はてなキーワード: 習い事とは
忙しい日の夕飯に焼きそばを出したら、「手抜きだね」って夫に言われた。
いやいや、ちょっと待って。確かに焼きそばって手軽に作れる料理だけど、具材だってキャベツ、人参、豚肉をしっかり入れて栄養バランスを考えたし、味付けもソースだけじゃなくてオイスターソースやちょっとした隠し味まで使って、手間かけたんだよ?
こっちは朝から家事やら子どもの習い事の送迎やらでバタバタしてて、夕飯をちゃんと作る時間がなかった中で精一杯やったのに、その一言で台無し。
「手抜き」っていうならさ、じゃあお前が毎日ご飯作ってみろよって話だよね。子どもたちは「美味しい!」って喜んで食べてくれたんだから、それで良くない?なんでいちいち文句言うの?
そもそも焼きそばが夕飯に出たらそんなにダメなの?これ、他の家庭でも「手抜き」扱いされるのかな?それとも単にうちの夫が感謝が足りないだけ?
なんかもう疲れた。感謝されるどころか批判されるなら、いっそのことコンビニ弁当とかで済ませたいわ。それなら文句も言われないし、私の労力も無駄にならないし。
同じような経験した人、いる?夕飯に焼きそばってそんなに手抜き?それとも私が気にしすぎ?モヤモヤしてて、誰かの意見が聞きたい。
そうか!君の娘さんの話なのだな。それぞれの習い事には、異なる特性と楽しみ方があるのだ。まず、練習や宿題が必要なものは、確かに努力と忍耐が求められる。ピアノや英語、そろばんなどは、継続した努力がその技術をより豊かにし、達成感を味わえる素晴らしい道だ。しかしな、それがどうしても合わないこともある。自分に向いていることを見つけるのも大切なことだ。
対して、行って取り組むだけの習い事、たとえば水泳やダンス、剣道などは、その瞬間に体を動かし、エネルギーを爆発させることで楽しみを見出すものだ!これもまた素晴らしい。寒くても一歩踏み出せば、体も心も温まるはずだ。
娘さんが何を楽しんでいるか、何に情熱を持てるかを見つけるのは、親としての役目だ。無理に苦しませるよりも、彼女が本当に好きなことに熱中して取り組めるよう、応援してあげることが大切だな!燃えるような情熱を持つことができる何かが見つかるといいな!
朝起きて洗濯して掃除して、スーパー行って夕飯の支度して、あとはテレビ見てぼーっとするだけ。
子供たちはとっくに独立して自分の家庭持ってるし、旦那は仕事人間で家にいる時間短いし。
友達とランチ行ったり習い事したりってのも、もう飽きちゃったのよね。毎日同じことの繰り返しで、張り合いがないのよ。
年金もまだ先だし、自分の貯金も心もとないし、この先どうなるのかしらって不安になるわよね。
でさ、唐突だけど、年金の支給開始年齢の話。あれって男を早く、女を遅くしてほしいって思うのよね。だ
ってどう考えても男の方が寿命短いじゃない。女は長生きするんだから、もらうの遅くてもいいじゃない。その分、男に早く渡してあげればいいのにって思わない?
