はてなキーワード: 正気とは
山上徹也被告の裁判について報道が見られるようになった。彼の生い立ちを含め他人事だと感じない。メディアでは、山上徹也被告はまじめな人物だと報じられている。私も同じ印象を受けた。
「兄の自殺への責任感、経済的な困窮が重なり、本来の標的ではない安倍氏につながった」
「私も肉親を亡くしたので、弁解の余地はない」
(出典:https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20251205-GYO1T00008/)
他にも、個人のNote記事を拝読した。彼の家庭環境についてまとめられている。
山上徹也被告の父が幼少期に自殺。これを契機に母親が統一教会に入信し、多額の献金。父の遺産まで失い、破産するほどの貧困状態に陥った。
彼は複数の資格を保持しており、努力家であることは十分に伺える。(出典:https://note.com/fukushimatakuya1/n/n894a829add3f)
すまないと思ってる。
ただ、彼と似た家庭環境に置かれた身として彼の気持ちがよくわかる。他人に機会を奪われ続ける人生、身を結ばない努力、大事にしていたものの喪失。俺も「なぜこんなにもうまくいかないのか」を考えると憎悪ばかりが募り、正気を保つのに苦労している。
山上徹也被告やその母親、統一教会。誰が悪い、誰が善いのような二元論では語れない。世の中にはそういう悲劇があると思う。
彼も自分がやっていることがまともじゃないことくらい、とっくに自覚していただろう。それでもなお実行に移すに至る動機が彼の生い立ちから垣間見える。
俺には嫌いなものがたくさんある。
「自分のふるまいが他人の人生を苦しめている可能性、加害性への自覚の薄さ」
「自分が理不尽なことをしている自覚がありながら、それを正当化する行為」
世の中には「そんなこと気にしなければいいじゃん、前向きに行こうぜ」とお気楽に言う人がいる。それは確かに正しい。理解されるなんて期待したところで無駄、気にする時間が無駄なんだ。
けれども。
それでも俺は時折許せなくなる。自分が、他人が、それを取り巻く全てが。その苦しみは「気にしなければいいんだよ」なんて言葉では片付けることができないほど、重く、正気を奪うほどドロドロとした汚泥なんだ。
だって、笑える小説とか本があったとして、それって、目の前に俺を笑わせてる話者がいるわけでしょ?😟
テレビでお笑いを観てたり、笑えるアニメを観てて、俺って孤独だなあ…、って思うことは普通なくない?
なんか、我に返るタイミングがあるとか、
ヤバイ、俺、このまま孤独死じゃん…、みたいに思ったりするからで、
これまでの全ライブみたいなリストがあったんで、それを観たり聴いたりしながら家事やったりしてたんだけど、
あの曲って、孤独感というより、なんか不思議な国に迷い込んで、元の世界に帰ってこないけど、なんか不幸じゃないみたいな、
昔、花とゆめだったか、少女漫画で、親とか同級生に虐待されてるような子供がいて、
猫になりたい、猫になりたい、猫みたいに自由になりたい、って願ってたら、
ラストで本当に猫になって、夜の街に飛び出していっちゃうんだけど、
ああいう感じがあるんだよね、寂しいけど、悲しいけど、なんかハッピーにも思える
社会に居場所がなかった子供が、猫になってしまう、あの漫画とかよく思い出すんだよねえ…😟
自分も似たようなところがあるから、それが孤独感では?というと、そうなのかもしれないけど、
自分もドロップアウトしたことで、逆に幸せになってるところがあるのかも?と思うことがあるし、
もちろん、全然幸福じゃないんだけど、世の中よくできてるというか、
