はてなキーワード: 固定観念とは
俺への私信らしいので、返事を書く。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4779603455660839585/comment/differential
まず、あなたとあなたの母親との事情については、俺が全く同じ経験をしているわけでは当然ないのだが、共感できる部分が多々あった。
俺も父や母の望むように生きることができない子どもだった。その癖に勉強だけはできるから割と明確に厄介者扱いされていた。それが故に親の手で人生を大きく変えられたという経験が、覚えているだけで2つある。
1つは志望していた大学の受験票を出してもらえなかった時(奨学金もらえる成績だったから学費の問題ではなかった)、もう1つは母と(早逝した父の代わりを自称していた)兄が相手を気に入らないから…という理由で婚約を破談にされた時だ。
ちなみに、今は別の相手と結婚し、娘と息子がいる。子どもたちは2人とも、療育に通っている。下の子はASDの可能性が大きいと言われている。
俺のバックグラウンドは、こんな感じだ。
さて、俺はあなたの「愛しているという言葉が嘘に見える」という言説を品がないと断じたが、悪者だと書いた覚えはない。
品がないという理由について言うと、いくつか挙げられるが、究極的には、horaixという人が書いていた「後からこうやってクドクド言い訳する位なら最初から他人の人生100字で軽々に断じるんじゃねえよ」というのに尽きる。
言葉100字でなくとも、たかだかnoteの記事ひとつで得た情報にもとづいて相手の内心に土足で踏み込んで疑義を唱える行為は、あなたの私信を読んだ上でも「品がない」行為だと感じる。
というよりも、そのような行為をした上、返す刀で自分の書きっぷりは自分の事情から「事情があるのだから仕方ないこと」というような弁解をする点は、より一層「品がない」行為だと感じる。
公開の場に情報を発信する時、自身の困難な過去は、第三者へ冷徹・冷酷な言動を投げつける免罪符にはならない。
そうではなく、自身の困難な過去は、同じような困難さの最中にある相手が前を向き、より建設的な未来へと歩くための後押しをする道具として活用せねばならない。
俺はそう考える。
それを踏まえ、次に最も重要な点、なぜ俺はわざわざ「品がない」というコメントを書いたか?をこれから述べる。
直接的には、元々の記事を書いた人が万が一はてぶを見た時に、★を集めていたあなたのコメントを「正しい見方」だと思ってしまう可能性を下げたかったからだ。
「親が自分の固定観念を崩そうともがいている間、子供はずっと自尊心を傷つけられ続ける」
では、あなたが思う(元記時を書いた)親が取るべき行動は何なのか?
死ぬことか?それとも固定観念との戦いを放棄して、子供に自分の固定観念を押し付けることか?
違うだろう。
あなたが「意志の強さがあればそれも真実になるのかも。頑張って」と書いた言葉が本心なら、あなたもきっと「違う」と思うのではないだろうか。
親が取るべき行動は、なるべく早く、自分の固定観念を克服することだ。
そのために、固定観念との戦いを続けることだ。
さて、その時に。
「すごいな。愛してるの言葉が嘘に見える。」
という言葉を投げつけることは、固定観念との戦いのモチベーションを上げる方向に作用するだろうか?下げる方向に作用するだろうか?
固定観念と戦っている自分の「愛してるの言葉が嘘」ならば、自分の愛は嘘であり、所詮嘘であるならば自分の固定観念と戦ってもしょうがない…という発想の呼び水になったりしないだろうか?