どうせ女は男が死んだら遺族年金もらえるんだし。
それ考えたら、男に先に年金渡して少しでも長く楽させてあげたいじゃない。
私だって旦那には長生きしてほしいし、少しでも心配事なく過ごしてほしいもの。
ま、年金制度なんて簡単には変わらないだろうけど、ちょっとした愚痴でした。
どうせ暇だし、こんなこと考えてるのよ、毎日ね。
炎上しそうすぎて大幅改変になった現代ビジネス記事原案を供養。
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(前編)
私は小中高と地方の公立を出て、浪人して都内の医学部を卒業している。
「東大生の親の6割が年収950万円以上」というデータが話題になったが、地方出身からすると、やはり医学部も華々しい世界だった。
まず医学部では「親が医者」なのは当たり前で、教授や講師と話す時も、世間話は最初に「親御さんは医者?」が挨拶代わりになる。私の体感では、おそらく学生の半数近くが医者の子息だった。
ハリー・ポッターになぞらえて、両親が共に医者という人を「純血」、片方が医者だと「半純血」、両方とも医者ではない人のことは「マグル」と呼ぶ文化まである。「マグル」は家系に医者がいない学生が、自虐的に苦笑いしながら使う単語だ。
しかし、「マグル」の学生も、平均的なサラリーマン家庭出身という人はほとんどいない。みな経営者や士業の家庭で、都心のタワマンが「実家」だった。
出身高校もほとんどがいわゆる「御三家」など、都内の名門私立高校が並ぶ。入学式の日、周りが何故か全員、初対面ではありえない打ち解け方で話していて困惑したものだ。
蓋を開けてみれば元々彼らは中高の同級生だったか、SAPIXや鉄緑会などの有名塾で一度は顔を見知ったメンバーだったのだ。
私のように地方公立校から、塾にも行かずに来たという子は全く見当たらなかった。
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大学生はお金がかかる。私も美容や服飾、外食や旅行を楽しみたかったので、多い時は週9でバイトを3つ掛け持ちして、必死に時間をお金に変えた。
学費や家賃、生活費などは親持ちだったが、その他は自分のバイト代で賄うように言われていた。
けれどここではバイトを親に推奨されるというのは珍しく、むしろ「禁止」される方が普通だ。特に、家庭教師はOKでも、高卒やフリーターと一緒に働くような飲食店などは禁止されている子が多い。
そのため、そういったバイトをしたいお嬢様は、親に隠れてこっそりやることになる。私も、友達の給料明細の送付先を、私の一人暮らしの住所にするなど「協力」したことがある。
この「バイトをしたい」とはもちろん、お小遣いが欲しいという意味ではない。「人生で一度はやってみたい」「大学生っぽいことがしたい」という、興味と好奇心でやる子が多かった。
こういう子達は、1回で何十万とする美容代や旅行費も全て親の負担だ。ブランド物も親のカードで買い放題。
限度額は聞いたことがないので分からない。この顔ぶれの中で「限度額」などという貧乏くさい言葉を口にすることすら憚られた。
当然、金額を理由に遊ぶ場所を決めることもまずない。味や質、美しさ……綺麗な概念ばかりで話し合いが進む中、頭の中で電卓を弾き、時給計算などしているのは私だけだった。
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ここまでの話だけ聞くと、「地方出身の庶民が階級社会に直面してショックを受け、格差に悩む」というあらすじになりそうだが、私はそのような気持ちになったことは、実は全くない。
実際のところ、これまで属した集団の中で、大学は一番居心地がよかった。なんせ周りの人間のほとんどが私より頭が良く、私より裕福で、性格も曲がっていないのである。普通に暮らしていて、不快にさせられることはほとんどない。
尊敬できる人ばかりの中に混じり、今までしたことがなかったような華やかな経験を教わることは、とても刺激的で楽しく、毎日が面白かった。
地方公立の狭い世界のみみっちい基準で「神童」だの「お嬢様」だのとくだらないことを言われて暮らすよりもよほどいい。周りのやっていることがバカバカしく思えて退屈することも、足を引っ張られて苛立つこともない。
生まれて初めて自分が全てにおいて下位、いやほぼ底辺に位置する環境に身を置いたが、劣等感を持つどころか、なんて気が楽なのだろうと感動した。
要するに「上には上がある」といっただけのよくある話なのだが、私はその「上」の存在を知って心の底から安堵したのである。
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(中編)
私が育ったのは地方都市のド真ん中。東京で「都会」と言うと笑われるが、下手に「田舎」と言うと顰蹙を買う、そんな街だ。近くの有名大に行かず、わざわざ地元では知名度の低い都内の大学に行ったのは、その街にとことん嫌気がさしたからだった。