ホッテントリに、有名人なるほど寿命が縮まる、幸せでなくなる、みたいな話があった気がするけど、
なんか、トータルで考えると、みんな意外と同じになったりするんじゃないか、みたいなところもあったり…😟
まあ、読書が孤独って、教室の隅で読書してる人を見るとか、他人が見ると孤独なわけじゃん
俺が教室の隅とか、美術室で絵を描いてるのを、他人が見れば孤独なんだろうけど、
わたしは普通の人が異常な性的衝動に駆られて葛藤するというシチュエーションが死ぬほど性癖で、それ以外のシチュエーションではどうしても心を満たすことができない。
例えば女子高生が自転車のサドルに媚薬を塗られて帰宅中に発情オナニーするAV、本当にかわいい。我慢できなくなったり、友達に話しかけられて無理に正気を取り戻したりするいじらしさがほんとうにいい、最後にトイレに駆け込んでひとりでしちゃうとことか。
とにかく、我慢できなくなって、おかしくなりそうで、衝動的に、でもあくまで普段はまともに過ごしている普通のいい子が、っていうのがたまらなくかわいい。
正直最後の男性との性交シーンはあんまり興味なくて、ただ女の子がひとりで疼いていて、ギリ満たされてない様子が好き。
本当に好きだ、かわいい女の子のかわいい映像をこうして作り出してくれて本当に感謝してる。
そして、かわいい男の人で同じ映像を作ってくれたら、同じようにきっとすごくかわいいと思う。
性の目覚めと共に初めからふつうの素直なポルノを手に取っていればこんなことで苦しまずに済んだのかもしれないけど、性に目覚めた当時のわたしはへんに真面目で性欲に対しての罪悪感もあったので、18歳未満閲覧禁止だと言われてしまえば抗うことができなかった。
ポルノを手に入れられなかったから、抑圧された日々のストレスと年頃の性欲に脳を支配され続けた思春期の苦しみの中で、とにかく数多くのWikipediaのえっちな記事や文章を読み漁り、その結果として性癖が歪んだ。
はじめは知ってる単語を調べてたどり着くことができる「性行為」「オナニー 」の記事に始まり、宗教的タブーについての記事、多様なフェチシズムや性に関する病気についての記事など性的なタイトルを扱うページを読み漁り、英語版の存在に気付いてからは「Humping」や「Frotteurisme」「Schuren (seksuele handeling)」などひたすらに読み耽って、ついでに苦手科目だった英語の成績もぐんぐん上がっていった。(英語版wikiにはそれほどに素晴らしい記事がたくさんある)
それらを読み耽り健全で道徳的な性行為のよろこびに憧れを抱くだけなら何も問題はなかったんだけど、わたしにはもうひとつ最悪のお気に入りジャンルがあって、それは性にまつわる事件や、異常な有名犯罪者の記事でした。
残酷な犯罪を犯した有名犯罪者の幼少期や生い立ちについては大抵ひどい不幸と家庭内での性虐待が描写されている。
彼らの不幸な過去とその破滅的な犯罪行為との間には人生を破壊してしまうほどの異常な性的トラウマや性衝動を感じて、倫理観が性欲に完全敗北した思春期の脳みそと身体は死ぬほど興奮した。
殺人を犯しながら勃起していた最低の変態殺人犯も、とにかく人を殺すほどの苦しい人生の中で気が狂って勃起していることがかわいいとしか思えなかった。日本で起こった事件や性の相談窓口に寄せられる母子相姦被害者の男の子たちのエピソード、それらの問題について書かれたすごく古い本をわざわざ取り寄せては読みながら何度もオナニーした。
女としての母親からの性暴力はどう考えても悍ましく残酷な行為で、それなのにわたしは他人の心の傷と尊厳を踏み躙るようなとてもひどいことを考えて本当にどうかしているし終わってるって分かっていたし罪悪感は苦しいけどそれでもどうしようもなかった。