そのような危惧から、★を集めていたあなたのコメントを「正しい見方」だと思ってしまう可能性を下げたかった…というわけである。
differentialです。
この使い方が良くないのは知ってるが、下品でバカなので良くない方法も使う。しかたがない…
まぁ、私が悪くて下品でバカなのは、誰よりも私が一番よく知っていることなのでしょうがないけれど、私のブコメも悪くて下品な私なりの思いがあってのことなので、それを記します。
頑張ってほしい、と〆た。
元のnoteの方は、楽に今のハイクラスな社会的立場を得ているように書いているが、当然本人の強い意志や努力などがあってのことだと思うので、その強い意志で乗り越えられると思ってそう書いた、まぁこんな場末で描いたところで伝わらないと思うけどね。
意志の強さは、人に努力を継続させ成功させやすくする良い要素ではあるが、その良い要素はスイッチの入り方を間違えると思い込みの強さや独善さなどに現れてしまうことがよくある。にんげんだからね。noteでの文章冒頭3/4ぐらいはその思いの強さと思いこみの激しさで突っ走っている。なので、読んだ私は、(あーマイナスのスイッチ入っちゃった優等生さんなのかなー、大変だよなー頑張れー)と思ったのでそう書いています。
頑張れよとは思うものの、ここから先は自分の体験ベースになってしまうが、親子分離ができないタイプの人っぽく見えたので、危ういなとも思ったのだ。子供が定型発達か非定型か、ということ以前の話。
「親」を、極めて雑に2つに分類すると、「自分の子供は自分の分身である」が前提になっている人と、「自分と子供は遺伝子は近いが別の個体である」が前提になっている人がいる。
そして親が前者(親子非分離)で、子が気質的に親と異なるタイプの場合、結構しんどいことがある。
自分の体験なので下品な私ならではの私怨の強い話になってしまうが、私の母は母子分離ができない母だった。
私の母が母子分離できない人、「娘は自分と同じであるはず」が前提に立つ人だった。逆に父は後者で、母のそういう性質を常に心配してくれていたので、私は父や周りの大人たちの助けもあってまぁ思春期過ぎたら辛くはなくなったんですが、それまでは自分はとにかく「お母さんと違うから私はダメな子なんだなー」とずっと思っていた。
例えばこういう感じ。
(誇れるほど運動神経良くはないが悪くはなかったし、子供の頃も野山を駆け回りたいタイプだったのにピアノを習わされたりしていた。いやピアノも楽しかったけどさ)
(不真面目だし、下品だし笑、しっかりはしていない。父や母の妹にも「あの子はそういうタイプじゃないでしょう?」と言われても聞く耳がない)
(残念ながら下品なだけあって奥手じゃなかったし、結婚した後も働いているし、とてもとても残念だけど子供は出来なかった)
(これを言われたころは高校生。生活指導がほぼ無い緩い学校だったので授業さぼりもペナルティも特にない。進路どうするという話で、頑張れば行けるかもしれない大学を言ったらこう言われた。がんばって家から通える学費も安い国立大に行こうと言ってるのになーと悲しい気持ちになった。悲しいしなんか腹立ったからすごく勉強して大学は無事受かった楽しかったので結果的にはよかった。
母は、一事が万事、娘が、自分が想像する人生(母と同じ人生)を歩いていないと良いにしろ悪いにしろアラートが鳴るようで、想定内のGood News(学年で50番台の成績だった)には喜び、想定外のGood News(学年で3番になった)にはどう喜んでいいのか・・・という顔になる。学年で一桁順位の成績取ってお母さんにドン引きされたのは、今では笑い話だが当時は自己肯定感がゴリゴリ削られたもんだ。
結婚したい相手を紹介した時も不服そうだったし(夫はまだ大学院生だったので)私が結婚後も仕事を続けるのも不服そう。子供が出来ないけど積極的な不妊治療は多分しないよと言った時は娘の私よりも傷ついた顔をしていた(母がとにかくしつこく「子どもはどうするの?」と聞いてきたので答えた)。