先祖代々続く大病院の家系などではないので、決して高い身分ではないのだが、私も一応、医者の娘ではある。ちなみに、母親は医者ではないので「半純血」だ。
金銭的な理由から受けられない大学もあったし、贅沢三昧という訳ではなかった。だが、本当の意味で生活に困ったことはないと思う。
「全身脱毛の費用を自分で稼いでいる」というだけで、大学の中では十分「苦労人」のポジションだったが、それだけだ。学費も家賃も、いくらかかっているのか知らないまま生きてきた。
そもそも、私の家庭ではそういうことを詮索するのはタブーだった。三階建てのまあまあ広い一軒家に住んでいたが、幼い好奇心で「この家、いくらしたの?」などと聞こうものなら、なんて下品で失礼なことを言うのかと眉を顰められた。
よって親の学歴も自分が大学受験をするまで知らなかったし、収入は今でも知らない。なんとなく肌感覚で予想はできるが、聞いたことはない。
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わざわざ地方公立の小中高に進んだのは、習い事の練習時間を確保するためだ。物心つく前からピアノやヴァイオリン、新体操などを習っており、そちらを人生の軸に据えたかった。そのため、進級が厳しく勉強時間を取られる中高一貫私立を避けた。
しかし、その選択のせいで、私は信じられない世界を目にしてしまう。
校内のヒエラルキーのトップにいたのは、我が家のクローゼットより狭い団地に住むヤンキー達だ。暴力や窃盗などの犯罪行為、くだらない揉め事が起こるのは日常風景だった。後ろの黒板にはデカデカと卑猥な言葉が書かれ、授業中も大声で教師に反抗する。共用部の壁には穴が開き、「アスベスト発生注意!」と貼り紙がされるも、その意味も理解できない生徒がまた上から穴を開けていた。
一番呆れ返ったのは中学校で、「廊下に繰り返し大便をしてそのまま片付けない人がいる」という全校集会が開かれた時だ。まるで動物園だ。
外で障害を持った通行人を取り囲んでからかい、面白がって恫喝している場面にも遭遇したこともあり、これが同じ人間なのかと目を疑った。
生まれてからこの環境しか知らなかったにもかかわらず、私はこちらの方がよっぽど馴染めなかった。いや、大学の時と違って、馴染む努力をする気にもなれなかった、というのが正しいだろうか。
ことわっておくが最初から「知能」だの「貧富」だの、そういうことで差別意識を抱いていた訳ではない。ただ、そんな概念が生まれる前の、何も知らない子供の目からしても、違和感を覚えることがたくさんあった。
何か作業をする時、見るからに効率の悪いやり方で苦労しているのが理解できなかった。建設的な話し合いができず、どれだけ分かりやすく説明しても話が通じないことが不思議だった。卑猥な話で大喜びするのも、暴力で強さを誇示するのも、正直バカバカしいと思っていた。
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何よりも嫌だったのが、その層に漂うあの独特な僻み根性、卑屈な被害者意識のようなものだ。
クラスでナルミヤの服が流行り、皆がメゾピアノやポンポネットの服を自慢する中、私はいつもラルフローレンやバーバリーの服を着ていた。ナルミヤに興味もあったのだが、親の趣味で買ってもらえなかった。
その時、私は価格の差など何も知らず、愚痴のつもりでこう発言してしまう。
「みんないいなあ、うちの親、ラルフローレンばっかり買ってくるからもう飽きちゃう」
たったこの程度であからさまに数人の目つきが変わり、その後も悪意を持ってこの発言が拡散された。
子供が「他人の服をそうやって価格で値踏みしており、それを恥ずかしげもなく表に出す」という感性は初めて見るものだったし、それが物凄く卑しく思え、正直ドン引きしてしまった。
自分の性格が良いというつもりは全くないが、もし私が逆の立場になったら、そんな態度は絶対に取らなかっただろう。そのような言動は「悪い」というよりも「恥ずかしい」からだ。
たとえ内心で反感や嫉妬は覚えたとしても、そういう行動は自ら「私は負けています!可哀想な貧民です!」と宣伝して歩いているとしか思えないではないか。
別に私にとって服は値段ではなく、ナルミヤは負けではなかったのに。
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万事がそういった雰囲気だった。
あまり勉強をしすぎるとバカにされるので、「カースト上位」のグループに属している子は実は勉強ができても、学校のテストではわざと悪い点を取るなど工夫していた。実際に勉強している時間を「テレビを見ている」と嘘をつき、親から聞いた内容を覚えてから学校に行くという話も耳にしたことがある。
何もかもが面倒くさかった。先入観などなくても反射的に、彼らに対して「卑しい」という軽蔑が沸々と湧いてきて、止められなかった。
