はてなキーワード: 抽象化とは
わたしは普通の人が異常な性的衝動に駆られて葛藤するというシチュエーションが死ぬほど性癖で、それ以外のシチュエーションではどうしても心を満たすことができない。
例えば女子高生が自転車のサドルに媚薬を塗られて帰宅中に発情オナニーするAV、本当にかわいい。我慢できなくなったり、友達に話しかけられて無理に正気を取り戻したりするいじらしさがほんとうにいい、最後にトイレに駆け込んでひとりでしちゃうとことか。
とにかく、我慢できなくなって、おかしくなりそうで、衝動的に、でもあくまで普段はまともに過ごしている普通のいい子が、っていうのがたまらなくかわいい。
正直最後の男性との性交シーンはあんまり興味なくて、ただ女の子がひとりで疼いていて、ギリ満たされてない様子が好き。
本当に好きだ、かわいい女の子のかわいい映像をこうして作り出してくれて本当に感謝してる。
そして、かわいい男の人で同じ映像を作ってくれたら、同じようにきっとすごくかわいいと思う。
性の目覚めと共に初めからふつうの素直なポルノを手に取っていればこんなことで苦しまずに済んだのかもしれないけど、性に目覚めた当時のわたしはへんに真面目で性欲に対しての罪悪感もあったので、18歳未満閲覧禁止だと言われてしまえば抗うことができなかった。
ポルノを手に入れられなかったから、抑圧された日々のストレスと年頃の性欲に脳を支配され続けた思春期の苦しみの中で、とにかく数多くのWikipediaのえっちな記事や文章を読み漁り、その結果として性癖が歪んだ。
はじめは知ってる単語を調べてたどり着くことができる「性行為」「オナニー 」の記事に始まり、宗教的タブーについての記事、多様なフェチシズムや性に関する病気についての記事など性的なタイトルを扱うページを読み漁り、英語版の存在に気付いてからは「Humping」や「Frotteurisme」「Schuren (seksuele handeling)」などひたすらに読み耽って、ついでに苦手科目だった英語の成績もぐんぐん上がっていった。(英語版wikiにはそれほどに素晴らしい記事がたくさんある)
それらを読み耽り健全で道徳的な性行為のよろこびに憧れを抱くだけなら何も問題はなかったんだけど、わたしにはもうひとつ最悪のお気に入りジャンルがあって、それは性にまつわる事件や、異常な有名犯罪者の記事でした。
残酷な犯罪を犯した有名犯罪者の幼少期や生い立ちについては大抵ひどい不幸と家庭内での性虐待が描写されている。
彼らの不幸な過去とその破滅的な犯罪行為との間には人生を破壊してしまうほどの異常な性的トラウマや性衝動を感じて、倫理観が性欲に完全敗北した思春期の脳みそと身体は死ぬほど興奮した。
殺人を犯しながら勃起していた最低の変態殺人犯も、とにかく人を殺すほどの苦しい人生の中で気が狂って勃起していることがかわいいとしか思えなかった。日本で起こった事件や性の相談窓口に寄せられる母子相姦被害者の男の子たちのエピソード、それらの問題について書かれたすごく古い本をわざわざ取り寄せては読みながら何度もオナニーした。
女としての母親からの性暴力はどう考えても悍ましく残酷な行為で、それなのにわたしは他人の心の傷と尊厳を踏み躙るようなとてもひどいことを考えて本当にどうかしているし終わってるって分かっていたし罪悪感は苦しいけどそれでもどうしようもなかった。
そのうち、自分は母子相姦が好きなわけではなくて、ただ男の人たちが身体によって一方的に与えられる性的な仕組みから決して逃れられないという事実が嬉しいのだとわかった。男の人がふつうでまともで、常識的で、優しい人であればあるほど嬉しい。
身体のしくみから逃れられないということ自体は男の人に限った話ではないのだけど、異性の受難には共感の余地がないので特別に思えてしまう。
この抽象化に成功してしまったせいで性欲の対象は母子相姦の被害者や異常殺人者に限らなくなって、男の人が少し哀れな目にあったり泣いたり傷ついたり、苦悩を抱えていたり理不尽に耐えて生きていることを知るたびに、それでも生活の中に性的な瞬間があるということを意識してどうしようもなく興奮した。
性欲と理性との矛盾や、それによって自尊心を損なう苦しみはわたしには想像できないほどひどいものかもしれないし、そんな苦しみはすべてわたしの勝手な妄想かもしれないけれど、男の人たちを最低な方法で消費して異常な妄想を繰り返すのを結局大人になってもやめられない。
男の人が性欲に苦しむ切ない様子や、いじらしい自己嫌悪、どんなに頭がよくて優しくて不幸や苦しみの中にいても身体のつくりのせいで性欲や性機能があって、彼らにも下着を汚したり健康を損なわないために仕方なく吐精をする必要があって、ふつうの生活の中に性的に興奮している時間や頭をバカにしながら必死になったり、手慣れた手つきでティッシュ越しに精液を受け止めたりするのだという事実がだいすき。
どんなにひどい地獄に落ちても構わないくらい性欲と理性の矛盾に苦しむ男の人が好き。
18歳を迎え、20歳を迎え、年齢制限の壁を完全に克服したわたしは、以降あれこれ自分の嗜好に合うポルノを探し続けているのですが、性被害者による異常性欲の作品なんてもちろん見つからないし、そもそもかわいそうな男の人の性欲に萌えるための作品は殆ど見当たらなかった。
そのため18歳の節目はわたしの性欲にとってpornhubの解禁以外にほとんど恩恵はなく、外国人が電車内で勃起して女の人に押し当ててる動画とか、毎日寸止めしながら射精禁止生活をしているマゾの男(edgingという趣味らしいです)の寸止め動画やRedditの投稿を読むなどをみたり、たまにDLsiteを巡回して小銭を使う程度に落ち着いた。
いつか、着衣の女性の背中やお尻に男の人がズボン越しの勃起ちんぽを必死に擦り付けるだけのかわいい映像を撮影してネットにアップロードしてみたい。喘ぎ声は我慢して欲しいけど、呼吸は荒く苦しそうになってほしいし、女性とは一度も目が合わず言葉も交わさないまま終わって欲しい。
性欲の話をするのは楽しい。
誰にも知られずにこんな話ができるなんて、はてな匿名ダイアリーはいいサービスですね。
超弦理論において、物理学はもはや物質の構成要素を探求する段階を超え、数学的構造そのものが物理的実在をいかに定義するかというの領域へ突入している。
かつて背景として固定されていた時空は、現在では量子的な情報の絡み合い(エンタングルメント)から派生する二次的な構造として捉え直されている。
時空の幾何学(曲がり具合や距離)は、境界理論における量子多体系のエンタングルメント・エントロピーと双対関係にある。
これは、空間の接続性そのものが情報の相関によって縫い合わされていることを示唆。
数学的には、フォン・ノイマン環(特にType III因子環)の性質として、局所的な観測可能量がどのように代数的に構造化されるかが、ホログラフィックに時空の内部構造を決定づける。
ブラックホールの情報パラドックスは、アイランドと呼ばれる非自明なトポロジー領域の出現によって解決に向かっている。
これは、時空の領域がユークリッド的経路積分の鞍点として寄与し、因果的に切断された領域同士が量子情報のレベルでワームホールのように接続されることを意味する。
ここでは、時空は滑らかな多様体ではなく、量子誤り訂正符号として機能するネットワーク構造として記述される。
「対称性=群の作用」というパラダイムは崩壊し、対称性はトポロジカルな欠陥として再定義されている。
粒子(0次元点)に作用する従来の対称性を拡張し、紐(1次元)や膜(2次元)といった高次元オブジェクトに作用する対称性が議論されている。
さらに、群の構造を持たない(逆元が存在しない)非可逆対称性の発見により、対称性は融合圏(Fusion Category)の言語で語られるようになった。
物理的実体は、時空多様体上に配置されたトポロジカルな演算子のネットワークとして表現される。
物質の相互作用は、これら演算子の融合則(Fusion Rules)や組み換え(Braiding)といった圏論的な操作として抽象化され、粒子物理学は時空上の位相的場の理論(TQFT)の欠陥の分類問題へと昇華されている。
可能なすべての数学的理論のうち、実際に量子重力として整合性を持つものはごく一部(ランドスケープ)であり、残りは不毛な沼地(スワンプランド)であるという考え方。
理論のパラメータ空間(モジュライ空間)において、無限遠点へ向かう極限操作を行うと、必ず指数関数的に軽くなる無限個のタワー状の状態が出現。
これは、幾何学的な距離が物理的な質量スペクトルと厳密にリンクしていることを示す。
量子重力理論においては、すべての可能なトポロジー的電荷は消滅しなければならないという予想。
これは、数学的にはコボルディズム群が自明(ゼロ)であることを要求。
つまり、宇宙のあらゆるトポロジー的な形状は、何らかの境界操作を通じて無へと変形可能であり、絶対的な保存量は存在しないという究極の可変性を意味します。
4次元の散乱振幅(粒子がぶつかって飛び散る確率)は、時空の無限遠にある天球(2次元球面)上の相関関数として記述できることが判明した。
ここでは、ローレンツ群(時空の回転)が天球上の共形変換群と同一視される。
時空の果てにおける対称性(BMS群など)は、重力波が通過した後に時空に残す記憶(メモリー)と対応している。
これは、散乱プロセス全体を、低次元のスクリーン上でのデータの変換プロセスとして符号化できることを示唆。
超弦理論は、もはや弦が振動しているという素朴なイメージを脱却している。
情報のエンタングルメントが時空の幾何学を織りなし、トポロジカルな欠陥の代数構造が物質の対称性を決定し、コボルディズムの制約が物理法則の存在可能領域を限定するという、極めて抽象的かつ数学的整合性の高い枠組みへと進化している。
