はてなキーワード: アニメ映画とは
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ハテラボの登録名はNoralemontan、ノラレモンタン、になっていて変ですが、Tanを付けないと、当時のGoogleがなぜかアカウントをくれなかったからです。
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ここには、ユーチューブミックスリスト説明文の過去ログを溜めていたので、3つずつ載せて行きます。
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https://5502r4gengoka.seesaa.net/
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ブログ記事の中にも、ユーチューブミックスリストのリンクあります。
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発達障害GZ(グレーゾーン) Noralemon見た後のリスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6rI5QtoBePzBZK17qNPaYJE9GcZ5pX3v
ここの説明文の過去ログを、ここに3本ずつ置いていきます。不定期です。1~2カ月に1~2回ぐらいにしようかと考えてます。
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ユーチューブに自動設定で付いている『後で見る』を公開しようか考えたことがきっかけで、やはり私が一度以上は見て、健全か、恐くないか心配事を確かめてからが良いだろうと考え、『見た後の』リストと名前を付けました。
通常は10本前後の動画と、説明文を入れ替え、入れ替えしているので、2本目のSNSのように利用しています。
無料、安全、難しい手続きなしで使えるらしいので。リストに載せたものの感想や連想や思い出や言いたいことを、書きまくった場所。
その説明文を、全部じゃないけどログを取っておきました。3本ずつ載せます。元の動画、URLがあるものも、無いものもあるけどごめんなさいね。
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40年前……? 野良の子どものときに本になって大ヒットしたエピソード本です。
それから朗読劇になって………てつこ女史がテレビでマスカラを滝のように流して泣いているのが記憶に残って…。私は人生で初めてマスカラという物体の存在を知って。
ドラマ化されて。
そしてアニメ映画化になった。
日本人、私の実家の親も入れてたくさんトットちゃん好きがいて、コンテンツ化されたら話題になって大勢が観る。
三代くらいに渡って語り継がれてるんじゃないだろうか?
結局、❝純粋な心の多動な子❞ って、気になって、気になって、気になって、たまらないのよ。なぜかそんな血が日本には流れてるんだと私は想像している。気になって、お世話したいし、可愛がりたいし、守ってあげたい血が流れてるんじゃないかと。
ここからは野良のものすごく適当な妄想だけど、日本人のADHD(の一部)は、ADHDのケがある人とASDのケがある人が気になる。愛憎どっちかは知らなーい。
ADD…不注意優勢…(の一部)も、自分と本能的に共通点を見出してしまいADHDのケがある人が気になる。ASDのケがある人のことは憧れる。正義の味方のような気がしてしまう。
この謎、だれか賢い人がもっと深く掘り下げて欲しくてねぇー。この願いがかなう日は来るんだろうか。どなたか賢い方お願いします。
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https://www.youtube.com/watch?v=Ba5pCrRmntM&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=103
https://www.youtube.com/watch?v=lU3NDm82xCI&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=104
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●「言語化」で本を出してTシャツもお作りになられたことで興味を持ち、登録した先生です。
ショートになるくらいとても簡潔で分かりやすい。野良のような「アスペ」にとっては方程式のような情報はとても助かるものなのです。
発達障害個人各自が、社会適応する現実の現場で頑張るとき。この情報を丸飲みではなくて、戦力にするにはどう使ったらいいのでしょう。
こういう方程式は、一般の普通の人たちの特性の教科書なのではないかと。社会の一般の人たちが、こういう生態で暮らせている、適応できているのではないかと野良は考え中です。
なぜなら、発達障害で認知のコンディションの波がひどくなると、平気でだれにでもノルアドレナリンが出ることがあるので、必要に迫られて頭で考えて、理屈で分析して接する人を判断し、自分の態度を調整しなくてはならなくなることがあります。もちろん野良にもそんな波が無いわけがない。
オキシトシンをくれる人は大好きになるものですが、頭でも考えて、追いかけ過ぎていないか、日本語が通じなくなっても一方的に関わって無意識に損させていないか、幸せ脳物質が出ても私が中毒になるような恥ずかしいことによもやなっていないかなどを、逐一自己チェックする、するとたまに周囲が引くほどの言動をすることがあるようです。らしいです。だからどういうことですかー? 説明して教えて欲しいです!
