はてなキーワード: 自由意思とは
1. トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではありません。 それに対して、『トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人こそが、小さなことにこだわっていると主張するのは どのような心理からなのでしょうか? もしその人が本気でそう主張しているのであれば、まさに本質から外れたところに過剰に注目しているように思います。 2.下記を小学生でもわかるように説明をお願いします。 2-1. トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ありません。 2-2. 「通常(普通)ではない」と指摘されることに対して、ショックを受けているのかもしれません。『通常』という言葉は、何かしらの合意が必要な難しい概念ですが存在するものです。(そうでなければ何もできない) 2-3. 人と違うのは悪いことじゃないが、トランプの文脈でフォントにこだわる人は、特別なサポートが必要です。これは個人の自由意思や知識やコミュニケーションの問題、あるいは性格に帰すべきではないと思います。 2-4. 人と違うのは悪いことじゃないが、文脈によっては適応出来ない、違うと自覚することが大切なことを説明してください。 3. トランプの文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人は、ゲームから排除をする、ゲームを取りやめるのでなければ、特別なサポートが必要だと考えますがどう思いますか?認知のフレームワークの問題ではなく個性の範疇ですか?
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1. 心理的な背景について
『トランプゲームの文脈で、フォントに過剰に焦点を当てることは通常ではない』と指摘する人を「小さなことにこだわっている」と批判する心理には、以下のような背景が考えられます:
1. 防衛的な反応
自分の行動や考えが「通常ではない」と評価されることに対する防衛反応です。「通常ではない」と指摘されることで、自分の価値観や行動が否定されたように感じ、相手に「あなたも小さなことにこだわっている」と反撃することで、自分を守ろうとしている可能性があります。
2. 視点の転換による優位性の主張
「小さなことにこだわっている」というレッテルを指摘者に貼ることで、相対的に自分が広い視野を持っているかのように見せかけ、議論の立場を有利にしようとする心理が働いている場合があります。
3. 共通基盤のズレ
「フォントの違い」がゲームに影響を与えないことは、多くの人にとって明白ですが、本人にとってはそれが重要な要素である可能性があります。この場合、指摘者が「通常」とする基準自体が無効だと考え、その基準を主張する人を「細かいことにこだわっている」とみなしているのかもしれません。
4. 議論のすり替え
本質的な問題から目をそらすため、指摘者の行動を批判対象にして議論の焦点を変えようとする心理です。これにより、自分の行動が本当に合理的であるかの検証を避けることができます。
2. 小学生でもわかるような説明
2-1. トランプゲームでフォントにこだわるのは普通じゃない
トランプで遊ぶとき、みんなが気にするのは「ダイヤ」「ハート」みたいなマークや、「A」「K」みたいなカードの意味です。文字の形(フォント)が少し違っていても、ゲームには関係ないので、普通はそこにこだわりません。
2-2. 「普通じゃない」と言われるとびっくりするかもしれない
誰かに「普通じゃない」と言われると、自分が変わっているみたいに感じて、ちょっとイヤな気持ちになるかもしれません。でも「普通」という考え方がないと、みんなで同じルールで遊ぶのが難しくなります。
2-3. 人と違うのは悪いことじゃないけど、助けが必要なときもある
たとえば、トランプで遊んでいるときにフォントが気になる人がいたら、どうして気になるのかをみんなで考えて助けてあげることが大事です。それでもゲームが進まない場合は、みんなが楽しめるような別の方法を一緒に見つける必要があります。
2-4. 人と違うのを知るのは大事なこと
自分がほかの人と違うことは悪いことではありません。でも、みんなと同じルールで遊びたいときは、「自分の考え方が特別なんだ」と気づくことが大切です。それがわかると、みんなとどう仲良く遊ぶかを考えやすくなります。
3. 「フォントが違うからダイヤのKではない」という人への対応と個性の範疇について
「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張する人に対しては、特別なサポートが必要だと考えられます。理由は以下の通りです:
- 共有されたルールの再確認
