はてなキーワード: 東京裁判とは
ゴジラみた。
感想。
面白かった。
戦中戦後をほどほどに知っているからか、各人のセリフや舞台、話の展開に違和感がすごいあった。
(以下ネタバレを含む。)
だって当時の日本人の玉砕せずに逃げたときの負い目は本当に壮絶なものだったし、特攻に子をやる両親が「生きて帰ってこい」などというはずがないし、45年12月の東京は瓦礫の山ではないし(東京大空襲から半年以上経っている)、
米ソ対立がまだそんなでもなかった47年に米軍が軍事行動を避けたいっていうの変だしそれを理由に軍艦を返すのは無茶苦茶だし、てかまだ東京裁判中だし誰がその船動かすんだって話だし、
朝鮮戦争前の碌な産業がなかった当時に女性が銀座で事務で働けるわけないし。
まあその辺りは枝葉末節なのでいいんだけど。
戦後間もない人たちが「いのちだいじに」が基本指針なわけないじゃん。
戦後復興のためにどれだけの人間が命を賭して頑張ってきたと思ってるんだ。
東海道新幹線、首都高速、黒部ダム、その他数多くの現代社会を支えるインフラは戦後の人たち、戦争を生き残った昭和の人たちの犠牲の上にある。
というかほんとつい最近まで命より仕事の方が大事だったじゃん、KAROSHIは戦前の言葉じゃないよ?
メンタルは戦前戦中のままに武力に費やしてたリソースを経済活動に全ツッパして走り抜けたのが昭和という時代だよ。
なのにゴジラをまえに全員助かるつもりで戦おう!みたいな?おまえらみんな令和からタイムスリップしてきたのかよ、ってくらい現代的な価値観で物事がすすんでいくので現実日本とのギャップをどうしてもすごく感じてしまった。
でもその違和感を感じない状態、つまり自分が日本のことをうっすらとしか知らないアメリカ人にでもなったつもりでこの映画を見たとしたらかなり楽しめたと思う。
映像頑張ってるし、歴代最高レベルでゴジラカッコいいし、音楽のタイミング最高だったし、展開はベタベタだけど綺麗に終わったし。
幕府の領地を接収して、官僚の恩給にする計画があったからとしか
1 徳川は、オランダ東インド会社の支援で各藩の鉱山を幕領とし(リーフデ号)、金銀銅の輸出によって体制を維持していた
2 オランダは英蘭戦争の結果、国力が衰退し、1804年には仏ナポレオンに占領された(江戸幕府はそれで仏軍を軍事顧問にした)
4 1840年、イギリスは硫黄を巡ってイタリアの海上封鎖を試みて勝ったが、日本とも貿易をしたかった
6 幕府は鎖国体制でいたので黒船に攻撃させ、各藩の貿易規制も緩和させた
7 ただ幕府と各藩主と条約したとしても、幕府が倒されて政権が変われば条約破棄もされかねない、それならいっそ、幕府が倒れても条約が継続する天皇制にしてもらいたい
8 イギリスは日本駐在の英字新聞社を通して天皇制の必要を解き、支持藩を増やした(英国策論)
9 どこかの藩が外国船を攻撃したりするので、幕府は海軍増強に務めるが、米大統領リンカーンに軍艦の輸入を止められてしまう
10 薩長は天領の石高400万石を使って官吏軍人の恩給制度を作る計画をたて、公家を味方につける
11 問題は天領にいる旗本や会津などの佐幕派は、徳川が引退しても利権を離さないに違いない、できれば根絶やしにしたい、あとロシアが近い蝦夷にも兵をおいて天皇の管轄にしておきたい
12 1967年11月に大政奉還が行われたが、倒幕派はしつこく放火などで騒動をおこし、それに対し幕府は薩摩藩邸焼き討ちで報復
13 新政府は徳川慶喜にも難題を押し付けて蜂起させたうえ、死罪1名に付き一家3名死罪とする刑法を作った
14 幕府の軍で警察でもあった会津藩などは当然に反発し戊辰戦争が拡大するが、幕府側には仏兵、新政府側には英米兵も従軍し、はんば代理戦争となった、軍事物資もかなり輸入された
15 佐幕派は敗北し、新設の東京裁判所は首謀者らを一家死刑にして勢力を削ぎ、ゲルマン利権を確保(そのあとで刑法を穏健なものに改正)
16 1874年には大久保がドイツから明治通宝印刷機を購入し、新札を元手にのちの西南戦争も鎮圧
17 木戸は1975年頃から本当に公家軍人官吏の恩給制度を作りはじめ(現代の1.5兆円ぐらいがかかった)、そのことで農民が搾取されるようになった(パウル・マイエット談)
18 鉱山は新政府側の人間が乗っ取り、新たに家督優遇相続制度が作られ、二男三男は工場労働者か兵隊になり、貧しい農村の娘は売られ、地方と中央の格差は拡大
