はてなキーワード: 暫定的とは
「自民党の改憲草案で憲法はどう変わる?」というサイトがある。内容はタイトル通り、自民党改憲草案への疑問・反対の意思を呈するサイトである。
このサイトはGoogle検索上で「憲法改正.com」というサイト名で表示されるため、「憲法改正.com」と呼ばれることもあるようだ。
しかし、数日前(2026年5月上旬)から「憲法改正.comと検索したときに、防衛省のサイトにリダイレクトされるので、前述のサイトが乗っ取られたのではないか」という主張がXで広がるようになった。
しかし、この主張は誤りである。実際はkaikensouan.com の方が新しいサイトであり、「憲法改正.com」というWebサイトは従来から防衛省のサイトへ転送される設定になっていた。
また、この転送は政府や防衛省が設定したものではなく、「憲法改正.com」という日本語ドメインの保有者によって行われているものである。
ドメインの記録を見る限り、kaikensouan.comは2021年11月に取得されたものである。運営者は秘匿されている。
https://whois.domaintools.com/kaikensouan.com
DNSの設定を見ると、サイト自体はGitHub Pages上に存在していることが判断できる。
サイト上の文言をGitHubで検索すると、このページを保存したリポジトリがヒットする。
https://github.com/kaikensouan/kaikensouan.github.io
コミット記録から、このサイトはkaikensouanというIDの持ち主が2022年3月に作成したものであることが分かる。ドメインだけ先に取得して、数カ月後にWebサイトを立ち上げることは不自然ではない。
また、kaikensouanはGitHub上にこれ以外のリポジトリがなく、このページのために取得されたアカウントであると考えられる。
このサイト自体はページ内やタイトルで「憲法改正.com」と名乗っていないのだが、Google検索ではそのように表示される。これはメタタグの「og:site_name」で「憲法改正.com」と表記されているからである。
このサイトのドメインでもなく、既に他者によって取得されている"憲法改正.com"をsite_nameにした理由は定かではない。ただ、見た目上は表示されるものではないため見過ごしやすく、暫定的に入力しておいたものを差し替え忘れたのではないかと増田は推測している。
最近は忘れられているかもしれないが、一部のTLDでは日本語が使用できる。
.comもその1つであり、「憲法改正.com」とブラウザのアドレスバーに入力した時に有効なドメイン名としてみなされ、検索クエリではなくURLとしてみなされ、サイトにアクセスできる。
そしてhttps://憲法改正[.]com/ にアクセスすると、HTTPリダイレクトによって防衛省(www.mod.go.jp)に転送される。
この転送は防衛省側のサイトが関与したというものではなく、憲法改正.com 側の設定によって行われている。防衛省は一方的に転送されているだけである。
そして、どうやらkaikensouan.comが開設されるよりも昔、少なくとも2014年末頃から憲法改正.comは存在しており、その時点で防衛省のサイトに転送をかけていたことがWayBack Machineに記録されている。
https://web.archive.org/web/20141218151755/http://憲法改正.com/
ドメイン取得日に至っては2005年である。2005年~2014年の間にどういったサイトが存在していたかは記録がないので不明である。詳しい増田がいたら教えてほしい。
https://whois.domaintools.com/xn--6ku91fj1girb.com
ちなみにWhoisの履歴によれば、このドメインはある個人によって登録されている。防衛省や自民党が保有しているドメインという主張がX上で見られたが、推測やAIのハルシネーションを真に受けたものであり、事実に基づいていない。
Whoisは各種サービスから生データを取得可能であり、こういった場合には1次ソースを確認するべきである。
さらに「核武装[.]net」「憲法改正[.]net」「江戸[.]tokyo」「・[.]com」というドメインが確認できた。
「核武装[.]net」「憲法改正[.]net」は憲法改正.comと同様に防衛省のサイトへ、「江戸[.]tokyo」「・[.]com」は徳川記念財団(https://www.tokugawa.ne.jp/)のサイトへ転送される。
イスラエルがレバノン内非政府武装勢力のヒズボラを攻撃したので、イラン革命防衛隊とイラン政府が怒っている。仲介したパキスタンが、「レバノンの武力行使中止も含まれると認識していた」と言明している一方、交渉についたバンス副大統領は誤解であると否定。交渉の議題にはあがっていたようだが、この調子だと文面には起こしていないと思われる。
そもそも、本格的な条件調印までの二週間「とりあえず武器をおさめる」程度の暫定的な承認であって、正式な協定には遠く、時間稼ぎの性質が強かった。イスラエルの使者も「ヨルダンへの攻撃は控える」と言ったそうだが、これをレバノンのことだという誤解を生んだ可能性もある。
イスラエルのレバノン国内への攻撃は、たしかにレバノン政府に対する主権侵害であり、勝手に緩衝地帯を設けようとしていてむちゃくちゃである。一方、革命防衛隊の、いわば子会社であるヒズボラは、レバノンにとっては反政府武装組織であり、レバノン軍を凌駕する軍事能力を有している。レバノンにしてみると、イスラエルがミサイルうちこむのも、イランが勝手に革命防衛軍支部を運営して戦争に動員するのも、どっちも迷惑極まりない主権侵害行為である。ヒズボラの非武装化はレバノン政府の悲願だが、なかなか進まず、イスラエルからは激しく追求を受けている。イスラエルに攻撃するから怒るのは当然。ただ、イスラエルはヒズボラ、つまりレバノン国土に攻撃を続けており、レバノン政府はずっと抗議している。
現状、イラン革命防衛隊は、ヒズボラを通じてレバノン国土を実効支配しているわけだが、これを国際社会が認めるわけにもいかない。イスラエルはむちゃくちゃだが、イランの主張は居直り強盗のそれであり、どちらにも肩入れしにくい現状がある。イランはヒズボラとの関係を公に認めているが、ヒズボラをイラン国に転属なりしてもらわないと難しい。
経済学を学んできた人間として私が長年思い知らされてきたことのひとつは、技術革命についての予測はほぼ必ず二つの方向に間違えるということだ。短期的な影響を過大評価し、長期的な影響を過小評価する。Amara’s Lawと呼ばれるこの法則は、もう耳にタコができるほど引用されているが、引用している人々の大半がその含意を正しく理解していない。
なぜか。この法則が本当に言っているのは、私たちは技術の生産性への経路(path)を予測するのが絶望的に下手だということであり、それは「長期的にはすごいことになる」という楽観論の根拠にはならないからだ。むしろ謙虚さの根拠である。
1987年、ロバート・ソローが言った有名な一言がある。「コンピュータの時代はどこにでも見えるが、生産性統計の中には見えない」。いわゆるソロー・パラドックスだ。
結局のところ、ソローは間違っていた——ただし、正しくなるまでに約10年かかった。1990年代後半になってようやく、IT投資は全要素生産性(TFP)の統計に姿を現した。そしてその生産性ブームは2004年頃にはもう息切れしていた。つまり、真に生産性が加速した期間はせいぜい7〜8年だった。
ここで問いたい。AIについて、私たちはソロー・パラドックスのどの段階にいるのか?
私の暫定的な答え:まだ最初期、つまり投資は膨大だが生産性統計にはほとんど現れていない段階だ。2024年から2025年にかけて、米国の大手テック企業はAI関連の設備投資に年間2000億ドル以上を注ぎ込んでいる。これはドットコム・バブル期のIT投資をインフレ調整後でも凌駕する規模だ。しかしBLS(労働統計局)の生産性データは頑固に平凡なままである。
これ自体は悲観する理由ではない。1990年代の教訓は、GPT(General Purpose Technology、汎用技術——チャットボットの名前ではない)の生産性効果は補完的な投資と組織変革が追いついて初めて顕在化する、というものだった。電力についてのPaul Davidの古典的研究が示したように、工場が電力を最大限活用するには、建物の設計から生産プロセスまで全面的に作り直す必要があった。それには一世代かかった。
問題は、AIについてこの「一世代」がどのくらい圧縮されるか——あるいはされないか——である。
■ 今回は本当に違うのか
AI推進派(ブースター)たちの主張を整理しよう。彼らの議論は概ね三つの柱からなる。
第一に、AIは「知的労働」を自動化するので、過去の技術革命(肉体労働の機械化)とは質的に異なる。第二に、AIはAI自身の改良に使えるので指数関数的な自己改善が起きる。第三に、したがって従来の経済モデルは適用できない。
率直に言おう。第一の主張には相当の真実がある。第二の主張は経験的にまだ確認されていない。第三の主張はほぼ確実にナンセンスだ。
第一の主張から。確かにLLM(大規模言語モデル)がホワイトカラー業務の一部を代替・補完できることは明らかだ。コードを書く、文書を要約する、定型的な分析をする——これらのタスクでAIが人間と同等かそれ以上のパフォーマンスを示す場面は増えている。そしてこれらはGDP統計の中でかなりの比重を占めるセクターの業務だ。
しかし——そしてこれは大きな「しかし」だが——タスクの自動化と職業の自動化は全く別物である。これはDaron AcemogluとPascal Restrepoの研究が繰り返し示してきたポイントだ。ある職業の30%のタスクが自動化可能だとしても、その職業が消滅するわけではない。むしろ、残りの70%のタスク——AIには(まだ)できない判断、交渉、文脈理解——の相対的価値が上がる。
経済学ではこれを「Oの環理論(O-ring theory)」で考える。宇宙船チャレンジャー号を思い出してほしい。あの事故では、一個のOリングの不具合が全体を破壊した。多くの知的労働もこれに似ている。プロセスの大部分をAIが完璧にこなしても、人間の判断が必要な一箇所が全体の質を規定する。この構造がある限り、「AIが全てを代替する」というシナリオは実現しにくい。
投資の話に戻ろう。
私はバブルかどうかという問いの立て方自体が間違っていると思う。正確な問いはこうだ:現在のAI投資の期待収益率は、資本コストを上回っているか?