トランプゲームでは、フォントの違いは重要ではなく、カードの「スート(マーク)」と「ランク(番号や文字)」が本質です。そのため、本人がルールを理解し、共有された基準を受け入れられるようにサポートする必要があります。- ゲームを進行させるための調整
本人が「フォント」を基準として主張する場合、ゲームが進行しなくなる可能性があります。この場合、ゲームを成立させるために他の参加者と協力し、代替案を提示する必要があります。
この行動は認知のフレームワークの問題に近いと考えられます。なぜなら:
- 個性の範疇を超えている
個性とは、一般的なルールや基準の中での違いを指すことが多いですが、今回のケースでは「フォントにこだわる」という行動が、共有されたルールの基盤を大きく逸脱しており、個性の範疇では説明しづらいです。- ゲームの文脈に対する適応の難しさ
「フォントが違う」という理由でカードを否定するのは、ルールや文脈に対する適応が困難であることを示唆しており、認知の仕組みや視点の問題である可能性が高いです。
結論
トランプゲームの文脈で「フォントが違うからダイヤのKではない」という行動は、個性というよりも認知のフレームワークの問題として捉えるのが適切です。そのため、共有基盤を再構築する特別なサポートが必要となり、ゲームの進行や他の参加者との調整が求められます。
※推測してみた(なお、増田みたいな結果にはならない) Dの行動を批判している文章(https://anond.hatelabo.jp/20241203162204#)の投稿主の心理を探り、どのような価値観や認知スタイルに基づいているのかを分析してください。Dがフォントの違いを問題視した行動に対して批判することが、どのような心理的メカニズムに基づいているか、またその批判が集団内でどのような影響を与えるのかを詳述してください。
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この文章の投稿主は、Dの行動に対する批判を通して、「認知の仕組みのズレ」や「共有された前提の欠如」に焦点を当てており、その批判は以下のような心理的メカニズムや認知スタイルに基づいていると考えられます。
1. 認知の精度と共通理解の重視
投稿主は、対話が成立するためには、共通の前提や認識が必要であると強調しています。Dが「フォントが違うからダイヤのKではない」と主張したことは、常識的に受け入れられる「ダイヤのK」の定義や認識を逸脱しており、この逸脱がコミュニケーションの妨げになると見なされています。投稿主は、認識のズレを認知の仕組みに起因するとし、これを解決するためには膨大な労力が必要だと感じています。これは、投稿主が認知的な精度を重視し、理解の共有を前提にした効率的な対話を重んじていることを示しています。
2. 本質主義 vs. 構成主義的思考
投稿主は、「ラグビーボールはボールではない」という発言についても問題を提示し、「概念の境界」や「本質主義 vs. 構成主義」などの哲学的な側面に関心を持っています。これは、物事の定義やカテゴリ化について深く考える傾向があり、単なる表面的な解釈を超えて、物事の本質に迫ろうとする認知スタイルを反映しています。
3. 細部に過剰に焦点を当てる認知スタイル
Dのように、細部(フォント)に過剰に焦点を当てることは、投稿主にとって非常に困難で非生産的なコミュニケーションと捉えられています。このような発言は、認知的なズレが深刻であり、現実世界の常識や一般的な認識から大きく外れていると見なされています。投稿主は、細部に拘泥するDの認知スタイルを問題視し、これが対話の進行において障害となると考えているようです。
4. 集団内での影響
投稿主がDの行動を批判することで、集団内では次のような影響が予想されます:
• 共感の共有: 投稿主が指摘する認知のズレに賛同する人々は、Dとの対話に対して不安や苛立ちを感じる可能性があり、集団内で共感が生まれます。
• 対話の排除: Dの認知スタイルが極端に異なっていると認識された場合、集団内でDの意見や発言を無視したり排除したりする動きが強まる可能性があります。
• 教育的アプローチの模索: 一方で、Dの行動を理解し、再教育や認知修正を試みるアプローチを取る人も現れるかもしれません。この場合、集団内で認知の調整が進むことが期待されます。
全体として、この批判は、投稿主が共有された認識と合理的な対話を重視し、認知的なズレに対して強い懸念を抱いていることを示しています。
2chはそれぞれの話題で板やスレが分かれてたしローカルルールがあったがツイッターなどSNSはそれがなくなって全部一緒なのでグチャグチャになる、みたいな批評はしばらく前から見るし、はてなブックマーカも結構それに同意してるけどさ、はてなーって精神性としては(完全ではないにせよある程度の)モヒカン族気味なのに、棲み分けに賛成なの?
