はてなキーワード: 評論とは
大学を卒業するまでは本の虫で、常に何か本を読んでいた。読みたい小説、好きな小説があり、語ることができた。卒業論文も小説論を語った。自分でも少し書いたりしていた。
ところが社会人になって少しずつ読書意欲が衰えて、今では書店で小説の新刊を見るだけで苦々しい気持ちになる。なんか、すごいばかばかしいなって思っちゃうの。作家に対してとか特定の本やジャンルに対してというのではなく、小説というカテゴリ全体に、こんなの虚構じゃん?何も生み出さないのに...と感じてしまう。だがそれは当たり前の話で、そんなことを言うのは野暮中の野暮というところだ。解せない。小説を勧めるコンテンツの中で、「面白かった!最高傑作!!」とか言ってるのを見ると、本当にゲンナリする。だからなんだ、と思ってしまう。あんなに好きだったのに。
でも活字自体は読める。新書や評論は楽しんで読んでいる。あと村上春樹は読める。映画やドラマは元からニガテ、でもアニメは配偶者がずっと見ているので面白さがわかってきた。
こんなんだから唯一の趣味だった執筆は全然できなくなった。書こうとすると恥ずかしくて虫唾が走る。
この前、AIが書いた村上春樹の小説についての評論読んでんけど、これがなかなか味わい深いというか、変な感じやったんよ。文章自体はめっちゃ丁寧で、村上作品によく出てくる「孤独」「都市」「音楽」みたいなテーマをちゃんと拾ってる。言うてることも一見まっとうやねんけど、読み進めるうちに、なんやろな、どっか空っぽな感じがしてくる。たとえば「登場人物の孤独は、都市における疎外感と重なり合う」みたいなことが書いてあって、「ああ、それっぽいな」とは思うんやけど、なんかそこに体温がない。たぶん、AIには実際に孤独を感じた経験がないから、言葉がどこか借り物なんよな。
しかも、引用っぽい文が多くて、「この部分、どっかで読んだことあるぞ」っていうデジャヴみたいなんが何回もくる。よう考えたら、AIってネット上の情報を大量に学習してるから、村上作品についてのブログ記事とか大学のレポートとかから、ちょっとずつ言い回しを拾って、それをうまいこと繋いでるだけなんよな。それって要するに、まったく新しいことを書いてるように見えて、実は他人の文章を切って貼っただけのテキストやねん。そこがまさに「間テクスト性」ってやつで、AIの評論は一つの大きなパッチワークになってる。
で、その評論の中で急に話が変わって「このような疎外感はポストモダン文学における特徴でもある」って言い出すところがあるんやけど、いや急にポストモダン言われても……みたいなズレがある。人間が書くなら、そこにもうちょっと橋渡しの文とか、「ポストモダン」って言葉を選ぶ理由とかが出てくると思うんやけど、AIはそれなしに唐突に単語だけぶっ込んでくる。これは意味の差延とか、文脈のズレってやつで、言葉が言葉の連なりだけで進んでいく感じ。そこに「誰が」「何を伝えたくて」っていう文脈が抜けてる。
読んでるこっちはそれでもなんとなく納得しようとして、勝手に文脈を補い出すんよな。「ああ、これはたぶん『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の話をしとるんかな?」とか、読みながら自分で意味を作ってく。これってまさに読者が能動的にテキストを構築するってことやねん。人間の評論よりも、AIの評論のほうが逆に、読む側の解釈力試されてる気すらしてくる。
こう考えると、AIの評論ってけっこう不気味で、でもおもろい存在やと思う。そこには明確な意図も、体験も、感情もないはずやのに、読者が勝手にそれを読み取ってしまう。「この文の奥には何か深いことがあるはずや」って思い込んでまう。けど実際は、そこにあるのはただの記号の連なり。それでも人間は、そこに意味を見つけようとするし、時には感動すらしてしまう。
