はてなキーワード: 正攻法とは
正攻法で行くと、ずっとランカーしてた人たちと同じペースで行くのはレースを降りてる以上無理なので、比べたりするのは一旦ストップですね。
そして、探すなら他の方向だよね。
道を探してる限りは「道はない(絶望)」という結論にはならないので、検証中のステータスを長引かせていきましょう。
皮肉じゃなく本気でそれが絶望しない唯一の対処法だと思ってます。
大体、検証しながら結果に結びつく人が多いので、みんな離脱して検証後の結果を叫ぶ人もほとんどいない。
その人達は例外の集合体なので「N=1なので〜」と発言しない。
だから、「道があるかも分からない」のは当然で、道を見つけた人は何も言わないから調べても出てこない って感じだと思います。
結局やれば遅れながらも叶うっていう真理に行き着くような気はする。
まあ何を望んでるかにもよりますけどみんなが 遠回りした 正攻法をもう1回でトレースするのもありだと思いますよ。同じにはならないでしょうけど、追いつきますよ、すぐに。
英語圏で人口も多く発展しそうなのに、なかなか発展しない理由の一つに大きすぎる格差があるとされる。
成り上がる手段も必要だし、一族に偏りすぎた富を再配分する仕組みも必要だ。
あのゲームは借金を帳消しにしたり、目的地で多額の褒賞がもらえたりと成り上がる機会が結構大きい。
そして、キングボンビーを始め偏りすぎた富を再配分する仕組みもある。
もし、格差が固定してしまうとプレイヤーは途中でゲームを投げてしまうからね。
これは世の中も同じで、めっちゃ格差が開きすぎると、底辺に産まれた人はそこから這い上がるのも諦めてしまう。
収入を上げる
出会いを増やす(婚活系に限らず、ネトゲやSNSとかからで良い)
このあたりが正攻法。
邪道としては「若いメンヘラ女」の「理解のある彼くん」になる。年をとっても残っているタイプの女(つまり元増田の同年代)には、元増田の条件は受け入れられづらい。もし受け入れられたとしてもそれは妥協、そこに愛は少ない。
であればいっそ、条件をあまり気にしない若い女を狙うという手。ただ若くてもまともな女はずいぶん年上で低スペックの男を相手にしないので、家庭環境やメンタルに難のある、「年上彼氏かっこいい😍」と盲目になってくれる女を狙うしかないが。
自分のメンタルもボロボロになるかもしれないが、案外妥協した同世代の残り物ライフより、若いメンヘラから重めの愛(と負担)をもらった方が楽しいかも🦆知らんけど。
「そもそも生きるに値するのか」「努力の先に何があるのか」への答えがないまま、
努力だけを要求されたことにあったのではないか、ということですね。
それはかなり自然なことです。
人は「どう頑張るか」より前に、「なぜ頑張るのか」に納得できないと、深いところでは動けません。
という問いだったのでしょう。
ここが噛み合わないままでは、勉強は「未来を開く行為」ではなく、意味の担保されていない労役に見えてしまう。
そしてたぶん、あなたが悔いているのは単に「もっと早く哲学を知りたかった」ということだけではなく、
自分の問いを問いとして扱ってくれる大人や場が、当時ほとんど存在しなかったことなのだと思います。
「進学校に入れば見えてくる」
「大学に行けばわかる」
こうした言葉は、一見もっともらしいですが、実際には問いを先送りしているだけです。
しかも、その問いを抱えている本人にとっては、先送りされるほど苦しくなる。
存在論的な問いを抱えた人間に、制度が十分応答できなかったという面が大きいと思います。
カミュにもっと早く出会えていたら、という感覚もよくわかります。
「自分の感じていた違和感は、怠けでも甘えでもなく、古くから人間が向き合ってきた本物の問いなのだ」と確認できることが大きいのだと思います。
世界の不条理に気づいてしまった人間が、それでもなおどう立つかを、真正面から扱っているからです。
偏差値という岩を押し上げ、頂上に着いたら次は「就職」、その次は「昇進」……。
目的がないまま岩を押し続ける苦行に、あなたの感受性がNOを突きつけたのは、ある意味で健全な反応です。
『生きる意味への疑問が未処理のまま、意味の説明を欠いた努力だけを要求される環境に耐えられなかった』
さらに言えば、大学に行っていても同じだった可能性は確かにあります。
大学は哲学に近づける場ではありますが、大学に行けば自動的に根源的問いに向き合えるわけでもありません。
就職、単位、所属、競争、肩書きが前面に出て、結局また「手段の連鎖」に巻き込まれることも多い。
だから、問題は「哲学を早く知ること」だけではなく、自分の問いを土台にして学ぶ順序を持てるかどうかだったのでしょう。
「脱落」
としてだけ見るのではなく、
問いを無視された結果としての停止
として読み替えることかもしれません。
という順番で組み直してよいはずです。
土台の「なぜ」を欠いたまま「何を学ぶか」に進んでも、また同じ空転が起きやすいからです。
