかに監督の趣味であるロボットが出てくるので実質マクロス
あまりのトンチキぶりにより評価よろしくないのはわかるが、主題歌である「Sailor, Sail On」は普通にいい曲なので聞いてほしい
作中で呪いにより様々な本の中の世界探検したりするのだが、本の中ということでファンタジーでも何でもござれなオムニバス形式で色々な本の中の世界の演出が楽しめた
ただ、全体的になんか力尽きていそうだな?といった限界を感じる部分があったので色々と惜しい(惜しいと思う程度には面白いので本当に色々と惜しい)
第一章ではハサウェイの飛躍が描かれていたが、第二章からは順当にバッドエンドフラグを積み上げていて見ているこっちがワクワクするとともに辛くなる
モビルスーツの戦闘のCGがとても見ごたえがあって、そのシーンだけでも何回も見たくなる
さすが東野圭吾と思わせる綺麗に起承転結で話が構成されており、安心して楽しく見ることができた
入場者特典の小説である「クスノキの裏技」では作中では主人公の壁として立ちはだかった柳澤将和のエピソードが読め、視聴後の満足感を向上させた
ただ、劇中歌として流れた謎ラップのような何かは雰囲気ぶち壊しなのでマジでよくない
ハルヒの20周年記念のリバイバル上映ということで見たが、元々が名作なので久々に見た今でも名作であった
多分、映画を見た当日の現実世界で消失の世界を体現するような雪の天気だったということもあるのかもしれない
ただ、舞台挨拶をライブビューイングで見ていた時のぶつ切り(?)のような何かだけが不満点
新劇場版とある通り、過去にアニメとして放送された吉原炎上篇の劇場版のリメイクだが実質別物レベルの大作
いつもの万屋のギャグはしっかり笑わせてもらいつつ、各バトルシーンは掛け合いも含め、とにかく熱く面白い
総集編アニメ映画であるが、総集編の前後におねえたちのライブシーンにまつわる新規シーンと、総集編にもかかわらず総集編を構成するための新規カット・再収録部分もあって、ちゃんとファンを楽しませようとしていて嬉しくなる
ただ、2クール分の総集編はちょっときついかな?って感じるシーンもしばしば
とりあえず、ファンは現在発売中のメガミマガジン2026年4月号を買えばいいと思う
何かやけに話題になっていたので映画公開日の初日の朝一で見たが、脚本の出来がものすごく微妙で一部のオタク層との感性の違いを痛感した
ただ、ライトノベル版の出来は普通に楽しく読める類で、文章だけなのに映像や音もある映画版よりもはるかにノイズも少なくわかるものになっているので、物語を楽しみたい人はそちらを読んでライブシーンの一部をyoutubeで公開しているものを見て補完するのがおすすめ(まぁあの3人のライブもライブじゃなくて親しいものとのカラオケに近いので無理な人は無理かも)
まぁライトノベル版を読むと脚本の雑さが際立ち評価が数段下がるトラップがあるけどね
映画の評価としては文句なしの★★★★★なのだが、今回は見たのは2026年2月20日より公開が開始されたScreenX版の方で評価するとこうなる
これは個人の楽しみ方の問題ではあるが、自分が好きなシーンはScreenXを活用した無限城の演出や猗窩座との戦闘シーンじゃなくてScreenXが活用されないシーンなのでちょっと残念
ULTRA 4DXの方も気になったが、いつも行く映画館にないしそもそも日本に4箇所しかない
旧作を令和の価値観と倫理観で丁寧にしたてたリメイク作で、普通に面白い
令和のファミリー(特に子供)向けの映画でちゃんとスネ夫とジャイアンが窒息死しかけるシーンができることにある意味感動した
旧作好きでまだ見ていない人はエンドロールの一枚絵ラッシュを見るためだけにも見る価値はあると思う