お金や学力のあるなしなんてどうでもいい。ただ、それによって勝手に「見下された」「自慢された」と思い込んで攻撃性を発揮してくる、その人間性を見せられるとやはり「見下す」以外の感情が湧かない。
そういう人を表すぴったりの言葉は「育ちが悪い」しか思いつかないのだ。
そして、その思いが強くなればなるほどに、そんな低俗で差別的な感情を持つ自分に対してもまた同じように「卑しい」と自己嫌悪に陥った。
よく「人を見下している」「お高く止まっている」と悪口を言われたが、次第にそれが事実になってしまっていることも自分では分かっていた。
やがて進路を変更して医学の道に進んだ私は、この自らの醜さにも似たもう一つの「卑しい世界」を嫌というほど味わうことになる。
体力面の自信のなさから、ほとんどの医学部生が就職するような「ブランド病院」とは程遠い、「ハイポ(仕事量、労働時間が少ない)だけど治安が最悪な風俗街の病院」に就職したのだ。
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(後編)
立地や将来性、指導体制などを考慮せず、「あまり働かなくていい」「給料が高い」というだけで風俗街の病院に流れ着くような医者は、まあロクな層ではない。街の治安と相応に、職員の民度も低かった。
病院があるのは中途半端な田舎だ。ここでは娯楽が、酒と性とギャンブルとゴシップしかない。
都会で大学生活を過ごした同僚たちも、その鬱屈した思いからか、段々と空気が荒んでいった。
数ヵ月経つ頃には、口を開けば下ネタと自慢や武勇伝、他人の悪口や噂話、そして「女性職員の容姿を採点し、デブやブスと言って大笑いする」といった、聞いているだけで気が滅入るような下卑た話題ばかりが出るようになった。
百歩譲って内輪だけの飲み会でやってくれればいいのだが、職場の男女共用のスペースで大声を出して話しているのは、流石に品性を疑ってしまう。
「このバッグは何十万円した」「今月はいくら使った」などという、赤裸々すぎる金額事情をストレートに自慢してくるのにもびっくりした。今まで出会った医者の中で、そんな恥ずかしいことを嬉々として吹聴する人間は一人もいなかった。
彼らの鬱憤の矛先は、「見下している相手」により強く向けられる。
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立地が立地なので患者層もあまり良くなく、社会的に地位が低かったり、生活に困っていたりする患者が多い。それをストレス解消とばかりに、裏で笑いながら蔑むのが、病院の常になっていた。
気持ちは分かる。確かに、あそこまでかけ離れた階層の人たちと関わるのは、正直つらい。頭がおかしいのかと思ってしまうようなクレーマーもいる。貧困のために清潔が行き届いておらず、吐き気を催すような悪臭に涙目で耐えて処置をすることもある。病院に来ているのに、こちらが一生懸命になっても、まるで治す気がないのか?という横柄な態度を取る患者もいる。
救急車がタダだから、生活保護は医療費がタダだからと、まるでタクシーや無料相談のように使う人のせいで、本当に必要な人に医療が行き渡らなくなることもある。
特に槍玉に挙がるのは「せいほ(生活保護)」と「プシコ(精神疾患)」、「痴呆(認知症)」である。他にも、「ホームレス」「反社」「デブ」「ババア・ジジイ」「底辺」「貧乏」「キチガイ」など、診察室を一歩出れば、とても患者には聞かせられないような、ありとあらゆる差別用語が飛び交った。
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バカにされるのは患者だけではない。看護師も同様だ。ある同期が看護師に怒られた時、「大学を出てないから分からないんだろ」「低学歴が」とあまりにも直接的に吐き捨てるのを聞いたことがある。
一方で看護師たちの当たりも強かった。いや、当たりが強いというか、私達とは、元々装備している語彙がそもそも違うのだ。
特に怒っている訳ではなくでも、「ちょっと邪魔!」「うるさいよ」といった風な、私達が「初対面の人に対して一度も発したことがないような言葉」を、まるで当たり前のように使ってくるのだ。
これにはかなりギョッとする。私達が急いでいても「すみません、ちょっとよけてもらえますか?」と言うのは、別に敬っている訳でも遜っている訳でもなく、これしか適切な語彙が浮かばないからだ。
根本的な問題は、学歴や収入の高低ではなく、培われた文化の違いなのだ。「そんな風に人間を扱う文化」に染まりたくない気持ちが勝り、同じ土俵で言い返す気にもなれない。
病院の同僚医師たちも、私立医学部を卒業している人間が多く、元々それほど育ちは悪くなかったはずだ。しかし、あまりのカルチャーショックに耐えられず、段々と人格が歪んでいった……いや、歪めていくしかなかったのかもしれない。
地方にいた頃の私のように——。
