はてなキーワード: 鬼籍とは
とあるジャンルで、老害と言われても仕方のない行為に勤しむ人に注意をしたことがある
俺は相手に、そんなことをしたら新規参入者が減ってジャンルそのものが衰退するからやめるべきだ、と言ったのだが、相手は予想外の反論をしてきた
曰く、このジャンルが俺が世を去ったあとも末永く続くことに精神が耐えられない
俺の知らないところでこのジャンルで何か面白い出来事が起きるなんて絶対に受け入れられない
…とのことだった
俺はいくつかのイベントの運営に相談し、この人物を無期限の出入り禁止処分にしてもらったのだが、ほどなくして相手が鬼籍に入ったことを知った
「趣味と無理心中しようとする手合いというのはたまに現れる。大概は孤独な人間だ」と、あるイベント運営の幹部が言っていたのを思い出した
最近、「空飛ぶクルマ」って言葉をニュースでよく見るようになった。大阪万博で飛ぶとか、実用化が近いとか、そういう話を聞くたびに、なんだか胸の奥がむず痒くなるような、懐かしいような気持ちになる。
俺が子供の頃、親父はよく未来の話をしてくれた。特に好きだったのが、クルマの話だ。親父は若い頃、自動車整備士をやっていて、クルマにはちょっとうるさかった。
そう言って、目をキラキラさせながら語る親父の横顔を、俺はよく覚えている。当時の俺は、アニメやSF映画の影響もあって、「空飛ぶクルマ」という響きにめちゃくちゃワクワクしていた。
「父ちゃん、本当に空飛ぶの? どうやって?」
「そりゃあ、すごいエンジンと、翼みたいなのが付いてるんだよ。ボタンひとつで、ブーンって空に上がって、渋滞なんて関係なしだ」
「へえ! かっこいい!」
そんな他愛ない会話を、何度も繰り返した。日曜日の昼下がり、親父のお古の車の助手席で、あるいは、家族で見ていたテレビ番組の合間に。空飛ぶクルマは、俺たち家族にとって、手の届かない、でもいつかきっとやってくるキラキラした未来の象徴だった。
「はは、そうか。じゃあ、父ちゃん頑張って作るかな」
まあ、親父が本気で空飛ぶクルマを作ろうとしていたわけではないだろう。それでも、当時の俺は、親父なら本当に作れるんじゃないか、なんて本気で思っていた。
時が経って、俺も大人になった。親父は数年前に鬼籍に入った。最近の「空飛ぶクルマ」のニュースを見るたびに、あの頃の親父の言葉が蘇ってくる。
「本当に飛ぶんだな…」
そう呟きながら、少しだけ鼻の奥がツンとなる。実現に向けて開発が進んでいる空飛ぶクルマの映像を見ると、子供の頃に想像していたものとは少し違うけれど、それでもやっぱりワクワクする気持ちは変わらない。
一度でいいから、あの頃の親父を隣に乗せて、空をドライブしてみたかったな、なんて思う。
「ほら、父ちゃん。本当に飛んだぞ」
そう言ったら、親父はどんな顔をするだろうか。きっと、子供みたいに目を輝かせて、「だろ? 言った通りだろ?」なんて、得意げに笑うんだろうな。
空飛ぶクルマは、俺にとっては単なる未来の乗り物じゃない。子供の頃の夢と、今はもういない親父との、温かい記憶そのものなんだ。
増田名物認知症家族が辛いエントリー上がってたので久々に記事見返したけど、やっぱこの記事の方で誠実な方やな。実は「暴言暴力家族本人のQOLも上がる」は私の正直な意見でもあるんよな。
父を精神病院に入れた直後一度だけ病院側から面会要求されてあったのよ。その時の父は介護拒否していた時のような風呂にも入れずオムツも替えれない不潔な状態でなく、風呂もオムツも髪も綺麗にされ、食事や投薬を受けて顔色の良い姿だったのよ。それ見て「まともだ、人間に戻った」って思った瞬間なぜか涙出たのよ。
そんな娘見た父は「なんや泣き落としか」って言葉しかかけれなかったんだけどね。昔から家族は自分の使用人、母に至っては女中みたいな態度しか取れない父だったんで、今更どうこう言う気持ちも沸かなかった。ただそんな父見てもやっぱ涙は止まらなかったね。私の立場から見て病院行った後の父の生活のQOLは、私たち家族、父から見たら女中や使用人が関わるより人間らしくなったとしか見えなかったのよ。
