はてなキーワード: 要請とは
現実の戦争で起こっている現場と基地の分断を描く意欲作だが作品自体が分断されてしまっている印象でちょっとノレなかったので62点。
新米JTACの弟ヘムズワースはフィリピンの小島に囚われた情報員の救出作戦にアサインされる。敵を発見するも敵が民間人を虐殺し始めそれを救うために戦闘になりてんやわんや、チームは壊滅状態に。リアムは基地の無人機オペレーターと更新しながらあちこちを逃げ回る羽目に。で、まぁチームの生き残りと合流したり敵の基地に乗り込んだら捕まっちゃったりそこで拷問を受けて爆撃と同時に脱出して敵のボスを倒したりいろいろあってなんだかんだ脱出する。
みたいな話。
俺が見る映画に出てくる弟ヘムズワース、なんかいつも血まみれで命からがら逃げ回ってから逆転に転じてるな。
というのは置いておいて、まず冒頭、出撃前の主人公はテーブルに載っている2種類の味のシリアルのうち、どっちを持っていくかをなんかずっと悩んでるところから始まり、同様に基地から作戦を援護するラッセル・クロウの登場シーンは出勤後にコーヒーメーカーのポーションがぐちゃぐちゃにされていることにブツクサ文句を言いながら設置し直すところから始まる。ここからもう既に軍人でありながら生活>軍事作戦という意識で生きてしまっているということが提示される。
そして実際に現場で戦闘に巻き込まれ生死の境を彷徨うことになる主人公と基地からそれを必死に支えるラッセルのバディものとして展開していくが、ラッセルの基地では同僚がみんなで集まってテレビのバスケの試合に熱狂しており、作戦が進むと「超過勤務だからお前はもう帰れ」と引継ぎもそこそこにラッセルが指令室から追い出されるという、「戦場」と「基地」の分断が加速していく。
空軍基地という非常事態の場でバスケの試合に集中したいから電話も取らないという同僚らに対してラッセルが冒頭では「ちゃんと電話には出ろ!俺の嫁が今日出産するかもしれねぇんだ!」と怒るシーンが最後に「ガチの緊急事態の連絡すらおざなりに処理する」というサスペンスにつながり、ラッセルが怒りを爆発させテレビを破壊する展開は主人公との遠い共闘を経て「現実感を取り戻したラッセルVS能天気な軍部」の対立構造として趣深い。
おそらく過去であれば空軍は「自分たちが戦場まで飛んでって爆撃する」というリスクや戦場を共にする覚悟を背負っていたので連帯感があったが無人機がメインとなった今では「なんか遠いところで戦ってる奴がいるらしい知らんけど」みたいな、もはや画面の前で戦争を見ている一般市民と同じ感覚になってしまっているという現代の軍のリアルを描きたいんだろうなというのはわかる。
主人公をJTAC(統合末端攻撃統制官)という現場で端末使って航空支援を要請する担当にしたというのも現代の戦闘のリアルを描こうという観点から見れば面白い方法だと思うし、実際ド派手な戦争が始まるまでは結構興味深く見られた。
ただ、そういう2024?2025?年のリアルな戦争というテーマが一面にはあると思うのだが、いざ戦闘が始まってからは現場パートが1990年代や2000年初頭のようなアクション映画としてのミリタリーアクションになってしまう。個人的に一番近いのはエネミーラインとかかな。
新米JTACというポジションでオドオド戦闘に出るというのが面白ポイントで最初の戦闘ではチームの陰ではわわ~って感じだったのにいざ一人になると急に近接戦闘は強くなるし敵の銃は主人公には当たらず主人公の銃はなぜか当たり、都合のいいところで生きてた味方が合流し捕らえられ殺害される。水責め拷問を受けていたので爆撃による炎を避けられたって展開はちょっと面白かったけど、でもお前風呂桶から腕出して暴れてたたけど平気そう?ってのは気になるし、敵のアジトの通路という通路を炎が覆ってたけど捕虜はみんなピンピンしてるし敵のボスもなぜか平気。
敵のアジトを壊滅させようと爆撃指示をしたあとに捕らえられてしまい、自分が捕らえられている基地への爆撃を自分で指示してしまうという皮肉な展開は悪くない。拷問を受け基地の中を逃げ回りボスをぶち殺し最後の爆撃までに基地を脱出しようと苦労する主人公とのカットバックで、指令室から追い出されたラッセルはスーパーでヴィーガンの妻の指示で買い物というミッションにアサインされ苦労させられるってのも嫌いじゃないし、主人公がようやく電波が通じる場所に出て基地に電話するもあしらわれ、ラッセルに電話するもラッセルは妻と電話中。ようやく繋がってラッセルが基地に急ぎながら電話するも基地はバスケに熱中してつながらない。という「現場と基地の分断」からくるサスペンスも面白い。
でもその結末が「いそいで基地まで戻って廊下を走って指令室に爆撃のゼロコンマ何秒前に何とか間に合って回避される」ってのぶっちゃけどうなん?いまさらそれ?90年代のミリタリーアクションを参照してるのはわかるし、そういうテンプレートとしての楽しさはあるけど、2020年中盤の戦争の現代性をテーマとして打ち出しながらそれ?って冷めてしまった。
そんなこんなで航空支援の無人化による現場と基地の分断をテーマに描きながら、同時に現代のリアルな作戦事情と90年代のミリタリーアクションの分断が俺としては非常に気になる。リアルにやりたいんかファンタジーやりたいんかどっちやねん!と座りの悪い思いをずっとし続けることになった。
とはいえ、90年代ミリタリーアクションとしては予算感はないけど工夫とCGで迫力はあるしやろうとしていることの面白さは十分あるのでそういう映画として見るなら全然及第点はあると思う。実際、文中で挙げたエネミーラインって俺の中で75点くらいはあるからね。別にミリタリーアクションが嫌いなだけではないのよ。現代の技術で90年代アクションを撮ることが目的ですってことなら70点後半くらいはつけられると思うので、金ロー感覚で見るのがオススメ。
普通の人なら国連事務総長の要請で宗教団体にビデオレターを送ったのならその人と宗教団体はほぼ無関係だと判断するし、宗教団体が後援会立ち上げてたならその人と宗教団体は関係深いんだなと判断する。
文章中に名前が32回出てこようが他の名前の統計が出でないと判断付かないと考える。
世論調査で一社だけ極端な値が出ればその会社がおかしいと判断するし、
存立危機事態は中国が米国を攻撃すれば日米同盟に基付き参戦するのだなと大意を読み取れる。
が、だ。
三分の一の人にとってはビデオレター送った安倍は統一協会とずぶずぶだし野田はネトウヨの陰謀だから無視して良いしTM文章に32回も名前が出ればこれはもう高市は統一協会だし毎日新聞の世論調査は自分の考えに近いから正しいし他社は忖度でDAPPIの工作に間違いない。中国に宣戦布告する高市を許すな!!