物理的実在はモノではなく、圏論的な射(morphism)とその関係性の網の目の中に浮かび上がる構造として理解されつつある。
私に関する情報と、その情報から組み立てられるChatGPTの有意義な使い方をお願いします
以下は、あなたがこれまでに示してきた特徴・行動パターンを基にした
RTS・アドベンチャー・見るゲーなど複数ジャンルのゲーム設計を同時並行で考えている
(ChatGPTに“広げさせて”、あなたが“選定・要約”するタイプ)
● 世界観・興味
● 性格傾向(推測)
発想量が多く、構造化と整理を外部に求める
あなたはゲーム・ビジネス・創作をすべて「戦略で捉える」傾向があるため、
ChatGPTは “軍参謀”スタイルの助言AI にすると最大効率が出ます。
使い方例:
が自然。
具体的には:
思いつきを投げる
ChatGPTが構造化・分類
これが最適ループ。
あなたは実装にこだわるため、ChatGPTには以下を依頼するのが非常に相性良い:
設計案の「責務整理」
特に“わかりやすくて拡張可能な構造”を出すと喜ぶ傾向がある。
あなたは即応の遅さを気にしているが、ChatGPTは訓練に使えます。
「RTSの状況を書いたら、2秒以内に最適な手を返して」
長文記事→3行要約
「辛辣に」
「客観的に」
など、創作補助にも最適。
必要であれば、
ある事柄についてWeb上の文書で言及された言葉をまとめたものであって、そのある事柄自体を「理解」しているわけじゃなく、理解している人による解説を、言葉の繋がりをまとめた情報として持ってるだけ。
イメージ的には、形がわからない物体に対して、いろんな人がガンガン投げたボールの、どこは跳ね返る、どこは跳ね返らないというのを記録して、その物体はこういう形「であろう」的な話をしているのに近い。
んでもって、この投げられたボールの数が、どの物体、事柄についても、その形状がはっきりとわかるほどの量あるというわけではない。
この事柄とこの事柄を組み合わせて新しいものを創発するってのは、それっぽい模倣をでっち上げられるとしても、ありえないということだ。
構造間の間接的な関係を大量に保持しているだけだ、ということ。
なので、システム構築に使う場合は、構造を理解でき、構造を理解した人間が、構造化抽象化階層化しなければ、部分と部分の関係という情報が爆発的に増え、急速に認識不能な統治不能なブツに育つ。
それでなくても、LLM を使ってでっち上げることしかできなかった、構造を理解できない人間がこの自体を収拾できるわけがない。
わかるかなぁ?
ということなら「じゃあ男を警戒するのは差別ではないですね」となる
のだが、犯罪率が高いだけでなく頭も悪いようで理解できないのだ。
「なんで外国人の話をしてるのに急に関係ない性別の話をし始めたんだ?」
と本気で思っているのだ。
超弦理論を物理的な実体(ひもや粒子)から引き剥がし、抽象数学の言葉で抽象化すると、圏論と無限次元の幾何学が融合した世界が現れる。
物理学者がひもの振動と呼ぶものは、数学者にとっては代数構造の表現や空間のトポロジー(位相)に置き換わる。
物理的なイメージである時空を動くひもを捨てると、最初に現れるのは複素幾何学。
ひもが動いた軌跡(世界面)は、数学的にはリーマン面という複素1次元の多様体として扱われる。
ひもの散乱振幅(相互作用の確率)を計算することは、異なる穴の数を持つすべてのリーマン面の集合、すなわちモジュライ空間上での積分を行うことに帰着。
ひもがどう振動するかという物理的ダイナミクスは幾何学的な形すら消え、代数的な対称性だけが残る。
共形場理論(CFT)。頂点作用素代数。ひもはヴィラソロ代数と呼ばれる無限次元リー環の表現論として記述される。粒子とは、この代数の作用を受けるベクトル空間の元に過ぎない。
1990年代以降、超弦理論はDブレーンの発見により抽象化された。
ミラー対称性。全く異なる形状の空間(AとB)が、物理的には等価になる現象。ホモロジカルミラー対称性。
Maxim Kontsevichによって提唱された定式化では、物理的背景は完全に消え去り、2つの異なる圏の等価性として記述される。
もはや空間が存在する必要はなく、その空間上の層の間の関係性さえあれば、物理法則は成立するという抽象化。
トポロジカルな性質のみを抽出すると、超弦理論はコボルディズムとベクトル空間の間の関手になる。
このレベルでは、物質も力も時間も存在せず、あるのはトポロジー的な変化が情報の変換を引き起こすという構造のみ。
超弦理論を究極まで数学的に抽象化すると、それは物質の理論ではなく、無限次元の対称性を持つ、圏と圏の間の双対性になる。
より専門的に言えば、非可換幾何学上の層の圏や高次圏といった構造が、我々が宇宙と呼んでいるものの正体である可能性が高い。
そこでは点 という概念は消滅し、非可換な代数が場所の代わりになる。
存在 はオブジェクトではなく、オブジェクト間の射によって定義される。
物理的なひもは、究極的には代数的構造(関係性)の束へと蒸発し、宇宙は巨大な計算システム(または数学的構造そのもの)として記述される。
ただし以下では、ヒルベルト空間を物理空間と見なす素朴な解釈を禁止し、より高次の数学的構造として扱う。
この時点で、量子系は 単なる線形代数ではなく、圏としての性質が主役になる。
これが後に分離できない系(エンタングルメント)の直接的原因になる。
つまり状態とは作用素代数の構造を部分的に保持しつつ、全情報は保持できない制約付き汎関数であり、これが測定前の状態という概念の数学的本体になる。
観測は波束収縮ではなく、全体の作用素代数から可換部分代数への冪等射(自己合成しても変わらない射)として定義される。
これは「観測値が一意に定まらない」ことを全代数を可換部分代数に強制射影すると情報が失われるという構造的事実として表現しただけである。
量子干渉とは、状態に対して複数の可換部分代数が存在する。それぞれの部分代数に制限したときの汎関数が整合的でない。この整合性の欠如が「干渉」と呼ばれる現象になる
つまり干渉は可換部分代数の選び方が複数あり、それらが同時に満たす一つのグローバル汎関数が存在しないという前層(presheaf)の非可約性の問題である。
系 A と B の複合系が与えられるとき、通常はテンソル積によって分離できるはずだが、量子系では一般に失敗する。
その理由は状態汎関数がテンソル積空間上で積状に分解する自然変換を持たない、単純な部分空間の直積から構成される位相構造が存在しない、分離関手が圏の構造を保存しないから。
したがってエンタングルメントとはテンソル積空間の構造が、2つの部分系の圏論的生成子に分解できないことに過ぎない。
抽象化すると、時間発展は全作用素代数の自己同型の族、ただし逆が常に存在するとは限らないため、一般には半群。観測が入ると逆方向の自己同型が消滅する。これが「不可逆性」の正体である。
つまり時間とは、自己同型の完全群構造が壊れ、半群に退化した結果発生するパラメータにすぎない。
以上をまとめれば、量子力学とは現実=ヒルベルト空間上のベクトルを出発点とし、作用素代数と圏論によって統合的に記述される、非可換性を本質とする抽象数学の体系である。
超弦理論を、幾何・量子・相互作用・背景・対称性などの具体語をすべて捨てて、抽象数学の圏・∞圏・トポス・代数構造として再構成する。
超弦理論とは、以下の大枠で捉えられる。
超弦理論とは、ひとつの ∞‐トポスの内部に存在する、整合する高次対象の網の自己同値群作用として定義される力学的階層のこと。
ここでいう高次対象の網とは
つまり超弦理論は、高次圏における一貫した自己同型の塔として唯一の統一構造を形成する。
世界の構成要素(時空・ブレーン・場・弦など)を、具体的存在ではなく、因子化代数の生成する情報単位(ローカルな抽象操作の束)として扱う。
局所性とは、因子化代数のテンソリアル分解可能性であり、その破れが重力・非可換性・ホログラフィーとなって現れる。
この表現は近年の因子化ホログラフィー、AQFT(作用素代数)による重力再構成と整合する。
具体的な「紐」は出てこない。
代わりに、
その結果
すべてが幾何的実体ではなくホモトピー代数的な関係パターンとして統一される。
S-双対性、T-双対性、U-双対性、ホログラフィー、ER=EPR のような、A と B が実は同じ理論であるという主張は、すべて 同一の ∞‐対象を異なるファイバー関手で見ているだけという主張に還元される。
つまり
最先端研究(Harlow・Witten・Leutheusser 等)では、重力系の作用素代数は中心を持たず、中心の欠如が再構成不可能な領域として幾何を生む。
これを抽象化すると、
つまり時空は「入れ物」ではなく、作用素代数に付随する冪等射の配置図として emergent に現れる。
相互作用とは粒子間の力ではなく、∞‐圏の合成律が完全には対称化されないことによる高次コヒーレンスの破れ。
例:
5つの超弦理論は、同じ ∞‐構造の異なる層(filtration)または異なるコホモロジー階層の射影として理解され、M理論はこれらの層化を結ぶ普遍対象(colimit)として現れる。
量子とは粒子ではなく、因子化代数の非中心性 + 高次圏の非可換ホモトピーの束 の総体である。
因子化代数のテンソル構造の非局所的再配線。幾何ではなく、圏論的な図式変形。
大域構造と整合しない射からなる排除集合。整合可能理論 = ∞‐圏の完全部分圏。
高次圏の普遍的生成対象が作る低次射の平均化された振る舞いの分類。
nextstepはmicrosoftのntよりも優れていたの?