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医者や政治家など「救う仕事」をする人間に、できるだけ庶民の感覚を取り入れるための方策として、「学費を下げる」「お金が足りなくても成績優秀者が医学部や名門大学に入れる枠を作る」といったことが推奨されているのをよく見る。
実際に、現状の医師たちの間でも、「国立は苦労していて性格が悪い」「私立は裏口で頭が悪い」といった論争があり、お互いに見下しているような風潮が一部ある。
それを、もっと幅広い層の人間を混ぜたからと言って、お互いに馴染めるとは思えないのだ。
同業者の間で「もし自分の子供を行かせるなら私立がいいか、公立でもいいか」という話が出ることがある。この話題は、温室から一度も出たことがない人ほど「公立でもいい」と言いがちだ。
公立の良い所として、「早いうちから色々な階層の人と関わって免疫をつける」というものが挙げられるが、私はそれこそが最大のデメリットだと思っている。皮肉なことに「その経験の多さ」こそが、差別や偏見、選民思想を強め、分断を生むことになるのだ。
免疫どころか、触れれば触れるほどウンザリして、アレルギー反応を起こすようになってしまう。様々な階層の人間の存在を見せたいのなら、同級生として一緒くたに扱われるのではなく、ボランティアでもすれば十分ではないか。
だからこそ自分が多様な層と関わった経験があったりする人ほど「子供は絶対に私立」と言う。もし他が全て同じ条件なら、学費の「高い」方に行かせたいという発想すらある。
「知らなくていい世界を知らない育ちの良さ」というのは、その後いくらお金を積んでも手に入らない。一生ものの財産だ。
社会の下層と徹底的に隔離され守られてきた人は、「みんな同じ人間。差別は良くない」という綺麗事を良い意味で本気で信じ、汚れのない心で生きていける。
もしかしたら私の親は、私を「世間知らず」にしたくなかったのかもしれない。だが私は「知ってしまった」ことを、後悔している。
もし子を持つことがあったら、我が子には私のような性根の歪んだ人間になってほしくない。
よくSNSで、お金がないけど3人目の子供を産みます!みんな応援してね!という母親をよくみます。
中には「三人目の子供を育てる経済的余裕はないけれど夫をうまいこと騙して子供を産みました」という妻もいます。
子供を育てていくに当たって、塾に行かせたり、習い事をさせたり、旅行に行ったり、レジャーを楽しませたり
お金持ちが子供を三人育てることは可能ですが、庶民が子供三人、それなりにお金をかけて育てるのは厳しいです。
この間子供が三人いる親が広いマイホームのローンが払えなくなり、狭い賃貸に引っ越したという記事を見ましたが、子供三人育てながら新築マイホームのローンなんてそりゃ無理ですよ
これからは、自分の人生の満足度をあげていくために独身でいること、子供を持たないことを選ぶ人がどんどん増えていくし
夫婦が子供を作ったとしても、親も子供も経済的に満足度の高い生活をするために一人っ子を選ぶ家庭が増えていくでしょう
一人っ子、とってもいいですよ。親は精神的にも経済的にも余裕がありますし。デメリットは親が死んだときに子供が親の葬式の相談をするきょうだいがいないことくらいです。(きょうだいいなくても自分の配偶者と協力すればいいもんね)
最近育児ノイローゼで自分の子供を殺す母親が増えています。父親が育児ノイローゼで子供を殺すという事例は少なくて、父親が我が子を殺すときは父親の人格に問題があることがほとんどでしょう
母親が育児で苦しんで子供を殺すのは、経済的な苦しみも少なからずあるのではと思います。
小さい頃から「これからは男女平等の世の中だから、女もバリキャリ目指して頑張れ!」って親から言われて厳しく育てられた。
青春はとにかく全て勉強に捧げてSラン大学通って、とくにやりたいこともないまま流されるように大手に就職して、
夫も私と同じくエリート崇拝思想の家庭で小さい頃からとにかく勉強と習い事だけやらされて、特にやりたいことも強い意志もないまま高学歴として世に放たれた。
男女平等だから、当然家事をやってくれる。そして当然ご飯は奢ってくれないし、私に楽な仕事の選択肢も与えてくれない。稼ぎもめちゃくちゃアテにしてくる。
2人とも高収入の部類に入るけど、
毎日生きているのがつらい。
昇進や待遇に一才の差はない代わりに、つらい仕事も重たいものを運ぶ時も平等。
でも生きづらいんだよー
平等って言っても、元々が男性主体のフィールドで、そこに合わせに行ってるからやっぱりちょっと苦しいし。
夫はなんでもお母さんがやってくれる環境で育ってきたから、本当にやりたくない面倒な家事は一切やらないし。できるようになろうともしないし。
会社は男性特有のコミュニティが形成されててついていけない時あるし、大型機材の移動とかもろもろ男性の力があること前提に設計されてる節あるし。
そんな余裕も体力も全くない。
ていうか、男女で全く同じ仕事、家事してたらさ、出産授乳分の労力はどこでカバーされるの?!