ブログで、『一段階、支援を挟む』とブツブツ書いています。私もそうするニーズがあるほど、イカレた当事者なのでしょう。
総じて見ると、私にとっての沼る危険な『敵』さんは、フィーリングを上手に合わせられて、野良の自意識ごと積極的に乗せてきて、発達障害の波長も理解してて、かつ言語化が湧くように無限に出てくる人、ということになるんでしょうね男女関係なく。
ハアァァァァァ~(溜息)早く隠居したいなー。
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https://www.youtube.com/watch?v=x0VBde3iWxg&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=91
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●【HSP視聴注意・R-20から】
観てると「おー………」と目が離せなくなります。でも、我に返りましょう。法の範囲内でお客は喫煙も飲酒もしていいんです。これはただの飲み会です。
考えなくていいの。
個人的にはネヅ子ちゃんがけなげで可愛いキャラを保っていて良かったです。めんこい。
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https://www.youtube.com/watch?v=FgqpucBoK70&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=89
素晴らしいテンポ感と80年代の粋の詰まったアニメーション、アナログ手描きゆえの心地よい崩れで飽きず目を離さず台詞も過不足なく
ここ数日例のCMを取り巻く出来事に悶々とする日々が続いていたので、自分の考えを整理したいと思う。
これによって何か大きな動きを作りたいという意図は全くないし本意ではないが、「そんな考えもあるのか」程度に捉えてもらえたら幸いだなと思い、ネットに放流することにした。
まず、私があのCMを初めて見たのはネットで変に話題になる前にテレビ放送されていたものだった。(このCMのオフィシャル情報を追っていないのでよくわからないが、web版のみであると言及している人を結構見かけた。しかし私はテレビCMで目撃している…)
その時の率直な印象は「なんか気持ち悪いCMだな…」というものだったけど、だから放送を取り止めろだなんて思わないし、様々な理由から個人的に好きになれないものなんてたくさんある(個人的に異常に好きなものがあることと同じだと思っている)ので気にもしていなかった。
その数日後、X上でこのCMに対しての批判的意見を見かけ、特にアクションを起こしたいわけでもない私は(同じ意見の人そこそこいるんだ〜)と軽い気持ちでそれを眺めていたが、その後それに同調する人とそれに反発する人が続々と現れ、Xは大騒ぎになってしまった。
これは何度でも言うが、私はこのCMが好きではないにせよ取り止めて欲しいとは全く思っていない。
しかしこのCMが好きではない人が数字で見れば無視できない程度にいるにも関わらず、大挙して「このCMを受け入れられないのはおかしい」という指摘が相次いだことに居心地の悪さを感じてしまった。
ただただ個人的に、(私のこの気持ちはそんなにおかしな感覚なのか?)と暗澹たる思いが湧いてしまった。
そこでなぜ私はこのCMに気持ち悪さを感じたのか、改めて考えてみようと思った。
X上では概ね、表現が性的に捉えられた結果批判されているということになっているが、私個人の感覚として何が不愉快だったのか向き合ってみることにした。
まず第一に私は何かを性的に描くこと自体に特に反発心はない。ただ、エッチなものを見るときは「エッチなものを見る」という気持ちを作っておきたい派。無条件で視界に入ることにはゲンナリしてしまう。
じゃああのCMがエッチに描かれていたかというと個人的には微妙なラインだが、少なくとも主人公の女の子をとてもかわいいものとして描こうという気概が溢れていたように思う。
これはこれまでの人生経験による感覚だが、人間に向けられた「かわいい」という言葉が性的関心とリンクしないと考えることは私にとっては難しい。
なので私は人間をかわいく描くことは性的に魅力的に描くことと近く捉えてしまう。
それ自体を否定する気持ちは全くないし、私もそうやって生み出されたものを見て魅力を感じたことが何度もある。
それは「かわいく描こうとするあまり行動に整合性が取れていなかったから」では、と思った。
涙目の姿がかわいい、漏れ出る声がかわいい、こんな仕草がかわいい、それを描くことに注力したがために「なぜそれをする状態になったのか」の説得力があまりにもなかったように思う。
テレビを見て感動し、それによって泣いている。
そしてうどんを食べるが、うどんに対して別の大きな感情を抱いているのかと思うほど「美味しい」のセリフが意味深。
