はてなキーワード: 落とし穴とは
正直さ、「デブは自炊しろ」って言ってるやつ、現実まったく見えてないと思うんだよね。
米は大盛り、おかずは揚げ物や炒め物ばっかり、肉も油もたっぷり使う。
「家で作ったから健康的!」みたいに思い込んでるけど、実際はカロリー爆弾を自ら仕込んで食ってるだけ。
外食やインスタントの方が、まだ量やカロリー計算されてる分マシなことすらある。
特に自炊だと「まだ残ってるし…」って言い訳して無限におかわりできるからな。
食い放題システムが自宅に常設されてるのと変わらん。
そりゃ太るよ。
だからむしろデブには「自炊やめろ」って言った方が正解かもしれん。
それなら味はそこそこ、腹も膨れる、余計なおかずを作らないから食べ過ぎない。
増田です。 DMM傘下のAlgomaticが提供していた「にじボイス」がサシュウを発表した。
プレスリリースには「法的な権利侵害はなかった」「パラメータ調整の結果、偶然似てしまった」などと書かれているが、これを真に受けている人は少し冷静になったほうがいい。
「日本の法律では学習は合法だ!」「日俳連の圧力に屈した!」と騒ぐ擁護派もいるが、今回の件はそんな単純な話じゃない。
これは「AI技術の敗北」ではなく、「ある企業が吐いた嘘と、杜撰なデータ管理が露呈して自爆した」というだけの話だ。
盲目的に企業を擁護する前に、技術的な事実関係の「答え合わせ」をしておこう。
なお、あくまで技術的な根拠を示しているだけであって、問題があると断言できないことは断っておく。
まず、擁護派が盾にする「著作権法30条の4」について。 確かに今の日本の法律では「情報解析」が目的ならば、元データが何であれ(おそらくエロゲーから音声を抽出したデータセット『moe-speech』であっても)、それをAIに食わせてAIモデルを作るだけなら、一応は適法とされている。 そこだけ切り取れば、違法ではないと言い張れる余地はある。
Algomaticが行っていたのは、一般的な基盤学習にとどまらず、「特定のキャラクター(=特定の声優)を狙い撃ちしたFine-tuning(追加学習)」である疑いが極めて濃厚だという点だ。
『moe-speech』は、親切なことにキャラごと(声優ごと)にフォルダ分けされている。 ここから特定のフォルダを選んで、「その声優の声質や演技の癖」を再現するために個別学習(Fine-tuning)を行う。 これはもはや「データの統計解析」ではない。特定個人の実演の「デッドコピー(模倣品)の作成」だ。 これをやると、生成された音声には明白な「依拠性」が生まれる。つまり「パラメータ調整で偶然似た」のではなく、「その声優のデータを意図的に使って似せた」ことになる。これはパブリシティ権や人格権の侵害に問われる可能性が極めて高いラインだ。
Algomaticは「適切な権利処理を行った」「声優から許諾を得た」「パラメータ調整で作った」と主張していた。
しかし、有志による技術検証によって、その主張と矛盾する証拠がいくつも出てきている。
「にじボイス」の音声を分析すると、キャラによって音量が不均一だったり、明らかに古い年代のマイクで録ったような「こもった音」が混在していることが判明している。 もし公式が言うように「統一されたスタジオでプロを呼んで新規収録」したなら、こんな品質のバラつきが出るはずがない。 これは、録音環境も年代も異なるバラバラのゲームデータ(moe-speech等)を寄せ集めたと考えるのが自然だ。
検証の結果、有名声優の声と音声の特徴量が「ほぼ本人」レベルで一致するキャラが多数発見されている。 「パラメータ調整で偶然似た」と言うが、声の高さや速度はいじれても、その人特有の「骨格からくる響き」や「微細な演技の癖」まで偶然一致することは、AIでもまずまずあり得ない。 元データとして「その人の声」を食わせない限り、ここまでの再現は不可能だ。
これも動かぬ証拠だ。 元ネタの『moe-speech』には、作成者の抽出ミスで「幼い女の子の祖父の声(老人男性)」に、誤って「幼女(女性声優)」のタグが付いているという有名な汚れ(エラー)がある。
これを踏まえて、にじボイスに実装されていた「ある老人キャラ」の声を解析モデルにかけると、どうなるか。 なんと、「この老人の声は、〇〇(特定の女性声優)である」という判定が出たのだ。