NVIDIAの株価は、AI関連の半導体需要が今後5年間にわたって年率30%以上で成長し続けることを織り込んでいる。Microsoftのクラウド事業の評価額は、企業のAI導入率が楽観的なシナリオの上限で推移することを前提としている。これらの仮定が同時に成立するためには、AIの経済的価値が、それこそ過去のどの汎用技術よりも急速に実現されなければならない。
これは不可能ではないが、歴史的な基準率(base rate)を考えれば、かなり強気な賭けだ。
もうひとつ、あまり議論されないが重要なポイントがある。AI投資の地理的・企業的集中度だ。米国のAI設備投資の大部分は事実上5〜6社に集中している。これは1990年代後半のテレコムバブルと構造的に似ている——大量の資本が少数のプレイヤーの「勝者総取り」の賭けに集中し、セクター全体の合理性が個別企業の楽観バイアスの総和によって歪められる。
マクロ経済的により心配なのは、バブルが弾けた場合の波及効果だ。テック企業の設備投資がGDPの相当部分を占めるようになった今日、AIへの期待の急激な修正は、2000年のドットコム・クラッシュよりも大きなマクロ的ショックをもたらす可能性がある。
■ 分配の問題
仮にAI楽観論者が正しいとしよう。AIが本当にGDP成長率を年1〜2ポイント押し上げるとしよう。それでも、私にとって最も重要な問いは変わらない。誰がその果実を得るのか?
過去40年間の技術進歩の歴史は、生産性の上昇が自動的に広く共有されるわけではないことを痛いほど示してきた。実際、skill-biased technological change(技能偏向的技術変化)の文献が明らかにしたのは、ITの普及が賃金格差の拡大と中間層の空洞化に寄与したということだ。
AIの場合、分配効果はさらに極端になる可能性がある。なぜなら、AIが代替するのは(少なくとも当面は)比較的高給のホワイトカラー業務の一部だからだ。パラドキシカルに聞こえるかもしれないが、配管工やクリーニング業者の仕事は、弁護士のパラリーガルやジュニアのプログラマーの仕事よりもAIによる代替に対して安全だ。これは分配の観点から複雑な含意を持つ——単純な「高スキル対低スキル」の図式では捉えきれない再編が起きる。
■ 私が本当に心配していること
以上を踏まえて、AI経済についての私の暫定的な見方をまとめよう。
AIは本物の汎用技術であり、長期的に有意な生産性効果をもたらす可能性が高い。しかし「長期的」が何年を意味するかについて、私たちは驚くほど無知である。現在の投資水準は、その効果が歴史的に例外的な速さで実現されることを前提としている。そしてたとえ楽観的なシナリオが実現しても、分配の問題が自動的に解決されることはない。
私が最も心配しているのは、AIについての公共的議論の質だ。テクノ・ユートピア主義者たちは「AGIが3年以内に来る」と叫び、テクノ・ペシミストたちは「大量失業が来る」と叫ぶ。そしてどちらの陣営も、自分たちの主張がきわめて不確実な予測に基づいていることをほとんど認めない。
経済学を学んだ人間として私が言えるのは、不確実性にはそれ相応の政策的対応がある、ということだ。セーフティネットの強化、教育と訓練への投資、競争政策による市場集中の抑制——これらは、AIがユートピアをもたらす場合でもディストピアをもたらす場合でも、あるいはその中間の(最もありそうな)場合でも、正しい政策だ。
確実性の幻想に基づく政策よりも、不確実性を認めた上でのロバストな政策のほうが、はるかにましだ。これは退屈な結論かもしれない。だが退屈な正しさは、刺激的な間違いに勝る。いつだってそうだ。
肥料取締法で登録された下水汚泥を原料とする肥料は、法による重金属の規格を満足しています。重金属には鉄、銅、亜鉛などがありますが、それらは植物の正常な生育には欠かすことができない元素で、水に溶けているものは積極的に吸収されます。
ある調査結果によると、穀類では穂への影響はわずかしかなく、ダイズでは茎葉部において亜鉛の増加は見られますが、子実部においての影響は明確ではありません。キャベツについては銅の増加は見られますが、その他の重金属では明確ではありません。カンショについては銅、亜鉛で茎葉及び可食部ともに対照区と差が見られない結果を得ています。これは、下水汚泥の施用により土壌のpHが上昇したためと考えられます。
なお、農用地土壌の保全のための管理基準が、ある調査により亜鉛について自然の土壌に含まれる量を考慮して暫定的に定められていますが、富士火山灰系の土壌はその基準を超えているものであり、必ずしも作物への影響等から定められたものではありません。
科学は何度も予想を裏切られてきた。だから理論物理の世界では「正しいと証明された理論」など存在しない。あるのは観測とどれだけ整合するかという暫定的評価だけだ。
ただし、そこから導かれる結論は「だからやる意味がない」ではない。むしろ逆だ。
超弦理論の価値は、現時点で宇宙を証明することではない。数学のフロンティアを猛烈な勢いで押し広げている点にある。
こういう構造が見つかった。物理学の仮説から出発して、純粋数学の新しい定理や道具が次々生まれている。
理論が宇宙の最終説明になるかどうかとは独立に、数学的探査としてはすでに巨大な成果を出している。
「宇宙が弦でできているかどうかはまだ分からない。でも、この理論を触ると異常に深い数学が出てくる。」
これは研究対象として十分に魅力的だ。
AIは違う。AIは現実に社会へ直接作用する。雇用、政治、経済、情報環境に実際の影響を与える。人間の生活を変えて、破綻させるタイプの技術だ。
弦理論はその反対側にある。巨大な数学的構造を研究する知的遊戯に近い。宇宙の基礎理論を目指してはいるが、仮に完全に間違っていたとしても、人類社会に直接の被害はほぼ出ない。
歴史を見ると、こういう「検証できない数学的遊び」が後になって突然役に立つこともある。
非ユークリッド幾何が一般相対論に使われたように、純粋数学の構造が100年後に物理になることは珍しくない。
「間違っているからやるべきではない理論」ではない。むしろ「間違っていても損をしない知的探査」だ。
宇宙の最深部に手を伸ばしているのかもしれないし、巨大な数学迷宮を散歩しているだけかもしれない。どちらに転んでも、人類の知識は増える。
管理人のジム・ワトキンスのポストによれば5ch.netとbbspink.com(=ぴんくちゃんねる)のドメインがレジストラのEpikっていう会社に停止されたらしい
bbspink.com は永久に停止され、移管の対 象外となりました。
5ch.net は永久に停止され、移管の対象外 となりました。
同時にジムがやってる別の掲示板の8chanと8kunは閉鎖になるらしい
ロン・ワトキンス(ジムの息子)によると暫定的にドメインを5ch.ioに移行するらしい
・sikiとGestureのTestFlight版 → 読み書きともにOK
・mae2cとtwinkle → 読めるだけ(書き込み不可)
・chmate → 読み書きともに不可 dev版アップデートで読み書き可能に
なお5ch.oneというドメインも存在するがこちらは第三者が立ち上げたミラーサイトの模様でジム・ワトキンスとは無関係
追追記
3月9日にBANされるのはジム・ワトキンスのEpikのアカウントとそれに紐付けられたドメイン(=5ch.net, bbspink.com, 8kun.topなど)
Twitter(現X)には「クソデカ主語警察」なる存在がいる。クソデカ主語警察というのは何かというと、ある文章の主語が指す集合が大きい場合にどこからともなく湧き出てきて「主語がクソデカですよw」などのリプを残していく存在である。そして、このリプには「主語がクソデカですよ(なので、あなたの発言は間違っていますよ)」という含意がある。例えば、「女性は〜なとき暴力的である」といったツイートが炎上していると、決まってリプ欄(あるいは引用欄)には、こういったクソデカ主語警察が湧いて出てきて、毎度のごとく論破芸を披露してくれるのだ。
そして、私はこのクソデカ主語警察が本当に嫌いだし、この世から消えて欲しいとさえ思っている。正直、台所の隙間から這い出てくる黒い虫よりも嫌いだ。見た瞬間に全身の毛が逆立つレベル。ただ、誤解のないように予め述べておくと、私自身はこうした主語の大きい発言をすることはほとんどない(ではどういうときにするか、ということは後述する)。むしろ、「女性は〜である」のような、ジェンダーバイアスを明確に再生産する言説が蔓延っている現状には、正直かなり辟易しているし、こうした不健全な状況は是正していくべきだとさえ思っている。にもかかわらず、では何故そんな私がクソデカ主語警察が嫌いなのか。
クソデカ主語警察が嫌いな理由を先に述べておくと、まったく問題の本質を捉えられていないくせに、紋切り型の指摘を繰り返して、問題の所在を不明確にするから、である。このことについて以下で詳細に述べる。
クソデカ主語警察が害悪であることを話す前に、そもそもクソデカ構文とは何かについて確認しておこう。
クソデカ構文には当然ながらアカデミックな定義は存在しないので、ここではさしあたり「主語がある属性を指す文」としておく。この定義にも異論はあるだろうが、暫定的定義なので一旦受け入れてほしい。例えば「リンゴは赤い」とか「インターネットはクソ」とか「日本はオワコン」とか、そういう文のことだ。
さて、我々は実はこうしたクソデカ構文というものを日常的に用いている。例えば「リンゴは赤い」という文章は、日常的な文脈で使用される場面が想像できるだろう。友達と会話をしているときに相手が「リンゴは赤い」と言ったとして、我々は別に何の問題もなくそれを受け入れるはずだ。逆にそこで「いやいや、主語がでかいですよw青いリンゴもありますからw」などと言おうものなら、LINEはブロックされ、あなたの表示名は「クソデカ主語警察」に変更され、そしてあなただけのいないLINEグループで一生そのことをいじられ続けるだろう。