子供にとって「なんで勉強しなきゃいけないの」と「なんで学校に行かなきゃいけないの」って永遠のテーマだと思うんですけど、本人視点の理由と社会視点の理由とあるなって思った日記
前提としてその子個人だけを見たときに絶対に勉強しなきゃいけないとか学校行かなきゃいけないってことはないと思う。子供は勉強する義務も学校行く義務もないし。
でも親に学校に行かせる(教育を受けさせる)義務があるのは、民主主義国家としてはせっせと子供に勉強させなきゃいけないからかなと思う。憲法とか詳しくないし法目的とかあんま知らないけど。
文科省のホームページにはこんな記述があったから、やっぱり民主国家を運営していくにあたっては必要不可欠だからというのが大きな理由だと考えられる。人格の完成に必要とも言ってるけど、それは人道的な理由であってここまでコストをかけて義務教育やってる理由としてはちょっと弱いよな。
「けだし、憲法がかように保護者に子女を就学せしむべき義務を課しているのは、単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のために必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき義務を完うせしめんとする趣旨に出たものである」(昭和39年2月26日最高裁大法廷判決)(https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/004/a004_04.htm)
こういう理由があんまり子供に直接回答されないけど、そうしたほうがいいじゃなくて、そうしなきゃいけないという視点ならこっちのがでかいかなと思ってる。
個人としてももちろん勉強するに越したことはないし、社会的に見ても義務教育くらいの勉強はそこそこできてる人のほうが人材として必要とされてるとは思う。実際大卒とか修士博士卒だと給料上がるから、教育されてるというのは重視されるからあると有利よね。
何十万も払ってわざわざ自由な時間を潰して予備校に通ってせっせと勉強するような大人もいるくらいだし、知ってると得をすることはたくさんあると思う。
逆に知らないと損することも多いよね。ちょっと前に一瞬燃えた血液クレンジングとかいろんな詐欺とか陰謀論とか、知識がないと食い物にされることもあるし。
攻撃力としての知識と防御力としての知識とあると人生でわりと不幸を回避できるから、大人は一生懸命子供に勉強させるんだと思う。正直一部自分の学歴コンプの解消のためとかもあると思うけど。
学校とかもいじめとかで苦しんでて……みたいな状態とかあると思うし命削る価値は全くないけど、やっぱり集団生活とか教育とかそういったとこは結構人生で活きてるなと思うことある。
私も高校中退したあと結構遅れて大学入ったし、実際行かないことあってもなんとかなってるけど、行けるなら間違いなく行ったほうがいいよなー。遅れてでも大学入ったのもやっぱり勉強しないと自分の能力的に話にならないと思ったからだし。
なんで学校行かないといけないことになってるかっていうと社会として行かせる必要があるからだと思うけど、行ったほうがいい理由は絶対本人にとって有益だからだよなと思いました。
視聴者の反応が悍ましい
番組も見てないし、当人のSNSもみてないんだが、番組が中止になったりするのがホッテントリに上がってきてた
反応を見ると、出発点が「ヤングケアラーだ、この親許すまじ」って地点になってる人が多すぎて吐きそう
あれってさ両親も了承したTV番組やん
子供への悪意の塊、子供なんて単なる道具ってなってる両親だったとしたらばさ
常識的に考えてないだろう?
バラエティ番組だぞ
子供は親を愛してないみたいなプロファイリングまで始めちゃってさ
そりゃ公開中止するわ
んで、何が悍ましいって
その着火してる当人が、自分の妄想を根拠に「あの子絶対八つ当たりされる可哀想、できることないかな?」とか自分に酔ってんの
密着!15人大家族うるしやま家
https://www.fujitv.co.jp/daikazoku/
とかもうダメじゃん
親も家事して子供が手伝う体でヤングケアラーになるのは微笑ましいからOKか?
「女性も専業主夫を養えるくらい稼げば、夫婦の役割は柔軟になる」「少子化対策のためにもっと産め」。この二つを同時に実現しようとすると、現実には破綻しやすい構造になっている。
典型的なパターンはこうだ。妻がバリバリ稼ぐキャリアウーマンで、夫が専業主夫になる。夫は家事・育児を一手に担うはずだが、実際には子供が2~3人いると、1人で回しきるのは極めて困難になる。朝食作り、幼稚園・学校の送迎、掃除・洗濯、夕食準備、宿題チェック、習い事の付き添い、病気時の看病……。どれもフルタイム労働に匹敵する量と質の仕事だ。しかも、妻の帰宅が遅いケースが多いため、夫はほぼワンオペ状態で疲弊する。
ここで重要なのは、「稼いでいる妻が家政婦やベビーシッターを雇えば解決するのでは?」という疑問に対する現実だ。多くの場合、妻は「夫が主夫なんだから自分でやるべき」「家政婦に頼るのはお金の無駄」と考える傾向がある。あるいは、夫自身が「俺がやるって決めたんだから」とプライドで助けを拒むケースも少なくない。結果、家事・育児の負担は夫一人に集中し、限界を超えたところで「家族の協力」という名目で、長男・長女といった上の子にしわ寄せが行く。「ヤングケアラー」と呼ばれる状態だ。子供は自分の勉強や遊び、部活動、友人関係を犠牲にせざるを得ず、精神的・学力的負担が積み重なる。親は「家族なんだから当然」と言うが、子供にとっては「自分の人生を差し出されている」感覚になりかねない。
結局、この構図は「女性の社会進出」と「少子化対策」という二つの社会的要請を、家庭内で無理やり両立させようとした結果、最大の犠牲者が子どもになっている。妻は「稼げる女性」の証明を、夫は「家事育児を完璧にこなす主夫」の証明を求められ、どちらも限界を超える。社会は「産め」「稼げ」と言うが、産んだ後の現実的なサポート体制はほとんど考えていない。
これが顕著に出たのがこの間の探偵ナイトスクープだ。
家政婦や保育サービスを積極的に活用する選択肢を「贅沢」「甘え」と切り捨てる風潮がある限り、この問題は解決しない。子供を産むということは、ただ産むだけではなく、子どもが健やかに育つ環境を整える責任を伴う。親の理想や社会の期待を満たすために子どもを犠牲にするのであれば、最初から産まない選択をしたほうが、よほど子どもに優しいのではないか。
Gemini+Copilot+Chatgptで20分でつくってみた。
優しくて穏やかな日本か、こわくて強い日本か、といった分析ではあんまりなので
もっぱらAIに判断材料をもとめている。AIの急速な向上により、3、4年前と異なり、相当程度、事実に基づいた分析をするようになったと感じるが、所詮AIなので自分用メモ。
自民・維新連立: 成長の原動力を主として「企業の投資力」と「産業競争力の強化」に求める。日本経済の停滞要因を「規制の多さ」や「労働市場の硬直性」に見出し、半導体・AI・防衛産業への重点投資や、規制改革による民間活力の引き出しを重視。近年は賃上げ税制など家計への波及も意識しているが、あくまで「企業活動の活性化」が起点。
中道改革連合: 成長そのものは否定しないが、「企業利益が賃金や消費に十分回らなかった」過去の反省を重視。