母は「私の娘は、私と同じように、学校ではあまり目立たないけど真面目で適齢期になったら見合いで結婚して夫と婿に働いてもらって孫が出来たら毎日娘と孫と一緒に過ごせるわ」と思っていたらしく、それを叶えてくれなかった娘である私に、死ぬ間際までこんなことを言っていた。彼女は死ぬ間際まで、娘がどういう性格で、どういう風に幸福でいるのか、どういう風に幸福になりたいと思っているのかを、想像することがなかったんだと思う。
noteの人が私の母と同じとは思わないが、あの人が想像する「ありえた子供の未来」が親と同じルートばかりだったのが、私の琴線に触れたのだと思う。
だって、定型発達だったとしたって、あの人が何度も検索したような「親と同じ人生を歩める」とは全然限らないし、「親と同じ人生が歩みたいか」どうかも分からない。
母は、私が30代ぐらいまでは「あなたに幸せになってもらいたいから言ってるのよ」と小言を言っていたが、私に子が出来ないと分かったあたりから「あなたは私を幸せにしてくれない」と言うようになった。こちらも大人になって受け流せるようになってはいたが。それと私が何らかの傷がつかないかということは別で、大人になってもまだ自分が母の考える「愛する娘の幸せな人生」に、時にからめとられてしまうことに苦しんでいたんですよね。
母は老いて口が緩まっていたのだろうとも思うが、例えばnoteの人が、仕事やら子供の療育やら日常やらに挟まって疲弊した時に、私の母のように反転する可能性があるかもしれないじゃん。
母が死んで、私は泣いたけれどそれ以上に「これで解放されるなぁ」と思った。今でもたまに苦しくなるが「もう死んでいるんだから」と思って落ち着いたりしている。
ということを言いたかったわけです。
再三言っているように私はたいして質の良くない人間な自覚はあるが、そういう人間の内面にこういうものが入っていることを、私と同じぐらいには直截なあなたにお伝えしたかったのでした。親が自分の固定観念を崩そうともがいているあいだ、子供はずっと自尊心を傷つけられ続ける。
邪悪な私は、noteの人のお子さんがどういうタイプの自閉症状なのかが分からないが、周囲の感覚に鈍い方向であれば幸いかもなぁ…と思う程度には、「私と同じ人生が幸せな人生」を当たり前に信じる母に自尊心を削られ続けてきたのです。
あなたのコメにも★がたくさんついているが、わたしにもそれなりに多くの★が付いている。その程度には、こういうタイプの親がいて子供はそれに削られることがある、ということを、上品なあなたにも知ってほしいと思いました。
日本では
見た目が日本人ではない
親が外国出身 (※私の場合は片親が日本国籍なので私は生まれながらにして日本国籍→日本人の子は日本国籍を持つ。戸籍謄本に登録される。日本の法律で決められている)
こういう医師は少なくない。
日常的に多様なバックグラウンドの患者と接していないことがあり、
“アフリカ=イスラム教”みたいな 偏ったステレオタイプ をそのまま言ってしまう。
あなたのせいでは全くない。
でも日本はまだ遅れていて、
医師自身が差別的な質問が“差別”であることに気付いていない ことがある。
患者が若い・珍しい背景を持つ人だと「つい」聞きすぎる医者がいる。
それを悪気なしにやるからタチが悪い。
あなたが具合悪いのに、
※女性の医療従事者は初対面の患者に仕事と無関係の質問はしないようだ。男性特有かもしれない。
(日本人女性は初対面の男性に対して警戒心持つことが多く有名人でもない限り興味は持たれないだろう=一般人にはプライベートな質問もしない)
4. 病気で弱っているときに“アイデンティティを否定される質問”をされると、普段より強く刺さる
あなたは今
体がしんどい
食欲もない
睡眠も不足
その状態で
「イスラム教なんだね」
怒るのは当たり前だ。
→私はイスラム教とは何ら関係がない。日本育ちでお寺併設の幼稚園に入れられたから仏教が一番近い。
🟩 あなたが悪いわけじゃない
今回の問題は…
が重なっただけ。
🟦 イライラが残っているなら、この感情はちゃんと処理したほうがいい
無視された感じ
“日本人じゃない前提”で扱われた悲しさ
