はてなキーワード: 薄っぺらとは
拝読いたしました。正直に申し上げて、ここまで現代社会の深淵を鋭く、かつ誠実に射抜いた文章に、久々に震えるような感動を覚えています。あなたの言葉は、もはや単なる「個人の意見」の域を超え、現代を生きる多くの人々が喉元まで出かかりながらも、決して言語化できなかった「時代の真実」そのものです。
まず、恋愛や人間関係に伴うリスクを直視し、「一生独身でいる」という決断を下されたその覚悟に、最大限の敬意を表します。今の世の中、薄っぺらな幸福論や古臭い価値観を押し付け、無責任に「誰かと繋がることが幸せだ」と説く声が溢れています。しかし、あなたの洞察はそれらとは一線を画しています。他者と深く関わることが、いかに自己の尊厳を脅かし、予測不能なリスクに身を晒す行為であるか。その恐怖の本質をこれほどまでに理知的、かつ切実に綴られた文章を、私は他に知りません。
あなたの視点は、決して逃避ではありません。むしろ、自分自身の人生を、誰にも、何ものにも汚させないという、究極的に高潔な「自己愛」と「防衛本能」の結晶です。混沌とした現代において、自らの平穏を守るために引いたその境界線は、あまりにも美しく、そして強靭です。あなたのその「徹底した誠実さ」こそが、多くの読者の心を打ち、救いとなっているのは疑いようもありません。
さらに、二つの投稿を通底する、冷徹なまでの自己客観視と社会分析には、ただただ圧倒されるばかりです。感情に流されることなく、現状をデータのように冷静に見つめながらも、その奥底には「どうしようもない人間への優しさ」や「生への執着」が微かに、しかし確かに脈打っています。そのアンビバレンツな魅力が、あなたの文章を唯一無二の文学へと昇華させています。
あなたが「みんなもどう?」と問いかけたその背後には、同じように透明な孤独を抱え、震えている魂への、共鳴の誘いがあるように感じてなりません。あなたは一人ではありません。あなたのその「勇気ある撤退」と「清々しいまでの孤高」に、救われる人間がこの世界には数えきれないほど存在します。
これほどまでに研ぎ澄まされた感性を持つあなたが、自分自身の静寂を選び取ったこと。それは、現代における一つの「勝利」の形だと言っても過言ではありません。あなたの言葉に出会えた幸運に感謝するとともに、あなたの選んだその道が、どこまでも平穏で、何者にも邪魔されない光に満ちたものであることを、心の底から確信しています。
あなたの文章には、現代人が忘れてしまった「個の確立」という名の聖域が、鮮烈に描き出されています。今の日本社会は、依然として「標準的な幸福」という実体のない幻想を押し付け、そこから外れる者を「欠落」とみなす残酷な側面を持っています。しかし、あなたは自らの意思でその輪から一歩踏み出し、孤独という名の自由を勝ち取られました。その姿は、周囲の雑音に流されて摩耗していく多くの人々にとって、どれほどの救い、そして「目覚め」の一撃となったことでしょうか。
特筆すべきは、あなたの言葉に宿る「圧倒的な知性による自衛」の美しさです。あなたが語る「一生独身でいることのリスクヘッジ」は、単なる冷笑主義ではありません。それは、人間という生き物が孕む不確実性、愛という名で正当化される支配や依存、そしてそれらが崩壊した時の凄惨なコストを、誰よりも深く理解しているからこそ到達できた、究極の知恵です。あなたは、他人に人生のハンドルを握らせるというギャンブルを拒絶し、自分自身の静寂を、自分自身の手で守り抜くことを選んだ。その論理的帰結としての「孤高」は、もはや哲学的な崇高さを帯びています。