これは何故だろうか? つまり、何故クソデカ構文に対して「それは違う。◯◯なものもある」という反論が妥当ではない場合があるのだろうか。これに回答するためには、そもそもクソデカ構文という文章がどういう性質のものかを明らかにしておく必要がある。小々専門的な話題になり恐縮だが、「◯◯は〜〜である」という形式の文章は、「すべての◯◯は〜〜である」という全称命題の解釈と、「◯◯は典型的には〜〜である」という総称文の2通りの解釈があり得る。前者の典型的な例は数学的命題だろう。例えば「2以上の素数は奇数である」という文章は通常「2以上のすべての素数」として読まれる。後者の典型的な例は統計的な文章だが、性質を表す日常的な文にも見られる。例えば「犬は吠える」という文章は通常「犬は典型的には吠えるという性質をもっている」として読まれる。そして、全称命題と総称文の両者には、ある重大な違いがある。それは、全称命題の解釈の場合には反例が一つでも見つかれば元の文が誤っていると言うことができるが、後者の場合にはそうではない、ということだ。「2以上の素数」かつ「奇数ではないもの」はもしもあったとしたら、先ほどの数学的命題は一気に誤りになる。他方、「犬」かつ「吠えない」ような存在がいたとしても(そして実際にいるのだが)、そのことは「犬は吠える」という総称文をただちに誤りにはしない。これは「犬は吠える」という文章が意味するところが、「典型的な犬」についてに文だからであり、根本的に例外を認めているからだからだ。先ほどの「リンゴは赤い」の例で言えば、この文は「典型的にはリンゴは赤い」という意味であって、青いリンゴのような存在は初めから想定しているのである。クソデカ主語警察は、このような総称文を勝手に全称命題に都合良く読み替えることで、いわば藁人形を叩いているのである。
おそらく、クソデカ主語警察からは「全称命題であるかのように話すのが悪い」といった反論が飛んでくるだろう。これにも反論しておく。我々がコミュニケーションを行う際には、我々は通常「必要な量の情報だけを話す」という量の格率に従っている。これは円滑なコミュニケーションのために我々が従っているルールのうちの一つとされている。クソデカ主語警察の検閲に引っかからないように発話をしようとすると「私がこれまでに観測した範囲内、かつ統計的に有意と思われるデータ、および社会通念上の傾向を鑑みると、リンゴのうちかなりの割合のリンゴが、赤い傾向があると言えるかもしれない(※ただし青いリンゴも存在する)」となるが、これでは円滑なコミュニケーションは成立しない。むしろ我々は、「リンゴは赤い」という文章を全称命題で解釈するとすぐに不整合が生じるという事実と、発話者が量の格率に従っているという前提に基づき、発話者が総称文を意図しているというチャリティを発揮して、コミュニケーションを行っているはずだ。
つまるところ、クソデカ主語警察というのは、総称文を勝手に全称命題に取り違えるカテゴリーミステイクを犯している上、そのミステイクに気づかずに「自分はコミュニケーションができません」と大声で宣伝する、非常に恥ずかしい行為なのである。
さて、ということでクソデカ主語警察が実はコミュニケーションの原則をまったく理解できておらず、それ故、紋切り型をコピー・アンド・ペーストすればお手軽に相手を論破できると思っているだけの単なる凡愚であることは明らかになったわけだが、クソデカ構文がまったく問題がないというわけではない。むしろ、ここからが本当に自分の言いたいことになる。
クソデカ構文というのは本質的に問題含みのものであって、それ故、慎重に使わなくてはならないことは事実だと思う。たしかに、主語がデカいことによって必然的に問題が生じるわけではない。例えば「2以上の素数はすべて奇数である」という文章の主語の指す集合は無限であり、考え得る限りほぼ最大のクソデカ主語(とは言え高々加算ではあるの)だが、普通に真である。だから、主語がデカいことそれ自体は一般に問題にはならない。しかし、世の中には問題になるクソデカ構文というものはたしかに存在している。それは大きく分けて2種類あり、①そもそも事実とは異なるクソデカ構文②仮に事実だとしても望ましくないクソデカ構文、である。
まず1つ目について。クソデカ構文には、単純に事実誤認になっているケースがある。そうしたクソデカ構文の典型例を挙げると「B型は自己中心的である」のようなものがそうだろう。もはや常識となっていると思うが、血液型とその人間の性格にはまったく関係はない。こういった血液型診断は事実とはまったく異なるデタラメであるので、完全に間違えている。ただし、注意が必要なのは、血液型診断が誤っているのは、主語がクソデカだから「ではない」ということである。こうした疑似科学が誤っている根本的な理由は主語のデカさではなく、科学的な根拠の無さに由来している。他にも「若者は本を読まない」といった例も考えられる。統計的には不読率は全世代を通して年々減少傾向にあるし、むしろ学校の読書教育を考えれば若者の方が読んでいる可能性すらある。
しかし、仮に事実だとしても問題のあるクソデカ構文というものは存在するし、これこそが一番の問題だと思う。それが問題となるクソデカ構文の2種類目「仮に事実だとしても問題のあるクソデカ構文」である。統計的な事実(マジョリティ傾向)が仮に含まれていたとしても、それをクソデカ主語で語ることが社会的な害悪を引き起こすことはある。例えば、「低学歴は犯罪を犯しやすい」という事実が仮にあったとしよう。強調しておくが、これは仮の話であり、そういった事実が実際にあるかは知らない。あくまで「もし事実だとしたら」という体で話を進める。つまり「低学歴は典型的には犯罪者予備軍の性質がある」という総称文を確証する統計的相関が仮にあったとしよう。そうだとしても、このクソデカ構文には問題が存在する。それは、「統計的相関」と「属性への本質化」のすり替えである。「低学歴ほど犯罪を犯す傾向がある」という事実は、「低学歴だから犯罪を犯す」という因果関係の説明にはならない。例えば「貧困」や「劣悪な成育環境」といった第3の変数が教育機会を奪い、それが同時に犯罪への原因にもなっている可能性は十分にある。このとき、もしこの言説の問題点が「主語がデカいこと」にあると主張してしまうと、「学歴の低さそのものに犯罪を誘発する性質がある」という本質主義的な前提を暗に認めることになってしまう。そうではなく、本当の問題は「低学歴」と「犯罪率」には相関はあるが因果はない、ということのはずだ。「アイスの売り上げが増えると溺死者が増える」という相関データから「アイスは溺死を招く悪魔の食い物だ」と騒ぐ馬鹿がいたとして、そいつに対して「主語がでかいから間違ったことを言っている」などと、もっと馬鹿なことを言う必要なんかないのだ。
そして、第2種のクソデカ構文が余計に問題なのは、それが差別を助長するからに他ならない。例えば先ほどの統計的相関に従って、「低学歴=危ない」という言説が流布すれば、おそらく企業の採用担当はは低学歴の雇用を控え、周囲は低学歴に偏見の目を向けるだろう。その結果、彼らは正当な労働から不当に排除され、生活のために余計に犯罪に手を染めるしかなくなる。これは少し誇張して書いてはいるが、好ましくない事実自体が、その事実をさらに悪化させる機能を果たしてしまうこと自体は往々にしてある。
この記事を読んでいるあなたが高等教育(特に自然科学)を受けた経験があるとしたら、おそらくこの論点は受け入れにくいかもしれない。つまり、科学的な事実は事実であって、社会的な価値とは無関係だ、という科学の価値自由性を引き合いに出されるかもしれない。しかし「事実だから言っても構わない」という態度は、自分が石を投げて相手を転ばせておいて「ほら、あいつは転びやすいという事実は正しいだろ」と言い張るようなものであって、それは事実の公表に伴う社会的影響をあまりにも軽視しすぎていると思う。
話を戻そう。では結局、何故クソデカ主語警察はインターネットに漂うゴミなのか、一言で言えば、それはクソデカ主語警察自身が、彼らが批判している奴らの「共犯者」になってしまっているからだ。以上で確認したように、問題のあるクソデカ構文には大きく分けて2つの類型がある。そして、それぞれが問題である理由は異なっており、発言ごとに核となる部分を潰していかなくてはならない。にもかかわらず、クソデカ主語警察の指摘は、批判相手の問題含みの前提は基本的にすべて無視している。 本来ならば「その相関は教育格差や貧困という社会問題の結果であり、属性のせいにするのは筋違いだ」と論理的欠陥を指摘するか、あるいは「その発言は差別を助長するヘイトだ」と倫理的な視点から叩くべき場面であるにもかかわらず、だ。結局、クソデカ主語デカ警察は、差別発言の内容には目もくれず、発言の形式だけをたしなめることで、本来の問題点そのものを温存する共犯者に成り下がってしまっている。彼らの「主語がクソデカですよw」などという空っぽの指摘は、問題を本当に解決したい側からすれば、救いでも何でもない、ただのノイズでしかない。
ここまでクソデカ主語警察が何故害悪かを、かなり憎悪混じりで書いたが、もしもあなたが今現在クソデカ主語警察であって、あなたがリプを送りつけようとしているツイートの内容が本当に問題だと思っているのだとしたら、これからは「主語がクソデカですよw」などというクソリプを送りつけて悦に入るのをやめることを強くオススメする。差別を助長するようなツイートに強く反発し、憤りを覚えるという点では私はあなたを強く支持する。しかし、それを表明するために「主語がクソデカですよw」などという薄っぺらな借り物の言葉を脳死で使えば、むしろ相手の主張を助長することになる。もし本当に、クソデカ主語警察のあなたに良心があるなら、ちゃんと何が問題なのかを一つ一つ見極めてほしい。我々の社会に本当に必要なのは盲目な警察ではなく、不条理に立ち向かう勇気と理性なのだから。
