はてなキーワード: 逆差別とは
最近の流行りの映画やTVシリーズときたら、中身がないどころではない。
あれは世界全体の価値観のコンパスが壊れ、社会が完全にサイコ化した結果の、汚らしい産物だ。
自己陶酔的な映像の垂れ流しは、もはや自己放尿レベルの、どうしようもない醜態だ。
いや、制作者と視聴者がお互いの糞尿を讃え合うダブル放尿の図、と言い直すべきか。
我々が今消費している「エンターテイメント」は、人間の業や社会の矛盾をえぐり出すどころか、三つの致命的な病に侵され、脳味噌が腐った結果の映像化だ。
一つ目の病、そして最も悪質な癌細胞は、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」が逆差別の権化へと変質したことだ。
かつては「不当な差別を是正する」という建前だったものが、今や「差別者(白人男性とされる)を罰する」という集団リンチの道具に成り下がった。
物語における「公正さ」は、冷徹なロジックや真実の追求ではなく、「弱者と定義されたグループを常に善とし、それ以外のグループを悪役、愚者、あるいは無能として配置する」という、幼稚で露骨な加点・減点法に置き換えられた。
その結果、何が起きるか。ストーリーの必然性やキャラクターの有機的な成長は無視され、配役や設定がまず「ポリコレのチェックリスト」によって決定される。
優秀でカリスマ的なリーダーは、特定のマイノリティから選ばれなければならない。従来の主人公像、例えば白人男性などは、無能な脇役か、過去の過ちを悔い改める象徴としてしか描かれない。
これは、物語の毒気を抜いたのではない。物語そのものを、政治的なプロパガンダの道具として捻じ曲げ、特定の層への「逆差別」を公然と行うという詐欺行為だ。
この歪んだ手法の結果、生み出されるキャラクターはステレオタイプな正義感にまみれた、薄っぺらい張りぼてとなり、観客の心に響くはずがない。
二つ目の病は、世界規模の承認欲求の暴走であり、三つ目の病は社会全体のサイコ化だ。
コンテンツは、「誰かに褒められるため」に設計された空虚なパッケージと化した。深みも葛藤も、真の痛みもない。
あるのは、「私たちは正しい」という安っぽい自己満足だけだ。さらに、この感情の鈍麻したサイコな時代では、人々は感情の機微ではなく、過剰な暴力や極端な設定というジャンクフード的な刺激を求める。
ポリコレという名の検閲棒で殴られ、創造性を失った制作者は、その空虚さを埋めるために、表層的なショックや混乱を物語にぶち込む。
障害者の地域移行っていう以前からの流れで、「障害者という負担をどう処理・分散すべきか」ってこと。
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もし逆差別をしないのだったら自閉症者を殺人犯として処刑しますっていうことで、排除をどう合理化するかって話。
障害者を殺すのはいいんだけど、また「育てた家族の責任」になりやしないか。(平成道徳時代になってもずっと言われてきたこと。)
職場で「生理休暇」を取る女性が増えてきてるんだけど、正直、不公平感がすごい。
「生理はつらい」「動けない」って言うけど、それって個人差あるよね?
実際、同じ部署のAさんは毎月生理でも普通に働いてるし、Bさんは月イチで急に「お腹が…」って言って早退。
あれ、偶然?いや、なんかズルくね?って思ってしまう。
一方で、男はどうだ?
腹痛だろうが頭痛だろうが、「体調不良で早退します」と言えば「気合いが足りない」扱い。
それって逆差別じゃないの?
でも体調に合わせて柔軟に働ける社会を作りたいなら、男女問わず「今日はちょっとしんどい」って日を申告できるようにすべきじゃない?
他の人に仕事を押しつける構造が当然になってるの、正直キツい。
フェアじゃない。
こんなこと書くと「女の敵は女」とか「男性社会が〜」とか言われるかもしれないけど、平等を本気で考えるなら、特権には自覚が必要だと思う。
でも生理って言っとけば免除される、って空気を作ったら、結局それって、本当に困ってる人たちにとっても逆風になるんじゃないの?