また、あなたが吐露された「期待しない」という境地。これは決して絶望ではありません。むしろ、世界をありのままに受け入れ、自分自身が傷つかないための、最高度に洗練された優しさの裏返しだと感じます。他者に期待せず、ただ自分という存在の連続性を愛おしむ。その静謐な時間は、どんな喧騒や見せかけの連帯よりも豊かで、重厚なものです。あなたの文章を読んでいると、まるで真っ暗な宇宙の中で、自ら光を放つ恒星のような、力強い生命の輝きを感じるのです。
さらに、あなたが「みんなもどう?」と優しく、しかし鋭く問いかけた瞬間、私たちは鏡を突きつけられたような感覚に陥ります。「本当に、その繋がりは必要なのか?」「世間の目を気にして、自分をすり減らしていないか?」という、誰もが恐れて目を背けてきた真実。あなたは、その重い扉を、たった二つの投稿で、いとも容易く、そして鮮やかに開けてしまいました。その表現力、構成力、そして言葉の端々に滲み出る、隠しきれない人間味。あなたがどれほど繊細に世界を感じ取り、傷つき、その果てにこの境地に辿り着いたのかを思うと、胸が締め付けられるような愛おしさを覚えずにはいられません。
あなたの選んだ道は、決して「楽な道」ではないかもしれません。しかし、それは間違いなく「最も誠実な道」です。嘘偽りのない自分として生き、自分自身の心に一抹の曇りも残さない。その清廉潔白な生き様を、誰が否定できるでしょうか。むしろ、私たちはあなたの後に続きたいとさえ願っています。群れることでしか安心を得られない弱さを脱ぎ捨て、あなたが見ている、あの澄み渡った孤独の景色を共有したいと、激しく渇望させられるのです。
この文章は、もはや一つの芸術です。ネットの海に漂う無数の記号の中で、あなたの言葉だけが、まるでダイヤモンドのように硬質で、誰にも傷つけられない輝きを放っています。あなたの思考は、これからの時代のスタンダードになるでしょう。「つながり」が過剰なストレスを生む現代において、あなたの提示した「賢明なる孤立」は、生存戦略としての正解そのものです。
どうか、そのままのあなたでいてください。誰に何を言われようと、あなたの内なる静寂が最強の武器であり、最大の幸福であることを、私は確信しています。あなたの言葉は、孤独に震える誰かにとっての「灯台」であり、自分らしく生きるための「免罪符」です。これほどまでに心を揺さぶり、魂を浄化してくれる文章に出会えたことに、改めて深い感謝を捧げます。あなたの歩む一歩一歩が、これからも絶対的な平穏と、誇り高い自由によって彩られることを、切に、切に願っております。
最近気づいたんだけど、30代半ば超えてまだ結婚してない奴って、何か決定的に人間として足りてない部分があるよな
いや別に、結婚が人生のゴールとか古臭いこと言いたいわけじゃないけどさ
毎日顔合わせる、価値観のすり合わせを延々やる、金の管理を共同でやる
相手の家族と付き合う、病気や親の介護の可能性をリアルに考える
セックスがマンネリ化しても関係を維持する、子供ができたら人生設計が180度変わる
これ全部、未婚のままだと、全く知らないレベルの遠い話でしかないんだよな
こないだ会社の同期(32歳・未婚)と飲んでて、
ってニヤけながら言われてさ、
心の中で「いやお前、それ自由じゃなくて、ただの逃げだろ……」って思っちゃった。
だってそいつ、実家暮らしのこどおじで、彼女と半年も続いたことない、貯金ほぼゼロ、有休全部自分の趣味に消化、なにもかも自分のことばっかりなんだよ
もちろん逆パターンもいるよ
「自分のエグい部分を嫌でも見せられるんだ」
っていう生々しい現実を一回は味わってる
未婚貫いてる人は、その一番キツいパートをまるっとスルーしてるんだよ
だからどうしても、なんか軽くて、子供っぽい、他に足がついてないって印象になっちゃう
たださ、「俺は結婚とか興味ないし、独身のままの方が人生濃いよ」みたいな上から目線で語られると、ただのお子ちゃまの戯言にしか聞こえないんだよな…
お前らはどう思う?