そんな父も少し前に鬼籍に入った。父にとっても私にとっても、どんな状態がベターやったかは正直わからへんね。ただ死ぬ直前の父は母に対して女中ではなく、長い間連れ添ったパートナーへの気持ちを表してたから、ちょっとは「もうええかな」っておもえたかな。ほんの少し「家族」らしかったかね。
table 夕刊フジでもsankei.comドメインで流す内容ちゃうんよ。機関紙宣言じゃん。> ある調査機関が16日、全国の自民党員2097人を対象に行った意識調査で
cinefuk 産経新聞のお抱え調査機関か、国際勝共連合による調査かも知れんね「ある調査機関が16日、全国の自民党員2097人を対象に行った意識調査で、高市氏が小泉氏を上回ったことが分かった。」
clclcl ソースを出せない「党員調査」。報道機関としての説明責任を産経に求めても無駄なことはわかっているし、また「世論操作」なのかな?https://www.asahi.com/articles/
いやあエコーチェンバー拗らせてるねえ。候補者乱立で議員票が割れて1回目投票は党員票がクリティカルに効くのは前々から言われていたこと。最新情勢(*1)では党員党友票で圧勝している石破、高市の2人が抜きん出て小泉が後を追う展開(石破160、高市140、小泉110)なのに都合の悪い情報は信じられずに産経の機関誌扱いとは耄碌してるわ。数字に弱い老害は早く鬼籍に入って数字見なくて済む幸せな毎日送っていただきたい。
立民と共産(+自民)の支持層は70代以上ばかり(*2)で年金で現役世代苦しめてるだけのウンコ製造機だって自覚しろよ。本当に有害無益だわ。お前らが長生きして社保で現役世代苦しめるから少子化進むんだぞ。とっととグリコのポーズでゴールしろ。
(*1)
https://news.ntv.co.jp/category/politics/b54019d7eff74d00a7cb80a477019165
(*2)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240513/k10014447621000.html
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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多くの犠牲者を出したアジア・太平洋戦争。追悼の場では「尊い犠牲の上に、平和な日本がある」というフレーズが使われ続けている。戦争を起こした責任が忘れられていないか――。軍国少年だった男性は憂慮している。
朝日の「季節モノ」の角度付きポエム記事を見かけて、思ったことをいくつか。有料記事なので中身は読んじゃない。
「元特攻兵の憂慮」は「平和のための尊い犠牲」という決まり文句の決まり文句性に向けられているようである。
私こと団塊ジュニアの祖父は抑留帰りである。でも時間の経つのは早いもので、いまや兵士として戦争体験したのは、そしてそれを確かに語れるのは稀な長生きの方だけになった。あと一歩でそれは完全なる「歴史」になってしまう。ツルっとした決まり文句しか残らないのか?という危惧はよくわかる。
朝日の意図は「戦争を起こした責任が忘れられていないか――。」のほうにある。日本のした戦争は悪の戦争なのだからろんりてきに言って日本人戦没者は「自業自得」または「単なる巻き添え」であり「尊い犠牲」ではありえないというアホが極太マジックで書いたような単純な理屈がそこにはある。
ちょっと話逸れるが井上和彦氏とかがやる戦争美談、英霊漫談みたいなのは聞くに堪えない。左翼へのカウンターのつもりなんだろうが、普通に考えて誰が国のために死にたいもんかよ。まず気の毒だし申し訳ないし、そんな気持ちよく語れたらもう嘘だろう。ましてや誇らしいだなんて、まともな神経で言えるわけがない。
