はてなキーワード: 個人とは
こいつ微妙なまとめ乱立しててウザがられてたのもわかるんだけど、じゃあ他にマトモなまとめがあるかって言えば濃ゆくて人を吊るし上げることに精を出す連中のクソみたいなまとめかネトウヨ冷笑おじの個人攻撃か、コメントのしようすらないまじもんのアフィくらいしか残らないから「まだマシ」な枠として残すべきだと思うの
うちの高校の吹奏楽部はコンサートの収益で楽器を買ったりしていた。
ほかに、収益化できる部活と言えば、コーラス部は厳しいだろうか。美術部は才能があれば売れたりしないんかな。個人で売った方がマシか。
警察 適法 手段 違法 スレスレ 意図的 非難 否定 ちょっと おかし 黙秘権 行使 相手 あの手この手 アプローチ 要求 密室 ストレス 合理的 理由 だって たか 複数人 問題視 話題 時間 許容範囲 禁止 個人 経営 判断 自由 我慢 日本社会 ステルス 圧力 真相 礼儀 集団 状態 文句 現代日本 リアル 日常 職場 逃げられない 文化 労働 サービス残業 通勤 雰囲気 普遍的 美徳 人間関係 日本 協調 生活 社会的 ルール 精神 電車 マナー 公共 道徳 社会 かい 自粛 少子高齢化 現実的 養老 医療 年金 子育て コスト 未来 不透明 しか 心理 はい 慣性 他人 迷惑 自分 沈黙 表現 成熟 やす かに 三重 感情 形成 理解 運用 批判 自体 あなた から 黙秘 現実 質問 レベル 供述 確認 矛盾 曖昧 説明 認識 修正 過程 世界中 普通に 存在 最初 付与 目的 威圧 人格攻撃 問題 重要 のもの モデル 理想 スーパー 和風料理 たこ 殆ど うどん 焼き肉 家庭料理 味の素 意識高い系 食品 酵母 エキス 実態 製造 方法 発酵 しま グルタミン酸 さとうきび 糖蜜 昆布 野菜 アミノ酸 抽出 他責思考 まれ 仕事 モンスター 人間 出会 戦略 不都合 いか 選択 関係 責任 所在 自責 政治家 世間 炎上 面白い 時代 割合 他責 議論 健全 バランス 子供 ある意味 証拠 スタートライン 保証 さな 環境 自己責任 現代 前世 天道 米軍 依存 中国 ロシア 国民 お題目 ちょっかい 出張 ちゃん 憲法改正 核武装 米国 報復 体制 視野 沈黙の艦隊 アメリカ そもそも 営業 いいんじゃない 空気 性格 クズ ブサイク 英雄 平和 簡単 宗教 潜在的 侵略 構造 絶対的 価値観 性質 武力 物理 思想 神様 物語 共同体 帰属意識 倫理観 法律 政治 まり 趣味 統治 システム 歴史的 国家 権力 弾圧 対立 外来 本来 信教の自由 規範 既存 共存 可能 である ゲーム 意味 毎日 クリア ショップ 過去 タイトル 面白 基準 ちゃう 体験 評価 出世 アピール 立場 もも 役職 意思 あくま もっと 給料 裁量 てふん リーダー 上司 メンバー 役割 別に 楽しい 気持ち 不思議 撤廃論 法制 制度 捜査 必要性 接触 侵害 世界 フリスク タイプ タブレット リッチ プラ シンプル ネット 張り紙 加害者 逮捕 ライン ダルい 時代遅れ 必要 人格 継続 スライド 範囲 容認 厳格化 なかに 美人 パパ活 学校 地域 可愛い 人達 しろ 一定 場合 芸能 対策 孤立 コミュ障 ビジュアル 成功 しづ 100人 幸せ 自覚 普通 いじめ 攻撃 珍獣 幸福 なのは クラス のマド ハンタ ウイルス 狩人 韓国 WHO 病気 地名 国名 名前 ガイドライン もの 朝鮮戦争 研究 適用 日記 新潟市 北越 高校 バス会社 指向 遠征 資金 ます 極真 最近 鼻くそ 鼻毛 キャッチ ゴールデングラブ賞 戦争 格差 他者 幸福度 バグ 挨拶 いるか 女子校 出身 ただしイケメンに限る 男子 諸君 韓国人 日経平均 株価 経営者 めっちゃ 蓄膿/a>
宗教って、そもそも潜在的な侵略手段の側面あるよなって思うんだよ。
構造として見ると、
「この神は絶対的に正しい」
「この教えに従うべき」
「従わないと駄目」
って価値観を広げて、
人を従わせる性質を持ってる。
しかもそれって、
共同体を作って、
そこに帰属意識を持たせる。
結果として、
人を統治したり、
秩序を作ったりするシステムでもある。
で、こういう性質ある以上、
本来かなり慎重にならないといけないと思うんだよな。
だってそれ、
結局、
扱いも慎重であるべきなんだろうなって思うわ。
あれって単に生きるうえでの戦略だよね
なにか不都合があった時、人間は弱いからそれをそのまま受け入れることが難しい(受け入れられる強い人もいるが)
