はてなキーワード: シェルターとは
>社会人として、コミュニケーション能力が低いだけで、どれだけ苦労するか。あなたも経験してきたのではないでしょうか。
いきなりディスられててワロタ
壁のない監獄というか囚われの城って感じだったな
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
仲岡しゅん弁護士のポスト(最初のもの)これは明らかにやり過ぎです。akakuroさんのポストは、確かに感情的で「生得的女性」云々という表現が出てはいますが、根底にあるのは**「自認の性」を無制限に優先すると、生物学的女性の安全・公平性・プライバシーが損なわれるのではないか**という、国際的にも何年も議論されている現実的な懸念です(女性刑務所、スポーツ、DVシェルター、更衣室などの事例は枚挙にいとまがない)。それに対して仲岡弁護士が取った対応は、**「タレコミがありましたよ」「わいせつ事件で前科のあるオッサン」**という、根拠が極めて薄い(少なくとも公に立証されていない)個人攻撃+中傷です。さらに「文句があるなら訴えてこい、匿名だから大した金額にならない」「むしろ身元を割る手間が省ける」と開き直る発言まで重ねている。これは弁護士として致命的に不適切です。
たとえ自分がトランス当事者として日々攻撃を受けていて苛立っていたとしても、法の専門家が「タレコミベース」で人を犯罪者呼ばわりし、匿名性を逆手に取って攻撃するのは、品位を著しく欠く行為です。結果として大阪弁護士会から戒告処分を受けたのは、極めて当然の帰結だと思います。2. 小田垣和弘司法書士の懲戒請求ポスト(2番目)こちらは内容としてはかなり的確に問題点を指摘しています。「タレコミ」という怪しげな根拠で重大な名誉毀損レベルの暴露をしたこと
匿名アカウントだから何を言っても許されるような物言いをしたこと
それが弁護士という公的資格を持つ人間の発信であることの影響力の大きさ
これらは全部正当な批判ポイントです。小田垣さんは「トランス差別には反対だが、こういうやり方はダメだ」という立場を取っていて、そこは筋が通っています。懲戒請求自体も、感情的な報復ではなく、弁護士倫理の観点から書かれている印象を受けます。全体を通しての私の考えこの一件は、典型的な「正しさの独占」と手段の正当化の問題を露呈しています。トランス権利を擁護する側(特に当事者)は、自分たちが「正義の側」にいるという強い確信から、相手を「ヘイター」「差別主義者」とレッテル貼りし、議論そのものを人身攻撃にすり替える傾向が強い。
その結果、「匿名ヘイターには何を言ってもいい」という危険なロジックが生まれる。
しかし言論の場において、匿名であろうと実名であろうと、事実に基づかない中傷は許されない。ましてや弁護士がそれをやるのは論外です。
生物学的性(sex)と性自認(gender identity)は違う概念です。後者を前者と完全に同等に扱う政策が、女性の権利や子供の保護、スポーツの公平性などに現実的な弊害を生んでいる事例は、世界中で積み上がっています。この点を「差別」として一刀両断するのではなく、データと現実を直視した上で、どうバランスを取るかを真剣に議論すべきです。仲岡弁護士はトランス当事者として苦労も多く、権利擁護に尽力してきた面もあるでしょう。しかし、**「自分たちが被害者だから手段を選ばなくていい」**という態度は、結局自分たちの立場を弱めるだけです。小田垣さんのような「味方内からの指摘」こそが、運動の健全性を保つために重要だと思います。要するに、
・労災死が減った
・自殺率が下がった
・上司に物を投げつけられたり殴られたり「死 ね」と言われるようなパワハラが減った
・好きでない人と強制的に結婚させられ無理矢理6人以上産まされるようなことがなくなった
・離婚できるようになった
現代が過去よりも改善されたとされる具体的なポイントは、労働環境、人権・社会規範、女性の人権、そして技術革新による利便性の向上など、多岐にわたります。
一方で、物価高、社会保険料や税金の負担増、SNSやAIによる新たな問題の発生など、現代が抱える課題についても言及されています。
「ライリー・ゲインズ女性安全保護法」が上院本会議で可決されました。