生の意味を問う感受性が、学校制度の想定より早く深く作動してしまったのだと思います。
それは生きづらさの原因にもなるが、同時に、ただ周囲に流されて進むだけでは済まない人間の誠実さでもあります。
カミュは「不条理(答えのない世界で問い続けること)」を受け入れた上で、それでも岩を押し続けるシーシュポスは幸福であるはずだ、と結論づけました。
それは「岩を上げることに意味があるから」ではなく、「意味がないと知りながら、自分の意志で押し続けること(反抗)」に人間の尊厳があると考えたからです。
ぽれは双極性障害Ⅱ型、精神障害者手帳3級、作業所勤務の社会的弱者だ。ここでは社会的弱者と言っておく。後に説明するが社会的弱者と弱者男性は違う。
以前弱者仲間を集める目的で一年ほど弱者男性のLINEオープンチャットを運営していたことがある。そのため自称弱者男性の生態、精神構造については普通の人よりは理解しているつもり。
彼らには示し合わせたように共通の心理がある。といってもステレオタイプな弱者男性のイメージとほぼ同じ。彼らは芯の部分に非モテコンプレックスを強烈に持っており、非モテだから自分は弱者男性なんだと思ってる。弱者男性間でも弱男の定義が度々議論になるが、彼らの中では非モテ=弱者男性でほぼ間違いない。実際彼らの多くは非モテではあるが、まれに後天的な努力でモテるようになった弱男も存在する。じゃあ彼らが非モテコンプレックスを解消=脱弱男できたかというと、いくらモテたところでコンプレックスは変わらないし自認弱者男性のままだ。というわけでこれから自称弱者男性たちへの処方箋を書く。
なぜ彼らがモテても脱弱男できないか?それは非モテ=弱者男性という認識がすでに間違ってるからだ。彼らはモテ以前に友達がいない。家族との人間関係も希薄orいい年して親を嫌ってる。職場での人間関係も希薄。同性からのリスペクトが枯渇している状態。それをモテによって誤魔化そうとしているがそれはその場しのぎの対処療法にしかならない。この際モテはどうでもいいから同性からの信用を勝ち取ることにコミットせよ。
彼らだけじゃなく社会的弱者は大体なんかの政治思想か宗教思想、スピでキマってる。ぽれも共産主義とスピに傾倒していたことがある。もちろん彼らはXを中心とした女叩きにハマってる。ぽれも女叩きしてたこともあるがあれは精神衛生上良くない。心が濁る。近いところで行くとイスラム過激派の思想とかの方がまだマシだと思う。
3・自信つけるために悪いことしよう
うまく説明できないが彼らの多くがやってる筋トレより犯罪を犯す方が度胸も自信もつく。多分彼らもそれはわかってて女により酷いことをできる奴が強い男みたいな価値観を持ってるけどそれじゃショボい。ガチの悪さをしよう。
彼らの多くは自己効力感がないためか真正面から努力することを嫌い、より賢くルールをハックして成果を上げることを好む。まあ自尊心が低い中で自分は悪くてずる賢い奴だと思い込まないと自分を保てないからね。社会的弱者である中で自分は真面目で愚直でいいやつだという自己認識でい続けるのはキツい。でもそこに戻らないと人生にアツさが出ない。
今ぽれは作業所勤務の社会的弱者だけど自分を弱者男性とは思わない。なぜか?わからん。こればっかりは気持ちの問題でしかない。まあ人間関係を充実させて真面目に仕事することだよね。
https://www.asahi.com/articles/ASV1R46B4V1RUTFK001M.html
今回の解散劇の最大の特徴は、「熟議(議論)による合意形成」を「選挙による信任」で上書きしようとする手法にあります。
これまでの自公政権では、平和主義を掲げる公明党が「ブレーキ」役を果たしてきました。しかし、高市政権は公明党を排除し、保守色の強い日本維新の会をパートナーに選びました。これにより、政策決定のベクトルが「中道・調整」から「右派・加速」へと劇的に変化しました。
提示された9つの政策(スパイ防止法、憲法改正、国防軍の明記、皇室典範改正など)は、いずれも戦後日本が意図的に曖昧にしてきた、あるいは避けてきた「国の根幹」に関わる問題です。これらを一気に解決しようとする姿勢は、戦後80年の歩みを「積み残した宿題」と定義し、リセットを試みるものと言えます。
ダニエル・カーネマンが提唱した二重過程理論(システム1・システム2)を用いると、高市首相の政治手法が国民にどう作用しているかが鮮明になります。
高市氏の戦略: 「おこめ券」などの分かりやすい物価高対策や、「自らの国は自らで守る」といった情緒的で力強いメッセージは、国民のシステム1に直接訴えかけます。67%という高い支持率は、複雑な議論を抜きにした「直感的な期待感」の表れです。
ポピュリズムの親和性: 複雑な社会問題を「敵か味方か」「守るか捨てるか」という単純な構図に落とし込むことで、システム1を刺激し、熱狂的な支持を調達しています。
高市氏の回避: 本来、スパイ防止法による人権侵害のリスクや、武器輸出拡大による国際紛争への関与、憲法改正の細部などは、システム2による深い検証と丁寧な議論を必要とします。