「誰かのせい」「何かのせい」にすることで気が楽になるし次に進めるというのがある
その「誰か」を自分にするか他人にするか、半々にするか、それだけであり、実はその選択自体に人間性は関係ないんじゃないかと思う
ただ、当然他責思考を口に出してしまえば周りから嫌われていくから、そういうのを察してしまう人ほど、責任の所在の行き場がなくて自責に行きやすいんじゃないかと思っている
あるいは、それすらもできない人は「叩いてもいい人」に向きがちで、それが政治家だったり世間で話題になってる炎上してる人や弱い者だったりする
面白いのは時代や文化によってこの他責思考の割合が違う気がしていて
例えば周りが他責思考が多い社会ほど、皆他責思考になるんじゃないかと思っている
AさんとBさんと問題があったとして、AさんBさんが他責なら、一応議論は進むし、AさんBさんが自責でも一応議論は進むが
Aさんが他責でBさんが自責なら、悪いのはいつもBさんとなってしまい、社会としては不健全化する
不健全化すると個人はともかく社会としてはストレスが溜まるので、ある程度バランスを取り、自責/他責率が変わるんじゃないかと思っている(この仮説は子供の頃から思っていた)
また、ある意味で自責が多いというのは社会が完全に回っている証拠のような気がしていて、スタートラインを保証されているほどに周囲が自責以外を許さない環境になるんじゃないかと思う
要は自己責任論が強くなるんだが、これはこれで失敗を許さない社会になるので息苦しくなるわけだが(まさに今の日本)
現代人が忘れてしまっているのが「無責・無罰」で、昔の人はたとえば「バチが当たった」「前世で悪いことをした」「お天道様の気まぐれ」のような
もうどうしようもない物を持ち出すことでストレスを闇に葬るのが上手かったんじゃないかと思うんだが、時代が進む毎に「悪い人探し」を始める流れが強くなってるんじゃないかなあという気がしないでもない(どうだろう?)
あ、何の話だっけ?
しょうもないルールがあるお店って評価が低くなりがちなんだよね。
SNSを見てお店にいってワンドリンクで居座るような一見の客が居心地悪くて低評価したりする。
でも実際は酒飲む客からしたらめちゃくちゃいいお店だったりする。
あと複数人で来て一人飲めない人がいるのとかまで問題視してるところはそんなにないやろ
いま話題になってるところはどうもソフドリと水で長時間粘るやつが増えて許容範囲を超えたから一律禁止になったっぽいが、まあ個人経営ならその判断も自由じゃね
日本の戸籍制度は、明治維新以降、国家が国民を把握し、統治するための基盤として機能してきた。1889年に公布された明治憲法(大日本帝国憲法)下では、「家」という共同体を基礎単位とする制度が確立された。戦後、1947年の日本国憲法制定に伴い、個人の尊厳と両性の本質的平等が謳われ、戸籍制度も「家」単位から「夫婦とその未婚の子」という核家族単位へと改められた。
しかし、この戦後の改革から70年以上が経過した現在、社会構造の変化や価値観の多様化に伴い、現行の戸籍制度には深刻な「歪み」が生じている。本稿では、明治憲法下および現行制度の変遷を概観した上で、その限界を指摘し、21世紀の日本にふさわしい「子を中心とした戸籍制度」への転換を提言する。
明治憲法下の戸籍制度は、戸主が家族員(家族)を統率する「家制度」を法的に裏付けるものであった。これは儒教的な家父長制に基づき、家系の継続を最優先するシステムであり、個人は「家」の構成員としてのみ存在が認められていた側面が強い。
1947年の民法改正および戸籍法改正により、この家制度は廃止された。新制度は、日本国憲法第24条が定める「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという理念に基づき、一組の夫婦とその子を一つの編綴単位とした。これにより、個人の権利は大幅に強化され、日本の民主化を支える家族観の礎となった。
民主化の進展という功績がある一方で、現行の「夫婦単位」の戸籍は、現代社会において以下の三つの大きな「歪み」を露呈させている。
離婚・再婚の増加、事実婚、別姓婚へのニーズ、さらにはひとり親家庭の一般化など、現行の「法律婚に基づく夫婦」という枠組みでは捉えきれない家族形態が増加している。戸籍が「婚姻」を起点とする以上、そこから外れる個人は法的な「世間体」や手続き上の不利益を被ることが少なくない。