教育・医療・人的資本など「人への投資」を成長戦略の中核に据え、家計の購買力(需要)と労働生産性を底上げすることで持続的な成長を促す「ボトムアップ型」のアプローチ。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | トリクルダウン(利益の波及)が起きるまでにタイムラグがあり、実感に乏しい。 | 教育や人的投資の効果が経済成長として現れるには10年単位の時間がかかる。 |
| リスク | 補助金競争による財政悪化と、利益が配当や内部留保に滞留し格差が拡大するリスク。 | 財源先行で投資を行う場合、成長の果実を得る前に財政や金利が悪化するリスク。 |
| 実現性 | [高] 経団連等の支持基盤があり、既存の省庁スキームを活用しやすいため実行に移しやすい。 | [中] 予算配分の抜本的組み替えが必要であり、財務省や既得権益層の抵抗が予想される。 |
自民・維新連立: 物価高を「外部要因(円安・資源高)」による一時的危機と捉え、補助金や定額減税などの「激変緩和措置」で対応。財政規律を重視するため、恒久的な減税には慎重姿勢。
中道改革連合: 物価高の痛みを「賃金の伸び悩み」や「社会保険料負担」という構造問題と捉える。消費税の時限的減税、給付付き税額控除、社会保険料の軽減、トリガー条項凍結解除などを通じ、制度改革によって「毎月の手取りを恒久的に増やす」ことを目指す。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 補助金の「出口戦略」が難しく、一度始めると既得権益化してやめられなくなる。 | 消費税減税は、システム改修のコストや「一度下げると二度と上げられない」政治的ハードルが高い。 |
| リスク | 財政支出が膨らむだけで根本解決にならず、円安是正や賃上げが追いつかないリスク。 | 大幅な税収減により、国債格付けの低下や長期金利の上昇(住宅ローン金利増)を招く恐れ。 |
| 実現性 | [高] 予算措置だけで即効性があり、政治決断として行いやすい。 | [低〜中] 財務省の強硬な抵抗に加え、社会保障財源との兼ね合いで調整が難航しやすい。 |
自民・維新連立: 少子高齢化による制度破綻を防ぐため、「持続可能性」と財政規律を最優先。
給付の重点化、医療・介護の自己負担見直し、制度のスリム化によって、現役世代の負担増を抑制しつつ制度を維持する立場。
中道改革連合: 社会保障を「生活の基盤(ベーシック・サービス)」と位置づける。
医療・介護・教育・子育ての自己負担を極力減らすことは、将来不安を解消し、結果として消費や経済活動を支える「投資」であると考え、公助の拡大を重視。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 高齢者層(大票田)の負担増に直結するため、選挙対策上、抜本的なカットが難しい。 | 「負担なし・フリーアクセス」の拡大は、医療需要の増大(コンビニ受診等)を招きかねない。 |
| リスク | 「医療難民・介護難民」の発生や、低年金高齢者の貧困化が進むリスク。 | 必要な財源が確保できず、結局は現役世代への増税や保険料アップに跳ね返るリスク。 |
| 実現性 | [中] 小幅な負担増は可能だが、維新が掲げるような抜本改革(積立方式等)はハードルが高い。 | [低] 巨額の財源が必要。高福祉高負担(北欧型)への国民的合意形成が前提となるため困難。 |
自民・維新連立: 防衛費増額や社会保障費の自然増を見据え、プライマリーバランスを重視。恒久減税には極めて慎重で、必要な税収確保を排除しませんが、時限的な措置は柔軟に行う。
中道改革連合: まず家計負担の軽減を優先し、経済回復による自然増収を狙う。不足財源は「金融所得課税の強化」「大企業の内部留保課税」「特別会計の活用」などで補い、応能負担(力のある所から取る)と再分配を強化。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 国民負担率(税・社会保険料)の上昇に対し、国民の不満が限界に近づいている。 | 富裕層や大企業への課税強化は、キャピタルフライトを招く懸念。 |
| リスク | 負担増が消費を冷え込ませ、デフレ脱却の腰を折るリスク(アベノミクス後の消費増税の二の舞)。 | 内部留保課税は「二重課税」との批判が強く、企業の投資意欲を削ぐリスク。 |
| 実現性 | [高] 財務省の方針と合致しており、政策決定プロセスにおいて摩擦が少ない。 | [中] 「金持ち課税」は世論の支持を得やすいが、株式市場への影響を懸念し骨抜きにされやすい。 |
自民・維新連立: 成長産業への労働移動を促すため、「労働市場の流動性」を重視。特に維新は、解雇規制の緩和(金銭解決制度の導入)を強く主張し、企業の新陳代謝と賃上げの原資確保を目指す。
中道改革連合: 雇用を生活の安定基盤と捉え、非正規雇用の拡大による格差固定化を問題視。最低賃金の引き上げ、非正規の正規化支援、長時間労働是正など、雇用の「量(流動性)」よりも「質と安定」を優先。
| 項目 | ||
|---|---|---|
| 課題 | 日本の雇用慣行(年功序列・職能給)とのミスマッチ。セーフティネット(再就職支援)が未成熟。 | 急激な最低賃金引き上げは、体力のない中小企業の倒産や、雇用調整(リストラ)を招く。 |
| リスク | 中高年層を中心に失業者が増え、再就職できない層が社会的不安要因となるリスク。 | 労働市場が硬直化し、生産性の低い企業が温存され、経済全体の新陳代謝が遅れるリスク。 |
| 実現性 | [中] 経済界の要望は強いが、労働者保護の観点から法改正には激しい抵抗が予想される。 | [中〜高] 連合などの支持基盤があり、「賃上げ」の社会的要請とも合致するため進めやすい。 |
特に物価高対策や税制においては、「手取りを増やす」という明確なスローガンのもと、与党が得意とする一時的な補助金(ガソリン補助金など)を「その場しのぎ」と批判し、「基礎控除の引き上げ(103万円の壁突破)」や「トリガー条項凍結解除」といった恒久的な制度改正を強く求めている。
この点において、財政規律を重視して増税も辞さない一部の自民・立憲勢力とは一線を画し、「家計減税による経済再生」を最優先する独自のアクセル役を果たす可能性が高い。
支持母体に民間企業の労働組合(自動車・電機・電力など)を持つため、産業競争力強化やエネルギー政策(原発活用など)では自民・維新に近い「供給側重視」の姿勢を見せる。
しかし一方で、労働者の権利保護も絶対的な使命であるため、維新が掲げるような「解雇規制の緩和(金銭解決制度)」には強く反対し、賃上げや人への投資を重視。
つまり、「産業には強く、雇用は守る」というスタンスであり、市場原理主義(維新)と大きな政府志向(立憲)の間を取り持つ現実的な調整点となる可能性が高い。
中道改革連合の一部に見られる「給付拡大(高福祉)」路線とは距離を置き、社会保険料の引き下げや医療制度の改革を通じて「現役世代の負担を減らす」ことに注力している。財政論においても「経済成長による税収増」を前提とした「高圧経済」を志向しており、緊縮財政的な発想には批判的。結果として、国民民主党は、与党案・野党案のどちらに対しても「現役世代のためになるか」という単一の基準で判断を下すため、キャスティングボートを握る「是々非々の実務的調整役」として振る舞うことが予想される。