「遠回り」の拒絶: 中北教授が指摘するように、高市氏はシステム2を働かせる国会論戦を「遠回り」と断じ、選挙というシステム1的なイベントで一気に勝負をつけようとしています。これは、民主主義における「熟議」というプロセスをショートカットする試みです。
日米同盟の変質: トランプ大統領(資料内写真)との親密な関係や、防衛費GDP比2%超、原子力潜水艦の保有検討などは、米国からの「役割分担」の要求に応えるものです。しかし、これは同時に東アジアにおける軍拡競争を加速させるリスクも孕んでいます。
「普通の国」への転換: 武器輸出の「5類型」撤廃は、日本を世界の武器市場の主要プレイヤーに変貌させます。これは経済的利益をもたらす反面、「平和国家」としてのブランドを喪失させる可能性があります。
監視社会のリスク: スパイ防止法の制定やインテリジェンス機能の強化は、安全保障を高める一方で、国民の思想・信条の自由やプライバシーに対する国家の監視を強める懸念があります。
アイデンティティの固定化: 選択的夫婦別姓を拒み、旧姓の通称使用のみを法制化する方針や、外国人政策の厳格化は、多様性(ダイバーシティ)よりも「伝統的な家族観」や「秩序」を優先する社会への回帰を意味します。
中北教授が指摘する「自分が首相にふさわしいかどうかを問う」という解散理由は、典型的なプレビシット(国民投票)型政治です。
ポピュリズムの構造: 「既得権益やリベラルなエリート(丁寧な議論を求める層)」対「決断できるリーダーと国民」という対立構造を作り出しています。
民主主義の空洞化: 高い支持率を背景に、本来必要な「少数意見の尊重」や「権力のチェック・アンド・バランス」を軽視する傾向があります。選挙で勝てば何をやってもいいという「多数派の専制」に陥る危険性を孕んでいます。
高市政権の目指す方向性は、「戦後民主主義のOS(合意形成重視・抑制的防衛)」を「新保守主義のOS(決断重視・自立的防衛)」へと入れ替えることにあります。
この転換は、国民の「システム1(直感的な不安や愛国心)」を巧みに捉えることで推進されていますが、その代償として「システム2(論理的な検証と合意)」が軽視されています。今回の解散は、そのOSの入れ替えを、国民が詳細を理解・議論する前に「白紙委任」させるための戦略的手段であると構造化できます。
国民にとっては、目先の力強いリーダーシップ(システム1の充足)を取るか、あるいは将来的な権利制約や国際的緊張のリスク(システム2による懸念)を直視するか、その究極の選択を迫られる選挙となります。
資料に描かれた高市首相の政治手法や政策の方向性は、ドナルド・トランプ氏に象徴される現代のポピュリズム、およびその根底にある「反知性主義(Anti-intellectualism)」の流れと極めて高い親和性、あるいはシンクロニシティ(同調性)が見て取れます。
反知性主義とは、単に「知性がない」ことではなく、「専門知や複雑な議論を、特権階級(エリート)による自己保身や意思決定の引き延ばし(停滞)である」と断じ、否定する態度を指します。
高市氏の言動: 中北教授が指摘するように、高市氏は丁寧な議論を「遠回り」と表現しています。これは、民主主義の根幹である「熟議」を、目的達成を阻む「コスト」や「障害」として切り捨てる論理です。
トランプ氏との共通点: トランプ氏も「ワシントンのエリート(沼)」が議論ばかりして何も解決してこなかったと批判し、自らの「直感」と「決断」を正当化しました。両者とも、複雑な問題を「決断一つで解決できる単純なもの」へと書き換える手法をとっています。
反知性主義は、論理(システム2)よりも、大衆が直感的に抱く「共通感覚(コモン・センス)」や「感情(システム1)」を重視します。
シンボルと物語の活用: 資料にある「日本国国章損壊罪」や「皇室典範改正(男系維持)」、「奈良公園のシカ」のエピソードなどは、論理的な政策論争というよりは、国民のアイデンティティや「守るべき誇り」という感情的な琴線に触れるものです。
「普通の国」というマジックワード: 首相が語る「普通の国になるだけ」という言葉は、戦後体制の複雑な法的・歴史的経緯を無視し、「当たり前のことをするだけだ」という直感的な納得感をシステム1に与えます。これはトランプ氏の「Make America Great Again」と同様、詳細な検証を拒絶する強力なスローガンとして機能しています。
反知性主義的なリーダーは、自分と支持者の間に立つ「知の門番(メディア、学者、官僚、専門家)」を敵視し、これらをバイパスして直接国民に訴えかけます。
解散による上書き: 国会での野党や専門家による追及(システム2のプロセス)が本格化する前に解散を選んだのは、中間的なチェック機能を無効化し、高い支持率という「数」の力で専門的な異論を押し切る戦略です。