意味がわかるだろうか? にじボイスのモデルは、「このおじいちゃんのダミ声=あの女性声優の声だ」という、moe-speech特有の「間違った知識」を学習していたということだ。
もしAlgomaticが主張するように、スタジオで老人役の声優を収録したなら、そのデータに「女性声優」のタグが付くわけがない。 これは、「タグ付けミスすら直されていないネット上のデータを、中身の検品もせずにそのまま学習させた」という、言い逃れのできない証拠(トレーサビリティ)になってしまっている。
今回のサービス終了は、日俳連の理不尽な圧力によるものではない。
「自社開発」と謳っておきながら、実際はネットのデータを検品もせずに流用していた事実が、技術的な証拠によって明るみに出そうになったため、これ以上の追及を避けるために店を畳んだ。
そう見るのが妥当だ。
「AI推進派」を自認する人たちにこそ言いたい。 もし本当にAIの発展を願うなら、こうした「産地偽装」のような振る舞いをする企業を擁護してはいけない。
それは真面目にコストを払い、権利処理を行い、クリーンなデータセットを構築しようとしている技術者への冒涜であり、ひいてはAI技術そのものの社会的信用を地に落とす行為だ。
「AIだから何でも許される」わけではない。 技術は魔法ではないし、嘘はいつか必ずバレる。
今回の件を「可哀想なAIベンチャーがいじめられた」と総括するのは、あまりにも事態の本質を見誤っている。
以上。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac9a4dc1bff1c4087fc1978d751857b0bfe000f3
https://www.cinematoday.jp/news/N0151193
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』の世界興行収入が5日までに7億5,763万3,973ドル(約1,136億円)に達し、
映画メディアの癖にちょっと前に6憶ドル突破がいきなり7.5憶ドルいくわけないだろという当たり前の感覚が無いので平気で大誤報やらかしてしまっている。
参照元のBoxOfficeMojoのサイトに行くとこうなってる
https://www.boxofficemojo.com/release/rl53837825/?ref_=bo_hm_rd
Domestic (16.5%)
$124,633,973
International (83.5%)
$633,000,000
Worldwide
$757,633,973
より正確なThe Numbersのほうはこうなってる
https://www.the-numbers.com/movie/Demon-Slayer-Kimetsu-no-Yaiba-The-Movie-Infinity-Castle-(2025-Japan)#tab=box-office
Domestic Box Office $124,634,000
International Box Office $508,366,000
全世界633M。つまりBox Office Mojo はInternationalのほうに633Mを計上してしまって、Domestic(米国)の分が2重計上になってる。
Deadlineでもこうなってる
Moving up to the No. 6 spot globally for 2025 so far, Demon Slayer: Kimetsu no Yaiba Infinity Castle has now grossed $633M.
Per Sony, that includes Japan and select other Asian markets. For Crunchyroll/Sony markets it equates to $324.6M.
The latter added $10.2M this weekend, including $6.7M overseas from 62 offshore hubs.