そのうち、自分は母子相姦が好きなわけではなくて、ただ男の人たちが身体によって一方的に与えられる性的な仕組みから決して逃れられないという事実が嬉しいのだとわかった。男の人がふつうでまともで、常識的で、優しい人であればあるほど嬉しい。
身体のしくみから逃れられないということ自体は男の人に限った話ではないのだけど、異性の受難には共感の余地がないので特別に思えてしまう。
この抽象化に成功してしまったせいで性欲の対象は母子相姦の被害者や異常殺人者に限らなくなって、男の人が少し哀れな目にあったり泣いたり傷ついたり、苦悩を抱えていたり理不尽に耐えて生きていることを知るたびに、それでも生活の中に性的な瞬間があるということを意識してどうしようもなく興奮した。
性欲と理性との矛盾や、それによって自尊心を損なう苦しみはわたしには想像できないほどひどいものかもしれないし、そんな苦しみはすべてわたしの勝手な妄想かもしれないけれど、男の人たちを最低な方法で消費して異常な妄想を繰り返すのを結局大人になってもやめられない。
男の人が性欲に苦しむ切ない様子や、いじらしい自己嫌悪、どんなに頭がよくて優しくて不幸や苦しみの中にいても身体のつくりのせいで性欲や性機能があって、彼らにも下着を汚したり健康を損なわないために仕方なく吐精をする必要があって、ふつうの生活の中に性的に興奮している時間や頭をバカにしながら必死になったり、手慣れた手つきでティッシュ越しに精液を受け止めたりするのだという事実がだいすき。
どんなにひどい地獄に落ちても構わないくらい性欲と理性の矛盾に苦しむ男の人が好き。
18歳を迎え、20歳を迎え、年齢制限の壁を完全に克服したわたしは、以降あれこれ自分の嗜好に合うポルノを探し続けているのですが、性被害者による異常性欲の作品なんてもちろん見つからないし、そもそもかわいそうな男の人の性欲に萌えるための作品は殆ど見当たらなかった。
そのため18歳の節目はわたしの性欲にとってpornhubの解禁以外にほとんど恩恵はなく、外国人が電車内で勃起して女の人に押し当ててる動画とか、毎日寸止めしながら射精禁止生活をしているマゾの男(edgingという趣味らしいです)の寸止め動画やRedditの投稿を読むなどをみたり、たまにDLsiteを巡回して小銭を使う程度に落ち着いた。
いつか、着衣の女性の背中やお尻に男の人がズボン越しの勃起ちんぽを必死に擦り付けるだけのかわいい映像を撮影してネットにアップロードしてみたい。喘ぎ声は我慢して欲しいけど、呼吸は荒く苦しそうになってほしいし、女性とは一度も目が合わず言葉も交わさないまま終わって欲しい。
性欲の話をするのは楽しい。
誰にも知られずにこんな話ができるなんて、はてな匿名ダイアリーはいいサービスですね。
他人を130日間虐待するという行為を実際に行っておきながら、解放後に特殊な詐術を用いて「最悪なことはなかった」と思い込ませる手段は、犯罪社会学や犯罪心理学において、極めて悪質な心理的支配と操作として分析されます。
これは、被害者が受けた深刻な被害を否定させ、加害者への依存や沈黙を強いるための戦略的な行動です。
1. 心理的支配と操作(Psychological Manipulation and Control)
ガスライティング(Gaslighting):
被害者に「自分の記憶や認識が間違っている」「自分がおかしい」と思わせることで、被害者の現実感を操作し、精神的に追い詰める手法です。加害者は、被害者の正気を疑わせ、自己認識を破壊しようとします。「最悪なことはなかったと思い込ませる」行為は、ガスライティングの典型例です。