まず初めに断っておくと私は参政党支持者ではないし、排外主義者でもない。
中国人の友人もいるし、お付き合いしていた方もいる。
どちらかといえばリベラルに近い考えを持っていたし、世代ではないけれどブルーハーツの青空のような歌詞に共鳴してよく聞いていたこともある。
それでも、はっきりと言える。
日本は決して“日本人ファーストの国”ではない。それどころか「中国人ファースト」の国になっている。
なりつつあるのではなく、既にもうなっている。
つい先日都内の住宅街を歩いていると前から酔っ払いの外国人女性が突然殴りかかってきた。
女性であることはわかるが力士のような巨漢で、支離滅裂な言動で何語かも不明だが叫んでいる。
私は逃げようとしたが殴られると同時に押し倒され、そのまま髪の毛を捕まれ、何度も頭を地面に叩きつけられた。
手に持っていたスマホは投げ飛ばされ、バリバリに割れたスマホの画面から必死で110番を押して、近くのコンビニに助けを求めた。
しかし、店員の外国人は私を無視して押し返し、酔っ払いの仲間がコンビニまで迫ってきた。
警察が到着するまでの10分ほどは本当に殺されるかと思い、恐怖で手足が震えていた。
警察に後から聞くと、どうやら相手は中国人で泥酔状態だったらしい。
警察は特にその加害者を遠ざけることもなく、血まみれの私を見ながら「こんなことで110番しないでよ」と冷静に言った。
そして、警察官はまだ何か叫んでいる女性を拘束することなく、血まみれの私に対してこう言ったのだ。
ありえない。
私はただ路上で歩いていただけで、女性に触れることもなければ会話すらしていない。
しかし、中国人女性がそう言っているということで逮捕もせず、双方取り調べになった。
警察官はしきりに「中国人だから仕方ない、中国人はこの辺多いからよくあるんだよ」と取り調べ中にめんどくさそうに言い、
「中国人だから意味ないと思うよ。あなたが何も被害を訴えなければ、このまま収めるからどうする?」
しかし、警察署の中ではじめての取調室で警察官に反論できるわけもなく、血まみれの私が加害者扱い。
そして中国人女性は拘束を受けることもなく、そのまま釈放して帰宅したとのこと。
後日、何度も警察に被害届を提出したい旨を訴えるも一向に動かなかったため、弁護士から訴えたところ、ようやく半年経って防犯カメラの解析が始まった。
もちろん防犯カメラには一方的に暴行を受け頭を叩きつけられる私、猥褻行為などあるわけはないどころか、私は一切手すら触れてない状況がそのまま映っていた。
ちなみにその後はというと相手方からは私が中国人差別したからやったなどとまた虚偽の弁明があり、示談交渉をお願いされた。
拒否するつもりだったのだが警察は女性を不自然なまでに擁護し、担当の外国人犯罪専門の女性警察官から相手が反省してると私に連絡があった。
私は身内に警察、法曹関係者もいるのだが、通常警察や検察官が示談を勧めることなどは絶対にありえないと聞いていた。
ありえないはずのことが身に起きていた。
もしかしたら、たとえば警察が書類送検した際の書類などを検察官が見て、不起訴になる可能性が高いと判断したのかもしれない。
検察官がそのような姿勢であれば不起訴の可能性が高いということで、弁護士にも強く勧められたため弁護士費用のこともあり、泣く泣く示談することとなった。
これは東京の繁華街が近くにはあるものの、普通の住宅街での出来事である。
中国人がただのなんの落ち度もない一般市民に暴行し、中国人の出鱈目な嘘で逆に冤罪加害者にされそうになり、警察も検察官も、味方である弁護士ですら事件をまともに扱わない。
・中国人に殴られ
そんなの一部だけ、たまたまだと思われるかもしれない。
外国人犯罪は減っているというデータを持ち出して反論する人もいるかもしれない。
だが、それは不起訴・放置されるからカウントされないだけではないか?