19 天皇にガーター勲章を与えたイギリスのために日清戦争、日露戦争もしたが、現地には入院施設も準備されず、負傷者は赤十字神戸丸で佐世保海軍病院まで連れ戻されていた
俺の思想はこんな感じ
アメリカも共産主義もどちらも大嫌い。でも強いて言うなら前者の方がまだまし
日本にはろくな政党が無いので嫌々一番マシな自民に投票している。決して自民が好きなわけでは無い
憲法改正はどちらかと言えば賛成
原発賛成
安倍の国葬は反対、でも共産、れいわ支持者が顔真っ赤にして発狂するのは正直見てみたい
ウクライナを支持する、でも真珠湾発言や天皇陛下戦犯扱いの件もあり、冷めた目で見るようになった。
太平洋戦争は自衛戦争、東京裁判は一方的なリンチで裁判とは言えない、パール判事を全面的に支持。ニュルンベルク裁判も野蛮な復讐劇
しかし、東南アジア侵略はどうあがいても擁護不可能で同じ日本人として恥ずかしく思う。東南アジア侵略を正当化する人間は心から軽蔑する
東郷平八郎、乃木希典、大山巌、石原莞爾、栗林忠道、樋口季一郎、根本博を尊敬する
東條英機については一方的に悪者扱いされるのは胸糞悪いが、戦前、戦時中の行動が無能すぎるので正直同情できない
ヒトラーは悪く言われすぎ。コロンブス、コルテス、ピサロ、レオポルト2世、ルーズベルト、トルーマン、スターリン、毛沢東、習近平、ポルポトの方が遙かに凶悪なのでそちらを非難すべき
フランス革命は野蛮の極み
女系天皇でも良いと思う
腐女子は死に絶えて欲しい
しかし、たわわに関しては作品も作者も信者も気持ち悪いので今回だけはフェミを支持する
弱者男性は可哀想だけど、女性にも選ぶ権利があるから仕方ないよね。唯一の解決策は各々が妥協婚をやめてこれ以上弱者を産まないこと
黒人については同情的だったが、アジア人へのヘイトクライムを知ってからは冷めた目でしか見られなくなった
ポリコレは嫌い
イスラム過激派がクソなのは言うまでも無いが、イスラム教徒全般を一括りにして叩く奴は知能が低い
韓国は嫌い
外国人に日本を褒めさせるホルホル番組はぞっとするほどおぞましい
これを見てどっちだと思った?
(中央公論平成26年9月号に戸部良一・帝京大学教授が「日本は何のために戦ったのか 戦争の理念と『政治戦』」と題して、大東亜戦争について書いておられます。とてもいいと思いました。
開国以来日本外交は英米という二つのアングロ・サクソン国との関係を基軸に、これら二国との関係を調整することを基本にして、外交政策をつくってきました。東アジアから欧米諸国を駆逐し、自分が東アジアの盟主になるというような政策をとったことは、一度もありません。日本の歴史や外交史を読めば、簡単なことです。
では、「あの大東亜・太平洋戦争は?」 となるかもしれません。「自衛の戦争」と無理してこじつければ、そう言えない部分もないこともないでしょうが、しかし、ろくな外交をしないでおいて、つまり戦争を避けるような外交をしないでおいて、追い込まれ、「ハイ、自衛のためです」の主張には、賛成しかねます。 かと言って、アメリカは完全に日本との外交交渉に誠実であったとはいえません。
極東軍事裁判の判決のようなアメリカの言い分が100%正しいわけではありません。連合国側が広めたこの理屈が世界に流布していて、こまります。かといって、日本が100%正しかったという主張にも、うなずけません。もし、軍部とくに陸軍があれほど政治に横槍をおさなかったなら、日本の外交はアメリカと戦争などをしていないでしょう。中国問題をかたずけていたでしょうし、ドイツとの同盟なども結んでいなかったでしょう。陸軍は自己のメンツのために日本を犠牲にしたのです。
故リチャード・ストーリという有名なイギリスの日本史家は、「日本外交は明治以後優秀であり、軍部が口出ししていなかったら、あんなことにはなっていない」と言っています。こうした国際的規模の大きな誤解のもとは、ナチ・ドイツと日本を同じものとして考えるからです。
日本は中国と戦争をする意思はなく、また昭和12年に偶発し拡大する中国との争いをやめ、中国から兵を引きあげたかったのです。ましてや、アメリカとの戦争などは、ぜひとも避けたかったのです。アメリカもドイツとは戦争がしたく、それゆえ当初は日本との戦争を避けたかったのです。
日本は大いなる野望ともち、まず中国との戦争からはじめていき、やがてその野望達成の必要上ナチ・ドイツと同盟を結び、ドイツは欧州を、日本は東アジア全部を支配するため戦争をした。日本については間違いの解釈をしています。アメリカは正義の保安官で、町の秩序をみだす日本という悪漢を二丁拳銃で打倒したという西部劇です。