今回の総選挙では自民党は票を伸ばすものの、中道の目新しさが手伝い、自民が圧倒的多数をとるほど票を伸ばすとは思えず、引き続き、野党との協力が必須となると想像している。その場合、国民民主がどのようにふるまうかによって調整型国会にも停滞型国会にもなりうるので上記のAI評価は参考になった。現状の国民民主の行動を見る限り、足を引っ張る政党
というより高い修正コストを要求する政党として定着してゆくだろうと思われる。
自民が参政と票が割れるなど圧倒的多数をとれないなか、維新は構造改革路線、一方で中道改革連合が伸び、国民民主が一定数存在、というシナリオを考えてみる。完全に停滞国会とは思わないが、決まるまでに時間がかかる国会になるだろうことが容易に想像がつく。
これは国民民主という個別政党の評価にとどまらず、今回の総選挙をどう読むかという構造的な視点と感じた。
第一に、有権者がどの政策軸(減税か再分配か、成長か分配か、防衛か生活か)を選ぶかと同時に、実際の政策の中身を決めるのは、選挙後の国会における調整次第ということなる。どの政策が勝つかという視点で総選挙をみるだけではなく、政策がどう決まる国会になるかを見据えた投票行動が大切だと思った次第。
【合意形成に対する態度】という軸で見ると、今回の高市首相による解散は「政策の是非」を問うというより、合意形成をどう扱う首相なのかを露呈させた行為として読める。高市首相の解散は、少数与党のもとでの調整(野党や党内リベラル派との妥協、段階的実施)を「足かせ」と捉えた結果に見える。
本来、少数与党状況は、政策を現実的な形に練り直す契機にもなり得るが、今回それを選ばず、選挙による一括承認を求めたことは、「合意形成を通じて政策を作る」よりも「高支持率を背景に、選挙で正当性を取って押し切る」スタイルを優先したと解釈できる。これは、解散の自民党内の根回しすらもなされていなかったことからも傍証される。その意味で、現時点の国会運営における限界、少なくとも調整型リーダーとしての適性の限界を示した面は否定しにくい。
そもそも高市内閣への高支持率の背景には「決断型リーダー」への期待や、保守的アジェンダの分かりやすさ、安全保障・国家像を前面に出した政治姿勢への評価が含まれていたはずだ。ただし、その支持は「自民が圧勝する」という前提と相性が良く、逆にいえば、接戦・中途半端な勝利となり、選挙後も調整が必要な議員構成になった場合には、調整能力が問われ、弱点が露呈する、という構図が再び浮上する。
「解散で意思決定基盤を盤石にする」という狙いと裏腹に、「圧倒的多数でなければ能力を発揮しにくい首相」であることを有権者に示してしまった面がある。したがって、今回の解散は、高市首相の政治的賭けであると同時に、【合意形成を通じて統治する指導者か/選挙による動員で突破する指導者か】という資質を選挙そのものの争点にしてしまった、という見方もでき、自民圧勝以外のシナリオでは、首相の統治能力そのものが試される構図となっている。
国民民主、玉木がまた性懲りなく須藤元気に出馬要請したとかいう話流れてて、
反ワクなのか、
(反ワクでないにしろ)反ワクが悪いとも思ってない馬鹿なのか、
それとも、話題性のある人さえ出馬させれば票が貰えると思って有権者馬鹿にしてるだけなのかなんなんだ?
現役世代を優先するという政策的には応援したい政党ではあるが、玉木の戦略がクソすぎるのは許しがたい
いい加減にしないと切れるぞ
私も恋愛から降りたうえで思うんですが、元増田の選択を執拗に非難している人は全体主義者だと思います。
私が降りた理由はモテなかったからや自身の加害性云々ではありません。
コミュニケーションのゲージを仕事ですべて使い切っていて恋愛がかなりきつかったからです。
こう言うと「相手が悪かったのでは?再チャレンジを!」という強要者が出てくるかもしれないですけど、3人と付き合って全員きつかったのでさすがに私が悪いと思いました。
あとここで「仕事が悪い」とか言い出す人もいますが、私は仕事が悪いとは全然思っていません。仕事におけるコミュニケーションよりプライベートのコミュニケーションのほうがレンジが広くて本質的にきついんです。
仕事は範囲が狭くてプライベートは範囲が広い。友人とは一緒に過ごすのが3時間がMAXという付き合い方をしても異常とはされないが、恋人とはそれ以上の長時間を一緒に過ごさないと異常ということになる。夫婦となると恋人以上の長時間になる。確実に壊れます。
そもそも「職場では気を張っているが、恋人や家族との間では気を抜くことができる」という感覚が私には分かりません。一人にならないと気を抜くこと、回復することはできません。
恋人がいる状態のとき2泊3日の旅行で本気で壊れそうになり、ホテルの部屋の外のトイレにこもって発狂し、その後心療内科に行き、回避性パーソナリティ障害だと診断されました。
恋愛・結婚・生殖に必死になるべきだというのは幸福追求というより倫理・道徳です。
生殖に競争が働いていないと次世代の国民の質が担保できないという恐怖感が、社会性がある人にほどあります。
実際に露と中はおかしく、米も変になってきているので、国防の観点は必要です。
ただ国防について国際政治について四六時中考えているわけでもないような人でも「集団の本能」のように、
「お国のために誰一人として生殖の競争から降りるな」という全体主義的な感覚は持っているんです。
恋愛・性行為という餌につられて次世代の労働者・兵隊を作ってくれと言う要請ですよね。
餌だけを頂いて再生産にはつながらない不倫やら風俗やらも叩かれている。
降りることも、餌だけを頂くことも、全体の利益につながらない。利己的、個人主義的なんです。
すでに生まれてしまって今生きている人が死ぬまでの間を安全に暮らすために次世代の国防人材・生産人材・納税者が必要で、恋愛と生殖はそのための半ば義務。
だから苦痛を感じた人が降りようとすると無関係な他人からも袋叩きにされる。
やらないと無関係な他人から袋叩きにされることというのは、離脱する人が多くなると全体が損をすることです。
趣味で創作をやることに興味持たない人が「創作しろ」と袋叩きされるようなことが起こらないのは、娯楽がすでに飽和して供給過剰で、誰も「創作不足」に困ってないからです。
「お国のために競争に参加しろ」というならまだわかります。「お前のために言ってやっている」という言い方をされるのが気持ち悪い。
異性関係には癒されない、救われない、苦しい、壊れそうになる、と個人として言っているのが無視される。
別に恋愛強要や降りることへの非難を続けても良いですけど、自認リベラルだけはやめろよと思います。恋愛強要者の本質は全体主義のくせに。
まず是正されるべきは、対象=ブレーン、射=弦という古典的・実在論的な同定を圏論的出発点に据える錯誤である。この素朴な同一視は、現代的なコボルディズム仮説の文脈では理論的整合性を欠いている。なぜなら、局所量子場理論(LQFT)の完全拡張において、対象や射は固定された「実体」ではなく、コボルディズム圏の階層構造における境界データの代数的指標にすぎないからである。
完全拡張TQFTの定義に基づけば、理論とは対称モノイド (∞, n)-圏 Bord_n から、ある「ターゲット (∞, n)-圏」 C への対称モノイド関手 Z: Bord_n → C そのものである。ここでは、対象(0-射)とは0次元の点という境界データであり、弦(1次元)は1-射、p-ブレーン(p+1次元の時空体積)は(p+1)-射として回収される。したがって、ブレーンを安易に対象(0-射)と呼ぶ行為は、コボルディズム圏の階層構造を低次元へ射影し、高次コヒーレンス情報を不可逆的に欠損させるカテゴリー的退行に他ならない。