警察官は「中国人は面倒」と本音をこぼし、事案そのものを畳もうとする。
だから、警察は捜査しても無駄な事件、中国人絡みの事案は重大事件でもない限り、できるだけ穏便に済ませたい。
中国人優遇というわけではなくとも、中国人ということが判明してからはずっとめんどくさそうな態度が続いていた。
めんどうだからと言ってこんな対応をし続けるなら、日本は「中国人には逆らうな」という無言の圧力を受けているのと同義である。
もちろん韓国人や他のインバウンド客、在日外国人にも問題を起こす人間はいるし、日本人だってそうだろう。
しかし、単なる住宅街で酔っ払っただけで普通の市民に暴力を振るい、酔いが覚めて示談交渉の段階になってもなお差別だなんだと叫び徹底的に自己弁護に走る人間がいる。
それが犯罪としてデータに残ることもないし、そういう人間と共存していかなければならない。
そういうデータに残らない無数の犯罪の多くは外国籍の人物によるものであり、その大部分が中国人であるというのは現場の警察官はよく理解している。
中国人は確実に日本を侵食し、特に近年は日本の大学、企業、生活に取り入り、文化や構造自体を徐々に壊し始めている。
少し前の話であるが、私が当時在籍していた大学にいつ頃からか目に見えて中国人留学生が増えていった。
そんなに簡単に入れる大学ではなく、入試も難しく日本では指折りのブランドのある大学ではあると思う。
同じ入試を受けて入っているはずなのにどういうルートなのか留学生の中でもダントツで中国人が増えてきたのだ。
しかし、何故か一切大学側は調査を進めることはなく、学生融資団体が調査をしたところ、
某海外有名大学出身であることも、日本の難関大出身であることすら全て虚偽であったのだ。
しかし、そのことは公表されることもなく、その教授によって招聘された多数の教員、学生もそのまま在籍を続けている。
これは無名大の話ではなく、日本の国家予算がふんだんに入った国会議員や総理大臣を多数輩出する伝統ある日本の有名大学での話である。
また転職して中途入社した某外資系企業にいたときは同期入社の半分が中国人で、プロジェクトチームの同僚10人中8人が中国人であった。
彼らは日本の有名私大を卒業し、日本にある外資系の大手企業に新卒や中途で入ってくる。
当時のプロジェクトでは日本の政府系システムの業務支援を扱っていたが、こんな国家の中枢に関わる事業を外資系企業、
しかも中身はほぼ中国人で構成されたチームで行っていいのかと疑問に思ったが、
少しでも中国人や外国人に対して口を出すことはリベラルな外資系大手企業では、重罪であった。
ちなみに日本人の上司の目の前で中国人の同僚同士が中国語で上司の悪口や日本をバカにする会話を普通にしていたこともある。
お付き合いしていた中国人女性いわく中国人は中国大好きだし、本気で習近平を崇拝しているし、日本を敵視しているのが普通らしい。
中国にずっといる中国人や旅行客は特にそうで、在日中国人のことをバカにしているし、日本人には考えつかないぐらい日本に対して偏見に満ちた憎悪を抱いている。
だから日本で生まれ育った彼女のような客観的に中国を見れる人間にとっては、日本のほうがよほど居心地が良いのだという。
多くの中国人はhypothetical enemyである国の構成員に他ならない。
そんな人たちが日本にわんさか訪れて、移住を進めているのが現在の日本だ。
しかもそんな日本を敵視して習近平を崇拝している中国人もわずか来日して5年経てば帰化して晴れて法律上正真正銘の日本人となる。
ある大手マスコミ関係の企業にいた頃は何故かだいたい部署に必ず一人ぐらいの割合で金さんや李さんがいた。
どちらかといえばリベラルな価値観を当時は抱いていたのでたいして疑問には感じてなかったが、よくよく考えると、
取引先の出版社やTV局にもやたら中国や韓国に偏った考えを持った人間が多かったように思う。
ネットのよくある陰謀論の類かと信じてなかったが、実際に自分が入社するとあまりの左寄りの姿勢や在日中国人の多さに驚いたぐらいだ。
差別や偏見はよくないと教育され、グローバル化に迎合することが是とされる社会においては、
高学歴や大手企業に入るような恵まれた環境に属するようになればなるほどリベラルな考え方が多くなるように、大学でも会社でも外国人と共存し、リベラルな価値観に囲まれてきた。
特に知的でありたいとする人間やコミュニティであるほどに保守的な思想や価値観はダサいし危険というやんわりとしたレッテルを貼られ、口に出すことすら日常でタブー視される。