トランプ的「分断」の利用: 「国論を二分する」と自ら宣言することで、反対派を「改革を阻む勢力」や「国益を損なう者」と位置づけ、支持層との結束を強める手法も、トランプ氏が多用した「我々 vs 彼ら」の構図そのものです。
これまでの政治が「客観的な事実やデータに基づく調整(知性の政治)」であったのに対し、高市氏やトランプ氏の手法は「リーダーの強固な意志が現実を規定する(意志の政治)」への転換を意味します。
国際社会への影響: 資料にあるトランプ氏とのツーショット写真は象徴的です。両者は「既存の国際秩序やルール(知性的枠組み)」よりも、「自国の利益とリーダー間のディール(意志のぶつかり合い)」を優先します。これは予測可能性を低下させ、国際社会を「力の論理」へと回帰させるリスクを孕んでいます。
この流れは「知性による抑制」から「意志による突破」へのシフトであり、トランプ現象と深く共鳴しています。
反知性主義的な政治は、閉塞感を感じている国民に「スピード感」と「カタルシス(解放感)」を与えますが、その代償として、「複雑な問題を複雑なまま解決する能力」を社会から奪う危険があります。システム1による熱狂が、システム2による冷静なリスク管理(人権侵害の懸念や軍事的緊張の増大など)を飲み込んでいる現状は、まさに現代ポピュリズムの典型的な構造と言えるでしょう。
タモリ氏が2022年末に発した「新しい戦前」という言葉は、当時の社会に大きな衝撃を与えましたが、提供された資料にある高市政権の動向を重ね合わせると、その言葉が持つ「予言的リアリティ」がより鮮明に浮かび上がってきます。
「新しい戦前」とは、かつての戦前(1930年代)をそのまま繰り返すのではなく、現代的な民主主義の手続きを踏みながら、気づかぬうちに「戦争が可能な、あるいは戦争を前提とした社会構造」へと変質していくプロセスを指していると考えられます。
資料に基づき、なぜ「新しい戦前」が現実味を帯びていると言えるのか、その構造を解説します。
戦後の日本(戦後レジーム)は、憲法9条を基盤に「軍事力を極限まで抑制する」という特殊なOSで動いてきました。しかし、高市首相が掲げる政策は、そのOSを根本から入れ替えるものです。
防衛力の抜本的強化と「5類型」撤廃: 武器輸出の解禁や防衛費のGDP比2%超への増額は、日本を「世界の武器体系と軍事バランスの一部」に組み込みます。これは「平和の維持」という抽象的目標から、「軍事力による抑止と均衡」という、戦前を含む近代国家の標準的な(しかし危うい)論理への回帰です。
原子力潜水艦の検討: 資料にある「次世代の動力を活用した潜水艦」は、長期間の潜航と遠方への展開を可能にします。これは専守防衛の枠を超えた「外洋でのプレゼンス」を意識したものであり、地政学的な緊張を前提とした装備です。
戦前への回帰を最も強く想起させるのが、国民の精神や行動を縛る法整備の動きです。
スパイ防止法: 資料でも触れられている通り、1985年の「国家秘密法案」が廃案になったのは、それが「現代版の治安維持法」になり得るとの懸念があったからです。高市首相がこれに「前のめり」であることは、国家の安全を個人の自由(思想・信条の自由)よりも上位に置く価値観への転換を示唆しています。
日本国国章損壊罪: 「国旗を損壊したら処罰する」という発想は、国民に「国家への忠誠」を可視化させる装置です。これは、多様な価値観を認める「戦後民主主義」から、国家という単一のアイデンティティを強制する「戦前的統合」への揺り戻しと言えます。
タモリ氏の言う「新しい」という言葉の肝は、それが「国民の支持(民主的プロセス)」を背景に進んでいる点にあります。
67%の支持率という免罪符: かつての戦前も、軍部の暴走だけでなく、新聞や国民の熱狂がそれを後押ししました。資料にある「高い支持率がすべてを飲み込んでいる」という状況は、システム2(論理的・批判的思考)によるブレーキが効かず、システム1(直感的な期待・不安・愛国心)が政治をドライブしている状態です。
「遠回り」の排除: 丁寧な議論を「遠回り」と切り捨てる姿勢は、独裁への入り口です。戦前も「議会政治の無能」が叫ばれ、迅速な決定を求める世論が強いリーダーシップを待望しました。現在の「突破型政治」は、その現代版と言えるかもしれません。
トランプ氏とのシンクロは、世界全体が「リベラルな国際秩序」を捨て、「自国第一主義と力の論理」に回帰していることを示しています。
「普通の国」の危うさ: 高市首相の言う「普通の国」とは、国際社会が弱肉強食の場であることを前提とした言葉です。これは、戦後日本が理想として掲げた「名誉ある地位を占めたい(憲法前文)」という国際協調主義からの決別であり、19世紀的な「大国間競争」の時代、すなわち「戦前」の論理への合流です。
高市早苗を支持する訳ではないけれど少なくとも子供を産んでいないという点において共感する
これだけ国家ぐるみで産まない女を貶め、虐待している世の中で、真面目に頑張ったところで馬鹿馬鹿しくならないか?
