はてなキーワード: 肥大化とは
憲法9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定め、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と続く。
一部では「個別的自衛権は行使可能」と主張されるが、憲法条文のどこにもそのような規定は存在しない。9条は明確に武力行使を禁じているように読める。個別的自衛権の行使を認めるためには、少なくとも条文上、あるいは明確な改正による根拠が必要である。現行のまま「できる」と言い切るのは、条文を超えた解釈の域を出ない。
さらに問題が深刻なのは、集団的自衛権の行使に関する議論である。政府はこれまで、憲法9条の下で限定的な集団的自衛権行使を可能とする解釈を採用してきた。これは「解釈改憲」とも呼ばれる手法であり、条文の文言を拡大解釈することで現実対応を図ってきた結果である。しかし、このような拡大解釈を繰り返さざるを得ない状況自体が、憲法9条が非現実的な内容であることの証左に他ならない。平和を希求する崇高な理想は尊重されるべきだが、国家の安全保障という現実を無視した条文は、異常事態と言わざるを得ない。
憲法9条の制約により、自衛隊は「軍隊」ではなく「専守防衛のための必要最小限の実力組織」と位置づけられている。しかし、現実には自衛隊は高度に組織化された暴力装置として機能しており、その装備・訓練・能力は多くの国々の正規軍と遜色ない。
ここに深刻な矛盾が生じる。軍隊であれば、通常は軍法会議や軍刑法といった特別な規律・統制システムが存在する。部隊の規律維持、戦時下の指揮命令系統の明確化、違法行為への迅速な対応などがそれに該当する。ところが自衛隊には、そうした軍事特有の統制枠組みが憲法上・法律上十分に整備されていない。実質的に軍隊と同等の役割を担いながら、軍隊としての法的統制手段を持たないという異常な状態が続いている。
この状況は、立憲主義の原則に照らしても問題である。国家の暴力装置は、明確な文民統制(シビリアン・コントロール)の下に置かれなければならない。曖昧な解釈に頼る限り、統制の枠組みは脆弱なままだ。
これまで政府は、憲法9条を「恣意的」とも言えるほど柔軟に解釈し、自衛隊の活動範囲を拡大してきた。しかし、解釈の積み重ねには限界がある。解釈が度を越せば、憲法の規範性そのものが損なわれ、結局は「憲法が機能していない」状態を招く。
最も懸念されるのは、自衛隊のコントロール可能性である。9条の制約を無視するような拡大解釈を続けていけば、組織としての自衛隊が政治的・法的統制から離れていくリスクが生じる。軍事組織が文民統制を逸脱する兆候が見えたとき、既に手遅れとなる可能性がある。歴史は、曖昧な憲法規範の下で軍事が肥大化した事例をいくつも示している。
立憲主義とは、憲法が最高規範として国家権力を拘束し、権力の濫用を防ぐ仕組みである。しかし、憲法が現実と乖離し、解釈で無理やり繋ぎ止められている状態は、真の立憲主義とは言えない。むしろ、憲法の空文化を招き、結果として法の支配を弱体化させる。
日本は今こそ、国民的議論を経て憲法を改正すべきである。特に9条については、自衛隊を明確に「軍隊」として位置づけ、個別的自衛権はもちろん、国際社会における責任ある役割(QUADの深化、東南アジア各国との軍事同盟)を可能とする現実的な規定に改めるべきだ。同時に、文民統制を強化するための軍法体系の整備も不可欠である。
・アドレスが長く、覚えられない。口頭で読み上げるのが困難
・340澗個のアドレスを使い切ったら枯渇する
ということが考えられる。
ここで思い出すのが、ドメイン名は枯渇していないということだ。可変長文字列であるドメイン名は、文字数を増やすことで理論上無限にアドレスを作り出せる。そして、現実の運用上、インターネット利用の大部分は URL を使用している。ユーザーは文字数の URL を指定しているのに、それをわざわざ DNS で 32 ビットの数値に変換してアドレスが足りないと言っているのだ。とすれば、次世代 IP の設計は明確ではないか。IP ネットワークがドメイン名を直接解釈してルーティングするのだ。
IP ヘッダーは次のようになろう。
・ヘッダ長:送信元ドメインと宛先ドメインの長さを含めたヘッダ長
・(中略)
・宛先ドメイン長
・拡張情報:ここに実際のドメイン名が入る。家庭からの通信の場合「契約者ID.プロバイダ名.ne.jp」みたいな。
このように個々のパケットにいちいち文字列でドメイン名をくっつけるのだ。
DNS は廃止する。各ルーターは文字列をキーとした経路情報を持ち、宛先ドメインと経路情報の文字列比較をしてルーティングを行う。ここで、アドレスは「.」で区切ってサフィックスマッチをすることが可能だ。もし宛先が「anond.hatelabo.jp」で経路情報に「hatelabo.jp」しか登録されていなかった場合、このパケットは「hatelabo.jp」に向けてルーティングできる。これにより経路情報の肥大化が抑えられる。
現在進行している自転車への「青切符」導入議論において、国土交通省の発表資料および「オールドメディア」と揶揄される既存報道機関による情報発信には、
国民の正確な判断を妨げる深刻なミスリードが含まれている。実態に基づかない「自転車の危険性」のみを強調する現在の世論工作に対し、以下の4点において強く抗議する。