「んしょ」と言っているが、その音が漏れるような動作をしているように見えない…。
つまり、「描きたいもの」を描くための理由付けが甘いように思えたのだ。
ここまで杜撰な作劇を見せられると、最早主題とはあまり関係のない部分、散々言われている背景の作りだとか、なぜテレビを見ているのにテーブルにある眼鏡をかけないのかだとか、なぜ自宅でひとりまったりムードなのにベルトをしているのかだとか、なぜ泣きながら見ていたテレビのチャンネルを変えるのかだとか、細かな作りの雑さが気になり作品自体への信頼度が落ちてしまう。
何もかもに意味を持たせてほしいとは言わないが、あまりにも意味のない、いい加減な表現が多すぎる。
当然初見時にここまでのことを感じたわけではなかったが、徹底的な作りの雑さによって全てがバラバラになった結果、女の子の存在が浮いてしまい、ただかわいく見せるための装置に成り果てて見えてしまったのではないかと考えた。
フィクションに涙を流し、それはそれとしてうどんの美味しさに感動しているという、あまり繋がりを感じない流れではなく、実際に悲しい出来事があって、うどんの美味しさに感動しほっとするという流れとかではだめだったのか。
本来作り手の意図が多分に込められているであろう本筋にいちゃもんを付けるなんてことはしたくないのに、細かな部分のいい加減さも相まってそこにすら疑問が湧いてきてしまう。
今回制作会社がクリエイターを守る声明を出していたが、多くの人手が加わっているであろうこの企画において強い決裁権を持っていたのは制作会社だと思うから、なんて頼もしい会社だろうと心から思った。
しかしプロの仕事としてこの作品を世に出した感覚はちょっとわからない。
作品を受け取る側の意見は「そんなこと気にしないよ」と思う人も多いと思うが、クリエイターのプライドとしてこんなにいい加減で問題はないのか、と思ってしまう。
「自分はかわいい女の子を描くことにしか関心がない!」という考えだったとしても、ひとりで作っているわけではないんだから、どうすればかわいい女の子をもっと素敵に描けるのか、周囲の人間は考えられることがあったのではないだろうか。
大作アニメ映画にも作り手の性癖はしばしば込められているが、その周囲の作りがとても丁寧だから敏感な人以外はそれに気づかない。今回のCMはそれらに比べると不快感を感じる人が多かったように思う。
今回のことをきっかけにX上で「斜めがけのカバンをかけているだけでいやらしいと言われる」だとか、「棒状のものを食べているだけでいやらしいと言われる」などの経験談が語られていた。
このふたつに関しては私も経験があり、当然不愉快な思いをしたため、そのあたりがエロいものへの過剰な忌避感に繋がっているのだろうかと思い、このCMを不愉快に感じた部分を真剣に考えてみたが、結果として単純に作品の仕上がりがあまり良くなかったから歪に見えたというだけの話では、と思った。
今は技術的にも環境的にも個人で大きな作品を扱える世の中だけど、どうか改めて多くの人が関わって何かを作ることの意味を考えて欲しい。
そして作品を受け取る側は、いろんな意見の人間がいることを受け入れて欲しい。
今の世の中はインターネットの存在により、世界中の価値観を一色に染めようとする方向に動いているように感じるが、私はどこまで受け入れどこまで拒否するかは各々のものさしで良いと思っている。
世界を自分の理想で染め上げたいならそういった活動をすればいいし、私のように自分に影響が及ぶ範囲が不愉快でなければ良いと思うならインターネットの意見に感情を揺さぶられる必要はないのだ。
自分が攻撃されていると感じたとしても、所詮ちらしの裏の落書きで、本来大した意味を持たないものなんだ。だから気にせず自分自身の生活と現実の環境を大切にしたい。今回インターネットの意見を見て多少なりとも気落ちしてしまった自分自身への戒めも込めて。
まずこの映画の要素を語りたいのだが、
そこにライオンキングとムーラン(両方同監督の原案映画)要素があるので、動物の表情だったり関係値や美しい3幕構成に色濃く【あの頃の輝かしいディズニー】を強く感じさせる。
そこにラピュタのロボット兵が飛び込んできて、同じ森にはトトロも住んでいるという【あの頃の宮崎駿】が入ってきて、画風が【モネ】っていう…要素だけ見るとなんていうか、いろいろな作品を詰め込んだ?みたいに言いたくなるんだけど、それでもここまで要素つめて、オリジナルにしたらもうそれは「オタク」を煮詰めた結果の「作家性」でしかないんだよな。
勿論「異種との共存」「自然と人間」「環境」というテーマ性を強く持った監督だというのはわかるが、まあそれなら監督がパヤオ作品が好きになるのも分かるくらいには共通項があるわけで。
このアニメ映画を海外が最高評価しているのは実際見れば当然とも言えるのだが、やっぱりアニメ大国日本として、ここまで日本の作品の影響を感じる映画は、ちゃんと日本人のオタクが分析していかないとだめだなと思ったりもした。
