はてなキーワード: 懲罰的とは
だから何で世間の会社の多くがハラスメントに対して対応が迅速なのか正直わからない
自殺と短期離職がお家芸みたいな会社に勤めてる人なんかでも「役員ルートに乗ってる次長が新卒に毎朝求愛LINE送って一発レッドで左遷されてた」と言ってた
会社がハラスメントに対して懲罰的な対策とることって何が怖くてそう動いてるんだろ?
アットホームな弊社は
「グループリーダーから何度断っても土日に競馬にしつこく誘われ、やむを得ず一度行ったらどんどんエスカレートしていき、ついに忘年会の夜にホテル連れ込まれそうになった」
女性社員ですらかなり冷ややかというかその同期の勇気ある行動に怯えていたようで
「すっごいいい人なんだよ?仕事で助けられたことあるでしょ?」
と諭すような態度に終始していたとのこと。
それでも同期が折れずに頑なな態度でいると、
ホテルに入らず済んだのにこうして周りを巻き込んで大騒ぎしたこと
を指摘され
「ごめんね、本音言うね。俺、君に今相当頭きてるんだよ」と人事部長に凄まれたと泣いていた。
それでも弊社は回っている。
最終的に同期の親まで出てきたけど弊社はこれといった大ダメージを受けることなく回った。
セクハラ加害者であるグループリーダーは処分無しでたまにこの騒動をネタにし、件の同期のモノマネを交えて笑いをとっている。
そんな現実を目の当たりにしながら疑問が浮かんだ。
役職者が苛烈なイジメやパワハラをかましてニュースになった某巨大自動車メーカーとか、某大手自動車メーカーとか、某巨大電機メーカーとか、相変わらず学生から大人気だし、大企業ゆえにニュースになったけど経営は盤石だし、法人にとっては小銭のような慰謝料で済んでるだろうし。
ハラスメントを放置して被害者を無視するのが合理性高いのでは(よしとは言っていない。個人的には同期を苦しめた連中は一族郎党死んだほうがいいと思ってる)?
我々は、人の痛みを神経を使った追体験のみによって共感してるのか?
とんでもなくアホらしい……
腹痛など不調がある、衛生用品の取り替えが必要……たいった人への心遣いの必要性なんて、本当に機械を腹に当てて痛み信号を受けないと理解できないのか?
それから痛みを与えてわからせてやる、なんてのは個人でやることで公でやるようなことじゃない。誰だって自分のもつつらさを相手に与えたくなるときがある。それは理解してほしいというモチベーションかもしれないし、懲罰的なニュアンスを含んでるかもしれない。そんなのを公で、会社が大手を振ってやるようなことじゃない。ただただ憂さ晴らしできる集団が政治的なバランスで決まるだけのこと。空虚。
大企業はするだろう。そういうスタンスを表に出すことがビジネスの一環だから。私はそれがビジネス(イメージアップや社会貢献)につながるとされていることも、それを実際にやることも支持しない。品のないことだと思う。
最近、政治の話と言えば参政党を中心に盛り上がっているのだけど、それと同時に「リベラルは批判ばかり。ビジョンがない。」という指摘も増えている気がする。
たしかに、一見すると「否定ばかり」「何かに反対してばかり」と映ることがあるかもしれない。でも、それは本当に“ビジョンの欠如”なのだろうか? もし違うとすれば、なぜそんな誤解が生まれるのだろうか?