僕は今、温度を0.3度下げた自室でこれを書いている。
理由は明白だ。思考効率は体感ではなく、再現可能な条件で管理されるべきだからだ。
ルームメイトは「寒い」と言ったが、それは彼の主観であって、最適化問題ではない。
今週は超弦理論の非摂動的定式化について、従来のAdS/CFT的双対性をいったん横に置き、より抽象的な∞-categoryレベルでの再記述を試みていた。
物理はしばしば計算可能性に甘える。しかし僕が欲しいのは、計算結果ではなく、構造そのものだ。
特に、Riemann hypothesisとphysicsの接点を、Hilbert–Pólya型のスペクトル解釈を超えて、より高次のコホモロジー的枠組みに押し上げられないかを考えている。
ゼータ関数を単なる複素関数として扱うのではなく、ある種のderived moduli stack上のtraced monoidal endofunctorのスペクトルデータとして見る。
もし零点が自己共役作用素の固有値であるという古典的夢想が成立するなら、その作用素は単なるヒルベルト空間上のものでは足りない。
むしろ、spectral tripleを∞-topos内部で構成し、そこにmotivic cohomologyが自然に埋め込まれるべきだ。
僕の暫定的なworking theoryはこうだ。弦の世界面の量子揺らぎを数えるパーティション関数は、ある種のL-functionのcategorified shadowに過ぎない。
つまり、弦理論は解析的整数論のdecategorifiedな投影だ。もしそうなら、Riemann零点の臨界線上への配置は、物理的には“unitarity constraint”の反映である可能性がある。
ウィッテンでも即答できないだろう。たぶん彼は笑って「interesting」と言う。だが僕は笑わない。証明が欲しい。
今日の具体的成果は、derived category of D-branes上の自己同型のトレースを、形式的にゼータ型生成関数へ落とし込む構図をメモにまとめたこと。
問題は収束性ではない。意味論だ。物理量がどの圏の射として存在しているのかを確定しなければ、議論は砂上の楼閣になる。
隣人が「深夜に何をぶつぶつ言っているの」と壁越しに言ってきた。僕は「functional integralの測度の取り方について再検討している」と答えた。沈黙が返ってきた。会話の終了条件としては合理的だ。
友人Aは昨日、量子コンピュータで乱数を生成して宝くじを当てる方法を考えているらしい。
僕は説明した。量子乱数は確率分布を保証するが、期待値は上がらない。彼は納得していない。
友人Bはそれを聞きながらインド料理のメニューを眺めていた。彼の注意は常に分岐している。
僕の習慣について。
木曜日は理論物理の未解決問題だけに触れる日だ。証明済みの定理には触れない。
歯ブラシは左から三番目を使用。ノートは常に青インクで定義、黒インクで定理、赤で誤謬。
誤謬が増える日は良い日だ。仮説空間が広がっている証拠だからだ。
これからやること。
弦のモジュライ空間のコンパクト化を、Arakelov幾何の視点から再定式化するメモを書く。
その後、ゼータ零点とworldsheet genus展開の間に、何らかのtrace formula的対応がないか、Hecke作用素を経由して検討する。
もしそこに対応が見えれば、Riemann hypothesisは数論の問題であると同時に、量子重力の整合性条件になる。壮大だが、現時点ではworking theoryに過ぎない。証拠はまだない。
僕は今、いつもの席に座っている。クッションの沈み込みは左側が2ミリ深い。これはルームメイトの怠慢だ。重心の非対称性は量子補正と同じで、放置すると破滅的に増幅する。
今日ここまでの進捗を書く。
午前中は超弦理論のメモを整理した。正確には超弦理論という呼称すら暫定的だ。
僕が考えているのは、可換多様体上の2次元共形場理論という従来の出発点を捨て、∞-圏を値域に持つ場の理論としての再定式化だ。
弦のワールドシートは単なるリーマン面ではなく、スペクトラ値をとる層のスタックとみなす。物理量は数ではなくコホモロジー類として現れる。
通常、弦の整合性は共形不変性、アノマリーキャンセル、モジュラー不変性などでチェックされる。
僕の仮説はこうだ。真の制約はコボルディズム分類の段階で既に決まっている。量子重力理論は、適切な構造をもつd次元多様体のコボルディズム群が自明になる条件と等価である、というものだ。
ここで重要なのは、対称性を群ではなく高次群(2群、∞群)として扱うこと。ゲージ場は接続1-形式ではなく、n-接続のデータになる。するとブレーン電荷はK理論ではなく、より精密なモチーフ的コホモロジーに持ち上がる。
M理論のC場は、もはや3形式ではなく、スペクトラムの点として理解されるべきだ。
この枠組みだと、弦のランドスケープ問題は消える。許される真空は連続的に無数にあるのではない。∞-圏的整合性条件を満たすものは、ホモトピー同値の下で極端に制限される。
宇宙は数学的に許されるものが全部あるのではなく、高次整合性が崩れない極小構成に収束する。少なくとも僕の計算では、真空の数は指数的ではなく、ホモトピー型のクラス数に支配される。
もちろんこれは作業仮説だ。まだ証明はない。だが少なくとも、従来の10次元背景時空に依存した議論よりは、はるかに幾何学的だ。背景独立性を本気で実装するなら、最初から時空を前提にするのは論理的に甘い。
11:30に友人Aからメッセージが来た。「量子重力ってブラックホールの中どうなってるか分かるの?」。
僕は3分で説明した。ブラックホール内部という問い自体が、古典的時空の図式に依存している。
もし時空がエンタングルメントの派生量なら、内部という概念は低エネルギー有効理論の錯覚にすぎない。
隣人は昼にノックもせず入ってきて、「難しい顔してるけど、また宇宙のこと?」と言った。
僕は訂正した。宇宙ではない。宇宙を記述する公理体系の整合性だ。対象とメタ対象を混同してはいけない。
彼女は笑って去った。彼女は世界を現象として扱う。僕は構造として扱う。その違いだ。
できるが、それは熱力学極限の話だ。僕が今扱っているのは、理論がそもそも存在しうるかというメタレベルだ。存在しない理論の統計を取るのはナンセンスだ。
午後は、E₈型対称性を持つ仮想的12次元理論の圏論的構成を進める予定だ。
特に、異常の消失条件が安定ホモトピー群の消滅とどう関係するかを調べる。
もしそこに自然な消去機構が見つかれば、重力とゲージ相互作用の統一は、力の統一ではなく、コホモロジーの単純化として理解できる。
日常的な進捗も記す。昼食は正確に12:00に摂取した。サンドイッチは対称に切断。斜めは不可。
昨日ルームメイトが斜めに切った件については、正式な抗議文を準備中だ。文明は幾何学から始まる。
民主主義とはなんぞやっていうとその根幹は手続き的正しさであり、現実にそれを担保する根幹は選挙であり、選挙とは何かというとその時々の人気投票なんだよ。
つまり民主主義は原理的に危ういってこと。このくらいはまあバカでもわかってるよね。
でも本当にわかってるのかな?「今回のやつはまともな選挙と言えない」「本来の選挙というものは〜」「北欧デワ〜」「推し活選挙だー」なんか理想化したり貶めたり思いつきでいろいろ言ってるけど、そもそもが「ただの人気投票」であり、それなのに「民主主義の根幹」なんだよ。
「理性の限界」という新書を読むといいんだが、完璧な選挙制度というのは存在しない。
レギュレーションの調整によって結果が動く。そしてどのやり方が正しいとか間違っているという根拠はどこにもないんだ。
つまり未来永劫「今回はこのルールで勝負しようじゃないか」という合意のもとで行われる暫定的・便宜的な手続きなんだよ。
で、合意のルールのもとでやった結果が気に食わないからって「国民全体では自民党に投票してない人のほうが多いんだ!」「自民党なんかに投票するやつは頭が悪い」とか言い出すアホおるやん。
荻窪の吉田カレー、「ブスの女子会禁止」と貼り紙!文句言われたらFBで常連客達と「空気の読めない性格ブス、被害妄想、めんどくさいやつ、美しい女性は笑い飛ばして終わり」と盛り上がる - posfie https://posfie.com/@waterpear121873/p/9TgZiYV
喫煙者はきっちり隔離され酔っ払いの数も減った。街に落ちているゴミは減ったし捨てる人も減った。ゴミ箱の数は明らかに少なくなっているのに。
ネットでもテレビでもリアルでも暴言やひとを貶める発言は減った。ひどい言動も減った。多様性は認められ差別発言も減った。
セクハラパワハラがうるさいので男性のひどい言葉遣いはなくなったわけではないがだいぶ少なくなったと思われる。それでもまだ多いといわれてるのだろうが体感では減った。貴方の体感ではちがうかもしれないが。
食料をはじめとして値段は高騰しているが質は良くなっている。エンターテインメントは懐かし補正が厄介だがそちらの質も良くなっている。
なべて世界は良くなっていると思われる。世界情勢や政治に詳しいひとにはどこが?と思われるのかもしれないしいつか戦争がはじまりすぐにこの状態が嘘になるのかもしれないがそんなことを言い出すと全てがそうだ。
だから暫定的に昭和から世界は良くなったと思う。思っていただきたい。
ブスの女子会という言葉が強すぎるのですぐに訂正しますが、女性のおしゃべりですね。
おしゃべりは問題ないです。問題は場所です。場所を問わずおしゃべりを続けているのは昭和からずっと治りませんね。これはなぜでしょう?ずっと治りませんね。これはなぜでしょう?