長期間(130日間)にわたる隔離や虐待(物理的・精神的)は、被害者の正常な判断力を奪い、加害者への依存心を植え付けるための洗脳プロセスとして機能します。解放後の「詐術」は、この洗脳を維持・強化する目的で行われます。
操作性・欺瞞性(Manipulativeness and Deceitfulness):
これは、サイコパシーなどの反社会的な人格特性を持つ犯罪者の特徴です。彼らは良心の呵責がなく、平気で嘘をつき、他人を自分の利益のために利用・操作しようとします。
長期間の虐待は、被害者に深刻な心的外傷(トラウマ)を与えます。解放後の詐術は、この混乱に乗じて行われます。被害者は、ストレスや恐怖により記憶が混乱したり、加害者への依存(ストックホルム症候群など)が生じたりすることで、詐術にかかりやすくなります。
加害者側は、被害者が知り得ない情報や、社会復帰への不安などを利用して、自分に有利な状況を作り出します。
もしこの行為に複数の者が関与している場合、組織的な犯罪として分析されます。被害者の口封じや証拠隠滅を目的とした、計画的な行動です。
二次被害の創出:
虐待後の心理的支配は、被害者が警察や支援機関に被害を相談するのを妨げ、結果として被害者を社会的に孤立させ、更なる被害(二次被害)を生み出します。
まとめ
この現象は、**「ガスライティングや洗脳を伴う、極めて悪質な心理的支配」**として分析されます。加害者は、被害者の精神的な弱体化を狙い、真実を隠蔽し、自らの刑事責任を回避しようと企んでいます。これは、被害者の回復を著しく阻害する深刻な犯罪行為です。
たしかに「またケモショタかよwwwwww」と僕たちオタクは好き放題彼の作風をイジってきたし、『竜とそばかすの姫』のときも「あーはいはいこの竜が喋るんでしょ?」と思ったら本当に喋ったので笑っちゃったし、『未来のミライ』は残念ながら見損ねてしまったんだけどもショタが尻尾バイブでアナル絶頂のCMが流れてきたときは「自重wwwwww」などと思ったわけだが、「よっしゃ、じゃあケモショタ抜きで作るぞ」という決意表明のもとお出しされた作品を見たときの感想は「ケモショタのほうが良かった……」という感じになってしまった。
そもそも僕は細田守にケモショタを捨ててほしいわけではなかったのだ。むしろ個人的には彼の描くショタや制服少女はすごく好きだ。監督を「またケモショタw」とイジるというのは、まあ愛情表現のようなものであって本気でやめるべきだと思っていたわけではない。彼に対してネット民が辛辣だったというのも、アンケートなどを取ったわけではないので実際に「皆」がどう思っていたかはわからないのだが、少なくとも増田としては「細田くん! 君に一般向けは向いてない! オタク向け作品を作ろう! ファミリー向けを取りに行くのはあきらめて、ポスト宮崎駿への色気も封印して、オタク向け作品で好きなだけ性癖(誤用)を描こう! ショタやケモノやケモショタやイケオジや可愛いけど薄味な女子高生の理想郷を作ろう!」というつもりだった。
要するに、「一般向けのつもりで作っときながらケモショタ出してんじゃねえよ」というのは「ケモショタ出してんじゃねえよ」という意味ではなく「一般向け作るのやめなよ」という意味だったのだ。しかし細田守は前者の意味に解釈したようで、今回は一切ケモショタ抜きの作品をお出ししてきた。国民的アニメ監督という立ち位置にありながら『すずめの戸締まり』で本気の足裏サービスカットをぶち込んできた新海誠とは逆方向への覚悟の決まり方だが、そういうことじゃねえんだよな~~~~~~~!!!1!!