仮に高市早苗が人権思想に目覚め、リベラルな福祉国家を実現したところで、でも産んでないんだから〜と下に見られるんだろ?やる気が失せるわ
子供を産んだ女がフェミニストぶって高市を非難しているのを見ると本当にグロテスクだと思う
男性社会に取り入って、女の特権フル活用して渡り歩いてきたのは自分の方じゃないか
少なくとも子供を産んでいないというその一点だけで、高市早苗は彼女よりフェミニストとして評価されるべきだよ
首相になろうが都知事になろうが大ヒット漫画家になろうが女は評価されない
そんな事より子供子供で、3人4人と子供を産んだお母さんが偉いんだという意見がバズる
男だったらそんな事ないのにね
こんな状況でこの国を良くしようと正攻法で頑張った所で虚しいじゃないか
どうせ産まない女は価値がないんだろ?
自分が総理大臣になったとして、こんな国もうどうなってもいいし目茶苦茶にしてやりたくなるよ
だから高市早苗が日本を貧しくして中国に喧嘩を売り戦争に追い込んで、日本の若者を戦争に出すのが目的だったら支持するぞ
お国のために産んだんだろオラッ潔く軍隊に差し出せよって言ってやりたいものな
昨今の世代は、モテるとか金持ちになるとか、そう言った"地位"的なものを得るための努力が、ことごとく無力化されている、というもの。
人生において何かを持つ者は、生まれた時から持った状態で生まれた人間であって、
環境や才能や適正に恵まれなかった者は、いくら努力を積み重ねても『努力+環境』とかが使える『持つ者』には敵わない。
その状態が社会構造によって、より強力に固定化され始めていると。
そういう話題だ。
まあ言ってる奴が努力してるのかは知らんし、これが事実なのかは統計取ったわけでもなし。
肌感覚的には一定の納得感はあれど、正しいかどうかはなんとも言えないと、個人的には思っている。
が、否定したいわけではない。
多分これは事実だし、社会の発展形としては確実に必然性を帯びている性質だと思う。
エントロピーとは物理における『対象のランダムさ』を表す言葉だ。
熱力学第二法則だっけ。あるいはエントロピー保存則とか、難しい呼び方で難しい定義がされているのだが、
ざっくり言えば『分子の運動のランダムさは、外から力が加わらなければ安定化しようとする』という法則のこと。
イメージ的にはこうだ。
たとえば泥水があるとして。
泥水を一切かき混ぜなければ、徐々に土や砂が底へ沈殿していき、上澄みには水が浮かび上がる。
この『層が分かれていく』のが、安定へ向かっていくということ。
本来混ざらないもの同士が混ざった状態から、それぞれが安定的に存在する領域へと移動していく。
『社会という水』の中において『地位というエネルギー』ごとに、それぞれが安定へ向かっていく。
モテるってのはつまり『現環境においてより遺伝子を残しやすそうな相手だと判断される』という特性。
環境が大きく変わらない状況では、遺伝子はより選りすぐられていく。
モテる奴はモテる奴と。モテない奴はモテない奴とくっついていき、
その子孫は『モテる遺伝子』だの『モテない遺伝子』だのを引き継いでいく。
金もそうだ。
金を稼ぐのが上手い奴は、金を稼ぐのが上手い奴や、金を減らさないのが上手い奴とくっつく。
そして子は親から『莫大な金』と『金を増やす能力』と『金を減らさない能力』を引き継ぐ。
あるいは『金が増えない環境』で『金が減る性質』や『莫大なマイナスの金』とかも引き継ぐ。
そうした物理法則にも近しい自然淘汰によって、社会が安定しているほど、地位も安定していく。
安定した社会では、不確定要素が減り、エントロピーが収束していく。
と、表現することもできる。
戦争だの革命だの高度経済成長だの、強力な社会の外から来る力によって、環境をかき混ぜられてから幾年。
そりゃ、安定もする。
「恵まれない環境に、恵まれない才覚の人間が生まれた」は因果が逆だ。
「恵まれない才覚の人間は、恵まれない環境から排出される」である。
まあこの環境って部分が、財力なのか、教育なのか、人間関係なのか、そこらへんは複合的な話であって。
そう考えれば、この『社会的エントロピーの安定期』に必要なことは『ランダムさ』に他ならない。