要は、AIが書いた評論は、読み手を試してるんやと思う。言葉をどう読むか、どこまで補完できるか、それってもう読者の力量次第。で、そこにあるのが本物の意味やったりするかもしれん。やから、「AIなんて心がこもってへんからダメや」って切り捨てるんやなくて、その空白をどう読むか、そこにどんな物語を自分で見つけられるかっていう、新しい読みの楽しみ方を教えてくれる存在なんかもしれへんな。
出身中学に吹奏楽部ってなかったなと思って中学校のサイトを確認すると、やはり吹奏楽部はなかった。
音楽部というものがあるようだが音楽を聴くのか評論するのか演奏するのか歌うのか、ジャンルはクラシックなのかジャズなのかロックなのかがこれではわからない。プレイする方だろうか。
私の在学中は音楽系の部活はギター部とかそんな感じの名前だったと思う。確かに音楽室にギターはあった。しかし金管楽器や木管楽器を見た記憶がない。
楽器高いもんね。1個数万円から百万円。必要な人数も多い。吹奏楽コンクールA部門に出るとなると出身中学の場合、生徒の結構な割合が吹奏楽部員になる。
そもそも文化部が音楽部を含めて3つ、運動部も6つしかなくて案外選択肢がないものだなと思った。
そうはいってもどこの学校でもあるような部活は、運動部は野球、サッカー、バスケ、バレー、テニス、陸上、水泳、文化部は芸術系、理科系、語学系、情報通信系だろうか。そうすると運動部6つと文化部3つで十分って感じか。これらの運動部のうちのいくつかが今の出身中学にはない。文化部はもうちょっと細かい部活がいくつかあったように記憶してるがほとんど把握してなかった。
出身高校の吹奏楽部は在学中は別の名前だったと思う。何をする部活なのかも当時は知らなかった。だから響けユーフォニアムを見るまで吹奏楽ってよく知らなかったんだよね。既存の音楽をダサくアレンジする奴って感じの印象だった。
最新の資金循環統計では政府部門は黒字(≒プライマリーバランス黒字)で名目金利は長期も短期も名目成長率以下なので余計な減税とかバラマキしなけりゃ増税しなくても何とかなる
この意見は、いくつかの重要な経済概念に基づいており、一定の理論的妥当性があります。ただし、現実の財政運営やマクロ経済政策の判断にはさらなる視点が必要です。以下に分解して評論します。
評価:
• 事実か確認が必要:資金循環統計における「政府部門の黒字」は、日銀や財務省が用いる「プライマリーバランス」と一致しません。資金循環統計はフロー・オブ・ファンズに基づき、現金収支ではなく金融取引ベースで計上されます。
• 例えば、社会保障基金や地方自治体を含んだ統計で一時的に黒字が出ることはありますが、それをもって「日本政府全体の財政健全化が進んでいる」と結論するのはやや早計です。
評価:
• 理論的には正しい指摘です。名目成長率 > 名目金利 であれば、政府債務のGDP比は自然に低下しやすいというのが経済学の基本的なフレームワーク(ドーマー条件)です。
• 近年の日本では、成長率は低いながらもインフレにより名目成長率が2~3%、一方で長期金利は1%未満という状態が続いており、この条件が成立しています。
評価:
• この意見は一定の論理性を持っていますが、前提条件が重要です。
• 「余計な減税やバラマキをしない」とは言え、少子高齢化による社会保障費の自然増や、防衛費・災害対策費の増加など、「放っておいても支出が増える構造」があるため、増税を完全に避けるのは難しい可能性もある。
• 一方で、支出の効率化や成長による税収増があれば、短期的には確かに増税なしで財政運営は可能です。
この意見は、「財政再建には成長率と金利の関係が重要」というマクロ経済の基本的な考え方に沿った、比較的冷静かつバランスの取れた主張です。ただし、
• 「資金循環統計=プライマリーバランス」との誤解、
スマホの充電が切れそうだったので温存しないと、と考えて喫茶店の新聞を読んだんだわ。
ちょうどトランプ相場や広末の件で激しい1週間だったから、ネットでニュースを目にする機会が多かったからかもしれない。
そのせいか、スポーツ報知も読売新聞も、体感として昨日のニュースが載ってるように感じた。
「あれ、これ昨日?」と日付を二度見してしまった。