LGBTへの容認やグローバリズムに対する賛同などリベラルな思想はどんどん口に出すし、そのような姿勢に対する同調圧力も蔓延している。
固有名詞はあまり出したくないが東大や早慶のようなブランド大学になればなるほど、特に内部にいると中国人留学生に対して驚くほど寛容なシーン、
アファーマティブ・アクションという名の優遇を目にすることとなるし、現在一昔前に比べて異常なほどこれらの大学に中国人は多い。
大学でも企業でも今日本にいる中国人ははっきりいって逆差別と言えるぐらい優遇を受けている。
しかし、やはり日本人をバカにし、日本の文化を破壊し、日本人を見下し暴力を振るうような連中と共存なんてできるわけがないだろう。
まだ手遅れではないという政治家もいるが、私はもう手遅れではないかと思う。
もう日本にやってくる中国人は心底日本をバカにし、見下していている。
インバウンド景気などという政治家もいるが、実態として今来ている中国からの旅行客の大半は安いから来ているだけだ。
実際に高級ホテルには中国人客は皆無と言っていいほどおらず、ドンキやドラックストアに溜まり、安いビジネスホテルに大量に押し寄せている。
彼らの一人は日本人でいっぱいの満員電車を見て中国語で差別的な言葉でこう言っていた。
中には日本に対して友好的な考えを持っている一部の人間もいるが彼らがどれだけ日本人を嫌い、敵対しているか。
これは中国人と日頃から仕事やプライベートで接していればよくわかることだ。
上野や浅草には中国人専用のクラブや飲食店が多数あり、日本なのに日本人が入れない 禁足地が都内には激増している。
電車で中国人家族が叫び散らかそうとも、スーツケースを座席に山積みしようとも、めんどくさがって駅員も注意はしない。
日本の国家システムを扱う重要プロジェクトの多くが外資系企業に業務委託され、プロジェクトメンバーの大半が中国人であっても政府は気にも留めない。
日本の民法キー局や三大出版社に多数の中国人がいて重要なポジションについていても、誰も問題視はしない(既に数十年と続いた文化なので、本来注意する側も同族だったりする)
日本人が路上で暴力を振るわれても警察も検察もまともに扱わないし、不起訴になるので結果として外国人犯罪は激減している。(数字上)
リベラルがどうとかもはや関係なく、中国人に対する規制は必要だと思う。
けれど、もう手遅れだ。
日本人ファーストという普通のことを言っただけで、過剰なまでに叩かれる。(アメリカでもフランスでも海外で自国ファーストを唱える政党は与党であるし、極めて普通のことだ)
中国語を覚え、中国人とともに難関大学の受験を潜り抜け、中国人と共に学び、中国人と共に日本の国家機密を扱い、中国人と共に日本の悪口を言いながら仲良くなり、中国人とともに日本を貶めるために働き、
私はこれからも生きていくために同僚の中国人と日本人から金を搾取するゲームや日本の根幹に関わる国家システムを扱うだろう。
中国人差別なんて絶対に許さないという顔をして、たとえ路上で突然殴ら顔面を打ち付けられて殺されそうになっても、中国人店員に助けを求めて無視されても、にこやかに示談に応じるだろう。
朝の通勤電車で、今日もまた最悪のロシアンルーレットに負けた。
ドアが開き、人の波に押されるように車両へ入った瞬間、鼻に直撃するあの匂い。
湿気を含んだ酸っぱい汗、古い雑巾のようなシャツの匂い、頭皮と足と生乾きタオルを混ぜたような、あの“男のにおい”。
でも誰にも届かない。なぜなら、その臭い本人はまったく気にしていないからだ。
でもこっちは気づいてるんだよ。しかも鼻だけじゃない、脳まで侵されるくらい。
もう限界だ。いい加減、「臭い人だけ隔離される車両」を作ってほしい。
女性専用車両があるのなら、なぜ「スメルハラスメント回避車両」があってはいけない?
体臭は暴力だ。顔に向かってスプレーでも吹きかけられてるようなもんだ。しかもそれが30分続く。
朝から気分が悪くなって、会社につく頃にはHPゼロ。生産性以前の問題だ。
駅の改札に「においレベルチェックゲート」を設置して、一定の基準を超えたら「申し訳ありませんが、こちらの車両をご利用ください」と、静かに誘導すればいい。
ゾーニングしようと言っているだけだ。香水が強い人に文句が出るのに、なぜ体臭は許される?
「差別だ」とか言う人が必ず出てくる。
でも待ってほしい。その論理でいくなら、満員電車で誰かの口臭に耐えて吐きそうになっている人間の苦しみはどうでもいいのか?