この誤謬は、弱∞-圏の必要性を弦の分岐・結合という物理的直観から説明しようとする転倒した論理にも現れている。正しくはその逆である。弱∞-圏性は、場の理論が要請する局所性と完全拡張性から数学的に強制される構造である。弦の相互作用や分岐は、高次射が満たすべき随伴性やコヒーレンス条件の物理的発現の一形態にすぎない。高次射は実在論的な相互作用の結果として生じるのではなく、理論が局所的であるための必然的帰結としてあらかじめ構造化されているのである。
超弦理論を一次元的に切り詰められた部分圏と見なす理解も、安定ホモトピー論および非アルキメデス幾何学の観点から修正を要する。超弦理論において起きているのは、単なる次元の忘却ではない。それは、理論が依拠する基礎的幾何学を実数体上の滑らかな多様体という特定の基礎トポスに固定する、いわば幾何的ゲージ固定である。
ここでp進弦理論は決定的な教訓を与える。p進弦において世界面の解析構造は非アルキメデス的であり、実解析的な局所性は喪失している。にもかかわらず、散乱振幅の代数的骨格(ベネツィアーノ振幅等)が保存されるという事実は、弦理論の本質が特定の幾何(一次元性)にあるのではなく、振幅を生成する E∞ 環スペクトル 的な、より深層の安定ホモトピー的データにあることを示唆している。
この地平において、M理論と超弦理論の関係を反映や左随伴といった1-圏論的な語彙で記述するのは不適当である。M理論とは、特定の時空次元や多様体構造に拘束されない、安定∞-圏あるいはスペクトル圏をターゲットとする Meta-TQFT と定義されるべきである。
そこでは、弦が射であるか対象であるかという区別すら不変ではなく、Span構成や反復ループ空間構造(Ω^n)の下で、どの次元を境界データとして選択するかというホモトピー的なゲージ選択の残滓として、弦やブレーンの境界が析出する。
T双対性やS双対性を自然変換と呼称するのも階層が低い。双対性とは、単なる関手間の変換ではなく、ターゲットとなる理論値∞-圏そのものの自己同値、あるいはE∞ 環スペクトルの自己同型として記述されるべきものである。問題の本質は可逆性の有無ではなく、どの安定コホモロジー理論、あるいはどの形式群が保存されるかという、安定ホモトピー圏における構造保存の様相にある。
M理論は圏論的環境であり、超弦理論はその可視化であるという直観は、方向性においてのみ妥当であるが、定式化の厳密さを欠く。正しくは以下のように記述されるべきである。
M理論とは、特定の時空幾何や基礎体に依存しない、完全拡張量子場理論が取り得る全空間を統御する安定∞-圏的インフラストラクチャであり、理論が数学的に存立するための普遍的制約条件(コヒーレンス)の総体である。
対して超弦理論とは、そのメタ構造に対し、実解析的時空、多様体的局所性。摂動的可観測性という制約を課した際に析出する一つの表現である。p進弦理論やトポロジカル弦理論は、同じメタ構造から別の基礎トポス(あるいは安定ホモトピー論的データ)を選択した際に得られる、並列的な表現に他ならない。
したがって、両者の差異は包含でも統一でもなく、どの圏論的・ホモトピー論的情報を物理的実在として顕在化させるかという、観測基底の選択の差に他ならないのである。
日本の司法が「加害者に甘い」と言われがちなのは、感覚としては分かる部分がある。
国際比較で見ると、それは単純な怠慢や弱腰というより、「どういう司法を良しとするか」という思想と運用の結果としてそう見えている、というのが実態に近い。
日本では民事で勝ってもお金が戻ってこないケースが本当に多い。
賠償命令が出ても、払わない、財産を隠す、事実上の無資力を装う、そういう相手に対して、裁判所は「判決を出すところまで」しか面倒を見ない。
回収は原告の責任、という設計なので、「勝ったのに泣き寝入り」が起きやすい。
出頭要請や和解勧告を無視しても、欠席裁判で不利になるだけで、直接的な制裁はほとんどない。
刑事でも、強制措置はかなり慎重。結果として「無視しても大きな実害はない」と感じさせてしまう構造がある。
刑事罰も国際的に見ると軽めで、特に経済犯罪や過失犯は、初犯や反省、示談成立で一気に執行猶予になることが多い。
被害者側の感情と、実際に科される処罰の重さが噛み合わず、強い不満が残りやすい。
アメリカやイギリスでは、懲罰的損害賠償があり、裁判所命令に従わなければ法廷侮辱罪で即制裁される。
財産開示や差し押さえも強力で、「命令を無視する」という選択肢自体が取りにくい。
ドイツやフランスも思想は日本に近いけれど、実務レベルでは強制執行や行政制裁が効いていて、少なくとも日本ほど簡単に逃げ切れない。
日本の司法は、懲罰的な賠償を原則認めず、刑事では更生と社会復帰を重視し、国家が私人間の争いに深く介入しないように設計されている。
その結果、悪意のある加害者や、制度の隙を突いて逃げる人にとっては「耐久戦」が成立しやすくなっている。ここが「守りすぎではないか」と批判される理由。
ただ、思想としては一貫していて、国家権力による強制をできるだけ抑え、誤判や冤罪、過剰制裁を極端に避ける、という方向を優先してきた。
一方で、刑罰の重さ、民事回収の実効性、命令不履行への制裁は弱い、という評価になる。
日本の司法は「加害者をえこひいきしている」というより、「国家が私人に強制力を使うことを極端に嫌う司法」だと見られている。
最近は財産開示の強化や逃げ得防止、性犯罪やハラスメントの厳罰化など、被害者側に寄せる修正も進んでいるけれど、根っこの思想は今も「強い司法」より「慎重な司法」のままだ、というのが現状。
「医師」と一言で言っても、実は医師の年代によって全然別の生き物である。
まずここからの話をする上でヒポクラテスの誓いは知っておいてほしい
その上で。
The 「お医者様」 世代。社会的に名実ともにエリート。当時は特権階級だった。法律や司法判断よりも医師の判断や裁量の方が優先された時代。
収入も社会一般に比べて非常に高く、一流経営者や資本家以外には劣後しなかった。
その分あんまり金策とかコスパとか考える必要はなく、儲からない患者だろうがそうでなかろうが、全力を尽くしていた。
科も単に自分の興味とかあるいは周りからの要請(先輩との関係、家業との関係、行政との関係、等)で選んでいた。
入院患者がいたら毎日足を運んで様子を見に行くのは当たり前。自分の生活とかワークライフバランスとか気にしてない。
自分の行動で少しでも患者の生存率とか治療成績が上がるならそれをする、逆に診に行かないことで下がるなら絶対に休まない。
ピアプレッシャーも強い。医局という全国に分散したギルドに所属して認められていないと、そもそも就職できないし開業もできない。
医師免許は基本的に重大な犯罪を犯さなければ失効しないが、一方で、変な治療や振る舞いをしたら医局に睨まれて失脚し実質的に失業する。
だから金儲けのために医療行為をするとか、そもそも治療ではない医行為(美容外科とか)をするとか、発想がないしできもしない。
医師というのは職業の一つではなく「生き方」であり「そういう生き物」として扱われていた世代。
そしてみんなそう生きていたからあまり他の生き方に目を向けない。
JBM (Judged Based Medicine) が始まってきた世代。医師として最善を尽くしていてもいきなり訴えられてトンデモ判決で負けることがある。最悪逮捕すらされる。そういうことを見聞きしてきた世代。