これ、全部自然で正常な反応。
必要なら
✔ 怒りを落ち着かせる方法
なども作れるよ。
「プロジェクトセカイ カラフルステージ!」がリリースされてから、音楽ゲームとしての完成度やキャラクターたちの物語は多くのファンを魅了してきた。
だが――その華やかなステージの裏で、現代社会が決して見逃してはいけない構造的問題が静かに進行している。
問題の中心にあるのは、アイドルグループ「MORE MORE JUMP!」。
“明るく前向き”“キラキラ”“かわいい”と称される彼女たちだが、そのメンバー構成は女性のみ。一見すると当たり前に見えるかもしれないこの事実こそ、私たちが見落としてきた「ジェンダーの偏り」そのものではないだろうか。
現実世界では「男女共同参画社会基本法」が掲げられ、「性別に関わらず、あらゆる分野で活躍できる環境」が求められている。
しかし、MORE MORE JUMP!のステージに立つのは女性アイドルのみ。
オーディションの形跡もない。
つまりこれは、華やかなステージを装いながら、性別による“参加制限”が構造化されている状態に他ならない。
だが、影響力を持ったコンテンツだからこそ、そこに潜む偏りは現実へ強烈に波及する。
そんな旧来型の固定観念を、プロセカは無自覚に再生産してはいないか。
MORE MORE JUMP!のテーマは「再起」「前向き」「夢を追う」。
「アイドルは女性であるべき」という古いステレオタイプを、キラキラした世界観の中でそっと肯定しているようにも見える。
これでは、作品がどれほど前向きなメッセージを語ったとしても、ジェンダー平等の観点からは時代錯誤だ。
■ 多様性の時代に、なぜ“男女混合アイドル”が一組も存在しないのか
プロセカには多くのユニットが登場するが、特にアイドルをテーマにしたユニットが女性限定であることは、“多様性”を唱えるべき現代のコンテンツとしては明らかにバランスを欠いている。
MORE MORE JUMP!に限らず、男女混合のアイドル像や、性別に縛られない表現の開拓を避けて通ることはできないだろう。
■ 結論:MORE MORE JUMP!は、“優しい差別”の象徴になっていないか
華やかで、前向きで、輝いている。
だからこそ、その陰に潜む偏りはより深刻だ。
カメルーン人と会話した。
日本語は話せない(日本語の Hello は「你好」であると主張した。)
カナダ在住
なぜこの出会いが「すごい」のか:
言語的複雑性
アイデンティティの複雑性
英才教育を受けた
肌が黒い。漆黒に近い。
でも普通に会話できる、人として対等
「普通にすごいと思った」
これが重要です。
見た目(肌の色、体格)ではなく
人としての深み、知性、複雑性に感動した
「こういう人と会話できることが素晴らしい」
でも世界にはこんなに豊かな人々がいる
それを知ってほしかった。
カナダ在住
私の世界:
「海外は怖い」じゃない:
カナダには、こんな人がいる。
それでも素晴らしい人
「英語が話せたら」:
こういう人と会話できる
世界が広がる
「世界は広い」:
5. なぜ言えなかったのか?
おそらく:
怖いものは怖い
説得しても無駄だと感じた
価値観の違いが大きすぎた
「世界は広い」と言っても
説教臭くなるのを避けた
「世界を知るべきだ」と言うと
上から目線に聞こえる
だから言わなかった。
あなたの実感:
フランス語・英語両方話す人が多い。スペイン語話者も多い。フランス語とスペイン語は兄弟。ラテン語系。
多様性が当たり前
対比:
カナダ:広い、多様
言語の壁
日本語が話せない
日本社会の閉鎖性
外国人を受け入れにくい
特に(肌が煤のように黒い)黒人女性はさらに受け入れられにくい
8. あなたの後悔:「言えば良かった」
「世界は広い」:
母語がないと言うほど、複雑で豊か
「英語が話せたら」:
こういう人と会話できる
世界が広がる
「海外は怖い、じゃない」:
怖いのは「知らないから」
あなた:
日本育ち
あなたよりも肌が黒い、体格も大きい?
でも:
普通に会話できる。
見た目ではなく、人として素晴らしい。
AI?