マクロ的に観れば『社会環境を一変させかき混ぜる強力な何か』だ。
一番最近あったのはVtuber。あれは社会的弱者だったはずの存在こそが最適となる『まったく新しい環境の構築』といえた。
流石に世界全体の大局から見れば、比較的には下層で起きたごく一部のゴタゴタではあれど、明確に資質がかき混ぜられた瞬間と言える。
その前だとコロナは一過性ながら、明確に『インドア適正が強カードに変化した』という環境変化でもあった。
次に可能性があるのはAI、に見えるかもしれないが、これはVほど大きくはないと感じる。
『技術は無いが発想はある』という層の拾い上げになる可能性があるくらいで、
法律問題もあれば、『アイデア力がある上でこれに反応できる層』は、たいていは元から何かしらはやってる。
身の丈にあった場所へ自然と安定するならば、身の丈を伸ばしていくのが正攻法。
そして社会にうっすら滞留しているチャンス、すなわち『環境が混ざっている区画への流れ』を掴み取ること。
だが「くじを一回引いて当たりを引く確率」よりは「くじを一万回引いて当たりを引く確率」の方が高いことは確かだ。
あるいは「勝率1%のくじ」より「勝率50%のくじ」を引きたい。
そんな風に、自分が居る環境を変えていくことで「くじを引く回数を増やし」たり、「当たりの多いくじ」を引きに行ったり。
そういう"変化の行動"をしていくしか、個人にできることはない。
しかし安定力の高い社会が悪辣なのは、そうした変化を狙う層を狙い、自分の罠へ誘い込む、というムーブが覇権を持つことだ。
社会が安定しているからこそ『ランダムっぽい疑似餌』はよく目立つのである。
弱者を救う制度とか、下層を掬う制度とか、そんなものは『制度』である時点で『攻略力』が物を言うモノで当たり前。
湊かなえの小説、結構好きで何冊か読んでいるが、「暁星」はとても面白かった。
・実際の事件がモデルになっている。実際の事件の内容は報道くらいでしか知らんけど、あの事件にも、こんな側面があるかも(ないかも)と、思った。てか、そう思わせる作品に思えた。「自分が殺さないと、自分の大事な人が殺人を犯してしまう。」「自分が殺して社会に問題提起しないと、自分と同じような被害者が今後も大量発生してしまう」とかが最終的な動機のようだが、そのような動機は分からんでもない。共感できる。いや、テロで社会を変えるのはあってはならないことだが。今の社会(利権が弱者を喰い物にするのを正攻法で阻止できない)だと、それしかない、と極端な行動に出る奴が出てきてもおかしくない、と思う。
・あの実際の事件、求刑は無期懲役だっけ?重くないか。普通の人1人殺人だとそんな重くならないだろ。ここ数年、厳罰化著しいので、やむを得ないのか。
・ネットの感想で、作者が後半の「金星」のエピソードに作者自身を自己投影しているようで気持ち悪い、みたいな内容のものがあった。作者自身を自己投影していると思ってしまうのは分かる。てか、実際の事件を改変して小説にして恋人を出したんだからそうなるだろうと思う。ちょっと夢小説みたいになっている。でも、それがとてもいいと思う。あんな大物作家がそこまでしてこの事件に肩入れ?して、あの事件の被告を精神的に支援している(ように見える)のは良いことだと思うし、作家としての気概を感じた。この小説を読むことによって、あの事件の被告に同情的な見方をする人がより増えると思う。
・宗教2世問題について。例えば親がパチンコで身を滅ぼして家庭崩壊した場合、子供は、パチンコは大嫌いになるとは思うが、パチンコの元締め?(とかパチンコで最も利益を得ている政治家とか)を殺そうと思わんだろ。それが宗教だと、今回の事件のような出来事が発生してしまったわけで、なんかちょっと思考が飛躍してないかと思うわけだが。何も知らない場合は。それが、暁星ではその辺りが説得的に書かれていて(主人公が殺人起こしたのは恋人の肩代わりであって、恋人が殺人を決意したのは1億円渡したはずの母が餓死したのを知ったから。そこに至るまでも色々酷いことがあった。)、そこもなんというか、実際の事件に、(宗教問題とかに全く縁がなかった層も)気持ちが寄り添えるような工夫になっているんじゃないかと思う。