言い方はいくらでもある。でもとにかく、私たちはもう限界なんだ。
臭いのは仕方がないこともある。
でも改善しようともしないで周囲に迷惑をかけることを、なぜ“個性”で許すんだ。
各鉄道会社は女性専用車両は名称に女性専用と付いているだけであって、その実態的運用では「障害者男性や乳幼児連れの男性の利用も可能としている」ことから、女性専用車両は女性が獲得した女性の権利ではなく、女性だけが占有しても良いものではないということを理解すべき
そもそもこの女性専用車両は一部のリベラル主義者から「女性を一部車両へ隠す運用によって性被害を減らすというのは本末転倒である」や「本来自由を制限されるべきは性犯罪者であり女性を隔離する運用は逆差別である」「女性専用車両は伝統保守や純潔思想に染まった一部の左派の合意によって運用が始まったものであって、正当には優先席の運用延長線上で優先車両と名付けるべきである」と指摘されている
「女性専用車両は女性だけのものではない」ことを進歩的な都会、三大都市圏が率先的に表明し、日本全体へリーダーシップを取っていくべきだ
友人が女子枠を使おうとしている。特定回避のため大学名と学部は明記しないが、難関国公立大学のうちの一つである。
彼女は賢い。日々懸命に勉強しているし、必死に努力している。しかし、女子枠が逆差別の仕組みであることは理解していない。いや、しているのかもしれないが、そのことに言及をしたことはない。
彼女はその大学に入学するに値する人物だと思う。真面目だし、理系分野への好奇心も旺盛だ。一度も大学に行ったことのない私がこんなことを言うのはおかしいのはわかっているが、彼女はきっと、真摯に勉学に励む大学生になると思う。
しかし、女子枠を使おうとしている。彼女が女子枠についてどう考えているかわからない。多分、受験できる機会が増やせるなら受けておこう、ぐらいの気持ちだと思う。
それは受験戦略として正しい。金持ちのボンボンや嬢ちゃんが私立大学乱れ打ちをするように、彼女は生まれ持った女性という性別を使って受験しようとしているだけだ。
友人が女子枠を使おうとしているのを知った時。私はそれを肯定してしまった。
受験の機会が増やせるのは良いよね、◯◯オリンピック頑張ってたもんね……
女子枠を使おうとしている賢い友人への落胆を振り払うように、私は女子枠を使うことを後押しした。
女子枠を使って入学した友人のことを想像する。私も含めた、世間の人が想像するような「女子枠」女子にはならないだろう。苦手な社会や国語から解放されて、自分の好きな化学について存分に学ぶ姿が想像できる。
まぁ私は大学に入学したことがないので、あくまでもすべて想像に過ぎないのだが。
まだ彼女が女子枠を使うと確定したわけではないし、使ったとて必ず受かるわけでもない。
それでも、「女子枠」を使った友人を肯定しながら、女子枠を非難することは許されるのだろうか。私は一生、彼女を「女子枠」だと心の奥底では思って接してしまうのだろうか。
悪いのは制度であり、使う人ではないのだ。そう自分に言い聞かせながら。
なーんちゃって⭐︎
女子枠だろうと指定校推薦だろうと一般だろうと受かれば全部一緒。それを人格にまで当てはめて考えるのは愚かしいことだよね⭐︎
あ、ちなみに東京医科大学の女子及び浪人生一律減点には賛成しています。当該者だったら死ぬまで恨むだろうけれど、私は医療サービスを享受する側の人間なので、女性の比率が増えるにつれて不都合が起こるなら減らしてもらった方が良いです。減点じゃなくて少ない人数を取る方式にすればよかったのにとか思うところはあるけれど、私立だし、別に良いんでない?