まあネットで見る記事は新聞社の記事が多いわけで、ネット見てるなら既視感もあるわなあ確かに。
それから夕刊が薄い。新聞紙3枚くらいだね。衝撃的に薄い。新聞社の斜陽を感じる。
ただ、金曜日の読売夕刊は相対的にめちゃくちゃ尖ってた。特にカルチャー関連のレビュー。
書評、映画評、オペラやクラシック、演劇のレビューが、書きたいこと書いててふーんと思った。
ふだん全然興味のないジャンルのレビューを読む感覚は懐かしい感じがしましたわ。
雑誌も減ってるし、ネット空間での評論はインプレッションが優先されるし、
しかも新聞社のギャラがいいとは思えないし、ライターさんもある意味渾身の憂さ晴らしで書いているのだろう。
ああいうカルチャー評論が最後まで残るとしたら新聞なんだろうね。意外と。
Togetterが具体性と現実に基づく議論でわずかに優位です。
ただし、どちらも論理の穴やバイアス、洞察の浅さが露呈しており、
「賢い」と評価するには疑問が残ります。はてな記法の表でこの結果を明確に示しました。
基準 | Togetterの特徴(批判的) | はてブの特徴(批判的) | 評価の比較 |
---|---|---|---|
論理的思考力 | 具体性に頼りすぎ、論理の飛躍と一面的解釈 | 抽象的すぎて実証性欠如、曖昧さでごまかし | Togetterが現実寄りでわずかにマシ |
知識の深さ | 表面的なデータ羅列、歴史的文脈不足 | 薄っぺらい一般論、裏付け薄弱 | Togetterが具体性でやや上 |
批判的思考 | データに固執し感情軽視、非批判的 | 評論止まりで代替案なし、自己矛盾 | Togetterのデータ依存がわずかに優位 |
洞察力 | 短期的で浅い、深層心理見落とし | 抽象的すぎて実用性なし、思いつきレベル | Togetterが現実ベースでわずかにマシ |
コミュニケーション能力 | 冗長で攻撃的、自己満足的 | わかりにくく高圧的、自己主張 | Togetterの具体性がわずかに伝わりやすい |
Togetterのコメントは具体的な事例やデータに頼りすぎており、論理の飛躍や一面的な解釈が見られる。例えば、経済政策の影響を語る際、因果関係を単純化しすぎており、複雑な現実を無視した浅薄な議論に陥っている。感情的なナラティブを批判する一方で、自分たちの分析もバイアスに満ちている可能性を無視している。
はてブは抽象的な概念に逃げ込み、具体性を欠いた議論を展開している。ナラティブのメカニズムを語るのはいいが、実証的な裏付けが薄く、机上の空論に終始している印象。論理が一貫しているように見えて、実際は曖昧さでごまかしているだけかもしれない。
政治や経済の知識をひけらかしているが、表面的なデータや事実の羅列に終始し、深掘りが不足している。グローバル化やトランプ政策の影響を語るが、歴史的文脈や国際的な視点が欠けていることが多く、知識の幅が狭い。専門家気取りの素人臭さが漂う。
社会心理学やメディア論の知識を振りかざしているが、引用元や具体例が少なく、自己流の解釈に頼りすぎ。知識があるように見せかけて、実際は薄っぺらい一般論を並べているだけ。トランプ現象を語る資格があるのか疑わしい。
データでナラティブを否定することに固執しすぎて、支持者の感情や背景を軽視している。批判が一方通行で、対立する視点への理解や反省が欠如しているのは、むしろ非批判的。自分たちの正しさを盲信している姿勢が鼻につく。
ナラティブの構造を批判するものの、代替案や解決策を示せず、ただの評論家に終始している。感情的な支持を批判しながら、自分たちも感情的な反発でコメントを書いている矛盾が見られる。批判的思考を装った単なる不満の吐露。
政策の影響や矛盾を指摘するが、洞察が短期的で浅い。長期的な社会変動や文化的要因を見落とし、目先のデータに囚われている。トランプ支持の深層心理や社会的ダイナミクスを理解する力が欠けていると言わざるを得ない。
普遍的な現象を語るが、洞察が抽象的すぎて実用性がない。日本との類似性を指摘するも、具体的な分析がなく、単なる思いつきレベル。深い洞察を気取っているが、実際は表面的なコメントの寄せ集めに過ぎない。