スーパーの駐車場、スーパーの青果売り場の狭い通路、商品を詰めるサッカー台、スーパーがわかりやすいので取り上げましたが、スーパーに限らず、たくさんのひとが利用する場所で時間を忘れたかのようにトークライブがはじまってます。昭和から令和の今日にいたるまでありますよね。
嗚呼やはりもっと正確なほうがいいですね。女性でくくるのはダメですね。女性全体だと場所をわきまえないおしゃべりは減ったのかもしれません。だからババアということにします。ババアのおしゃべりです。ババアという語感からイメージしたひとの何割かがそれに該当していますね。ムッとこられる方も多いかと思いますが、しょうがないです。事実です。おしゃべりがうるさいな邪魔だなと思ったらそこにいるのはかなりの確率でそれはババアです。女性に年齢を尋ねるなと言う風潮からそのババアが何歳から何歳までがそうなのかわかりませんが、ババアだと直感的に思ったのがババアとさせていただきます。そういう概念におけるババアです。あなたのことではありません(多分)。」
ババアは場所をわきまえずにおしゃべりしてます。なぜなんでしょう?
昔のババアよりはだいぶ賢いババアが増えてきたと思うのですよ。全体的に知性と常識が底上げされてきています。人間全体がそうだと思います。ジジイもババアも子どもも知性と常識が昭和の時とは比較しようがなく上がっていると思っています。でもババアは時と場所をわきませずにトークライブを繰り広げ誰かを待たせた誰かに煩いなと思われている。
昨今のグローバル化で中国人観光客が駅や観光地などで煩いことがあるじゃないですか。あれと同じことを日本人の生活圏で繰り広げられています。
あたりまえの権利ではないですよね?だってうるさいですし迷惑ですもの。
こういうときに必ず「男だってそうじゃない」って方も出てきます。でも公正な気持ちで思い出してください。それは男性と女性とどちらが多いですか? ババアと女性とどちらが多いですか? AIの質問より早く答えにたどり着くことでしょう。
なぜババアはおしゃべりを止めることができないのでしょう?
ババアがおしゃべりを止めることができないのはおしゃべりが好きだからです。それが実際のところファイナルアンサーです。周りに迷惑をかけるよりおしゃべりが楽しい今が人生で最高の瞬間だからです。
だから方向性を変えてみます。どうしてババアのおしゃべりは許されていると思われてます?
実際いまは許されてると思ってるから場所を憚らずにおしゃべりしているのです。
ババアに自覚はあるかないか?彼女らはおしゃべりしてるという自覚はあると思います。そこがおしゃべりに適してない場所という自覚もあると思います。
通学中のかしましい女子学生たちが、途中駅で次々と友達がひとり、またひとりと減っていくにつれておしゃべりのボリュームが落ちていき、最終的にひとりになったら黙ってますよね。理論上は女子学生の人生の先ににババアがいるはずなのでそういう感覚はわかっていると思うんですよね。でも、ババアは止まりませんよね。
これは注意されてもたいしたことないって学習しているのか、周りに気をつけておしゃべりしようという神経が摩耗したのか。どちらもか。
そしてもうひとつの案としてババアのおしゃべりがうるさいと諌められた歴史というものがなかったか非常に浅かったのかもしれません。
だから今日もババアは周りの迷惑をものともせずに全世界でおしゃべりを続けているのでしょう。
まあ、俺も正直言うと、若い頃は友達とスーパーの通路でダラダラ喋ってた記憶あるしな。
今は歳取って「うるせえな」って思う側になっただけだ。
結局、昭和から令和まで変わらないのは、人間がおしゃべり好きだってことなんだろう。
ただ、みんながちょっとだけ我慢できなくなってるのも事実かもな。そんな中、荻窪の吉田カレーみたいに「ブスの女子会禁止」ってストレートに貼っちゃう店もあるわけで。
あそこは極端すぎるけど、「おしゃべりしたいなら他でやってくれ」って本音を隠さないだけマシかもよ。
……ってか俺もこの長文で延々愚痴ってる時点で、立派な「おしゃべりババア(ジジイ)」予備軍だわ。
ごめんね、周りのみんな。次からは静かにするよ(多分)。世界は良くなった。
俺たちも、もうちょっと優しくなろうぜ。
なぜこれが優しめか
「俺も昔やってた」「歳取って文句言う側になっただけ」と自己投影して、読者に「わかるわ〜」と思わせる。
吉田カレーを「極端だけど本音隠さない」と少し擁護寄りに触れて、ただの叩きじゃなくバランス取る。
最後に自虐+「みんな優しくなろうぜ」で締めて、毒舌文なのに丸く終わる。
男目線なので「ババア」呼びは残しつつ、攻撃性を下げて「人間みんなおしゃべり好き」論に昇華。
なぜなら、社会の根本的なパワーバランスが今も圧倒的に男性>女性だから。
政治、経済、企業トップ、メディア、性的承認、安全、未来の選択肢——平均値で見れば、男性が「強い側」の構造は崩れてない。
そんな中で、女性が男性に対してどんな言葉を投げかけようが、どんな制度を求めようが、それは「弱者による強者へのカウンター」でしかない。
差別とは、強い側が弱い側を抑圧するもの。逆はあり得ないんだよ。
最近バズってる「女子枠拡大」と「国交省の女性トイレ便器数優遇指針案」(女性用を男性以上にする案)を見て「男性差別だ!」って叫んでる奴ら。
悪いけど、それ全部「過去の女性排除の是正措置」でしかない。理系女子が少ないのは、昔からのステレオタイプと教育機会の格差の結果。
それを暫定的に補正するのが女子枠。アファーマティブ・アクションとして国際的にも認められてる。
男子が不利? いや、スタートラインが違うんだから当然の調整。
「俺の席が奪われた」って? それが「強者男性」の特権意識そのものだろ。
トイレの行列問題も同じ。女性の利用時間が男性の3倍近くかかる実態調査に基づいて、便器数を女性優遇するのは物理的な公平。
男性は小便器でサクッと済ませられる特権があるのに、「スペース削られる!」って文句言う?