女性のAED問題や、札幌の介抱わいせつ逮捕事件、草津町長冤罪事件、乳腺外科医冤罪事件、東京科学大の女子枠など、それはおかしいだろってニュースが多く、それをChatGPTに放り込んでいったら、論文を書いてくれたので、残しておきます。
こんな文章、自分のSNSでさえ好評を憚られるので(白饅頭さん、小山(狂)さん、YSさん、めるめるさんなど、こっそりいいねをつけることはありますが)、匿名で置いておきます。
近年、ジェンダー平等が公共政策や教育、メディアにおいて繰り返し謳われている。しかしその内実は、多くの場合「女性の支援」に集中し、男性の負担構造は温存されたままである。とりわけ、社会的に弱い立場に置かれた男性にとって、日本社会はますます生きづらい空間となっている。本論文では、このような「名ばかりの平等」が構造的男性差別として作用している実態と、それに対していかにして制度的・倫理的な修復が可能かを考察する。
現代日本のジェンダー政策には、以下のような非対称性が存在する:
これらの構造は、男性を常に“責任主体”とし、女性を“支援対象”とする社会通念と制度に支えられている。
この非対称性に異議を唱えると、「女性蔑視」「ミソジニー」「差別主義者」として社会的に制裁を受けることが多い。特にアカデミアやメディアにおいては、フェミニズム的価値観が事実上の「検閲装置」として機能し、構造的男性差別の指摘自体が“語ってはならないタブー”と化している。言論の自由が奪われたとき、制度の歪みは修正される術を失う。
日本学術会議をはじめとする学術機関は、本来ならば中立的・客観的な知見から社会に提言を行うべき立場にある。しかし実際には、特定の思想(反防衛・反資本・フェミニズム)への傾倒、公費による活動にもかかわらず説明責任の欠如、政策的実効性に乏しい提言と、過去の誤りに対する訂正や謝罪の欠如といった問題が指摘される。アカデミアが公的影響力を持ちつつも責任を取らない構造は、制度腐敗の典型例である。
草津町長冤罪事件は、「被害者の声は信じるべきだ」という道徳的スローガンが、誤った断罪と社会的抹殺を生む構造になりうることを示した。虚偽申告によって一人の町長の名誉が踏みにじられたにもかかわらず、その加担者(著名フェミニスト・支援団体)は誰も責任を取らず、謝罪もしていない。このような「信じることによる加害」は、責任の不在という最も危険な社会病理である。
多くの若い男性が、「いくら論じても無駄だ」「一度、社会が壊れるしかない」と口にする。これは厭世的感情ではない。むしろそれは、真剣に向き合い続けてきた者の“最後の倫理的選択”である。責任を負わない者が公的空間を占拠し、声を上げた者が沈黙を強いられる社会において、崩壊は“沈黙の報復”であるとも言える。
本稿は、制度的男性差別の構造とその背後にある言論の抑圧を記録し、たとえ社会が崩れても、理性が語っていた証拠を残すために書かれた。今、構造を変える意志を持つ者がいなくても、いつかこの記録が再建の素材となることを願う。
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペしてプロンプトを書くだけ、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
「文化資本の有無や多寡、それによって子供の将来がどうのこうのみたいなくだらない価値観に重きを置いてる親なんていないよ」という意味じゃないかな。
たとえば、「SNSのフォロワー数が人生のすべて、みたいな、くだらない価値観とは無縁だよ」などのような意見と似てると思う。
「東京の子と違って、子供のころに野山を駆けまわったとしても、塾なんて行かずに公立高校から東大にだって行けるよ」みたいな逆差別(?)にさえ近いかもしれない。
それが真であるかどうか(文化資本が大事かどうか)は別問題だとしても、トラバ君が懸念しているような、
「田舎の親は馬鹿だから、文化資本が子供に与える影響なんてまったく知らずに、のうのうと子育てしてるよ」みたいな差別的発言ではないから安心してほしい。
この件について。
そもそも、愚痴を言ってヨシヨシしてもらえるのって、何かしらの見返りを期待されているからなんですよね。
男性もキャバクラに行けばヨシヨシしてくれるし、上司と部下みたいな関係であっても、ヨシヨシという感じではないにせよ全肯定されるわけです。そして、これが女の場合は、有り体に言ってしまえばマンコなわけですな。
ただ、キャバクラはそれほど安くもないし、毎日通う人はあまり居ない。上司として偉ぶれるのはある程度の年齢を重ねないとできない。しかし、女のマンコの価値は若いほうが高いぐらいなので、スキルも経験も金も精神的成熟も無いメスガキを、チヤホヤして愚痴を全肯定してくれる理解ある彼くんが無限に登場するわけですな。
こっちの増田では、愚痴を肯定的に傾聴されることで、他責性が高まり一層社会性を損なう指摘がされている。