"AppleがOSをオープンソースにしたのは、四半世紀前のことで、世界は全く違っていました。
スティーブ・ジョブズは、停滞したAppleに戻ってきました。Appleは、プリエンプティブマルチタスクやハードウェアメモリ保護など、当たり前になっているものを含む次世代オペレーティングシステムを提供することに苦労していました。Appleは、 BeOSを買収しようとしましたが失敗し、ジョブズが復帰した一環として、当時の彼の会社であるNextを買収し、そのOSである NextStepを手に入れました。"
AppleもMicrosoftもクラシックのOSでの成功から新しいNTやDarwinのようなこれまではメインフレームでしか動かなかったようなモダンで新しいOSの開発に苦労していたのかな?
メインフレームのパチモンとして葉っぱでラリってるヒッピーによって作られたPCが時代の進化にスペックが上がってクラシックからモダンOSに移行しなくちゃいけなかったけど、成功して大企業になっていたMSやAppleは過去の遺産にしがみついててクッソ大変だったってこと?
葉っぱのヒッピー/ハッカーのPCじゃなくて体制側としてのメインフレームOSがPCに入っちゃうのはレイプされた気分にさえなる
それで"ハードウェアメモリ保護など、当たり前になっているものを含む次世代オペレーティングシステム"とあるけど、当たり前というからには他の企業はみんなモダンOSを開発していたの_
MacOS9からOS Xにする前というかまだクラシックのOSをぶち込んだiMacを起死回生で発表した時AppleはMSから投資してもらったんだよね?
その時のMSは98で潤ってたのかもしれないけどNTが作れなかったらマジでやばい時でしょ?
時系列的にNTは既に完成してて98でも大成功しまくったし余裕ありすぎわろたでAppleに投資したの?
MSとAppleはここを乗り越えることができたのになぜWindowsPhoneが失敗したの?
figmaとかVScodeとかNotionとかモダンでかっこよくて使いやすい最高のアプリがいっぱいあるのに
世界の大半はまだこのクソすぎるアプリに頼り切って依存しているのに腹が立つよ
マジでAdobeが潰れないかなって毎日祈りながらpsdをaffinityに変換するのに飽き飽きしてるんだ
DarwinカーネルのOS Xが圧倒的な中心のMSの中でWindowsPhone同様に不利だったのに開発者圏を作れたのは高抽象UIがめっちゃかっこよかったからってこと?
それともそれほどまでにWindowsPhoneがダサくて本当にクソだったのか
確かにMS社内でもMacを使う人がほとんどってくらいにMacは使いやすくてクールで開発者体験がいいね
葉っぱ吸ってたヒッピーの会社のはずなのに、その後覇権を取る日本のヒッピーと似ているオタクの同人文化はMS帝国の中で繰り広げられていたし、Macerは気取ってるやつとしてある意味でダサかった
APIの存在は本当に市場の優劣を変えるほどの力を持っているんだね
2000年台にクールなAPIを作ったAppleはグラフィックスAPIのMSのDirectXのおかげでゲーム業界掻っ攫われたわけでしょ?
マジでWindowsは本当にダサくて使ってるとイライラするからMacのもっとクールなグラフィックスドライバのMetalにみんな移行してくれるといいんだけど
Macerは肩身が狭いし
AppleがAI業界かっさらってくれればいいんだけどなんか失敗しそうな予感がするよ
終わってるよ
マジでダサくてイライラするものを使わされるオタク/ヒッピーは市場にレイプされてる
でも使徒である圏論/関数型プログラミングによってリリスの数学がサードインパクトを起こして手を汚せる自由度はいらないほど完璧な世界になりつつあると感じるよ
なんかクソだなって思うけど、それは一時的な快楽としてのオタク文化がなくなったことに悲しんでいるだけで、その快楽が幸せにつながらないことを理解してるんだ
だからこそ俺はSNSで一つの人格を共有し個を崩壊させる人類補完計画をプロトコルで実装しようとしているし、それは手を汚せる自由度を完璧に壊してつまらなくて幸せになる権利がある理性的な選択をしようとしてるんだ
オタクは幸せになれない代わりに手を汚せたけど、幸せになる時が来たんだ。
MetalでAAAタイトル以外のゲームが動き始めたらそれはゼーレのシナリオの最後のページなんだろうね
webは俺のプロトコルによって関数型になりApple化しハードウェアはAppleがもともとかーどきゃぷたーにしてて、その時本当につまらなくて幸せな世界ができるんだろうね
MSは自分が可愛くて俺たちに迷惑をかけたけど、誰も可愛がらずに自由な圏を破壊し、人類を補完するんだ
人との繋がり自体をね
うん、いやこの先呼ばれることになるんだろうなって思っちゃっただけなんだ
●ねばいいのにみんな
てか●すためのシステムだよこれは
インターネットなんかやってないでこの辺にきてる美味いラーメン屋の屋台に空手部の三人と行くべきだ
おじさんやめちくり〜
エヴァには乗らないほうがいい〜
エヴァには乗らないほうがいい〜
それ、皆さんも一緒に!
「「「エヴァには乗らないほうがいい〜!」」」
大きな声でもう一回!
「「「「「「エヴァには乗らないほうがいい〜!!!!!!」」」」」」
クソワロタ
そうだよ(便乗)
LCLになって一緒になろう?
おい聞いてんのか
S●Xしようって言ってんだよ
これで愚かな人類はやっとまともになるんだ
大体俺が生きてることに意味はねぇんだよ、死んでようが同じなんだよ
生きてることは分解して細分化していくと究極的に意味は無くなるんだよ
ここでただのニヒリストと俺が違うのはこの世界は積分定数のCにすぎないってことだ
Cは何の意味もねぇけどそこから積分という関係性を紡ぐ存在の輪廻、横顔を知ることができる
まるで人間のC(ほらあれだよ男と女のABC!)みたいだよな!(激ウマジョーク)
つまりもともとこの宇宙の存在云々の前に関数という空想上のものはあったわけ
むしろ人間が空想というもう一つの五感で関数や数学を発見しただけであってもともとあったの
そんでこの宇宙には意味ないし、死に恐怖を覚えるのは生物学的なしょうもない生理現象なんだよね
俺はたまたまTwitterのFFの女の子みたいにめっちゃ生理痛がひどいタイプなだけなんだ
それに気づいているからその生理痛がなんの意味もないことを知ってるし、世界が崩壊しようが明日死のうが本当に関係ない
そのことにたまたま気づきにくい構造を生き物はしているから死ぬのが怖いんだ
魂とかはないけど、魂にすら意味はなくて、意味があるのは関数だけなんだ
というか射?