報道の多くは「自転車が危険になっている」という印象を植え付けているが、警察庁の統計資料を見れば、自転車が当事者となる事故件数自体は長期的に減少、あるいは横ばい傾向にある。客観的な「事故件数の年次推移グラフ」を提示せず、特定の強い印象を残す断片的な情報のみを強調することは、事実を歪曲する不誠実な報道姿勢である。
2. 生データではなく「加工された2次データ」による数字のすり替え
事故の絶対数(1次データ)ではなく、「全事故件数に占める自転車事故の割合」といった加工済みの2次データを用いる手法は極めて悪質である。自動車事故が安全技術の向上により急減した結果、相対的に自転車の割合が上がって見えるだけであり、これは「自転車が以前より危険になった」ことを意味しない。分母の変化を無視した統計の悪用は、国民に対する重大な欺瞞である。自動車事故は年々、急激に減っているのだからそれと自転車事故件数を比較して、割合が増えてるグラフを表示しても、それは自転車の危険を意味しない。
取締りによる「検挙数」の増加を、さも「違反や事故の危険が増えた」証拠として扱うのは論理破綻している。交通安全週間などの取締り期間を2倍、5倍に増やせば、検挙数も比例して増えるのは自明であり、数字は行政側で容易に操作可能である。取締りの強化という「行政側の行動結果」を、利用者の「モラルの低下」にすり替える論法は断じて容認できない。
全体の事故件数が減少しているにもかかわらず、事故要因が複数ある中から「一時的に微増している特定の項目(スマホみながら運転)」や「限定的な条件下のデータ」のみを抽出して強調している。多角的な要因分析(インフラ整備の遅れや車両側の問題等)を放棄し、一部の数値のみを肥大化させて自転車利用者のみを悪者にする手法は、法改正の正当性を無理に作り出すための世論工作と言わざるを得ない。
正確な統計データに基づかない法整備は、国民の権利を不当に侵害し、真の交通安全には寄与しない。国土交通省および各報道機関は、特定の結論に導くための数字の加工をやめ、科学的かつ公平なデータを国民に提示すべきである。
公式スタッフや作者への「突撃」や誹謗中傷が起きる心理的な背景には、ファンの「歪んだ正義感」や「自己アイデンティティの危機」が深く関わっています。
ソースに基づき、その心理的な要因を整理すると以下のようになります。
最も大きな要因の一つは、「自分の妄想や解釈こそが正解であり、それに反する展開を描く公式は間違いを犯した」という主客転倒した思い込みです。
一部のファンは、二次創作を「公式の予測」や「公式と地続きのもの」と誤認しており、自分の望まない展開(ノマ爆など)を公式による「改悪」や「裏切り」と捉え、正義感からそれを「正そう」として攻撃に走ります。
SNS上で特定のカップリングを推すことが、その人のキャラクター性やアイデンティティの根幹になっている場合があります。
公式によってそのカップリングが否定される(爆破される)ことは、単にストーリーが気に入らないというレベルを超え、「自分自身の存在価値や居場所が破壊された」という衝撃を与えます。
突撃を行う人々は、自分たちを「公式の不誠実な描写によって傷つけられた被害者」であると認識しています。
一部のファン(特に「喪女」としての自意識を持つ層など)にとって、作品は「生々しい現実や自分の性別から逃げるためのはけ口」となっています。
公式が異性愛を確定させることは、彼女らを強制的に現実(自分がもてない現実や、嫌悪している異性愛主義の世界)に引き戻す行為と見なされます。
この「安息の地を奪われた」という怒りが、元凶である公式スタッフへと向けられます。
ショックが大きすぎるあまり、「制作側が極右思想や統一教会などの宗教団体に支配されている」といったデマや陰謀論を信じ込み、それを根拠に「公式を浄化しなければならない」という使命感を持って攻撃するケースも報告されています。
このように、公式への突撃は、「ファンとしての分をわきまえず、作品を自分の思想やアイデンティティを肯定するための道具と見なしている」という心理状態から引き起こされています。
フロントエンドもバックエンドも、何でもかんでもNode.jsに依存するようになって久しい
開発のたびにプロジェクトのディレクトリに生み出されるブラックホール、それがnode_modulesだ
ちょっとしたツールを作るだけで平気で数百MBのディスク容量を食いつぶす
DenoだのBunだの、新しいランタイムが次々に出てきてはいる
それでも現実は甘くない
仕事の現場ではどうしてもnpmエコシステムから逃れられないのがつらい
パッケージを一つインストールするだけで、芋づる式に何十もの依存関係がくっついてくる
自分の書いたコードは数十行なのに、依存パッケージのファイル数は数万個なんてザラだ
日々積み重なる恨みは以下の通りだ
2026年3月末にあの超有名パッケージが侵害され、マルウェア入りのバージョンが公開された
週間1億ダウンロードの代物が乗っ取られるなんて、控えめに言って地獄だろう
いくら気をつけていても、一番根幹のライブラリがやられたら防ぎようがない
ただ、何十階建てのジェンガみたいな依存関係の仕組みは、もはや限界が来ているのではないか
もうちょっとどうにか仕組みで防げないのかと
みんなどうやってこの巨大な闇と折り合いをつけているんだ?