みんなライブを見に来ていると思うので、誰もストーリーを見に行く人はいないと思うが予告であったスプリングフロートレースは冒頭3分くらいで終わってて笑った
お手本のような減価償却だったが、映画向けにライブの歌詞を改変して楽しませようとしていたのがいいと思った(アイスマイリン好きは尊死してんじゃないですかね)
基本的に応援上映なのに、ほとんどの人はペンライト振るくらいで静かだったのが心残り
噛めば噛むほど味が出る映画で、極端にいいシーンはないが、順当に面白いを積み上げている
メインの舞台が1912年~(少なくとも1913年は来ているし、終盤は1914年も来ていると思う)ということであらゆる描画にその時代のコンテキストが乗っかってくるのが非常に強いし、制作側もそれを分かって時代考証した上でちゃんと作っているので「なんちゃってパリ」になりすぎなくて良い
ラストではなんかいい感じに綺麗に終わったが、その後はどうなったか考えたくないがとても気になる(エンドロール的のフジコの絵画から断片的に情報はあるけど不条理にまみれてそうで……)
良質なアニマルパニックもので動物たちの捕食者・非捕食者の関係がちゃんと描画されたり(これにより作中のカオスさが際立つ)、サメが質量兵器として空を飛んで襲ってくるシーンがあったりするなど何でもあり
ただ、主人公のメイベルは人間視点では作中で最も自己中心で環境活動家要素をもったカスで、衝動的に交渉相手を殺したりするザ・ポリコレディズニーの体現者なので、その手の要素が地雷の人は注意
普段私はnoteでガンガン書いてるのだが、流石に今日は増田で書かせてもらう。
今日はnoteは休み! フォロワーはこの増田を呼んでくれ、という気持ちだ。
柚銀さんは結構前から同人活動や雑誌での短編掲載をしていて、足フェチ系の創作を続けられてこられた方だ。
「脚」じゃなくて「足」の方のフェチで、素足を始め制服裸足だとか靴下や靴に入っている足フェチ、または足形なんかにも関心の領域がある。一方で(足の)匂いフェチにはあまり振らない。
爪先も足裏も物語のなかで上手に描く。顔は可愛らしいデフォルメ系だが足は当然リアル感があり、そのギャップもとても良い。とても良い。とても良い。
また足フェチに対しては大変ストイックで、女性の足ばかり愛でてしまう業や罪悪感(足ばかり見てしまうこと、嵩じて結局犯罪行為に進みかねないこと、そもそも女性に気持ち悪がられてしまう可能性)なんかもしっかり作品で描かれることも多い。
つまり、無理やり足を愛でたり、催眠などを使って愛でたり、SM的な構図を過度に持ち出したり、という「それで終わり」なインスタンスな足フェチプレイへの傾向は薄い。
日常の延長で足フェチとして振る舞えるモードを突き詰めて、足フェチが好むシチュエーションを存分に描くのだが、その先にあるリスクや業といった薄暗い感じも射程に含む構造の作品が多い。
一方でそうしたリスクや業を乗り越える可能性も作品のなかで示してくれる場合がある。
つまり、重度の足フェチ男のことを性的嗜好丸ごと含んで「あり」と考えてくれるヒロインの存在だ。
柚銀さんには、足フェチの先輩と、先輩を慕う後輩安城たまきとの連作がある。
「恥ずかしいけど…私の足で 先輩が満足してくれるなら…」とのモノローグがある安城たまきは、性的嗜好を丸ごとのんでくれる代表例だろう。
安城さんは大人しそうな雰囲気だが足フェチ先輩のことを慕っていて、先輩がめちゃ好みそうなフットカバーを履いたりちょっと積極的だったりする。
甘酒に酔った振りして先輩に靴を脱がせてあげたりする。
足フェチの業をいかに解消(あるいはアウフヘーベンと言ってもいいかもしれない)するのか。柚銀さんはここに一つの可能性を作品で描いている。
そんなとてもしっかりした作風を織りなす柚銀さんは、令和7(2025)年1月からCOMIC FUZ(芳文社)で『青を踏む』の連載を始めた。