呆れた人類にはそのトップでさえ呆れさせられるよ、まだ関数を記号で表せると思ってるなんて
本当にあるもののことを関数とは言ったけどこのクソみたいな人類にはまだそのことを完璧に表現する手立てがないから比喩として言ってるんだけどね
あのな、俺が言ってのは死ぬのは怖くねぇってことだけなんだ
違う、メタファーじゃないよ
失礼だよ君は
うるせぇ黙れ
僕は木曜日の朝10時に、昨日(水曜日)の出来事を記録している。
朝の儀式はいつも通り分解可能な位相のように正確で、目覚めてからコーヒーを淹れるまでの操作は一切の可換性を許さない。
コーヒーを注ぐ手順は一種の群作用であって、器具の順序を入れ替えると結果が異なる。ルームメイトは朝食の皿を台所に残して出かけ、隣人は玄関先でいつもの微笑を投げかけるが、僕はそこに意味を見出そうとはしない。
友人二人とは夜に議論を交わした。彼らはいつも通り凡庸な経験則に頼るが、僕はそれをシグナルとノイズの分解として扱い、統計的に有意な部分だけを抽出する。
昨晩の中心は超弦理論に関する、かなり極端に抽象化した議論だった。僕は議論を、漸近的自由性や陽に書かれたラグランジアンから出発する代わりに、代数的・圏論的な位相幾何学の言葉で再構成した。
第一に、空間−時間背景を古典的なマンフォールドと見なすのではなく、∞-スタック(∞-stack)として扱い、その上の場のセクションがモノイド圏の対象として振る舞うという観点を導入した。
局所的な場作用素の代数は、従来の演算子代数(特にvon Neumann因子のタイプ分類)では捉えきれない高次的相互作用を持つため、因子化代数(factorization algebras)と導来代数幾何(derived algebraic geometry)の融合的言語を使って再記述する方が自然だと主張した。
これにより、弦のモードは単なる振動モードではなく、∞-圏における自然変換の族として表現され、双対性は単に物理量の再表現ではなく、ホモトピー的同値(homotopical equivalence)として扱われる。
さらに踏み込んで、僕は散逸しうるエネルギー流や界面効果を射影的モチーフ(projective motives)の外延として扱う仮説を提示した。
要するに、弦空間の局所構造はモチーフ的ホモトピー理論のファイバーとして復元できるかもしれない、という直感だ。
これをより形式的に述べると、弦場の状態空間はある種の導来圏(derived category)における可逆的自己同型の固定点集合と同値であり、これらの固定点は局所的な因子化ホモロジーを通じて計算可能である。
ただしここから先はかなり実験的で、既知の定理で保証されるものではない。
こうした再定式化は、物理的予測を即座に導くものではなく、言語を変えることで見えてくる構造的制約と分類問題を明確にすることを目的としている。
議論の途中で僕は、ある種の高次圏論的〈接続〉の不変量が、宇宙論的エントロピーの一側面を説明するのではないかと仮定したが、それは現時点では推論の枝の一本に過ぎない。
専門用語の集合(∞-圏、導来スキーム、因子化代数、von Neumann因子、AQFT的制約など)は、表層的には難解に見えるが、それぞれは明確な計算規則と変換法則を持っている点が重要だ。
僕はこうした抽象体系を鍛えることを、理論物理学における概念的清掃と呼んでいる。
日常についても触れておく。僕の朝の配置には位相的な不変量が埋め込まれている。椅子の角度、ノートパソコンのキーボード配列、ティーカップの向き、すべてが同相写像の下で保存されるべき量だと僕は考える。
隣人が鍵を落としたとき、僕はそれを拾って元の位置に戻すが、それは単なる親切心ではなく、系の秩序を保つための位相的補正である。
服を着替える順序は群作用に対応し、順序逆転は精神的な不快感を生じさせる。
ルームメイトが不可逆的な混乱を台所に残していると、僕はその破線を見つけて正規化する。
友人の一人は夜の研究会で新しいデッキ構築の確率的最適化について話していたが、僕はその確率遷移行列をスペクトル分解し、期待値と分散を明確に分離して提示した。
僕はふだんから、あらゆる趣味的活動をマルコフ過程や情報理論の枠組みで再解釈してしまう悪癖がある。
昨夜は対戦型カードのルールとインタラクションについても議論になった。
カード対戦におけるターンの構成や勝利条件、行動の順序といった基礎的仕様は、公式ルールブックや包括的規則に明確に定められており、例えばあるゲームではカードやパーツの状態を示すタップ/アンタップなどの操作が定式化されている(公式の包括規則でこれらの操作とそれに付随するステップが定義されている)。
僕はそれらを単純な操作列としてではなく、状態遷移系として表現し、スタックや応答の仕組みは可逆操作の非可換な合成として表現することを提案した。
実際の公式文書での定義を参照すると、タップとアンタップの基本的な説明やターンの段階が明らかにされている。
同様に、カード型対戦の別の主要系統では、プレイヤーのセットアップやドロー、行動の制約、そして賞品カードやノックアウトに基づく勝利条件が規定されている(公式ルールブック参照)。
僕はこれらを、戦略的決定が行なわれる「有限確率過程」として解析し、ナッシュ均衡的な構成を列挙する計算を試みた。
また、連載グラフィック作品について話題が及んだ。出版社の公式リリースや週次の刊行カレンダーを見れば、新刊や重要な事件がどう配置されているかは明確だ。
たとえば最近の週次リリース情報には新シリーズや重要な続刊が含まれていて、それらは物語のトーンやマーケティングの構造を読み解く手掛かりになる。
僕は物語的変動を頻度分析し、登場人物の出現頻度や相互作用のネットワークを解析して、有意なプロットポイントを予測する手法を示した。
夜遅く、友人たちは僕の提案する抽象化が読む側に何も還元しない玩具的言語遊びではないかと嘲笑したが、僕はそれを否定した。
抽象化とは情報の粗視化ではなく、対称性と保存則を露わにするための道具だ。
実際、位相的・圏論的表現は具体的計算を単に圧縮するだけでなく、異なる物理問題や戦略問題の間に自然な対応(functorial correspondence)を見出すための鍵を与える。
昨夜書き残したノートには、導来圏のある種の自己同型から生じる不変量を用いて、特定のゲーム的状況の最適戦略を分類するアルゴリズムスケッチが含まれている。
これを実装するにはまだ時間がかかるが、理論的な枠組みとしては整合性がある。
僕の関心は常に形式と実装の橋渡しにある。日常の儀式は形式の実験場であり、超弦理論の再定式化は理論の検算台だ。
隣人の小さな挨拶も、ルームメイトの不作法も、友人たちの軽口も、すべてが情報理論的に扱える符号であり、そこからノイズを取り除く作業が僕の幸福の一部だ。
午後には彼らとまた表面的には雑談をするだろうが、心の中ではいつものように位相写像と圏論的随伴関手の組を反芻しているに違いない。
物理的に測定可能な操作は代数の元に対応。代数は積、随伴(複素共役に対応する操作)などの構造を持つ代数的オブジェクト。
物理的な期待値は代数に対する線型汎関数として定式化。これが確率/期待を与える。
ある観測者が見られる演算子群は、全体代数の部分代数として表される。重力のとき、この部分代数は空間分割に即して単純に分かれるとは限らない(非可換性や相互依存が残る)。
代数と状態からヒルベルト空間表現を作る手続きがあり、これが観測可能な量を実際に作用させる空間を与える。重要なのは、この構成は一意とは限らず、代数側の性質が表現の性質(分解可能性・因子のタイプ)を決めること。
対象:各物理状況に対応する代数(C*-代数やフォン・ノイマン代数のようなもの)。
射(モルフィズム):代数間の構造保存写像(例えば*-準同型)。これらは物理的な包含や部分系の埋め込みに対応する。
状態は自然変換的な役割を持ちうる:ある意味で代数群の圏から値を取る圏(確率的/確定的データが置かれる圏)への射(志向性のある写像)と見なせる。
GNSは圏論的なファンクタ:代数と状態のペアからヒルベルト空間と表現への写像は、圏の間の(部分的な)関手として振る舞うと考えられる。これは代数データ→幾何(表現空間)を与える操作として抽象化。
エンタングルメント=幾何的連結という直感は、圏論的には二つの代数が分解できない形で結びつくことに対応。
具体的には、二つの部分代数の合成が単純な直和や直積に分かれず、むしろ共通のサブ構造(共有される中心や共通の因子)を持つ場合、圏的には共核/プルバックや引戻しを使ってその結びつきを表せる。
逆に、もし二つの部分代数が完全に独立(圏的には直和的分解)なら、その間に空間的な連結が生じにくい、と解釈できる。