現行制度は、夫婦が同一の氏を称することを強制(あるいは強く誘導)している。これが選択的夫婦別姓議論の停滞を招き、個人のキャリアやアイデンティティの継続性を阻害する要因となっている。戸籍が「夫婦というセット」を管理の単位としているために、個人の尊厳が二の次になっている現状がある。
現行の「300日規定(離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する)」などの民法規定と連動した戸籍制度は、母親がDV等の事情で出生届を出せないケースを生み、結果として「無戸籍児」を発生させている。これは、戸籍が「親の関係性(婚姻状態)」を証明する装置であることを優先し、一人の人間としての「子の存在」を二の次にした結果と言える。
これらの歪みを解消するためには、戸籍の編綴単位を「婚姻(夫婦)」から「出生(子)」、ひいては「個人」へと抜本的にシフトさせる必要がある。ここで提言する「子を中心とした戸籍制度」とは、「一人の人間がこの世に生を受けた瞬間から、その個人を独立した主体として登録し、親の婚姻状況に左右されない永続的な記録とする制度」である。
「子を中心とする」とは、すなわち「個人単位」の戸籍への移行である。出生と同時に個人固有の戸籍(あるいは個人登録)を作成し、そこに親権者や氏名の情報を紐付ける。これにより、親が結婚しようが離婚しようが、その子の戸籍の「一貫性」は保たれる。
現在の戸籍は、親の離婚によって子が「除籍」されたり、転籍したりといった移動を伴う。これは子にとって、自分のルーツが親の都合で書き換えられるような不安定さを強いるものである。子を中心とした制度では、親の関係性はあくまで「付随的な属性情報」となり、子のアイデンティティの核を揺るがすことはなくなる。
子を中心とした制度であれば、法律婚、事実婚、養子縁組、あるいは単身での出産など、どのような形態で生まれてきても、法的な位置づけに差別が生じない。婚姻届によって新戸籍を作るのではなく、個人の記録に「パートナーシップ情報」を追記する形式をとれば、夫婦別姓問題も技術的に容易に解決可能となる。
この転換により、以下の効果が期待される。
誰の子であるか、どのような支援が必要かという情報が、親の婚姻状態に左右されず行政に把握される。
姓の選択や家族のあり方が戸籍の形式に縛られず、真の意味で「個人の尊厳」が確立される。
一方で、課題も存在する。日本社会に根強く残る「家としての連続性」を重んじる感情的な抵抗や、相続・扶養といった既存の法体系との整合性をどう図るかという点である。しかし、血縁の証明や親族関係の把握は、デジタル化された個人単位のデータベースを連結(リンケージ)させることで十分に代替可能であり、技術的な障壁はもはや存在しない。
明治の「家」中心から、戦後の「夫婦」中心へ。日本の戸籍制度は、その時々の国家像を反映して変遷してきた。しかし、少子高齢化と価値観の多様化が極限まで進んだ現代において、既存の枠組みはもはや限界に達している。
次世代を担う子供たちが、親の事情や社会的な偏見に縛られることなく、一人の自立した個人としてその存在を国家に公証されること。それこそが、憲法が掲げる「個人の尊重」の真の達成である。今こそ、過去の「家」の残滓を払拭し、「子(個人)」を起点とした新しい社会契約としての戸籍制度を構築すべき時である。
というかサナエミクスで個人店はつぶれまくってチェーン店ばっかになるし、物価高と格差拡大で消費者も食にカネをかけられなくなるんで、
まちがいなく食のレベルは低下するよ
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
日本の食は世界一だと言われる。ミシュランの星の数がどうとか和食がユネスコに登録されたとか、そういう話ではなく、もっと漠然とした雰囲気、なんとなくみんなそうかもしれないと思っている。コンビニのおにぎり一個でも、町の定食屋の日替わりでも、水準が高いのは事実だ。
だが、それがいつまでも続くのかはかなり疑わしい。
独身者が増えた。昔なら女性が担っていた家庭料理の技術が家庭の中で継承されなくなり、男女ともに自炊スキルを持たないまま大人になる人間がどんどん増えている。知人の独身男性はアラサーなのに自炊スキルゼロで、冷凍食品とコンビニのヘビーユーザーだ。俺は独身中年男性だが自炊してる!とか反発する奴もいるかもしれないが、自分たちが少数派なのは分かっているだろうに。外食といえばチェーン店一択でサイゼリアを「コスパ最高」「別に美味いだろ」と絶賛する。それはまあわかる、サイゼリアはたしかにそこまで劣悪な品質ではないだろう。でもそんな連中が増えた社会は美食に関心のない社会だろう。