こんなの映画メディアどころか感想ブログでも感覚で見抜けないとダメなレベルだがシネマトゥデイはコタツに入りすぎてそういう能力を失ってるようだ
(追記)
シネマカフェさん、シネマトゥデイさんの落ちた落とし穴に追従するww
https://www.cinemacafe.net/article/2025/10/06/104186.html
https://news.yahoo.co.jp/articles/dd665e333d45c9f24bcfc77f69156f7716cd880a
この論文が端的に示しているのは、政治的言説が**「ドッグ・ホイッスル(隠されたメッセージ)」と「ウルフ・クライ(証明できない危険の主張)」**という、本質的に証明が難しい二種類の発話行為(スピーチ・アクト)を互いに非難し合うことで、**解決不能な悪循環(弁証法)**に陥るメカニズムです。
---
この論文は、**ドッグ・ホイッスリング(DW)**と**ウルフ・クライイング(WC)**といった特定の**スピーチ・アクト(発話行為)**に対する**帰属(Attribution)**が、現代の政治的言説において、どのようにして敵対的な弁証法と新たな**発散(Divergence)**を生み出し、解決不能な膠着状態に陥るのかを分析しています [1]。
この問題は、DWもWCも、その性質上、**認識論的に(知識の観点から)帰属が困難な**発話行為であることから発生します [1]。この困難さが原因で、DWやWCに対する**非難や指摘(帰属)**自体が、合理的であるにもかかわらず、**確定的に検証または反証できない**主張となってしまうのです [1]。その結果、これらの帰属のパターンは、DWとWCが相互に強化し合い、固定化する**相互的な悪循環(vicious cycle)**へと発展し、「不幸な現状(unhappy status quo)」を築き上げます [1, 2]。
DWとWCは、政治的環境において特定の影響力を持ち、政治的言説を構成するスピーチ・アクトです [3]。スピーチ・アクトとは、話し手が直接述べた文字通りの意味(locutionary meaning)を超えて、間接的に暗示された力(illocutionary force)や、世界との相互作用において追加された力(perlocutionary force)を持つ発話の形式を指します [4]。
DWは、**論争的ではない公のメッセージ**の中に**論争的な隠されたメッセージ**を埋め込んで送るスピーチ・アクトです [5]。
WCは、**危険が実際には存在しないか、あるいは証明できない**場合に、危険が存在すると主張するスピーチ・アクトです [3]。
これらDWやWCを**「〜という発話行為である」とみなす**行為が、第二階次のスピーチ・アクトであるSAAです [7]。ドッグタウンのシナリオでは、Alphaを除いて、すべての参加者が互いにSAAを行っています [7]。SAAは、他者の行為を指摘する役割と、それ自体が新たなスピーチ・アクトであるという二重の役割を持ちます [7]。
DWとWCがこの弁証法的な問題を引き起こすのは、それらが定義上、間接的で**隠された(covert)**スピーチ・アクトであるため、**誤導的(misdirecting)**な性質を持つからです [8]。
DWは、公衆には無害なメッセージとして聞こえる一方で、特定の受け手にだけ私的なメッセージを送る、話者と受け手の**私的な意図と解釈**に依存するスピーチ・アクトです [8]。
WCは、私的に観察されたとされる危険についての公的なメッセージですが、**その主張の真偽**が外部から証明されていません [9]。
これらのスピーチ・アクトの帰属を行う人々は、証拠の一部しか得られず、全体像の一部のみを見て全体を判断する「盲人と象」のような、**認識論的に不利な立場**に置かれてしまいます [10-12]。