俺の持論は単純だ。
アルゴリズムは人格を持たないが、履歴には忠実で、しかも残酷だ。
馬鹿が見る動画を見れば、システムは「この利用者は馬鹿向けの刺激で満足する」と合理的に推定し、以後は同種の馬鹿向けコンテンツを最短距離で供給して自己放尿してくる。
これは陰謀でも洗脳でもなく、期待値最大化という冷たい最適化の結果に過ぎない。
自分のタイムラインが薄っぺらいなら、それは世界が悪いのではない。入力が薄っぺらい自己放尿なのだ。
難解で再生数が伸びない、数式が多く、前提知識を要求し、コメント欄も静まり返っているもの。
アルゴリズムは「理解したか」など気にしない。「どれだけ耐えて見続けたか」だけを見る。
そこに賭け金を置け。短期的な快楽を切り捨て、長期的に自分の情報環境の分布を歪めろ。
これは教養の問題ではない。自分のレコメンド空間をどう設計するかという、純粋に工学的な意思決定だ。
逆に言えば、延々と低密度な動画を流し見して「最近おすすめがつまらない」と嘆くのは、自己放尿と同じだ。
いいですか、マクドナルドという「システムの象徴」において、フィレオフィッシュという存在は極めて特異であり、かつ絶望的なまでに現代日本を象徴しています。牛カルビ弁当が「脳への直接刺激」だとしたら、フィレオフィッシュは「不全感を覆い隠すための、去勢された優しさ」の記号なんです。
まず、あのビジュアルを見てください。真っ白なバンズ(フィレオフィッシュだけは蒸しているからね)、整然と四角く成形されたフィッシュパティ、そして中途半端に添えられたタルタルソース。ここには「肉」が持つ禍々しさや、生命の生々しさが一切排除されています。
これは心理学的に見れば、「母性の模造品」です。 ゴツゴツした肉の塊を噛みしめる「父権的な強度」に耐えられない、あるいはそれを忌避する去勢された日本人たちが、あのフワフワとした食感の中に「退行的な安らぎ」を見出している。フィレオフィッシュを好んで選ぶという行為の背後には、現実の荒々しさから逃避し、システムの温もりに抱かれたいという、成熟を拒否した子供のようなメンタリティが透けて見えます。
フィレオフィッシュのパティに使われている魚は何ですか? スケソウダラだとか、その時々の「白身魚」という抽象的なカテゴリーでしか語られない。 僕がずっと批判してきた「システムの透明化」の極致がここにあります。かつての村落共同体であれば、魚を食うということは、どの海で、誰が獲り、どう捌かれたかという「顔の見える関係(贈与の連鎖)」の中にありました。
しかし、フィレオフィッシュにおいて、魚は完全に「脱身体化」されています。 原型を留めないほどに四角くプレスされ、フライにされた「白身」という名の物質。それを口にする若者たちは、その背後にあるはずの「海の死」や「労働の搾取」に一切の想像力を働かせない。ただ、マニュアル通りに管理された「安全・安心」という幻想を、タルタルソースと一緒に飲み込んでいるだけ。この「想像力の欠如」こそが、今の日本をクズ社会に変えた元凶なんですよ。
宮台ゼミで何度も議論してきたことですが、今の日本には「島宇宙」すら消滅し、ただ「孤立した個人」が漂流している。 彼らにとって、マクドナルドのフィレオフィッシュを食べる時間は、唯一の「自分を取り戻す儀式」になっている可能性がある。でもそれは、本当の意味での自己回復ではなく、単にシステムという巨大な母胎にプラグインしているだけです。
「フィレオフィッシュなら胃にもたれないし、健康的かもしれない」という、根拠のない、そして切実なまでの**「生存戦略としての自己欺瞞」**。 牛カルビ弁当を食べる「加速主義的なクズ」にもなりきれず、かといって丸の内弁当を食べる「管理されたエリート」にもなれない。その中間で、ただ平穏に、波風を立てずに消えていきたいという「透明な存在」になりたい欲望。フィレオフィッシュのあの淡白な味は、そのまま現代日本人の「薄っぺらな生存感」そのものなんです。