モヒカン族らしさがよくわかる代表例は、無断リンク論争である。
貴様らモヒカン族は、インターネットは根本思想としてリンクフリーを当然としているし、インターネットは情報交換手段なのだから情報は自由に流通すればするほどよいという立場に立つ。それによって多少の軋轢や不快感が生まれるとしても人間の理性はそれを制御できるしするべきで、最終的には共有した情報を生かして人類は幸福に近づけるという思想だ。
これは棲み分けなどというものとは全く相いれない考え方である。
たとえ実用的な便利さのために棲み分け的なものやラベリング――さながら検索性のために本棚を分けるような――が求められるとしても、それはプラットフォームに規定されたり厳守するルールとしてではなく、利用者側の自主性から生まれ、そして自由意思で利用するやり方であれという意見になるだろう。
まさにハッシュタグというのが、互いが自主的に使いだし、また参加せずとも外部から観測して情報を得られる素晴らしいやり方だな。
そんなモヒカン族のお前らなのに、棲み分けに賛成なのか? どうした? hageてモヒカンヘアにできなくなったのか? 全く思想的堕落という他ないぞ。
「構造的な要因」に原因を求めるということは、人間の行動は構造によって決定されるという考え方をとっているわけで、自由意志を否定している
例えば、アファーマティブアクションとして、理系の大学に女子枠を作る話などもそうである
構造的な要因で、女性が理系の大学に進学できないという説明をするのならば、当然にしてそこに人間の自由意志はない
しかし、リベラル派は「女性は構造的な要因で理系の大学に進学できない」「女性の自由意志で大学を選べるようにするべき」という二つを主張しているのである
自由意志を認めるならば、有名大学に黒人が少ないのも、経済格差があるのも、議員に女性が少ないのも、全て「自由意志の結果」のはずである
自由意志を認めないのならば、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」という主張は不可能である
なぜなら自由意志を認めない立場からすれば、自由意志はこの世に存在しないため、自由意志という言葉と事実はなんの対応関係も存在しないからである
よって自由意志を認めない立場の人間が、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」と主張するのは、言葉の定義が不明瞭な一種の疑似問題であり、棄却される
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⚪︎ここに反論を載せておく
「差別が構造的なものであるという主張が個別の行為に関して構造によって決定されるという主張を含意するわけではないでしょ。構造によって選択肢は制限されるがその限られた選択肢からどうするかは自由とか、個々人は自由に行為を選択するがマクロ視点では一定のパターンが生まれるとか、いろんな考え方ができる。藁人形論法じゃない?」
という主張を認めるならば
「物理学的な制約(世界は物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間に自由意志はない」
という主張も認めなければならない
なぜなら構造とは最終的には物理的なものに還元できるわけだが、前者を認めて後者を認めないというのは
「特定の物理的影響によっては自由意思は制限されるが、その他はされない」
リベラルでないものをリベラル認定すればリベラルの主張と矛盾するのは当たり前のことである。
実際には彼のような人物がリベラルの定義を都合良く操作している」
←構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろ
アファーマティブアクションを主張するリベラル派の理論武装の中に確実に含まれているが
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search/tweet/1685110959558574080
↑朝起きたらこのツイートが炎上してて、最初バカか?それとも釣りか?って思ってたんだけど
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search/tweet/1685112342236086272
生理やつわりを「自由意思かつ任意で体験してる!」みたいに言うじゃん
毎月献血行くくらいの量の血液垂れ流して体バキバキメンタルボロボロの中それを廃棄したり、朝昼晩食べたもの全部吐いて水しか飲めなくて、空腹かつ船酔いみたいな状況がずーっと続いて体力奪われて、お腹に赤子いるのに体重ガタ落ちして「赤子死んじゃったらどうしよう」とか不安になってメンタルゴリゴリ削られたり、
そういうの、トランスから見たら女の特権に見えるんか?だとしたら相当イカれてると思うし、私の代わりに経験してほしいわね!