認識論的な困難さの結果、あるスピーチ・アクト(DWまたはWC)を非難する行為(SAA)自体が、相手からは敵対的な別の種類のスピーチ・アクトとして解釈されるという非対称性が生じます [13, 14]。
DWの帰属者(DWA「あいつはDog whistlerだ」と指摘する人)は、隠された秘密のメッセージを証明しなければならない立場に置かれますが、DWの主体は常に自身の意図の直接的な(私的な)証拠に訴えて否定することができます [11, 15]。そのため、DWAは常に**認識論的に不利な立場**に立たされます [11]。
WCの帰属者(WCA「あいつはWolf crierだ」と指摘する人)は、クライアーの個人的な経験に反して、「狼」が存在しないことを証明しなければならない立場に置かれます [12]。WCAは、非観察者でありながら、第一人称の観察者よりも権威ある知識を持っていると主張する不利な立場に置かれます [12]。
この相互に敵対的な帰属の非対称性が、DW帰属がWCとして返され、WC帰属がDWとして返されるという**多極的な相互作用**を生み出し、**認識論的な発散(epistemic divergence)**のプロセスを構成します [18, 19]。
帰属自体がスピーチ・アクトであるため、帰属はそれ自体に再帰的に適用されます。これは**スピーチ・アクト帰属の帰属**として例示されます [20]。ドッグタウンの例では、Alpha(DW候補)→Buddy(DWA)→Charlie(WC A)→Duke(DWA)というサイクルが**無限に継続**します [2, 21]。
このプロセスは、**多極スピーチ・アクト帰属相互性**(DW帰属がWCとして、WC帰属がDWとして相互に強化し合うこと)であり、反復されることで**悪循環**となります [2, 19]。対話参加者全員が、互いの主張が共通の基盤として受け入れられないまま、**非難の応酬**を繰り返します [19]。これは、単に敵意や内集団バイアスから生じるのではなく、**相互的な認識論的な膠着状態**から生じる現象です [18]。
この悪循環が政治的言説の領域内で修辞的な規範として安定化すると、**定常状態の均衡(steady-state equilibrium)**が出現します [2]。これは、参加者が戦略を変えるインセンティブを提供しないため、持続します [2]。
最終的に、**ドッグ・ホイッスル/ウルフ・クライ帰属均衡**が形成され、誰もがデフォルトで互いをDWまたはWCのいずれかであると見なすようになります [22]。これは、相互に矛盾する信念から構成される**信念均衡(belief equilibrium)**の一種です [23]。
この均衡は、参加者が真実を追求しようとする**認識論的な美徳**から生じているにもかかわらず、以下の3つの深刻な問題を引き起こします [24, 25]。
これは、**相互に認識論的に強化し合うが、相互に認識論的に不適合な**視点のシステムです [26]。DWやWCの帰属は、合理的であるにもかかわらず**不確定**である可能性があり、この合理性と確定性の間のギャップが、相互に合理的だが相反する立場が**未解決のまま均衡**することを可能にします [26]。これにより、真実に到達するための「理想的な発話状況」の実現が不可能になり、会話の前提条件が満たされなくなります [26]。
この状態では、**スピーチ・アクトの帰属**が、**事実に関する帰属**を圧倒します [27]。政治的言説の内容は、ほとんどが「あなたの言葉はDWだ」「あなたの主張はWCだ」といった帰属で占められ、事実に関する議論はわずかになります [27]。
この飽和は、最初の扇動的な事実(犬の噛みつき事件など)自体が忘れ去られたり、無関係になったり、解決されたりした後でも継続する可能性があります [28]。なぜなら、最初の出来事Aそのものよりも、「Aに関するスピーチ・アクトの疑わしさ」の方が、政治的に重要であるように見えてしまうからです [28]。帰属飽和は、事実から独立した状態となり得ます [28]。