PS5が再び値上げされるようです。部品価格の高騰や駆け込み需要、ハード赤字の圧縮など理由は挙げられていますが、私が最も注目したのは日本版デジタルエディションだけ価格を据え置いた点です。これは、実質的にリージョンフリー版のフェードアウトを意味しており、ソニーがハードの販売戦略を縮小方向に舵を切った兆候と見ています。
そもそも、現在のソニーにとってプレイステーションを維持するインセンティブは大きく低下しています。PS3の失敗でSCEがSIEに再編されたのは経済合理性として当然でした。当時はテレビ事業や光学メディア事業と強いシナジーがあり、プレステはそれらを牽引する存在でした。しかし現在、光学メディアは退潮し、レンタルビデオも縮小、そしてついにテレビ事業すら切り離されました。こうなると、ソニー本体にとってプレステを維持する意味はほとんど残っていません。
PS5が商売として厳しいと判断できる理由は他にもあります。最近のシュータータイトル「Concord」が基本無料にできなかった点です。ユーザー数を増やすには基本無料が必須ですが、それができないということは運転資金が逼迫している可能性を示唆します。PS5の値上げも同様で、ソニーにとっては短期的な現金確保として有効だからです。
そしてPS6ですが、20万円を超えるという観測もありますが、私はそもそも発売自体が極めて困難だと見ています。理由は、AI時代におけるハードウェア要件が根本的に変わってしまったからです。
ゲーム開発にAIが急速に入り込んでいますが、問題は「AIがどの環境で最も効率的に動くか」です。近年のゲームが重い原因は肥大化したゲームエンジンにありますが、AIはC++レベルでコードを生成できるため、軽量・高速・低メモリ消費のコードを自動生成できるようになります。MSのForza Horizon 6の必要スペックが低いのは、まさにAI最適化の恩恵です。AIの恩恵を最も受けるのはPCとXboxであり、次点が任天堂です。枯れたハードは学習データが豊富だからです。
しかしPSだけがAIの恩恵を受けられません。ハードウェアもSDKも歴史的経緯から完全クローズドであり、これはAI開発にとって致命的です。クローズドであるということは、AIが学習できるデータが極端に限られるということです。XboxがNDAすら撤廃してオープン化したのは、AI開発を加速させるためでしょう。
さらにアートワーク領域でも、プレステはAIの恩恵を受けられません。欧米スタジオの労働組合がAIアートを強く排除しており、PSタイトルの一部アセットがAI生成だとされ炎上した件も、内部リークの可能性が高いと見ています。1秒しか表示されない画像に過剰反応するのは、もはやラッダイト運動に近い状況です。
AI世代では、ハードウェアも開発環境もオープン化が必須です。しかしプレステは歴史的に違法コピーに悩まされてきたため、SIEがオープン化を決断できるとは思えません。パッケージビジネスも崩壊しつつあり、価格破壊が進んで定価で買う理由もありません。これはアタリショックを彷彿とさせます。
こうなると、プレステは一定のシェアを維持しているものの、事業としては破綻に向かっていると見るしかありません。市場を縮小させながら延命するしかなく、これは本末転倒です。最終的には、テレビ事業と同じく外部への売却・合弁を経て、AI前提のハードウェアへ再構築する以外に道はないのではないかと考えています。
学生時代から続けていた小説の執筆の再開を頭の片隅で検討している。以前と比べて、より自分を俯瞰した視点の追加。青年期の自己没頭ではなく、より突き放した姿勢での執筆。できるだろうか? ただし、酷評によって激しく挫折した行為を再開することは、傷ついた経験を必要以上に直視することになる。昔は数十万文字の長編を平気で書いていたのだが、今となっては短編を書くことさえ億劫だ(※余談:「創作意欲を復活させるには官能小説を書くいい」という示唆を見かけたので真面目に試したが、読者の欲望をコントロールするのがすごく難しいことがわかり、千文字くらい書いたところで挫折している。僕にはこの方向性は無理だった。別に官能小説でなくても、「好きなシチュエーションを詰め込みなさい」という意味ならまだ可能かもしれない。あえて読者のことを考えず自己満足でやれってことか?)。本気でやるなら、ゼロからやり直すくらいの気持ちでいたほうがいい。
それに、自分が何を考えて、何を求めているかを突き詰めるのには、小説よりもこうした記事のほうがより優れている。人と交流したいとか、ちやほやされたいとかなら創作に戻る手もあるが、他人から評価されることがそこまで幸せかどうかはわからない。逆に、創作での挫折から、文学へ愛憎混じった屈折した気持ちを抱えてしまっているのも、読書のペースダウンの一因かもしれない(なんか普通に面白い本を読んでライターズブロックの読者版を打ち砕きたくはある。漫画ならギリギリ読めるし)。
だが、結局、創作よりはこういう形で、己の内面を丁寧に観察し、その背景として価値観や意欲がどう変わったかを、仮説を立てて検討していく方が面白い。
そして今気づいたのだが、大量に読書をして、作家として認められたいという気持ちがあったのは、等身大の自分を認められずに、自分を大きく見せようとしていたからではあるまいか?