※いや、孕んだことそのものは女にしかできない特権みたいなもんで、かつ自由意思だからそこはぐうの音も出ないし、
今はネットやコミュニティで先輩ママさんの話をたくさん聞ける環境にあるから、事前知識としてつわりがきついのも知ってたけどさ…
これってさ、「女さんは女になりたい私にはないものを持っててズルい!ムキー!」ってこと?
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search/tweet/1685110959558574080
↑朝起きたらこのツイートが炎上してて、最初バカか?それとも釣りか?って思ってたんだけど
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search/tweet/1685112342236086272
生理やつわりを「自由意思かつ任意で体験してる!」みたいに言うじゃん
毎月献血行くくらいの量の血液垂れ流して体バキバキメンタルボロボロの中それを廃棄したり、朝昼晩食べたもの全部吐いて水しか飲めなくて、空腹かつ船酔いみたいな状況がずーっと続いて体力奪われて、お腹に赤子いるのに体重ガタ落ちして「赤子死んじゃったらどうしよう」とか不安になってメンタルゴリゴリ削られたり、
そういうの、トランスから見たら女の特権に見えるんか?だとしたら相当イカれてると思うし、私の代わりに経験してほしいわね!
※いや、孕んだことそのものは女にしかできない特権みたいなもんで、かつ自由意思だからそこはぐうの音も出ないし、
今はネットやコミュニティで先輩ママさんの話をたくさん聞ける環境にあるから、事前知識としてつわりがきついのも知ってたけどさ…
これってさ、「女さんは女になりたい私にはないものを持っててズルい!ムキー!」ってこと?
挙げ句息子(笑)に童貞卒業だけさせたかった!それで孕んだ女は知らね!チンポついたまんま女になりたい!
もうね、こういう人は性転換云々よりも精神科受診したほうがいいよ
追記;
子宮取った子無しの同性に「生理ごときで休むな」「会社のトイレのサニタリーボックスに使用済み生理用品を捨てるな」「つわりなんて甘え」「妊娠できない人に配慮しろ」って言われても同じ感情になるだろ
行為の是非も言わない
体操の日本代表については年齢を問わず、役員についても、喫煙と飲酒が禁止されている
当然に、役員も飲酒がバレたのなら、規約に則り即退場してもらうべきだろう
で、だ
これについて、重すぎるだの、この程度だのと言う人が多い
これが役員側だったのなら、金返せ位言ってるだろう輩が
WAKAMONOとなると突然大甘になる
その時に決められている規約を守れないなら参加すんなよって思うんだよ
行為の是非じゃないぞ
喫煙はダメとか、着崩しはダメだという規約があるならそれを守るべきで
それが不服なら参加すべきじゃない
選手側に自由意思があるんだから、そんなクソ団体に参加するなよ
着崩しで参加したいなら規約を変えるなりすりゃいい
問題になった選手達はクソ下らん規約を定めてる日本代表になんぞ選抜されんでも
全然やっていけたでしょ
Q.
日本国憲法では、勤労の義務が規定されています。 一方、 「又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」 とも規定されています。 これは矛盾ではないですか?
A.