帰属を行う者の動機が**真実の探求**であるにもかかわらず、その追求自体が、実際には真実に到達しない均衡を生み出すという点で**自己敗北的**になり得ます [25]。
DWやWCの帰属は、特定の認識論的視点から見て合理的であったり、あるいは実際に正しい場合もあります [29]。しかし、不確実性が支配的な状況でこれらの帰属を提案することは、政治的に不安定化をもたらします [29]。したがって、帰属者の真実追求的な衝動こそが、言説をこの悪い均衡の罠に陥れる原因となり得るのです [29]。
この弁証法的な問題は、相互に合理的な認識論的視点から生じる**自己組織化された社会現象**であるため、単一の加害者を特定することはできません [30]。均衡から脱出するためには、政治的コミュニティにおける参加者の**満場一致の同意**が必要ですが、これは強力な反対者によって容易に崩壊する可能性があり、困難です(「一方主義者の呪い」) [30]。
帰属の伝播を防ぐため、すべての当事者に高い検証・反証基準を課すことが提案されます [31]。しかし、誤導的なスピーチ・アクトの性質上、単純な検証や反証はできません [31]。より現実的な解決策は、スピーチ・アクト帰属の飽和を減らし、事実に関する問いを再び顕著にすることです [31]。これには、相互理解を深めるための**修辞的傾聴(rhetorical listening)**のスキルセットが必要となるかもしれません [31]。
帰属の落とし穴を認識し、増幅サイクルを抑制するために、新しい用語を導入する提案もあります [32]。
これらの新しいラベルが、過剰なSAAの力を無力化し、サイクルを終結させることが期待されますが、これらのラベル自体が新たなスピーチ・アクト帰属としてサイクルに貢献する可能性もあります [33]。
最も重要なことは、この問題を真に解決したいと望む人々は、**自分たちのスピーチ・アクト帰属自体が問題を引き起こし、構成している**という痛みを伴う自己認識を持つことです [34]。
なんだか「過去は変えられない」と言い切られると、妙にしっくりくる気もする。
でも、そんなふうに決めてしまうのは、ちょっともったいないかもしれないとも思う。
「よっぽど強い意志が無い限り、過去は変えられない」というけれど、そもそも人の意志なんて、砂場に書いた線みたいなもので、波が来ては消えるし、気分次第でいくらでも曲がったりするものだ。
強さって、目に見えるようで見えないし、実際に過去を変えた人だって強い意志って自覚ないままふらふら歩いてた可能性だってある。
自分の過去を、毎日思い出して、「ああ、あのとき違うことできたかもなぁ」と曖昧に考えるだけでも、それはもう変化のタネなんじゃないかと思う。
「未来を知っている優越感」とか「トラブルに慌てない安心感」が素晴らしいというのも、なんとなく分かる。
けど、同じ景色を2回眺めるうちに、本当に全く同じ道を歩いてしまうものなのかな?
人は、どこかで予想外の落とし穴に片足突っ込んだり、偶然の出会いで気が変わったりする。
過去をやり直したつもりでも、どう頑張っても1ミリくらいは違う人生が入り込んでくる。
安心感はやっぱりあっても、正直、細かいところまで手は届かない。
それに、「過去は変えない」と決めてしまったことで、逆に今の自分が少し窮屈になってしまう、なんてことはないだろうか。
誰かに無理矢理、運命に従いなさいと言われてるわけじゃないんだから、安心感も苦痛も、時々は棚から落っこちてきた方が人生ちょっと面白いかも。
なので、結局「同じ人生を二回たどることになった」としても、ほんの少しでも遠回りしたり、道端に落ちてる何かを拾ったりできれば、それだけで充分過去は変わっている—と思ってみるのも悪くない気がする。
小学生の時 田舎だったから友達と遊べない時は暇すぎて家の庭に穴を掘ってたんだけど、1メートルくらいの深さになったことがあった