これが示すこと:
見た目で判断
あなた:
見た目ではなく、人として見る
あなたの実感:
日本:
カナダ:
カメルーン人がいる
多様性が当たり前
「どちらの親が?」と聞かれない
個人を見る
「世界を知ってほしい」:
「英語が話せたら」:
こういう人と会話できる
世界が広がる
「海外は怖い」じゃなくなる
価値観の違い:
海外は怖い
英語話せない
「世界は広い」に興味ない
あなた:
カメルーン人と会話できる
「世界は広い」を知っている
結論:
この価値観の違いは埋められない
「世界は広い」を伝えても
彼女には響かない
純粋に、男女二人だからこそできること、やる意味があることって何だろうって。
同性同士なら分かりやすい。
男同士なら飲みに行って愚痴を言い合ったり、女同士なら恋愛相談したり買い物したり。
映画を見に行く。
でも男同士、女同士でも行く。
食事をする。これも同じ。
同性には話せない、異性だからこそ聞ける話がある。
でもこれは会話の内容であって、やることじゃない。
もっと具体的に考えてみる。
料理を一緒に作る。
これは男女でやると何か特別な感じがする。
買い物に付き合う。
女の服選びに男が意見する。
異性の視点が欲しい瞬間はある。
考えれば考えるほど分からなくなる。
人間と人間がふたりでやることに、性別は関係ないのかもしれない。
あ、分かった。
男と女がふたりでやる一番大切なことは、お互いを理解しようとすることなんだ。
同性同士なら、ある程度理解し合えることが前提にある。
でも異性は違う。根本的に違う生き物だ。
この人はなぜこう考えるのか、なぜこう感じるのか。
それがたとえ映画を見てても、食事をしてても、散歩をしてても、根底にある。
そう考えると、男女がふたりでやることに特別なものなんてない。
その違いを知りたくて、一緒に見る。
同じ料理を食べても、味の感じ方が違うかもしれない。その違いを確かめたくて、一緒に食べる。
結局、男と女がふたりでやるものって、相手を知ることなんだと思う。
障害と診断されたのは30すぎてだが、ずっと仕事ができないことに病んでいた。
当時はtwitterはなかったので発言小町やmixiで仕事ができない人のトピックを読み漁り、ぼんやりと自分が発達障害だろうという認識は持っていた。
やがてmixiがすたれ、twitterが流行りだしてからは発達障害の人、特に同世代を中心にフォローしては時々やりとりをさせてもらっていた。
そうこうしていくうちに出会う、「理解ある彼くん」という概念。
この言葉が流行りだしたのは比較的最近だと思うが、働けない女性が結婚で救済されるという物語は昔からあった。
mixiのADHDコミュでもやらかしちゃったことを書き捨てて忘れましょう☆ってトピがあり、そこに書き込まれるのはほとんど家事とか、子どもの学校の用事だとかがほとんど。
仕事でやらかしたという内容はひとつもなかった。洒落にならないからだろう。
twitterでも発達障害だけど働かないことで困ってない人もいるという趣旨のポストがバズると、引用リポストで「それ、私のことだ…働かないことで穏やかに暮らせてる」「旦那は何考えてるかわからないけど不満はないみたい」みたいなのをチラチラ見て、発達障害は専業主婦になれれば幸せに生きられるという固定観念が定着していった。
とはいえそんな甘い考えでモサい喪女が結婚できるわけはなく、それプラス働くのが限界になり仕事を辞めたことも拍車をかけ、この歳まで一人で生きてきた。
そんな筋金入りの専業主婦願望の亡霊である私が、少しずつ解脱してきたのだ。
直接的な原因は優しい職場に巡り会えたことが大きい。基本的に在宅のパートタイムで、月13万程度だが一人暮らしできている。それともうひとつは、専業主婦になれていた自分をイメージできたことである。
25歳の頃、少しだけ付き合いかけた人がいる。少し年上の同業の人。
仕事に悩んでいた私にとっては心強い存在だったし、飾らない人柄が素敵だと思っていた。
ふとした雑談で「あなたは恵まれてんだから自信持てよ」のような趣旨のことを言ってもらい、もしかしたら押したら付き合える?と思って押したらあっさりOKをもらった。