そのような指摘ははたして正しいのだろうか?そして、その指摘が正しくないのだとしたら、なぜそのような誤謬をしてしまうのか。ということについて、考えてみたい。
まず、リベラルにビジョンがないというのは大間違いだ(ここで言うリベラルを、ネオリベラル的な思想とは分けて捉えている)。参政党を批判するリベラルが掲げるビジョンとは、ずばり人権思想だ。それは例えば、男女が平等であるとか、格差をなくすとか、差別に反対するとか、もっとケアに溢れた社会をつくっていくというビジョンである。
人権思想は長くずっと育まれ続けてきた思想なので、もしかしたら「当たり前の前提だ」と思われてしまうのかもしれない。だから新しく目を引くようなことを言う人がいると、そちらの方をより「ビジョンがある」対象と勘違いしてしまう可能性がある。
次に重要なのは本当に批判ばかりなのかというところだ。国会でいつも問い詰め役を買って出ている共産党を例に挙げると、実は多くの政策を提案し、そのうちいくつかは実現化されてもいる(近年の例で言えば、東京都における「中学生までの医療費無料化」などが挙げられるだろう)。
おそらく、これらの政策を多くの「リベラルは批判ばかり」論者見落としてしまうのは、彼、彼女らが経済的な施策ばかりを見て、経済に影響の出ない政策に気づけないからなのだろう(SNSで「リベラルは批判ばかり」という人達のプロフィールを見ると、コンサルや経営者の中年男性が多い印象がある)。
確かに「景気良く万博を開催して日本の国力を示そう」とか、「AIにもっと投資しよう」というのも立派な政策の一つだが、政治とはまた税を何に使うか、どう分配するかの話であり、また法制度によってどのように人権を守るかということでもある。経済的な側面にばかり気をとらわれると、格差は開き社会は機能不全を来し、やがてはポピュリズムが台頭するというのは、今の日本社会でも現実問題化しているが、行き着く先は今のアメリカだ。
一つ、オプティミスティックな論者の立ち場を借りれば「1つの悪い案に10の批判をするより、良い案を1つ出せば良い」という考え方がある。批判は効率が悪いのだ。この主張に自分は半分くらい同意できる。
もしかしたら、批判をせずにビジョンを掲げるモデルとして「チームみらい」のような組織を意識している人がいるのかもしれない。確かに都知事選以降の活動はめざましいものがあるし、がんばってもらいたい。
https://x.com/takahiroanno/status/1934892103567585443
その後、反省をし意見を変える投稿もして、それは良かったなと思う。
実はこの件で気になることが一つある。冒頭で書いたようにリベラルは人権というビジョンを掲げているが、リベラルが批判しているのは人権を後退させるような取り組みを批判しているのである。
ここで気になったことというのは、人権にまつわる立ち場の話ではなく「ビジョン(もしくは政策)と批判は表裏一体である」ということだ。
チームみらいが提案し、撤回した政策は「個人の健康管理に懲罰的な制度を設けることで、医療費を削減する」という発想でなりたっているが、この政策は「さまざまな理由(貧困、病気)から、自らの健康を管理できない人も包摂するべきである」という人権思想に対する批判的な政策と捉えることもできる。
なので「リベラルは批判ばかり」という批判はお門違いなのだ。そもそも政治における批判は、ビジョンと表裏一体となったものの一側面なのである。今回の選挙で自民党が弱いのは「裏金を使えないから」という要素が少なからずあるが、その背景にあるのは「自民党の裏金問題」が国会で厳しく批判されたからだ。この批判を別の側面から捉えれば「透明性の高い政治を目指す」というビジョンに他ならない。
さて、我々が真に問題とするべきは何かというと「正当ではない批判」と「正当な批判」をより分けていくことだ。
まず、デマを根拠にした主張はしっかりと批判しないといけない。排外主義を例に挙げれば「外国人が増えて犯罪が増えている」という主張に対しては、正しい情報をもとに課題を話あわないといけないし、それがデマであれば批判をしないといけない。「外国人が増えることで犯罪が増えた事実はない」という定量的な観測があるが、確かに場所を沖縄に限れば「アメリカ軍関係者の犯罪は増えている」という事実もまたある。このような主語の大きい主張をより正確にしていくことも必要だし、定量的なデータだけでなく、定性的な「外国人が増えることでどのような不安が生まれてしまうのか」という観点からも、もっと話し合わないといけないだろう。
もう一つ見立てを示すと、そもそも「リベラル vs 保守」という分け方は、今回の選挙では今一つ当てはまらない。現にある問題は「知識を得て批判的に考えようとする層 vs 知識を得て素朴に信じ込む層」の対立だ。前者は高度な教育をうけているかに限らず、広く知識を得て論理的に考えようとする層、後者は——これも高度な教育をうけているかに限らず——素朴な感情をもとに得た情報を信じ信念化する層である(ポピュリズムに扇動されやすい層と言ってもよいだろう)。
リベラルにも保守にもこの対立はあり、真っ当に保守をやっているところ「メロンパンを食べると死ぬ」とか言われて困る人もいるだろうし、リベラルも「人権に批判的なやつは全員死刑」とか言い出す人がたまにいるので困ってしまうときがある。
だからこそ、ポピュリズムの中で生産される、不確かな情報は批判されないといけないのである(そして、その批判はもっとケア的でないといけないという批判はもちろん同意できる批判だ)。
胎児が自分で心臓を動かしていなかったら基本的な人間の構造を欠いているからね
どんなものでも遺伝子が人間のものだったら、人が死ぬみたいなレベルで話するんなら人が人を殺すのはどうなんって話なんやろけどそれだと視力が0.01みたいなものじゃない?