昔は沢山いろんな作品を鑑賞したかった。これぞ最高というものがどうしても欲しかった。限界まで知識を頭に詰め込みたかった。映画、ゲーム、いろいろな作品を味わいたかった。自分には何かが欠けていると感じていた。
だが、世界的な傑作であっても、そこから得られる喜びにはおのずと限界があり、さらには、他人の書いた物語をたどるよりも、自分の生きている人生に意味を与えていくことに、より深い意義を見出している。そして、文豪の作品という杖がなくても、自分の生きる実感に支えられて僕はちゃんと歩いて行ける。結局自分の人生がどんな作品よりも一番面白い。
多くの小説が読めなくなったのはそれが原因だろうか。さらに年を重ね、中年の危機や老人の危機が訪れたときのように、今ぶつかっていない壁に新たに当たったときに、読める本を探すことになるだろうか。
読まなくてもいい、だが読んだらそれなりに楽しい。趣味としての読書はそれくらいのゆるい付き合いに変わっていくのだろう。無理して月10冊を読むよりも、5冊に減らして人間関係を重んじるべきか。
今、まだ本が読めないので、この夏行きたい都市のガイドブックや、あえて漫画を読みまくっている。だが、漫画にしても、読む冊数を増やしたが、ドはまりはしていない。みんなみたいに熱狂できないのがちょっと寂しい。だが、熱狂できる作品に出会うためには、多読しないとダメだろう。そこまでの気力はない(あるいはみんな気晴らし程度に読んでいて、ネットで熱く語っているのはごくごくわずかな人だけなのか)。
ユーザーに一定の予備知識があれば、生成AIのハルシネーションによる危険はかなり防げる。大学教養レベルの水準であればかなり調査に役立つ。幅広くコンセンサスが取れている言語学の知識とかはそうだ(逆に単純な出典探しはまだまだ弱い)。
書籍に含まれる雑談によるランダムネス、あるいは著者自身の人生経験や偏見という良い意味でのノイズ(知識を得るためだけならノイズだろう)というアドバンテージはまだまだあるが、少なくとも自分にとって本を読むことの意義を再検討するときが来ているのかもわからない。
自分の小説が商業で売れることや、自分の今までの人生の苦しみ・障害のもたらした苦痛について語った文章が、広く読まれたり、出版されたりする空想は、なんというか、最終選考まで行って手が届きかけたからか、「たられば」を考え出すと焦燥感に駆られてくる。あまり幸せな考えではない。
それよりも、パートナーがどうすれば喜んでくれるかについて考えたほうがよほど幸せだ。たぶん、自分を大きくしようとするエゴに捕まっていると、苦しくなるのだろう。
知識欲が衰えた理由の一つとして、自己防衛をしなくてよくなったからだと述べた。だが、それ以外に、こうして自分だけが貪欲に知識を得て、エゴというか自分を肥大化させるself-absorptionの道だけでは、行き止まりだと、無意識に思っているのではないか。そして、自分が語った物語が他者から承認されることで、その物語で自分を縛ってしまうことになる。
※このあたりの議論を生成AIに食わせると、エリクソンの自己超越(Self-Transcendence)への移行期や、ユングの「人生の正午」、「エナンティオドロミア(反転)」などという表現を持ち出してくる。そして、「老年期の境地を、成熟した知性が先取りしてしまったことによる困惑」などという仮説を持ち出したが、これは怪しい。まだ四十歳じゃないんだから中年の危機にはちょっと早すぎないか。たぶんAIにユングについて議論した影響で、こんな概念を持ち出してくるに違いない。
ただ、自分は何が欲しくて、何がもういらないかを考え直す時期には来ているのだろう。無批判に知識を増やすのには限界がある。
それよりは旅先の何となくの身体感覚からの入力、肌をなでる風や日差し、足元の起伏などのほうがずっと幸せにしてくれる。
他者のために生きるにはいろんな方法があるが、自分の障害や人生経験をもとに、誰かに手を差し伸べるのもひとつの方法だ。こうした贈与的な側面から実現させることも可能だろう。さっき書いた自分の経験を広く読まれたいという気持ちにもつながっているが、つまるところ、エゴと非エゴは絡み合っており、厳密に定義できるものではない。友人から「障害がある人と接する上での心得を教えてほしい」と言われたときには数千文字の文章をすらすらと書けた。物語ではなく、事実ベースで文章を書く回路は生きている。バズるためだけではなく、友人の悩みにこたえるための文章ならまだ喜んで書ける。
つまるところ知識欲という、自分を磨き続ける自己中心性から、その知識で他者にどうやって手を差し伸べるか、だろうか?
僕の中で価値観は大きく変わりつつあるようだが、特に病的な物じゃなさそうだし、ここ数年の変化を見ながらのんびりやっていきましょう。
年末年始にまた、2026年に読んだ本についてまた何か書くかもしれない。そのときにドイツ語にまだ飽きていないかどうかはわからない。
これは比喩でも誇張でもない。連中はインセンティブ構造を無視し、価格システムという自動操縦装置を蹴り飛ばし、その結果として自己放尿を繰り返しているにすぎない。
まず戦争、これは最も露骨な自己放尿だ。資源配分の観点から見れば、戦争は巨大なネガティブサムゲームであり、本来ならば市場における自発的交換で達成されるはずの厚生を破壊する。
にもかかわらず、権力者は政治的利得という局所的インセンティブに従い、長期的な社会的費用を完全に無視する。
合理的無知に支えられた大衆と、集中利益を享受する軍需複合体。この構図そのものが、権力と暴力のダブル放尿だ。
次にケインズ派的発想。裁量的な需要管理?笑わせるな。貨幣供給の不安定性こそがマクロの攪乱要因であるにもかかわらず、権力者は短期的な景気刺激という幻想に酔い、ルールではなく裁量を選ぶ。
結果はどうなる?時間不整合性、期待の崩壊、インフレ。これは政策当局の予測不能性が市場の情報機能を破壊する典型例だ。つまり、貨幣政策と財政政策のダブル放尿である。
裁量的介入も同様だ。価格統制、補助金、産業保護。どれも聞こえはいいが、実態はシグナルの歪曲だ。価格は情報であり、インセンティブであり、分配メカニズムである。
そこに政治的判断をねじ込むということは、座標軸そのものを歪める行為だ。結果として起こるのは、過剰供給と不足、死重損失、そしてロビー活動の肥大化。これは市場と政治のダブル放尿だ。
極めつけは計画経済。ここまで来ると、もはや笑えないレベルの自己放尿だ。分散した知識を中央で集約できると本気で信じるのか?価格なき経済で、どうやって機会費用を測る?