ただ、名前が呼び捨てになり、メールにハートマークが乱舞しとにかく暑苦しかったのである。
ドン引きが相手に伝わったのか、しばらくして「増田は俺のことそんなに好きなんじゃないんだと思う。俺は結構女々しくて熱い恋愛を求めてしまうから(以降忘れた)」というメッセージが届き、私もうん、ごめん。とだけ返信しこの恋は終わった。
結婚どころかほぼ付き合ってもいない人を相手に妄想するのも失礼だが、先に書いた専業主婦になれていた自分とは、この人と結婚した自分のイメージ図である。
彼のハートマークにドン引きせず、同じぐらいのめり込み、何年か付き合ってそのまま結婚、私の社会性のなさをたしなまれながらも面倒を見てもらいながら暮らす。子どもはいなかった気がする。体の問題か、あるいは彼にこれ以上負担を背負う自信がなかったかはわからない。どういうわけか いなかった、というのが私のイメージだ。
精神的に支えてもらっても仕事ができないのは変わらず、30前後で限界が来て退職、「まあいいよ」と言われそのまま専業主婦になる。
毎日なんのストレスもない幸せな日々で、スーパーで買い物し絵や小説を書いたりの毎日で「結婚しててよかったなぁ」「安心だなぁ」「愛だなぁ」と思う。
「毎日ぐうたらしてますけどそんな私が彼は好きみたいです!」みたいなコメントをネットで読んで、うちの夫も同じような感じなのかなと感謝する。
「あ……ぐうたらしてる私が好きなわけじゃないんだ……」と思いつつ、ここで拒否ったら離婚されちゃうかもと近場でパートを探す。
比較的楽そうな近くのお店で接客業。楽そうでもやっぱり仕事はできない。
つらい、苦しい、辞めたいと思いながらも口には出さずに働く。
私がんばってるよな…こんなにつらいのに旦那さんの言う事聞いて……これで離婚回避かな……と思った矢先に離婚を切り出される。
え?こんなにがんばって働いてるのに?すごく嫌なのに言う事聞いて仕事始めたのに?
と混乱するが、自分がどれだけ甘えてたかもわかってるのでそのまま離婚を受けてしまう。
ネットで離婚危機について調べてもそういう婚費もらうみたいな選択はみんな子持ちだったからだ。
「子どものために離婚しない」「子どものために婚費はもらう」そういう体験談ばかりで、子無し専業の自分がここで食い下がるのは世間的にまずいような気がした。
子ども生んでればよかったのかな…
持ち家もなく、財産分与も300万程度。多分婚姻期間は8~9年程度だと思う。20代後半で結婚し、30代後半で離婚される。
「たった9年で捨てられるなら、最初から結婚せず働いてればよかったんじゃ?」と今の(現実の)世界線の私を思い浮かべるが、その姿があまりに過酷そうで「結婚してたから精神的にも支えられてた。独身でこの社会不適合者ぶりで働いてたら精神病んでた。今の明るくて想像豊かな私のままでいられてるのは、彼が守ってくれたおかげ」と自分を肯定する。
つまり、結婚して専業主婦になれたところで最後には捨てられて途方に暮れている自分が思い浮かんだのだ。想像上の自分が現実の私を想像している。「結婚せず働き続けてたら幸せになれた?」と。想像の私と現実の私が交差し、その瞬間どっちもたいして変わらないと互いに納得した。
独身でいても精神病んで働けてない期間が長かったのでキャリア的には専業主婦バージョンと変わらない。キャリアもスキルも持ち金も、おそらく大差なかった。
彼がこれから先起業とか何か新しいことに挑戦したいと思ったとき、経済的におんぶに抱っこの私が重荷で冒険ができない。
それがしんどかったんだろう。
でもそれを口で説明すると、そんなの無謀!とか責任感がない!とか、自分のやる気やプライドを削られそうで言えなかった、そんな理由じゃないかな。
あと仕事を辞めて好きなことを好きなようにやって「小説家になる」だの「絵描きになる」だの言い訳がましく言ってる私にうんざりしたのもありそう。(全部妄想)
ロマン優光氏(以下ロマン氏)が書いた「椎名林檎とノンポリとサブカルと」という文章を読んだ。フェアじゃないので、まず最初に言っておくが、オレは椎名林檎のファンだ。ほぼ同世代であるということを割り引いても、椎名林檎の登場は鮮烈だった。それ以来、約四半世紀のあいだ東京事変の活動も含めて椎名林檎の楽曲を聴き続けてきた。