映画を見るとロズという作品は全体的に至極真面目に作っていて、そこがボスベイビーの制作会社とは思えない部分でもあり、そこが世界の興行収入が伸び悩んだ部分でもあると感じた。(ヒットではあるが、特大ヒットではなかった)
でもこの至極真面目なアニメ映画というのは、ジブリの土壌がある日本でこそ受け入れられると思うし、ちゃんと語れると思うんだよ。そしてきっと監督もそれを待ってるんじゃないかと思う。エスパーになるが。
昨今、ディズニー映画が迷走している。もうあの頃のディズニーは……なのでこの作品は実質ディズニーということにしよう…と考えていたのだが、よく考えたら…あのころのジブリだって……。日本国民よ。この作品を、実質ジブリということにしないか?ああ、ジブリオタに怒られちゃうね…。
ちゃんと見てると結構面白いよ、アニメ映画ならこのスタッフさん、この会社さん他の作品でも見た、とか、協力関係が興味深いし。
実写作品では美術協力に知ってるPCメーカーや文具メーカーとかが出てきたりすることあるし。
あと、大人数のモブとか必要な映画で◯◯町のみなさん、みたいなやつとか出てくると、なんだか楽しくならない?
それでなくても、いろんな人が協力して一本できたんだなーってなるしさ。
スタッフロールの間にいろんなシーンを思い出したりとかするのも楽しいし。あのシーン泣いたなぁとかさ。
あるアニメ会社さんでは入社3年目くらいまでは名前載せてくれないとかきいたけど、長くなってもいいからみんな載せればいいのにって思ったもん。1年目でまだあんまり描けないとしても、みんな頑張ったんだからさ。
家で見てる時はつい飛ばしちゃうけど、映画館だと良い音響のBGMでゆっくりスタッフロール見られるじゃん。超贅沢な時間だよ。もったいなくない?
1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:13:54.83 ID:DoAGlYSP
それマジかよ!?宮崎と押井が組むとか絶対ウソっぽいような…ま、ジョークだろ
2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:15:22.10 ID:gHJksTwe
500億とか…もう何かの世界記録狙ってんのか?そんなに盛り上がってんの聞いたことねぇぞw
3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:17:40.21 ID:PQRHy4Wu
クククっておい、それ他のスレの真似じゃねぇか。新海入ってるのさらに嘘くせぇ
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:18:53.57 ID:LxNmBWML
普通に考えればわかるわ。押井と新海が組むとか、それ魔法使いのジョークじゃん
5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:20:10.30 ID:CfJdRxEs
本当にそんな奴らが組んだら話混乱するどころじゃないだろw 何にも結論しねぇよ
6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:22:55.44 ID:UDbRTezM
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:24:18.21 ID:VwLpF78b
500億ってまるで他の日本映画が萎むレベルだろ。どう考えても無理筋
8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:26:31.76 ID:TrN5kRuQ
いや、想像だけで盛り上がってる奴ら結構いるのかもな。最後は現実に帰って来いよw
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2024/01/05(土) 14:28:50.57 ID:QPvF3TzX
毎年数百億の興行収入あるアニメ映画あるのに、それらを全部合算しても怪しいぞこれ
アニメ映画の巨匠と呼ばれる人にほらほら褒めてとかがっつきながら見せるも
「これは生に対する冒涜だ!!」と一喝されてシュン・・・となる映像をいつかどこかで見た気がする。
その時は「え?この爺さんなんでこんな激おこなの笑」とかいう感想しかなかった。
最近、とあるCMを見ると妙な違和感を感じて、それはますます大きくなる一方なものがある。
最近は本物の動物を使わず、CGなのか生成モノなのか、とにかくツクリモノが使われることが実に多い。
一見はテクノロジーの進化により本物のように見えるけれど、犬猫にしてはあり得ない表情とか足の動きとかしてて、
もう、
実に、
気味が悪い!