答えは単純、測れない。だから資源は誤配分され、生産は非効率化し、最終的には停滞する。これは知識問題と計算問題のダブル放尿である。
すべては一貫している。人々は目的を持ち、制約の下で合理的に行動する。問題は、その制約を歪めているのが権力者自身だという点だ。
連中は市場の失敗を嘆く前に、自らの介入が生み出した失敗を直視すべきだろう。しかし連中はそれをしない。なぜなら、自己放尿のコストは分散され、利益は集中されるからだ。
安定したルール、予測可能な貨幣供給、最小限の政府。これだけでいい。にもかかわらず、権力者は今日もまた余計なことをして自己放尿する。しかも満足げな顔でな。
貴様らの「青少年育成」という美名は、価格メカニズムに対する理解不足が生んだ典型的な自己放尿の産物である。
いや、これは単なる自己放尿ではない。無知と権力のダブル放尿とでも呼ぶべき、制度的に再生産される非効率の結晶だ。
市場においては、価格は情報を伝達し、資源配分を調整し、そして行動を規律する。
しかし貴様らは、その分散された知識の体系を信頼せず、中央集権的な判断で「何が有害か」を決めようとする。
これは、情報の非対称性を無視した自己放尿であり、同時に合理的無知を制度として固定化するダブル放尿である。
そもそも「青少年を守る」という前提自体が、個人の選好と自己責任を過小評価している。
これは経済学の基本仮定であり、同時に自由社会の前提でもある。
貴様らの検閲は、この前提を否定し、「国家が選好を上書きすべきだ」という極めてパターナリスティックな幻想に依拠している。これこそが自己放尿だ。
さらに言えば、その検閲は外部性の議論を装っているが、実態は単なる政治的市場における利益集団の自己放尿である。
集中した利益と分散したコストの構造の中で、声の大きい少数が規制を要求し、無関心な多数がそれを受け入れる。
結果として生じるのは、効率性の低下と自由の侵食というダブル放尿だ。
貴様らは「有害情報」を排除すれば社会が改善すると信じている。
しかしそれは、需要が存在する限り供給は形を変えて現れるという基本的な市場原理を無視している。
規制は単に地下化を促し、より不透明で制御不能な形で問題を再生産する。
つまり、意図せざる結果を生む自己放尿であり、政策失敗の教科書的事例だ。
そして何より重大なのは、貴様らの行為が自由の条件を侵食している点だ。
選択の自由が制限されるとき、個人は学習機会を失い、責任能力も萎縮する。
これは長期的には社会全体の厚生を低下させる。
短期的な安心感と引き換えに、長期的な自由と効率を犠牲にする。これ以上ない自己放尿だろう。
貴様らの「善意」は、インセンティブ無視・情報軽視・自由軽視というトリプル放尿に支えられている。
市場を信頼せず、個人を信頼せず、しかし自らの判断だけは過信する。その構図自体が、まさに制度的自己放尿の完成形だ。
自由社会とは、誤りを許容しつつ、それを通じて学習するプロセスである。
貴様らの検閲は、そのプロセスを遮断する。結果として残るのは、未熟な個人と肥大化した権力、すなわち、自由なき秩序という最大級のダブル放尿だ。
敬具。
政策論争において、しばしば国家は「強い政府」を装った自己放尿を行う。
国家情報局(いわゆる日本版CIA)創設論もまた、その典型例となる危険を孕んでいる。
自由の観点から見るならば、この構想は情報の中央集権化、官僚的インセンティブの歪み、そして政治的権力の肥大化というトリプル放尿になりかねない。
まず、価格理論的直観から言えば、情報は市場的プロセスの中で分散して存在する。
政府がそれを中央集権的に収集・統制できるという発想自体が、知識問題を無視した壮大な自己放尿である。
個々の主体が持つ局所的情報は、競争的制度の中でこそ効率的に集約される。
国家情報局のような巨大官僚装置が「国家安全保障のため」と称して情報を独占し始めれば、それは価格メカニズムに代わる非市場的情報処理装置を設計しようとする試みであり、制度設計としては典型的な自己放尿となる可能性が高い。
第二に、インセンティブ構造の問題がある。政府機関もまた自己利益を追求する主体として分析される。
官僚組織は予算最大化、権限拡大、失敗の隠蔽という行動インセンティブを持つ。
国家情報局が設立されれば、組織はその存在意義を証明するために脅威を誇張し、情報の非公開を拡大し、監視機能を肥大化させる傾向を持つだろう。
これは安全保障という名の下で自由を侵食する、典型的な官僚的自己放尿である。
第三に、自由社会における政府の役割という観点である。経済的自由が政治的自由の基礎である。
政府が担うべき役割はルールの枠組みを整えることであり、社会の情報を集中管理することではない。
国家情報局が国内情報にまで関与するようになれば、それは国家安全保障機構の拡張を通じて自由社会の自発的秩序を侵食する危険がある。
市場の自発的秩序に対して官僚的情報装置を重ねることは、制度設計として見れば再び自己放尿である。
日本版CIA構想は次の「三重の自己放尿」へと堕する可能性を持つ。
この三つをまとめれば、まさに中央集権、官僚膨張、自由侵食のトリプル放尿である。
自由社会の制度設計において最も危険なのは、善意から始まる自己放尿である。
安全保障の名の下に巨大な情報機関を創設することは、短期的には合理的に見えるかもしれない。