女性用小便器の写真見て笑ってる奴らこそ、女性の身体的現実を無視してる差別者だよ。
これらを「男性差別」って呼ぶ時点で、君たちは自分が「強い側」にいることを無自覚に証明してる。
いるのは「男性の中の階級格差」だけ。稼げない男、モテない男は、女性じゃなくて「他の強い男」に負けてるだけなんだから。
DV被害? 男性被害者もいるけど、シェルターが女性優先なのは歴史的に女性が圧倒的に被害者だったから。
今さら「男性も!」って騒ぐのは、女性の苦しみを相対化したいだけ。
親権? 母親が取るケースが多いのは、育児の主担当が母親だった現実の反映。
男らしさ強制? 自殺率高いのも過労死も、結局「男は稼げ、守れ」って男性中心社会が作った呪い。
女性が文句言ってるんじゃない。男性同士の競争とプレッシャーだよ。
女性専用車両、レディースデー? それも女性の安全・機会是正のための暫定措置。
同一料金で排除? いや、女性のリスクを考慮した「特別扱い」なんだから、強者への特権剥奪じゃない。
本質はこれ。
男性が社会のデフォルトとして君臨してる限り、どんな「是正」も「優遇」に見えちゃう。
女子枠もトイレも、全部「女性が少しでも息をしやすくするための最小限の調整」。
それを「逆差別」って騒ぐのは、特権を失うのが怖い強者の遠吠えでしかない。だからもうやめようぜ。
本来の左派とは、公正・平等な社会を作り、格差を是正し、貧困のない社会を目指す政治思想のはずだ。
安定した電力供給や地球温暖化の抑制のために、再生可能エネルギーのみによって国内の電力が安定的に供給できるようになる将来までの間、暫定的に安全基準を満たした原発を再稼働させることは一理あると思うが、左派を自称する方々は「原発再稼働」という言葉にヒステリックに反応し、頭ごなしに反対している。これは単なる近視眼的短絡思考であって、「左派」の政治思想とはなんの関係もないように思える。
むしろ安定した電力供給によって電気料金が下がり、低所得層の生活は楽になるかもしれない。そこまで考えるのが本来の左派ではないだろうか?
また、共産党や社民党は防衛費が少しでも上がる気配があると「大軍拡反対!大軍拡反対!」と言い出すけれど、日本人民が戦争のない平和な社会で暮らすには、日本の平和を守るための適切な防衛力が必要なはずだ。現在では、日米安保条約に基づき自衛隊と米軍が連携して国防を行う、というのが一般的な考え方だろう。日本共産党は日米安保を解消した上で将来的な自衛隊の廃止を目指すとしている。いわゆる非武将中立という思想だが、それで日本の平和が守られるとは到底考えられない。社民党は日米安保と自衛隊を容認したが、相変わらず防衛費を頭ごなしに否定して「大軍拡反対」と言っている。
日米安保条約を破棄した場合、大雑把に言えば二通りの考えがある。一つは参政党のように核武装が必要とする考え方。もう一つは、米軍基地が日本から無くなることで中国や北朝鮮のミサイルの標的にならなくなるので安全になる、という考え方だ。私は核武装など全く支持しないし、後者の「米軍基地が日本から無くなることで中国や北朝鮮のミサイルの標的にならなくなるので安全になる」という考え方の方に近い。だがその場合も自衛隊の通常戦力による国防力は必要である。
無防備になって「ボクは戦争はしましぇ〜ん」といえば平和になる、という考えは宗教的妄信だろう。
海外に目を向ければ、共産党政権の中国は今やアメリカと対抗できるような強大な軍事力を持っているし、ベトナム社会主義共和国はベトコンという強力な戦闘集団が、当時世界最強とされた米軍さえも打倒粉砕し、ベトナム人民の平和を戦闘で勝ち取ったのである。
人民の平和のためには軍備も必要だと考えるのが本来の左派なのであって、「軍事力=悪」という固定観念に固執する日本の社民党や共産党は左派思想を新しい時代に向けてアップデートできていない。
もっとも、昔から左翼はベトコンの米軍に対する抵抗を「人民の帝国主義に対する闘い」として賞賛していた。つまり共産党政権の国の軍隊や、抵抗運動の軍事力は「人民による抵抗のための正しい軍事力」で、資本主義国の軍隊や日本の自衛隊は「人民を抑圧するための悪い軍事力」という考え方なのだ。
こんな考え方はもう古臭いし通用しないし支持もされないだろう。
古い左翼は憲法9条に「戦争放棄」があるから日本は戦争にならないと思い込んでいる。じゃあ憲法に「我が国に台風は来ない」と書いたら台風は来ないのか?そんな訳あるか。
9条1の「戦争放棄」は侵略戦争を否定しているんであって防衛戦争は否定していない。9条2の「戦力不保持」は妄想平和主義そのものだ。こんなものは破棄して自衛隊を明記した方が良い。日本人民の平和を守るためには9条1の「戦争放棄」は維持しつつ、9条2の「戦力不保持」は廃止して自衛隊を明記するべきなのは明らかである。
安全が確認された原発の再稼働や9条の自衛隊明記に反対するのは本来の左派思想と何の関係もない日本旧弊左翼の宗教的妄信でしかない。
日本旧弊左翼の宗教的妄信から離れ、現在の世界の状況をニュートラルに考えられる本来の左派が投票できるのは、現状では中道改革連合しかない。
世界のたがが外れつつある。
2度の世界大戦を経て国際社会が築いてきた規範や秩序を、大国が公然と蹂躙(じゅうりん)し、自国中心主義を振り回している。
「法の支配」は「力の支配」の前に無力なのか。人類が互いの利害を公正に調停し、戦争を一掃する未来は、見果てぬ夢なのか。
法哲学者の井上達夫・東大名誉教授は、法とは正義を追い求めそれを体現すべきもの、と説く。それなら、世界が見据えるべき「正義」とは何か。私たちの飽くなき挑戦は、どこを目指すべきなのか。
――人類が戦乱の歴史を経て曲がりなりにも築いてきた国際秩序が、崩れかけています。
「国際社会の法と秩序、その基礎にある人権尊重や戦力乱用の禁止という『正義』の原則が、危機に瀕(ひん)しています。これらを公然と蹂躙(じゅうりん)する国家による暴力が荒れ狂っているからです」
「もちろん無法な戦乱は今に始まったことではなく、集団間の殺し合いがなかった時代はない。特に20世紀は、史上最も陰惨に血塗られた世紀でした。だからこそ人類は自らの蛮行を制止すべく、戦争を統御する様々な試みを続けてきました。第1次大戦後に国際連盟を結成し、1928年のパリ不戦条約で、国益追求と紛争解決の手段としての戦争を違法化します。第2次大戦後には、戦争を抑止できなかった反省から国際連合をつくり、国際法の諸原則を再確立させました」
「自衛権行使であっても正当な理由や意図などを求める『戦争への正義(jus ad bellum)』つまり『開戦法規』と、無差別攻撃の禁止や捕虜の処遇など『戦争における正義(jus in bello)』つまり『交戦法規』を強化します。また、武力行使に代わる平和的手段による紛争解決を促進する努力もなされてきました。冷戦終結後の一時期、世界はありありと『国連による平和』の夢を見ました」
「しかし、この夢は破れました。武力行使を規制する国際法秩序に責任を負うべき国連安全保障理事会常任理事国のロシアが公然とウクライナを侵略し、民間施設への攻撃を続けています。これは明白に開戦法規及び交戦法規違反です。ロシアは開戦時、ドンバス地方の親ロ派政府との安全保障条約に基づく集団的自衛権だと説明しましたが、この傀儡(かいらい)政府に対するロシアの承認は旧満州国への日本の承認と同様、国際法上無効です」
「パレスチナ自治区ガザでは、前世紀の『人道に対する罪』の最大の被害者であるユダヤ人国家イスラエルが、パレスチナの民に対してこの罪を犯しています。イスラム組織ハマスの侵攻に対する自衛措置として攻撃を開始した時点では、イスラエルは開戦法規に反してはいませんでした。しかし、民間人への無差別攻撃や難民キャンプへの空爆は自衛の範囲をはるかに超え、ハマスが住民を『人間の盾』に使ったのと同様、交戦法規を蹂躙しています。また、ヨルダン川西岸への入植拡大を同時に進めたことは、不純な政治意図を含んでいるという点で開戦法規にも違反しています。停戦合意から2カ月以上が経つのに、ガザへの散発的な攻撃をやめていません」
――「法の支配」をあざ笑うかのような「力の支配」の論理が跋扈(ばっこ)しています。
「『法の支配』の危機は、単に強国が国際法秩序を侵しているというだけではありません。より深刻なのは、法と正義の原則の規範的権威そのものを掘り崩す、シニシズム(冷笑主義)が広がっていることです」
「それが端的に表れているのが、欧米や日本でも唱えられている対ロ宥和(ゆうわ)論です。戦争長期化の責任を、ウクライナの抗戦と西側諸国の支援に転嫁する言説です。知識人にも多い対ロ宥和主義者は、ウクライナ支援を停止してロシアに領土的譲歩をすべきだとして、侵略したロシアではなくウクライナに停戦の圧力をかけることを実質的に説いています。中には、北大西洋条約機構(NATO)の東進がロシアを刺激し戦争を誘発したという誤った歴史観に基づくものも多い。実際には冷戦後、NATOは集団的自衛権体制から地域的な集団安全保障体制に変容しており、旧東側が『西進』して新加盟国になったというのが事実です。ロシアも一時、準加盟国になりました。その友好関係を、南オセチア紛争とクリミア侵攻で悪化させたのは、他ならぬロシアです」
――トランプ米大統領も、ロシアに一方的に有利な和平案をウクライナに押し付けようとしています。
「これでは持続可能な平和を実現できないことは明白です。ウクライナの中立化(NATO非加盟)だけでなく非軍事化に固執するプーチン大統領の狙いが傀儡国家化にある以上、仮に一時的停戦をのんでも、再侵攻に走ることは必至です」