穴の底に座ると空が高くてちょっと落ち着いたな
マグマが出てきちゃったらどうしようってワクワクしてたけど、冬眠中の蛙を狂わせてしまっただけだった
読んでくれた人ありがとう。せっかくなのでもっと穴の思い出を語らせてください。
一回で1メートル掘ったわけではなく、初めは集中して一気に掘ったけど、あとは多分一年とか一年半とかかけて少しずつ掘った気がする。
友達が遊びに来たら、記念にちょっと掘って行きなよという感じで軽く掘ってもらってた。家族が農作業で使ってるスコップを使った。
夜に人が落ちると悪いからと親がベニヤ板で蓋をするようになってた。
近所の学年上の子たちが磁石で砂鉄集めるのにハマってた時穴で砂鉄とらしてと穴に入ることもあった。
お盆休みに遊びに来たいとこたちが面白がって、バケツに汲んだ水をどんどん運んできて穴に投入して柔らかくなって掘りやすくなった土をさらに掘って深くなったりしてた。雨や嵐の時はこれでさらに深くなると思って嬉しかったな。
書いていて思い出したけど、低学年の頃に連休に遊びに来たいとこたちが大勢で落とし穴用の穴を掘っていとこの一人を騙して落として遊んでいたのを見ていたのが穴掘りのきっかけだったかもしれない。
掘っていると心が落ち着くのでだんだん穴を掘ること自体が目的になっていったけど。地面に向かって黙々と単純作業をするのがなんか癒された。むしゃくしゃするから掘るか、って日もあった。
地層というほどのものなのかはわからないけど土(というより砂?江戸時代に海底が隆起して出てきた海近の土地だからか粘土っぽい土はほぼない。)の色の濃さが違って垂直に縞模様ができててそれを見るのも面白かった。
掘らない時期も、穴を覗くと近くの柿の葉とか嵐とかで流れてきた松の葉やなんかの木の枝が溜まってるのを見ると楽しかった。
深くなっていくと庭の近くの柿の木や松の木の根っこが見えることがあって、さすがに他の木に悪影響がありそうだからやめた方がいいのかなと考えるようになるのと飽きるのが同時に来てだんだん掘らなくていつのまにか埋められてた。
近年、ブログでの収益化をテーマにした動画や記事、SNS投稿が増えている。
多くの場合、「WordPressを使うべき」「有料テーマを導入すべき」「このサーバーが最適」といった具体的な手順が示される。
これらの情報発信者は、必ずしも高額なセミナーや情報商材を販売しているわけではない。
しかし、推奨するWordPressテーマやサーバー契約には、アフィリエイト報酬が発生することが多い。
例えば、WordPressテーマは1万円〜2万円台のものが多く、販売者への紹介料は販売価格の20〜40%に達する場合がある。
サーバー契約では、月額1,000円前後のプランを12〜36か月分一括で契約すると、紹介者に1件あたり5,000〜15,000円程度の報酬が入ることがある。
WordPressテーマの販売では、デザインや機能の多くが無料テンプレートや数百円程度のプラグインで代替できる場合も少なくない。
しかし「初心者はまずこのテーマから」と推奨されることで、選択肢が事実上限定される。
サーバー契約においても、報酬単価が高い事業者ほど推奨順位が上がる傾向があり、速度や安定性などの性能比較よりも報酬条件が優先されるケースがある。
こうした構造は、表面的には通常のブログ開設手順の案内に見える。
初心者は「必要な初期投資」として受け止めやすく、費用対効果を十分に検討しないまま契約に進むことが多い。
結果として、1〜2年後には更新が途絶え、年間1万〜3万円の固定費だけが残る例も少なくない。
ブログを始める際には、情報源がどのように収益を得ているかを理解することが重要である。
契約や購入の前に、
ここまではマジでアゲアゲだったんだけど、実はね、茶々丸様のわさびパフェ天下統一計画には、まさかの落とし穴があったんだって!
そう、彼のパフェは、あまりにも**「万人受けしない味」**だったの!