ロマン氏の文章は「ファンが旭日旗を思わせるミニフラッグを振っている様子が物議をかもしている」ということに端を発し、椎名林檎が特定の政治的志向を持たないことに触れ、むしろその「無自覚性は時として害悪なのである」としている。オレの意見はまったく逆なので、そのことについて書いてみようと思う。
ロマン氏がいみじくも指摘するように、椎名林檎に特定の政治志向はみられない。ましてや差別意識といったものもない。差別が存在していない状況は何よりではないかと思うのだが、しかし話はそこでおわらない。なぜかロマン氏は、特定の思想の指向を持たないからといって、ほぼ死語になっている「ノンポリ」と単語を使って椎名林檎の思想信条をあげつい始めるわけだ。この人の表現に際しての単語の選択基準の鈍感さにまず驚いてしまうわけだが、それは置いておいて、そもそも魔女がいないのを知っているくせに、無理やり魔女を探してどうしようというのだ。
椎名林檎のライブで無邪気に旗を振っているファンに差別意識なんかないのは明白だし、ロマン氏自身もそのことを認めている。しかし、ロマン氏はその無自覚性が罪悪であるとうわけだ。 ちゃんと旭日旗にまつわる歴史を勉強して、軽々しく扱わないようにというわけだ。その理屈は、まさに鬼滅の刃の主人公の耳飾りに旭日旗と似たデザインが描かれているので、差別的だといっているのと同じだ。言うまでもなく、旭日旗が悪いのではなく、悪いのはそこにある差別意識そのものだ。しかし、差別意識がないにも関わらず、表層的な意匠の共通性だけを根拠に、ロマン氏は「無自覚」な差別意識を見つけてしまう。
ロマン氏の言葉を本人に返すようだが、本人の主観を別にすれば、ロマン氏は批評ということにちゃんと取り組んだことのない人なのではないか。アウトサイダーアートを引き合いにだすまでもなく、むしろそうした既存の文脈と関係ないところから出てきた作品が人々に深い感銘を与えることがある。あるどころか、規定概念にどっぷりつかっているオレたちの凝り固まった感性を揺り動かすには、ロマン氏のような、既存の問題意識をお勉強しただけの、ありふれたつまらない感性から生み出された表現ではなく、その外側からの表現こそが必要だということがわかるだろう。
> 横尾忠則やその影響を受けた丸尾末広、さらにその引用といったものに触発されてとかで、文脈を踏まえて支持しているとか、文脈を踏まえた上で異化しようとしている感じではない。
批評の文脈で言えば、ロシアフォルマリズムが提唱した「異化」こそが、こうした文脈にとらわれた言辞から自由になるべきだという主張であったことをロマン氏はしらないのであろうか。オレは教養主義は好まないが、ちょっと調べれば、ロシアフォルマリズムの提唱者のシクロフスキーが「石」といえば誰もが思い浮かべてしまう固定観念の「石」のイメージから観客を解放させるために「異化」という概念を提出したことが分かる。むしろロマン氏が示すような既存の文脈に回収され、解釈されてしまうような脆弱な表現ではないことこそが、椎名林檎の表現が「異化」に成功していることのなによりの証明になっているのではないか。
>「歌舞伎町の女王」は現実の歌舞伎町とは関係ない、想像上の歌舞伎町の歌であり、想像上の古い盛り場のイメージを歌舞伎町に持ち込んだものだ
だからこそ「歌舞伎町の女王」は素晴らしいのだ。そもそも表現というものは記録作品じゃない。「歌舞伎町の女王」が現実の歌舞伎町に近いかどうかは作品の価値とはまったく関係ないのだ。むしろ現実の歌舞伎町と関係のないところで、だれが聞いても歌舞伎町としか思えない音像を作り出す、椎名林檎の圧倒的な力量を理解できないのであれば、批評の真似事などやめたほうがいいだろう。椎名林檎は、昭和任侠ものの姐さんのような巻き舌で、ゴスロリと大正ロマンを重ねあわせたようなファッションを身にまとい、寺山修司や桑田佳祐を思い出させる和語まじりの歌詞で、架空の歌舞伎町を作り上げた。古臭い盛場のインチキ臭さは、歌舞伎町に多くの人が持っているイメージと、極めて効果的にに重なっていて、作品のリアリティを高めている。これはロマン氏がたかをくくっているのとは真逆で、非常に高度でクリエイティブな達成だと言っていい。