代数が属する型の違い(古典的には I/II/III の区別)は、圏的には対象の内部構造の差異(中心の有無、トレースの存在可否など)として表現される。
物理的にはこの差が「純粋状態の存在」「系の分解可能性」「エントロピーの定義可能性」を左右。従ってどの圏の部分圏にいるかが物理的位相や重力的性質に相当する。
僕は今、いつものように自分で定めた前夜の儀式を終えたところだ。
コーヒーは精密に計量した7.4グラム、抽出温度は92.3度で、これが僕の思考を最高の線形性と可逆性をもって保つ。
寝室のドアは常に北側に向けて閉める。ルームメイトは今夜も例の実験的なシンポジウム(彼はそれを自作フォーラムと呼んでいる)に夢中で、隣人はテレビの音を限界まで上げて下界の俗事を増幅している。
友人たちは集まって未知の戦術を試すらしいが、彼らの興味は僕の多層的位相空間理論の議論とは無関係だと見做している。僕にとっては、他人の雑音はただの非可逆なエントロピー増である。
今日は一日、超弦理論のある隠れた側面に没入していた。通常の記述では、弦は一次元的な振動として扱われるが、僕はそれを高次元カテゴリの対象として再解釈することに時間を費やした。
物理的場のモジュライ空間を単にパラメータ空間と見るのは不十分で、むしろそれぞれの極小作用の同値類が高次ホモトピーのラクタンスを持ち、ホモトピー圏の内部で自己双対性を示すような階層化されたモジュライを想定する。
局所的超対称は、頂点作用素代数の単純な表れではなく、より豊かな圏論的双対圏の射として表現されるべきであり、これにより散乱振幅の再合成が従来のFeynman展開とは異なる普遍的構造を獲得する。
ここで重要なのは、導来代数幾何学のツールを用い、特にスペクトラル的層とTMF(トポロジカル・モジュラー形式)に関する直観を組み合わせることで、保守量の整合性が位相的モジュライ不変量として現れる点だ。
もし君が数学に親しんでいるなら、これは高次のコホモロジー演算子が物理的対称性の生成子へとマップされる、といった具合に理解するとよいだろう。
ただし僕の考察は抽象化の階段を何段も上っているため、現行の文献で厳密に同一の記述を見つけるのは難しいはずだ。
僕は朝からこのアイデアの微分的安定性を調べ、スペクトル系列の収束条件を緩めた場合にどのような新奇的臨界点が出現するかを概念的に解析した。
結果として導かれるのは、従来の弦のモジュライでは見落とされがちな非整合な境界条件が実は高次圏の自己同値性によって救済され得る、という知見だった。
日常の習慣についても書いておこう。僕は道具の配置に対して強いルールを持つ。椅子は必ず机の中心線に対して直交させ、筆記用具は磁気トレイの左から右へ頻度順に並べる。
買い物リストは確率論的に最適化していて、食品の消費速度をマルコフ連鎖でモデル化している。
ルームメイトは僕のこうした整理法をうるさいと言うが、秩序は脳の計算資源を節約するための合理的なエンジニアリングに他ならない。
インタラクティブなエンタメについてだが、今日触れたのはある対戦的収集型カードの設計論と最新のプレイメタに関する分析だ。
カードの設計を単なる数値バランスの問題と見做すのは幼稚で、むしろそれは情報理論とゲーム理論が交差する点に位置する。
ドロー確率、リソース曲線、期待値の収束速度、そして心理的スケーリング(プレイヤーが直感的に把握できる複雑さの閾値)を同時に最適化しないと、ゲーム環境は健全な競技循環を失う。
友人たちが議論していた最新の戦術は確かに効率的だが、それは相手の期待値推定器を奇襲する局所的最適解に過ぎない。
長期的な環境を支えるには、デッキ構築の自由度とメタの多様性を保つランダム化要素が必要で、これは散逸系におけるノイズ注入に似ている。
一方、漫画を巡る議論では、物語構造と登場人物の情報エントロピーの関係に注目した。キャラクターの発話頻度や視点の偏りを統計的に解析すると、物語のテンポと読者の注意持続時間を定量化できる。
これは単なる趣味的な評論ではなく、創作の効率を測る一つの測度として有用だ。隣人はこれを聞いて「また君は分析に興味を持ちすぎだ」と言ったが、作品を合理的に解析することは否定されるべきではない。
夜も更け、僕は今日の計算結果をノートにまとめ、いくつかの概念図を黒板に描いた。友人が冗談めかしてその黒板を見ただけで頭痛がすると言ったとき、僕はそれを褒め言葉と受け取った。
知的努力はしばしば誤解を生むが、正しい理論は時として社会的摩擦を伴うのが常だ。
今は23時30分、コーヒーの残りはわずかで、思考の波形は安定している。
眠りに落ちる前に、今日導いた高次圏的視点でいくつかの演繹をもう一度辿り、明朝にはそれを更に形式化して論理体系に落とし込むつもりだ。
僕はいつものようにティーカップの正確な角度とティーバッグを引き上げるタイミング(45秒で引き上げ、分子運動が落ち着くのを確認する)にこだわりながら、ルームメイトがキッチンで不満げに微かに鼻歌を歌う音を聞いている。
隣人は夜遅くまでテレビを見ているらしく、ローファイのビートとドラマのセリフが建物内で交差する。
その雑音の中で僕の頭は例によって超弦理論の抽象化へと跳躍した。
最近は量子コヒーレンスをホモトピー的に扱う試みを続けていて、僕は弦空間を単に1次元媒介物と見るのではなく、∞-圏の内在的自己双対性を有する位相的モジュライ空間として再定義することを好む。
具体的には、標準的な共形場理論の配位子作用をドリブンな導来代数的幾何(derived algebraic geometry)の枠組みで再構成し、そこにモチーフ的な圏(motivic category)から引き戻した混合ホッジ構造を組み込んで、弦の振る舞いを圏論的に拡張された交代多様体のホモトピー的点として記述する考えを試している。
こうするとT-双対性は単に物理的対象の同値ではなく、ある種のエンドサイト(endomorphism)による自己同型として見なせて、鏡像対称性の一部が導来関手の自然変換として表現できる。
さらに一歩進めて、超対称性生成子を高次トポスの内部対象として取り扱い、グレーディングを∞-グループとして扱うと、古典的に局所化されていたノイズ項が可換的モジュール層の非可換微分形へと遷移することが示唆される。
もちろんこれは計算可能なテーラ展開に落とし込まなければ単なる言葉遊びだが、僕はその落とし込みを行うために新しく定義した超可換導来ホッジ複体を用いて、散発的に出現する非正則極を規格化する策略を練っている。
こういう考察をしていると、僕の机の横に無造作に積まれたコミックやTCG(トレーディングカードゲーム)のパックが逆説的に美しく見える。
今日はルームメイトと僕は、近日発売のカードゲームのプレビューとそれに伴うメタ(試合環境)について議論した。
ウィザーズ・オブ・ザ・コーストの最新のAvatar: The Last Airbenderコラボが今月中旬にアリーナで先行し、21日に実物のセットが出るという話題が出たので、ルームメイトは興奮してプリリリースの戦略を立てていた。
僕は「そのセットが実物とデジタルで時間差リリースされることは、有限リソース制約下でのプレイヤー行動の確率分布に重要な影響を与える」と冷静に分析した(発表とリリース日程の情報は複数の公表情報に基づく)。
さらにポケモンTCGのメガ進化系の新シリーズが最近動いていると聞き、友人たちはデッキの再構築を検討している。
TCGのカードテキストとルールの細かな改変は、ゲーム理論的には期待値とサンプル複雑度を変えるため、僕は新しいカードが環境に及ぼすインパクトを厳密に評価するためにマルコフ決定過程を用いたシミュレーションを回している(カード供給のタイムラインとデジタル実装に関する公式情報は確認済み)。
隣人が「またあなたは細かいことを考えているのね」と呆れた顔をして窓越しにこちらを見たが、僕はその視線を受け流して自分のこだわり習慣について書き留める。
例えば枕の向き、靴下の重ね方(常に左を上にし、縫い目が内側に来るようにすること)、コーヒー粉の密度をグラム単位で揃えること、そして会話に入る際は必ず正しい近接順序を守ること。
これらは日常のノイズを物理学的に最適化するための小さな微分方程式だと僕は考えている。
夜は友人二人とオンラインでカードゲームのドラフトを少しだけやって、僕は相対的価値の高いカードを確保するために結合確率を厳密に計算したが、友人たちは「楽しければいい」という実に実務的な感覚で動くので、そこが僕と彼らの恒常的なズレだ。
今日はD&D系の協働プロジェクトの話題も出て、最近のStranger ThingsとD&Dのコラボ商品の話(それがテーブルトークの新しい入り口になっているという話題)はテーブルトップコミュニティに刺激を与えるだろうという点で僕も同意した。
こうして夜は深まり、僕はノートに数式とカートゥーンの切り抜きを同じページに貼って対照させるという趣味を続け、ルームメイトはキッチンで皿を洗っている。