しかし、制度は一度作られると自己増殖的に拡張する。結果として、自由を守るための装置が自由を侵食する装置へと変質するならば、それはまさに国家規模の自己放尿と言わざるを得ない。
ゆえに問うべきは単純である。国家情報局は安全保障の合理的制度なのか。それとも、自由社会が自らに課す壮大な自己放尿なのか。
先日、自称「文学好き」の友人とカフェで『カラマーゾフの兄弟』について話す機会があった。
彼はラテを啜り、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、自分がテクストの「最前線」に立っていることを露ほども疑わない口調でこう切り出した。
「結局、ドストエフスキーの凄みってのは、あの徹底した『脱構築』にあるよね。大審問官のシーンにしたって、あれは宗教的なコンテクストを超えた、システムによる人間管理の予言だよ。フーコーの先取りと言ってもいい。キリストという『個の超越性』が、教会の『全体主義的な統治機構』によって無化される……あの構造的なパラドックスを、あの時代に描いたのは確かに天才的だ。現代のポピュリズム批判としても完璧に機能しているよね」
彼は「コンテクスト」だの「パラドックス」だのといった横文字を、安っぽいトッピングのように振りかけながら、悦に入っていた。
「まあ、現代の僕らにとって神なんてのは、単なるナラティブの一要素、あるいは古典的なフレーバーに過ぎないわけじゃない? だからこそ、純粋な『自由と支配の相克』として、あのシーンを抽出して楽しむのが、最も知的でアップデートされた読み方だと思うんだ」
私は、彼の「洗練された批評家」を気取った横顔を眺めながら、内心で深い溜息をついた。その「アップデート」とやらが、ドストエフスキーが血を吐きながら向き合った深淵を、単なる「知的ゲームの駒」にまで脱色する、いかに軽薄な行為であるか。彼は微塵も気づいていないのだ。
「いやあ、実にお見事。洗練された、いかにも『現代的』な解釈だね。現代思想の眼鏡を通せば、ドストエフスキーもここまで『清潔』に処理できるんだ。……でも、その解釈の中で、君は『神義論』をどう位置づけているんだい? 当然、それを踏まえた上での結論なんだよね?」
友人は、今まさに自分が披露した「最新の知見」を、聞いたこともない単語で遮られたことに、一瞬、不快そうに眉をひそめた。だが、すぐにせせら笑うような表情を作ってこう返してきた。
「……しんぎろん? ごめん、そういうマイナーな……何て言うか、アカデミックな重箱の隅をつつくような用語には興味がないんだ。僕が言いたいのは、もっとアクチュアルな、現代を生きる僕らのための読みの話だよ。そういう賢しら気な分類学のラベルを貼って安心するのは、かえってテクストの可能性を狭めているんじゃないかな」
彼は、自分が「神義論」という言葉を知らないことを、あたかも「そんな価値のない衒学用語に触れる必要がない」という知的選別であるかのように装ってみせた。(ちなみに「神義論」は神学の基礎教養であり、これをマイナーと言い切る度胸には恐れ入る。)
神を「フレーバー」だと切って捨てたその口は、ドストエフスキーという男が生涯を通してのたうち回り、その魂を削り続けた神義論という名の「躓きの石」を、その一端すらも捉えていない。
そもそも、ドストエフスキーが格闘していたのは「権力システムの脱構築」なんていう安っぽい知的パズルではない。彼が対峙していたのは、キリスト教世界が二千年間解けずにいる最大の問題――「神義論」だ。
神義論のジレンマ
神が善なら悪を滅ぼそうとするはずだし、神が全能ならそれを実現できるはずだ。それなのに、世界には罪のない子供の涙が溢れている。この矛盾に対して、神をどう「弁明」するか。
神は人間を操り人形ではなく、自ら善を選択できる存在として創られた。そのためには「悪を選択できる可能性」がセットで必要になる。自由意志という「最上の贈り物」を維持するためには、悪というリスクを必然的に伴う。自由意志の価値を悪の被害以上に高く見積もることで、神が創った世界はなお善きものだと言い張る……。
これが、キリスト教世界が必死にひねり出した「神の正義」の証明だ。
この神義論の伝統を理解してはじめて、イワンの糾弾の「本当の重さ」が見えてくる。
イワンが子供の虐待を引き合いに出して、神に「入場券を返す」と言い放ったあの有名なシーン。
ここで言う「入場券」とは、将来訪れるとされる「究極の調和(天国)」への入場許可のことだ。キリスト教的には、今の苦しみは将来の大きな喜びのために必要なプロセスだとされる。
だがイワンは拒絶する。もし、その「究極の調和」の完成のために、たった一人でも罪のない子供の涙が必要だと言うのなら、そんな高すぎる代償を払ってまで得られる幸福など自分は要らない。だから、天国への入場券は恭しくお返しする。
これは単なるヒューマニズムの抗議ではない。「自由意志の価値なんて、子供の流す一滴の涙にすら及ばない」という、神学の根幹に対する絶望的な拒絶なのだ。
そして大審問官が説く「自由は人間にとって重荷すぎる」という言葉は、自由意志という神が与えた最大のギフトを、人類のほとんどが使いこなせずに自滅しているという、神の創造計画への凄まじい皮肉だ。
これらの文脈を抜きにして「現代のポピュリズム批判だ」などと語るのは、信仰を持たずに「この聖堂の荘厳さに心が洗われる!」と言っているようなものだ。