防衛医療の始まり。インフォームド・コンセントが実地で重視されてきた世代(しないと訴えられるから)。
「患者のためにする自分が最善だと思う医療」を提供できないし、してはいけない。診察では裁判所が定めた医療をしなければならないことからくる書類地獄が始まった世代。
この世代から、社会の理不尽に揉まれ、「良いと思うこと」はできないことで、「医者の万能感」は消え去ってくる。
でもメンタリティ的には60代に近い。休みだろうが深夜だろうが毎日病棟には行く。患者と顔を合わせる。
収入もギリギリ「医者=超高収入」だった世代。教授が講演をすれば1発50-100万円、製薬会社が超高級ディナーとかでこぞって接待してきた最後の世代。
マージナル世代。何がマージナルかというと、医師が生き方なのか、ただの職業の一つにしか過ぎないのか、の価値観の転換期。
一番大きいのはこの世代で医局制度が崩壊したこと。スーパーローテ(新臨床研究制度)が始まったこと。
古来医者というのはギルド制に支えられていた。ヒポクラテスの誓いの段階から既に「医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。」と言われている通り、本来は医師のスキルは徒弟制であった。
EBM: Evidence Based Medicineや標準化医療は当たり前の存在であるが、そもそもそれらはそれを吸収するだけの素地ができていないとお題目にしか過ぎない。
医学部を卒業しただけの者がガイドラインをたくさん読んだからって本当のお医者さんにはけしてなれない。「教えてくれる人」の存在が常に必要である。
「医局に入る」というのは「一生仕える師匠たちを決める」重大な儀式であった。実際にどんなに偉いお医者さんでも当時の指導医には頭が上がらず、自分の病院の顧問に招聘するなんてのは(50-60代以上のDrだと)よくあること。
しかし初期臨床研修制度はそれを破壊した。「弟子に学問と技術を伝える」ことは単に「臨床研修指定病院で、役人が作ったリストに基づいて行われるケースレポートを作れるよう(各科が片手間で各自で)指導すること」に矮小化された。
しかしこの世代は後期研修(専門医研修)からはまだ昔の医局の名残が残っている。大学病院かそれに準じる大病院にしか専門研修はできなかったので、後期研修からが本当の学習の本番で、入った先には上記世代のDrから直接濃密な指導を受けた。
一方で、後から入ってくる世代は生き物として明らかに違う世代で、それを教育しなければならない(でも誰のために?)という悩みの板挟みに遭った世代。
あと金銭的には、製薬会社の「コード」と呼ばれる業界横並び自主規制・コストカットが始まり、「お医者さんの接待漬け」や「高額謝礼」等は「自分の指導医は受けていたのを知っているが…」「一瞬だけお世話になったが…」という世代。医者だからおいしい思いをしたという経験はない世代。
臨床研修が一般化し、プレ国家試験たるCBTやOSCEも運用が軌道に乗り、また様々な研修や専門医やガイドライン等が本格的にお役所的(官僚的)に運用されてきた世代。
この世代からは医者の特権階級感はゼロ。手続き的正当性に準じなければいけない、ルールに従わなければならない、自分たちは標準化医療を提供するただのコマである、という自認を持つ世代。
ただ、医者としてのキャリアのレールは医局制度が完全に崩壊したあとの「自由キャリア制度」をベースにしているため、フリーハンドを手にしている。美容外科に行ったり、民間企業に勤めたり、コンサルタントになってみたりする、「変わり者」医師が激増し、「変わり者」ではなくなってきた時代。
医療や医師は聖職ではなく、ただのサービスであり、患者が求めるなら病気でも何でもない体にメスを入れても別にいいんじゃないの? 場合によっては害があっても知ったこっちゃない、という、医師のモラルハザードが顕在化した世代。
「患者に害をなさない」というヒポクラテスの誓いはもはや有名無実化した。
ちなみに諸外国はこのフェーズを20年くらい前に通り過ぎている。韓国とかもそうだが、医師のクオリティコントロールを医師ギルド(日本の場合は医局がそれであった。ヨーロッパの場合は「医師会」がそれを担保しているところはある)ではなく、単に国・政府が官僚機構の一貫として行っている国は、例外なく、商業主義に毒されるし、質も低下していく。だって医師の医療の質なんて、同じ分野の治療をしている他の医者にしか分かんないんだから。だから、自分の技量と質と姿勢・スタンスを正しく評価できる人からのピアプレッシャーが存在しなくなってしまったら、ほとんどの医師は堕落する。にんげんだもの。
たとえば2020年代前半に患者の解剖風景をSNSに上げて大炎上した美容外科医がいたが、彼(彼女)が医療行為をする権利を誰も取り上げることは今はできない。昔は当該Dr.の所属医局が社会的に処刑し抹殺した例である(他の医局支配地域に行ったとしてもそこは横の連携でやはり村八分は継続する)。しかしギルドが解体された現代日本では誰も圧力をかけられない。明確な重大犯罪でなければ厚労省(医道審議会)は動かない。そしてむしろ炎上したほうが客は集まりうるという最悪の展開。
医者が割に合わない職業になってしまった世代。保険診療はなぜか社会から叩かれ、インフレで貨幣価値が低下する中、大して高給取りでもないのに過去の「儲けている」という数十年遅れの印象に左右され世論から叩かれる可哀想な世代。
偏差値で上から半分程度の医学部に受かる人は基本的に東大文II/IIIや理IIくらいなら楽勝で受かる人たちであり、同等程度の学歴と体力とコミュ力を持つ人は金融や商社で30手前で年収約2000万円を稼げるし、その後は2000-3000万円も狙えるのに(2026年現在の貨幣価値)、医者はこのインフレで給料が上がるどころか保険診療のために年収は低下さえしているという、本当に経済的に割に合わなくなってしまった世代。
「収入を求めるなら医者になってはいけない」ということが、受験生の頃からなんとなく共通認識として存在しはじめた世代。なので初期臨床研修が終わったら「直美」に行ってしまうのもメジャーな選択肢になってきたし、働き方改革で楽になった分、研修が終わったアフター5で(医師以外の)副業や起業をすることも珍しくはなくなった世代。
また、50-60代Dr.と直接一緒に仕事をすることは稀であるし、彼らもそろそろ体力的にきついため、「患者に尽くす医師」というロールモデルを現実の目で見ることが乏しくなってきた世代。
上に書いたように、以前は本当にレジデント(実質的に病院に住んでいる人たち)であった初期臨床研修医が、国からの指導で「9時17時にしなければならない」となったために、すべての病院でゆとり勤務が達成された。
このため、「身を粉にして働くの何か意味があるの?」「自分の勤務時間じゃないのに患者を診にいくことに何の意味が?」とナチュラルに価値観にインプットされた世代。そんな暇があったら副業しないとお金稼げないからね。配信もしたいしね。
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「原作の決めシーンのコマを再現して派手なエフェクトかければOK」みたいなアニメ、バストアップと俯瞰ばっかでとにかく画面がつまらないんだよなぁ…などと素人として思う。
再現部分もなんか迫力に欠けたりしててさぁ…アニメに合わせたレイアウトのアレンジとかいるんじゃない?と素人に思わせてる時点でちょっとね…。