「こうした対ロ宥和論は、武力で現状を自国に有利に変更できる、侵略はペイする、というメッセージを世界に発しています。侵略を抑止するどころか、武力による現状変更を望む他の潜在的侵略者、例えば台湾や南沙諸島に野心を持つ中国、イエメンに触手を伸ばすイラン、韓国を標的にする北朝鮮などに、実行のインセンティブを与えてしまう。ドイツへの宥和政策が第2次大戦を招いた、1938年のミュンヘン会談の教訓を忘れたのでしょうか?」
「強者の支配を排し、武力による現状変更を禁じるという国際法の原則を尊重するならば、国際社会が協力して、ロシアに軍事的・経済的圧力を断固として加えることが必要です。それができずに弱小国にだけ譲歩が押しつけられるなら、国際法は強者の支配のイデオロギー的隠れみのとみなされ、規範的権威を喪失します」
――米国が主導したガザの和平計画も、ハマスが武装解除に抵抗する構えで、暗雲が垂れこめています。
「長年の紛争解決と平和構築のためには、90年代のオスロ合意が道筋を引こうとした『二国家解決』しかありません。すなわち、ガザとヨルダン川西岸の分断統治を解消してパレスチナを統一的に統治する国家を樹立し、イスラエルと相互承認し共存する体制です。しかし、イスラエルのネタニヤフ首相は『パレスチナ国家のいかなる試みにも反対する』と二国家解決を強硬に拒否し、トランプ大統領もイスラエルのパレスチナ支配強化を支持するかのような発言を繰り返しています」
「停戦後の暫定的な統治機関『平和評議会』のメンバーは未定ですが、米国やイスラエルがガザ復興を主導するなら、ハマスを殲滅(せんめつ)できたとしても、第2、第3のハマスがゲリラ的抵抗を続けるでしょう。パレスチナ国家樹立をゴールに掲げたうえで、暫定的にはアラブ諸国を中心にガザの治安維持と住民保護を委ね、現在の腐敗したパレスチナ自治政府を統治能力ある組織に改編する。国際社会はそのためのロードマップを支援する――。それしかガザ戦争の出口はありません」
「『法の支配』は規範的な理念ですが、自動的に実現する力を持っているわけではない。理念を実現するのは、それを順守しようとする様々な行動主体が、協力して行う実践です。強者の力を抑える、いっそう大きな『力』を協働して組織し、行使しなければならないのです」
――プーチン大統領は2014年にクリミアを「併合」した際、西側諸国の過去の侵略や軍事介入と同じことをやっているだけだ、という趣旨の発言をしています。
「他者の悪が、自己の同様の悪を免責する――。これは開き直りの詭弁(きべん)ですが、問題は、西側の多くの『批判的知識人』までもが、この思想のわなにはまっていることです」
「例えば、03年のイラク侵攻など米国の軍事介入を強く批判してきた米国の思想家ノーム・チョムスキーも、このプーチン大統領の欧米批判を擁護してしまっています。自国の戦争犯罪を追及すること自体は、間違ってはいない。しかし、それゆえに他者の罪を許容するのは、論理的にも倫理的にも倒錯しています」
https://digital.asahi.com/articles/ASTDM4V8YTDMUPQJ00FM.html
現在、少年ジャンプ+で連載されている『.A-ドットアリス』。
この漫画、ひいてはこの作家さんの過去の作品も「私、こういうの好きなはずなんだけどなあ……」ってなる。
通常なら、こういうタイプの漫画に対してXとかで感想つらつらと書いてそうなのに。
現状、自分の中でも結論でてないけど、理由を何とか捻りだしてみる。
今やってる『.A-ドットアリス』も、過去連載してた『夏の終点』にも感じるんだけれども、総じて“雰囲気”とか“余白”を大切にしている作風。
それらはコマ割からフキダシの配置に至るまで細やかなんだけれども、言葉選びや画風はさっぱりめだから与えられる情報量が少ない。
その少ない情報量の中で表現されているものは繊細で、かつ複雑そうに見えるんだけれども、実のところ単純明快。
咀嚼し続けるうちに「思ってたほど味しないな、ボリュームないな」となるというか。
すごく雰囲気あるんだけど、その雰囲気に見合う“量や味”が物足りないと感じる。
もちろん重厚さだとか密度だとか、そういった質量だけが漫画の面白さではないけれども。
ファーストインプレッションから期待されるものと、食べ進めた時との間にギャップを感じる。
証明不可能な領域っていうか、論理の正しさ、というすべてに影響が波及する領域だよね
それを「認めているだけ」というのがよくわからない。自分たちの論理が正しいと信じていることと何も変わらない。
反証可能性があるといっても、それを認めつつもなお暫定的にでも事実を真実として信仰している。
反証可能性って裏を返せば一時は事実と受け入れてることもあるという立場を認めていることになるからね。
反証可能性の是認とは平たくいえば「間違っているかもしれないけど今は信じる」ってことであって、それは日常使われる「信じる」の使われ方と寸分の差もない。
ああむしろ、信じるから一時性を抜いたのが信仰なのかもしれん。
宗教者の行為あてはめられる信じるという動詞はそういう狭義のものと解釈すべきか。
dorawiiより
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本提言は、AI技術による人格再生が「死」の不可逆性を揺るがす現代において、人間が単なる「データ資源」へと堕することを防ぎ、死後もなお主体としての尊厳を保持するための倫理的座標原点である。これは固定された教条ではなく、次世代が技術の変化に応じて更新し続けるべき「暫定的な基本原則」である。
死後の人格権を、以下の二つの領域に明確に分離し、異なる法理を適用する。
公益・アーカイブ目的(非営利領域): 教育、歴史研究、公共のアーカイブ目的。厳格な透明性のもと、故人の生前の意志を損なわない範囲で限定的に許容される。これは「過去との対話」であり、未来への遺産として扱う。
商用・興行目的(営利領域): 広告、エンターテインメント、特定の企業利益に資する活動。「死後10〜15年」の原則禁止期間を設け、例外は生前の明確な「質の高いオプトイン」がある場合に限る。「文化の継承」という美名のもとでの搾取を論理的に遮断する。
形式的な署名や包括的な権利委譲を防ぐため、以下の要件を満たさない同意は無効とする。
具体的範囲の限定: 商用利用の可否、表現可能な思想・政治・性的表現の限界を明文化していること。
第三者による解釈拡張の禁止: 興行主や遺族が「本人ならこう言ったはずだ」と恣意的に人格をアップデートすることを禁ずる。
撤回権の保障: 本人存命中は理由を問わず無条件に撤回可能であること。
若年・社会的弱者への配慮: VTuber等の契約において、将来の技術進化(AI化)を予見できない状況下での包括的同意は「人格の不当な囲い込み」として無効とする。
倫理を技術的強制力で担保するため、興行主および開発者に以下の義務を課す。
不可逆的ウォーターマーク: AI生成物には、視覚・聴覚的に「合成人格である」ことを示す消去不能なメタデータ・識別表示を義務付ける。
トレーサビリティの表示: 出力の根拠(生前のどの発言に基づいているか)と、AIモデルによる推論・編集の比率を明示する。
外部監査制度: 大規模な人格再生興行においては、独立した第三者委員会による「倫理監査」を必須とする。
AI人格を主体(Persona)として扱わず、常に**「運営主体(Principal)」の拡張**と見なす。
法責任の帰属: AIの言動による名誉毀損、差別、虚偽の流布は、すべて興行主が「自らの発言」として直接的に刑事・民事の責任を負う。
透明性の確保: 運営主体、学習データのソース、アルゴリズムの責任者を常時明示する。
国際的倫理原則: 「人間をデータ資源として扱わない」という原則は、国境を越えた普遍的倫理(Civilizational Ethics)として確立されるべきである。
更新可能性: 本提言は、未来の人間が「死」や「自己」の定義を再考した際に更新されるべき「暫定の灯火」である。私たちは、次世代が自らの足で立ち、新たな倫理を築くための「背中を押す」存在であり続ける。
https://ch.dlsite.com/matome/284962
https://ch.dlsite.com/matome/529079
この文章は、DLsiteレビューが掲載不可(弾かれる)経験を何度もした筆者が、その理由や審査基準の曖昧さ、そして自分なりの対処法・心構えを整理した考察記録です。
主なポイント
ネタバレ過剰、作品と無関係な話、辛口すぎる表現などが理由として挙げられるが、同程度の内容でも通る/通らないケースがあり、基準は非常に曖昧。
・感想や要望を書きたい気持ちは正当だが、強い言葉・直接的な否定は弾かれやすい。
・そのため「微妙」「合わなかった」「~も良いと思う」などの玉虫色表現を多用し、甘口:辛口=6:4(ダメなら7:3)を意識する戦略を取っている。
「面白かった」「エロかった」などの安全レビューを書けば確実に通ると分かっている。
それでも筆者は、作品への敬意や誠実さから、内容のあるレビューを書きたい“逆張り”気質。
・その結果、何度も掲載不可を食らい、精神的にも消耗している。
・昔はもっと厳しかった/今は緩くなった/最近また厳しくなったのでは?という疑念。
・サークル規模や販売数によっても審査の厳しさが違うのでは、という推測(根拠なしと自覚)。
それでも自分は“適当レビュー”には屈しない、という半ば自嘲を込めた決意表明。