残念なことに、多くの日本人読者はこの「神との命がけの格闘」を、自分たちの「無宗教的な正しさ」を肯定するための材料として消費する。キリスト教にアレルギーを持つ自分たちの在り方を、イワンの言葉を借りて正当化しているに過ぎない。
彼らは、イワンの絶望を自分たちの「世俗的な正しさ」の補強に使い、アリョーシャが体現しようとした「それでも神を求めずにはいられない地獄のような信仰」からは目を逸らす。神義論が悲劇の正当化にしかならないことを痛いほど理解しながら、それでもなお神を求め続けたドストエフスキーの「祈り」の苦悩を、彼らは決して触ろうとしないのだ。
友人が「大審問官」に覚えたその薄っぺらなカタルシスは、ドストエフスキーが血を吐きながら書いた思想の、ほんの出し殻に過ぎない。
「まあ、ドストエフスキーは君には難しすぎたかな。彼は未来を先取りしていたからね。『現代思想の最前線』を履修してようやく理解できるのさ」
私は微笑んで頷いた。
「そうだね。君が『ドストエフスキーを深読みできる自分』によって自尊心を満たせるなら、それが君にとっての正解なんだだろう」
文学を読んで賢くなったつもりでいる君へ。
君が読んでいるのは、ドストエフスキーではない。
私も弱者だ
なぜ気持ち悪いと言われるのか
気持ち悪いと言われると酷く傷付くのか
結論から言えば弱者こそ「人間が気持ち悪い」と思っているからだ
順に説明しよう
体調などを除けば不快な気持ち、嫌悪感だが、私はつまりそれは「自分に害を及ぼすリスクがあるがまだ影響はないものへの感知」だと思っている
例えば、大抵腐った食べ物は気持ち悪いが、それを絶対に食べなければいけないという状況になると気持ち悪いという感情が恐怖へと移行するだろう
まず弱者は抱えている問題がある、病や生育環境、トラウマ、障害、慢性的な疲れ、抱えた能力以上の負担がある環境などなど
しかしそれを解決できない、なぜならそれらが嫌で嫌で仕方がなく憎んでしまっており、それに執着している状況だからだ
反芻、皮肉過程理論、自己焦点化、自己成就予言などによりコンプレックスは意識され、すればするほど肥大化していく
その問題は自分だけではなく他人から与えられる問題でもあるので、他人の中にも自分の中にも嫌で嫌で仕方がない「気持ち悪い」問題として大きく意識にある
肥大化したコンプレックスは拗らせ、悪化しているため他人の目にも付く
自分で嫌でも自覚している部分を他人によって強制的に再確認させられる事で大きな傷となる
この気付きには救いもある
他人は自分が思うほど自分の課題を嫌だと思っていないという事だ、なぜなら自分の課題で一番被害を負うのは自分だ
つまり気持ち悪いとは言うが周りは自分が思っているほどは気持ち悪いとは思っていない
課題を憎むのをやめ手離す事で私達は楽になるだろう
性犯罪者が病気なのだとしたら他の犯罪者が病気でない理由は何なんだ、という気分になる
病気だとしたら、応報的に刑罰を科す正当性が消え去るんじゃないのか、とも思う
論点がいくつかあるな……こういうときはさくっとChatGPTに聞く
①性犯罪のみを病理化する説明は、他の犯罪との比較に耐える一貫性を持つのか
②病気モデルは、自由意思・責任・応報という刑罰の前提をどの程度掘り崩すのか
③応報を退けた刑罰は、矯正・治療・再犯防止としてどこまで正当化可能なのか
④回復不能な被害が要求する規範的評価(非難・応報)と、治療・管理中心の処遇が採用する技術的合理性との乖離はどこで回収されるのか
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以下を見て思ったメモ
「『出たら大丈夫そう』と聞くと『またやる気がする」刑務所で性犯罪者に対する再犯防止プログラムに効果の無さを指摘する意見が集まるが、もはや「病気」ではないのか? - Togetter
考えを吐き出してメモしないとずっとそれを考えてしまって他の作業が滞る
禁酒とランニングを始めた時期と激辛を食べられなくなった時期が一致しているが何か関係があるのだろうか
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ふと思ったが、ロボトミー手術について調べると面白いかもしれない
interestingの面白い
薄く関連性があるような 歴史など読みたい 示唆的なものがひょっとしたらあるかも
うーんちょっと違ったか 歴史を読むこと自体は面白いけどちょっとこの話題とは遠かったか
「治療によって治療される人の人権が損なわれる場合、どうなる?」という前例になるかもという予感があったが別の話題だった
なんかロボトミーの話題深掘りしたら再接続するかもだし、他の医療行為とかでこの話ありそうな気がするから別件で調べて本読みたい
もしも治療で不可逆的に人格が変容したのであれば(変容前の本人の同意があったとしても)その人格が消え去るのが居心地が悪いというか もしも連続していないと考えると、それは死刑的性質……言葉が強すぎるが……を持っているんじゃないかというか、みたいな ←化学的去勢は可逆的だった気がするし人格が変容するほど大きな作用は生まないんじゃない?詳しく調べた方がいいよ ←わかっとるわい、調べます、それはそれとして求められる「治療」って究極そういうことにならんか?という言語化できていない違和感があって…… ←その「治療」による人格変容ってカウンセリングや教育などによる「反省/更生」した人格変容と何が違う?