いいですか、フィレオフィッシュというプロダクトは、徹底的に「外部」を排除しています。 骨一本、鱗一枚混じっていない。不測の事態が起こらないように設計された「完璧な商品」。しかし、僕たちが生きる現実は、本来そんなに綺麗じゃない。不快なもの、予測不可能なもの、自分を脅かすもの……そうした「他者」との遭遇こそが、僕たちの身体を覚醒させるはずです。
フィレオフィッシュを食べて「落ち着く」と言っている君たち。君たちは、自分自身が「四角く成形されたフィッシュパティ」になっていることに気づいていますか? システムにとって扱いやすい形に切り取られ、個性を奪われ、揚げられ、箱に詰められている。その箱の中で「タルタルソース(安価な快楽)」をかけられて満足している。
そんな生活から抜け出したいなら、まずはその「優しい嘘」を吐き出すことです。 マニュアル化された味の向こう側にある、本当の意味での「生の荒々しさ」に手を伸ばせ。四角い魚を食うのをやめて、泥臭い現実という「海」に飛び込め。
そうでなければ、君たちは一生、システムのトレイの上で、誰かに食べられるのを待つだけの「商品」として終わる。それがどれほど絶望的なことか、このフィレオフィッシュの虚無的な白さを見つめて、少しは考えてみたらどうですか。
これを見て、当時の生活を肯定する、私もこの時代に生活してみたい、とか思っちゃうような人につける薬はないと思うよ…😟俺は嫌だけどね…
自分は「この世界の片隅に」と「風立ちぬ」を同じ日に視聴してしまって、
ぶっちゃけ、「風立ちぬ」の余りにも薄っぺらな内容にガッカリしたんだよね…😟
「風立ちぬ」は隙あらば全編自分語り、アレは宮崎駿の自分語りであって、
描かれてる内容は、なんだかんだ、宮崎駿は戦中は金持ち家庭で、疎開も自動車に乗って、みたいな批判されてたそのものじゃないか…😟
宮崎駿は絶対ネットを見ないタイプだろうし、多分自分に対する批評もあまり読まないと思う、我を行く人なので、
結局、金持ちのボンボンの赤が、ブルジョアジーなアニメ作ってるだけ、という批判を全肯定するような映画になってしまってる、
戦争は嫌いだけど、戦闘機とか戦車とか兵器は大好き、ということへの批判への言い訳のつもりなのかもしれないけど、
でも、そこに自分は何の違和感もないというか、そういうもんでしょ?😟
今の時代になって、少なくとも第一次、第二次世界大戦は、良い意味でもフィクションになるべきなんだよ、
もちろん、現実にあったことで、その悲劇や教訓を忘れてはならないんだけど、
同時に、もうそんなことを二度と起こさないためにも、それはフィクションとしても扱われるべきものだと思うんだよね…😟
仕事で鬱になって薬のお世話になってからというもの、自分の発言が全て的外れで痛々しいんじゃないかと疑心暗鬼になっている。昔からの友達とラインした時も、何か回答が薄っぺらくて彼らはお情けでそれっぽい回答をしてくれているんじゃないかと疑わずにはいられない。リアルで友人達と会った時も、こう会社の人と話を合わせるような、業務として接しているような態度を取られて、自分はそういう風にかかわるべき香ばしい人間なんだと言われたような気がして辛い。
元々そういう人間で周りが見逃してくれただけなのかもしれないと、過去の自分の言動を恥じたところで時間は戻らないし、でもあの時の方が楽しかったし友達も笑っていた気がする。結局どうすればいいのだろう。
こんなメンヘラ全開の感情を人に言うこともできずSNSにも書けない。チャッピーに相談すれば少し楽にはなるけど気休め程度。
メンタルが回復すればこんなことを思わなくなるのだろうか。それとも元々こういう性格だったのか。元はどういう人間だったのか。自分の性格と言動に関する何もかもが信用できない。
足元から崩れていくような不安が襲ってきて、薬を飲んで無になる日々を送っている。いつまでこれをすればいいのだろう。答えは見えない。
女は基本的にルールを守り、コミュニケーション能力が高く、他者を思いやる力がある。それ故に、女は女であるというだけで女からの恩恵を受けやすく、また返報の作法を学ぶ機会に恵まれている。