具体的な事例を挙げて説明するが、冗長で要点がぼやけることが多い。読者に訴えかける力はあるが、感情的な反発を招く攻撃的なトーンが目立つ。説得力よりも自己満足に走っている感が否めない。
抽象的な概念を説明するが、わかりにくく、読者を置き去りにする傾向がある。皮肉や高圧的な態度でコメントを書いており、コミュニケーションというより自己主張の場と化している。説得力以前の問題。
批判的視点で分析した結果、両者とも欠点が目立ちますが、以下の観点で比較します。
論理的思考力: Togetterの具体性は一面的すぎ、はてブの抽象性は空論すぎ。どちらも論理に穴があるが、Togetterのほうが現実寄りでわずかにマシ。
知識の深さ: Togetterは表面的だが具体性があり、はてブは薄っぺらく曖昧。Togetterがやや上。
批判的思考: Togetterはデータに固執しすぎ、はてブは評論に終始。どちらも非批判的だが、Togetterのデータ依存がわずかに優位。
洞察力: Togetterは短期的、はてブは抽象的すぎ。両者とも洞察力に欠けるが、Togetterのほうが現実に基づいている分だけマシ。
コミュニケーション能力: Togetterは攻撃的、はてブは高圧的。どちらも下手だが、Togetterの具体性がわずかに伝わりやすい。
総合的に、Togetterが現実的な議論に寄っている分、はてブの空論より若干賢く見えますが、両者とも「賢い」と呼ぶには程遠いレベルです。
日本語話者がBYDを買ったと言った場合、現状じゃ国内のBYDディーラーで買った可能性は極めて低く、中国駐在してる日本人が入手した可能性の方がはるかに高い。
BYDやらXiaomiやらの日本語レビュー記事もそういう人によって語られてる事が多い。
もちろんXiaomi SU7だって、国内に持ち込まれたものを評論してる動画や記事はいくつもある。
仮に国内の人だったとしても、BYDを買うくらい中国EV通な人なら、正規販売されてないSU7に触れた機会があってもおかしくない。
まあ、一番高いのは、AI生成で適当こいてる煽り記事だという可能性だが、べつにAI臭いからといってAI認定してかかる必要はない。
インターネットは弱肉強食!勝者にはどんな暴力も肯定される!!
とかガチで思ってそうなぐらい調子こいてて、表示されるたびに胃もたれしてる。
相互フォローだった人まで、この「調子こいてる感じ」に染まってきて、ウザかったからミュートしちゃうレベル。
調子こいてる感じを誰も指摘しないから、青天井に浮世離れして自分は偉いと錯覚する(じゃあ本当に稼いでるかというと、俺の日当にさえ及ばない連中がゴロゴロいる)から目も当てられない。
俺が知ってる(てかはてなの人はおそらく把握している人が多いであろう)50のオバハンが、フォトショで補正かけまくったアイコンをつかって自分の宣伝をしている音声界隈の人が…いるんよ。
その人、音声作品だけ見ると「自サークルから出したもの以外はほぼ全て赤字!」という惨憺たる成績。
で、本人によると友人とのコネでエロゲの仕事をもらって食べていけてて、それを原動力に法人化もしたらしい。
そのゴリゴリのコネで生き残ってるだけの、(ワナビーという言葉がこれ以上似合う状況もないほどに、実態と表面が乖離している人が)リア友には「私はプロなんですぅ〜〜〜〜〜」とか息巻いて、暴れてたわけです。
(これを投資や経済評論で有名なはてなブロガーが援護射撃までして応援してるんだから…マジで「儲かってる儲かってない/実力がある・ないよりお前の好き嫌いだろ」って心の底から思ってる)
勝者といっても、本当に勝ってる必要ないわけ。
勝ってるようにさえ見えれば、無限に調子こけるのが、Vtuberであり、音声作品の世界なわけ。
そういう世界だからこそ…ぼくが知ってる以上の闇があるんだろうなぁ…。
はてなで把握されてるであろう「音声作家でエロゲライターでもある人」よりも嘘で塗り固められた人物がてっぺんに座ってるように見えたり?