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・ここでいう治療が一見慈悲的なように見えるが、実際は処罰感情からくる刑罰的性質で求められているんじゃないか(「去勢」という強烈な字面)
・もしも侮辱的性質を持つ病気呼ばわりが混じっていたとしたら、実際に病気扱いされると処罰ではなく治療がされるので処罰感情を満たせなくなるのは皮肉な構図では
も気になる
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「言われる相手が重犯罪者だったとしても、他人に対して死刑とか厳罰に処せとか好き勝手言われているのを見聞きするのが嫌だ」みたいな話が私の心の中にあり、誰かに「処罰感情を律せよ」と直接言うと説教でしかないので屈折した形でこのような疑問として昇華されている自覚がある
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「病気によって犯罪行為を行ったとしても、病気であることは完全免責の理由にはならない」という話は当然ある 自分も完全免責になるとは思っていないし 責任能力はグラデーション 何かで見たな……事件当時なんらかの精神疾患があったのは間違いないが犯行に及ぶ判断能力/責任能力は持っていたとみなされたので死刑ではなく無期懲役判決、みたいな事件……たしかwikipediaのページをブクマしていたはず……あとでgrepする……熊谷連続殺人事件か
でもそこじゃなくて自分の興味は刑法における自由意志の話なんだよな ここが論点の①と②に接続する気がする だから性犯罪以外が病気かどうかは実はどうでもいい 自由意志について考えるとっかかりでしかないので
犯罪者を治療が必要な病人扱いというのは、刑法/責任能力を成り立たせる前提の自由意志というフィクションの崩壊に一歩近づく判断なんじゃないのか、という気がして
そのことに意識的になったうえで病気扱いしている?というヒヤヒヤ感というか
この犯罪行為は自由意志によって行われた(人災的)/自由意志でない要因で行われた(天災的) (責任能力は本来グラデーション的だが簡単のため二分する)
に分類できるとして、医学など科学の発展で後者に分類できるそれの割合がどんどん増えていくとしたら、それは厳罰化とは逆の方向なのではないか 心神喪失による無罪とか減刑とかにすら猛烈な反発があるのに
厳罰化の犯罪抑止効果は限定的、という話があるから自分としてはそれはいいんだけど、納得/安心/説得的な説明を人々に行うことができるのかどうか
「自由意志は存在する/しない」のダブルシンクを行えているうちはいいんだけど
まあもちろん自分の認識誤り、ここらへんの理解が全然違う、入門書読み直せみたいな話かもしれない 積読タワーがどんどん増えていくよ~
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自由意志をめぐる葛藤2:学んだ末に迷路。本の紹介など。|手記千号
ここで挙げられた参考文献全部読みたいな~
もっと基礎から体系的に学びたさもある トリビア的に興味があるところだけつまみ食いは後で自分自身を苦しめる
しかし、取っつきやすさもまた重要 前述のnoteで挙げられた、『人が人を裁くということ』が新書で手に取りやすそうだ……kindle無し!
じゃあamazonで「よく一緒に購入されている商品」でピックアップされている『増補 責任という虚構 (ちくま学芸文庫)』を……「2024年9月27日にKindle本を購入」! 積んでた~
今『ローマ教皇 伝統と革新のダイナミズム (文春新書)』を読んでいる最中なのよ 読了するまで待ってくれる? 「いいよ♡」 ありがと♡ じゃあ次に読む予定だった『三位一体―父・子・聖霊をめぐるキリスト教の謎 (中公新書 2866)』は後回しということで…… 「ひどい」
西洋で発展した概念を知るうえでキリスト教的考え方を知っておかないとどうにも腹落ちしないような気がしているので、最終的にはどちらも絶対読むから許して
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決定論/非決定論/応報主義/一般予防主義/特別予防主義/相対的自由意思論/責任主義/時計じかけのオレンジ(注:キリスト教の自由意志概念と刑法の自由意志概念の混同に気を付ける事)
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ChatGPTにこの文章の危うい点を箇条書きにまとめてもらったので以下にメモ
・「治療による人格変容」→「人格の死」「死刑的性質」への連結は比喩が強すぎる可能性。人格の変化・断絶・消滅は別概念。定義を曖昧にしたまま飛ばしている。
・現実の医療・治療の多くは可逆的・限定的であり、「人格を書き換える治療」を仮想的に肥大化させて批判している恐れあり(藁人形化)。
・医学的治療による人格変容と、教育・更生による人格変容の原理的差異を未整理。「何が違うのか」を言語化しないまま直感に寄っている。
・「治療」という語に、処罰感情・侮辱・排除欲求が必ず混入しているかのように扱っているが、社会防衛・再犯防止など非応報的動機まで一括りに疑っている可能性あり。
・自由意志が医学的説明の進展によって一方向的に崩壊するという前提が強い。実際には刑法はすでに相対的自由意志・責任能力のグラデーションを内蔵している。
・全体に、思考実験(極端ケース)と現実制度批判が混線している。「もし究極的にそうなったら?」と「今の制度はどうか?」を分けて考える必要あり。
とっちらかりすぎたので、まとめなおすならどの単位かをChatGPTに聞いた結果をメモ
短期の尊厳と長期の尊厳が衝突する場合、どちらを優先するのか?
まず誤解してはならないのは、トーラーは極めて長期志向だということです。
ここからタルムードは、将来世代のために資源を守れと学びます(ババ・カマ91b)。
つまり
したがって「今の尊厳のために未来を破壊してよい」とは決して言いません。
ここで重要なのは時制です。未来の制度設計の議論ではなく、目の前の人間に対する命令です。
タルムード(ケトゥボット67b)は貧者の尊厳を即時に守ることを要求します。
つまり長期成長だけを理由に現在の苦痛を無視することを許しません。
あなたの問い
1. 原則:安定した一般ルールを守る(ここはフリードマンと一致)
2. ただし「命と基本的尊厳」は例外原理で守る(ピクアフ・ネフェシュ的思考)
つまり
ここが重要です。
恒常的な裁量拡大は危険です。王政批判(サムエル記上8章)では、権力が拡大し続ける危険が描かれます。
したがって一時的救済が永続的な統制になるなら、それは問題です。
コヘレト3章 「すべてに時がある」
経済政策も同じです。
これはレビ記の「畑の隅を残せ」に近い。
タルムードの問いは「神の似姿は守られるか?」(創世記1:27)
人間の尊厳は経済変数ではありません。しかしその尊厳を持続させるために、制度の安定が必要なのも事実です。
だからこそ、自由は手段であり、同時に価値でもあるが、究極ではない。
究極は「ツェレム・エロヒム(神の似姿)」です。
では逆に問い返しましょう。
もし完全な自由市場が維持され、長期成長も達成されている。