この質問は、日本国憲法における勤労の義務と強制労働の禁止に関する興味深い点を指摘しています。一見矛盾しているように見えますが、実際にはそうではありません。 以下にその理由を説明します: 勤労の義務(第27条): 日本国憲法第27条は「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」と規定しています。これは、国民に労働の機会を与える国の責任と、社会の一員として貢献する国民の道徳的責任を示しています。 強制労働の禁止(第18条): あなたが引用された文は、憲法第18条の一部です。この条文は奴隷制度や強制労働を禁止しています。 これらの規定は以下の理由で矛盾しません: 性質の違い: 勤労の義務は道徳的・倫理的な義務であり、法的強制力を持ちません。一方、強制労働の禁止は法的強制力を持つ規定です。 目的の違い: 勤労の義務は社会の発展と個人の自己実現を目的としています。強制労働の禁止は個人の自由と尊厳を守ることを目的としています。 適用範囲の違い: 勤労の義務は一般的な社会規範を示すものです。強制労働の禁止は具体的な行為の禁止を定めています。 自由意思の尊重: 勤労の義務は個人の自由意思による職業選択を前提としています。強制労働の禁止はまさにその自由意思を保護するものです。 つまり、この二つの規定は矛盾するのではなく、むしろ補完し合う関係にあると言えます。勤労の義務は社会への貢献を促す一方で、強制労働の禁止はその貢献が強制されないことを保証しているのです。 この解釈は、日本の憲法学者や裁判所でも広く受け入れられています。
それが許される社会になったんだよ
本当に真に見合いでもなんでもやって、出戻りでも何でもいいからとにかく結婚したい、条件なんか一切ないっつって結婚できない奴なんかごくごく少数だろ
自身の条件をクリアする相手から【選ばれない】のは、結婚しない、だよ
結婚できない、じゃない
疲弊はあったとは思う「そこまでして?」って感じのね
ただ、どっちかというと、「お見合い」的な価値観への忌避感が強まった
それと後は、フリーター含めて「何とかなるじゃん」って空気感が強かった
しがらみ?いえ?れーる?無視した方がお得だよね、みたいな
若者は売り手市場で、面接に行くと廻ってない寿司屋で食事して、タクシー代だと言って万券包んだ時代
でも、女性にしてみたって、結婚しなくても生きていけるってなっていった時代
1970年代は、女手一つで子供育てる人は、土手沿いの床がギシギシいうボロ長屋に住むとかしてたけど
それが一億総中流っていって、実際、今の母子家庭で貧困としてTVに出てくると、すごい豊かな暮らししてるなって思う
出稼ぎとかも聞かなくなった
経済的自由って奴やね
あるデータによると、自由恋愛が出来る(その延長線としての結婚・出産も)男女は全体の約3割らしい。
たった3割なのかよ!
3割ということは、残りの7割は自分の力で恋人を作ることが出来ず、喪女とモテない男になってしまうということだ。
逆に言えば、自由恋愛の仕組みが社会に組み込まれている状態では、モテない男女がむしろ多数派なのだ。
自由恋愛は、両者の合意の上で成り立つカップリング、しいては結婚・出産に繋がる思想である。
そして個人の自由意思を最大限に尊重するという前提の上で成り立っているので、ポリコレとも親和性が高い。
昔の「家」同士の取り決めで結婚が決まっていたことへのカウンターとして生み出された自由恋愛なのだから、それは当然だろう。
しかし自由恋愛システムは、構造的に大量のモテない人間を生み出す。
分かっている人は分かっているかもしれないが、非婚化・少子化の最大の原因はこの自由恋愛システムなのである。
ここに、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という規範を示す。
本稿は、右規範に対して懐疑的なニンゲンを説得するために執筆されたものである。具体的には、下記のニンゲンが本稿のターゲット層である。心当たりのある者は、ぜひ熟読せよ。
風邪をひいたら休めという規範は、①パターナリズムと②蔓延防止という二つの論拠から成る。風邪の治癒に専念することで、①疫病が悪化する可能性が低くなり、結果として本人のためになる。そして、②伝染病の蔓延を防止することができる。
ところが、しばしば右規範は破られる。風邪をひいても会社や学校へ行くニンゲンと、これを良しとする第三者が後を絶たない。なんとも嘆かわしい。かかる者は如何にして規範を逸脱するのだろうか。