個人店には入りづらいという人が増えた。値段が読めないとか、雰囲気がとっつきにくいとか、各々それっぽい理由を述べる。「デパ地下で総菜買ってうちで飲むのが一番コスパいい」という話を聞くたびに、なんとも言えない気持ちになる。コスパとタイパだけで飯を選ぶようになったとき、料理人の技術や店の空気や食材の背景みたいなものはどこに行くんだろう。
そして酒だ。美食と美酒は切り離せないと、少し前まで当たり前のように言われていた。料理に合わせてワインを選ぶとか、魚には日本酒とか、そういう話ではなく、もっと根本的に、良い食事の席には良い酒があるという前提が共有されていた。それが今、飲まない、飲めない、飲みたくない、飲む人の近くにいたくない人間がものすごい勢いで増えている。ソバーキュリアスなんて言葉も出てきた。これも別に悪いことではない。でも、料理と酒が一緒に発展してきた歴史を考えると、酒を嫌う日本人が主流になっていく社会で、料理の水準だけが独立して高まり続けるというのはあり得ないだろうと思う。ラノベ作家や漫画家などサブカルチャーに携わる人間も酒が飲めない酒飲みの気持ちが分からない酒なんて要らないだろう、とXで堂々と振る舞っている。本当に興味のある文化の幅が狭い"文化人"が増えたのを感じる。
作る人間が減り、金をかけない人間が増え、個人店が潰れ、酒を飲む人間も減っていく。その社会で、日本の食の水準が今のまま維持されるか?需要がなければ供給は細る。それだけの話だ。
日本の食が世界一かもしれないというのは、まさに今この瞬間だけの話で、時間とともに終わっていくのだろうと今ここに書いておきたい。
表現の法規制は、一度導入されると対象が拡大する傾向がある。 これは歴史的に繰り返し確認されてきた事実である。
この構造を理解せずに「嫌いな表現だけ規制してほしい」と主張することは、自らの首を絞める行為になりうる。
以上の諸問題を貫くのは、「自分(たち)の表現・欲望・不快感は正当であり、他者のそれは不当である」という非対称的な自己正当化の構造である。
| 自陣営の行為 | 自己正当化の論理 | 他陣営の同種の行為に対する態度 |
| 未成年キャラのR-18 BL | 「フィクションだから問題ない」 | 「ロリコンは犯罪予備軍」 |
| 男性キャラの性的客体化 | 「女性の手によるものだから搾取ではない」 | 「女性キャラの性的客体化は性差別」 |
| 実在男性のRPS | 「愛情表現の一形態」 | 「実在女性の性的画像は性的暴力」 |
| コミュニティ内の嫌がらせ | 「自浄作用」「マナー違反への指摘」 | 「男オタクのハラスメント文化」 |
この表が示すのは、同一の行為を自陣営と他陣営で正反対に評価するダブルスタンダードである。
本稿で検討した問題群は、いずれも「自分の欲望に対する無自覚と、他者の欲望に対する不寛容」という同じ根から生えている。腐女子文化には豊かな創造性と共同体的な連帯があり、それ自体は文化的に価値のあるものである。しかし、その内部に存在する暴力性・排他性・ダブルスタンダードを直視しなければ、自らが攻撃してきた「不寛容な社会」の鏡像になるだけである。
そして何より、性的表現の法規制という刃は、一度抜けば自分にも向かう。この認識なくして表現規制を軽々しく求めることは、腐女子文化を含むオタク文化全体の存立基盤を自ら掘り崩す行為であることを、すべての当事者が理解すべきである。
「今は未婚・恋愛経験ナシなんて当たり前だし、今後は独身でもお気楽に生きていける世の中になるよ」って考えてる人多いけど意味わからん
周りに独身が減ろうが増えようが自分はそう生きるつもりです、ってスタンスならまだしも
そもそも未婚者が増える原因ってのは社会が要求する夫・妻の水準に何らかの理由でアジャストできない男女が増えた事によるわけで
つまり現世における既婚者ってのは経済面・性的魅力面で高いハードルを乗り越えた者が有意に多いわけ
そんな中で、未婚者(=負け組の割合が有意に高い)が増えたところで何の意味があるだろうかと考える
負け犬が数だけそろってもその意見が社会のメインストリームになるかは別の話だろう 現実には、「数が増えること」と「発言力が増えること」は全く別なんだよな
氷河期世代は人口比で言えば現役世代のマジョリティと言っていい世代だが彼らの要望が社会に反映されたことが今まで何回あった?