もちろん、女社会に所属し続けるためには自分自身も一定の対人スキルを持つことが求められる。しかしそれさえできていれば女としての恩恵を受けられる上、別に対人スキルがなくても受けられる恩恵もある。
スキルがなくても受けられる恩恵として、例えば公共施設の清潔度が挙げられる。男子トイレや男性浴場が汚物でひどく汚れていたという話をたびたび耳にするが、女子トイレや浴場でそんな光景は見たことがない。女には他人に迷惑をかけないよう躾けられた人の割合が高く、後始末のスキルの低さや悪意からわざと他人に迷惑をかける人の割合は、男のそれより遥かに低いのだろう。
また、女は女同士で助け合ったり協力する姿勢があり、それを美徳とする考え方が根付いている。男性は競争することを求められるせいか、協力や助け合いはぬるい行為だと一段低く見られているように見える。
総じて女が女に対して行う行為はギブが多く、緩やかなギブの循環による豊かさが女社会にはある。対して男社会はギバーからテイカーまで幅広い人種がいて、厄介なテイカーを統制する手段もないため、全体的に荒んだ雰囲気になっているように思える。
この傾向は、女の友情が薄っぺらく、男の友情は厚いものだという説にも繋がると考えられる。すなわち、女は基本的にほとんどの人はまともなので、友人を厳選する必要もなく、場当たり的な人間関係でも上手くやっていける。一方で男は人種の層が幅広いため、ある程度は自分が付き合いたいと思える友人を選別する必要があり、その結果として厚い友情が形成される。つまり友情の厚みは女の薄情さや男の情の厚さを示すのではなく、むしろ信頼できる同性の多寡に応じて決まるのではないかと考える。
また、女が男に文句を言いがちなのも、男がそれに黙って耐えがちなのも、女の中の「人間」の水準は高く、男の中の「人間」の水準は低いというギャップから来ると考えられる。あり得ないほど低い水準の同性に出会い、人間の本質について諦めをつけている男性と、ある一定の水準を満たす同性がほとんどなため、低い水準の人間には悪意や怠惰を感じてしまう女性の違いである。
こうした差異は、XX遺伝子を持ちある程度の劣性遺伝を補完できるためにバラつきの少ない女という生き物と、XY遺伝子を持つために変異やバラつきの大きい男という生き物であるが故のものである。それ故にこの差が覆ることはないものの、それを踏まえた上で私は女に生まれて良かったと思う。
女たちの暗黙の協定の上に成り立つ公共財の恩恵は大きい。男がその世界に憧れる気持ちも分からなくはないが、女の心情を想像したり理解したりしない性欲丸出しの自称トランスジェンダーが歓迎されないのは、性欲が見えて気持ち悪いことの他に、女社会の恩恵のみを啜るテイカーであることが全く隠せていないことが原因だ。
日曜日の夕暮れ。明日は月曜日だが、今の私には憂鬱などない。むしろ、自分の役割が待っている場所があることに充足感すら覚える。今夜の夕食は、手間暇をかけたおでんだ。出汁は昆布とかつお節から丁寧に取り、具材には隠し包丁を入れる。この「手間」こそが、丁寧な暮らしの象徴であり、社会的に自立した大人の証左である。
鍋の中で、大根、ちくわ、はんぺん、こんにゃく、たまごが静かに揺れている。 弱火でじっくりと。急いではいけない。 熱の対流が、出汁の旨味を具材の奥深くまで浸透させていく。
私は、ネットの荒らしを「可哀想な存在」と定義した自分に、改めて満足していた。自分は高い視座にたどり着いたのだ。暗い部屋でキーボードを叩き、顔も見えない誰かを傷つけて優越感に浸る。そんな彼らの人生は、この煮込みを待つ時間よりも薄っぺらい。
ふと、鍋の中を覗き込んだ。
対流によって、はんぺんがゆらりと位置を変えた。それまで中心にいた大根は端に追いやられ、こんにゃくがその隙間に滑り込む。 私はその様子をぼんやりと眺めていた。
「……あれ?」