これに尽きる。
近づくと危ないってさ。
2025年の春先、突如としてガンダムファンの間で熱い話題となった新作アニメーション映画『機動戦士ガンダムジークアクス』。本作は “パラレル宇宙世紀” という新たな設定を掲げ、シリーズ従来の魅力を活かしながらも、大胆な再構築を試みた意欲作として注目を浴びている。公開直後から口コミを中心に爆発的な支持を獲得し、つい先日、興行収入が6億円を突破したと公式発表があった。いわゆる大御所監督やメディアのゴリ押しがあったわけでもないが、作品そのもののクオリティと話題性により、多くのファンが劇場へと足を運んでいるのだ。
そもそも “パラレル宇宙世紀” とは何なのか。ファーストガンダムをはじめとする既存の宇宙世紀作品と設定を共有しながらも、歴史や出来事が微妙に異なる――いわゆる「if」の世界線を描いているのが特徴だ。人類がスペースノイドとして宇宙に拠点を広げていく大まかな流れは同じだが、各キャラクターや組織の動き方が従来の宇宙世紀と少しずつズレている。そのズレが、物語やキャラ同士の関係性に大きな波紋をもたらし、ファンをワクワクさせているというわけである。
特に話題を集めているのが、シャア・アズナブルとシャリア・ブルという、かつてのファーストガンダムに登場した人物たちが “パラレル宇宙世紀” でどのように存在しているのかという点だ。本来、シャリア・ブルとシャアは原作では直接長い絡みがあったわけではない。しかし『ジークアクス』では、このふたりが初期から行動をともにし、“ニュータイプとは何か” を探る仲間として描かれている。この組み合わせの妙が、本作における新しい世界観を象徴しているとも言えよう。シャアは相変わらずカリスマ性のあるリーダー像を示しながら、シャリアは彼独自の透徹した感性を軸に、シャアとの対話を重ねていく。ファンの間では「まさかこのふたりがこんなに深く絡むなんて」「これまでとは異なるシャリアの魅力が引き出されている」と大絶賛の声が上がっている。
しかし、『機動戦士ガンダムジークアクス』の真の主役はあくまでも、声優の黒沢ともよさんがキャスティングされている “マチュ” という少女である。マチュは地球圏の片隅で暮らす普通の民間人として物語の冒頭に登場する。血筋も特別なものではないし、高い身体能力や優れた戦闘センスがあるわけでもない。そんな彼女が、思わぬ形で最新鋭モビルスーツ “ジークアクス” を託され、戦乱へと巻き込まれていく筋書きが、本作の大きな軸になっている。
マチュが乗り込む “ジークアクス” は、見た目こそガンダムタイプの意匠を受け継いでいるが、その性能は未知数。劇中では “人型決戦兵器” というよりも “人類の希望を託された船” のように描かれ、パイロットとの精神的リンクがとりわけ重要視される。モビルスーツなのに、まるで生き物のように、マチュの感情や思考に反応して形状を微妙に変化させる場面まであるというから驚きだ。このアプローチには、ニュータイプ論や人の意志と機械の融合といった従来のガンダムテーマが色濃く投影されているようにも見える。マチュが誰よりも純粋な思いで “何かを守りたい” と願うとき、ジークアクスの武装や機動力が一瞬だけ大幅に上昇するシーンは、観客からも「エモすぎる」と称されている。
一方、本作でもうひとつ異彩を放っている存在が “シュウジ・イトウ” である。従来のガンダムシリーズには登場しなかった完全オリジナルキャラクターだが、『ジークアクス』においては非常に重要な役割を担っていると語られている。作中では「ガンダムの妖精」のような存在感を持ち、光の粒子のようにマチュたちの前にふわりと現れる。そのビジュアルは「男性とも女性ともつかない中性的な容姿」「美しい光をまとった幻影のような姿」と表現されており、いわゆる “人ならざる存在” として描かれているのが印象的だ。
しかし、このシュウジ・イトウこそが “ジークアクス” の開発に深く関わっていた人物である――というのが物語中盤での衝撃的な事実となる。マチュやシャアたちは、最初こそシュウジのことを “どこからともなく現れる謎の人物” 程度にしか認識していなかった。しかしシュウジは、ガンダムタイプの研究者としての知識を豊富に持ち、さらにはニュータイプ論にも通じている節をうかがわせる。その存在意義はあたかも “作品世界そのものを導く道しるべ” のようで、ファンの間でも「彼はいったい何者なのか」「なぜ姿を消したり現れたりできるのか」という考察がにわかに盛り上がっている。