専制全体主義国家は暴力と脅迫と大虚偽宣伝にみちあふれていました。日本は違います。)
日本の「鬼畜米英」は戦争が始まってから言い出された言葉で、最初に鬼畜米英の考えがあって、その考えにしたがって政策目標が作られ実行されたわけではありません。国民の間には英米への強い好意がありました。東アジアでは、日本がもっとも英米への好意が強かった国でしたし、今でもそうではないかとと思います。
昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋での偶発的些細な事件では、日本も中国も拡大する意図はなく、そのまま停戦して終わりにしたかったのです。しかし、日中双方の停戦の意図にもかかわらず、拡大し、大げんかになり、ついにアメリカとの戦争になりました。
アメリカとの戦争になるまで、つまり昭和16年12月まで、4年と5か月もあります。アメリカと戦争したければ、もっと早く、対中戦争で体力を消耗するまでに始めています。なぜそんなに待つ必要があったでしょうか。また、もしそうならば、対米衝突を避けるために、日本が提議して日米交渉などする必要もありません。日本は中国全土を占領しようとか、東アジアから英米の勢力を駆逐するというような、大それた考えや予定などもっていませんでした。東南アジアの植民地を解放しようという崇高な考えで戦争をしたのではありません。対米関係が悪化し、アメリカから経済的に締めつけられ、南方の天然資源のほうに眼が向いていったのです。最終的に南方の天然資源確保のために英米仏蘭と戦い、これらの地域から英、仏、蘭を追い払いました。その結果、戦後これらの国々がふたたびその植民地に支配者として帰ろうとしましたが、東アジアの人々の激しい抵抗にあい、不可能になりました。
もし、こうしたことがなかったなら、アジアの国々の解放は、フィリピンは別かもしれませんが、ずっと遅れていたのは間違いありません。
ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」で書いていますが、日本は東アジアにあって他の国々と違う国なのです。理由は歴史的経験の違いです。東南アジアの国々と、歴史上たえず専制国家であった中国とそれを手本とした朝鮮・韓国と、封建制度を発達させた分権的な、しかしながら、統一された社会としての日本という経験の違いがあります。また西洋帝国主義の挑戦にいちはやくうまく応じて独立を維持した日本という違いがあります。また明治以後日本だけ豊かになり、敗戦後もいちはやく日本だけいちはやく復興しそのうえ豊かになった日本という違いがあります。また戦後一時的な占領をのぞくと、西洋諸国の植民地になったという経験ももちません。ヴェトナム、インドネシア、ビルマなど、植民地になった国々と人々がどんなにみじめな政治や生活を強いられたかという、経験をしたことがありません。
日米交渉において、アメリカから経済的に締めつけられと書きましたが、こう書くと、「じゃあ、悪いのはアメリカだ」という意味でもありません。そこには交渉過程における相互のやり取りというものがあります。アメリカとしては、そうでなかったら取りにくかっただろう強硬な手をうつことができたからです。
イギリス、フランス、オランダとしては、日本に負かされ、かつ植民地を失い、大変不愉快だったでしょう。
なお、日本は南方の天然資源確保・・・といいましたが、ナチは東欧とソ連に一方的に襲いかかりました。日本はそんなことしていません。万一アメリカからの資源買いつけに支障が出た場合にそなえて、事前にオランダと商業ベースでの購入をのぞみ、交渉をしています。この交渉はまとまりませんでした。
万が一のインドネシアへの進出のため、また英米の中国援助の道を封鎖するため、フランスとはヴェトナムへの進駐を考えて交渉します。この交渉には軍事的圧力をちらつかせ貫徹しますが、これにたいしアメリカは石油の輸出禁止と在米資産の凍結という厳しい手段でこたえます。このアメリカの予想外の反応に近衛はびっくり仰天。そこでルーズベルト大統領との直接会談を提案します。それは軍部が対米交渉の障害になっているから、軍部の頭越しに話し合い、交渉をまとめよう考えたからです。この直接首脳会談には、アメリカはハル国務長官などが強く反対し、この提案を拒否します。