武装の認められていない国:正当防衛でも殺人はよっぽどか事故でないと軽減される率は低い
人権の認められ具合に偏りのある国:していい人間としてはいけない人間がいる
更生が原則の国での死刑:更生が見込めないためすべての権利を認めることができないので国のすべてのリソースから切り離すイコール実質死ぬ
人権の認められ具合に偏りのある国の死刑:気のすむまで罰を与えた結果死ぬ
実際に死刑を執行するのは人間がやるわけだから人間x人間の話に落とし込む事もできはするけど死刑執行の関係性は国x人間のだから国が人間を最終的に殺すのか見放すのか死を許容する範囲での行動を認めるかの差になる
史上最悪の犯罪をした人間がいたとして、そいつが何度でもやると公言して刑務所の中でも不適合な態度をとる人間だったとします
などなどその他、「国からみた国民の安全保障に適した水準の極端」はどこにあるのか探すひとつの考察に死刑が取り上げられることができる程度に特徴的だっていうだけで、死刑って刑罰ひとつを取りざたしても実際はなんの問題解決にもならない
けど、死刑の意味合いをどこにおくかとか人権や尊厳をどこにおいたら、それこそ堕胎にどこまで影響がでるかみたいな議論になりえる議題ではある
単純に堕胎の話と死刑を関連づけるなら、胎児が母体にある状態で第三者が母体かその家族について将来的な被害を防ぐ行動をできるかみたいな話にもできる
喧嘩してるお隣さんがマジでヤバいから、殺し合いになる前にヤバい方にみえた人間を撃っても正当防衛が認められるかみたいな話になる
母体と妊娠させた人間を含めた人間関係(となりの夫婦に例えた部分)になんらかの被害が出ると見越して(喧嘩の様子に例えた部分)それを守るために中絶処置を医師がしていいのか(第三者が制圧を正当防衛にできるのか)みたいな事をみとめる条件だのみとめないだのを議論できるというネタにはなる
それだと「初めから人間に危害を加える人間は存在する」となるし無条件に攻撃していい人間が存在する理由にもなっちゃうから、まあダメだとは思うけどなんかいい返しがあるなら盛り上がるかもね
でも直接関係ないからそういう話ができるわけで、堕胎ができるから死刑ができるとは関係ないし死刑があったら堕胎が可能みたいな話にもならないよ
2019年の時点では掻爬法のみ23.5%、(電動/手動)吸引法+掻爬法が40.3%、(電動/手動)吸引法のみが36%となっている。(厚生労働省)
https://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/keikaku_kanshi/siryo/pdf/ka4-3-4.pdf
吸引法と掻爬法を併用するのは子宮内に胎児の一部が残留するのを防ぐ目的がある。
ただ古い医師は掻爬法に慣れた医師が多いせいで吸引法にのみできないのは技術の問題がある可能性もあると私は個人的には思う。
また胎児が大きめの場合は、吸引法のみでは対応できないため掻爬法が併用されるのが通常のよう。
WHOが言う通り、吸引法より掻爬法は全体での子宮穿孔や子宮内胎児(の一部)残留の危険はたしかに高いが、
熟練した医師ならば掻爬法でも安全性が高いので、掻爬法だからといって必ずしも倫理観がない医師とはならないと思う。
また昔はそうではなかったかもしれないが、いまは中絶の際に麻酔が出来る医院がほとんどなのでは?そうすると懲罰的とは言えない。
世界的には時代遅れの掻爬法が日本では併用含めるとメジャーになっているのは、人工妊娠中絶がタブーとなっていた歴史から(たとえば10万件あたりの事故率※を見た際に)許容できるほど安全であれば方法までは話し合われなかったのではないか。
また中絶を多く手掛ける医師は、出産を手掛ける医師より地位が低く見られてた経緯が関係あるかもしれない。と産科医は語っている。(NHK)
https://heart-net.nhk.or.jp/heart/contents/14_1/index.html
現在は掻爬法は吸引法より医院の得られる収入が少なく、今後はゆっくりではあるが掻爬法のみの医院は減ると思われる。
中絶薬については、認可していないのは国なので産科医の問題というわけではないが
選択肢が増えるのが大事なので薬は認可されるべきと私は思っている。
ただ薬が認可された場合は不正出血の危険があるため経過観察が必要なのと、人工的に陣痛を引き起こして(痛い)子宮内の胎児を出す必要があるので入院が必要になる可能性がある。