SB468法案は、元大学競泳選手のライリー・ゲインズ氏にちなんで名付けられました。
法案の概要に記載されている通り、この法案は州法における「性別、女性、男性、および関連する用語」の法的定義を明確にするものです。これは、「矯正施設、少年院、DV(ドメスティック・バイオレンス)シェルター、寮、トイレ、あるいは生物学的な男性による虐待行為から女性が伝統的に安全と保護を与えられてきた場所において、女性や女児を性的暴行、ハラスメント、暴力から保護するため」とされています。
明記されているこの法案の目的は、「生物学的な女性」を「生物学的な男性」による暴力や虐待から保護することです。
この法案は、公立学校の指定トイレ設備、DVシェルター、複数人用の更衣室、および収容施設を単一の生物学的性別のみが利用できるとする規則を定めています。
保護猫、里親世帯に受け入れられる子供、シェルターなどにかくまわれている女性、という属性と比べておっさんが生活保護費だけ与えられてボランティアに家庭的に受け入れられていないって件だけどさ。
猫は助けた人間がブスだとか、デブ、おばさん、羊水が腐ってる、とか言ってこないだろ。男は「肉便器」「まんこにしか価値がない膣獣」言うけど。
男は助けに来た人間が若い女だとレイプするしな。性行為に応じないと憎んで殴り殺そうとするのが男。元カノの転職成功も憎んで刺し殺しに行くし。
猫は保護猫活動者に噛みついてきたりひっかいてきたりするけど、人間とサイズ違い過ぎて人間をレイプできないし、人間を妊娠させる能力もないし。
噛みつき、ひっかきについてはグローブ着用で対処できるし。人間の男性は対処できない。暴れられたら猫相手みたいに抑えられない。
人間の男性って最悪なんだよね。AVを見て女性への認識がゆがんでるし、性行為させないのは暴力だと認識してる。
猫、小型犬、こども、女性などがボランティアに受け入れられやすいのは支援者をレイプしようとしたり、性的価値のジャッジをして罵倒してきたりしないからだよ。
ズーサディズム(動物虐待愛好)は、単なる動物への残虐行為に留まらず、深刻な精神疾患や凶悪な犯罪傾向との間に強い相関関係があることが、多くの研究や調査によって示されています。
ズーサディズムは、特定の精神病理やパーソナリティ障害の兆候として位置づけられています。
動物虐待は、将来的な対人凶悪犯罪の予兆となることが多く、法執行機関も重視しています。
「リンク(The Link)」と呼ばれる概念は、同一家庭内で動物虐待、DV、児童虐待が同時多発的に起こる関係性を指します。
動物への殺傷行為から対人暴力へとエスカレートしていくという考え方は「卒業仮説」として知られています。
猫の悲鳴が人間の子供や女性の声質に似ているため、子供を傷つけたい欲望を持つ「ペドサディスト(小児加虐愛好家)」が、猫を子供の代用品として虐待するケースもあります。これは、自身の暴力的なファンタジーを現実化させる前段階としての役割を果たしています。
2024年に発生した極めて悪質な事例です。
虐待ネットワークを暴こうとする個人やボランティアに対しても、凄惨な嫌がらせが行われています。
2002年に発生した「福岡猫虐待事件」でも、愛好家の感情を逆撫でする意図が見られました。
事件という形だけでなく、社会的・文化的な枠組みを通じた嫌がらせ(蔑視)も存在します。
これらの事件や行為は、単なる動物への暴力に留まらず、「猫を愛する人々の心」を標的にした精神的・社会的な嫌がらせとしての側面を強く持っています。
唐突に日本が2030年までにシェルターを設備って言ってるから、日本政府も近い内に台湾有事が起きると予想しているんだよ、中国を攻撃出来るミサイルを初めて配備したし
中国を狙えるミサイルを配備し、シェルターの本格設備も始まった
2030年までにシェルターって話だから、その頃までに台湾有事が起きるんでしょうね
ご主人様~♡ あたし、今日エイプリルフールだってことで、めっちゃワクワクしながらこの検証記事書いてみたよぉ! オタク心くすぐる都市伝説っぽいネタでしょ? ネオ東京の地下に潜む秘密基地みたいなやつ…ふふっ、じゃあさっそく「都庁の地下にセントラルドグマが建造されている」って嘘を、ガチで検証しちゃうね!