戦前の雑誌を意識させるような風雅なネーミングで、アホみたいな頻度で女子の爪先や足裏が登場する漫画だ。
さてそのあらすじを述べると、主人公は重度の足フェチ高校生跡辺。彼は同じクラスの天川さんに恋い焦がれている。
ところがひょんなことから同じく同級生の荊さんに足フェチがバレてしまう。
他人の性的嗜好が漏れ出だすところに興奮する荊さんに脅され操られるような形で、跡辺は天川さんに足フェチシチュエーションふんだんに接近していくことになる。
さて、天川さんは天真爛漫な少女で、荊さんは主人公を操る通りミステリアスでややサディスティックな印象を持つ。
どちらが物語上のヒロインか? 1話の時点で明確に推理をした感想がある。
No.25
この先生はギリシャ型フェチだからエジプト型の天川さんじゃなくてギリシャ型の荊さんが勝ちヒロインだろうな。
2025/01/12 15:03:55
1話から天川さんも荊さんもアホみたいに制服で素足を晒すのだが、足の形に明確な違いがある。
諸賢もご存知の通り、足の形には「ギリシャ型」だとか「エジプト型」や「ケルト型」「スクエア型」などがあるのだが、ここで問題となるのが<b>柚銀さんは極めて重度のギリシャ型フェチ</b>ということだ。
私は柚銀さんにスケブをリクエストする方が「ギリシャ型をお好みと重々承知しておりますが、エジプト型の足でお願いできますでしょうか?」といった内容の発言をしているのを見たことがある。
さて天川さんと荊さんの足の指の形はどうだろうか? なんと天川さんはエジプト型、荊さんはギリシャ型なのである。
上記の感想を書いた方は練達の足フェチであり、また同時に柚銀さんの大変優れた読者だ。どー見ても、足指の形で天川さんは不利だ。というか当て馬だ。
ミステリアスでギリシャ型のきれいな足指をしている荊さんにどーみても分がある。
2巻の巻末に驚くべきことが書かれていた。まず、優秀な読者が予見した通り、本来は主人公と天川さんとの関係は崩す予定だったという。
ここまでは天川さんと荊さんの足指をつぶさに見れば指摘可能だったかもしれない。(なお私は柚銀さんキャラ分けのためにエジプト型の足も描いてるなぁ、くらいにしか考えていなかった)
ところが予定は覆された。2巻巻末には、読者の反応や編集担当とのやりとりで天川さんとの関係を切らない展開を、悩みながらも選択されたことが書かれている。
実際に2巻の表紙には元気な天川さんが膝を立てて座っており、可愛らしいエジプト型の爪先と足裏とを晒している。
今まで同人作品を読んでいるときには、ギリシャ型ヒロインで作者は描き、読者はそれを享受していた。そーいうもんだ、そーいうフェチなんだ、で納得・完了していた。
商業連載となるというのはこういうことなのだろう。生き残るために、読者のリアクションを加味したり、編集担当との協議が加わる。
その結果、柚銀さんの(従来の)フェティシズムを超越した事態が作品の中で発生してきている。
ご本人にはご当惑があることだろう。だが、商業作品となることで読者としてはものすごい経験をさせてもらっているような気がしている。
最終的には負けヒロインになるかもしれない。それでも、本来想定し得なかったエジプト型ヒロインが作品の中で、同じコマで、あるいは連続する近いコマで、ギリシャ型ヒロインと素足を並べている。
こういう現象に対しては、ただただ「ありがたい」と思うばかりである。
これは私がエジプト型の足指が好きだからエジプト型ヒロインが活躍して嬉しいだとか、そういう次元の話をしているのではないことはご理解いただけるかと思う。
実際指の長いきれいな足というものはギリシャ型であることも多く、柚銀さんのフェチには、作品から感じ取れる背景哲学含め個人的にもとても共鳴していたところだ。
単純に足指の形の好みという話ではない。