ただ、「面白いと思ってこいつのことイジってたら、真に受けてほんとにやりやがったw」というのはまごうことなきいじめっ子のセリフであり、細田守監督がどれだけネットの声を気にしていたかはわからないが、彼の作風をイジっていた者の一人としては真剣に反省せざるを得ない。無神経にイジっててすみませんでした、監督。
で、本編の感想なんですが。
「日本のオタクからイジられすぎて海外向けに舵を切った?」という感想になりました。わかりやすいハムレットの導入(でもハムレット踏まえといてレアティーズのあの扱いは何なの!? 友として死ねよ!)、しかし主役は女性、途中で謎の多様性演出が挟まり(おお、DEIに栄光あれ!)(ちゃんとハワイ語やハワイ舞踊の監修入れてたのは偉いと思うよ。ハワイ文化が出てくる必然性を気にしないのであれば)、脈絡もなく歌って踊ってのシーンを挿入しコミカルでお間抜けな敵を配置し(このあたりはマジでディズニー感があった)、いわゆるアニメ絵的なキャラ造形を封印してものすごい迫力の映像美に力を入れる、というのは、従来の「日本のアニメ映画」だった細田守作品から脱却しようともがいているように思われた。それが良いか悪いかは価値観次第だが、「日本のアニメ映画」を期待していた者としては寂しいものがあるというか、僕は細田守作品のキャラデザ好きだったよ……という寂しさに襲われてしまった。
問題は海外向けアニメ映画だと割り切って見たところでストーリーの出来などが色々と厳しいというところで、ちょっと思ってた以上に脚本が支離滅裂というか、「これはきっと僕の理解力が低くて筋を追えてないんだろうな」と思いながら見てたけどネット上でも不評でちょっと安心した。『おおかみこどもの雨と雪』は今改めて見てもよく出来てたよ。やはり奥寺佐渡子……奥寺佐渡子はすべてを解決する……!
聖くんがあれだけ忌避してた殺人に手を染めたところに何のフォローもないのってどういうことかしら? あれだけ登場人物の気持ちを全部言葉に出しちゃうマンな細田守監督なのにこのシーンの聖くんの感情がいっちょんわからんので「???」ってなってしまう。彼はどういう決意でもってあのひとたちを射殺そうと思い至って殺したあとはどう考えていたの? いや、「お前そういうのはいちいち言葉にするもんじゃなくて表情や動作から読み取るものなんだよ。それが映像作品を見るうえでの読解力だろ」ってのはそれはそうなんだけど、上述のように「でも細田守はこれまでいちいち言葉にしてたじゃん」っていうのと、「すみません! 僕には読み取れませんでした!」っていうのが両方ある。みんなは読み取れましたか? 読み取れたひとは根拠を添えて教えてほしい。マジでわからんかったので。
最後のほうは「宗教の映画?」って感じでした。ラストの演説はもうしょーもない。主人公にそこまで言わせるなら共和政に移行させろよとしか言えないファンタジー作品ってままあるよね(『BASARA』の「それが、それこそが新しい国ぞ!」っていうセリフは今でも印象に残ってる)(『汝、暗君を愛せよ』はちゃんと主人公が共和政への道を敷いてる作品なのでみんな読もう!)(全然関係ないけど最近のプリキュアって主人公に意識高いこと言わせる割に王国とか女王とか王女とか出てきて彼らが(象徴的な君主制ではなく)実権を保持してる描写もあるので何でそこだけ封建的なんだよって言いたくなりません?)。
あとヒロインの名前がスカーレットでファンタジー風のPVだったので「なるほどヨーロッパ風のファンタジー世界なんだな!」と思って見始めたら16世紀デンマーク王国が舞台と冒頭で明言されててビックリ仰天。スカーレットって英語ですよね……? なんで歴史上のデンマーク王国の王女の名前に採用されてるんです……? 「たまたま異世界にデンマークっていう国があるんだよ」っていう逃げは本編の展開で潰されてるのでマジで現実世界のデンマークが舞台だからねこれ。正気? それとも「一度も現実世界の日本のことだとは言ってないです」って言い張る? っていうかクローディアス王の配下でコーネリウスっていうやつが出てくるんだけど「クローディウス」「コーネリウス」か「クローディアス」「コーネリアス」のどっちかに統一しろよって思った。もしかしてこの2つが同じ語尾の名前だと気づいてないんです? いやまさか、そんなそのへんに一山いくらで転がってるなろう作家並のファンタジー世界構築センスしか持ってないのに歴史ファンタジーの大作映画を作ろうなどと考えていたなどということはないだろう……ないよね? そもそも論で言うとさぁ、シェイクスピアの登場人物が日本では英語読みに基づいた表記をされてるのはシェイクスピアが英語で書いた前近代の作家だからであって、現代日本の作家が何でデンマークの人名を英語読みするんだよ!