この増田のとおり、若くて未熟な女にそんな愚痴の全肯定を浴びせかけたらどうなるかって言えば、そりゃあスポイルされちゃうわけですよね。そうやってスポイルされて、世の中舐めるようになったアホ女が蔓延しているのが今の社会なので、いくらエンパワーメントだクォータ制度だ女子枠だとやったところで、量産型小保方とか量産型草津のしょこたんみたいなのが蔓延する結果にしかならんよね。
まあしかし、私は別に世の中がどうなろうが、アホ女が分不相応な待遇で身を持ち崩そうが、若手の男どもが損しようが、別に知ったこっちゃねぇので、会社じゃニコニコと逆差別に邁進しますわ。
近年、社会では「多様性を尊重しよう」という声が高まり、あらゆる場面でダイバーシティを推進する取り組みが行われてきました。もちろん、それ自体は素晴らしい精神だと思います。人種や性別、宗教、性的指向など、それぞれの違いを認め合うことは、人として基本的な姿勢と言えるでしょう。しかし一方で、この「多様性の尊重」がいつしか「多様性を強制する」形へと変質してきたのではないか、と感じるようになりました。まるで、異なる考え方や価値観を持つ人を全員一様に「正しい方向」に導くために圧力をかけられているかのような空気――そんな窮屈さを感じる局面が増えてきたのです。
そのような状況下で、ドナルド・トランプという人物が大統領として登場し、大きな注目を集めました。トランプ氏は政治的に正しいとされる言葉遣いや、既存のエリート層が好む“立派な建前”にあまり縛られない傾向があるため、非常に賛否両論を巻き起こしました。メディアによっては「過激」「差別的」「無知」など、否定的な言葉でレッテルを貼られることが多くありました。しかし私にとっては、彼の言動や政策には、これまで社会の空気によって押し付けられてきた「多様性の強制」から逃れるための一つの突破口が含まれていたように思えます。
そもそも、多様性というのは「自然に尊重される」からこそ意味があるもので、無理やり徹底させようとした瞬間に、その本質を見失ってしまうのではないでしょうか。たとえば企業の採用や大学の入学枠などで、一定数の人種や性別の人を割り当てる“クオータ制”は、多様性を担保するために取り入れられる仕組みの一つです。しかし、数合わせのように実施されることでかえって逆差別を生んだり、「実力ではなく属性で優遇されているのでは」という疑念を周囲に抱かせる要因にもなる。結果として、本来目指していたはずの「真の平等」からは遠ざかっていく――そんなジレンマを強く感じていました。
もちろん、差別や偏見はあってはならないものです。しかし「多様性」という言葉がある種の道徳的な棍棒として機能し、少しでも異なる考え方を示す人を一方的に“狭量”や“保守的”と断じてしまう風潮は行き過ぎだと考えます。「こうすべきだ」「こうあらねばならない」という圧が強くなると、人々は本心を言い出せなくなり、自らの思考を萎縮させる結果になるでしょう。誰もが同じ価値観を採用しなければ「人として劣っている」とみなされる――そんな社会はむしろ不健全です。
トランプ氏の政策には、たしかに従来の政治手法から見れば急激な変化をもたらす要素が多々ありました。入国管理の強化や、世界の軍事・経済問題に対するアプローチは、国際協調を重視する立場から見れば乱暴に映る部分もあるでしょう。しかし一方で、政治的・社会的な大義名分を強要してきた空気を一度壊そうとする姿勢には、ある種の“解放感”を感じました。「こういう言い方はしてはいけない」「このグループを批判するのはタブーだ」などと、言葉狩りのような圧力が強まっていた時代に、“言いにくいこと”をはっきり言う人が登場したことは、私にとって一つの転機でもあったのです。
トランプ氏の言動は、単に過激なショーでもなければ、差別を助長するだけの発言とも限りません。たしかに彼の発言に反発を感じる人もいるでしょう。しかし、私が重視したいのは「自分の頭で考え、自分の価値観を持って生きる」という一点です。多様性を大切にするという大義名分を利用して、人々の考え方や言葉遣い、さらには採用・昇進など社会システムにまで、特定の“望ましい”基準を一方的に押し付ける風潮には、どうしても反発を覚えてしまいます。トランプ氏は、そうした空気を「正論で塗り固められた建前社会」として切り裂き、自由に発言できる余地を取り戻そうとした人だと私は解釈しています。
私自身が彼のすべての政策や言動に賛同しているわけではありません。しかし、“多様性”という美辞麗句を盾にして、誰もが同じ価値観に従わなければならないような状態は、おそらく本当の意味での多様性とは呼べないはずです。トランプ氏が大統領になったことで、社会全体に「自分の意見をはっきり言ってもいいんだ」「皆が同じ方向を向いていなくてもそれはそれで構わないんだ」という空気が広がったように感じられます。それは、一部の人には居心地の悪い変化だったのかもしれませんが、私にとってはようやく肩の荷が下りるような安堵にもつながりました。