さて日中戦争ですが、これが中国で拡大し、英米との雲行きがあやしくなり、対決を避けようとして、対米交渉を提議し、日米交渉がワシントンで開始します。その交渉がまとまらなかったのは、日本にも大きな責任があります。しかし、「それは日本だけの責任だ。アメリカは悪くない」と一般に考えれていますが、これは大間違いです。ハル国務長官の態度にもみられるように、アメリカにも大きな責任があります。ハル国務長官には、アメリカの学者にも同じ意見がありますが、「だいたい戦争を避けるため、日本との交渉をまとめるつもりがあるのですか」と言ってもいいぐらいのところがありました。
日本は昭和にはいると、右翼的国粋主義の風潮も強くはなりますが、ドイツとは違い、多くの組織が併存しており、どの一つの組織も他の組織を圧倒するとか、ましてや他の組織を滅ぼしていくということはありませんでした。そのときそのときの事情や都合で、ある組織あるいは政治勢力の意見が強まったり弱まったりしていました。日本の場合は、偶発戦が拡大していくにつれ、その戦争遂行上戦時体制ができ、陸軍の要望が聞き入れられていき、陸軍が威張ったのです。決して陸軍は他の組織を吸収したわけではありません。一部の軍事費をのぞくと、法案も予算案もすべて国会を通過しなくてはなりませんでした。そういう意味で国会は機能していたのです。意外だと思われるかもしれませんが、軍部は議会や世論を気にしていたのです。
陸軍に反対したからといって、消されるとか、強制収容所おくりになるということはありませんでした。強制収容所もないし、ゲシュタポなどの恐ろしい暴力警察もありませんでした。日常生活については、もっと具体的なものを当時の新聞とか記録とか小説などで、実際の日本人の日常の暮らしを知る必要があると思います。(たとえば田辺聖子の小説や思い出。向田邦子の小説。芹沢光治良の「人間の運命」も面白い本です。)
日米交渉の難点の一つは、中国からの撤兵問題でした。陸軍も東条も中国から撤退はするが、それには二、三年は必要だと言い張ったのです。ナチと違って、中国全土を占領するとか、中国国民を奴隷化するというような主張は、100%ありません。アメリカは二、三年の期間は不満で、二、三か月の以内の撤兵を主張しました。ここに陸軍の横暴があるのです。すぐ撤退しては、陸軍の印象が悪いのです。負けたようで格好よくないというわけです。
大東亜共栄圏思想ですが、日本が中国全土を占領するとか、中国人を奴隷化するというような考えではなく、日中戦争が拡大したから、その説明の一つとして喧伝されたのであり、日中国民の平和友好といったムードがその本質であり、具体性のないものでした。当時もやはり、日本人は根底に日本人の中国にたいする「シナ(中国)コンプレックス」をもっていたのです。
東条は陸軍の「行進」の先頭で旗をもっていましたが、「俺についてこい」と陸軍を引っ張っていたのでなく、陸軍というおみこし担ぎ運動で、その集団行動行進で、たまたま旗手をつとめていたにすぎません。もちろん、それで得意になっていたわけですが。といって、東条に責任がないわけではありません。
日本の場合、いくら東条などでもある一定以上の文化・教養があったわけです。それを、ナチも日本も一緒にしてもらっては困ります。
この教養の差は、例えば敗戦の受けいれかたにも、大きな違いとなって表われます。日本の場合は、これ以上の負担を国民に強いるのはいけないという、コンセンサスがありました。ポツダム宣言の受託については、その内容の具体的な確認とか、「これでは国体が守れないではないか」といった意見の違いで、受諾がおくれただけであり、基本線は敗北やむなしでした。
東条でさえ対米交渉の妥結を希望をしていました。彼は10月中旬近衛に代わって総理大臣になりますが、東郷という、軍部の考えに抵抗した、超ハト派の、言葉をかえれば「強硬なハト派」の人間を外務大臣にして、交渉を継続します。(東郷は昭和20年4月成立の鈴木内閣という敗戦・終戦のための内閣で、外務大臣として、敗戦・終戦のために尽力します。彼は東京裁判では有罪。禁固二十年の判決。)
東条は反英米主義者でもありませんでした。中国との戦争で泥沼にはいってしまい、戦線を縮小する勇気、そこから撤退する勇気、をもたなかったのです。これがため、大事になってしまいました。昭和7年から大平洋戦争勃発までの駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーという人は、知日家、親日家でしたが、日記で「日本人は何か困難があると、(それを解決しようとしないで)回れ右をしてしまう」と書いています。