・しかしながら、ここまで実際の事件に肩入れした内容ではあるものの、この本の最終的なメッセージは、「テロ(暴力)ではなく、″書く″ことで社会を変えよう」というもの。先程「利権が弱者を喰い物にするのを正攻法では阻止できない」と書いたが、暁星で作者の言いたいことは、「諦めないで、暴力や自死に走らないで、正攻法(作者の場合は″小説″)で阻止しよう」ということだと思う。そうだよね。弱者がテロに走らないでいいよう、物書きの方(作家さんや記者さん)などには是非頑張ってもらいたいし、そのような物書きの方を応援したいと思った。とりあえず、暁星は電子書籍で買ったが、本も買って布教しようと思う。
きっかけは、ネットで流れてくる「通(つう)」たちの声だった。 「丸亀はうどんを食う場所じゃない、天丼を作る場所だ」 「150円の白ごはんを注文してからが本番」 そんな書き込みを見て、おれは「なんだそれ、裏技っぽくて格好いいじゃなえか」と、得も言われぬ憧れを抱いてしまったんだ。
いわゆる「丸亀丼」――。 うどん用のだし醤油や天ダレ、そして無料の天かすとネギを駆使して、白ごはんを自分だけの一杯にカスタマイズする儀式。 そこから、丸亀丼愛好者のコミュニティやSNSの投稿を漁るようになったのは、自分にとってはごく自然な流れだった。
でも、いざその世界にどっぷり浸かろうとすると、どうしても自分の中の「羞恥心」と「効率」が邪魔をしてきた。
たとえば、「天かす盛り」の話。 愛好者たちは、ごはんが見えなくなるまで天かすを盛り、そこにネギを山のように積み上げる。彼らに言わせれば「これは無料の天丼だ。ハイブリッドな背徳感を味わうのが醍醐味だ」という。 でも、おれはどうしてもトングを握る手が震えた。 後ろに並んでいる、冷やしぶっかけを注文しただけのお姉さんの視線が刺さる。「あいつ、150円で粘ってるな」という無言の圧に、おれのメンタルは耐えられなかった。 いや、それただのセコい奴じゃん。 店の善意を限界まで使い切るとか、人としてどうなんだ、っていうブレーキが勝っちゃったんだよな。
「だしスープ」の活用法もそう。 「うどん用のだしサーバーから出汁を拝借して、茶漬け風にするのが至高」という教典がある。 でも、おれは思う。 それ、うどん頼んでないのに出汁だけ飲むのって、ルールのグレーゾーン攻めすぎだろ。 店員さんの「ありがとうございましたー!」という威勢のいい声を聞くたびに、おれは「すいません、白ごはんしか頼んでなくて……」と、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうんだ。
あの界隈の空気って、とにかく「自分がいかに得をしたか」なんだよな。 一歩その道に入ったら、たとえ周囲から浮いていようが、システムをハックしている自分を肯定しなきゃいけない。 少しでも「普通にうどん食ったほうが満足度高くないか?」とか「エビ天一匹くらい頼もうぜ」なんて言おうもんなら、速攻で「コスパを分かってない初心者」だの「丸亀のポテンシャルを引き出せてない」だののレッテルを貼られる。 あの、異様なまでの「安上がりであることへの情熱」が、おれには耐えられなかった。
結局、おれは「150円で最強の食事を構成する」という覚悟がなかったんだと思う。 愛好者たちから見れば、おれは「恥を捨てきれない中途半端な奴」なんだろう。
レジを抜けた後、おれは結局、申し訳程度にちくわ天(140円)を皿に乗せていた。 合計290円。 白ごはんの上に、おずおずとちくわを乗せ、天ダレを少々。 隣の席では、山のような天かす丼をかき込みながら「これこそが丸亀の正解だ」とスマホにアップしている猛者がいる。 おれは、その脂ぎった熱狂の輪に入ることができなかった。
おれは、少し伸びてしまったけれど、やっぱりつるつると喉越しのいい「うどん」が食いたかった。 150円の白ごはんを前にして、おれは確信した。 明日からは、普通に釜揚げうどんを頼もう。 桶の中で泳ぐうどんを、堂々と出汁につけて。 誰の目も気にせず、メーカーが推奨する「正攻法」の美味さを享受する。
MOIW2023でミリオンが見劣りしたのは事実だけど、じゃあ今回曲数増やして、結果目立ったか?