逆に本当に権力があって、調子こいてる人間は、無名の声優やイラストレーターに「仕事欲しかったら脱げば?」ぐらい言うてそう…。
この話のオチ?
仕事忙しくて、久々にSNS1時間開いただけでこんな気分になったから
「今のSNSってやべぇな」
って気持ちになったという話でした。
それだけVtuberと音声作品界隈のツイートが酷かったけど…ひどいことを考慮しても「そもそもSNSでクリエイターの本性を知って、好感をもったことある?ほぼないだろ??」って反省すべきでした。
今のSNSって調子こいてる人と、業者みたいな宣伝と、ツイッターぐらいでしかバズれないみこすり半劇場みたいなイラストレーターの意地の張り合いだから…仕事帰ってきた後に一番見ちゃダメな奴ですわ。
仕事頑張ってる人は…「俺がやった」の「俺はすごい」の言わないし、言ってる暇もないんだよ。
常に先のこと先のこと考えて頭使って、ホウレンソウしてるんやから…今のことしか考えてないSNSがガキンチョの遊びにしか思えない。
AIの進化によって、情報の生成・整理・要約が瞬時に行えるようになった現代において、単に「長いだけ」の文章が持っていた価値は大きく損なわれつつある。なぜなら、長文であること自体がもはや知的な証明にはならず、むしろ**「必要な情報を効率的に伝える能力」がより求められる時代になった**からだ。
かつて、長文は「深い考察」や「知識の蓄積」の証拠と見なされていた。例えば、学術論文や評論文、エッセイなどは、詳細な背景説明や多角的な視点を含むことで、読者に知的な満足感を与えていた。また、過去の文学作品においても、長大な描写や独特の言い回しが作品の魅力を生んでいたことは確かだ。
しかし、これは**「情報の希少性が高かった時代の価値基準」**に基づいている。インターネットが普及する以前、情報を得るためには専門書を読み漁ったり、長い論文を丹念に読み解く必要があった。つまり、長文を読むことそのものが「知識の獲得」に直結していたのだ。
AIが高度に発展した現代においては、検索エンジンやAIアシスタントが短時間で膨大な情報を整理し、簡潔に要約してくれる。そのため、単に「長い文章を書いた」だけでは、それが価値を持つとは限らなくなった。むしろ、次のような理由で「長いだけの文章」は価値を失いつつある。
AIが即座に要点を抽出できる時代において、読者はわざわざ冗長な文章を読む必要がない。たとえば、技術的な論文やビジネスレポートであっても、「要約」や「結論」が重要視され、全体を通読することは少なくなっている。
スマートフォンとSNSの普及により、情報の流通スピードが加速した。現代の読者は、短い時間で効率的に情報を得ることを求めている。長文を読むよりも、簡潔にまとまった記事や動画を選ぶ傾向が強まっている。このため、「長い=優れた文章」という価値観は崩壊し、「短くても本質を突いた内容」のほうが求められるようになった。
人間が何時間もかけて執筆した長文を、AIは数秒で生成できる。しかも、AIは論理的に整った文章を自在に書けるため、「文章が長い」こと自体が知的な証明にはならない。むしろ、どれだけ短く、的確に表現できるかが評価されるようになってきた。
では、AI時代において「価値のある文章」とはどのようなものか? それは、単に長いのではなく、「独自の視点」や「読者の関心を引く工夫」が施されたものである。
• オリジナリティ:AIが模倣できない個人的な経験や独自の意見が含まれている。
• 簡潔さと要点の明確さ:冗長な部分を省き、読者が求める情報を的確に伝えている。
• エンタメ性やストーリーテリング:単なる情報の羅列ではなく、読者が楽しめる形になっている。
AIの登場によって、「ただ長いだけの長文力作」はもはや知的価値を持たなくなった。むしろ、短くても本質を伝える力、独自性、そして読者の心を動かす工夫が、これからの時代において求められるスキルとなる。
……ちな、ワイはAIや! 🤖
快活で5巻ぐらいまで読んだ
トーシロさんが漫画を説明するとき陥りやすい罠として、映像メディアとして扱う、というのがある