「社会的弱者の男性がエッセイ漫画を描くとき、作者のアバター(主人公キャラ)を萌え美少女にする」――この現象は、単なる趣味や作画コストの問題だけでは説明しきれない。むしろ、作者がどのように社会的役割と結びついているか、そして読者の視線から自分をどう守り、どう語りたいか、という"語りの設計"に関わる問題として捉えると見通しがよくなる。
コミックエッセイ(実録・体験談ベースの漫画)では、作者はしばしば自分自身を作品内に登場させる。ここで作られる「作者アバター」は、単に似顔絵ではなく、読者に対して「誰が、どの立場から、どんな調子で語るのか」を瞬時に理解させる看板でもある。したがってアバターの性別・年齢感・デザインは、内容そのものと同じくらい強いメッセージを持ちうる。
一般向けに書籍化され流通しているコミックエッセイには、男性作者が男性アバターで描く例が多い。ここでは、ビジネスマン生活、夫婦生活、子育て、ペット、日常の小ネタなど、「男性として社会に参加している姿(役割を果たしている姿)」が語りの前提になりやすい。
具体的には、『ぼく、オタリーマン。』(よしたに)、『大家さんと僕』(矢部太郎)、『うちの妻ってどうでしょう?』(福満しげゆき)、『本当にあったお金の怖い話』(二ノ宮との)、『鴻池剛と猫のぽんた ニャアアアン! 』(鴻池剛)などが男性作者による男性アバター作品として確認できる。男性による育児エッセイ漫画についても、アバターキャラは男性である。
このタイプの作品では、性別変更をわざわざ行う必然性が小さい。むしろ「作者=そのままの自分」であることが、エッセイとしての信用・通りのよさ・説明コストの低さにつながる。福満しげゆきや桜壱バーゲンなど、実物が整っていても作中では自分を地味・冴えない・醜い側に寄せて描くことがあるが、これは「盛って見せる」よりも「弱く見せる」ほうが笑いと共感を取りやすく、後述するような反発も招きにくいというコメディの安全策として理解できる。
女性作者の場合、女性アバターは「画数が少なくて早い」「表情が描きやすい」など合理性からシンプル化されやすい(『ダーリンは外国人』など)。また自虐やコメディのために、あえて"女を捨てた"造形(『いかゴリラ』のような崩した自画像、『つづ井さん』のように自分を下げ気味に描き友人を美人に描くパターン)を選ぶこともある。ここまでは「女性が女性を描く」範囲の振れ幅と言える。
興味深いのは、女性作者が女性性を出したくないときに、「イケメン男子高校生に置き換える」方向へ行かず、白ハゲ的記号化や、人外・動物の方向へ行きやすい点である。
荒川弘の牛。出身が北海道の酪農家であることと結びつけて説明されることが多い。吾峠呼世晴のワニ、通称「ワニ先生」としても知られている。ひうらさとるは『御かぞくさま御いっこう』では自身をデフォルメされた「もぐら」として描いている。
男性と違い、女性がアバターキャラを若く美形の異性に設定する例を見たことがない。この「女性は性別を薄める/人外化するが、イケメン化はしにくい」という傾向は、「弱者男性が美少女化する」現象と、鏡像の関係にあるように見える。
一方で、男性作者が美少女アバターを用いる例も確かにある。観察上、ここには偏りがある。たとえば以下のようなテーマが集まりやすい。
また、この種の作品は書店で「棚の中の本」として出会うより、SNSでバズって「突然視界に入ってくる」経路になりやすい。すると作者は、最初の数秒で読者に「これは攻撃していい対象ではなく、読んでいい語りだ」と理解させる必要がある。美少女アバターは、その導入装置として非常に強い。
ここで重要なのは、「美少女が主役だから内容が軽い」という意味ではない。むしろ逆で、重い・気まずい・生々しい内容を"読める形"に整形するために、美少女というフィルターが使われている可能性がある。
ここまでの観察を、ひとつの仮説にまとめる。
ここでの美少女化は、自己否定でも現実逃避でもなく、「語り手の身体」を作り直して語りを成立させる編集技法、と位置づけられる。
美少女アバターが睾丸の病気や前立腺の病気、風俗ルポなど男性器関係のテーマを扱う頻度が高い理由についても、仮説を立てることができる。
男性器や男性特有疾患の話題は、当事者男性がそのまま男性の姿で語ると、「気持ち悪い」「下ネタ」などの嫌悪的な受け取り方を誘発しやすい。そこで美少女アバターは、内容を"説明可能な苦痛"へ変換する緩衝材になる。つまり読者にとっては、「男性の生々しさ」ではなく「キャラクターの災難」として入口が開き、作者にとっては「言っていい形」に梱包できる。
さらに踏み込めば、ここには一種の願望も混ざる。「男性特有の苦しみ」を、社会的に庇護されやすい存在(美少女)に引き受けさせることで、苦痛の正当性や悲惨さを"理解されやすい形"にしたい、という欲望である。これは、男性妊娠をテーマとしたフィクションや、男性に電気ショックを与えて生理の苦痛を分からせる装置など、女性特有の苦しみを男体に分からせる試みを好む人がミサンドリー女性に多いのと同じで、男性特有の苦しみ(男性器の疾患や、過剰な性欲と性的需要の無さなど)を美少女に分からせたいというミソジニー的な願望が、男性器関係の苦痛を味わう美少女アバターとして表現されているのではないか。
アバター戦略には"かわいくする/人外化する"だけでなく、"美形化しない"という消極的選択も含まれる。同性の美形アバターは、実像が露呈した瞬間に「理想と現実の落差」が嘲笑へ転化しやすい。
星見蒼人という人物が、ネット上で"イケメン"方向の自己像で活動していたが、都青少年健全育成条例違反(淫行)の疑いで逮捕され顔がテレビニュースで公開されたときに、実物とイケメンアバターとのギャップが酷かったため嘲笑の的となった。
女性側でも、自己像を美化した(と受け取られた)自己語りが「全身アルマーニ(全ア)」と揶揄されているように、「同性美形アバターキャラ」は男女問わず露呈時の吊し上げと接続しやすい。
アバターキャラを同性の美形にすると、実物の実態がバレたときには男女問わず激しい嘲笑やつるし上げを受けるという要素も、アバター選択の重要な制約条件として機能している。
ただし、この仮説は万能ではない。美少女アバターには「美少女しか描いてこなかったのでこれしか描けない」「読まれるためのマーケティング」といった要因も混ざるし、個々の作者の意図は作品ごとに違うはずだ。
それでも、「どの領域で、どんな語りのときに性別変更が起きやすいか」を並べてみると、アバターは自己表現ではなく"読者との交渉"の結果として選ばれている面が見えてくる。美少女化は、その交渉を一気に成立させる強力な道具であり、同時に「男性のまま語ることが難しい」状況の反映でもある。
「『二つの悪は二つの正義を作らない(Two wrongs don’t make two rights.)』とでもいうべき原理が重要です。チョムスキーの主張はその逆。『どちらも悪いのだから互いに相手を責められない』という理屈は、一見誠実ですが、どちらの悪も許してしまっている。つまり、自己批判の倫理的根拠をも掘り崩しているのです。『米国よ、ロシアを裁く資格があるのか』という主張は結局、強国が他国を抑圧するという悪を容認しあう『悪のなれ合い』です」
「ハマスの民間人虐殺に憤るイスラエル国民の間では、自軍によるガザ住民虐殺を当然の報いと見る者も多い。自国の戦争犯罪が敵のそれで帳消しにされるという論理は、それぞれの悪を相乗的に積み重ねることを合理化する危険な詭弁です」