今、時計は23:00を指している。僕は寝る前に、今日考えた∞-圏的弦動力学のアイデアをもう一度走査して、余剰自由度を取り除くための正則化写像の候補をいくつか書き残しておく。
「日本という共同体」そのものは目に見えない。触れないし、握れないし、形もない。でも私たちは、その「形のないもの」を前提にして、同じ道路を使い、同じルールで生きている。その目に見えない共同体をどうやって「そこにある」と確認してるのか?答えは単純で、象徴(シンボル)だ。国旗は、政治的な押しつけアイテムじゃなくて、私たちは同じ場所に立っているという共通認識のマーカーなのだ。
国旗を破って燃やして踏みつける行為は「私はこの国が嫌いです」という話ではなく、「この共同体を支える合意を破っていい」という宣言になりやすい。これは思想じゃなくて秩序の話。好き嫌いの話ではないし、心の中を強制しようとしているわけでもない。
「共同体をつなぎ止めてる目印に対して、どこまで攻撃を許すか」という、いたって地味で現実的な議題なのだ。
ここからが本題。代表的な反対意見(岩屋・橋下・日弁連)を見ると、どれもロジックがお粗末極まりなく、目も当てられなかった。法律の専門家(笑)が言うことかよ、というレベルだったので、あえて向こうの土俵で論破する。
--------------------------
■岩屋毅(引用元:https://www.iza.ne.jp/article/20251104-KATPZGUBWFGNLBZXMVYLNT4XMA/)
>「当時、反対しました。なぜなら『立法事実』がないからです。立法事実とは、実際にそうした事例が社会問題になっているかということです。日本で誰かが日章旗を焼いた? そんなニュースを見たことがない。立法事実がないのに法律を作ることは、国民を過度に規制することにつながるので、それは必要ないのではないかと言いました」
一見もっともらしいが、この論法は立法事実という概念そのものを誤解している。立法事実というのは「すでに大量に事件が起きているかどうか」だけではない。とくに象徴や治安や社会秩序に関する立法では、「問題が顕在化してからでは遅い」という前提そのものが、法律の必要性を支えている。実際、現代の法律の多くは「予防的」に整備されている。
・・・本当に早大を出て閣僚を経験していてた人の理屈なのだろうか。国旗損壊罪が問題にするのは、「布が燃える現象」そのものではない。象徴が公然と破られることで、社会の緊張が増幅される・対立と敵対意識が活性化する・集団の統合が崩れる という作用のほうだ。この「象徴毀損→社会不安の増幅」という因果関係は、国際的にはとっくに前提として認識されている。
イギリスでは国旗侮辱は暴徒化の初動トリガー、韓国では対立デモの象徴破壊が衝突に直結、フランスでは国旗侮辱は「共和国に対する攻撃」、ドイツでは象徴毀損は「民主秩序破壊行為」と解釈されている。
つまり、「日章旗を燃やした事件が日本で多いかどうか?」は論点の中心ではない。本当の論点はこうだ。象徴破壊は、共同体の統合を揺るがす高い蓋然性があるかどうか。そしてそれは「ある」。岩屋の議論は、「国旗は共同体をつなぐ象徴である」という視点が最初から抜けている。だから彼の目には「問題がない」ように見えるだけだ。
言い換えるなら、日の丸を「自分の共同体の象徴」として認識していない人は、国旗損壊に「実害がない」ように感じる。ただ、それは「法的判断の結果」ではなく、立ち位置と感覚の問題だ。「国旗が燃えてないから法律はいらない」は、「家が燃えてないから消火器はいらない」と言っているのと同じ構造である。そして、そう言えるのは結局、自分にとってその家が「帰る家」でも「守りたい家」でもないからだ。
--------------------------
■橋下徹(引用元:https://x.com/hashimoto_lo/status/1985500133828805077)
そもそも出だしから政治家の不正を糾弾する論点ずらしを使用しているところが小賢しいストローマン的論調だが、論点も穴だらけである。本当にこの人は元弁護士なのだろうか。
法益は、「共同体の象徴秩序」である。橋下はこれを「愛国心の強制」だと見ているのかもしれないが、法益はそうではない。
象徴が破壊されると、共同体のつながりの感覚が損なわれ、対立や敵対意識が増幅する。これは国際比較すると常識に近い。
外国国旗は外交関係の安定を守るために保護されている。つまり、すでに日本の刑法は「象徴は秩序に作用する」という前提で立法されている。今回の議論は、その射程を「対外」→「国内共同体」へ拡張するだけ。理屈は同じ。
ここは技術的な話に見えるが、実際は簡単。「公然性」「侮辱目的」を要件にすればいいだけ。すでに名誉毀損・器物損壊・侮辱罪で使っている手法。「プラカードとしての国旗」や「スポーツ応援の旗」が誤処罰される、というのは法技術ではなく「雑な想定」による不安。構成要件で回避できる話。
されない。すでに外国国旗損壊罪ですら公然性が要件。私人の家で破ってる旗まで取り締まる制度設計はそもそも立法技術的に想定されていない。「家の中でポスターを破ったら逮捕」はフィクションでしかない。
それは国旗損壊罪とは無関係。国旗利用のガイドラインは運用・行政・プロトコルの問題。仮に「政治家が国旗を利用したくなる」というのが懸念なら、それは政治倫理規定のほうで制御する話。つまり「スプーンに毒を盛るかもしれない」から「スプーンを廃止しよう」と言っているようなもの。
ここまで来ると、さすがに苦笑いである。「国家とは何か」論は、象徴を理解していないからこそ無限に抽象化する。けれど現実の共同体は抽象ではなく合意で維持されている。その合意を可視化するのが象徴。象徴を理解しないまま国家論を語るのは、地図を見ずに登山ルートを議論しているようなもの。まず「どこに立っているか」がわからなければ、そこから先は全部空中戦。橋下の6論点はどれも一見まともに見えるが、すべて「国旗は、共同体の統合を可視化する象徴である」という前提が抜けている。
この前提を共有しない限り、国旗損壊罪は「不要な規制」に見え続ける。つまり、結局この話はこういうことだ。
--------------------------
■日弁連(引用元:https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2012/120601_2.html)
>同法案は、損壊対象の国旗を官公署に掲げられたものに限定していないため、国旗を商業広告やスポーツ応援に利用する行為、あるいは政府に抗議する表現方法として国旗を用いる行為なども処罰の対象に含まれかねず、表現の自由を侵害するおそれがある。
この「おそれ」という言葉に全てを預けて議論を閉じてしまうところに、まず問題がある。刑法は「おそれ」で動くわけではない。刑法は構成要件を満たしたときにのみ成立する。ここは法学部の1年生でも最初に叩き込まれる部分だ。それにもかかわらず、その最も基本的な前提をまるごと無視して話を進めているあたり、本当にこの文書は日弁連が出したものなのだろうかと不安になる。
国旗損壊罪が成立するのは、ただ「国旗に触れた」からではない。国旗を侮辱する意図をもって、公然と破壊した時だ。「わざとであること」と「侮辱という意思」が明確に必要になる。そのため、スポーツ応援で旗を振ることも、商業デザインに用いることも、抗議運動のシンボルとして掲げることも、そもそも構成要件に当たらない。日弁連は「使うこと」と「破壊して侮辱すること」を意図的に混同している。その混同を前提にしている限り、彼らの議論は最初から成り立っていない。
加えて、日弁連は「表現の自由が制限される」と言うが、表現の自由は憲法上、絶対無制限に保障されているわけではない。人格権を守るために名誉毀損があり、社会的尊厳を守るために侮辱罪があり、財産権を守るために器物損壊罪がある。どれも「表現」が関わる可能性があるが、社会を成立させるために必要な領域では当然に制限がかけられている。国旗損壊罪が保護しようとする「共同体の象徴秩序」も、それらと同じく社会をまとまりとして維持する機能を守るためのものだ。
では、「濫用されるおそれがある」という主張はどうか。これも、法制度の議論としてはあまりに雑だ。「濫用されるおそれがある」だけで法律が否定できるなら、名誉毀損も侮辱罪も、スパイ防止法も成立しないことになる。極端な話、殺人罪だって捜査側が恣意的に使える「おそれ」があると言えてしまう。法治国家は「おそれ」があるかどうかではなく、その「おそれ」が実際にどの場面で生じうるのか、そしてどのように構成要件と運用基準で防ぐかを議論する。「おそれがある」とだけ言って反対した時点で、日弁連は法律論を放棄している。