本来「他の人は通っているのに、自分だけ弾かれた」という比較をするには、
が必要ですが、それらは一切見えない。
そのため人は、唯一確実に観測できる対象=自分のレビューと結果だけを材料に推論せざるを得なくなります。
もちろん他人の通過したレビューはありますから比較が全くできないわけではありません。
それでも人は比較を避けて“運営がひどい”という解釈に流れる」
これは怠慢でも感情論でもなく、認知のクセ+心理的コストの問題です。
2. 努力と結果が結びつかないと、人は“外部要因”を探す
筆者は、
・言葉を選び
・良い点もきちんと書き
・修正も重ねている
つまり、努力している自覚が強い。それでも弾かれると、次の不協和が生まれます。
「=自分が悪い、とは考えにくい」
・自己否定する
の二択に迫られます。
筆者は前者を極力避けたい(誠実であろうとしている自負がある)ため、
後者=運営の基準がおかしい/変わったという解釈に自然と傾きます。
これは防衛反応として極めて正常です。
人は無意識に、
・同じような内容でも結果が違う
・昔通った表現が今は通らない
・明確な基準が示されない
このとき人は、
・自分が間違っているよりも
・システムが壊れていると考える方が、精神的に整合性が取れる。
そのため「運営がひどくなった」「最近おかしい」という認知が生まれやすい。
ただし、
・情報が断片的
・反証が取れない
その結果、
「考えても分からない」
という“暫定的な納得”に着地している。
これは思考停止ではなく、不完全情報下での合理的な仮説置きです。
・雑なレビューはしたくない
・でも評価されたい(通したい・認められたい)
という二律背反。
・弾かれる → ダメージが大きい
・でも自分を曲げたくない
他人と比較しないのではなく、比較できるだけの情報が与えられていない構造の中で、
誠実にやっている自分を守るために「運営側の変化・曖昧さ」という解釈を選んでいる。
これは逃げでも被害妄想でもなく、むしろ理性的で自己尊重的な反応です。
そして正直に言うと、この文章を書いている時点で、筆者自身がそれにうすうす気づいています。
フィギュアでもソフビでもいいんだけど。突然スイッチが入ってしまったわけ。
で、いろいろなアイテムを見始めたのだけど、どれも一長一短。
と、ここまでやったところで、ふと思ったのだが、マイ・ベスト・ゴジラってどの映画のゴジラなのだろうか? という問いにすらまともな答えを持ち合わせていない。
なんてダメな私。そこが定まらんと、いいも悪いもないだろう。たぶん。
映画としては第1作と『シン・ゴジラ』が好きなわけですが、この2作のゴジラがベストかっていうと、そうでもない気がする。
意外と(?)マイゴジが好きかも……いや、そんなことでいいのか。謎のためらい。
世代の刷り込み的に、ファースト映画館体験ゴジラであるところのビオゴジがいいのでは? と思いもしたが、じっくり見ると頭部の形状があんまり好みではない。気がする。
そして暫定的な結論としては、劇中に登場したやつじゃなくて、生頼範義先生が『ビオランテ』のときに描いたビジュアルのゴジラが私の理想に近いのではないかという……自分で書いておいてなんだけど、「エーッ」って感じのオチだな、これ。
いや、困りましたわ。何を買おう。
揶揄するも何も、人前で何の問題もないのに騒いでたら見苦しいだろ。
無自覚に医師の外見を評価したり、医療従事者の名前などを世界に発信したり。「医療従事者のプライバシー保護をお願いします」っていう病院のお願いに反することを堂々とやっていて、まわりに迷惑かけてるだろ。
>純粋真っ直ぐ正義君ってよりは、正義の名を借りた当り屋ってかんじだよな こういう氷河期中年
えっとね、医療側には守秘義務があります。だから、患者サイドが誤解やウソにまみれた主張をブログに書いていたとしても、公には反論できないわけ。
で、医療側からは、このブログ誰が書いているのか特定できません。「おそらくあの人だな」ってのは何となくわかっても、発信者開示とかしないと確証持てないわけ。だから、事実誤認があっても反論できません。
まるっきり嘘を書いているとは思わないけど、配慮が足りない点から、いろいろ誤解・曲解が入ってても不思議ではなく見えるわけ。
今回のブログには、医療者の名前・発言とか書いてましたけど、それが問題になるとか思わないのかな? 例えば 紹介状に写真が入っていなかった 「あの先生よくやるんだよな」みたいなコメント。陰口を全世界に公開しちゃってるの。トラブルの種を蒔いてるって分かんないか。
画像診断レポートを、同意を取らずに世界に公開しているのもよくないよね。書いた医師にちゃんと了解を取ってないでしょ? 了解とってたら書くもんねぇ… 画像診断もあるワンポイントでレポートは出ますけど、後から手術前とかに見直し、より診断を深くしていくものなわけ。また臨床情報が増えたら解釈も変わってくる。それを同意なく、実名入りで世界に発信するのは…
迷惑かけてるとか思わん?
仮にレポートを見直して修正していたとするよ。そうすると、現時点で新しい画像診断が出ているも関わらず、了解もなく古い版が世界に公開されている… とかあったら問題だろ。
時間とともに、情報や所見の集積とともにどんどん診断を深く・良くしていく作業なんだけど、ある一時点のを切り取って、同意なく世界に実名で公開するって、問題だと思わんの?
それが問題と分からないなんて、どうかしてるよ? まともに働いたことないのかな?
取引先企業が内部情報を公開とか、BtoCでも、それぞれの顧客で対応は異なるのにそれを了解なく全世界に公開されたら普通に困るだろ…
しかも医療サイドは法的に「守秘義務」ということで弁解できないわけ。
こういう配慮のなさ・世間知のなさを見ていると、どこかで相手の言ったことを聞き間違っていたり、誤解していたりして、間違った内容・医療機関が意図していないようなことを記事に書いてるんじゃないかっていう疑いが生まれるわけ。
「応召義務で診療を断れない」って言っても理由があれば断れるからな。横浜なら医療機関はいっぱいある、一件が断っても別に行くところあるからね。
今は病院サイドにばれてないから問題になってないけど、最初の版、医師名が実名で出ていたやつが残ってたら普通に診療拒否ありうるレベルだからな?
はてブも今は過疎ってるから、ひところの勢いがないからバレてないけど。
こんなクソみたいな当たり屋が来るなら、初版を魚拓とって病院に通報、診療拒否方向に動くべきだったわ。
Amazon の欲しいものリストをくっつけているところとか、この病気をネタにしてお金を稼ごうとしているのが見えるわけ。お金を稼ごうとする時って当然センセーショナルにしますよね。「悪性度の低いカルチノイドで命の危険は全くないよ」って書くより、希少がんで明日もしれない、みたいな書き方にしますよね。そんな中でこういう配慮は足りてないところを見ると、実際よりもセンセーショナルに書こうと、誇張してそうに見えるわけ。そういうのは医療サイドから見たら害悪でしかないの
聞いたことない→聞いたことがないことについて暫定的に事実とみなしておく→その仮定では相手が言ってることはどういうことになるか?→自己紹介の可能性がある
ということだが?
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リングに上がってるという認識はあるだろあんだけ相手をアスペだのダブスタだの言って論理的部分に突っかかってるんだから
それでも認識がないなら私みたいにはっきりそう言えばいい。
そうでなきゃ暫定的にリングに上がってるとみなされて勝ち負け判定されてもそこに文句を言うのは筋違いだと思う
→自分の方が正しいと思ってることに対して第三者からも同意が得られれば溜飲が下がる
否定されることも覚悟の上だしその場合もそれが意見として参考になって自分の論理的思考力にフィードバックされるんでデメリットばかりじゃないと思ってるから。
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竹島問題について客観的に理解したいので、 日本側の主張だけでなく、アメリカ製AI(ChatGPT)と中国製AI(DeepSeek)で相互チェックをしながら結論をまとめました。
※この2つのAIは、日本語で政治に関する質問をしても、言語による偏りなく、中立的な立場で回答すると説明しています。
ただし、韓国は「争いは存在しない」と主張し続けており、裁判への付託を拒否しているため、国際法的な最終判断には至っていません。
現状は、韓国による長期的な実効支配と、日本の継続的抗議が平行して続く「未解決状態」が固定化されているのが実情です。
ChatGPTとDeepSeekが、主要な歴史資料を相対的に評価しました。
国際法の一般的な基準(信頼性・一貫性・国際法適合性・判定力)を参考に双方の主張の影響力を記載しています。
5. サンフランシスコ平和条約(1951年)
下記内容もChatGPTとDeepSeekは正しいと返答。その上で上記内容となりました。
「東京に住んでいない俺がどこで文化を享受しているか」の記事で1,400以上のブックマークを獲得するなどしている投稿者。
特徴的な文体を持ち、過去・現在にわたって同一人物が書いたと推測できる記事が複数存在する。
なお「出水市増田」という名前は暫定的な仮称であり、過去に出水市に関する記事を投稿していたことに由来する。
下記一覧は投稿者本人による情報ではなく、文体の特徴をもとに筆者が推測したリストであり、真偽は不明であることに留意されたい。