社会って基本的に、再生産能力の高い層、税収を多く支える層、組織運営を担う層の価値観を中心に回る
だから未婚者が増えたとしても、その集団が経済的・政治的・文化的に強い影響力を持てなければ、「多数派になったのに扱いは変わらない」という現象は普通に起こり得る
実際、少子化対策の議論を見ても主軸は一貫して「どう結婚・出産させるか」であって、「未婚のまま生きる人間を中心に社会設計を変えるか」ではない
結局のところ社会的承認って「どれだけいるか」より、「その集団が社会に何を供給しているか」で決まる部分がかなり大きい
その後の展開は、さらに教育心理学的にも示唆に富むものだった。Aが一度は口にした「昨日の非礼について、重ねてお詫び申し上げます」という謝罪。それが内省によるものではなく、単に対話を強制終了させるための「終了ボタン」に過ぎなかったことが、その後の豹変で露呈することになる。
Bが依然として拭い去れない不快感(前日に「ソープへ行け」と人格を否定するような暴言を吐かれたことへの余波)を口にすると、Aは即座に攻撃に転じた。
「わたしは蒸し返されてだるいよ」「謝罪すべきはしっかり謝りました」と、自らの不適切な言動が招いた紛糾を、あたかもBが一方的に「終わったことを蒸し返す迷惑行為」であるかのようにすり替える。
再口論の最中、Aは「すまん任せた」と他のメンバーへ丸投げし、場を放棄した。
これは、自分が有利な時だけ「指導者」として振る舞い、形勢が悪くなると「自分は被害者だ」と逃げ出す、極めて不誠実な態度だ。
Aは、Cによる再度の指摘に対しても、結局「伝わって欲しかった(自分の善意を汲み取れ)」「その謝罪は一度は受け入れられた認識だ」という自説を繰り返すに留まった。
現代のコミュニケーションにおいて「情報のアップデートができない」ことは致命的な欠陥だ。
自分の振る舞いが「ハラスメント」や「仕様不備」であると客観的にデバッグされた際、速やかに自己のプロトコルを更新できない人物は、周囲に有害な環境を撒き散らす。Aは過去の成功体験や独自のドグマに固執するあまり、フラットかつ論理的な対話プロトコルをインストールすることに失敗した「古いOS」のような状態に陥っていたと言える。
今回のCや他のメンバーによる介入は、単なる口論への横槍ではない。それは、コミュニティというシステムの健全性を維持するための「免疫反応」だった。
人格否定や強権的な指導という毒素が蔓延しないよう、論理の光を当てて「それはNGである」と公にラベルを貼ること。
「コミュニケーションの主体は受け手にある」という原則を徹底することで、送り手の「善意(意図)」という逃げ道を封鎖し、受け手の安全を確保すること。
Cが最後までこの原則を捨てなかったのは、B個人の救済であると同時に、「論理の通じない強権的なコミュニケーションを許容しない」というコミュニティの防衛線を引く行為だった。
情報のアップデートを拒み、自らの手法の欠陥を「善意」や「謝罪済み」という言葉で塗り潰そうとする者は、いずれ健全なコミュニティのプロトコルによって「仕様不備」として弾き出される。Bが最後に「基礎の部分で齟齬がある」と冷徹に断じ、関係を断つ決断ができたのは、この徹底したデバッグのプロセスがあったからに他ならない。
(了)