私は、その理由につき、当該ニンゲンが①パターナリズムのみを重視してしまった結果であると考える。彼らは、「風邪をひいたら休まなくてはならない」という規範の趣旨を、もっぱら「私が大変な思いをするからだ」と捉えてしまう。よって、「私は病状悪化という結果を許容しているから、右規範の趣旨(本人のために休むべき)が及ばない。ゆえに休まなくてもよい」と結論づけてしまうのである。
しかし、かかる見解は妥当ではない。パターナリズムはむろん重要であるが、②蔓延防止の意義を殊更に強調しなくてはならない。
以下、敷衍する。
★「人を傷つけてはならない」という規範
なぜ、風邪をひいた場合に、②蔓延防止のために休む必要があるのか。
まず、「人を傷つけてはならない」という規範は、ハンムラビ法典でも傷害行為が禁止されているように、紀元前時代からの常識である。これは、現代社会においても、傷害罪(刑法204条)が国民に構成要件として配布していることからも明らかである。
そして、風邪をひいた状態で外出をして、特に会社や学校等の多数人が集まる室内で過ごせば、自らの病を伝染させることにより、他者の生理的機能に障害(傷害)を与えることで、人を傷つける蓋然性が具体的明らかに予見される。
したがって、風邪にもかかわらず、休まなかったことで、「人を傷つけてはならない」という規範を乗り越えてしまうことになる。
よって、他者を傷つけないために、風邪をひいた人間は休養することで蔓延防止に努めるべきなのである。
そうであるとしても、いかなる場合にも「風邪をひいたら、休め」という規範を適用するのは妥当ではない。風邪の自覚症状が無い場合や、どうしても外せない急用がある場合もあるだろう。いかに判断するべきか。
まず、自らの病状につき善意(無知)である場合について、いかに解するべきか。
故意責任の本質は、反規範的人格態度に対する道義的非難である。
すなわち、自分が風邪であり、もしかしたら他人に伝染させてしまうかもしれないという点につき、認識・認容していれば、「他人を傷つけてはならない」という規範に対しての反対動機を形成しているものといえる。しかるに、敢えてこれを逸脱したのだから、かかる行為は道義的非難に値する。
よって、自分が風邪であると認知していたのであれば、休養に努めるべきであるのが原則である。
逆に、自分が風邪であると知らなかったのであれば、そもそも「休むべきである」という規範に直面しておらず、反対動機を形成できないため、道義的非難に値しない。実際に、潜伏期間が存在するウイルスは多いことからも、このような結論が妥当である。
以上より、自らの病状につき善意(無知)である場合には、休まなくてもやむを得ないものといえる。
なお、ここでいう「体調不良」とは、月経・片頭痛・食中毒などの伝染病以外で身体異常をきたしている場合を指す。
この点、蔓延防止以前に、そもそもパターナリズムの観点からは、風邪か体調不良か判断できない場合にも休養した方が良いといえる。ゆえに、原則として外出するべきではない。
しかし、単なる体調不良であれば、他者の生命・身体を侵害することはない。よって、自身が体調悪化につき許容しているのであれば、単なる自由意思の範疇にあるといえるから、これを非難される筋合いは薄い。
したがって、伝染病であるという相当の蓋然性がある場合には、「風邪をひいたら休むべきである」という規範に服するべきである。右判断にあたっては、当人の体温、病状、体質、病歴、自覚症状、過去の行動等を総合勘案して判断する。
・平熱と比して体温が高い
・前日に気怠さがあった
・雨にうたれた
・知人が熱を出した
・病状が軽微である
たとえば、体温が37.5℃以上であり、前日から続く気怠さ・咳があるものの、月経による体調不良かもしれないといった場合を想定してみよう。この場合、たしかに月経という事情は伝染病のおそれを低めるものであるが、咳と月経は無関係であり、37.5℃以上という体温は、一般に風邪と判断されるべきものである。
なお、より強度な「明らかに伝染病ではない場合にのみ、休まなくても良い」という判断枠組みも考えられる。筆者は、単なる体調不良の場合は自由意思を尊重するべきであるから、緩い判断枠組みが妥当すると考えたため、かかる見解は採用しなかった。
では、自らの風邪に自覚症状があり、明らかに伝染病であるものの、どう しても外せない急用等がある場合には、いかに解するべきか。
この場合、どうしても外せない急用等に参加したいという時点で、パターナリズムは克服されているため、第三者への傷害の有無で判断するべきである(病状悪化をしてでも〇〇がしたいという者に対して、貴方の身体のために辞めなさいというのは余計なお世話である)。