実際に映画を鑑賞したファンによると、シュウジ・イトウの描写は終盤にかけてますますファンタジックになるという。物理的な戦闘が激しくなるにつれ、シュウジもまたジークアクスのコックピットを取り囲むオーラのようなものに溶け込んでいくのだとか。通常のモビルスーツ戦とはひと味違う “精神世界での対話” の場面がいくつも挿入され、そこでシャアやシャリア、マチュそれぞれが “人類の可能性” をめぐる深い対話を交わす。ここには従来の宇宙世紀が孕んでいた “ニュータイプの到達点” に対する、ひとつの “パラレルな回答” が提示されているとも言えるだろう。
こうしたスケールの大きなストーリーに加え、声優陣の豪華さも『ジークアクス』の大きな魅力になっている。主人公のマチュ役には黒沢ともよさんが抜擢され、繊細でありながら力強い演技が高い評価を受けている。黒沢さんといえば少年少女役から大人の女性役までこなす幅広い演技力が魅力で、さまざまなアニメやゲームで活躍してきたが、今作で見せる “決して強くはないけれど、それでも守り抜こうとする少女” の声は、観る者の胸を打つ。マチュの心情が揺れ動くシーンは涙なしにはいられないという評判だ。
もちろんシャア・アズナブルとシャリア・ブルも、ファンにはおなじみの声優が担当している。オリジナルキャストの故人がいる場合には別の方が演じているケースもあるが、どちらも極力 “イメージを崩さない” 演技とキャスティングがなされているため、昔からのガンダムファンも安心して楽しめるだろう。パラレルとはいえ、ふたりが兼ね備える独特のオーラは健在で、特にシャアは「あの頃のシャアがもしも別の選択をしていたら……?」という “if” 的な魅力を存分に見せてくれる。一方で、シャリア・ブルが持つ透徹した思考と、どこか神秘的な雰囲気は、今回の世界観に大きくフィットしており、「もっと早くこのふたりの絡みを見たかった」と嘆くファンも多い。
さて、興行収入6億円突破というニュースが流れた際、SNSでは「こんな短期間でここまで伸びるとは」「まだまだ伸びるはず!」といった期待の声が相次いだ。元々はガンダムファンを中心に話題となった本作だが、いまでは映画レビューサイトや総合エンタメ情報番組でも取り上げられ、ライト層や普段アニメを観ない層にも少しずつ浸透し始めているようだ。「映像美がすごい」「色彩表現が繊細」「戦闘シーンのカメラワークが斬新で引き込まれる」といったビジュアル面の評価も高い。モビルスーツ同士の戦いはもちろん、宇宙の広大な空間や地上での風景表現も大きなスクリーンで堪能したいと思わせるクオリティだという。
制作スタッフ陣には若い才能が数多く参加している。特に監督のA氏は、これまでガンダムシリーズとは縁の薄い作品を手がけてきたが、そのぶっとんだ発想と映像表現へのこだわりが注目されてきた人物だとか。シリーズ構成を担当するB氏はライトノベルやゲームのシナリオで頭角を現した新進気鋭であり、ファンの間では「これまでの宇宙世紀観に捉われない、新しいガンダムを生み出せるのでは」と期待が寄せられていた。結果的に “パラレル宇宙世紀” という大胆な発想を取り入れながらも、しっかりと “ガンダムらしさ” を感じさせる物語を作り上げ、興行収入6億円突破という見事な結果を得ている。
今後の展開にも注目が集まっており、監督やプロデューサーがインタビューで示唆しているように、追加映像を盛り込んだ特別上映や、スピンオフ作品の制作が検討されている可能性もある。また公式サイトの予告ページでは、「ジークアクスはまだ変化の可能性を秘めている」という気になるテキストが掲載されており、今後さらに解き明かされるであろう “機体の秘密” にも期待が募るばかりだ。さらに「シャアとシャリアの関係はこれで終わりではない」というコメントや、「シュウジ・イトウに関してはまだ語られていない事実がある」という暗示など、ファンをやきもきさせる情報が続々と投下されている。