日本は「勝った、勝った。悪いシナを懲らしめた」という形にもっていけなかったわけです。戦線を大幅に縮小する勇気が必要でした。
中国も内部に大問題をかかえており、また、日本を一方的に大陸から追い出すほどの力をもっていませんでしたし、また、英米もそこまで中国を援助する必要は感じていなかったのです。中国が協定を守らないので困っているという点では、英米も日本と同舟でした。
陸軍は英米と大平洋方面で戦うための軍隊ではなく、大陸での権益を守るため、(ということは、間違いなく、日本の帝国主義的政策と関係しますが)、の軍隊であり、その対象は一貫してソ連でした。
また、よく誤解されることは、「日本は日清戦争とか、日露戦争とか、あるいは満州事変のあとから、大規模な軍隊を中国大陸に駐屯させていただろう」ということです。これもよくある誤解で、昭和12年の日本と中国の偶発的事件が拡大するまでは、中国大陸に少しの軍隊を駐留させていただけです。
■序文
本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である。
「「昭和天皇の戦争責任は追求しない」というのがサンフランシスコ条約体制下で行われた「手打ち」であって、連合国側も東京裁判を通じてそれを認めたわけだから、少なくとも戦後の国際秩序を踏まえた国同士の関係の中で「やっぱり昭和天皇に責任があったよね」という話を蒸し返すのはどうなの」
これだよね。
無罪と無実は違う
明らかにこいつがやったという証拠が挙がっていても、証拠の収集過程に違法があったとして無罪になった例もある
昭和天皇に戦争責任があり本来ならばそれを問われるべきだとしても実際には東京裁判で裁かれなかった以上は無罪には違いない
疑わしきは罰せずが原則なんだよねえ
官僚というのは概ね正しいが
今の政治で大物になってる家の出身辿るとよく分かるけどな、一方戦犯になった方を見てみると差は歴然なんだよな
東京裁判自体は戦勝国による腹いせでしかないから特に思うところは俺には無いのだが、合祀とか正直どうでも良いというのが英霊達の感想だと思うぞ、そもそも神社に寺みたいな墓の概念なんてないしな
https://apeman.hatenablog.com/entry/2022/04/26/150727
何かこの件については左翼の側のレッテル貼りが酷くてそっちに対して反論したくなるな
誰が国家の代表者として語られるべきかというのはあくまで解釈の問題であって
南京大虐殺否定論や従軍慰安婦否定論のように、事実そのものを否定したがる歴史修正主義とは全然違うでしょう
私は戦前の大日本帝国は紛れもなく帝国主義の侵略国家でファシズム国家だったと思うし、大日本帝国という国をナチスドイツやファシストイタリアと並べる事には何ら不満はない
でもその場合昭和天皇の位置はムッソリーニではなくイタリア国王だろうと言っているだけ
そして天皇制は廃止すべきだと思っているがそれはあくまで今後憲法改正して実現すべき事であって、過去を変える事は出来ないでしょう
東京裁判史観の元で昭和天皇が無罪とされて象徴天皇にそのままスライドしたという過去を否定してヒトラーやムッソリーニと並べる事の方がよっぽど歴史修正主義的だと思う
昭和天皇の方の写真はウクライナの方も下げたんだし、向こうにとってもそれが正しい認識だって事でいいじゃんとしか思わないんだが。
「昭和天皇の戦争責任は追求しない」というのがサンフランシスコ条約体制下で行われた「手打ち」であって、連合国側も東京裁判を通じてそれを認めたわけだから、少なくとも戦後の国際秩序を踏まえた国同士の関係の中で「やっぱり昭和天皇に責任があったよね」という話を蒸し返すのはどうなの、という話はある。
一方で、これはどこまで行っても手打ちでしかないので、「ヒロヒトは枢軸国のリーダーの一人としてナチスドイツに加担した」という批判を事実ベースできちんと否定できたわけではない。
それよりもさらに問題なのは、日本という国が戦後を始めるにあたって「戦前の国体を引き継ぐ」という前提に立ってしまったので、先の戦争の責任を完全に清算するチャンスを逸してしまった、ということなんだよね。日本国憲法が大日本帝国憲法の改正という形で天皇から公布された、というのが象徴的。