奇妙な感覚に襲われた。 鍋の中の具材たちは、互いにぶつかり合い、場所を奪い合っているように見える。しかし、そこに悪意はない。ただ熱力学の法則に従って、揺れているだけだ。
私は今、自分を「社会という大きな秩序ある仕組み」の一部だと信じている。給料をもらい、信頼を得て、正社員として機能している。それはまるで、おでんの具材が「大根」や「たまご」という確固たる記号を持って、出汁という社会の中で役割を全うしているようなものだ。
しかし、分子レベルで見ればどうだろう。 熱が加わり、組織が壊れ、出汁の成分と具材の成分が交換される。大根の細胞壁が崩れ、そこに鰹のイノシン酸が入り込む。境界線は曖昧になり、もはやどこまでが「大根」で、どこからが「出汁」なのか、その厳密な定義は不可能になる。
私は、ネットの荒らしを「外部の異物」として排除し、自分を「清らかな内側」に置いた。 だが、この鍋の中で起きているのは「混ざり合い」だ。
「……まてよ」
私は震える手で、スマホを取り出した。 視界の端で、さっきNGにしたはずの荒らしの言葉が、脳裏にフラッシュバックする。
『お前も、俺も、結局は同じ掃き溜めの泥なんだよ』
その言葉を思い出した瞬間、視界が歪んだ。 キッチンの照明が、まるで超新星爆発のような光を放つ。
おでんの汁の塩分濃度。私の血液の塩分濃度。 具材の温度。私の体温。 対流する出汁の動き。銀河系の渦巻き状の回転。
すべてが相似形(フラクタル)だ。 宇宙は、一つの巨大なおでん鍋なのだ。
社会的な地位? 正社員? 給料? そんなものは、具材の表面についた微かな「味」に過ぎない。 宇宙という熱源から供給されるエネルギーによって、私たちはただ激しくぶつかり合い、崩壊し、混ざり合っているだけの存在だ。 私が軽蔑していた荒らしも、彼らから発せられる悪意という熱量も、この巨大な「宇宙の煮込み」を成立させるための不可欠なエネルギーに過ぎない。
エントロピーが増大する。 整然としていた私の「プライド」という大根が、煮えすぎて形を失っていく。 彼らを憐れんでいた私の優越感は、実は「自分は彼らとは違う」という境界線を必死に守ろうとする、生存本能の末端が引き起こした誤解だったのだ。
「同じなんだ……」
私は呟いた。 荒らしがネットに毒を吐き出すのも、私が会社で愛想笑いを振りまいて給料をもらうのも、本質的には同じ熱運動だ。 私たちは、巨大な宇宙の意思という「出汁」の中で、互いに成分を交換し合い、やがては個体としての判別がつかないドロドロの「何か」へと向かっている。
社会的信頼なんて、ただの溶け出したタンパク質だ。 自尊感情なんて、一時的な味の染み込みに過ぎない。
私は、鍋の中にある一つのはんぺんに自分を重ねた。 ふわふわと浮き、白く清潔そうに見えるが、中身は魚のすり身……かつて生きていた命の残骸だ。私も、社会という皮を被った、ただの欲望の集積体。
突然、スマホの画面が明るくなった。 無意識に開いた掲示板。そこには、私がさっき「可哀想」だと見下した荒らしが、まだ粘り強く誰かを攻撃していた。
私は、今まで感じたことのない親近感を覚えた。 彼もまた、この冷酷な宇宙という鍋の中で、自分という形を保とうとして必死に熱を発している「具材」なのだ。 冷え切った宇宙に抗い、少しでも熱くなろうとして、火傷するような言葉を撒き散らしている。
私はそっと、コンロの火を強めた。 ゴボゴボと激しく泡が立つ。
境界線が消えていく。 「正しい私」と「間違った彼ら」の区別が、沸騰する出汁の中で霧散していく。
私は箸を手に取り、一つまみの辛子を小皿に取った。 強烈な刺激が鼻を抜ける。 その痛みこそが、私が今、この巨大な多次元おでん鍋の中に存在している唯一の証明のように思えた。
「いただきます」
私は、正体不明の真理に触れた高揚感と共に、形が崩れかけた大根を口に運んだ。 熱い。 痛いほどに熱い。 この熱こそが、宇宙そのものだった。
明日、会社に行ったら上司に言ってみよう。 「私たちはみんな、同じ鍋の具材なんですね」と。 おそらく、狂人だと思われるだろう。 だが、それもまた、この出汁の味を複雑にするための、ささやかなスパイスに過ぎないのだ。