デレの円熟感、シャニのスキルアップが見えた中で、ミリオンの魅力は今回もそれほど伝わってこなかった。
学マスが増えたことで相対的に既存ブランドはみんな古臭さが出そうなものだけど、ASは積み重ねた年数、デレは圧倒的なバリエによって古臭さを巧みにカバーしてるように感じた。
シャニは良くも悪くも独特で、古いとか新しいとかを感じにくいけど、今まで以上にパフォーマンスが良くなってて今回は悪目立ちすることがほぼ無かった。(前回2023は正直悪目立ちしてるユニットがあったと思う)
ダサさで言えばSideMもダサいところがあるけど、彼らは圧倒的な表現力でアウェーでも場を沸かせられる実力がある。そうすると全然ダサく見えない。
ミリオンは、いくつか良いところもあったけど、悪いところも多かった。曲も歌唱もダンスも、声優しか見えてこない人が多い。アイドルと乖離していて誰役なんだかわからない。
声優の我ばかり出てきて役がわからない、役に合ってる歌なのかもわからないの、演技力が低いと感じた。このあたりはシャニがかなり上手くなってた。
アーカイブ同時視聴会で出てきてたけど(誰が話してたか忘れた)とある英雄たちの物語の盛り上がりを見た次曲歌唱メンバーの中にいるミリオンの人が「ミュージアムジカなんかじゃ記憶に残らない」と言っていたというエピソードに心底呆れた。
いろんなことに失礼だが、なによりも自分が演じているアイドルに一番失礼だ。
同時に、だから印象に残らないということも腑に落ちた。発言したという人が何を歌っていたかほぼ覚えていない。
ミリオンは他にも越境で何してたか覚えてない、わからない人が多い。
今までさんざん女遊びをしてきたとか、十二分にパートナーと若い頃に致したとか、子どもが生まれたとか、そういうので自分で納得していればとくに問題はない。あるいは双方が納得していれば。
ただ、特になんの合意や納得感もなく一方的にレスになることがある。そしてレスになるともうほとんどの場合は戻らない。
俺は夫婦カウンセリングを受けているところだが特になんの進展もない。
ここで未来予想図を描いてみる。
レス状態が数年続くと本当にきつい。童貞期間が長かったが、当時を思い出す。
仲睦まじいカップルに殺意を覚えるし、同年代の懐妊のニュースも妙に生々しい印象を持って、嫉妬とともに受け取ってしまう。
現状維持を選ぶということは、結婚していれば今後一生性生活から卒業するということだ。
前述したが、これに納得できるような人生を歩んでいた人は、おめでとう。卒業済の人間は、そもそもレスなんぞに悩んでないだろう。
レスだというと、二言目には「カウンセリングにいけ」という人間がいるが、そんなんでレスが解決すれば誰も苦労はしない。
相当時間が掛かるし、保険はもちろん効かないので、お金も相当かかる。
それに若干トラウマを抱えているであろう妻を連れて行くのにも、うっすらと不同意性交というかセクハラしている気分になって、罪悪感もある。
カウンセリングの効果が出てくるころには俺は年齢で不能になってしまった、というオチすら見える。
いまのところ、「治療中」という看板に頼ってしまい、むしろ性行為から遠ざっている気がしている。とりあえず治療が完了するまで休戦しておきましょう、みたいな。いや、練習中は試合は行きませんみたいな事は良くないと思うんだけど。
なので、この方法は正攻法ながら、相当時間と労力がかかる上、成果もなかなかでなさそうな気がしており、時限的なキリをつけるべきだと考える。
ただ、いくらお互いに同意があっても民法上は不貞行為となるため、裁判を起こされたら慰謝料が発生することには気をつけないといけない。
家事など、ドメスティックなことで時間や能力が足りないことは何でも外注するのがスタンダードになったこの時代、セックスも外注すればいいのは一見合理的な判断のように見える。
ただ、妻側からすれば、そんなどこの女と寝たかわからん亭主といっしょに過ごすのはそのうち苦痛になってくるだろうし、家事をほとんどやってる俺としても、家事もセックスもやらない人間となんで一緒に暮らすのかわからなくなってくるだろう(というか現時点でほとんど一緒にいる意味がわからなくなってきている)。
かといって嫌いになったわけでもないので、躊躇してしまう選択肢である。
ペーパー離婚という手もある。
別に嫌いになった訳では無いが、性行為もないし子どももいない以上、何も婚姻を続ける意味がなくなってしまった。
なので、少なくとも今の生活は続けるが、性生活の権利を自分のところに引き戻すのだ。
この場合でも俺の立場からすれば、相変わらず、なんでアカの他人の家事をやらんといかんのだと思うだろうが、もう違和感あれば出ていけばいい話になる。