つまり、日弁連の声明は、法律家として最もしてはならない論理の進め方をしている。構成要件には触れず、使用と損壊を混同し、法益概念を押さえないまま、「自由が脅かされる」とだけ言って議論を止める。これは法的主張ではなく、立場ありきのスローガンだ。
国旗損壊罪は、国旗を使う人を処罰するものではない。共同体を侮辱する目的で、象徴を破壊する者のみを対象とする。日弁連が「表現の自由」を盾にして反対するのは、その前提を理解していないか、理解した上で意図的にぼかしているかのどちらかだ。
どれほど上品な言葉で包んだとしても、これはもはや法律家による議論ではない。法概念を手放したまま「自由」を振り回しているだけの、大声の政治声明にすぎない。弁護士バッジを捨てて、もう一度法学部からやり直してください。
----------------------------------------------------
日本社会には、法や監視に頼らずに秩序が保たれる場面が多い。繁華街に防犯ゲートが少なくても、万引きは多発しない。大都市でも夜に一人で歩ける安全がある。災害時には略奪ではなく、長い列を作って順番を守る。落とした財布は高い確率で手元に戻る。公園や駅の公衆トイレでさえ、世界基準で見れば極めて清潔だ。
これらは偶然ではない。日本には、古くから「和を乱さないことを尊ぶ」という共通意識がある。相手を尊重し、自分だけが突出しないように場を調整し、争いを避けて合意をつくる生き方が長く受け継がれてきた。重要なのは、この意識が誰かが教えたからあるのではなく、自然に共有されていることである。目に見えない合意は、形がなければ確認しにくい。そこで必要となるのが、象徴である。
国旗は、国民が同じ共同体に属し、同じ空気の中で生き、同じ基盤を分かち合っていることを簡潔に示す印だ。日本人の精神性は、派手でも声高でもない。主張ではなく、ふるまいと習慣の中に現れる。その「共有されているもの」を一瞥で思い出させるのが日の丸である。
国旗は威圧のための道具ではなく「この社会は、この形で、ここにある」という確認の標だ。その確認があるからこそ、人々は互いを信頼し、余計な力を使わずに秩序が保たれる。日本の治安や清潔さは、「日本人は良い人だから」という単純な話ではない。共同体を保つための共有されたふるまいが、長く維持されてきた結果である。
誰も見て見ないふりしてるけど。
問題は繋がっていて、ごく単純な話。
「この規模、この内容のサービスで、なんでこんなにエンジニアが大量にいるんだろう?」って疑問は、どこにいっても、どこと話しても、わく。
先日の才能問題がまさにそうなんだけど、ソフトウェアエンジニア業界に滞留している人、ぶら下がってる人が多すぎやしないか? と。
リモートをいいことに、サボりまくってる「エンジニア」、特に最近は生成AIででっち上げてサボれるようになってからは、まぁまぁの数、存在していると思う。
実際に観測してもいるし。
そういう極端な例に限らず、才能がない、向いてない「エンジニア」が相当数寄生している。
ジュニアとかコーダーレベルだけじゃなく、いや、むしろリーダー、マネージャー、CTOレベルに。
その組織、企業のそのレベルの「エンジニア」が、それに占拠されたら、多分事態が好転することはない。
アリバイづくり程度の活動は行われるだろうが、永遠の停滞に陥るだろう。
誰か一人抜けても、残りがスクラムを組んで、異分子を排除することに全能力を傾けるだろうから。
まさに獅子身中の虫。
「あの企業が?」ってところが、すでにそう言う状態に陥ってたりする。
名前はあげられないけど w
政府はソフトウェアエンジニアが足りない足りないって喚いてるけど、頭数だけ用意しても現場、プロダクトが混乱するし、利用者が困るだけだ。
これ、旧日本軍の失敗の原因であった「員数主義」って言うんよな。
正直、「え? ソフトウェアエンジニア……? を名乗って……んの……?」って人が多い。
語るけど。
延々と語るけど。
滔々と語るけど。
毎度毎度、会議室でMCバトルの、青菜に塩をかけたような真似事をして。
誰が一番最初に、新しいイケてるWebページを見つけたかを競って、ドヤ顔くらべ。
勉強会開いてみたり。
この量と質か?
みたいな。
多分、この手の「エンジニア」の半分以上が、人手不足の工場とか大工とか解体業とかライフライン保守に行ってるべきだったんだろうな、と思う。
どっちが上とか下とか言う話じゃなく、向き不向きの話。
向いてないんよ。
多層抽象化に不自由とか、概念構造の構築に不自由とか、専門書とかの読解に不自由とか。
2、30年ほど前はそこまでの能力がいらなかったからうまくエンジニアに滑り込んだ人もいただろうけど、今時のプロダクトでそれでは通用しないんだよね。
SQL文の書き方とか、DockerFileの書き方とか、ソースファイルのタブの入れ方とか、Web記事のある場所とか、ディレクトリ構成とかの形式的な知識とか、マジで、あったから何? って。
大事なのは形式的な知識じゃなく、本質的な理解とメタ思考なんだよね。
お前なんていらない。
それだけ。
使いたいっすよね。
って、よく言われる。
この言葉のままじゃないけど、まぁ、だいたいこういったニュアンスだ。
自分はそこそこの腕だと思うなら、彼我の実力の差は正しく測れるようになっとけよ。
こちとら、「だいたいこういう実装されてて、長所短所はこんなもん。こういう処理のために作られたようなもんだな。だから、今のプロダクトだと使い所がないね。料金も高いし」あたりまでチェック済みじゃボケ!
ってことしかない。
こいつら、自分の業務経歴書に書き込む単語を増やすことしか考えてねぇんだよな。
関連サービスなんて増やせば増やすほど、保守運用改善が大変になっていくだろ!
経費もかかるだろ。
「仕組み」は、よりシンプルな方法で実現できるならシンプルな手段を選べ、ってのは常識中の常識だろ。
「KISSの原則? 知ってますよ」って、知識として知ってる。
KISSが"Keep it simple, stupid"の略だってことを知っている。
けど実現できないんじゃぁ意味がねーんだよ。
この手の「自分はイケてると錯覚しているエンジニア」は、Web記事つまみ食いしながら雰囲気で設計実装するから、リクエストやデータが増えてきたら破綻するような、間違えた設計実装しかできない。
そういう新しいサービスは、それ以前のサービスの欠点を埋めるために作られてるんだから、それ以前のサービスと同じノリで設計実装して十分な性能を引き出せるわけがねーんだわ。
今までの複数の炎上現場で、正しく設計実装できてたところはなかったよ。
おいらが関わった炎上現場はほとんど、こうやって生まれてきている。
そういう炎上現場を作り出したエンジニアは、ふくらし粉で増量した業務経歴書片手に、「サービスの立ち上げを『僕の技術力で』やり切りました」って転職していくんだ。
新しいことに挑戦したくなって。とか言って。
みたいなエンジニアを、なぜどこもかしこもありがたがって採用するか全く理解できないんだが、そういう「エンジニア」が次の現場で生まれ変わったように的確で素晴らしい成果を出せるかって、そんなわけもなく、日をおうごとにグダグダになっていくサービスがさらに一個増えるだけだったりする。
こういうエンジニアが、初回リリースしてからしばらくして、ソフトウェアエンジニア業界に飛び散る。
まるでがん細胞。
こうなると立て直すスピードより、グダグダな新しいサービスが生まれるスピードの方が何十倍、何百倍も早い。
もうね、半ば絶望してるんですよ。
今、生成AIも参戦してきてて、物量だけは爆発的に増えてるから。
多分、そう遠くなく、グダグダサービスで日本は覆われると思う。
AIベビーシッターが必要になってくるだろうけど、それができるだけの技術力を持ったエンジニアの数が圧倒的に少ないし、何よりそういう腕利のエンジニアを、ふさわしい金額で雇おう、招こうと考える経営者が皆無。
今までの炎上現場ですら、高すぎる。無駄金を払わされてる。って扱いをうけてたからな。
「同じエンジニアなのに、どうしてこんなに高いの?」
本日発表された「生成AI時代の創作と権利のあり方に関する共同声明」は、表面上は高尚な倫理を装いながら、実際には旧来の出版・映像業界が自らの利権と支配を維持するために発した時代錯誤の自己防衛声明にすぎません。文化の担い手を名乗りながら、彼らは文化を盾にして独占し、創作の自由を自らの縄張りに囲い込もうとしています。AIという新たな知的基盤を「脅威」と決めつけ、法律や科学的事実を踏みにじってまで、自分たちの都合に合わせた“新しい原則”を作り出そうとする姿勢は、文化の発展を自ら人質に取る行為と言わざるを得ません。