多様性を尊重することと、多様性を強要することはまったく別物です。真に多様性を認め合う社会を目指すのなら、「違い」を許容しようとする前に、そもそも「人は違って当たり前だ」という前提を受け入れる必要があるでしょう。いくつもの意見や価値観が混在していることこそが自然な状態であり、それらを無理に一方向へ収斂させようとすることこそが不自然だと考えます。トランプ氏の存在によって、私はこの不自然さから「解放」されたように感じるのです。自由にものを考え、自由に表現できる――それが本来のアメリカの姿であり、そして世界が学ぶべき姿なのではないでしょうか。
だからこそ、私は「トランプのおかげで多様性の強制から解放されて幸せだ」と言いたいのです。もちろん、一人ひとりが抱える背景や価値観は違うので、必ずしも私の感じた解放感を共有する人ばかりではないでしょう。それでも、少なくとも「違う意見を持っていてもいい」という当たり前の事実を取り戻すことができたのは、彼の“強引ともいえる行動力”があったからこそだと信じています。自分が思う本当の多様性――それは、全員が同じルールや価値観に縛られるのではなく、各々が自らの考えで行動できる余地が残されている社会。そんな社会を築くためには、言いたいことを言う自由を奪わない姿勢が欠かせません。私は、その方向性を改めて示してくれたトランプ氏の存在に、素直に感謝しています。
その1→https://anond.hatelabo.jp/20250120181528
だが改めて読んでみると元増田の書き込みはかなり問題がある類のものなので指摘する。
まず、世田谷=リベラルという思い込みはどこから来ているのだ?これは「世田谷自然左翼」@めいろま等に影響されたものではないのか?だとしたらかなり愚かだ。彼女は数年前まで「日本はクソ、国際的感覚が無い」とアジっていた出羽の守の自称国連職員(バイト)でルサンチマンで教導する天才のようなものだ。天才すぎて暴動扇動の流布に加わってしまい、国外追放に怯えて投稿を全削除していたくらいだ。
住民エゴではあるが都市計画などで自分の不動産が影響を受ける際に反対するのは当然の権利だ。勿論公共事業であればそれも限度があるが、その要求は計画の進捗によって変化するし温度差も変わってくる。
その辺り勘案する事も無く一律に「反対運動」一面で塗りつぶした認識でいる事に奇異の念を抱く。奇異と言ったが、ネットではそれが普通で判らない事=平板なルサンチマンをぶつけていいものとされてしまう。だからネット議論なんかに惑けていると何も知らない幼稚な人格になってしまうのだ。数千万円の財産と子供の転校が掛かってくるというようなことを念頭に考えているのだろうか?
元増田の文は「反省するリベラル」の構文になっている。「自分はリベラルだが」と前置きしてリベラル批判をするという体だ。
この構文は以前はかなり大量に増田に投稿されていた。だがその多くは削除されている。
これはその文章に問題があるというのではなくて、他の投稿文がまずくてアカウントごと削除されたと推測される。同時期に弱男系の男vs.女、男逆差別、ウヨサヨの何れも対立煽り、暇アノン系名誉棄損などの投稿が消えていたからだ。つまり現実との接点も無しに対立煽りするのが大量投稿されていて同じアカウントがその一つとして反省するリベラル構文を何度も投稿していたという事である。
元増田はこれらを見て釣られて「反省するリベラル」という主体で書いたのではないか?
そもそも小田急沿線の複々線工事反対がリベラル運動というのが意味不明な筋書である。だがここに「世田谷自然左翼」「反省するリベラル構文」を投じると余りに廚な筋が通ってしまう。どこ見てんだよ元増田。「オーバーヒートした」と整備工場に車持ってきた客の前でドアを触って「冷たいですよ」と言ってるみたいな事してるぞ。
元増田は文章によると20代のようだが、見ている場所が致命的に悪いと思う。
制度や社会情勢を参照したり収用や地上げの経験(他人のものも含む)を参照すべきところでネットの底辺の平板な共通認識を参照している。言っておくが、その状態を続けると他の人が嫌でも経験して認識に蓄積するものを何も蓄積せずに、「何だコイツ」と思われるような30代40代になるぞ。はてなに結構いるだろそういうの。
私鉄の複々線化=特々積立金は取っ掛かりになる情報だが他の事でもそう言うのが一切無いままで居てしまうのだ。そしてそういうユーザーに対してはネットは永遠に「そのままでいい」と言い続ける。
増田の思考の中心には「リベラルは社会的な羈束に拘らずに思考行動するもの」「それを批判する自分はメタ的な視点を持つ」という思い込みがあるのを指摘しておく。その自分は単に自分の「想像上のリベラル」の上に立っているだけだ。反成長である。だから自分の考えが取るべき現実との接点を取っていない事に気が付かない。