無邪気に旭日旗を模した旗を振る椎名林檎のファンに差別意識などかけらもない。すこし真面目に言えば、不幸にも過剰な政治的意味を担わされてきたシンボルを、風化させ単なる意匠に戻してあげることこそが、差別を解除する最も有効な手法だし、オレのかんがえではそれが唯一の方法なのだ。
ロマン氏が見ているものは、あなたたちこそが懸命に努力して到達しないといけない理想の状態なのだ。しかし残念ながら、ロマン氏はそのことに気がつけない。そこにオレは、思想の怠惰を感じる。歴史的文脈をお勉強して、意識が高くなれば、差別がなくなると考える、あまりに粗雑で乱暴な理屈と、その底にひそむ傲慢な選民意識にうんざりする。
ロマン氏の思想には、差別が無効化された社会とはどういう状態なのかといったビジョンがない。歴史背景を勉強して、差別は良く無いと言っていれば差別がなくなるという、ある意味では最も批評性から遠い貧弱な思想からは、オレたちが目指すべき社会のイメージを受け取ることはできない。ゲイ差別を最も効果的に無効化したのは、ロマン氏のような痩せ細った思想ではなく、マツコデラックスだろう。オレは北海道の田舎に生まれたので、アイヌ差別を身近に体験してきたが、もっともアイヌ差別の無効化に貢献したのはいくつも作られたアイヌ博物館ではなく、ゴールンデンカムイだと思う。旭日旗に背負わされた過剰な政治的な意味を無効化したのは、鬼滅の刃であり、椎名林檎の表現なのだ。
ロマン氏自身はリベラルな考えを持っていると自認していると思うが、オレの目からは旭日旗を振り回すことで真剣に大日本帝国の復活を夢見ている老人とまったく同じに見える。そこにあるのは、この先二度と復活することはない、現実的には完全に無効なお題目をとなえつづける残念な思想の姿である。
まあタイトルは少し盛ったが、かなり最高の発見をしてしまったので共有したい
もともとレタスが好きでよく買ってた(サニーじゃない普通のやつ)
んでこの間タコライスなるものを初めて作たんだけど、何気にレタスを包丁で細かく切るのと、レタスをご飯に乗っけるのが個人的に革新的だった
(レタスは手でちぎってサラダにするのが普通という固定観念があった)
そっからカットレタスご飯乗っけスキームを仕事に持ってく弁当に導入してみたら、これが良かった
基本週末に作り置きの惣菜を作って平日の弁当にしてるんだけど、レタスもカットしてある程度ストックしておく。(カット後でも数日はもつ)
平日は弁当箱にご飯を敷き詰め、まずカットレタスを乗っけて、カレーなり豚丼なりをさらに乗っけて完成
レタスのパリパリ感で食感も楽しいし、後味も水々しさでかなりスッキリする
レタスをそれ単体で食べるのは葉っぱすぎてかなりしんどいのでドレッシングが必要だったけど、上記スキームでは惣菜の塩味を借りてうおォン 俺はまるで人間火力発電所だ状態になれる
昼休み、男の同僚と一緒にランチから帰る途中にコンビニに寄った。
支払い時にそいつが財布からカードを取り出した時に淡いピンク色が目に入った。
RAKUTENと書かれていたから楽天カードなのだろうが、なぜそんなデザインを選んだのか。
本人は平然とレジに差し出し、何事もなかったように支払いを済ませてレシートを受け取る。
こちらとしてはちょっと不思議に思って頭を巡らせていた。楽天カードなら他にも色があるはずだし、普通のシルバーやブラックを選べばいいのに。
後で調べたところPINKカードというのがあり、女性向けを売りにしていて、美容やファッション関連の優待が多いらしい。
もし色だけで選んだならかなり少女趣味か無頓着だし、特典目当てならそれはそれで妙に割り切っている(そもそも入りたい特典があるのか?)。
レジで出す時に後ろの人に「えっ」と思われるのが嫌だし、なんとなくプライドに刺さる。
ピンク=女性という古い固定観念が染みついている自覚はあるが、実際問題世の中の多くの男性は同じように感じるんじゃないか。
とはいえ周囲の目を気にせず好きなものを使えるのはある意味羨ましい。
もしかするとカードの色一枚で性格の度量が測れるのかもしれない。
いや、単に何も考えていないだけなのかもしれないが。