あ、最後に目覚めてからの断髪スカーレットちゃん可愛かったね。身体のラインがピッチリ出るドレス姿、『おおかみこどもの雨と雪』での花の造形にも繋がるフェティシズムを感じて良き。もしかして細田守って腋チラ描写が好きだったりする? 新海誠の足フェチと違ってそこまでわかりやすくないから僕の節穴アイでは気づかなかった。反省。服を切られて恥ずかしがるスカーレットちゃんの声エロくて良かった。あと映像美はすごいよ。『サマーウォーズ』とか『バケモノの子』とか『竜とそばかすの姫』とかで見た浮遊する巨大生物演出が研ぎ澄まされていた。あれは映画館で見る価値があった。時間の都合で何も考えずにIMAXにして正解だったわ。これ『時をかける少女』で見た! みたいな感慨に襲われる演出もあったし「お前タイムリープしてね?」みたいな話の筋だったからもうなんか実質『時かけ』ってことで良くない? 良くないですかそうですか。
結論としては、万人向けではないけれども、まあ、オタクなので、話題作の情報を手に入れるために、そして同好の士と語らうために見に行っても、まあ、うん、数千円ぶんの損しかしないと思う。見たあとに同好の士と語らいたくなるという意味では非常に優れた映画だと感じた。映画会社はそろそろ懲りろよというか、スクリーン配分の見直しをしよう? な?
ttps://www.joanwestenberg.com/p/how-to-stay-sane-in-a-world-that-rewards-insanity
2016年頃から、私が知る最も聡明な人々が次々とますます愚かな発言をするようになっていきました。
これらの人々は、難解な学術論文を分析できる能力を持ち、理性を理解し、矛盾する二つの考えを同時に頭に保持しても思考が混乱しない、まさに「理性的な」人々でした。
しかし、何かが変わりました。
ある友人は「あらゆる主要ニュースは作為的に作り出された合意に過ぎない」と確信するようになりました。別の友人は、政治的な意見の相違を道徳的堕落の証拠とみなすようになりました。 さらに別の友人は、時に矛盾する様々な信念の緩やかな集合体である「リベラル」という言葉を、まるで人格障害であるかのように使い始めました。
共通する特徴:極端な立場を取ることで、彼らはより多くのものを手に入れていました。あらゆるところに陰謀を見る友人は支持者を集め、やがて聴衆を獲得し、最終的には7桁の収入を得るようになりました。あらゆる問題を二元論で捉えるようになった人物は、あらゆる前提を肯定してくれる既成のコミュニティを見つけました。以下同様です...
明確なインセンティブ構造が存在していました:理性的な態度はコストがかかり、極端な立場を取ることが利益をもたらすという構図です。
私たちは社会を蝕む病のように分極化について多く語りますが、重要なデータポイントを見落としています。それは分極化が効果的なマーケティング戦略であり、実際に効果を発揮しているという事実です。
それは確実に成果をもたらします。
特定の立場を明確に選び、一切の留保なくその立場を貫くことで、穏健な立場では得られないものを手にできます。不確実な世界において確かな確信を得られるのです。あなたを擁護してくれるコミュニティが形成されます。そして、複雑な問題を判断するためのシンプルな判断基準も手に入ります。
何よりも得られるのは、注目、関心、そして影響力です。
「この問題には複雑な側面があり、様々な立場に正当な主張が存在する」と述べるライターは、軽くあしらわれるだけでリツイートすらされません。 「私に反対する者は皆、悪意があるか愚か者である」と主張するインフルエンサーは、引用リツイートによって注目を集め、明確さを簡略化したその見解を評価するフォロワーを獲得します。
システム開発で生成AIを有効に使おうとしたら、生成AIが生成するコードを鼻歌混じりで完璧に仕上げられるだけのプログラミング力と、システム全体の最適な設計ができる技術力が必須の最低ラインとなる。