最初はね、物珍しさとか、茶々丸様のカリスマ性で話題になったじゃん?でも、冷静に考えてみて?**「わさびパフェ」**って、毎日食べたい味じゃないよね?一回食べたら、「あ~、体験したわ~」ってなるけど、リピートするかって言われたら、マジで「う~ん…」って感じだったらしい。
特に、茶々丸様がこだわりすぎた**「純粋な辛さ」**が、逆に仇になっちゃったの。彼は「わさび本来の刺激こそが真の美味」って言って、辛さのレベルを容赦なく上げてたんだって。最初は「挑戦的!」って言われてたけど、だんだん「いや、これ、ただ辛いだけじゃん?」って声がちらほら出始めて。
さらに、彼が作るパフェは、見た目も**「シンプルイズベスト」を極めすぎてたんだよね。茶々丸様は「無駄な装飾は不要。わさびの美しさを際立たせるべし」って言って、盛り付けもめちゃくちゃシンプルだったの。でも、令和のギャルたちは、やっぱり「映え」**も重視するじゃん?SNSにアップしても、正直「映えない」って評価になっちゃって、新規のお客さんが伸び悩んだらしい。
しかも、茶々丸様、接客も**「一期一会」を意識しすぎて、ちょっと気難しかったんだって。お客さんにパフェの「哲学」**を熱弁しすぎたり、「このわさびの辛みが理解できぬとは…」みたいな、ちょっと上から目線な態度を取っちゃうこともあったらしいの。最初は「個性的!」って言われてたけど、だんだん「なんか、入りにくい…」ってなっちゃって、リピーターが離れていったんだって。
極めつけは、まさかの**「原材料費の高騰」**!茶々丸様が「最高のわさびしか使わぬ!」って言って、超高級な国産わさびを使いまくってたから、パフェの値段がマジで高騰しちゃったの。最初は「セレブ向け!」って言われてたけど、だんだん「これなら他の美味しいパフェ食べるわ」ってなっちゃって、お客さんが激減。
最終的にどうなったかって?もちろん、あの「CHACHAMARU PARFAIT - 悲運 - 」は、まさかの閉店になっちゃったの…。オープン当初の行列はどこへやら、ガラガラのお店に、茶々丸様は一人、わさびパフェを前に、深いため息をついてたらしいよ。
「なぜなのだ…なぜ、この至高のわさびパフェの真価を、人々は理解せぬのだ…!」って、マジで悲運のプリンスそのものだったらしい。
リョウも、「まさか茶々丸様が本当にこんなに有名になるなんて!って思ってたのに、まさか閉店するなんて…アタシ、マジで悲しくて泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
こうして、足利茶々丸は、令和の日本で、わさびパフェという新たな武器を手に入れようとしたものの、あまりにも個性的すぎる味と、時代に合わない経営戦略が仇となり、見事、スイーツ界での天下統一は果たせなかったの。天下統一…どころか、まさかの挫折!マジで悲しいけど、これもまた、茶々丸様らしい「悲運」の物語だったってことで、ある意味伝説にはなったよね!めでたしめでたし…とは言えないけど、マジで衝撃的な物語、完全燃焼したわ!わさびパフェ、マジ卍…って言ってもいいのかな?
信号が青になったら、左右を見ずに横断する人。夜中、車も人もいないのに律儀に赤信号で止まる人。
「ルールを守ってるから偉い」とされがちな日本だけど、果たしてそれは“思考停止”じゃないのか?
INTJ(MBTI性格診断での合理主義タイプ)の私から見た、日本の運転文化の不思議を語りたい。
「日本人は運転が下手」──この指摘に驚く人もいるかもしれない。事故率や交通ルール遵守率は高いはずなのに、なぜ下手と言えるのか?