なんか納得いかないんだよな…
大手企業のエリート社員なんて普通に地方支店のアルバイトやパートと関わるし
公務員のエリート集団は金持ちってわけじゃないから普通に同窓会が縦の旅行になる
高校になるとある程度は階層化されるけれど進学校とそれ以外ぐらいの階層で
大手企業創業者の富裕層貴族エリートグループにもなると縦の旅行はしないだろうが
そういうグループは昔から縦の旅行なんてしてないしする必要もない
の言葉そのまんまで底辺社会を体験しなくても数字で理解できればそれでいい
彼らは知的活動に専念する余り知的行動こそが美しく正義であるという宗教に取り憑かれているから
だから感情的・本能的な行動をする集団に対して知的であるように呼びかけるし、そうであってもらわないとリベラルそのものが成立しない
学生の頃は「友達を作る」ことが当たり前のようにできていた。授業や部活、サークル、バイト、毎日のように顔を合わせるだけで自然と仲良くなれる環境があったし、何も考えずにただ楽しんでいるだけで「友達」は増えていった。
でも、大人になると一変。会社には同僚や上司はいるけど、なんとなく「仕事の関係」でしかない気がするし、プライベートに誘うのも躊躇してしまう。仕事が終わると疲れているし、休日は自分の時間も欲しい。それに、周りも同じように忙しいから会う約束をするだけでもスケジュール調整が一苦労。
「趣味を通じて友達を作ればいい」とも言われるけれど、習い事やサークルに通うエネルギーすらないし、わざわざ新しい人間関係を築くために出かける気力も残っていない。そして、ふと気づけば、だんだんと孤独を感じるようになっている。
大人になって友達を作るのは、こんなにも難しいものだったんだろうか?そもそも、友達って大人になってからも必要なのか?皆はどうやって友達を作っているんだろう。たまにSNSで楽しそうに友達と集まっている写真を見かけると、自分も同じように誰かとつながっていたい気持ちが湧くけれど、結局一歩踏み出せない。
親が教育熱心で、進学塾と習い事でスケジュールが埋まっててインターネットもフィルターソフトかけられていたから、進学で一人暮らしを始めて、就職して生計も自力で立てられて、時間を自分の好きなように使えるようになったのは大きな喜びだったし、仮にこれから結婚して子供ができて親の義務として子供を最優先に時間を使うべき立場になったらキツいなあって思う
でもこういう自由のありがたみって時間をかなり拘束されて自由を奪われていた経験がないと感じないものなのかもしれない、自由をすばらしいものじゃなくて誰からも役割を期待されず放置されている寂しい時間だと認識するものなのかもしれない
周りの独身貴族然とした人って中学受験組で親にぶん殴られて机に縛り付けられてたような教育虐待まがいの状況の経験者が多いように思う
意味がないとか趣味程度とか言われがちな芸術系の習い事で得たもののおかげで、今とても生きやすい
絵を習っていたおかげか化粧に抵抗がなく、はじめからそこそこうまいことできた
きらぎらしい素顔ではないけど、化粧姿がデフォになってからは美人だと言ってもらえることが増えた すると素顔もわりと美人判定してもらえるようになる 不思議だけどありがたい
なんというか、今ルッキズムが厳然として存在するからこそルッキズムをわざわざ否定しようとするわけで、つまり見た目がある程度良いほうが人生イージーモードなのは事実だ
他にもピアノをやっていたおかげか英語もまあいい感じの発音で話せる(=流暢、ではないけど)とか
会社でピアノを披露することなんてないけど、間接的には仕事に役立っている
ある程度成長してからだけど、茶道を習ったのもよかった まあこれは作法という意味では直接的かもしれない
投票率の低下や若者の政治への関心の低さが問題視され、SNSや生活の忙しさがその原因とされた。
「ダメ丸新党」や国民民主党への批判が目立ち、旧派閥の動きや選挙後の政治混乱への懸念も話題に。
政治家の印象が選挙結果に与える影響が議論され、岸田首相の安定感が評価される一方、白票の意義についても意見交換が行われた。
猫やカニの話題が人気で、黒猫の日やカニ解禁日などに関する会話が盛り上がる。
散歩や筋肉痛、ロードバイクの危険性についての雑談が行われ、健康や運動への関心がうかがえる。