かくして、『機動戦士ガンダムジークアクス』は “パラレル宇宙世紀” という新たな器を得て、旧来のファンも新規のファンも巻き込みながら、ガンダムというコンテンツに再び光を当てている。その要因には、設定の斬新さや作画のクオリティはもちろん、主人公マチュの儚くも強い意志、そしてシュウジ・イトウという “妖精” 的存在のミステリアスな魅力が大きく寄与しているのは間違いない。シャア・アズナブルやシャリア・ブルという懐かしい顔ぶれも、かつてとはまったく異なるシナリオで姿を見せることで、ガンダムが持つ “深い歴史観” と “新しい世界の可能性” を同時に提示してくれている。
興行収入6億円という大台を突破し、さらなる上積みも十分に期待される『ジークアクス』。ガンダムシリーズの中でも、これほどまでに “世界観そのものを再構築” した作品は珍しく、さまざまな議論や考察がファンダムをにぎわせている。果たして、この作品はどこまでの高みへと達するのか。そして、パラレル宇宙世紀の結末には、どのような “希望” や “真実” が待ち受けているのか。今後も目が離せない、2025年を代表するアニメ映画のひとつとなりそうだ。観客やファンの声を背に、ジークアクスはさらに高く飛翔し、ガンダムシリーズに新たな風を吹き込むに違いない。
どちらかというとプロデューサーだよね。という所管を書いていく。
技術は普及すれば当然その使用は広がっていく一方だし、ひとまずデータソースの健全性とかそういう話はここで議論しない。
直接的に成果をを出すクリエイターの立ち位置に、AI使用者は位置付けられるか?という点を検討してみる。
直接的に生成しているのはAIエンジンであり、AI使用者はプロンプトでその生成物をコントロールしようとする。
すなわち、ディレクターじゃん。
既存アニメ映画とかであれば、描く人が役職あがって監督とかの役職を果たすこともあるけど、位置付けで言えば、プロンプト書く人が座ってる立ち位置ってここじゃん。
こういう絵が欲しい。こういう動きを見たい。こういう背景が欲しい。
なぜその素材で良しとしたのか。なぜその表現でOKとしたのか。なぜそのディテールで妥協したのか。
言ってみれば、(一定の範囲で)コントロール可能かつコミュニケーション可能かつ手戻り修正可能なクリエイター(兼素材作成者)と監督間で共同作業して作成しているのが既存実写映画だし、
現在のイラストレーターをはじめとしたコンテンツ制作者たちは、これを自己完結した状態で作成したり、一部共同作業して作成したり、一部既存素材を利用したりして作成している。
すなわち、意図も直接反映させられるし、不満があれば修正可能だし、不要なディテールは削除したり薄めたりして、作品として仕上げられる。
他方、AI使用者がやっていることは、現状のエンジンが対応している範囲になるから、その下位互換的なものとならざるを得ない。
転じて、AI生成物は、どれだけ素材が良くても、どれだけ書き込みが精巧であろうとも、その意図が不明瞭である限りにおいて、あるいは、意図しないものが混ざり込んでいる限りは、
よって、批評としては、どうしてそのラインでGOサイン出せたんですか。ここの表現これでいいんですか。ここまでいいのにどうしてここの細部詰めてないんですか。
というものになる。
これを、「私が作りました」で出してくると、監督/プロデューサー/ディレクターが何言ってきてるの?になる。
なんだけど、この感覚って作ってる人、作品を世に出してる人にしか通じないよなーとなった。
書いてる人が、締切あるもので途中で出してきたとかなら、「あぁ、まぁここで妥協したんだね」となるけど、これが監督とかの立場になるなら、自分の仕事(ディレクション)果たしてないじゃん。となる。
あるいは、生成物大量に貼り付けてるだけのpixivページとかみると、「いや、途中のラフカットや素材集は別にいいからそれをどう取りまとめてディレクションするの?」となる。
書いてて改めて思ったんだけど、なんかいいよねの羅列とか、とりあえず出力してみましただけだと、伝わってくるものがない。
一方で、まだ上手くない手書きの人とかでも、「ここを表現しようとしたんだな」とか、「ここの描写に性癖を感じる」とか伝わってくることは多いし、稀にAI生成でも「あ、この人はこれが好きでここにこだわってるんだ」というのが伝わってくる人もいる。
単純に見た目のぱっと見の印象でも、そういうのが伝わってくるから、結局はディレクションの意思を感じるかどうかなんだよなぁ。という結論を、自分は得た。
し、自分はAI生成物だと性癖のこだわりに耐えきれなかったからたとえ稚拙でも自家生成の方がディレクション効くなぁ、となった。