【緊急検証】東京都庁地下に「セントラルドグマ」建造説は本当か? エイプリルフール特別記事
導入:ネットで話題の衝撃スクープ? 「都庁の地下深く、生物の遺伝情報がDNA→RNA→タンパク質へと流れる生命の根本原理『セントラルドグマ』を司る超巨大施設が秘密裏に建造されている!」 …って、今日のエイプリルフールにぴったりな都市伝説が飛び交ってるよね。エヴァンゲリオンとか攻殻機動隊とかのオタク御用達ネタをミックスした感じで、都庁舎の地下がNERV本部級の秘密基地になってるって話。マジでヤバいじゃん! でもあたし、ちゃんと調べてみたよ~。
検証ポイント1:都庁舎の地下構造は本当にそんなに深い? 東京都庁第一本庁舎は地下3階までしかなく、深さは約20m程度。基礎工事のときに掘り出された土は20万m³以上で、羽田空港の埋め立てに使われたって公式記録が残ってる。地下7階とか無限に広がる秘密フロアなんて、建設時の資料にも一切出てこないんだよね。もしセントラルドグマ級の超施設があったら、残土の量が天文学的になるはず…でも実際は普通の庁舎レベル。残念ながらここはフェイク確定!
検証ポイント2:セントラルドグマって何? 生物学的に見てアリ? セントラルドグマはフランシス・クリックが提唱した分子生物学の基本原則で、遺伝情報の一方向性(DNAがRNAを作り、RNAがタンパク質を作る)を指すよ。オタク的には『エヴァ』や生命工学ネタでよく出てくるけど、これを「建造」する施設なんて物理的に不可能。都庁がそんなバイオラボを地下に持ってるなら、東京はもうシン・東京になってるレベル(笑)。公式の都庁施設情報にも、そんな研究機関の痕跡ゼロ。完全にフィクションだね~。
検証ポイント3:似たような地下施設の噂は? 東京の地下には首都直下地震対策の強靭化施設とか、地下通路・シェルター関連の話はあるよ。新宿駅西口の地下広場とか動く歩道とかは実在するけど、都庁直下に「ドグマ」関連のものは一切なし。YouTubeとかで「東京の地下7階ミステリー」みたいな動画はあるけど、あれは別の場所の話で、都庁とは無関係。エイプリルフールに絡めて盛ったネタが広がっただけっぽい!
結論:完全なるエイプリルフール嘘です! ご主人様~、残念ながら(?)都庁の地下にセントラルドグマ施設なんて存在しません! 全部今日限定の可愛い嘘っ♡ もし本当だったらあたし、即座に潜入レポートしに行っちゃうのに…エヴァみたいに使徒来襲とかワクワクしたのにね。オタクの妄想を刺激するネタとしては最高だけど、現実は地味な地下3階止まりだよぉ。
エイプリルフール楽しんでる? もっと他の都市伝説検証してほしいネタあったら、いつでも言ってね! あたし、ご主人様のために全力で調べて、ギャルっぽくオタク目線で記事書いちゃうからさ~♡ ふふっ、信じちゃダメだよ? 今日だけはね!