プログラミング力がなければ、生成AIが仕込む地雷に気付けないからシステムを地雷原にしてしまう。
そのレベルのエンジニアでは地雷除去は100%不可能なので、ぶっ壊れたまま走る暴走列車になるだろう。
経営者の手の中に残るのは、ぶっ壊れて部品を撒き散らすサービスと、逃げ出さなきゃいけない状況なのにそれを認識できないほど低レベルの「バナナ」エンジニアの集団だ ( 大枚叩いて「世界をひっくり返す画期的なサービスを作ってる!」って思ってたらこれとか、まじウケる w )。
システム全体の最適な設計ができなければ、適切なプロンプトを捻り出せないので、整合性を保ったままサービスを成長させることは不可能だ。
現状、どこかで誰かが作ったような小さなツールなら、なんとかなりそうだと思う。
けど、成長させる前提のプロダクトに使うとか、正気の沙汰とは思えない。
小さなツールは AI のフレームの中でこなせるとしても、自社サービス、特に今までなかった類のサービスとなったら、フレームの外、現実に開いたものだからAI が扱える対象ではない。
具体的な指示を出してくれるように見えてるだろうが、過不足なく正しいかと聞かれたら、AI推しエンジニアにホルホルされたものを見た限りでは、ないわー、としか言いようがない。
AIの絵とかと似ていて、ぱっと見イケてそうで、よく見たら変。
絵のように、縦横の制限があって、各ドットの色の幅の制限もあって、多少色ずれがあっても大勢に影響がないものじゃなく、プログラムは一箇所+と-間違えただけでも致命的なものだから。
って、やたら本プログラムに迎合的なテストが生成されていたりするんだが、実装ベッタリの境界値テストとかより大事なテストが丸っと抜け落ちてたりするんだよね。
で、その重要性というか危険性を、エンジニアは理解も認識もできないままになったりする。
意味のないテストを延々と繰り返して、実環境で不具合障害が発生するたびに、場当たり的な対策をフジツボのように追加しまくってやった気になるのを運用だとか勘違いしたまま炎上地獄への坂道を転げ落ちていくんだよな。
大規模なサービスの設計は抽象度の高い部分を先に詰めないと、辻褄が合わなくなって破綻する。
初期リリースにはブーストが必要なのは確かだが、使いこなせない生成AIを使うと、書き初めで最初に筆を置く場所を適当にするのと同じくらい、取り返しのつかない事態に陥るだろう。
初期リリースこそ、全体設計と、サービスを支える基本モジュールを抽象的に、丁寧に作る必要がある。
「一旦リリースしてシェアを獲得してから作り直す」という選択肢も、一昔前ならあったけど、AI で嵩増ししたサービスの作り直しは、多分すでに合理的ではない。
再設計再実装の手間もそうだが、補助輪(AI)エンジニアに、移行作業の戦略策定設計実施ができるわけがないから。
最低限のプログラミング力とシステム設計能力があって使いこなせるエンジニアと、ないけど称賛していれば自分もすごいエンジニアと思ってもらえると思ってる意識高い系(笑)エンジニアだ。
おいら自身、たまーに使うけど、チームメンバー全員に積極的に活用しろとは死んでも指示できない。
というか言い渡した。
どのレベルのエンジニアが書いたプログラムかという情報なしに、レビューとかしてたら時間がいくらあっても足りん。
特にプログラムを書けないことを誤魔化すためにAIを駆使する奴は、発覚したら即銃殺でも構わないと思ってる。
でも、ドキュメントをAIに食わせてナレッジ共有させるのは構わないですよねって?
ゴミドキュメントを大量生成させてAIに食わせても、結果はゴミ。
"Garbage in, garbage out"くらい知らんか? w
まずちゃんとしたドキュメントを書いて、ちゃんと整理して、ちゃんと更新しろ。
それ以上のナレッジ共有はない。
そういうことができない人間が書くドキュメントが、有用なドキュメントなわけがないだろ w
で、表題の件。
自社サービスをボロボロにした張本人たちに建て直せるわけがない。
以上 w