商業作品となることで、今まで想定し得なかった状況、すなわちこの作家の作品のなかでエジプト型とギリシャ型の足が一堂に会する状況が現出するということが「ありがたい」のである。
稀有と言っても良い。状況が「ありがたい」わけで、私たち読者はただこの状況を肯定しことほぐ他ない。
柚銀さんは商業連載で大変な点も多かろうと思うが、存分に足を描き、足が映えるシチュエーションを描き、そして根底に哲学のあるフェティシズムを描き続けて欲しいと思う。
柚銀さんの描く足やシチュエーションが大好きだし、足フェチを理解しノってくれる安城たまきと先輩との関係性みたいなあり方の提示も大好きだ。
あと爪先をちょっと上げて床/サンダルと足裏と爪先とを同時に描くのマジうますぎ。あと足首で足をクロスさせて爪先と足裏を両方見せる技法も見事という他ない。
このジャンルは奥が深い。世界中に足フェチの先輩たちがいる。西洋にも中国にも「兄貴」たちがいる。柚銀さんに良い形で作品が広く知られ、読まれることを願ってやまない。
漫画家さんの引退発表って珍しくない?今まではフェードアウトが当たり前だった…
↓(検索)
望月花梨さんは2005年発表された「丘を越えて」以降作品は発表されていません。
コミックス未収録作品は「通い婚」(短編)「丘を越えて」(読みきり)です。
コンスタントに作品が発表されなくなってからも樋口橘先生のアシスタントをされていたりしたようですが、
最近mixiでコミュニティを見たところ現在は漫画を描かれてはいないとのことです。
樋口さんのブログで触れられている様子を見るとプライベートでの変化はあったようですが
公には発表されていません。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119734181
一昨年あたりにファンレター書いたら直筆メッセージ入りの年賀状が来たという人のツイートもあったし、存命ではあるみたいだし、数年前の花ゆめフェアでもポスカとか売ってたみたいだから出版社と連絡も取れる状態なんだろう。
プライベートでの変化ってことはやはり結婚出産とかかなー。書きたいことや引き出しにあることは出し切ったかな、ってタイミングで出会いがあってそのまま…ってところなのかな
今までの作風が自分の感性や時代の空気の変化で描けなくなったとしても、他に描きたいことや描けることがあるのなら是非描き続けて欲しかったけど、本人がこれ以上は無意味だなって思ったならしょうがないのか。
あの作風は主人公がティーンか、20歳くらいあたりまでじゃないと厳しいんだろうけど、だからこそ作者本人がもうティーン描くの無理だなって思ったら終わるのはわかる気がする。いまあの作風がマッチする雑誌ってどこだ…ってもなるし。別に全く同じようなの書いてくれってわけでもないけど。
youtubeでたまたま流れた映画の予告が気になって原作本読んだ。
地球があと数十年でどうにかなってしまうようなとんでもない絶望的な状況でも的確な行動のとれる有能ばかりで、悪役的な邪魔者もおらず、同じ目的をもちお互い長所と短所を持ったバディの異星人と共にお互いの故郷を救うべく邁進していくっていうわかりやすいプロットで読んでて気持ちが良くて面白かった。少し前に同じ原作者の映画も見たけどそういう作風なんだろうか。
ただまあ映画の予告の内容が上巻の半分くらいのネタバレなんで、それを見てから読み始めるとすでに理解ってることが少しづつ開明されていくので少しもどかしく感じてしまうかも。解明されかたは科学的だったり、文化的だったり(自分はヤーポンで考えてるからその文化圏の人間だ!とか)面白かったんだけど。
正直映画見には行く気なかったけど、ロッキーが「食事」してるところとか最後の最後とかどう映像化されたんだろうかとか気にはなった。