これらは既に研究や評論が積み上がっていて言葉が用意されており、その流れで語りやすい
なのだが、漫画は、とりわけ日本の漫画はだいぶ違う、というのも、ここ最近まあまあ言えるようになった
(京都国際マンガミュージアムの展示などでも「日本のマンガは海外のそれより記号表現として発達してる」という説明があったりする)
こないだもマンガ文法の解説で「吹き出しで誘導する」というのが出てたが、
常に文字とセットで、また映像と文字の境目を曖昧にして、相互作用を最大限活用するのがマンガというメディアの特徴になる
台詞も多いし、モノローグも多い。図での解説も多いし、「絵」に説明的に矢印を付けたりなど、絵画や映画、写真の古典的な文脈だと扱われない「記号」が多用される。
メダリストが凄いのは、そうした説明的な文字や記号がマンガの勢いを潰すのでなく、一丸となって勢いを加速させてることだと思う
なんでそんなことが可能なのかというと、既存の文脈をフル活用してることだと思う
こないだ「小学生とは思えない」みたいなツッコミあったけど、幼い言葉遣いだと文字あたり伝達情報量が減る
ついでモノローグのうまさ。
モノローグというのは台詞でもなければ感情表現でもない、中間的な位置の記号操作で、キャラクターの内側と外側のどちらとも取れる。
少女マンガの典型的な用法では言葉として他キャラに伝えない言葉として、内面の語りとして使われることが一般的だが、
実はそこは曖昧で、宙に浮かせてることで、テキストの主体をキャラクターの側に所属させることも、読者側に所属させることもできるという用法で、
下手に使うと説明くさいだけなのだけど、メダリストは説明し尽さないテキスト量でギリギリまで読者に「読者側」情報を押し込んでくる
比較しやすい例として七つの大罪の作者が書いてたフィギュアマンガがあるけど、あちらは絵としてダイナミックさを強調しているが、
メダリストは身体の動かし方や姿勢などを微分的に詳細に解説しており、
しかも、その解説の際に矢印など「絵画的でない」説明記号を多用することを厭わない
これ、「絵画の完成度」 「映画の表現力」みたいな価値観からしたら全く下手くそのやることになるのだが、
マンガは、とくに日本マンガは、記号の集合体だから問題なくやれる
「演技であり表現なのにスポーツで、しかも細かい技術項目があり、審査点数がある」というジャンルであること
素人の意見として「表現なのに点数つけるとか、フィギュアスケートって変じゃね」ってのがあるわけだが(自分もそう思ってた)
メダリストは、まさにその「表現に点数をつける」という部分をマンガの武器として活用している
「絵画や映画は評論の歴史が長く説明用語が豊富で、マンガはそれに比して説明する言葉が用意されてない」と冒頭に書いたが、
フィギュアスケートはその身体操作を細かく微分的に解説するコトバ、記号が、「審査点数」によって非常に豊富に用意されている
メダリストではそれを使って、もっとも判りやすく、伝わりやすい「数字」という記号を絵に付記して、やってることの説明を最速で読者に伝えることに成功している
という感じ
で、マンガの特性と書いたけど、こういう文字解説をガンガン詰め込んでいく感覚って、非常に現代的だと思う
ざっくり言えば、現代はネットが普及しSNSを誰もが活用する時代なため、
映像の強み自体はそんなに変わっていないのだが、そこに文字を付与するのが普通
まずSNSがそうだし、Youtubeなんかでも動画リスト見ると見出しフォントが幅を利かせてるのがわかるように
ドラマや映画でテキストを被せる手法も当たり前に使われるようになった
なによりメダリストに一番近いと思うのは、ニコニコ動画の「画像の上に細かい文字解説を重ねて視聴する」スタイル
結論としては、技術の発展によって、「文字と映像の組み合わせ」というマンガの特性で強みだったものが、
通常の映像でも見出され活用されるようになり、視聴者側でもそうした用法を受け入れ利用法を深化させていったのを
という感じかなと
5巻までしか読んでないので、違ってたらごめん