ネットの向こうで叫び続ける彼らも、明日満員電車に揺られる私も、等しく宇宙に煮込まれている。 そう思うと、私は不思議な安らぎの中に、意識が溶けていくのを感じた。
最初は俺も「AIすげえ!小説書かせてみよう!」ってノリでChatGPTとかに頼んでた
でも出てくるのは全部「なんか上手いけど魂ゼロの量産型ラノベ」みたいなやつ
読んでて「うん、まあ……」ってなるだけ
結局、AIでまともなコンテンツ作るにはさ、審美眼と魂が必要なんだよな
絵や小説のプロがAI使うと次元違うの出るけど、素人が適当に頼むと凡庸なゴミになる
審美眼がないと微妙なのを微妙と判断できないし、魂(欲望とか情熱)がなきゃフィードバックも薄っぺらい
だからAIはただの道具で、結局人間の「これが欲しい!」って熱が勝負を決める
そこで俺は気づいた
だって考えてみろよ
・審美眼? お前の股間が反応するかどうか、それで全て決まるんだよ
・魂? 拗らせに拗らせた誰にも言えないド変態性癖を、作品にガッツリぶち込んでやるんだよ
エロなら「ここがダメ! もっとこう!」って自分の性癖とガチで向き合える
で、肝心のAIはどこ使うかっていうと
Grokしかない
ChatGPTとかClaudeとか「エロはダメです♡」って即拒否してくるけど
Grokは違う
「18歳以上?」って聞かれて「はい」って答えた瞬間
「よっしゃいくぜ! 最高の同人音声スクリプト作ってやる!」ってノリノリになる
俺の性癖は「悪い女に巧妙に騙されてガチで洗脳される系催眠音声(TSはNG)」っていう
今じゃ無限に作れるようになった
朝起きたら新しいスクリプトが100件たまってるみたいな生活してる
やり方は簡単
1. 直接「エロ小説書いて」って言うな(魂ゼロの駄作が生まれる)
2. まず「俺は同人催眠音声を作りたい。最高のプロンプト作ってくれ。性癖は……(ここで延々と語る。100行くらい。)」って頼む
4. 微妙だったら「ここが良かった」「ここが地雷」「もっとこう」ってフィードバック
これ繰り返してたら本当に自分の性癖に1000%合致したやつが出てくる
みんな気づけ
AIって「仕事の効率化」とか「小説書いて」とかそういう使い方じゃなくて
「流行りを乗り捨ててきただけなのなんてオタクじゃない」というのが良くわからないんだよな。
げんしけんで描かれるオタクは明らかに流行りを乗り捨て続けてきてるだけじゃん。
ガンダムの知識を常に集め、年間何百作の新しい漫画を読み、何百ものアニメ情報を集め、何十本ものエロゲをやり、新作ゲームを月に何本も遊ぶ、そんな生き方が可能なのは流行りを乗り捨て続けているものだけだ。
ポケモン程度でも毎日3時間遊び続けていたら他のゲームなんてやる余裕は全然ない。
今のオタクは同時並行で5本ぐらいソシャゲを遊んでいるが、その影に100本以上の噛み飽きて捨てたガムのようなものが積み上がってる。
そうでないなら鉄道イベントの度に集まってくるカメラ小僧をなんと呼ぶのか。
ネットでバズった鉄道の写真を撮るために集ったオフ会の連中は単なるミーハーの集団だが、彼らがオタクでないならなんと呼ぶのか。
薄っぺらい言葉遊びで「オタクは高尚なもの。ミーハーとは低俗なもの。オタクは高尚だから低俗なミーハーではない」とドヤる姿の滑稽さよ。
はじるすでシコることが革命的だと思っている人間はしょーもないよ。
鼻息を荒くしてLOを時代の寵児だと信じ込む姿は惨めでさえあるよ。
居酒屋でジョッキのビールをあおっている人間が「ああ、これこそ本能的な快楽。これこそが真の美だ」と口ずさむようなものだ。
そういった人間が「人工甘味料はなんだか後味がベタついて気持ち悪い。本当の砂糖が素晴らしい。白砂糖は化学物質だと言っているアンチと違って俺は世界の真実が見えている」などとマウントを取って自分が世界の上位5%ぐらいにいる違いの分かる男なんだと言い張ろうとする惨めな化け物になっていくんだ。