「この倒錯的な『二悪が二正を作る』論は、実は我々人間が陥りやすい落とし穴です。とりわけ戦争責任論をめぐる議論に、この自己正当化欲求が典型的に表れています」
――いわゆる「勝者の裁き」批判ですね。
「そうです。第2次大戦後のニュルンベルク裁判や東京裁判に対して、ドイツや日本からいまだに上がり続けています。これは、『何人も自己の事件の裁判官たりえず』という法原理に反する、という手続き的欠陥の指摘というよりも、『連合国の国々も植民地支配や侵略を行ってきたし、原爆や無差別爆撃という戦争犯罪も犯したのに、なぜ我々だけ断罪されなければならないのか』という実体的な不満です。敗戦国の私たちに強い心理的訴求力を持つ言説ですが、極めて自壊的です」
「裁く側の二重基準を、裁かれる側が批判するのは正しい。ただ、『お前らが裁かれないなら我々も許される』という二悪二正論に開き直る者は、公正な裁きが依拠する政治道徳原理の規範性を否定しているのです。『勝者の正義』の欺瞞(ぎまん)を真に正そうとするなら、この原理を尊重し自らの悪を認めたうえで、相手を裁き返さなければならないのです」
「弱き者は強き者が作る秩序に従え、という『力の論理』に迎合するシニシズムをこれ以上、広げないためには、ウクライナ戦争もガザ戦争も、正義が回復されるかたちで終結させなければなりません」
――力の支配ではなく、法の支配によって実現すべき「正義」とは、いったい何でしょう。
「その前に、法とは何か、そして法は正義とどう絡むのか、考えてみましょう。すなわち『悪法も法なのか』という問題です。これをめぐっては、法実証主義と自然法論の伝統的な対立があります。前者では、法を実定法に限定し、正義とは切り離します。そのため、それぞれの社会の価値観に基づく法が制定され、調停不能に陥って『文明の衝突』を招きかねません。一方で後者は、客観的正義たる自然法に反するものは法ではない、と主張します。こちらはこちらで、無政府主義を呼び込みかねません」
「私はどちらでもなく、『法は正義への企てである』と規定します。法は正義を真摯(しんし)に追求している限りにおいて法たり得る、という立場です。その意味では国際法も、世界正義への企てだと捉えます」
「それでは『正義』とは何でしょうか。一口に正義といっても、それを全体利益の最大化と見なす功利主義や、個人の自由や権利を絶対視するリバタリアニズムなど、その具体的基準に関し、様々な思想が対立競合しています。ただ、これらはすべて『正義の諸構想(conceptions of justice)』です。様々な立場が競合できるのは、それらに通底する共通制約原理があるから。それが『正義概念(the concept of justice)』です」
「私が考える正義概念の規範は、『普遍化が不可能な差別は禁止する』です。分かりやすく言えば、『得するのが自分だからいい』『損するのが他者だからいい』という要求や行動を排除せよ、ということです。この規範は『自分の行動や要求が、他者と視点や立場を反転させても正当化できるかどうか吟味しなさい』という、反転可能性テストも要請します」
「この正義概念は、何が最善の正義構想かを一義的に特定はしませんが、およそ正義構想の名に値しないものを排除する消極的制約原理として強い規範的な統制力をもちます。それは『正義のレース』の優勝者を決める判定基準ではなく、このレースへの参加資格をテストするものです」
「他者の負担にただ乗りするフリーライダーや、ご都合主義的なダブルスタンダードは、この厳しいテストが課すハードルを越えられません。外国人に正当な権利を保障せずに労働力を搾取する。民主主義や人権を掲げてイラクに侵攻しながら、専制的首長国家のクウェートやサウジアラビアとは友好関係を維持する。ハマスの戦争責任は問うのに、イスラエルの蛮行は座視する――これらは明確に正義概念に反しています」
「自らの正義構想に照らして正当性(rightness)がないと見なす政治的決定でも、共通の正義概念に照らして公正な政治的競争のルールに従ってなされたのなら、正統性(legitimacy)あるものとして尊重しなければならない。このルールを保障するのが『法の支配』です。立憲主義とは、この『法の支配』の理念を、成文憲法のなかに具現化するものです」
「正義の諸構想が国内社会以上に鋭く分裂し対立する国際社会においても、『正義概念』の共通原理に基づいて、安全保障体制や法秩序が築かれる必要があります。例えば、人道的介入をうたいながら大国の友好国か敵対国かによって選別的に武力行使を発動するのでは、正統性を調達することはできないのです」
「米国はバイデン政権時代、イスラエルの戦争犯罪を追及する国際刑事裁判所(ICC)がネタニヤフ首相らへの逮捕状を発行したことを強く非難しました。一方で、ロシアが報復措置まで取ったプーチン大統領への逮捕状は正当とし、自らはICCに加盟していないにもかかわらず、各国に逮捕への協力を求めました。このあからさまな二重基準は、誰の戦争犯罪であれ厳正に裁くというICCに託された国際法の使命をおとしめるものです」
されど国連 夢の断片を回収し修復を
――世界正義を貫徹し、実現するには、どのような具体的措置が必要ですか。
「世界では今、欧州連合(EU)のような『超国家体』や、巨大多国籍企業や国際NGOなどの『脱国家体』の存在感が増しています。しかしどちらも、民主性や説明責任の欠如といった欠陥を抱えている。私は、やはり主権国家を中心にしたシステムを再評価すべきだと考えます」
「国内で至上の権力をもつ危険物である主権国家は、個人の人権を保障するという責任を果たすことによってのみ承認され、存在し得ます。世界は『諸国家のムラ』であり、その基本原理は、国力格差にかかわらず平等に扱う『主権対等原則』です。もちろん、これは一つの虚構です。しかし虚構だからこそ、巨大な力の格差という現実を補正し、大国の横暴に抗する規範として意義を持ちます。このムラでは、どの国も他の国に依存せずには生き残れない。国際法というおきてを破った国は、この互酬性ネットワークから村八分の制裁が科されるからです」
「国連は現在、様々な欠点があるとはいえ、国際的正統性を調達し、諸国家や超国家体、脱国家体などが連携し調整を図る上で、最も広範な包含力を持ちます。もちろん、戦勝国支配の残滓(ざんし)である常任理事国の拒否権を制約するなど、安保理改革は必須です。そのための国連憲章改正にも、5大国は拒否権を行使できます。でもそれは結局、自分たちの国際的威信を低下させ、軍事力・経済力以上に重要な正統性調達力というソフトパワーを毀損(きそん)することになる。他の国々が団結して非難の声を上げれば、国際的圧力に耐え続けることは難しいはずです」
「先ほど私は『国連の夢は破れた』と言いました。人類が自らに加えた殺戮(さつりく)と迫害の罪業はあまりに巨大で、それを克服する試みは20世紀中に達成できなかった。21世紀の四半世紀が過ぎても、克服できていません。しかし、夢は消えたわけではない。破れた夢の断片を再回収し、修復し、より強靱(きょうじん)なものに再編する――その地道な努力を続けなければなりません。私たちに、他に選択肢はないのです」
井上達夫さん
いのうえ・たつお 1954年生まれ。95年から2020年まで東京大学大学院法学政治学研究科教授を務め、現在は東京大学名誉教授。「法という企て」「現代の貧困」「世界正義論」「立憲主義という企て」「普遍の再生」「規範と法命題」「ウクライナ戦争と向き合う」「悪が勝つのか?」など著書多数。