上記のNHKで語っている医師は、これはこれで痛く、(麻酔有りの場合の掻爬法や吸引法と比べてだと思う)苦痛が大きいのではと話している。また仕事をしている女性は気軽に入院できない。
※掻爬法や吸引法は調べたら日帰りばかりヒットした。検索した限りでは掻爬法でも併用でも吸引法でも通常麻酔は使う医院が多い様子。
“医会実態調査における妊娠 12 週未満の妊娠(中絶の場合) 10万851 件のうち子宮穿孔件数は搔爬法 12 件、併用法6件、吸引法1件だった。”
“同様に遺残件数(胎児の体の一部などが子宮に残る)は搔爬法 166 件、併用法 107 件、吸引 法 20 件”
“大量出血数についても搔爬法6件、併用法 9 件、吸引法 2 件 ”p88
https://www.jstage.jst.go.jp/article/wsj/28/0/28_79/_pdf
堕胎手術の値段の高さだ。たぶん中絶薬が認可されたとしてもかなり高額になるだろう。
コンドームで避妊したとしても方法を間違えれば妊娠の可能性は上がる(つまり男にかかっている)。緊急避妊薬もまだ土日含め気軽に入手できるとは言えない。というか低容量ピル含め値段が高い。
少なくとも義務教育で避妊方法をきちんと教えないのであれば、避妊薬、緊急避妊薬や、堕胎手術は保険適用にすべきだと思っている。
増田は昔、中絶を非倫理的行為だと思っていた。しかし最近はそこまで拒否感を感じていない。
だって育てられない親の元に生まれて幸せなのか?という話だ。そういう子は里子に出されたり、祖父母が面倒を見たり、あるいは虐待されながら実の親に育てられるんだろう。そういう人生もある。それで幸せになった人もいる。それは良いことだ。でも「幸せになりました」という声がニュースになる時点でそれは例外的なケースであって、フラットに考えると人並みの幸せを簡単に得られる可能性は低いと考えるべきだろう。
そう思うと増田にとって中絶とは、避妊の延長線に過ぎない。妊娠を「避ける」というのは失敗しているが、不幸な出産を「避ける」という意味では大差ないと思っているし、それが法律で規制されているのは不思議な状況だとも思う。
日本では世界水準と比べて、時代遅れでリスクの大きい避妊手術が未だ行われている。これは中絶への無関心なのか、あるいは懲罰的思想によるものなのかは分からないが、いずれにしても中絶が重く見られる要因の一つに、この「掻把法」という手術があるだろう。端的に言うと、ベテランでも失敗する確率が高く、失敗によって不妊になる可能性があり、しかも40年前には既にもっと優れた手術が海外では普及していたような手術法だ。優れた手術が日本に導入されないのは、日本の産婦人科医達の思惑がある…という噂もあるが、いずれにしても日本での中絶とは、今の子供だけでなく未来に授かるかもしれない子供まで諦めなければならない出来事である。これが中絶のイメージを重くし、特にパートナーに中絶させた男性への心象を悪くさせる大きな要因であると感じる。
中絶へのハードルを上げるのは女性の負担の軽視や、生まれてくる子供の人生の軽視によるものではないかと思える。日本で虐待の実情が広くお茶の間に知られたのは、増田の記憶では2019年の野田小4女児虐待死事件だったと思う。それまでの虐待死事件は年少の児童がほとんどで、育児ノイローゼの結果として同情的に受け入れられる部分も少なからずあった。しかしこの事件では「児童保護機関が機能していない」「児童が訴えても大人の対応不備によっては最悪の事態になる」「ノイローゼではなく、嗜虐的に虐待する親が存在する」「親が子を連れ戻したのは、愛情ではなく執着心によるもの」といった、それまでの常識を覆す虐待の実態が明らかになり、「虐待する親の中には想像を絶する者がいる」ことが広く知れ渡るきっかけとなった。また、この事件が「親ガチャ」という言葉を世間に納得させる転換点となったと感じている。
要するに、親に恵まれなかった子供に対する受け皿も満足でない社会で、授かった命を中絶するのは倫理的によろしくないというのは大きな矛盾ではないか?ということだ。産めと言う側が育てるとは約束しないということになる。それなら育てる側の責任として、中絶するのも立派な選択の一つであると考えている。そう思うと、中絶への倫理的な障壁を成すものは、やはりリスクの高い手術法だと思うし、その手術法がリスクの低いものへと変化するには、中絶そのものが手軽に行われるべきだという風潮に変化する必要があると感じる。
ほら、あなたみたいに常識的な感覚を持ってる人のほうが多数派なんだって。