そして、第三者に病を伝染させてでも、自分がやりたいことを行うというのは、結局のところはエゴイズムである。冠婚葬祭や親族の危篤、会社や学校への出席などは、「自分が行きたいから行く」のであり、エゴイズムが第三者の身体・生命の侵害を正当化する場面は限定的であるべきである。
これに対して、出席せねば評価が悪くなるため、「行きたいから行く」のではない;やむを得ず風邪をひいてでも外出しなくてはならないのである等の反論が想定されるが、妥当ではない。結局、評価の悪化を避けるというのも利己的な目的であり、原則として、そのために伝染病をばら撒いて第三者侵害を行うべきではないいう形式は変動しないためである。
第三者の身体・生命は、きわめて重要な法益であるから、「どうしても外せない用事」との比較衡量で決するべきである。具体的には、用事の重要性・症状を鑑みて、第三者の身体・生命に対する侵害のおそれを惹起してでも、当該「用事」を優先するべきであると判断できる場合にのみ、風邪をひいても休まなくても良いものと解する。
たとえば、冠婚葬祭や親族の危篤などは、この機会を逃してしまえば二度と立ち会えないイベントであり、用事の重要性は高いものといえる。
もっとも、当人が伝染させればきわめて身体・生命への侵害性が高いといえる伝染病を患っている場合は、この限りではない。具体的には、インフルエンザ、新型コロナウイルス、ノロウイルス等の強い感染力・症状を有するものは、真にやむにやまれぬ事情が存在しない限りは、外出するべきではない。
そして、会社や学校への出席は、上記の用事と比して、重要度が低いと言わざるを得ない。成績に重大な影響を及ぼす発表や試験等が存在しないかぎりは、外出を行うべきではない。
そもそも、出席が必要不可欠でない限りは、リモート等の手段を講ずるべきであり、あくまでも「風邪をひいたら休むべきである」という規範を乗り越え、外出を行うという選択肢は、最終手段として留保されるべきである。よって、リモート等の手段を採ることができたのにもかかわらず、他者への傷害を惹起する外出を選択するということは、あってはならないのである。
★まとめ
以上より、風邪をひいたら、本人のために休むべきであるのはもちろん、「他者を傷つけてはならない」のであるから、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という合理的な規範が成立し、ニンゲンは原則として右規範を遵守しなくてはならないということが示せたはずである。
その他、想定される反論について、下記にまとめる。異論や質疑等があれば、気軽にコメントしてほしい。
・明らかに体調不良ではなく伝染病であるものの、風邪が軽微である場合は?
症状が軽微であっても、他者に伝染させる可能性がある。そして、乳幼児や後期高齢者を想定すれば明らかであるように、自分が軽微な症状であるからといって、第三者もそうであるとは限らない。したがって、伝染によって他社の身体・生命に侵害を及ぼすという点では、原則として「風邪をひいたら、休め」という規範に従うべきである。
もっとも、上記パターン3の判断時に、症状の軽重は重要な考慮要素となりうる。
・風邪をひいた状態で出席することに対して、全員の合意がある場合は?
友人の集まりや会社等で、自己が風邪を患った状態で出席することにつき、コンセンサスを得ている場合には、伝染による傷害結果の発生につき同意がある以上は、「風邪をひいたら休むべきである」という規範が妥当しないのではないか?という反論が考えられる。
しかし、風邪につき合意した者(合意者)のみと交流することは実際上は困難である。例えば、公共交通機関を用いるのであれば、不特定多数人に感染リスクがあり、伝染による傷害を惹起する可能性があるだろう。
そして、合意者がさらに第三者に伝染を及ぼす可能性がある以上は、②蔓延防止の観点からこれを許容するのは妥当ではない。
・病弱なニンゲンにとって、毎回「風邪をひいたら休む」という規範に従うのは難しいのでは?
たしかに、病弱なニンゲンは休む機会が増えてしまうため、会社や学校での評価に悪影響を及ぼすこともありうるだろう。
しかし、病弱な者は他人を傷つけても良いと考える者はいない。そして、伝染病の頒布は他人を傷害する行為であるから、伝染によって他人を傷害してしまうことにつき認識・認容があれば、道義的非難に値することには変わりない。
また、結局のところ、評価の変動といった事情は先述したように利己的・個人的な理由であるから、エゴイズムが第三者の生命・身体を侵害するという場面は限定されるべきであるという当為規範が変動することもない。
以上