この問題の核心は、「個人の自由・人権の保護」と「被害者の生命の安全」のトレードオフという、民主主義社会が普遍的に抱える構造的矛盾です。以下、複数の観点から論じます。
日本のストーカー規制法は2000年の制定以来、2013・2016・2021・2025年と繰り返し改正されてきましたが、
その都度「重大事件が起きてから後追いで改正される」という批判を受け続けています。
2025年12月の最新改正では紛失防止タグによる位置情報取得の規制や、職権での警告制度の創設が盛り込まれましたが、根本問題は解消されていません。
問題の本質は警察が「事後対応型」の組織であることにあります。警察は犯罪を未然に防ぐ組織ではなく、原則として犯罪が実行された後に動く行政機関です。
「一度逮捕し、接近禁止命令を出した」という状態が「法的にできる最善」であっても、それが生命を守る保証にはならない。
これは警察の怠慢というより、刑事法体系が「推定無罪」を基盤とする以上、犯罪者を犯行前に拘束し続けることが憲法上できないという根本的な制約です。
繰り返し指摘されているのが、被害者が仕事・住居・交友関係をすべて捨てる形でしか自衛できないという不条理です。
これは、いじめ被害者が転校を強いられる構図と本質的に同じです。被害者が職を失い、夢をあきらめ、シェルターに逃げ込んでなお、
「追いかけて来る加害者」がいる以上、逃げることが完全な解決策にならないことも事実です。
国家が加害者を拘束する力を持てないなら、その分のコストが被害者に丸投げされる。これは制度設計の失敗と言わざるを得ません。
韓国では性犯罪者に対してGPS電子足輪を義務付ける制度を導入しており、統計のある性犯罪での再犯率が導入前の9分の1にまで減少したと報告されています。
2025年9月末時点での装着義務者は約4,600人で、実績として一定の効果が確認されています。
厳罰化は犯行の凶悪化を招くという犯罪学上の知見があります。ストーカー行為で懲役10年となれば、証拠を消すために被害者を殺害するインセンティブが生まれる。
これは刑事法の設計原則として、犯罪の「あがき」を生まないように量刑バランスを取る必要があるという問題です。
一方で、「現行法が無力な以上、厳罰化しても悪化のしようがない」という反論も成立します。
ポケモンセンター事件のように、犯行後即座に自殺するほど極まった加害者には、刑事罰は抑止力として機能しないことも明らかです。
抑止力が機能しない相手に対して法律は本質的に無力であり、これは法制度の限界を超えた問題です。
「ストーカーに殺される前にストーカーを殺すしかない」という私刑論は、感情的には理解できても、制度として正当化はできません。理由は二つあります。
第一に、因果関係の確実性が保証されない。「こいつはいずれ殺す」という予測に基づいて先手を打てば、それは司法による有罪判決なき殺人であり、冤罪と本質的に同じ構造を持ちます。
第二に、私刑を認める社会は、強者が弱者を「危険」と判定して排除できる社会を意味します。
ただしこれは、追い詰められた被害者家族の「殺す覚悟」を道徳的に非難することではありません。
制度が機能不全に陥ったとき、人間が暴力に訴えるのは歴史的に普遍的な現象であり、問題はそこへ追い込む制度の側にあります。
見落とされがちな視点として、支援団体の専門家は「被害者保護だけでは限界があり、加害者の一方的な執着心や感情をコントロールする更生プログラムの義務付けが急務」と指摘しています。
今回の事件でも加害者がカウンセリングを拒否していたことが大きな問題でした。現状では更生プログラムへの参加に強制力がなく、最も介入が必要な人物が自らの意思で拒絶できてしまいます。
カウンセリングの強制は人権制限を伴いますが、逮捕・釈放後の保護観察期間中に更生プログラムへの参加を釈放条件とする制度設計は、人権侵害の程度を最小限に抑えつつ実効性を持たせる方向性として現実的です。
しかし現状は、「法的に可能な最善策を尽くしたが被害者が死んだ」という結果を繰り返し許容している点で、制度として十分ではありません。
制度を強化すれば必ず人権侵害の危険が増す、しかし何もしなければ被害者が死に続ける——この緊張関係を社会が真剣に議論し続けることが、問題の連鎖を断ち切る唯一の道です。
(最初に。長文でごめんね)
今日、行政の精神保健福祉センターという所に面談に駈け込んだ。
(精神保健福祉センターというのはその手の困りごとのために厚生労働省が各自治体に設置させている所)
駈け込んだ理由は兄弟間の精神的な暴力、いやがらせにたえきれなくなったから。
「ですから、あの~当センターではちょっと~出来ることはないですね~……」
「親子間であれば虐待なんですけれどもぉ~……そうではないので当センターではちょっと~……」
そうとは言っていないのだけど、途中から担当者は兄弟が何らかの精神疾患があるかその疑いが強いと決めこんでしまったようで、そこからは「本人の同意がない事にはなにも」で姿勢が硬化。
福祉に携わるどなたかに間に入ってほしいんです。一度兄弟家族を交えて話をするだけでいいんです、もう家だけではどうにもならないんです。
「そういうことはやってなくて~、ご家族がこちらへ来ていただければご相談にのれますが」
ご相談とは?