食べ物についても頻繁に議論され、カレーラーメンやナゲット、洋梨などが話題に上がった。
映画やアニメでは、フィリピン映画や「シティハンター」、「ボルテスV」などが取り上げられ、脚本や演技についての感想が述べられた。
AIアートと創作性についての深い議論が行われ、将来の著作権問題やAIと人間の共依存についても考察された。
労働環境と解雇規制に関する議論が展開され、企業側の対応への批判と労働者の権利擁護の必要性が強調された。
教育費の高騰や共働き家庭の増加が議論され、特に習い事や学費への負担が課題とされた。
東京のホテル料金高騰や青春18きっぷの改悪など、経済や旅行に関する不満も語られた。
神保町の古本まつりの体験談や、松本湯の評判が語られるなど、参加者同士のオフ会やイベントの計画が活発に進行。
サウナや銭湯の人気も話題となり、松本湯の混雑状況が報告された。
経鼻ワクチンやインフルエンザワクチンの副作用について意見交換が行われた。
ディアゴスティーニ工場の爆発事故や、洗濯機の排水エラーの話題も含まれ、日常生活のトラブルへの対応が共有された。
政治、日常の出来事、エンタメ、そして社会問題に関する多岐にわたる話題が活発に交換されている。
軽い雑談から深い議論まで幅広く行われ、食べ物や映画の話題では参加者同士の親しみやすい交流が見られる。
労働や政治などの社会問題についても積極的に意見が交わされ、参加者の関心の高さがうかがえる。
この1週間の会話は、政治的な関心の高さに加え、日常の楽しみや趣味に対する多様な意見交換が特徴的です。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
母はお人よしで社交的な人で、父はいいところもあるけどコミュニケーションは若干アスペっぽさを感じることがあるのと余裕がないと人格障害も疑うような発言がでる(悪気があるのかないのかすらわからない不気味な表情で)
母は相手が聞く体勢にもなってないうちにほぼ指示語とジェスチャーだけで捲し立てて相手に響いてないと苛立ちをぶつける感じでさらに指示語となにをやってるのかわからないジェスチャーで、言葉に起こすと情報量がなさすぎることを壊レコのように繰り返す。(文章だと比較的わかりやすいので大人になってからはメールやLINEで送っといてと頼むことで困る頻度は減った。)
父は相手の躓きの現在地を瞬時に見抜いて全体像を要約し、構造とポイントを視覚に対応させながら簡潔に話す
両親それぞれへの自分の感情とは全く別問題として、母から説明という名の捲し立てを受けていると理解以前のところで混乱してフリーズする自分はポンコツなんだと惨めな気持ちになったし、父からの説明ではわからないことや出来ないことがスコーンと抜けていく感じがした。私は特に運動が苦手で体育では足を引っ張りまくっていたが、父に教わりながら練習すると数日で普通の範囲内のパフォーマンスができるようになったりした。
勉強も習い事のピアノも途中から売り言葉に買い言葉で喧嘩になるから母には数えるほどしか聞いたことがない 多分小学一年生が最後。
鶴の折り方なんか習った日には置いてけぼりっぷりに私がキレて母が完成させた鶴全部解体して破って投げてそれに母がキレて二人で泣いた。まあ鶴は頑張って折れるようになはなりましたが…
算数のわからないところを聞いたときに私がガキなりに自分の理解が詰まっているところを一生懸命説明したのにその箇所を華麗にスルーしてどんどん説明をすすめ、私をおいて最後までゴールしたあとでついてきていないことにキレていた。もちろん私はここわからないっていってるのに!と癇癪を起こして二人でヒートアップして泣いた。その時の母曰くだって自分の子供だとすぐもどかしくなってしまうんだもんとのことだった。
勉強や習い事は先生にだけ聞くことにしたけど、流石に家事とか制度や手続き関係はその後も聞かないといけなかった。
母が説明が苦手な人なのではと気付いたのは実は最近で、それまでは自分が愚鈍すぎるんだと思っていた。普通の人は母の説明でも十分にわかる人ばかりなんだと思っていた。なんでわからないんだ?!みたいな態度や言葉を怒りとともに投げかけられ続けていたし。