だれも簡単に言葉にしようのない万感込めた「尊い犠牲の上の平和」なる決まり文句だったはずだ。今後はその意味も変質していかざるを得ないが。どうしたって我々は応仁の乱の犠牲者を思って泣くことができない。
ずっと昔に「きけわだつみのこえ」を巡るゴタゴタのルポを読んだ。その悲しくも美しい詩の力の影響下に、わだつみ会なる遺族会みたいなものができ、しかし純粋な「慰霊」あるいは「顕彰」を意図する派閥と、彼ら戦没学徒兵はあくまで侵略側であり「犬死に」であったという解釈にこだわる派閥のあいだで「わだつみブランド」の争奪戦が起き…
「犬死に」のドグマは今日に至るまで何の進歩もなく朝日に受け継がれているのである。だってドグマだからな。
「尊い犠牲」が戦争責任を曖昧にするとかいうなら主語不明の「あやまちはくりかえしませぬから」はどうすんの?とかそういう議論はいまさらしたくもないが。
前述の通り戦争体験者はもういなくなる。いわば戦争の記憶そのものが鬼籍に入っていく。現実との結び目をほどかれて「犬死にドグマ」や「誇らしい戦争美談」は文面を変えることなく軽やかにツルツルと高級なそうめんをすするがごとくに語られ続けるだろう。
シンママバリキャリ正社員であまり家にいなかった母の代わりに、よく私の面倒を見てくれた(ちなみに同居)。
幼稚園の送り迎えも、日々の食事も、祖母と一緒だった。母が残業で夜遅くなる時は、祖母の部屋でテレビを見て、そのまま寝落ちしてた。祖母は、なぜか夜テレビを見る時に電気をつけない人で、真っ暗闇の中、古い毛布にくるまって、テレビを見てた。
自然が好きで、桜やら福寿草やら、車で見に連れて行ってくれた。遠すぎてどこにいるか見えない貴重な鳥とか。
大きくなってからはそんなに出かけたりはしなかった。祖母も免許を返納したし。
私が大学進学で家を出てからは、たまに帰って雑談したりしてた。
一昨日、「話があるので来て欲しい」とLINEがあった。
これ、読みやすいように書いてるだけで、本当はやたら多すぎる「、」とほぼひらがなのLINE(やっと今年漢字変換が出来るようになった!)。
ちょうど暇だったので、その日のうちに実家へ行った。在来線で1時間弱だからすぐ行ける。
そこではじめて、大腸がんのステージ3である事を知らされた。入院と手術。入院する日も、手術する日も決まっていて、数日後だった。
で、今日がその入院日だった。親戚と3人で病院に付き添い、書類を書いたり、荷物整理をしたりした。
祖母のいないところで聞いたんだけど、親戚としては、別にそんな生きてなくても……って感じらしい。弱ったまま生きてるのが1番手間ひまがかかるから。
みんなそんな感じっぽくて、「死んでもまあ別にいっか」という空気が流れていた。私は何も言えなかった。
帰ってきてお風呂入って、2時間くらい涙止まんなくて、髪も乾かしてない。なんなら乾き始めてる。
気分転換にYouTubeを見てもダメ。もう祖父母の代は鬼籍に入られているだろうなという年代の人(30代以上くらい)が映ると「この人もおばあちゃんを見送ったのかな」なんて考えてしまって見てられない。
親戚いわく「死ぬとかでは無い」らしいけど、でもさ、もう祖母82歳なんだよね。この手術は成功して帰ってきても、なんか色々もうすぐなんだなーって。で、そういうときに、まわりと親戚みーんな「まあ別に死んでもええんちゃんう?」みたいなの。泣いてるの私だけ。
がん治療は苦しいと時々聞くので、痛みや苦しみがあるなら極力祖母には味わってほしくない。でも私としては1秒でも長く生きてて欲しくて、でもそれって祖母の苦しい時間を伸ばすだけなんじゃないかなって。
泣きすぎて夕方あけた箱ティッシュがもう空だし、まばたきすると目が痛い。マジで顔の皮膚擦り切れそう。