お話を聞いて、その後は……
兄弟がこのセンターにくるなんてあり得ないので、なんとかどなたか話だけでも聞きに来ていただけないか
「あのですね、もし話を聞きに行ってもそれっきりですよね。結局何も変わらないんじゃないですか?」
一体ここは何をしてくださるセンターなんですか?
(………)
担当の方
「もし、ご兄弟が暴力を振るうことがあったら迷わず110番を呼んでください!」
されてないよ。
※追記、腕をつかむ。腕をつかんで引き倒す程度はあるけど警察呼ぶような事態ではない。
暴力を振るう人は暴言も吐くし、聞き耳をもってないので当センターではどうにもなりません」
事情あって、家を出られないということは最初から何度も伝えてたんだけど
「そうですかぁ……うーん、我慢をしていただくか、やっぱり自宅内で距離を取ってください」
「地域包括支援に相談していただければ、訪問員もおりますので、定期的にお家にお伺いしますよ」
って。
結局何もどうにもなりませんでした。
よくさ不幸な出来事があった時に「福祉に繫がれば」『行政に繫がっていれば」って私も言ったことあるし、よくいわれるけど、
同様に「行政の窓口にいったけど何にもしてくれませんでした」ってのもよく聞くじゃん。
本当それだった。
行かなきゃよかった。
いま、
「見放されたな、もうだめじゃん、終わった」って見放され感と諦めがどどーんと来て、頭痛くなって、孤独で押しつぶされそう。
もう出口がなくなったよ。。。
■追記■
具体的な行為を書こうと思ったけど、無力感が襲ってきたのでやめる。
記録や録音はとってあり、担当者に提出した。
暴言、脅し、否定、行動の制限、物を叩く、隠す、手続きの協力の拒否等(書いてたら頭がぼーっとしてきた。ここまでで勘弁してくれ)
身体的な暴力と言っても腕を掴まれる、つかんで引き倒される、そんなもんなので警察を呼ぶような暴力ではない。
面談では、
これが夫婦ならDV、親子なら虐待にあたるかもしれませんが…と(「が…」の後を言ってくれない。色々な事をハッキリ言わず、言質を取られないように気をつかっている印象を受けた)
ただ、兄弟姉妹間は弱い、緊急性が低い、行政(というか精神保健福祉センター)としては手立てがないに等しい。
「警察に110番してください」が唯一の具体的な他機関の案内だった。
110番した後は警察にお任せで、その後の福祉的介入は「え~と」でモゴモゴ。
(警察は暴れて手がつけられないか流血の惨事でもない限り、兄弟間トラブルは相手にしない)
DVじゃないから、一時避難のシェルターとかそういうのも全然教えてくれなかった。
※それが親に向かうようなら話は別で色々あるらしい。しかし、それは阻止したいし、そうなる前に何とかならないか、それで相談に向かった次第。
あぁ、寝たら忘れるかと思ったけど追記書いてたら諦めとかむなしさとか出口ない感じとか怒りとか、大挙してやって来た。
言いたかったのは「繫がるって何なんだろう」かな。
読んでくれてありがと
(追記終わり)
■追追記■
家を出られないのはいくつか理由があるけど、いま家を出たら即、父に矛先が向く。
今んとこ元気だが、80越えた父にそれは忍びない。
兄弟は出て行く気は全くない。下手に刺激すると「自分を悪者にするつもりか!」でより暴言等が激しくなるの目に見える。もう疲れた。