私は長年、自衛隊でパイロットとして訓練を受け、安全かつ円滑な運用のために「ルールの本質」を理解する重要性を叩き込まれてきた。だが、日本の運転文化を見ていると、その「本質理解」が完全に欠けていると感じる場面が多い。
たとえば、夜間に誰もいない交差点で、赤信号に忠実に止まる歩行者。ルールを守っているようでいて、実際には「状況判断」を放棄している。ルールとは本来、「安全かつ円滑な交通」を実現するための道具であり、状況に応じて判断して使うものだ。
信号が青だからと、左右確認もせずに渡る人も同様だ。彼らは「青信号=安全」という思い込みに依存していて、自分で状況を見て判断するという姿勢がない。つまり、自分の身を守るという意識すらルールに丸投げしてしまっている。
この背景には、「ルールを守ることが目的化している日本文化」があると私は見ている。学校では「元気よくあいさつ」「空気を読みなさい」とは教えられるが、「なぜその行動が必要なのか?」を論理的に教えられる機会は少ない。
形式や前例に従うことが善であり、異論や例外は“和を乱す”とされる。交通マナーもその延長線上にある。だから、本質的に意味のない行動や、逆に危険なルール順守すら「良いこと」とされてしまう。
私はMBTI診断でINTJというタイプであることを知り、「なぜ自分はいつも社会に違和感を持っていたのか」が腑に落ちた。論理的思考と本質追求を好む自分にとって、日本の“空気文化”や“形式主義”はとても息苦しい。
日本では、信号無視=悪と一刀両断されがちだが、もっと大切なのは「なぜそのルールがあるのか」「今の状況に照らして、どう行動すべきか」を自分の頭で考えることだろう。
私は別に「ルールを破れ」と言いたいわけではない。大事なのは「ルールに従うかどうか」ではなく、「そのルールの本質を理解したうえで、どう行動するか」である。
運転に限らず、日本社会全体がこうした「本質より形式」「思考より前例」「責任より空気」に支配されているように感じる。そして、それが「運転が下手」「臨機応変に動けない」日本人の姿につながっているのではないか──そう私は思う。
【最後に】
このテーマについて、自身の経験と考察を元に掘り下げた記事をNOTEで公開しています。関心のある方は、ぜひご一読ください。
信号が青になったら、左右を見ずに横断する人。夜中、車も人もいないのに律儀に赤信号で止まる人。
「ルールを守ってるから偉い」とされがちな日本だけど、果たしてそれは“思考停止”じゃないのか?
INTJ(MBTI性格診断での合理主義タイプ)の私から見た、日本の運転文化の不思議を語りたい。
「日本人は運転が下手」──この指摘に驚く人もいるかもしれない。事故率や交通ルール遵守率は高いはずなのに、なぜ下手と言えるのか?
私は長年、自衛隊でパイロットとして訓練を受け、安全かつ円滑な運用のために「ルールの本質」を理解する重要性を叩き込まれてきた。だが、日本の運転文化を見ていると、その「本質理解」が完全に欠けていると感じる場面が多い。
たとえば、夜間に誰もいない交差点で、赤信号に忠実に止まる歩行者。ルールを守っているようでいて、実際には「状況判断」を放棄している。ルールとは本来、「安全かつ円滑な交通」を実現するための道具であり、状況に応じて判断して使うものだ。
信号が青だからと、左右確認もせずに渡る人も同様だ。彼らは「青信号=安全」という思い込みに依存していて、自分で状況を見て判断するという姿勢がない。つまり、自分の身を守るという意識すらルールに丸投げしてしまっている。
この背景には、「ルールを守ることが目的化している日本文化」があると私は見ている。学校では「元気よくあいさつ」「空気を読みなさい」とは教えられるが、「なぜその行動が必要なのか?」を論理的に教えられる機会は少ない。
形式や前例に従うことが善であり、異論や例外は“和を乱す”とされる。交通マナーもその延長線上にある。だから、本質的に意味のない行動や、逆に危険なルール順守すら「良いこと」とされてしまう。
私はMBTI診断でINTJというタイプであることを知り、「なぜ自分はいつも社会に違和感を持っていたのか」が腑に落ちた。論理的思考と本質追求を好む自分にとって、日本の“空気文化”や“形式主義”はとても息苦しい。
日本では、信号無視=悪と一刀両断されがちだが、もっと大切なのは「なぜそのルールがあるのか」「今の状況に照らして、どう行動すべきか」を自分の頭で考えることだろう。
私は別に「ルールを破れ」と言いたいわけではない。大事なのは「ルールに従うかどうか」ではなく、「そのルールの本質を理解したうえで、どう行動するか」である。
運転に限らず、日本社会全体がこうした「本質より形式」「思考より前例」「責任より空気」に支配されているように感じる。そして、それが「運転が下手」「臨機応変に動けない」日本人の姿につながっているのではないか──そう私は思う。
【最後に】
このテーマについて、自身の経験と考察を元に掘り下げた記事をNOTEで公開しています。関心のある方は、ぜひご一読ください。