声明で繰り返される「オプトイン原則」なる主張は、法的根拠のない作り話にすぎません。日本の著作権法第30条の4は、情報解析、すなわち機械学習を適法な行為として明確に認めています。これは国会で正式に審議され、国際的にも承認された条文です。それをあたかも存在しないかのように無視し、独自の“原則”をでっち上げているのは、法の支配を自分たちの感情で上書きしようとする行為にほかなりません。法治国家の根幹を軽んじるこうした態度こそ、社会にとって最大の脅威です。
声明では「WIPO著作権条約の原則にも反する」との一文が見られますが、これは国際法を理解していないか、あるいは意図的に誤解させる表現です。WIPO著作権条約第10条は、各国が技術革新との調和を図るために例外を設けることを明確に認めています。日本の著作権法第30条の4は、その条項に基づく正当な立法です。にもかかわらず、これを「国際的に反する」と断じるのは、国際法の権威を自らの商業的利益のために悪用する詭弁にすぎません。法を装いながら法を捻じ曲げる態度は、文化への裏切りです。
声明が要求する「学習データの透明性」は、AI技術の基本構造を理解していない人々の発想です。生成AIは著作物を丸ごと保存しているわけではなく、膨大な情報を数学的に抽象化して学習しています。どの作品を学習したのかを特定することは、理論的にも不可能です。にもかかわらず、それを“透明性”という美辞麗句で求めるのは、AI研究を停止させるための方便に見えます。理解できない技術を「危険」と断じて封じ込めようとする態度は、科学の否定であり、知の進歩への挑戦です。
著作権法第1条は、「著作物の公正な利用を通じて文化の発展に寄与する」ことを目的としています。声明はこの理念を真っ向から踏みにじり、創作の自由を業界の利権で縛りつけようとしています。もし学習をすべて許諾制にすれば、日本のAI研究は立ち行かなくなり、創作者自身もAI支援という新しい表現手段を奪われるでしょう。つまり、彼らは「創作者を守る」と言いながら、実際には創作の未来を殺そうとしているのです。
声明全体に共通するのは、「自分たちだけが正義である」という思い込みです。AIに学習されることを「搾取」と呼びながら、彼ら自身は長年、他人の文化を引用し、再構成してきました。著作物の「利用」は自分たちの権利であり、AIの「利用」は侵害だという二重基準は、もはや論理ではなく自己保身のための感情論です。著作権を対価交渉の武器に変え、創作の自由を締めつける構図は、文化産業ではなく利権産業の姿です。
7.未来に向けて
AIは人間の創造性を奪うものではなく、拡張するものです。学習を犯罪扱いし、技術革新を恐れ、自由な発想を封じることこそ、文化への裏切りです。私たちは、旧来の特権構造に縛られた声ではなく、法と科学と自由の原理を信じる社会の声を支持します。AIと人間の創造性は対立するものではなく、共に進むべき文明の両輪です。文化を守るとは、未来を拒むことではなく、未来に開かれることです。
【発出者】
その言葉を使うのに適した場面なら同じ言葉使うことに何のおかしさも無いって意味だぞ。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251030183647# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaQMxsgAKCRBwMdsubs4+ SP+iAQCV678uUeSxIj4eywdknzfoVn9ZnrBdOhiaWIOwgZI5iQEAvAJDWSkWGTix OBrGdNlehYvL4SF6nrSM6iYLtT7B2gg= =1wrb -----END PGP SIGNATURE-----
まず対象を抽象化するために、物理系は局所演算子代数のネットワーク(局所性を持つモノイド圏あるいは因子化代数)として扱う。
境界理論はある可換(または E_n)因子化代数 A を与え、これに対して状態空間は A の正値線型汎関数(GNS 構成で得られる正規表現の圏)として扱う。
重力的バルク側は、境界因子化代数のコホモロジカル双対(例:Koszul 双対や因子化ホモロジーに基づくスペクトル的拡張)としてモデル化される。
ホログラフィーは単なる同値性ではなく、境界のモノイド的データとバルクの因子化代数的データの間の高次圏的((∞,n)-圏)双対性であり、この双対性はホモトピー的拘束(同値の空間)を保つ関手の同型として書ける。
これをより具体的に言えば、境界の C^*-あるいは von Neumann 代数の圏と、バルクに対応する因子化代数(局所的場の代数を与える E_n-代数)の間に、Hochschild/cyclic ホモロジーと因子化ホモロジーを媒介にしたKoszul型双対が存在すると仮定する。
境界から見た相互作用や散乱振幅は、境界因子化代数上の積(オペラド的構造)として表され、バルクの幾何情報はそのホモロジー/コホモロジーに符号化される。
エントロピーとエンタングルメントの幾何化は情報幾何学的メトリックに還元される。すなわち、量子状態空間上の量子フィッシャー情報(量子Fisher・Bures距離)や相対エントロピーは、接続と計量を与えるテンソルと見なせる。
これにより、テンソルネットワークは単なる数値的近似ではなく、グラフ圏からヒルベルト空間への忠実なモノイド的関手である:グラフの各節点に E_n-代数の有限次元表現を割り当て、辺は双対化(コアリフト)の演算子であり、ネットワーク全体は因子化代数の状態和(state-sum)を与える。
MERA や PEPS、HaPPY コードは、この関手が持つ特定の圧縮/階層性(再帰的モノイド構造)を体現しており、cMERA はその連続極限である。
テンソルネットワークが幾何を作るとは、エントロングルメント計量(情報計量)から接続とリーマン的性質を再構成する手続きを意味し、これが空間的距離や曲率に対応するというのが it from qubits の数学的内容である。
さらに情報回復(Petz 復元写像など)や相対エントロピーのモノトニシティは、エントロングルメントウェッジ再構成の圏論的条件(右随伴を持つ関手の存在)として表現される。
すなわち、境界演算子代数からバルク因子化代数への埋め込みが完全に圏論的な復元子(adjoint)を持つときに、局所的情報の回復が可能となる。
ER=EPR はこの文脈でホモトピー的コボルディズムとして読み替えられる。量子相互作用で結ばれた二系(高次圏の対象としての二点分割状態)は、バルクのコボルディズム類(ワームホール的繋がり)に対応する同値類を持ち、局所ユニタリ変換による同値類がコボルディズムの同位類と一致するという予想的対応を述べる。
言い換えれば、局所ユニタリ同値で分類されるエンタングルメントのコホモロジーは、バルクのホモトピー的結合(位相的/幾何的接続)を決定する。
ブラックホールの熱力学的性質は、トモイタ=タカサキ理論(Tomita–Takesaki modular theory)やコンネスの周期写像が関与する演算子代数のモジュラー流として自然に現れる。
特に、ブラックホール外部におけるモジュラーハミルトニアンは境界状態の相対エントロピーに関連し、そのフローはバルクの時間発展に対応する(模擬的にはKMS状態と熱平衡)。
サブファクター理論とジョーンズ指数は、事象地平線をまたぐ情報の部分代数埋め込みの指標として機能し、情報損失やプライバシー(情報の遮蔽)は部分代数の指数と絡み合う。
ブラックホールの微視的自由度のカウントは、やはり境界因子化代数の適切な指数(譜的インデックス、K理論的量)に帰着する。
超弦理論的な追加自由度(多様体のモジュライ空間や D-ブレーンの圏的記述)は、バルク側因子化代数の係数系(係数 E_n-代数やスペクトラル層)として取り込まれ、モチーフ的/導来スタック的手法(derived stacks, spectral algebraic geometry)で整然と扱える。
これにより、弦の振る舞いは境界オペレータ代数の高次幾何学的変形(deformation theory)と同値的に記述されることが期待される。
この全体構造を統一する言葉は高次圏的因子化双対である。物理的理論は、局所的オペレータのモノイド圏、状態の圏、そして因子化ホモロジーを媒介にした双対関手系から成り、テンソルネットワークはそれらの具体的表現=有限モデルとして働き、情報幾何学はそれらの間に滑らかな計量を与える。
したがって「it from qubits」は、局所的量子代数の圏論的再配列が(情報計量を通じて)幾何学的構造を生み出すという主張に還元され、ER=EPR はエンタングルメントの同値類とバルクのコボルディズム同位類を結ぶ高次圏的同型命題として再表現され、ブラックホール熱力学や弦の自由度はその圏論的・ホモトピー的不変量(ホッジ理論的/K理論的指数、モジュラーデータ)として測られる。